2012年6月の地平線報告会レポート


●地平線通信398より
先月の報告会から

勲章とケータイ

江本嘉伸

2012年6月22日 新宿区スポーツセンター

■1979年に始まり、33年もの月日のなかを毎月休むことなく歩み続けてきた地平線会議は、もうすぐ400回地点に到達する。その場所から見渡せる世界には、どんな時代のうねりが見えてくるのだろう。代表世話人として地平線会議を支えてきた江本嘉伸さん、一方でモンゴルウォッチャーとして激動のモンゴルを見続けて今年で25年になる。5年ぶりの壇上で、いま、3.11を体験してしまったこの時代に何を語るのか。単なるモンゴルの話ではないらしい……。

◆初めてモンゴルを訪れたのは1987年。その2年前、当時新聞記者だった江本さんは、チベットでの黄河の源流を探す探検取材のなかで、源流地域の有名な湿原地帯、「星宿海(シンスウハイ)」が「オダンタラ(星の草原)」とモンゴル語名で呼ばれる場所に出会い、「よし、次は念願のモンゴルを」と火がついたという。しかし当時は社会主義時代。モスクワの管理下に置かれていた入国への壁は厚かった。後にジャーナリストとしては異例の突破を果たした江本さん。振り返ってその時代背景には、3つのポイントがあったと話す。一つは、1985年の「プラザ合意(日本がアメリカの赤字解消を背負わされた対米妥協策と一般に解釈されている)」でドル安円高となり、海外への経済的な門が開けたこと。もう一つは、1986.4.26のチェルノブイリ原発事故。公表されずに起きた大惨事であり、「ジャーナリストとして動かなかったことをしまったと思う」と振り返る。そして、1986年に始まったペレストロイカ。ゴルバチョフ書記長のグラスノスチ(情報公開)政策によって、結果的にソ連崩壊につながったことを挙げた。その情報公開のきっかけともなったインターネット。その普及のスピードと影響力は凄まじく、中国やアラブのような、抑えつけられていたところではあっという間に広がりをみせている。日本ではいままさに、紫陽花革命と称される空前の反原発デモが起こっている真っ只中だ。

◆若かりし江本さんが初めて出逢ったモンゴルに、感動と情熱を持って突っ込んでいった様子を表している当時の新聞記事がある。遊牧草原の暮らしの一部始終を追った2ページ見開きの斬新な写真特集(8回連載)だ。「面積で勝負!!!」と仰る通り、これでもかという程に大きな写真が紙面を飾り、当時誰も知らなかった草原世界の文化を伝えている。記者として、こんな特集が組めたらさぞ胸が躍るだろうなと感嘆していると、江本さんは「いま思えばノー天気。もう少しつっこんだ記述が必要だった」とキッパリ。当初、「草原の国」として素朴に歌い上げていた江本さんには、その後のモンゴルの変容ぶりは複雑な感慨を抱かせるようだ。

◆「5年前のモンゴル報告の際、最後に見せた写真を、今日は冒頭に見てもらいます」そう言って披露したのは、ウランバートルの公園にあらわれた大鹿の写真。毎日ランニングしながら、この鹿の群れによく出会ったという。次に澄み切った空の下、広場にそびえる“革命の英雄、スフバータル”の像。25年経った今年、壮麗なビルに囲まれるかたちでその像がなんと小さいことか。立派なガラス張りの高層ビル群とは対象的に、貧困層のゲル地帯もまた広がり続けており、郊外のゴミ処理場にまで人が住んでいる現状が語られる。

◆「繁栄の陰の真実。こういう場所にも踏み込むことをいつも考えている」。そのコントラストが、時代の急激な流れの変化を伝えている。2008年にはとうとうWHOによる大気汚染の数値が世界最悪の都市になってしまったウランバートル。草原の青い空のイメージは薄れつつある。「すごいうねりとともに我々は時代を生きていて、情報を重ねてはじめて見えてくるものがある。それを突き詰めることが、世界と自分を理解することにつながる」と続く。

◆今回の目玉はなんと言っても、念願の「キーノート(パワーポイントのようなもの)」を駆使して、自ら編集した写真達であろう。タイトルのディテールが凝っていて、(多分丸山純さんのご助力で)写真を送る度にくるくる廻る演出も施されており、江本さんが自分でPCを触りながらうっとりしているのが何とも可笑しい。

