2010年8月の地平線報告会レポート


●地平線通信370より
先月の報告会から

ボーケンが目覚める時!
 〜子どもたちよ、冒険しよう!〜

三輪主彦 中山嘉太郎 坪井伸吾 丸山 純 埜口保男

2010年8月27日 新宿区スポーツセンター

■冒険とはどのように生まれるのか。その問いに対するヒントがこの報告会にはあったような気がする。8月恒例の納涼特別企画として開催された今回の報告会は、世界中で数々の冒険を繰り広げてきた5人を報告者に迎えて行われた。この7月に共著として『子どもたちよ、冒険しよう』(ラビュータ)を世に送り出した坪井伸吾さん、三輪主彦さん、埜口保男さん、丸山純さん、中山嘉太郎さんである。若い世代の視点を採り入れたいという狙いもあり、司会進行役には若手代表として大西夏奈子、加藤千晶の「地平線シスターズ(?)」が任命された。

◆前半は5人にそれぞれ15分の持ち時間が与えられ、子供時代のエピソードや現在までの活動についての発表が行われるということだった。「1番手はこの方です。さて、誰でしょう?」という司会の声とともにスクリーンに映し出されたのは、一枚の赤ちゃんの写真。まん丸の可愛い赤ん坊だが、5人のうちの誰なのかはさっぱりわからない。ところが会場からはすかさず「三輪さん!」と声が挙がり、これが正解。こんな感じで、それぞれの子供時代の写真を中心に話を進めていくという、面白い趣向だ。

◆三輪さんの人生での決定的な転機は大学時代に宮本千晴さんに出会ったこと。「これで世界が27倍に広がった」。大学を卒業して地学教師になったが、教科書の内容を教えているうちに、自分でも実物を見たことがあるような錯覚に陥るようになった。そこで「これはマズい」と感じ、退職して自身で旅に出ることを決心する。初の海外旅行となったカラコルム遠征を皮切りに、世界の各地を巡った。

◆そのかたわら、観文研の「あるくみるきく」や、向後元彦さんと出会いあむかす探検学校などの若手を"けしかける"(本人の表現)活動などにも参加してきた。一方で「奥さんと子供を連れてこなければ」と思った場所もあり、今はその"やり残し"を解消している最中だという。

◆2番手は中山さん。実家は農家だが、お父さんはよく新しいことにチャレンジする人だった。その血を継いだ中山さんのチャレンジは「トライアスロン」と「走り旅」。トライアスロンに出会ったのは大学生の頃で、宮古島トライアスロンで完走したのを皮切りに、2倍アイアンマン、3倍アイアンマンと距離を伸ばしていく。3倍アイアンマンでは制限時間ギリギリでゴールしたものの、ゴール後救急車で病院に運ばれた。本人は「当時はかなり練習していました」とサラリと言うが、その練習量は月220時間と半端なものではない。

◆その後、4倍アイアンマンを完走したのち、10倍アイアンマンに出場して13日間をかけてゴールした。通常のトライアスロンは水泳3・8キロ、自転車182キロ、マラソン42キロだが、その10倍、水泳38キロ、自転車1820キロ、マラソン420キロという、信じられない挑戦だった。

◆トライアスロンと並行して走り旅(ジャーニーラン)も手がけ、それが南米での走り旅、シルクロードの走破につながっていく。この走り旅を始めた頃に「あるくみるきく」に出会ったという中山さん。「僕はこれをもじって『見たい・聞きたい・話したい・走りたい』というのを自分のテーマにしてやってきました」。

◆3番手は坪井さん。子供の頃から釣りが好きで、バイクに乗るようになったのも遠くまで釣りに行きたいからだった。しかし実際に乗ってみて、バイクで走ることそのものが楽しいと気づいた。それから日本一周に始まって、北米横断、オーストラリア一周、ヨーロッパ縦断と、坪井さんの世界はどんどん広がっていく。いずれも「バイクのことも含めて何もわからない状態で始めた」という。「やってやれないことはない。大事なのはタイミングを逃さずにやりたいことをやるということだと思う」。

◆バイクだけでなく、鳥人間コンテストや人力車での東海道五十三次走破などにも挑戦している。ブラジルでは断食にチャレンジし、アマゾン川はイカダで下った。マラソンにも挑戦し、学生時代にホノルルマラソンに出場(ランニングパンツのことも知らずトランクスで走った)、100キロマラソンを経て、北米大陸横断にチャレンジする。あまりにも多くのことに挑戦し続けているが、本人は「とにかくどこまでやれるか試してみたかった。それが全て」と語っている。

