2002年4月の地平線報告会レポート


●地平線通信270より

先月の報告会から(報告会レポート・270)
ルーシーの世界地図
関野吉晴
2002.4.26(金) 箪笥町区民センター

◆今、私は都立高校で英語を教えている。最近の中・高生にとって「マングローブの向後(元彦)さん」「グレートジャーニー(以下GJ)の関野さん」はちょっとした有名人である。なぜなら、二人の話がそれぞれ中学2年と高校1年の英語の教科書に載っているからだ。最近の教科書はいろいろなトピックを扱うようになったが、登場人物が歴史上の人だと、あまり関心がない。学校の図書室にGJ写真集を入れたら、たくさんの生徒が手に取っていた。写真集を見た生徒が、逆に先生に人類の歴史について語ったりしている。つまらないと言われる教科書も、話題によっては大きな影響がある。同時代を生きている人の話は生徒にとって大きなインパクトがあるのだ。

◆GJは人類のたどった壮大な旅、関野さんの旅はそれを自分なりにアレンジした、マイGJだった。GJの時にももちろん肉体的・精神的な苦しさはあっただろうが、マイGJにはそれに加えて「国境」という難関があった。たとえば、モンゴル・中国国境は通り抜けることができない。フェンスが張ってある緩衝地帯のさらに間にある国境の碑に、モンゴル側からタッチしていったん引き返し、後に中国側から同じ碑のところまで来てつなげるという、厄介な手順を踏むわけだ。

今回、ヨルダンからエジプトへは紅海をカヌーで越えた。最短距離では7キロ位だが、一部イスラエルの領海があり、そこを通過するとスーダンに入国出来なくなり、スーダンに入れないとタンザニアに入れない。領海に入らないよう監視船にヒモをつけ、船の動力に頼らないようにヒモをたるませて出発した。エジプトとスーダン国境は通りぬけることが出来ず、その間110kmを残してスーダンに渡り、エジプトとの国境のフェンスを触ってからタンザニアに向けて出発した。

ちなみにラエトリにゴールした時、テレビ的には『感動のゴール!!』という感じに写っていたが、関野さん自身は「まだあと110km残ってるんだよなぁ」と思っていたという。ゴール後にもう一度エジプトに戻って、嫌がる国境警備隊の司令官と共に砂漠を歩き、見覚えのあるフェンスまでたどり着いた。フェンスの向こうのスーダン人たちも、ヘンな格好をした男がフェンスに向かって歩いてくるのを不思議そうに眺めていたそうだ。

◆2001年9月11日、関野さんはエチオピアでラジオを聞いていた。初めはピンと来なかったが、その後、街に出てその映像を見てやっとすごいことが起きたことに気がついた。「日頃から映像になれている私達は耳で聞くだけではなかなかイメージが沸かなくなってきている」と言っていたが、同じことがこの報告会に参加した私達にも言えるのではないだろうか。もしこの旅を伝える媒体がラジオだけ、本だけ、写真だけしかなかったら…。見たこともない土地に住む人たちの顔や生活を想像することは不可能であろう。そうなればその土地の良さ、美しさ、楽しさを、また、困難、苦労をイメージすることもありえない。

例えばカヌーで越えた紅海はハムシーンと言う強風が吹き、そこをカヌーで越える事の大変さを理解してもらえるように伝えるのは、映像なしではなかなか出来なかったであろう。しかし、実際に関野さんの撮った写真やTVの映像を見ることができるおかげで、私達もイメージを膨らませることができたのである。TVなどで見たイメージをさらに膨らませ、あふれ出すパワーをお互いに共感したり、体感したいとの思いが報告会最多参加者158名を集めたのではないだろうか。

◆10年ほど前、大学生の私に父が「JourneyとTripとTravelの違いってなんだ?」と訊いた。調べもせず「知らない」というとかなり怒られたが、今思うとあの頃、グレートジャーニーの計画が始まっていたのだ。当初の計画は2000年1月にラエトリ到着の予定だったが、実際には2002年のゴール。30カ国以上を自力で旅した関野さんにとっても、見守ってきた地平線会議にとっても長い旅、長い10年間であったことはいうまでもない。2001年1月の報告会の後、関野さんは「グレートジャーニーは2000年中にゴールしますよ」と言って「2000年13月」とサインしてくれた。今回、写真集に書いてくれた日付は約束どおり「2000年26月26日」だった。計画の20世紀中のゴールに結構こだわっていたのだと感じた。(GJ出発時三輪涼子、ゴール時山田涼子)


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