◆今年の6月、江本さんは震災以降見合わせていたモンゴル行きを決行した。この旅の大きな目的は、25年前に初めて遊牧生活を取材したツェンドさん一家と再会することだった。8日間の滞在期間で果たして会えるかどうか。草原で、たまたま車に乗せてあげた女性に「ツェンドさんという羊遊牧民を知ってますか?」と聞くと、彼女は即座にケータイから電話をし、翌日に会うアポを難なく取りつけた。まったく有り得ない展開に、江本さんは拍子抜けしてしまった。「実は多分会えないのでは、とひそかに覚悟していた。草原で人をさがすのは以前は難しかったからね」

◆こうして四半世紀ぶりの再会は、ツェンドさんの抱擁と頬擦りによる熱烈な歓迎で幕を開けたのだった。昔と変わらないゲルには、ソーラーバッテリーとアンテナと固定電話が備わっている。現在74歳のツェンドさんは当時は49歳。国家の羊640頭と個人の羊120頭を飼っていた。社会主義時代では毎冬どれだけの子羊を生ませるかが重要であり、ツェンドさんは国から「国家英雄牧民」として表彰されるほど大変優良勤勉な遊牧民だった(1990年の民主化以降、家畜はすべて個人所有へ、と制度はガラッと変わることとなる)。

◆奥さんのツェデンさんも健在で江本さんのことをよく覚えていてくれた。子供は10人、孫は32人、ひ孫が10人。娘さんの姿が当時のツェデンさんの面影と重なる。7月11日の「ナーダム」を前に、25年前には無邪気な可愛い仕草が印象的だった末っ子は、いま馬の名調教師として騎手となる息子と馬の訓練を夕暮れまで続けていた。そう。当時から「ちょうど一世代分」の時が流れているのだった。

◆記念写真を撮ろうと申し出ると、ツェンドさん夫妻はデール(礼服)に着替えてくるのだが、そのデールの胸には社会主義時代からの勲章バッジがビッシリと並んでいる。民主化となって今では実質的な効力は失っていようとも、ツェンドさん世代にとっては身に染み込んでいる遊牧民の誇りそのものなのかもしれない。大半の羊を子供達に譲り、質素な暮らしをしながら草原でゆっくり年を重ねてゆく夫婦の姿を、江本さんは大切そうに写真に収めているようだった。

◆民主化という時代のうねりが草原に押し寄せている風景が江本さんが長年撮り続けてきた写真で伝えられる。馬、ラクダの大型家畜のみを専門に扱う屈強な男達や、屠場を求めて1000kmを何か月もかけて羊の群れを運ぶような遊牧民の姿は、個人所有制となった今ではあまり見かけなくなった。冬に凍りついた湖をソ連国境から巨大な荷を曵きながら進む馬ゾリ隊の光景は、まるで幻を見ているかのようだ。草刈りや狩りの道具は一変し、井戸の数も随分減ってきた。一方で、アンテナはいまや何処にでもあり、外国人観光客向けのツーリストキャンプが増えてきている(たとえば一泊$42)。

◆当時の狩りの獲物は、「熊60、狼1109、タルバガン32014、カモシカ6766……」と国に奉納するために記録されていて、社会主義は統計の政治であったことが見て取れる。永い間、社会主義という安定的な管理下のもとに、厳しい自然のなかでの暮らしを維持してきた遊牧民は、これからの時代をどのように生き抜いてゆくのだろう。これはモンゴルに限らず人類共通のテーマなのかもしれない。

◆休憩時間にはなんとも嬉しい差し入れが。ご存知、泣く子も黙る、原健次さんの奥様典子夫人のお手製スイーツ。しかも大きな包みが沢山あって、シフォンやチョコブラウニーやナッツのタルトなどなど、原スイーツファンなら絶叫ものの品揃え。大ファンかつ腹ペコだった僕が全種類制覇をしたところ、個人的ダントツベスト1はチーズケーキでありました。原さん、ご馳走さまでした!☆