◆4番手には丸山さんが登場。「冒険とは縁遠い」と言う丸山さんだが、中学・高校時代には洞窟探検に熱中し、縄ばしごを自作するなどしながら精力的に活動していた。当時読んだ『現代の探検』(山と溪谷社)は丸山さんの原点だという。大学時代は映画製作に精を出し、探検からは一時遠ざかった。しかし4年生になったとき、高校時代に知ったパキスタン北部の少数民族「カラーシャ」への興味が抑えられなくなり、休学してパキスタンへ向かう。

◆ところが実際にカラーシャの村へ行ってみるとすでにそこは一大観光地になっていた。ショックで帰ろうかとすら考えたが、カラーシャの葬式を目にして村に残ることを決心する。3日間ひたすら踊り明かすというその葬式に「得体の知れないエネルギーを感じて、その源をつきつめたいと思った」という。村では英語すらほとんど通じない。そこで、書き留めた単語を整理して「和・カラ辞典」を作った。「言葉なんて通じなくてもコミュニケーションは取れる。英語ができないといって旅に出ることを諦めてしまうのはもったいない」という呼びかけには、丸山さんならではの説得力がある。

◆トリを飾ったのは埜口さん。意外にも子供の頃は体が弱く、運動は大の苦手だったという。そんな埜口さんが自転車に乗るようになったのは、授業料がタダという理由で入った看護学校時代のこと。本当は早く学校をやめて海外に行きたかったのだが、資金集めのために看護師になることを決心して通い続けた。看護師を退職し、世界一周を目指してアラスカに渡ったのが23歳の春。「その当時は1?2年の旅のつもりだった」が、実際には6年間で70か国を巡る長い旅となった。

◆旅の途中で登山にも熱中し、河野兵市さんらとアンデスの山々に登っている。「登山は高度順化。次に体力」と語る埜口さんからは、体が弱かったという子供時代を想像することはできない。「続けていれば結果はついてくる」と語る埜口さんの旅は、その後も世界一周の第二ラウンド、第三ラウンドと続き、今でも休暇を利用しながら世界を走り回っている。

◆ところで、今回の報告会には子どもたちの姿もちらほら。そのうちの一人である小学5年生の横山拓己君は、5人の本を読んでいて、中でも少年時代は体が弱かったという埜口さんの話が一番印象に残ったという。そんな子どもがおとなになって自転車で世界中を走ったというのが驚きだったそうだ。ご家族曰く「瞬発力はないけどコツコツがんばるタイプ」という拓己君。この報告会で何かを感じ取ってくれていたらと思う。

◆後半は5人それぞれに事前に答えていただいたアンケート結果をもとに、司会の2人がツッコミを入れるという形式で進められた。話が盛り上がったのは、「はじめて冒険したのはいつですか?」という質問に触れたとき。これに坪井さんが「『冒険』という言葉がどうにも苦手」と答えている。本人に言わせれば、「僕の根っこにあるのはただ知りたいという欲求であって、大冒険をしたいと思って始めるわけではない」という。さらに、「自分は冒険家ではない」と続ける。「冒険家と呼ばれるほど何かを極めたわけではないし、冒険をネタにしてメシを食ってるわけでもない。もし冒険家にプロとアマがあるなら、僕は間違いなくアマだし、アマでありたいと思う」

◆この「冒険家」という呼ばれ方について、他の4人も鋭く反応したのが興味深かった。例えば埜口さん。「この先に何があるのか分からない、ということをやったかどうかが冒険家かそうでないかの境目だと思う。なので私にとってはマゼランが最後の冒険家」と主張する。中山さんも「私自身は冒険家というよりも『挑戦者』という方が合っている」と語る。丸山さんは、洞窟探検に明け暮れていた中高生時代は冒険家ではなく「探検家」になりたかったそうだ。三輪さんは、著書の中で「冒険家や探検家という言葉はイメージが悪く、冒険家・探検家になろうよ!と大声では言えない」と書いている。

◆5人が口を揃えて「少なくとも自分は冒険家ではない」と言うその様子に、「冒険」というものに対するそれぞれの強い想いが見えてくる。そう考えると、「子どもたちよ、冒険しよう」という呼びかけも実に刺激的なものに思えてしまうから不思議だ。報告会では5人が「冒険しよう」と呼びかけるシーンがあったわけではない。にもかかわらず、この5人の報告には聴衆を「冒険」に誘う魅力と迫力があった。

