2012年2月の地平線報告会レポート


●地平線通信391より
先月の報告会から

シーベルトの国のアリス

渡辺哲 賀曽利隆 森田靖郎 宮本千晴

2012年2月24日 18:30〜21:00 新宿区スポーツセンター

■報告会の会場がいつもと違う。机がすべて端に寄せられ、椅子だけが並べられている。ほぼ定刻。まだ参加者はまばらだけれど、エアフォトグラファー・多胡光純さんの映像が流された。本人は九州で撮影中。天気がよく中断が惜しいという事で会場には来られず、映像とメモが報告会に託された。

◆福島放送の30周年記念番組として昨秋に放映された(好評でBS朝日で再放送も)「天空の旅人 福島を飛ぶ」の中から、まずは日本最大のブナ林を持つ只見の山と川を訪ねる空中散歩。発電所が多くあり、その電気はほぼ東京に送られている。撮影の困難は張り巡らされた「送電線」にあったそうだ。つづいて、震災の前に撮影した大熊海岸と相馬市。大熊海岸は「警戒区域」となり、現在は立ち入り禁止だ。東電・福島第二原子力発電所のある小良浜や富丘漁港、馬の背など、片道6キロ程の道のりを往復する。切り立った断崖絶壁の湾がつづき、緑と青い海のコントラストが印象的だった。

◆相馬市の映像では、海苔の養殖風景も見える。「小松島」とも称される美しい松川浦だ。多湖さんはここを撮り切れなかった気がし、再訪を誓った。が、一ヵ月後に震災が起こる。お世話になった方から無事の手紙が届いたのは、半年後だったそうだ。番組の中で多湖さんは、福島の自然を「控えめだけど奥深い」と表した。「福島の人は控えめ。ものすごい空間とともに生きている」とも。

◆その福島が、いまどうなっているのか。第二原発を抱える楢葉町で被災し、現在はいわき市に住んでいる渡辺哲さん。世界を駆け巡るライダーであり、東北に何度も通う賀曽利隆さん。お二人に、福島の一年の推移を江本嘉伸さんが聞く。渡辺さんの住んでいた楢葉町の住民は約8000人。現在はいわき市に5000人超、残りが会津地方へと散っている。4月には「解除準備区域」という名称で、楢葉町への行き来が可能になると言われているが、除染はこれからという状況。先日地域住民を集めた除染説明会が開かれたが、役人や町長を前に「いつ帰れるのか?」という住民の不満が爆発し、冷静な議論はできない状態だったという。

◆つづいて賀曽利さん。現在、海岸線で通れない道はほとんどない他県と違い、原発事故により福島県は、20キロ圏を通る国道6号線が通行不能となったままだ。結果、浜通りから中通りへ向かう国道も全て止められており、浜通りが分断された格好になっている。多胡さんが撮っていた松川浦にも触れた。ここは鵜の尾岬の砂州が流され、福島で一番地図が変わった所。原発事故一辺倒になりがちだが、福島も津波で多大な被害を受けているのだ。

◆被災時の状況はどうだったのか。渡辺さんの弟さんは楢葉町役場で働いている。教えて頂いた記録を、江本さんが読み上げた。3月11日、14:46地震発生/14:49大津波警報/15:00災害対策本部を設置(避難住民が移動)/19:03 緊急事態宣言。そして、翌12日8:00、楢葉町全域に「避難指示」が出た。

◆渡辺さん曰く、その時は「第二で放射能が飛散している可能性がある」との事で、「南方向へ避難」としか指示されなかったという。放送を聞き、渡辺さんは親戚がいた広野町へ。その後いわき市方面に向かい、駐車場で一晩を過ごした。数日で帰れると考え、財布と携帯しか持って出なかった。

◆14日に第一原発で水素爆発があり、5700人がいわき市へ逃げた。避難所では、40歳以下の人にヨウ素を配布されたが、「指示があるまで飲まないように」と言われ、服用には至らず、貰った人も何の事か判らなかったようだ。そして翌15日、「重要なのが、雨が降った事だろう」と江本さん。この日の風向きから放射性物質が北西に降り注いだからだ。結果、20キロ圏外だが北西に位置し谷間になっている飯館村などが高濃度汚染地域となった。

