2013年8月の地平線報告会レポート


●地平線通信413より
先月の報告会から

帰って来たカウボーイ

━32年ぶりのモンタナ━

長野亮之介

2013年8月23日  新宿区スポーツセンター

■「ゴヨートオイソギデナイ方、いらして下さいねー。あー書きにくいこと」。前号の地平線通信に載っていた報告会のお知らせは、こう結ばれていた。なぜって報告者本人が書(描)いていたから。そう、今月は、地平線会議のイラストを一手に引き受ける「画伯」こと長野亮之介さんが報告者なのだ!

◆ある時は山できこり、またある時は浜比嘉島でハーリー。那覇マラソンを毎年走り、和太鼓も叩く。さあ、その正体は? って、もちろん長野さんなのだけど、活動が多岐にわたり過ぎていて混乱しちゃう……。最初に報告者となったのは、学生の時にやったユーコン川のイカダ下り。その旅の続きで辿り着いたモンタナと32年ぶりの再訪が、今回の内容だという。若かりし頃と現在の長野さんがいっぺんに語られるとなれば、長野さんが長野さんである所以が判るかも。楽しみにしていたのはもちろん私だけでなく、会場にはたくさんの人が集まった。

◆ほぼ定刻、まずは司会の丸山純さんが、長野さんの最近の絵を紹介する。名コンビのお二人が関わった仕事、しのざき文化プラザ(江戸川区)の企画展示、「江戸川農力図鑑」のものだ。花農家や小松菜農家に取材してその仕事風景を描いた絵が白い壁に映し出されると、わっと、場が華やいだ。長野さんは、「いつも裏方だから、久しぶりに前でしゃべると緊張する」と、照れくさそう。毎月のお知らせを描く時、報告者となる人に「記録ではなくあなたがどんな人間なのかを知りたいんだ」と話してきた。だから自分も、まずは「どんな人間か」から始めなければ。そう言って、生い立ちから話し始めた。

◆畑の中でランニングシャツに半ズボンの少年の写真が。長野さんは、東京タワーが完成した昭和33年生まれ。まだまだ田舎な東京都保谷町(現西東京市)で、洟を垂らして遊びながら育ったという。中学2年の時、畑正憲(ムツゴロウ)さんのエッセイを読んで獣医に憧れ、国立大学でただひとつ獣医学部のあった北海道大学へ。けれど野に山に呑み会に、遊んでばかりで勉強をせず、一般教養から希望していた獣医学部へ進めなかった。同期生に「農学部の林学科なら山歩きが仕事だからいいんじゃない?」と誘われたので、「じゃあ、いいか」と林学を学ぶことに。「不思議と挫折感はなかったんですよね」と、首をかしげる。「思いつきで生きている人間なので」、そんな言葉も口を付いた。ユーコン川を下ったのも探検部の友達との呑みの席で、ふと「アラスカに行きたいね」という話になったから。当時、氷河が崩落する場面が出てくるCMがあり、長野さんの頭の中では、氷河=アラスカと連想されたのだ。

◆当時は円安で1ドル240円。バイトでお金を貯めながら情報を集めた(地平線会議へコンタクトも)。リサーチの結果、全長3300メートルの大河ユーコン川を下ることに決め、ユーコン最初の一滴からベーリング海まで、カヌーとイカダで下る構想が固まった(あれ、氷河はどこに?)。4人で、はるばる日本から2艘のカヌーを持って行くが、旅が始まる前に、キャンプ場で1艘が盗まれてしまう。残ったカヌーをボッカして、一週間がかりでチルクート峠を越えユーコン川最上流に臨んだものの、予想以上の急流だ。じゃんけんで勝った2人がカヌーで下ることにし、負けた長野さん達が歩いて下流へ移動すると、荷物がぷかぷか流れてきた。スタート直後に沈してしまったカヌーは、ぼろぼろに。結局、ホワイトホースで新聞広告を出して買いなおすことになった。