◆特に胸に刺さったのは、坪井さんが発した台詞の数々だ。「(人力車の挑戦は)理由は何もなくて、ただやりたかっただけ」「やりたいことは閃きとして出てくる。それができるとかできないとかを常識で決め付けることはしない」等々。僕自身は、自分にはできないと勝手に決めつけていることはないだろうか。時間がない、金が無い、実力が無い、そんな言い訳でやりたいことを諦めてはいないだろうか。

◆僕は大学を卒業してすぐに仲間とともに小さな会社を起した。およそ冒険らしいこととは無縁に生きてきたが、右も左も分からずにただガムシャラに突っ走ってた当時は、まだ自分の中に冒険心のかけらがあったように思う。その頃の気持ちを忘れてはいないだろうかと反省する一方で、僕と同世代の若手に聞いてみたいと思った。5人の後ろ姿に何を見ましたか?(杉山貴章 ねぶたランナー)


報告者のひとこと
アマとチャリティ

■報告会では違和感なかったのに、翌日になって、ものすごくひっかかる一言があった。後半、冒険て何だ、って話がでた時に「僕はアマでいたい」と言ったことだ。まるでプロになろうと思えば、なれるけど、嫌だからならない、と言っているようだ。なぜ、あんなエラそうな言葉が出てきたんだろう。

◆北米横断マラソンでNYに着いた日、居候先の友達が「今日テレビ局の人と会うから、ついでに売り込んでやるよ」と出て行った。夜、帰ってきた彼はなんだか機嫌が悪い。理由は二つの局の返事が判でも押したように、チャリティをしろ、と言ったこと。一つの局では芸能人の

○が100キロ走って視聴率が取れたから、素人がそれ以上の距離を走っちゃうというのはねー。と言われたとか。TV局にとって視聴率が大事なのはプロとして当然。こっちも仕事としてやるなら、素早く対応すべきだ。

◆だけどそのためにはチャリティを手段にする割り切りが必要で、青臭い自分にはそれができない。そもそも道楽と思っていることに人の善意を利用したくない。以前某有名ランナーが大規模な市民マラソンを企画する段階をTVが追う番組があった。その中でランナーは、ダメだよ、もっと世間に強くPRできるテーマじゃないと、と、チャリティのテーマとして議題に上がった「難病」を、あっさり却下した。この人にとって大事なのはマラソンを有名にすることで、候補は本当に手段だった。企画が成功すれば、TVは視聴率を取れて、支援を受ける団体には募金が集まる。きれいごといって何もしないよりは、遥かに実のある話で、視聴者も幸せになれるのにね。後から、いろいろ考えていたら、そんな答えが出た。(坪井伸吾


月面到着まで残すは13165キロ

■指折り数えて定年を待つ私は、地平線会議でも公務員の中でも特殊な人間らしい。地平線には極力参加するようにしているけれど、到着は決って8時まぎわ。仕事を終えて、という行動がどうにも地平線では特殊らしい。公務員では、しごくまともな行動なんですが。そしてまた、定年迎えたら新人に仕事をゆずりゃいいものを、例外なく再雇用制度にすがりつく公務員世界で、定年即海外高飛びビジョンを展開すると、おそろしく異常に映るようだ。地平線じゃ、まともな発想なんだがなあ。

◆それにしても長いこと公務員やってきた。厚生省、法務省、千葉県と渡り歩いているうちに、もう25年が過ぎてしまった。人生の残り時間、はたしてあと何年あるのやら。過労死と背中あわせの環境だから、あんまり期待しちゃいないけど、宇宙のチリになることなく地球に帰れるか。自転車に乗り始めて34年。この8月末で、月面到着まで残すは13165キロ。地球にもどるにはあと40万キロだ。1年1万キロで、40年。小惑星を往復してきたはやぶさ君までは望まずとも、せめて月面ぐらい往復したい。

◆首尾よく帰ってこられたら、たぶん第850回あたりの地平線会議で報告できるでしょう。三輪さん、丸山さん、中山さん、坪井さん、そのときまた会同しましょう。大西さん、加藤さん、そのときはまた司会よろしく。(埜口保男


百姓はやればやるほど苦労も多い、学ぶことも多い

■当日の会場でDVDをいきなり持参して映したいと言い、対応していただいた丸山さんはじめスタッフの方には慌てさせて本当にすみませんでした。

◆報告会では自分の担当以外はほとんど喋ることがなかったので、今回は久しぶりに地平線の会場で雰囲気を味わう一聴衆になりきっていました。自分の発表時間はかなり映像で時間つぶししてしまいました。私の書いた本の内容は本のタイトル題名に合っていたかもわからないし…、冒険論もあまり考えていなかったので議論に積極的に加われなかった。ただ向後さんが「かつての冒険は未知の地域に出向いて行く。今の冒険はその自己の能力へのチャレンジ」と言っていたが、これで全てが納得いくような気がする。