◆モンゴルが社会主義から民主化へと大きな転換を遂げるのは1990年3月のこと。民主連盟の大集会で、江本さんは歴史が動くその瞬間を目撃する。スターリン像の破壊の現場に立ち会った際には、あれだけ崇めていた人達が、像の頭を踏みつける姿に「気分はわかるけど、モンゴル人の浅さを感じたね」と話す。当時はロシア語すらも嫌われ始めていたと聞く。

◆最近のモンゴル行で、江本さんは現代モンゴルを象徴する「砂金掘り」の現場にも足を運んでいる。砂金掘りの道具を背負う姿がアメリカの漫画「忍者タートルズ」のキャラクター(二足歩行の亀)に似ていることから「ニンジャ」と呼ばれ、不法労働とされていながらもモンゴルの労働人口の6%という統計もある。情報を追っては、山のなかを人力で掘り(かなり深い)、機械で精製したものを中国人が買い占めるシステム。劣悪な条件にも関わらず、今もなお減らないのは、一般の月平均の収入が日本円で3万円にもならないのに対して、25〜30万円という一攫千金の商売だからだ。

◆現場で会った男性は「子供3人を留学させたい。あと10年は続けてお金を貯める」と話す。最近では、不法とされているニンジャをむしろ保護すべきとの声もあがっているという。市場経済20年といっても暫くはこのような混乱が続くのだろう。モンゴルでは政党が変わるといろんなことが急展開する為、選挙が近づくこの時期は、相応に緊迫するのだそうだ。民主化直後には、国家の羊をどう分けるかで大混乱が起こったモンゴル。

◆近年は資源国家として経済成長著しく、他の諸外国の参入がせめぎ合うなかで、これまで支援国家トップドナーとしての地位を築いてきた日本のポジションは、少しずつ後退してきている。視点を広げて日本の歩みに焦点を当ててみても、島国であるが故に、戦後の経済発展から比較的のんびりやってこられた時代を経て、その陰りが見え始めた矢先のこの度の3.11は、シンボリックなことと痛感しているという。「どの時代にそこを見たのか。そして、繰り返し見ることの大切さ。いま見ているものも、変わるかもしれないと思っておくべき」と江本さんは強調する。

◆モンゴル人と3.11の話もした。海を持たない彼らに津波のイメージはなかなか伝わらないが、72もあるチャンネルで映像は繰り返し見ており、そのすさまじさはよく知っていた。モンゴルから帰国してすぐ、江本さんは南三陸、気仙沼に向かった。スライドに映し出される江本さんが昨年目の当たりにした被災地の多くの風景は、もうすでに変わり始めている。「忘れてしまっていいのか」未だ残されている南三陸町の防災対策庁舎や気仙沼の大型漁船を、シンボルとして残そうとする試みは重要だと指摘する。

◆戦前生まれで戦後新制教育の一期生。ロシア語を学び記者となり、最初の仕事は東京オリンピックのレスリング担当だった。会社を巻き込みつつも、山や極地への自身の探求心を思い切り追求し、地平線会議でも今でも手を抜かずに本気でやっている江本さん。通うにつれ、モンゴルはいつしか自分に還る場所となり、変わりゆく時代と共に「人はどうやって生きるか」を見続ける場所となった。「振り返ってみて、3.11もあって、つくづく人々はみな同じ時代を生きているのではないな、と感じる」。限られた人生のなかで、自分の知的好奇心をどう保てるか。それは日本にも言えるし、地平線会議にも言える。日本はいままさに大きな渦のなかにある。震災以降、最優先にしてきた関連の報告会や、通信での仲間のレポート。この7月、南相馬で報告会を企画したことも、現場を知ることへの想いからの行動なのだと理解できる。いま起こっていることは何なのか。それを本当に実感として理解出来るのはずっと先なのかもしれない。その為にも、「いま」をどう動き、どう捉えるか。いかなる時代であろうとも、肝に銘じて生きてゆきたいと思った。(車谷建太


モンゴルと江本さん
 ━━社会主義時代を回顧しながら
  花田麿公

■江本さんのモンゴル報告会への出席は大変楽しみにしていました。会場への通りすがりに母校(戸山高)の様子をかいま見る楽しみもありました。それなのに前日から体調不全(かなりのスピードで景色が回り酔う現象)の予兆があったとはいえ、当日朝まで引っ張ってドタキャンしてしまいました。恥ずかしい話です。当日ご出席の皆様には紙上をお借りしてお詫び申しあげたいと思います。そこでもし出席できていればコメントしたかも知れないようなことをを含め未練がましく書くことをお許しください。