◆「びっくりする経験をした」、賀曽利さんの話。震災後の8月、稚内からバイクツアーでサハリンへ向かう途中、コルサコフという港で、千葉県の流山から参加した人が、放射線チェックに引っ掛かった。ガイガーカウンターで全ての荷物を検査すると、原因はバイクカバー。バイクは洗車したが、カバーはそのままだったため、0.39μSv/hが出たのだ。ロシア側はその数値でも大騒ぎをする。「私たちはいま、桁外れな数値に慣らされてしまっているんですね」。賀曽利さんの言葉が重たかった。

◆「どれくらいの人が楢葉町へ戻りたいと思っているのだろう?」、江本さんが渡辺さんに尋ねる。除染説明会で200人ほど集まった時に感じた所では、世代間で差がある。お年寄りは戻れるなら戻りたいと思っているが、若い世代は戻らないと言う人が多く、子供のいる弟さんも戻らないとはっきり言っているそうだ。「あなたはいわきならいいかな、という感じ?」江本さんが聞くと、渡辺さんは「そうですね。いわきでいいかな、という感じです」。言い替えられた「で」に、複雑な心境が伝わってきた。

◆楢葉町の小中学校は4月からいわきで始業される予定だが、雪深い会津地方からの移住希望者に住居が足りていない状況がある。東電の交付金が入る原発地域は合併の必要がなかったが、いわき市は合併を繰り返して大きくなった。東京にも近い。そのいわきだからいま5000人を吸収できているし、まだまだできるはずだ。賀曽利さんが力強く言う。前半の時間がなくなり、いわき市の大漁協・小名浜港の話に。現在、卸売市場は復活したが、小名浜港に揚げると他で獲った魚でも値段が付かない状況だという。江本さんは「津波ではない。原発の被害であり、東電の現場だ。それが口惜しい」。

◆5分の休憩をはさんでの後半。トイレから戻って来たら、椅子が中心に向かって円を作るように並べられていた。1月の報告、森田靖郎さんのお話を受けて、全員参加の「白熱教室」のようにしたいと、江本さんが考えたのだ。それを受け、長野さんが話す。原発事故後、世界から見れば、日本全体が汚染されている。半減期が途方もなく長い放射性物質がまき散らされ、いま日本に住んでいる人達はみな、アリスのように迷っているのではないか。いま私達が行動した事がずっと先まで残り、問われる、そんな時なのではないか。結論を出さなくていいので、思った事、考えた事、体験した事を、話す場にしよう。

◆さて、江本さんにバトンタッチ。冒頭は二人の方に。まず、前回の概論を森田さんに聞く事から始まる。思考のきっかけは、3.11の後にすぐ、石原慎太郎都知事が発した、震災への(戦後日本人が積み重ねて来た「心の垢」=我欲を洗い流す為の)「天罰」という発言だったという。誤解を生む発言と後に撤回された為、最初は森田さんも放言と思ったが、「心の垢」は突き詰めると、「脱昭和」「脱原発」に至る。

◆昭和のシステム「政官財」のトライアングルで高度成長を遂げてきたが、東電と日本政府の対応の悪さにシステムの行き詰まりがある。また、「政官財」の癒着でできたのが、原子力ムラだ。国民ではなく、「心の垢」が表すのは、昭和のシステムそのものなのではないか。原発を止めても、次にさらに危険な処理の問題が待っている。「脱原発」とは、原発を止めるだけでなく、昭和のシステムを脱却する事が必要だ。では、これからの新しいシステムとはどんなものか、と考えさせられたのだ。

◆色々な旅をしている人が地平線会議にはいる。以前、地平線会議がどんな所かと聞かれ、答えたことがあった。「暗闇の海を航海している船がある。その船が灯台の明かりを見て、ほっと安心する。ああ、自分の航海は間違っていなかったのだと思い、また航海をつづける……」。地平線会議は、「灯台の灯りのようなもの」。旅人が自分の旅が間違っていないか、前に出て喋り確認する。あるいは人の話を聞く。間違っていないと確認して、また旅に出る。その場限りでも、自分たちの考えを話しながら、確かめ合っていく。