◆かつて植村直己さんだって帯広に野外学校をつくろうとした。冒険の手助けをしようとしたのだ。もうその時代(20,30年前)でも現在言われている“冒険”だったし、向後論の冒険だったと思う。

◆今は桃やぶどうの畑を休みに手伝っているが、そこからつくる100%ぶどうジュース(もちろん泡だって発酵していい味になる)や自前の大豆から造った納豆も持参したが恥ずかしくて公開できなかった。百姓はやればやるほど苦労も多い、学ぶことも多い。だが失敗を忘れるくらいの楽しみも充実感も多いのは確かである。(中山嘉太郎


自分の立ち位置を見直すことのできた、有意義な時間

■どんな子ども時代を送ったからその後の人生がこうなってしまったのか?? なんてことばかり聞かれるのかと思ってアンケートにもいろいろ突っ込みどころを入れておいたのに、いざ蓋を開けてみたら、「冒険とは何か」を中心に、一瞬答えに詰まるような高度な質問が続いて、おおいにたじろいだ。話が肉体的な冒険のほうに行ってしまって話しそびれたが、じつは私もそれなりに「危険な場所」に行っている。

◆というのは、スライドで見てもらったギリシャ人援助活動家が、昨年9月にあの博物館の1階で寝ていたところ、武装したタリバン兵50人に襲われて拘束され、アフガニスタン側に連れて行かれたのだ。幸いこの4月に無事解放されたが、自分の命が200万ドルもの身代金+拘束中のタリバン幹部の釈放と取り引きされることになったら、どうしよう……。

◆孤立したマイノリティに深く肩入れすることは、このような事態に巻き込まれる覚悟も必要になる。自然の脅威だけでなく、人間の心の闇をどうくぐりぬけるのかも、現代の冒険ではますます大きなテーマとなってきているのかもしれない。ひさしぶりに冒険について考えを巡らし、自分の立ち位置を見直すことのできた、とても有意義な時間だった。(丸山純


旅に出ると、世界は広がりだけでなく上空、地下深くまで、すなわち3次元に広がっていることがわかる

■「先輩が教えてくれた27倍の世界を、私の能力では8倍ぐらいにしか拡げられなかった」とアンケートで答えたところ、「8倍と27倍はなんだ?」という質問が出ました。旅に出ると、世界は広がりだけでなく上空、地下深くまで、すなわち3次元に広がっていることがわかります。その一辺を2倍に拡げると23倍=8倍になり、3倍に拡げると33倍=27倍になると言いたかっただけで、数字にそれほどの意味はなかったのです。

◆質問の後で、実はこの世界は3次元じゃなくて時間軸、すなわち歴史を加えた4次元に広がっていると言わなければならなかったことに気がつきました。しかし言うヒマがなかったのでここで付け加えておきます。世界は4次元なので、一辺を2倍に拡げると24倍=16倍の広がりになるのだと。

◆ところで先日高名な物理学者さんに「この世界は何次元なのか」と聞いてみたら、「何次元でもいいんだ!」とおっしゃいました。「4次元までは見えるが、それ以上はなんだかわからない、でも無限にあるのだよ!」とのこと。物理学の世界では4乗どころではなく無限大乗の世界が広がっているようだ。旅に出ると、とてつもなく広い世界が見られるかもしれない。そんな思いで、世界を歩き回っているこの頃です。(三輪主彦


裏方の記
夏休みの夜、学校の校庭に集まって見た、夏の幻灯みたいでした

■あーあ! 報告会がせめて10時間あったらな! 一人15分間の持ち時間はあっという間でしたが、5名の報告者の皆さんの旅話や人柄がそれぞれ全く違う色で、ユニークで、おなかいっぱいでした。超スゴイのか超くだらないのかだんだん麻痺してわからなくなってきたりもしました。無謀な条件にもかかわらず、素晴らしい写真をぎっしり準備して下さった皆さん、編集して下さった落合さん、どうもありがとうございました!