◆モンゴル社会主義時代も終りに近づいた1985年から二度目のモンゴル勤務をしていました。当時、中国とソ連(ロシア)が対立し、ソ連派のモンゴルには対中戦に備え20万人を超えるソ連軍隊が駐留していました。そのため軍隊への食肉提供のため、牧畜の国モンゴルでは食肉が大幅に不足し、都市部ではかなり難儀していました。あまり好きでないラクダの肉の売り出しに行列ができる始末でした。

◆外国人用に外交団ショップ、専門家ショップというものがあり、ごくごく少数の食品と日用品が売られていました。われわれは業務出張のついでに全ての生活物資と野菜、食肉を北京に買い出しに行っていました。当時北京の人は北京の生活はひどいと嘆いていましたが、その北京に依存せざるを得なかったのです。社会主義とは行き詰まった体制である、とは日々の生活を通じて実感していました。

◆当時ウランバートルは外務省ランクで世界の厳しい勤務地5段階のうちウランバートルのため特別に設けた枠外の6級でした(外務省はほとんど全世界に出先があって交戦地を含め危険地が必ずあり誰かいます)。それでもモンゴル専門家として現地勤務は何ものにもかえがたい嬉しい経験でした。

◆ウランバートル勤務でただつらいのは子どもの教育と医療でした。で次男は小学校は3年2学期から6年11月まで、中学は3年の2学期からしか就学していません。あとは現地で私自身が昼休みとか、夜中12時から2時間とか教えていました。2年学年を下げなければ'就学させないというので実質上学校へ入れなかったし、はじめは近所の子どもに近づくと、資本主義の悪影響があるからあそぶなと周囲の大人がモンゴル人の子どもに大声で注意していました(地平線にも未就学の子どもさんをかかえて旅をなさっているご家族がいて、おお、同志がいたと思いました)。

◆それとともに特に病気が心配でした。次男は肺炎にかかりましたが医者にかからず(盲腸で死亡、肝炎と腎炎の誤診で死亡とかあり、幹部や高級官僚は国外へ治療に出ていました)、されとて北京(医務官が駐在)に行くにも、当時空路はなく、汽車は週3本で、車中1泊か2泊必要でした。私自身が館備え付けの医学書に従い子どもの治療をしました(個人的に整理タンス4段分の医薬品を持参していました)。私の処方につき北京の医務官の助言を電報で求めました。多分そのときの薬品の副作用でそれ以後次男の心臓は2ビートとなり、かなり悩みました。就職にも影響ありました(幸い今は完治)。

◆さて、このような環境のモンゴルに1987年のある日、「日本人の記者がウランバートルにいる」という報告がきました。当時ウランバートルには12名の大使館員およびその家族以外には4名の留学生と日本語教師1名しかいないかったので、まさに日本人、それも記者に会うのは絶滅危惧種に遭うようなものでした。公務員特有の若干の警戒心があったのも事実ですが、父が記者であったので記者アレルギーはありませんでした。

◆昼休みに館員2名と江本さんをホテルにたずね、訪問目的をうかがい、便宜を提供する用意ありと申し出ました。それ以後何回かウランバートルに見えるうちに親交を重ね、ウランバートルのボロアパートにも何度も来ていただき、なぜか気分が合い、公務員が一番警戒している記者の方に館員にも言えない個人的考えを吐露したりしました。江本さんはそれを記事にするようなことは一度もなく、バックグラウンド情報として処理されていたようです。つまり、友に話しているという感じです。

◆以後、四半世紀25年この感覚は崩れることがありませんでした。江本嘉伸という人はそういう人と感じています。次男を教える関係からモンゴル赴任前にあらゆる教材を借金して整えました。化学実験器具、地質調査器具、図工の椅子製作セット、彫刻セット、音源つきキーボードなどちょっとおおげさめに楽しそうに(友人もなく一人で父親先生に学ぶのですから)150万円余をかけて持参しました。これらは当時流行った「ぴかぴかの一年生」からとった住宅の1室に設けた「ぴかぴか小学校」に納められました。

