2008年8月の地平線報告会レポート


●地平線通信346より
先月の報告会から

島ぬ引力

車谷建太 賀曽利隆 向後元彦 三輪主彦 妹尾和子 長野淳子

2008年8月22日(金) 新宿スポーツセンター

 8月の報告会は10月に行われる「地平線会議 in 浜比嘉島」に先立って、「沖縄・琉球」がテーマ! 報告者はなんと総勢6人という豪華さで、すごいぞ、すごいぞ! と、大興奮。どこへ転がって行くか判らない、ジェットコースターのような2時間半だった。

◆今回の総合司会、そして「in 浜比嘉島」実行委員長の長野亮之介さんが監督となり(ややこしい!)、6月29日に、地平線会議を代表して「比嘉ハーリー」に参加した地平線チーム、その名も「地平線ダチョウスターズ」。 まずは、三味線弾きの車谷建太さんが、その奮闘を写真とともに報告する。

◆「ハーリー」は、琉球王朝時代に中国から伝わったという歴史を持つ、漁や海の安全を願って行うお祭りで、爬竜船(はりゅうせん)を8人程で漕いで、競うもの。海人(うみんちゅ)の誇りをかけた戦いなのだが、港では応援する人達も白熱、ひたすら盛り上がるのだという。

◆初心者の地平線チームは、島に着くや否や、外間昇さん晴美さんに迎えられ、レース前日の夕暮れまで猛練習に励んだ。が、「せーの」で櫂を合わせようとしても、なかなかコツがつかめない。しかしめげない面々はその夜、海宝さんが提供してくれた「宮古島100キロウルトラ遠足(とおあし)」のTシャツのロゴ「MIYAKO」を長野さんと元美術の先生・竹内祥泰さんを中心に「HAMAHIGA」へと器用に改造。そのお揃いTシャツを着て一致団結、予選に挑んだ。

◆本番「何かが解き放たれた!」というダチョウスターズは驚く程、息がぴったり。結果、地元の人に「ここまで漕げるのはすごい」と褒められる力走をして、34チーム中8チームしか出られない本戦への進出を果たす。トーナメント戦ではくじ運の悪い監督が優勝候補(で、やっぱり優勝)の高校生チームを引き当て敗退したが、「もっと漕ぎたかった!」と車谷さん。全員、すでに来年を心待ちにしている模様。

◆その興奮が伝わってくるレースの写真は迫力満点、なのだが、よく見ると皆が皆、苦しそうなのに揃って笑顔なのだ。そこで「これを見てください!」と車谷さんがアップにしたのは貧乏研究家・久島弘さんの顔。普段は「大事なカロリーがもったいない」と運動を嫌う、ひょろひょろの久島さんなのに、なんだ、この生命力あふれた笑顔は! 皆がざわめく中、「練習では貧血を起こしたが、本番は疲れなかった。ノッている時は驚くほど櫂が軽い」と、照れながら久島さん。そこに「実は漕いでなかったんじゃない?」と関根さんのヤジが飛ぶ。なんだかいつもより、わいわいがやがや、楽しい報告会。

◆続いて、冒険王・賀曽利隆さんが登場。20代にバイクで世界を回り、帰ると無性に日本という国に興味が出てきた賀曽利さん、30代では「日本一周」をテー マに旅をした。浜比嘉島を訪れたのも、日本一周がらみ。最初の一周では、沖縄の島を省略してしまい、本島だけしか巡らなかったことを反省し、島だけで回る日本一周を思い付いたのだという。そしてその過程で、沖縄にある33の有人島を訪れたのだが、その時「すごくよく覚えている」と言うのは、島に向かう度に立ち寄った那覇港の防波堤に書いてある「那覇はアジアの十字路」の文字。もしも外交能力に長けていた琉球が独立し、独自の文化を築いていけたなら、今頃、本当にアジアの十字路になっていたかもしれない。日本はもっと沖縄をアジアの中で生かさなければならないのではないか。世界と日本、両方を体で感じてきた、賀曽利さんの思いだ。