◆次に、宮本千晴さんが「人災」について話す。宮本さんは、原発だけでなく津波に対しても人災の側面が強い、と感じたそうだ。登山者にとって雪崩で死ぬのは敗北。確率の問題ではあるが、知恵や判断で危険を危険でない形にするもの。津波に対してさえも、同じように捉えるべきなのではないか。かつて日本の漁村は本村と浜小屋が分かれており、「津波の恐ろしさ」が伝承されて来たが、近年、効率を優先した結果として、多くが断ち切られてしまった。城壁のような防潮堤によっても、海と人は切り離されてしまった。また、もっと小さな防潮堤は地震による津波には効力がないのに、住民も制作者もその外観に騙され、結果「みんなで渡れば怖くない」と騙し合いになってしまう。

◆「政官財」の癒着はその構図の最たるもので、各々に権限があっても、誰も全体としての責任を取らない。第二次世界大戦と原発も同じ構造であり、人間社会の、少なくとも日本人の体質の問題で、何度も同じことを繰り返している。どうしたらブレーキをかけられるかが宿題なのだけれど、答えが出ない、という。また、宮本さんは、特に途上国の人に対して、日本人の世間知らずからくる傲慢さを恥ずかしく思う。地平線会議というような場で、直接違う世界で違う人達に、弱い立場で触れ合いお世話になる時、世界を歪ませる事なく、もっとフラットな世界を見る事ができるのではないか。また、インターネットのお陰でいままでと違う形で、見えたり言えたりするようになっている。これから先が最悪にはならない為の仕掛けに、なるかもしれない。

◆と、この時点で、あっという間に、9時15分前になってしまった! 予定変更で、江本さんからの指名制に。まずは、島旅の河田真知子さん。昨秋に浦戸諸島へ行った。その事をどこへ書かせて貰うか考えた時、「ありのまま」を書ける「地平線通信」は貴重な媒体だと感じたという。島関係の媒体には、「島から人が出て無人島になってしまうのでは」「家を流された人と無事だった人とに感情的格差がある」とは書けなかったからだ。海岸線の長い寒風沢島では山と丘を越えて津波が襲い、半分の家は流され半分は完全に残った。残ったのは先に住み付いた、宮本さん言う「本村」の人達の家で、津波が来る前から地域の感情的なものもあったようだ。

◆島では、「自分になにができるのか」と考え、写真をたくさん撮った。それを送ると牡蠣が届き、お礼を送るとまた届く。それくらい島の人達は暖かい。「すべて流され、あなたの撮ってくれた写真が最初の写真だ」という手紙も貰った。行って写真を撮ってお送りする、その繰り返しを大事にしたい。また、「島同士のネットワークで島を応援しよう」という動きを作ることが、これからの課題だと考えている。

◆次に、森田靖郎報告会の全文掲載レポートを担当した、久島弘さん。前回の報告会で印象に残ったのは森田さんの使った「自分史」という言葉だったという。森田さんが淀みなく話せるのは、自分の中の時間のスケールと日本の戦後史が完全に一致しているからで、私達もそう捉えられるようにならなければと感じたそうだ。古代、食べ物やエネルギーなど全て自分の力で得ていたが、いまはなんでも他人任せ。それが当たり前となり事故が起きると人を責める事しかせず、責任放棄になっている。「本来から離れている」という「距離感」を常に感じながら、生きて行く事が必要なのではないか。

◆時間のない中、「5分で頼む!」と、向後元彦さんも。マングローブの植林活動を始めた時、地球がおかしくなっているのではなく、人間がこのままでは絶滅するかもしれない=「人間の問題だ」と思ったという。今回の災害もまったく同じ。地平線会議には地球規模で動いたり、一つのものにオタク的に取り組んでいる人が多いのだから、他の国で起こっている事も他人事と思わず捉えて欲しい。また、災害が同時多発で起こった場合、人類はどうなるか、そこまで考えたらいいのではないか。

◆結局、全員参加とはならなかったが、話された方々は白熱だった。「震災から今日まで、東北から心が離れられない」。それは、「責任を感じている」からではないかと、江本さん。3.11で震災から丸一年。もう、とも、まだ、とも、まだなにも、とも、思います。(加藤千晶


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