◆ホワイトホースで停滞している間に1人が離脱後、3人でカヌーに乗って急流を越え、600キロ進んだドーソンの街でいよいよイカダに乗りたいが、作り方が判らず弱っていると、ある日、支流からドイツ人の学生達が自作のイカダに乗ってやってきた。「沈みそうだからもういらない」と言うので、「くれ!」「沈むぞ?」「いいからくれ!」ともらい、底に流木を縛り付け補強。だましだましのイカダ旅を3か月続け、ベーリング海まで10キロの、最後に飛行場がある村をゴールにした。

◆もっと詳しく聞きたくなって、危ない危ない。今回の本題は「モンタナ」なのだった。解散後も一人で旅を続けることにした長野さんは、一日数台しか車の通らないアラスカ・ハイウェイに沿ってヒッチハイクをしながら、アメリカ本土を目指していたところ、10数台目にモンタナ在住のハーブ・ドールさんという、アラスカと本土を行き来する行商人に拾われた。「行く当てがないなら家に来るか?」。モンタナがどんなところか知らなかったが、林学科に決めた時みたいに「じゃあ、行ってみようかな」。連れて行ってもらうことにした。

◆カナダと国境を接したモンタナ州は日本より少し大きい面積があり、人口は100万人(1ヘクタールに2.5人しかいない)。州になったのは41番目と遅く、19世紀の終わりまでインディアン国家が点在する、(アメリカ人から見ると)西部開拓の最前線だった。しばらく居候していると、またまた「牧場に友達がいるけど行くか?」「じゃあ、行ってみようかな」。ハーブ・ドールさんに連れられ、長野さんの「心の故郷」となるコックス家に巡り逢ったのだった。

◆彼らは、門から家まで2キロあるような広大な土地に住み、馬で牛を追う「開拓時代」のような生活をしている。「それがショックで、面白くて……」。一旦は移動してメキシコなどへ。西海岸で仕事を探したが見つからず、お金もなくなり旅の終わりが見えてきた頃、「最後にまた行ってみたいな」と、再びコックス家に。無一文で行った長野さんだが大歓迎され、シアトルまでの交通費を稼げるよう、主人のロバートの計らいで、1日10ドルで働かせてもらうことになった。

◆馬に乗って、草地から草地へ牛を追う。築100年の建物の屋根を日がな一日剥がし、トタンに張り替える。ビーバーを撃ちに行く。奥さんのオードリーが「チキン料理を作ってあげる」と、斧で鶏の首をバンバン切ると、頭なしで鳥がそこらを走り回る。話をしている長野さんの顔が、見るからに、にこにこしている! ユーコン川を下ったことよりも、コックス家の人達と寝食を共にしてその生活を目の当たりにしたことの方が、印象に残った。経験ないことばかりで、いっぱいいっぱいの3週間だったという。

◆帰国してからは、大学を復学して卒業。淳子さんと26歳で結婚。その後、イラストレーターの看板を掲げて今までやってきた。旅した国は多く、インド、中国、チベット、ヨーロッパ、モンゴルなどなど……。モンゴルといえば、イラストだけでは食えない状態の中、江本さん率いる「日本モンゴル合同ゴルバンゴル学術調査」隊にコックとして参加(お給料も出たらしい)させてもらったのは有難かった、と長野さん。モンゴルとモンタナは、乾燥した気候で雨が降らない。二つの国の風景はよく似ていると思ったそうだ。

◆さて、今年32年ぶりのモンタナ再訪は、何がきっかけとなったのだろう。ロバートの息子のマーディがパソコンを持ち、やりとりが容易になったこと。ロバートが70代になり、「会えるうちに」という思いもあった。長野さんは5月、飛行機(9時間)でシアトルへ、そこから電車(20時間)に乗り、モンタナのチヌークという町へ向かった。駅での感動の再会では、みんなに「全然変わんないね」と言われたという。