◆それから10月に「いかに浜比嘉島に行くか?」を熱っぽく語る、賀曽利さん。電車と船を乗り継いで、行きは太平洋側、帰りは日本海側を選び、ぐるり西日本を半周しようと計画中なのだという。「行き方にもこだわろう」と呼びかける様子は、いたずらを計画する少年のよう。最後に「そういうことで皆さん、浜比嘉で会いましょう!」と言うと、今にでも出発してしまいそうだ。いろいろな人が様々な方法で浜比嘉に集結する光景がふと頭に浮かび、今からわくわくしてしまう。

◆次の報告はマングローブ緑化を世界各地で進めている、向後元彦さん。向後さんはNGOの国際マングローブ生態系協会の設立に関わり、事務所を日本に作ると決まった時、瞬間的に「ならば沖縄に」と思い、その足で沖縄に向かったのだという。そこにあったのは、一つ目に、なんでもかんでも「東京集中はイヤダ」という考え。二つ目に、沖縄は日本の南端だが、マングロー ブ分布圏の北端で、開発途上国の北端でもある、と沖縄を捉える目線だった。日本の中からだけでなく、世界の中で沖縄を捉えること、その重要性を向後さんは言う。それから、世界各国のマングローブの興味深いお話が写真とともに次々と紹介された(のだけれど書ききれなくってごめんなさい)。

◆さて、ここですでに、30分近く時間が押している様子。どうするどうする。という所で、「皆さん、 こんにちは」と、三輪主彦さんが登場。「こんにちは」と答える皆さん。にわかに「地平線学校」が現れ、ここでは、三輪さんが一時取り組んでいた「沖縄の道」 というテーマを元に、沖縄を考え(るヒントを教えてくれ)た。

◆例えば、1927年と1977年の写真を見比べると、ヤンバル地域に横断道路がなくなっているのだが、これは米軍の基地ができたから。また、1978年7月29日と30日の同じ道路を撮った写真。1日にして車両の通行が右から左側通行に切り替わっているが、これは沖縄がアメリカから日本に返還され、国際法にのっとり日本の交通ルールに統一されたことを物語っている。「あの時、本土が合わせりゃいいのにって思った記憶があるよ」と、三輪さん。

◆03年に「ゆいレール」が走るまで、日本で唯一電車のない県と言われていた沖縄。沖縄は遅れているんじゃないか、と思う人がいるかもしれない。が、大正時代には首里と那覇を結ぶ電車が走っており、これは東京と比べても進んでいた、と三輪さんは言う。「道」が見ようによって、こんなにたくさんの事を教えてくれるとは。もっと聞きたいと思うも「もう15分ですね」、とあっさり終了。三輪さん、先生っぽいぞ(先生なんだけど)。

◆後半は、「今の沖縄を一番知っている人」と長野さんに紹介され、妹尾和子さんが進行役に。妹尾さんは、JTAの機内誌『Coral way』の編集者。丸々沖縄を取り上げる雑誌の為、「ネタは尽きないのか?」と心配されることもあるそうだが、沖縄は芸能やスポーツが盛ん。島が多く、島ごとにそれぞれの文化がある。「もちろん、尽きないんです!」と、誇らしそうだ(ついでながら報告会の最後に島旅作家の河田真智子さんが発言、その中で『Coral way』を単に機内誌ととらえてはいけない、沖縄を知る上で極めて内容の高い雑誌と指摘されたのが心に残りました)。