◆子供時代の写真を実家まで取りに行っていただいたり、アンケートや自画像を書いていただいたり(加藤千晶ちゃんが編集して冊子にしてくれました!)、わがままを聞いて下さったことにも感謝です。報告会最中は、タイムオーバーのドラを鳴らすたびに世界中を敵にした気分でしたが、もっと聞きたい!の思いを晴らしてくれる楽しい本が存在するので、罪悪感がへりました。

◆さてこのたび、江本さんから突然に電話をいただき、8月報告会の企画・進行をしろということでした。まさかと思ってのんびりしていたら、まさかまだ何もしていないのか!? と怒られました。千晶ちゃんと私は相当慌てました。私の場合は山も川も知らず素人で、「冒険」というものに一般人目線の好奇心はあっても行動の実績はないので、まずいどうしようと思いました。お話される方はもちろんのこと、聞き手の方々のことを考えても重責です。でも本を読ませていただき、明るいところばかり見えていた報告者の皆さんの、小さな頃の悔しさや苦い思い出話も出てきて……。えー! でした。敷居が高いと思っていた地平線会議が、少し等身にも思えました。こんなこと言ったら怒られるかもしれませんが、「冒険」話以上に、そこに駆り立てた人生の出来事だったり、順風満帆に見えても実は不満足だったり……。皆さんの生き様そのものに、ガゼン興味がわいてしまいました。

◆青木明美さんの真っ黒に焼けた息子さん颯人くんや、事前に本を読んで予習してきた横山拓己くんや、ダイナミックダンサーズの坪井友子ちゃんも参加してくれました。みんな、不思議なオトナたちの話をどう思ったかな? 今度会ったら聞いてみたいです。もうひとつ感動したのは、手術を目前に控えながら、「冒険の話をするっていうから来た」と奥様と会場にかけつけられた向後元彦さんの姿でした。みんなで一緒にめくるめく繰り広げられる「冒険」の話を聞きました。夏休みの夜、学校の校庭に集まって見た、夏の幻灯みたいでした。(大西夏奈子


事前の準備の裏側をちょこっと覗くことができ、たくさんのやりとりがあって当日の報告会ができているのだなあ、と、しみじみ感じました

■■「夏っぽくわいわい」したいので若手が企画進行を、と、ご指名を受けたのですが、私は「あわあわ」としているだけでした。大半を進めてくれた、かなこちゃんの、『子供たちよ、冒険しよう』の本に合わせ「子供たちも聴けるような報告会にしたいなー」ってところから話が盛り上がってゆき、子供時代の写真を見せてもらおう。また、当日はお仕事で来られなかった(妹尾)カコさんが「子供の頃のプロファイルを作らせてもらうのは?」という案を出してくださったことから、事前に報告者5名の方に、子供時代のアンケートをさせていただこうってことになりました。

◆わたしは、みなさんが、どんな子供で、成長し、旅や冒険(←ではない、と云われますが……)をされて、それがいま現在と、どのように繋がっているのか、ということに興味津津でした。写真やアンケートに加え、「子供の時の似顔絵を描いてほしい」とのお願いに、坪井さんは、「す、すごい!」って絵を。嘉太郎さんは「才能がなくってイヤだなあ」なんてぼやきながらも、チャーミングな絵を描いてくださいました。丸山さんの用意してくださった赤ちゃんの時の写真は、舌を出してお茶目な顔をしているもの。「いいもの見たー」と、興奮してしまった。埜口さんは、写真を自転車で実家まで取りに行ってくださったそうです(報告会にも自転車で駈けつけていらしたし、いつも自転車!)。三輪センセイは報告会前日まで会津へ行かれていたとか(いつも元気いっぱい、飛び回られている!)。

◆というわけで(って、あんまり繋がっていないけど……)、写真やアンケートをひと足早く見られて、いひひー。というのが、私の感想です。そんなんだから、当日もやっぱり役に立たず、あわあわしているだけ。小さくなっています。かわって、すごい報告者の方々が、きっちりと時間内にお話を収め、盛り上げ、楽しい報告会にしてくださいました。有難うございました。ひとりで報告会されても時間が足りないかもなのに、一回で5人も! 豪華だったなー。

◆今回、事前の準備の裏側をちょこっと覗くことができ、たくさんのやりとりがあって当日の報告会ができているのだなあ、と、しみじみ感じました。そういえば、当日会場の入口にあった「地平線会議報告会」と書かれたボードの字。あれは、お父さんの坪井さんと一緒に、早めに来ていた友子ちゃんが書いてくれたものです。当日もそうやっていろんな人が少しずつ動くことで、毎月の報告会ができている。凄いことだなー、と思います。(前に出るの無理です、の、加藤千晶


先月の報告会から・アンケート大公開!
8つの質問━━5人の冒険野郎へ一大アンケート!!