◆名称は頭の関係もありまったく気に入りませんが、子どもの命名にしたがいました。江本さんは子どもに交渉して実験用のマイナス50度を測れる棒状温度計を借り、なんと冬季、それを首にぶらさげ早朝わが家に走ってこられ、マイナス35度だったとこともなげに告げておりました。

◆慣れると35度は平気ですが、走ることはできません。それには別の理由もあります。ウランバートルは標高1310メートルで丁度八ヶ岳の大泉郷の高さにあります。ですから、普通走ると息切れがします。江本さんは息もきらさずにこられて朝食をともにして下さいました。楽しい思い出です。途中鹿の親子と仲良くなったそうです。われわれもよく見る南のザイサン・トルゴイあたりから街に出張ってきていたあの家族のことでした。

◆話は昔に飛びますが、1971年9月まだ外交関係が開かれておらず、このとき訪問した親善ミッション(前年ゴンボジャブ副首相を外務省賓客で大阪万博へお招きした返礼の招待)の一員として香港から参加しました。訪問中の9月12日夜ウランバートルを特別列車で出発し、約200キロ北のダルハン市へ向かいました。中嶋代議士以下日本代表団9名はツェレンツォードル外務省アジア局長以下モンゴル側と交歓しつつ走りました。朝5時ごろダルハンに到着、2両の特別車輌のみ側線に入れられ停車し引き続き睡眠をとりました。ツェ局長はその日の行事に参加しませんでした。

◆夕方、学校訪問をしているときいつのまにか教室の後ろにツェ局長が立っているのを発見しました。同30日のタス通信は中国の林彪副総理兼国防相がその晩モンゴル領ヘンティ県で墜落したと報じました。後刻聞いた話では、あの晩中国からの越境機がモンゴルヘンティ県で山に墜落したので、責任者であるツェ局長がダルハンからヘリでヘンティ県の現場を往復したそうです。

◆若い娘の上半身があり、あとは年齢性別不明、林彪機というが年寄りは乗っていないとのことでした。「モンゴル、中国双方の関係者に聞いたところでは、中国側から中国大使館の筆者の友人が現場に行きましたが、モンゴル側は死亡者の住所氏名を確認し正当な引き取り者と確認できなければ機体の引き取りを含め引渡しできないと答えたそうです。

◆当時上記のような環境のモンゴルでしたが、江本さんはヘンティの現地にその残骸を取材に行かれました。記者魂ここにきわまれりです。報告会で江本さんがスライドで示されたそうですがまさにその機体です。その後チンギス・ハーン空港南のチンギス村にその一部が展示してあるのを私は見ました。

◆1986年はじめ頃よりロシアではゴルバチョフがじょじょに準備して、87年1月から政治的にグラスノスチ、ペレストロイカを敢行しました。モンゴルにおいても、1984年に約30年続いたツェデンバル政権が倒れ、バトムンフ氏が後をつぎ、ソドノム首相(日本を初めて訪問した首相で現モンゴル日本関係促進協会長)とともに人事や機構のゆるやかな改革を進めつつありました。

◆86年には若干の経済改革を打ち出し、ロシアの動きを受けて、87年はじめより新たに任命された若い党行政のテクノクラートが指導的役割を果たして、ソ連のグラスノスチ、ペレストロイカ情報を党機関誌「ウネン」紙を中心に流しはじめました。彼らは国内の「変革・刷新」運動を主導し、ウネン紙は単に党政府の発表機関紙であったのに、白熱する意見交換が行われる新聞になりました。やがて89年12月若者主導の市民運動が始まり90年政府が倒れ1党独裁から民主政治に移行しました。他方政府はすでに日本にたより市場経済への移行を始めていました。そして、ソ連の庇護を離れ自国の主権を背負い独り立ちしました(残念ながら日本は大戦後、真の主権を行使できないでいるように見えます)。

◆江本さんのモンゴルはちょうどその時期にはじまり、最近の訪問までの間、社会主義を脱皮し、市場経済に移行して資源大国にいたるモンゴルの真実を折々に観察され、そしてモンゴルをエンジョイする道を歩まれておられます。この「エンジョイする」ということは誰にでもできることではなく、その国を知る上でとても大事なアプローチであると思っています。そのようなアプローチができる同志はなかなか見つからず、よくあるのは、お金のための姿勢や、ほめられたいための姿勢ばかりでとてもつらかったのですが、そうではない江本さんに遭いうれしく思っています。

