2006年10月の地平線報告会レポート




●地平線通信324より
先月の報告会から

「八百年のうたかた」

三羽(みつわ)宏子

2006.10.27 榎町地域センター

[800歳!]

千年に一人の逸材ともいわれる英雄チンギス・ハーンが齢45にして初めてモンゴルを統一し、モンゴル帝国建国を宣言したのが1206年。つまり今年2006年は大モンゴル建国800周年にあたる。「ナーダムや朝青龍だけではないモンゴルがあるのではないか?」と江本さんのこぶしにも力が入る、今宵の地平線報告会は熱いモンゴルナイト!

◆報告会は二部構成。前半は、アンコール上映が終了したばかりの映画『puujee』の翻訳が大好評で、民主化されたモンゴルと11年間にわたりつきあい続けている三羽(みつわ)宏子さん。彼女はモンゴルととてもユニークなかたちでつながっているのだ。後半は、元駐モンゴル大使として日本とモンゴルの架け橋となってきた花田麿公(まろひと)さんが登場。

◆職業的な立場は違うが、社会主義時代からモンゴルと関わり、花田さんとともに日モ交流に尽力するジャーナリストの江本さんもインタビュアーとして混じり、今では幻のような―たった13年前までのことだったのに―社会主義時代のモンゴルの真相を語ってくださった。2時間半、歴史をさかのぼり、草原の上空を旅して大きく俯瞰しているような、不思議な夜だった。

[民主主義モンゴルと不思議な関係11年]

「ふつうの会社員です」という自己紹介で話し始めた三羽さんは、現在精密機械メーカーに勤める社会人3年生。初めてモンゴルを訪れたのは1995年高校1年生の時、きっかけは夢の挫折だった。将来は舞台俳優になることだけを考え、劇団に所属しながら稽古を重ねてきたのに、演劇を学ぶため受験した高校に入学できなかった。

◆落ち込む彼女を見かねたお母さんからモンゴル乗馬ツアーへの参加を薦められ、なんとなく参加すると、「懐かしい感じがして」すっかりその魅力の虜に。草原で感じたのは、生まれ育ったビルだらけの東京では味わえなかった心の開放感!向こうに住み大学に通おうとまで考えたが、日本人である自分は言葉をまず学ぶべきだと思い直し猛勉強、東京外国語大学モンゴル語学科に入学したのだ。

◆その後モンゴル国立大学に1年間留学し、休みがあれば田舎の遊牧民ゲルに居候、ともに働き生活をした。ショックを受けたのが、どんなに小さな子供も家族の一員として仕事を持ち責任を分担していること。当然ながら三羽さんも、乳しぼりや燃料の糞拾いなど、日の出とともに起きて仕事をするが、はじめは慣れない。力仕事で指はぼろぼろ、足は家畜の糞まみれ。しかし一ヶ月もするとだんだんコツを得て、難しい家畜の乳搾りもこなすようになる。生きるために必要なものを、自らのからだを使って自然から得ていく生活の中、牛乳瓶2本を両手に持ち、水を毎日汲みに行く遊牧民の3歳の子どもに、三羽さんが日本の“水道”の意味を説明しても「?」のままで理解されなかったという。

◆日本へ帰国すると今度は母国なのになかなか馴染めず困ってしまう。どっぷりのモンゴル漬けだった自分をふり返り、「ここから一度抜け出さなければ!」と考える。草原で“日本人”を意識し、生まれた地で生きていかなければならないと感じたのだ。草原の生活はとても厳しい、けれどそこで生まれた人たちは大地で懸命に生きていた。

◆あえて、モンゴルとは無縁の精密機械の製造メーカーに就職し、内視鏡の国際営業を担当することになった。すると、日本で出会った知人のモンゴル人医師とのつながりもあって、なんと内視鏡の販売代理店がモンゴルの首都ウランバートル(以下UB)に置かれることに!今年3月には仕事でモンゴル入りし、内視鏡設備をモンゴル国立がんセンターに設置した。再訪問した秋には最新鋭の内視鏡設備を現地の医師たちに紹介して印象づけた。モンゴルの医療を発展させたいと奮闘する若いモンゴル人医師の力になれたらと、会社を巻き込んで新しい道を開いている。