 「どんな子供だったんだろう? そして、いまこうあるのはなぜ?」。せっかくの豪華メンバーによる報告会。内容豊かなものにしたくて、5名の報告者を対象に事前にアンケート調査を行ないました。興味津津、伺った質問は以下の8つです。報告会当日に、プリントで配りました。報告順にそのご回答の全文を!(大西、加藤)

[1] 一番はじめに抱いた夢はなんですか?
[2] はじめて「冒険」したのはいつですか?
[3] 子供のころ、憧れたものやひとはいますか?
[4] 影響を受けた本はありますか?
[5] 初恋はいつ、だれですか? その顛末は?(なるべく詳しく!!)
[6] 子供のころ、なりたかったものはなんですか?
[7] 今のご自分がある、きっかけや転機が「このとき!」とあったならば教えてほしいです。
[8] 子供のころの自分が、いまの自分を見たら、なんて云うとおもいますか?

<三輪主彦さん>

 私は小学校五年生の時に広島県から東京に引っ越してきました。今で言えばイジメだったかもしれませんが、ヒロシマ=ゲンバクと気味悪がられて、だれも近寄ってきませんでした。ときどきしゃべっても「ひやい」=冷たい、「はまった」=落ちたなど方言をからかわれ、仲間に入れてもらうことはできませんでした。だから子どもの頃のことはなかったことにして、リセットして小学5年からの生活を始めました。50年間以上そうした生活をしていたので、子どもの頃の思い出は全く残っていません。野山を駆け回っていたはずなので、外に出れば体は適応するのですが、頭はまったく空っぽで初めて見た景色ばかりです。そんな訳で、子どもの頃を思い出すということを、あえてしませんでした。いま思い出そうとしてもどんな小学校へ通っていたか、どんな先生がいたかなど全く記憶にありません。とうぜん何を考えていたか、だれにあこがれていたかなど片鱗もみえません。記憶というものは、時々引き出しから出してながめるから薄れないで残るもので、一度も引き出さなかったら消えてしまうものです。ですから以下の返答は中学生以降のことです。[1][2][3]は前述の言い訳の通りで不明。[4]はシャーロックホームズばかり読んでいた。同じ作者の「失われた世界」は衝撃的な本だった。これで探検・冒険に目覚め、恐竜大好き人間になったかな? これが[6]、[7]につながるかな。でも「それ!」と実行に移せるような人間ではないので、ずるずると流れのままに来たのが今の自分。流れに逆らいたい気持ちはあったが逆らったことはほとんどない。[5]初恋はあっただろうが、全く記憶にはない。高校生になっても女の子と話したことはなかった。奥さんは小学校の同級生、大学生の時に電車で出会い、東京オリンピックを見に行った。奥さんの家でご飯を食べさせてもらって以来40年間ずるずると居続ける。[7]は本の中ではシャーロックホームズなのだが、大学の山岳部の部室で宮本千晴さんという本物の探検家・冒険家(本人は怒るだろうが、私は勝手にそう思っている)に出会った。世界が27倍くらいに広がった。[7]、ヒロシマカープが弱すぎて野球が嫌いになり、マイナースポーツだったサッカーに没頭していた高校時代の自分から見たら、「結構広い世界に目が開いたじゃないか」と思うだろう。今でも野球は嫌いだが。でも宮本さんに出会って以降の自分から見れば、「せっかく27倍に拡げてもらったのに、自分の世界は8倍ぐらいにしか広がっていない」という失望ばかりだ。


<中山嘉太郎さん>

[1] 夢?? 毎日遊びが楽しくて…… 夢などなかったような……。[2] 冒険?? あえて言えば親に逆らった大きな抵抗で、小学校高学年の時に塾へ行くのが嫌で逃亡したことかなあ。心配した親は畑の近くで勉強している私を見て驚いたみたいです。逃亡を企てたもののやはりいけないことをしたという後悔があって、道端で勉強していた私は、とても真面目だったと思います。ところで親への抵抗が冒険でいいのかなあ。[3] 長嶋茂雄かなあ、かっこよかったなあ。本当にかっこよかったよなあ。[4]  読書、勉強はした覚えはないので…… ないなあ。[5] う?ん、これといって覚えていないが…… しいて思い出せと言うなら…… 小学校2年ごろの同じクラスで彼女が一時入院して、その後登校して来て席が隣になった丸山さんかなあ?。最近地元の一宮町出身の高野義雄さんが社長の東京スタイルという会社に講演に行き、高野社長が「かずみちゃん(丸山さん)と同級生なの?」と言ってびっくりした(高野社長も丸山さんもみな同じ日川高校【今年30年ぶりに甲子園】丸山さんは東京スタイルの秘書室に勤務したことあったそうです)。地元の人だけどとてもあか抜けていました。今は主婦らしい。[6] 大工さん、今でもなりたいし…… なれそうな気もする。家をその頃新築していて、大工さんかっこよかったなあ。[7] 84年12月クリスマスごろの読売新聞で「トライアスロン宮古島大会開催」を見た時これだ!と思った。95年1月3日三輪主彦先生と話した時、何者だこの人は??と思った。[8] 絶対あんなオヤジに近寄りたくないなあ。


