2001年5月の地平線報告会レポート


●地平線通信259より

先月の報告会から(報告会レポート・259)
ネパールの顔
貞兼綾子
2001.5.25(金) アジア会館

▲地平線報告会では、とんでもなく存在感のある報告者に圧倒されることがある。スライドと語りというアナログな舞台は、人そのものが全面に押し出される、恐ろしくも魅惑的な現場なのだ

▲なによりもまず、貞兼さんの風変わりな話し方に面食らった。日本語のイントネーションがなんだか異国語のようで、これほど生き生きと独自の経験を楽し気に話せる人は、どこか別の国に長く住んできたに違いない、そう確信できるほど強烈だった。

▲貞兼さんが初めてネパールに入ったのは1974年、前ビレンドラ国王が即位した2年後のことだ。当時は東洋文庫でチベット研究をされており、未だ入域できなかったチベットの代わりにソル・クーンブ地方へ入ったのが始まりだった。

▲「日本で膨大な時間をかけて文献から研究してきたものが現地では短時間で手に入る」効率の良さと、「相互批判をする基盤が整っていなかったネパールの文献資料を事実と合わせて検証したい」という思いから、当初予定していた3ヶ月の滞在予定を急遽変更し、日本へは電話一本でその決心を告げた。以来79年まで5年間にわたりネパールのトリブバン大学研究員としてチベット系民族のフィールドワークに関わることになる。

▲時にチベット人を装いながら、東はカンチェンジュンガ山麓から西はシミコットの奥まで当時の未解禁地域を含めてくまなく歩き、今ではネパール語の方言を7つ程度話す。その裏には「言葉なくして本当のコミュニケーションは不可能」という思いと「フィールドワークに出る前は1週間に1000語程のペースで方言を覚えて」から現地に向う高い意識がある。だから当然、出合った人々との関わりは深く、いつのまにかチベット名も3つになっていた。

▲言葉に対する厳密さは観察の細やかさにも現れる。例えば、赤ちゃんを背負う紐の結び方ひとつをとって、東部と西部では金具のピンでとめているのに対し中央部では結んでいるという違い。ドルポの寺院で見つけたポン教と仏教の曼荼羅が同じ壁に隣り合わせて描かれているという不思議さ。中央部から西部で行われてきた交差イトコ婚(7親等以内で結婚すること)が厳しい環境の中で小さな社会を維持していくためにいかに合理的なシステムであるか、などについて、個別の事実と同時に広域的な関係性についても実際の経験をもとに語ることができるのだ。

▲79年から81年まではパリのEcole Pratique des Haute Etudesでチベット学を修め、労作「チベット研究文献目録」などの成果をあげている。研究活動と平行して、家族のような関わりを持ちつづけてきたランタン村の村長からの依頼をきっかけに、「ランタン・プラン」というNGOを1986年に設立、その代表にも。観光開発が進み深刻化する燃料問題に対して、「自然と人の調和を展望しながら村人による薪に替わる熱エネルギーの導入に助力する」ことが目的だ。毎年1〜2人の日本の若者を現地へ派遣し、氷河の水を利用した水力発電システムを使っての段階的な電気供給とそれを利用した地場産業の拡大、同時に環境問題に関する啓蒙活動とリーダーの育成を目指してきた。

「ペンチがなくとも針金を歯で噛み切れる力を持った若者」という表現で貞兼さんは、人材を表現する。地元の活動に貢献するには、場当たり的に何かを手伝うのではなく、実際に提供できる技術なりの実力が必要、というのだ。貞兼さん自身も「50年先を見て」段階的な技術開発と啓蒙教育を慎重に手がけ、やっと次世代を托そうという若者が育ちつつある。

▲研究者としての客観的な観察眼に支えられながらも、好奇心一杯の旅人の思いにあふれる貞兼さん。さらに、人との濃密な関係性を厭わずに引き受ける覚悟が、豊かな人柄を際立たせる。それは、旅が陥りがちな安易な自己満足の対極にあって、旅の本質を思い起こさせるに余りある迫力で心に迫る。

▲膨大な知識量と好奇心と行動力の片鱗を惜しみなく楽しげに語ってくれた貞兼さん。それらを、私たちはどこまで取り込むことができるだろう。[恩田真砂美]


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