◆当時17歳だったマーディは、独立して一人で牧場をやっている、49歳の太っちょのおじさんになっていた。今回の一か月の滞在前半は、彼の家に居候生活。俯瞰写真が映されたが、半径100メートル以上あるスプリンクラーが回った跡があるなど、距離の感覚がおかしくなってしまう広さだった。ロバートやマーディは、仔牛を出産させ、平均8ヶ月齢までを育てて出荷する「生産酪農家」で、ロバートは800頭、マーディは400頭の牛(仔牛も入れて)を飼っている。彼らはまた、牛を飼うための飼料(アルファルファやコーンなど)を作る農民でもある。

◆四駆のバギー2台と馬1頭で牛を追っている動画が映される。32年前と一番の違いは、調教に時間のかかる馬のかわりに、手軽なバギーが活躍していたこと。ただ、コックス家の人達(特に娘達)はみな馬が大好きで、牛追いでも馬を使い、バレル(ドラム缶)レースという馬のレースに毎週出ている人が多いという。また馬だけでなく、犬も牧場の仕事に欠かせない大切な相棒だ。人間の声一つで止まったり動いたり、牛を追いたてている。

◆商品である子牛を、管理をするため焼印を押す様子を撮った動画もあった。一頭一頭、キャフ・テーブル(身動きを封じる箱)に入れ、コテを押し付ける。子どもたちもせっせと手伝う。昔ながらのやり方の家では、「も〜も〜」と暴れる子牛をがっちり押さえつけて焼印を押し、去勢のため雄の睾丸を小さなハンドナイフで切り取る。それを彼らは「マウンテンオイスター」とジョークで呼び、中には焼いて食べる人もいるそうだ。

◆マーディの娘のブリトニーは10歳。夏休み中だったが学校を見せてもらうと、生徒数7人に比べて椅子が多い。公民館的な役割も持ち、教会としても使われているからだ。ほかに、長野さんが毎週日曜日に一緒に連れて行かれたという町の教会の写真も。チヌークは人口1200人の小さな町で、週一度の礼拝がコミュニケーションの場ともなり、教会のおかげで地域の共同体が保たれていると感じたという。

◆32年前にたくさんお世話になった、ロバートのことも少し。彼が丘の上に立っている写真があって、そこから見渡す限り全てが、牧場なのだそうだ。面積当たり養える牛の量は少なく裕福なわけではないというが、こういったスケールで生きるというのはどんな感覚なのだろう。彼は、17歳から長女を授かる21歳まで、全米各地を転々として賞金稼ぎするロデオライダーだった。現在の写真と当時(50数年前)の白黒写真が投影されると、一人の人間の歴史というものを感じさせられる。その中に32年前の出会いも刻まれているし、新たに今回の再会も加えられるのだろう。

◆長野さんは着いてすぐ、マーディに言われたそうだ。「まだ日本語で1〜10まで数えられるよ。おまえが昔、教えてくれただろ」と。今回、昔の話が詳しくできたのは、記憶力の悪い長野さんに代わって、コックス家のみんなが当時のことを話してくれたからなのだという。32年前はコックス家の住む地域にはテレビの電波が通らなかったが、今は見ることができる。けれど、彼らのヒーローはいまだ、ジョン・ウェイン。マーディはテレビを持たず、ビデオで昔の西部劇映画を繰り返し観ているそうだ。「テレビもインターネットもあり、情報が入る中でも、生活を変えないでいられるのはなぜだろう?」、会場みんなの疑問をくみ取り、江本さんが尋ねた。アメリカは歴史の浅い国で、4代遡ればルーツが判る。コックス家(ほかのモンタナの人達にも)には、曾曾爺さんがどうやってモンタナに来て開拓、定住したか、という一家の歴史をまとめた本がある。だから、誇りがある。「遅れている」と考えるよりも「ここまで来た」という「フロンティア」の感覚なのではないか、と長野さん。