◆今年の夏にも、プライベートでモンゴルへ。遊牧民の若者は、時代の流れとともに遊牧を離れて都会へ、一部は海外へ出て行くようになっていた。5年前に乳搾りを教えてくれた田舎の女の子は現在UBに上京し、民族衣装を脱いでオシャレに目覚めイケイケギャルに変身、一番夢中の遊びは街をランドクルーザーで駆けること!「もう草原には興味がないの」と話す彼女。とはいえ、遊牧民が消えてしまったわけではなく、今もモンゴルの草原で遊牧生活を続けている人たちがたくさんいる。三羽さんの持つカメラに、くったくのない無防備な笑顔を向ける遊牧民の家族たち。スライドに映る彼らの表情を見つめながら、一人ずつのエピソードを丁寧に思い出し話す嬉しそうな三羽さんが印象的だった。

◆外語大生時代の三羽さんは、語学能力が飛びぬけて高く、一つ後輩のわたしは流暢なモンゴル語にいつも聞き惚れていた。今年6月に初公開された映画『puujee』の翻訳を1年がかりで手がけ、プージェー家族の物語を温もりのある潔い日本語に置き換え、翻訳という重責の仕事を初挑戦で見事に果たして関野さんや山田監督をうならせた。そんな三羽さんがモンゴルと出会った不思議な縁のことは、今までほとんど誰にも話していなかったそうだ。ピンチはチャンスというけれど、そこから生まれ出た影響はすでに映画や医療の分野にも広がっている。ミツワンが、これからどのようなかたちでモンゴルに関わっていくのか?本人にもわからないとのことだけれど…ひそかにとっても楽しみなのだ!

[幻の時代? すごくこわい国、すごく遠い国]

 花田麿公さんが初めてモンゴルを訪れたのは1965年、今の三羽さんと同じ27歳の時だった。当時は日本と社会主義国モンゴルの間には国交などまずなく、「ものすごく恐ろしく遠い国、ものすごくこわい場所」だった。外大モンゴル語科卒業後に外務省に入省した花田さんは、「モンゴル担当じゃなければ外務省を辞める!」と周囲に公言。モンゴルにどうにか入国したいと望んでいた矢先、“婦人の公的参加セミナー”に日本代表代理で参加するため、上司を説得して渡航するチャンスを得る。絶対に外交交渉をするなという条件つきだった。

◆出発の日に、上司が「これで見納めかもしれない」とわざわざ見送りに来たというほど、得体のしれない危険地帯だった。入国ルートは、日本→インド→モスクワ(ここでビザ取得)→モンゴル、所要時間は1週間。奇跡的にモンゴルに入り、モンゴル外務省に属する人物らと面会を果たす。国交断絶している二か国の外交官が対面した、歴史的瞬間だ。花田さんは彼らに「外交関係の話は交渉するなと言われています。しかし、もしも万が一外交関係の話になった時には、モンゴル側の言い分を聞いて来いと言われている」という会話をする。両国が国交を樹立したのは、それから7年後の1972年のことだった。その後も、花田大使の努力は絶えず続き、“ゴビ”というカシミヤ工場建設にも力を発揮、完成した工場は戦後処理の一環として日本からモンゴルへ供与された。

◆花田さん曰く「日本モンゴルは、国交樹立の際に『過去のことについて言及しない』と条約で取り決めてカシミヤ工場を供与し、さらに後に政府幹部が過去の戦争についての歴史認識をはっきり示した。だから今の両国の関係は良い」。日モ友好の象徴として取り上げられることもよくあるカシミヤ工場。「花田さんがいなかったら、今の日本とモンゴルはなかったと強く言いたいくらい」と江本さんが力を込める。国を背負い、未知の地へ公人の立場で乗り込み冒険的な外交に正面から向き合ってこられた花田さんは、ところがお役人的なイメージとは果てしなくかけ離れ、朗らかでおおらかで笑顔いっぱい! そして面白いお話がとめどなく流れ出す口調はなめらか。この大きな人柄が、冷えきった国と国の間に、あたたかい橋をかけてきたんだ…。人が動いて国を動かし、歴史になっていくんだと、お聞きしながらぞくぞくしてしまった。