◆さて、妹尾さん、ここでクイズを出題。「[1]わーりたぽーり[2]おーりーとーりー[3]にーぶいかーぶい[4]めんそーれ、一つだけ意味が異なるのはどれ?」(答えは最後に)。次いで、沖縄にほれ込み長く三線を習っ ている長野淳子さんが、沖縄の古い暮らしが歌詞に残っていて面白い歌、と「ちんぬくじゅうしい」を演奏してくれた。今度はコンサート会場に変身した報告会。 うっとり、聴き入ってしまう。海中道路と浜比嘉大橋で結ばれるまでは船だけが頼りだっただけに浜比嘉島は芸能が独自に発達し、今に継承されているのだという。「ほかより静かで幻想的」、これが淳子さんの浜比嘉「エイサー」評だ(「in 浜比嘉島」で、地元の方たちに浜比嘉島の芸能を披露していただけるようなので、楽しみです!)。

◆息つく暇もなく次は、妹尾さんの友人『好きになっちゃった沖縄』のライター、塚田恭子さんと、アジャル・アディカリさんご夫婦が、特別ゲストとして登場。在日17年のネパール人、アジャルさんが沖縄(特に波照間島)に魅せられたのは11年前。お客さんが来たら全家族に紹介してもてなす所など、ネパールに似ており、故郷に帰ったような懐かしさを感じたという。

◆ウリ、 へちま、とっきん(グアバ)、そしてヤギ! 食材が似ているのも嬉しい。ネパー ルではヤギは血も食べる為に一発で首をはねるが、沖縄では血を抜く為、すぐには落とさない。「残酷だー」と驚いたそうだが、刺身で食べても、臭みがないのに、感心したそうだ。また、ネパールでは人が毎日同じように集まり同じ事を喋っているが、沖縄の人たちにも似た雰囲気を感じるという。喋るのだけが目的じゃなく、一緒に過ごす事で皆が皆の状態を把握しているんだよ、と言ったアジャルさんの言葉が印象的だった。

◆沖縄の人がお酒が入ると必ず歌うという「安里屋ユンタ」。 元歌は琉球王朝の歌で、さびの部分は一説にはインドネシアから伝わった言葉と言われている。淳子さんの演奏に合わせ、皆で合いの手を入れる練習をして、盛りだくさんの報告会は、終わった。前出の塚田さん曰く、沖縄が好きな人にはなぜか何度も何度も通ってしまう島が必ず一つはあるのだそうだ。地平線会議の人達にとって、そこが「浜比嘉島」となり、浜比嘉の人達も喜んでくれ、「また来たね」と迎えてくれるようになる、そんな「in 浜比嘉島」になったらどんなにステキだろう、と思う。

◆その為に何をしたらいいか判らないけれども、まずは沖縄の事、もっと勉強しなくっちゃ。こうも多方面の人達の報告を聴くと、地平線会議ってスゴイっ、と改めて思ってしまう。きっとさらにたくさんのスゴイ人と、10月に浜比嘉島では会えるんだろうな。あー、今から楽しみだ!(答えは[3]。意味は「眠い眠い」だそうです。あとは「いらっしゃい」。眠い眠い、加藤千晶

[報告者のひとこと・そして、キムタカ・浜比嘉島・車内12時間缶詰と120個のミニトマト]

■「島ぬ引力」と魅力的なタイトルのもと、開催された琉球・沖縄がテーマの報告会。賀曽利さん、向後さん、三輪さんそれぞれに興味深いお話で、もっともっとお聞きしたかったです。持ち時間があまりないことはわかっていましたが、沖縄がテーマの報告会ならば、「音楽」がないのはさびしいと思い、長野淳子さんにお願いして三線で唄ってもらいました。よかったですよね! 淳子さんは浜比嘉島の外間晴美さんの三線仲間でもあり、一昨年の外間夫妻の結婚披露宴でも三線演奏で盛り上げていました。