◆今回の再訪で長野さんは、20代のモンタナの旅に、以後の旅も、来し方も、影響されていたのだと再確認したそうだ。また、いままで地平線会議であまり取り上げられることのなかったアメリカだが、地域ごとに全然違う文化や歴史感を持っていると感じたという。「アメリカは広い。また行ってみたい」と言う長野さんは、とても楽しそうだった。行き当たりばったりだけど、いつも長野さんは長野さんで、どこか揺るぎない。モンタナだけでなく、これまで同じように色んな場所に友達を作ってきたんだろうな。あっちにこっちに、忙しいんだろうな。長野さんの多面的魅力に、しみじみ合点がいった気がした報告会だった。「言いそびれたことは?」二次会で伺ったら、「(ふらふらしている)自分みたいになっちゃいけない」と、謙遜されていたけど。なりたくたって、誰もなれないと思う……。(加藤千晶


報告者のひとこと
<報告会を終えて>

エモ・プレッシャーに感謝

■「帰って来たカウボーイ」報告会を聞きに来て下さったみなさま、ありがとうございました。報告会場の裏方で時には進行役でマイクを握ることもあり、会場の雰囲気には馴れているつもりでした。でも、いざ報告当時者になると、けっこう緊張している自分を発見してびっくり。わずか一ヶ月間の旅からの報告でしたが、話してみると想定以上に時間が足りず、思っていた事の半分くらいしか話せませんでした。

◆前半にはモンタナに至るアラスカの旅をお話ししたのですが、81年に地平線会議で報告して以来、ほとんど思い出す事もなかった旅の記憶がよみがえり、つい話が長くなってしまいました。僕は恐ろしく記憶力が悪いこともあり、過去を振り返るのは苦手なのですが、振り返ってみれば若い時の自分の考えを思い出し、今との違いが面白かったりします。振り返って生まれる思いもあるんですね。

◆今回の旅は出発前から「帰ったら話してもらうよ」と江本さんに釘を刺され、プレッシャーを感じていました。というのも、僕の旅は全く計画性がなく、旧友のCOXファミリーに32年ぶりに再会する事以外には、どこで、何日泊まって、何をするのか、全く白紙だったからです。アメリカの入管でも「そんな古い友人に会ってどうするんだ?」と聞かれました。

◆地平線会議の皆様に興味を持って頂けるようなお話ができたかどうかはわかりませんが、結果的にはエモ・プレッシャーにとても感謝してます。地平線報告会と言う「場」を意識する事で「伝える」という気持ちを持続でき、日々起こる事の記録に努められました。現地では日記の他、一日一枚はなにがしかスケッチを描きました。一家に居候して仕事を手伝いつつ、気になる事はすぐに尋ねてメモし、写真を撮っていると、記録する行為が互いの共同作業になっていきます。

◆牧柵修理の仕事が毎日続いても、繰り返し写真を撮り、質問をする。最初は「こんな事が面白いの?」という目をしていた彼らの方から「じゃあ、これ知ってる?」と新たな話題が。情報の共有、伝達が楽しみの一つになって来るのを感じました。こんなこと、ちゃんと旅をしている人には当たり前なんでしょうけど、その場限りで何も残らない、海辺の足跡のような旅をしてきた僕には新鮮でした。

◆今でもジョン・ウェインをヒーローと仰ぎ、教会を中心とした地域コミュニティに生きるCOX家とその仲間達の牧童人生は、現代アメリカのスタンダードな生活とはずいぶんかけ離れているかもしれません。でも僕にとっては彼らがアメリカ人のコア・イメージです。同様に彼らにとっては僕が日本人の代表像になってるのかもしれませんね。縁は本当に不思議です。今回の旅の最後の夜、世話になった当主のロバートが、「また来いよな。オマエは俺の人生を照らしてくれるんだよなー」と何気なく言いました。密かに感動しました。取材のような面もあったこの旅の余韻か、帰国後に西部開拓の歴史を調べ、ますますモンタナに興味が増しています。(長野亮之介


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