◆花田さんは、無数にお持ちであろう引き出しの中から、手品師のように話題を取り出しわたしたちに見せてくれる。「あのね、民主主義移行の裏舞台、真のすがたは日本でもロシアでもモンゴルでも実は知られていないんですよ」との言葉に、会場に来ている人たちがぐっと身を乗り出す。ソ連崩壊の余波で、後を追い半年後にモンゴルでも革命が起こったという定説が覆される。花田さんによると、モンゴルは、ソ連崩壊を待たずして早くもソ連に見切りをつけ、市場経済移行への熱を高めていたのだという。

◆1989年の天安門事件の後、在中国の留学生たちは祖国に戻り、革命への熱気を抱き希望に燃えた。同時期、花田さんはモンゴル国内の要人から要望を受け、「市場経済になるということは、一体どういうことなのか?」というテーマで、現地役人に監視されながらの講習会を開いた。1989年3月には、世界中にいるモンゴル人役人が本国に緊急収集され、「日本と密接な関係を結びモンゴルを民主化する!」という宣言が出されたという。花田さんは笑顔で話す。「逆だと一般的には思われているが、市場経済移行のバウチャー発行などもロシアよりもモンゴルのほうが早かった。移行期に日本は中心になって全面的な支援をしたのです。」

◆花田さんと江本さんのお話を聞いていると、民主化以降にモンゴルと出会った三羽さんが、ツアーに気軽に参加したり、留学や映画の翻訳や最先端医療機器ビジネスなど色々な角度でモンゴルに接触している事実が、夢ものがたりのように感じられてしまう。社会主義時代のモンゴルを駆け抜けてきた花田さんと江本さんにとって、2006年の建国800年に沸くモンゴルのすがたは、かつての常識が180度ひっくり返った摩訶不思議なのかもしれない。時代は違うけれど、二つの国を行き来しながら人と交流を深め、人と人をつなぎ、国をつなぎ、文化をつなぎ、歴史のピースを大事に積み上げてきた3人の皆さんからあふれだす、モンゴルへのでっかーい愛情!!! 報告会の間、皆さんの上には、濃くたくましく抜けるようなあの青空がどかーんと広がっていたような気がした。(大西夏奈子)

【地平線会議報告会を終えて】

映画『Puujee』の打ち上げが行われた7月、江本さんから「地平線会議で話してみないか」というお話を頂きました。それから数ヶ月。報告会の日を目指して、何を話したらいいのか、報告会に来る方々は何を聞きたいのだろうか、色々と思い悩みました。つまりは、報告会の日を終着点としてずっと考えていたわけです。

◆自分のような者が報告会の場に立っていいものなのか。人に話せる何かを果たして自分は持ち合わせているのか。悶々としました。当日を迎えた朝でさえも、よし、これを話せばいいのだ!という手ごたえはつかめないでいました。

◆しかしながら報告会を終えてみて強く感じたことは、報告会は出発点であったということです。報告を聞いて下さった方からの質問や感想を頂く中で、自分の話したことの輪郭がようやくみえてきたのです。今まで駆け抜けるようにして過ぎたモンゴルとの11年間(というと大げさですが)。何らかの形で常にモンゴルと関わりつつも、じっくり自分とモンゴルについて考える機会は今までありませんでした。

◆モンゴル建国800周年という年。私もひとつのターニングポイントを持つことが出来ました。当日だけでなく、私にとってはそこまでの過程も報告会でした。報告会を終えてようやくスタートラインに立った。そう感じます。(三羽宏子)

[モンゴルと地平線会議]

 三羽さんは学部の学生であるときにモンゴルとの経済関係の会議で通訳を務めておられた。学部の学生がそのような会議で通訳を務める例を聞いたことがない。その後あるボランティア事業でご一緒したことがあるが、まさに当代を代表するモンゴル語の達人の一人であろう。映画PUUJEEの翻訳をされたのも当然である。

◆他方、江本さんとは20年前ウランバートルでお目にかかった。私の留守に大使館に見えたというのでウランバートル・ホテルにすぐおたずねして以来のご縁である。周囲の反対にもかかわらず何故か昼休みに訪ねてレストランで食事中の江本さんにお目にかかった。思えば運命的な出会いであった。