◆かつて琉球というひとつの国であった沖縄。自然や文化など心魅かれるものはたくさんありますが、私にとって沖縄の一番の魅力は「人」。相手に対する心の開き方やユーモアのセンス……。そして、見えないもの(先祖や神、魔物やマブイなど)を信じる姿勢のようなものでしょうか。一緒に友人の実家を訪ねたとき、「お線香あげさせてもらいます」と、ごく自然に仏壇に手を合わせた同行者。豊年祭の途中で突然の大雨に襲われても、まったく動じることなく神様への奉納の舞いを続けていた高校生。東京の住宅街を歩きながら、T字路を見て「ここに“石敢當”(いしがんとう:魔よけの札)を置きたいよね。何もないと魔物が家に入っちゃうよね」とつぶやいた友人。そんな沖縄の人たちの姿が、ふとしたときに思い出されます。

◆報告会のとき、沖縄の言葉のクイズ(「いらっしゃいませ」バリエーション)を出したのは、沖縄といっても有人島だけで50近くあり、島それぞれに特徴があること、那覇と石垣島では400キロも離れていて、ひとくくりにできないことを伝えたかったのでした。

◆さてさて、報告会の翌日の土曜日、私は沖縄へ飛びました。88回目の訪沖。うるま市勝連の中高生による舞台「肝高の阿麻和利」を観るのが目的です(仕事です。念のため)。10月に浜比嘉島の「ちへいせん・あしびなー」で講演してくれる平田大一さんが演出を担当しているこの舞台、素晴らしかった〜!! 県外からのリピーター(観客)が多いことも納得。浜比嘉島の民宿に泊まっていた女性2人連れも、関東から舞台を観に来ていました。

◆翌朝は外間家を訪問。庭のテーブルを囲み、コーヒーとサーターアンダーギーをいただきながら、外間夫妻と10月の集会についてあれこれおしゃべりしてきました。そして、後ろ髪ひかれつつ那覇へ向かい、友人が切り盛りしている「こぺんぎん食堂」で慌しく餃子を食べて空港へ。夏休みムードむんむんの飛行機が羽田に着陸すると、なんと外は雨でした。沖縄は夏空だったのに〜。そして、携帯電話の電源を入れると「伊豆は雨ダイジョウブ?」という内容の友人からメールを数通受信。大阪のねこさんからは「東海道線運転見合わせ」情報も。

◆ええ〜大雨なの!? これから伊豆の家まで帰るつもりなのに〜。この日を逃したら、また1週間帰れなくなり(注:妹尾さんは週末伊豆暮らし)、育てている野菜が気がかりなので、とにかく家をめざして新幹線へ。そして19時過ぎに熱海に到着。しかし、その先の伊東線は大雨で運転見合わせとのこと。国道も通行止め、東海道線も止まっていました。駅員に状況を尋ねる人、ホームに敷かれたブルーシートの上で本を読む人、配布された毛布に包まって寝ている人などいろいろ。でも怒りを爆発させるような人はなく、全体的には静かな雰囲気。私は開放されていた踊り子号の車内で本を読みながら、ときどきメールをしていました。まわりの人たちも同じような感じ。

◆そのうち、外で花火があがり始めました。熱海の花火大会の日だったのです。ホームに出て、どしゃぶりのなかでも花火はあがるんだーと驚きながら鑑賞。雨ですぐに消されちゃうから、余韻がなくてちょっとさびしい花火。見ているのは、少数派でした。いくつかのホテルに問い合わせてみましたが、花火大会の日でもあり、どこも満室。そのうち携帯の電池も切れました(当然、周辺のコンビニの充電器は売り切れ)。「こんなとき地平線の人たちならどうするのかな、歩いて帰るのかな」などと思いつつ、持っていた本は読み終えてしまい、うとうと。

◆結局、列車が動いたのは翌朝の9時過ぎ。12時間以上、熱海駅で過ごしたわけです。小さな幸せは、明け方に崎陽軒のシュウマイ弁当とお茶が配られたこと。その後、伊東での乗り継ぎに1時間かかり、帰宅したのは11時過ぎ。なんとも長い1日でした。帰宅後、さっそく庭の野菜を収穫。2本の枝から、120個ほどの真っ赤なミニトマトがとれました。これで雨のなか帰宅した甲斐があった、はず。(妹尾和子


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