<坪井伸吾さん>

[1] [6]との違いが、ちょっと分かりにくいかな。何かが欲しい? だとしたら憧れたもの、になるし。絵、もっと上手に描きたい、で、いいですか。[2] 本のタイトルにもなっているのに「冒険」という言葉がどうも苦手。僕の場合は冒険というより「遊んでいる」という言葉のほうがしっくりくる。親に電話できいたら、2歳のときに1キロぐらい離れた駅前商店街で母親とはぐれて一人で家まで帰ってきたとか。家までには車ががんがん通る大通りや、踏み切りもあり、どうやって2歳児が一人で帰ったのか、またすれ違ったであろう町の人が幼児の一人歩きを誰も不思議に思わなかったのか、すべてが謎。親がいうのは、それが始めての冒険だろう。[3] ない。親に聞いても何かのマネをしていたことはないとのこと。しいていえば熊野の山奥に自分で作った家に住んでいたおじいちゃん、と、よく道を知っていた父親。[4] 子どもの頃となると、漫画。パプアニューギニアの仮面をテーマにした「オンゴロの仮面」。精霊と悪霊との戦い、アニミズムを破壊するキリスト教の宣教師、天然ガスを狙う日本の商社、研究のためには手段を選ばない文化人類学者、などが登場するすごい漫画。小学生が読んで理解できるのか、という気がするが、すごく気に入って未だに本棚にある。もう一冊は登山家が主人公の「クライマー列伝」。主役はどんな逆境に追い込まれても死なない少年漫画の世界で、主役も重要な脇役も次々と死んでしまうシビアなリアルさに驚いた。こっちも未だに本棚にあり今読んでも泣ける。はまる本。知人に強引に「読め」と押し付けたことが何度かある。[5] なぜこの質問があるのか、よく分からないけど、小学校低学年のころは毎年クラスに気になる子はいた。学年が上がりクラスが変わると、そのたびに気になる子は変わっていた。誰にも悟られないようにしていたから、当人はもちろん、誰も気づかないままだった。[6] これも悲しいくらいない。昔から遠くは見えなくて、目の前にあることに集中していた気がする。[7] 大学を留年したこと。留年しなかったら、なんとなく就職していたと思う。[8] 理解不能。世界の釣りには惹かれると思うけど、それ以外はあまりにも自分の世界とかけ離れていて興味が持てないと思う。すごいのか、おかしいのか、もよく分からない。