◆役人はプレスの人に必要以上の警戒心を有する習性があるが、同僚にも言わない生の情報を江本さんには話し、二人で検討したこともある。あっけらかんにお話申し上げて困った事態を招いたことは一度もない。モンゴルに関する情勢分析のスタートを江本さんと検証することで始めたことさえある。プレスの江本さんとである。私にとって、江本さんという人はそういう付き合い方のできる方である。地平線会議がマラソンしているのも江本さんのこのようなお人柄に負うところ大であろう。

◆そのような不思議な縁で結ばれた江本さんたちの地平線会議(他人ごとのように書いたがかく言う私も家内ともども長年の地平線ファンであり通信の読者である)の企画で、三羽さんの講演があり、またモンゴルということで私も招かれ多少のコメントをすることができたのは望外の喜びであった。特に一昨年、通信の集大成である『大雲海』の出版作業に参加して、地平線の皆様の熱い気持ちはモンゴルなどという一国のものでなく、地球的展望に立っていることを痛いほど感じてきているので、逆にモンゴルという地球の一角から三羽さんが心に残る語りをされたのを応援できてよかったと考えている。特に今年はチンギス・ハ−ンが1206年帝位につき大モンゴル国(イフ・モンゴル・オルス)を建国して800年であり、モンゴルでは年間を通じてお祝いムードで時宜を得た企画といえよう。日本国内に関係者の総意で設立された実行委員会の事務方を仰せつかっている身として私としても大変嬉しい企画であった。そして何よりもご無沙汰を続けている皆さんにお目にかかれたことが嬉しかった。(11月13日 花田麿公)

[燃えあがる☆モンゴルの相撲熱!]

■モンゴルから来た最初の関取、旭鷲山が11月13日、引退を表明した。心臓がそんなに悪かったのか、と驚いた。92年2月、旭鷲山を含む6人の若者がモンゴルからやって来た直後、大島部屋を訪ねたことがある。旭鷲山の本名は、ダワーギィン・バットバヤル。今でこそ驚くほど流暢な日本語を話すが、当時は一言も話せなかった。

◆ロシア語と片言のモンゴル語ができたので、私は部屋での取材の後、頼まれて6人に付き添い、墨田区役所で住民登録のお手伝いをした。モンゴルではブフ(相撲)は日本以上に広く普及した国技だ。モンゴルの草原でさんざんブフを取材してきた自分が東京の区役所でモンゴルの力士を連れて住民登録するなんて、なんとも不思議な気がしたのを覚えている。

◆どうして草の国から力士が日本に来るようになったのか、きっかけは市場経済の導入だった。91年暮れ、旧社会党の国会議員を通してモンゴル相撲の協会幹部から打診があり、議員の知り合いである大島親方(元大関旭国)に話がいった。親方は人材が確保できれば、と乗り気になった。

◆モンゴルのテレビ、ラジオ、新聞が<日本に行って相撲をとれば、お金になる。日本相撲にはAからBまで6つの階級がありA、Bクラスに入れれば下のほうでも年6、7万ドル、最高位になると100万ドルは稼げる>という、少々乱暴だが、わかりやすい宣伝をし、170人ものモンゴルの青年たちが応募した。

◆トーナメント方式で試合をやり、結果的に6人を選んだ。190センチあった17才のツェベクニャム(旭天鵬)を含む6人がおそるおそる日本にやって来た。しかし、うち3名が耐え切れずにモンゴルに帰り、旭鷲山、旭天鵬はいわばパイオニアとして残った。あれから15年、いまではモンゴルから来た力士は朝青龍、白鵬以下40名になろうとしている。(江本嘉伸)

■モンゴルではUB市内はもちろんのこと、田舎でもパラボナアンテナを設置してNHKの相撲中継を見る。日本の相撲が大人気なのだ! 同時通訳をする日本通ジャーナリストのトゥムルバータル氏が「イヨリキリ〜!」とさけべば、電波にのって海を越えモンゴル国民に相撲がリアルタイムで届く。モンゴルには朝青龍のテーマ曲もあり(頼めば三羽さんが歌ってくれるかもしれません!)、タイトルは「朝の青い龍」。歌詞は、♪朝の青い龍〜、朝の青い龍〜、負けることのないヨコヅナ〜♪というもの(大西夏奈子)。


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