◆世界に何体かあったスターリン像の一つがウランバートル市のアカデミー中央図書館前に立っていました。この像が倒された晩、現場で社会主義旧体制の末路を見送った江本さんは、若者の広場座り込みの現場で民主モンゴルの始まりに立ち会われました。はやりの言葉を借りれば、モンゴルに関して何かもっているとしか言いようがありません。

◆江本さんはモンゴル遊牧草原の取材の成果を何度も大きな紙面で紹介しました。日本にモンゴルフアンを広げたことは間違いないと思っています。その後江本さんは読売新聞でチンギス・ハーンの陵墓探索を目的とする「ゴルバン・ゴル計画」を展開。このゴルバン・ゴル計画はモンゴルにとってかけがえのない文化財埋蔵地点を200か所以上明らかにしました。残念ながらチンギス・ハーンの墓陵は発見されませんでしたが、モンゴル考古学に大きな貢献をされたと考えています。今白石典之先生(新潟大)がカラコルムにチンギス・ハーンの一大都市を発見、宮殿、武器工場街、住宅街を発掘されています。

◆モンゴルでは1万か所ほどの埋蔵箇所が発見されていますが、2007年の時点で、桜前線よろしく南から中国勢の盗掘前線が北上しつつあり、ウランバートル近くまできていると聞きました。残念です。パトロール警備増強とか論議されておりましたが、これは中国の人が考える問題だと思います。

◆今度のモンゴル訪問で江本さんは当時の方々と久闊を叙したそうですが、らしい行動と嬉しくなりました。願わくは生来の健康かつしなやかな体を大事にしてモンゴルとの関係を続けて欲しいものと思います。


花田さんの大野村! そして、相馬野馬追の復活 人影のない旧小高町……

■「地平線通信6月号」の花田磨公さんの記事を興味深く読ませてもらいました。それにしても何という偶然。お父さんの故郷が相馬の大野村で、花田さんご自身の疎開先がいわきの大野村。さらにその間に双葉にも大野村があったとのことで、さっそく地図を見たら、爆発事故を起こした東電福島第1原発に一番近い駅が常磐線の大野駅ではないですか。

◆浜通りに3つの大野村があったのは知りませんでした。江本さんと車で浜通りをまわったとき、花田さんのことを聞きました。疎開した小学校がいわきの「大野小学校」とそのとき聞いた記憶があったので、つい先日、いわきをまわったときに探しました。そして発見。四ツ倉から県道41号を西に行くと「大野第1小学校」、「大野中学校」、「大野第2小学校」が県道沿いにありました。

◆花田さんは相馬の思い出が「相馬野馬追」とからめてずいぶんと鮮明のようですが、我々の7月の報告会はまさに相馬の地でおこなわれます。28日(土)、29日(日)の両日ですが、奇しくもそれは「相馬野馬追」の日。毎年28日から3日間に渡って勇壮な野馬追の祭りがおこなわれるのです。

◆4月16日に東電福島第1原発20キロ圏の規制線が変更になり、その北側は南相馬市と浪江町の境になりました。相馬のみなさんにとっては、どれだけうれしかったことか。というのは相馬の人たちの心の原点といってもいい「相馬野馬追」は、相馬市の中村神社と南相馬市の太田神社、それと小高神社の3社の祭りだからです。昨年もあの未曾有の大災害のあと、相馬野馬追は開催されました。しかし、旧小高町の小高神社は立入禁止地域で昨年の相馬野馬追は規模を縮小し、片肺で開催されたのでした。

◆つい先日、通行が可能になった国道6号で旧小高町に入りました。小高神社は健在でした。しかし小高の町には人影はほとんどありません。大津波にやられた訳でもなく、大地震でつぶされた家が何軒かはありましたが、町民全員が避難したので無人の町並みが3・11当時のまま、そっくりそのまま残っているのです。

◆東電の福島第1原発の爆発事故さえなかったら…と、これまた無人の常磐線小高駅前にバイクを停めて思いました。そして腹の底から叫んでやりましたよ。「東電のバカヤロー!」(賀曽利隆


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