<丸山純さん>

[1] 未知の宇宙に、小型の宇宙船で乗りだすこと。[2] 中3の夏休み、五日市の観光名所でもある大岳鍾乳洞最奥の縦穴を降りて、上層と下層がつながっていることを証明しようとしたとき。このためにわざわざ30メートル以上もの縄ばしごを自作し、万全の準備をしたつもりだったが、ザイルを固定するためにハーケンを打ち込もうとすると、手でずぶずぶと根元まで入ってしまう。われわれが岩(チョックストーン)だと思っていたところは、落盤が折り重なるようにしてかろうじて空中に浮いていた、単なる泥の塊だったのだ! あちこちハンマーで叩き回っているうちに自分が置かれている状況がわかって背筋が凍りつき、落盤が崩れ落ちないよう粛々と撤退した。[3] 小学生時代:長嶋茂雄、アインシュタイン。中学生時代:ヘルマン・ブール、本多勝一。高校時代:梅棹忠夫、ポール・サイモン。[4] 小学生時代:『ツバメ号とアマゾン号』[全12巻](アーサー・ランサム)、『巨人の星』(梶原一騎・川崎のぼる)、『太平洋ひとりぼっち』(堀江謙一)。中学生時代:『洞穴学ことはじめ』(吉井良三)、『洞窟探検』(山内浩)、『一人ぽっちのヒマラヤ』(向後元彦)、『極限の民族』『山を考える』(本多勝一)、『何でも見てやろう』(小田実)。高校時代:『狼なんか怖くない』(庄司薫)、『知的生産の技術』『文明の生態史観』(梅棹忠夫)。[5] 小学校の同級生。2年生のときに突然転校してしまい、告白できず。[6] 小学校低学年までは宇宙船の操縦士、ロケット技術者。小学校高学年からは天文学者、物理学者、登山家、探検家。中学生以降は探検家、小説家、新聞記者。[7] 1)中2の夏、アポロが月に着陸した日、科学部の仲間たちと大岳鍾乳洞に出かけて立入禁止の柵をこっそり乗り越え、観光用に公開されていない「未知」の部分を泥だらけになってはいずり回った。これこそが探検(パイオニアワーク)だと、当時は思った。2)早稲田の探検部に入部しようと部室に出かけたら、「お前は惠谷先輩の後を継いで三原山の火孔探検をやれ!」と言われた。もう狭い穴ぐらはたくさんだ、広い世界に出たいと思って探検部に入ろうとしたのに、それで一気にやる気が失せて以後は映画作りに走り、探検から遠ざかった。3)大学2年の夏、高校時代の仲間の神谷夏実君らのグループが新潟県の白蓮洞で遭難し、その救援に駆けつけた。このときまではひそかに新聞記者に憧れていたのに、全員無事救出とわかったとたんにチェッと舌打ちするのが彼らのあいだから聞こえ、翌日の新聞には掌を返すように批判的な記事があふれて、幻滅した。このときの記者対応を引き受けたのが、地底に閉じこめられていた盟友の坂野浩さんを救助しにやってきた惠谷治さん。そのド迫力に、圧倒された。[8] だらしない。結局、やりたくないことから逃げて逃げて逃げまくるだけの人生だったんだね。


<埜口保男さん>

[1] 幼稚園まで:となり町に行くこと。自宅から200mぐらいのところに、子供心には大きな川があって、大人たちが泳いで向こう岸に渡っていた。あの向こう岸には何があるのかと、いつも思っていた。小中学校のころ:せめて人なみの体力が欲しいと夢見ていた。中学校のときは朝礼で2回に1回は倒れていたし、1500m持久走は7分かかってもゴールできず最下位。騎馬戦や棒倒しなど、悪夢だった。それが自転車レースで、全日本クラスでエントリーできたとき(42歳だったか)は、感動そのものだった。[2] 冒険と呼べるようなことはしたことがない、というか、その前に冒険と呼べる行動は地球から消滅した。本のタイトルは冒険をしようだが、もともと冒険ということばは好きじゃない。アウトドアーの世界は冒険ではなく、ただの道楽である。[3] 速いもの……特急電車や飛行機のたぐい。運動能力にすぐれたひと……といってもプロ世界ではなく、郡大会にいけるような同級生たち。[4] 世界地図帳。[5] 同級生の女子。同級生はおろか、在校生すべての自宅も家族構成も仕事も知っているような田舎なので、その後の流れもすべて知っている。彼女は私が移動中に同級生と結婚したと、他の同級生から連絡を受けた。意外な組み合わせだっただけに悔しいと記されてあったので、みんなが憧れていたんだなと知った。田舎に帰れば会うこともしばしばで、ふつうのおばさんになっている。[6] これはよく覚えている。父が商売をしていた関係で来客が多く、尋ねられるといつも「こだまの運転手」と答えていた。まだ新幹線の開通前で、当時最速の特急列車だったから。[7] 本に書いたとおり、父の事業の失敗で、事実上一家離散になったときだろうか。いかに私を安全に放逐するかで、母の一存で東京へ送り込まれた18歳がどん底だった。それから1年ぐらいで、この現状からどうやって抜け出るかを考えるようになれたのが、人生最大の転機のようなきがする。[8] ぼくの大人の姿なんかじゃない、絶対にちがうと断言する。そして仲介した人をうそつきだと非難する。それぐらい変わったのが自分でも分かる。世界一周から帰ってきて新聞に載ったとき、一番驚いたのは小中学校までで交流の止まってしまった先生だった。好きだった社会科の先生とはいまでも交流があるが、「あれだけの地理歴史の知識があれば、見たくなって当然だけど、だからといって現実には行けないものだ。俺がそうだ。ましてや、あの体の弱かった埜口君がなあ、ここまで変わるとはなあ」、と会うたびにいわれている。


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