2014年1月の地平線報告会レポート


●地平線通信418より
先月の報告会から

あたりまえの海へ

千葉拓

2013年1月24日  新宿区スポーツセンター

■もしかして地平線会議初?パリッとしたスーツ姿で登場した若い報告者は、宮城県南三陸町の牡蠣養殖漁師、千葉拓さん。ご本人いわく、せっかく東京に出てくる機会だったので前日から牡蠣の営業をしてきたのだという。家業は震災後に再開したが、設備の関係で牡蠣は殻つきのままで出荷することになり、今は新しい販路探しに奔走している。

◆ここで突然、発砲スチロール箱いっぱいの新鮮な牡蠣が登場。とても立派で、殻が大人の手のひらサイズもある。「見るだけ!」という江本さんの声になんだかお預け気分だが、会場にふわっとひろがる磯の香りに三陸の海への想いを膨らませながら、拓さんのお話に耳を傾けた。

◆拓さんの生まれ故郷は、南三陸町歌津の伊里前集落。「イサトマエ」とは、アイヌ語で「鯨の集まるところ」という意味だそう。リアス式海岸の奥まったところにある豊かな漁場だ。江戸時代から続く契約会という相互扶助、結いの伝統が今も色濃く残る。家では少なくとも曾祖父の代から漁業を営んでいた。アワビを採って焚き火で焼いて食べたりと、拓さんは仲間と共にこの海で育つ。

◆親しんではいたが、海を生業にしようとは思ってはいなかった。早朝から一日中牡蠣の殻剥きをしている両親。ナイフで手を刺す怪我を見た事もあった。捨てられた殻からはいやなにおいがしていたし、結婚したら嫁も巻き込む事になる。だから「牡蠣だけはやんねえべな」、と思っていた。

◆高校卒業後は、友人からの勧めで仙台の老人ホームで介護職につく。誰かの人生の最期を共に過ごすのだから、1人1人とゆったり向き合いたかった。仕事が遅いと注意されたこともあったが、利用者に家族のように接したいという思いは貫いた。「あなたに介護してもらった人は幸せだと思う」と、江本さん。拓さん自身もやりがいを感じ、社会福祉士も目指していたという。

◆街での生活も3年が過ぎたとき、急に海に接したくなりサーフィンをはじめた。といっても、波にただようだけ。ボードに掴まっていたり、寝転んだり、座ったり……。そんな様子を見ていた彼女には「トドみたい」と言われたが、これが心地よかった。「海って、身をまかせたらいいんですよ」。そんなある日、波に乗ろうとして失敗して海に引きずりこまれてしまう。とんでもない大きな力に引きずり込まれ、目の中がチカチカした。何とか陸にあがったが、今まで海をなめていた、理解していなかったと気づかされた出来事だった。

◆ちょうど自給自足の生活に関心を持ちはじめ、星野道夫の世界にも惹かれていた頃。自然と接し生き方を考えていきたいという思いが募り、漁師になって生きる場所を海に求めていこうと決めた。そこに行かないといけない、という光を人生で初めて見た。実家に電話して弟子入りを頼むと、両親は「準備しておく」と言ってくれた。

◆「震災前3年間の漁師生活はどうでしたか?」という江本さんの問いに、拓さんは「やめたくはなかったが、苦しかった」と答えた。震災前は、牡蠣を剥き身にして漁協に出荷していた。朝3時半に起き、4時前には共同の作業場で剥き方をはじめる。いい値がつく朝8時の出荷までに30キロほどを用意した。15時頃まで同じ作業を続けたあとは、海で翌日に剥く牡蠣を引き揚げ、滅菌タンクに1晩つけておく。

◆9月末から3月まではこのサイクルで1日が終わる。海も筏も飽和状態で、牡蠣は種付けから2年しないと採れなかった。牡蠣のシーズンが終ると出稼ぎへ。福島沖でのシラス漁は夜に行なわれる。18時から朝の6時まで操業することもあった。機械で網を巻き上げるときに手を巻き込まれて骨折した人もいた。拓さんも指の爪を剥がしてしまう。そんな仕事が2ヶ月間休み無く続いた。

◆暮らしは楽ではなく、仕事も厳しかったが、それでもやめようとしなかったのは海で漁業がしたいという思いが「もっといい牡蠣を作りたい」という気持ちにつながっていたからだ。自分が生きるにはこの仕事しかないと思えていた。震災の前年には高校時代の同級生、良子さんと結婚し、実家を増築して2世帯での生活もスタートした。

◆漁師になって3年後の2011年3月11日。拓さんは朝から牡蠣処理場で父、母、従業員1名と共に牡蠣剥きをしていた。2日前に震度5弱の地震があり1mの津波が来たが、潮が引いているときだったので、いきなり満潮になったくらいの感覚で漁民もあまり危機感を感じていなかった。

◆朝7時前、左耳でキーンと耳鳴りがした。気のせいか、カモメの飛び方もいつもと違うように見える。日頃は悪い事は言わないようにしているが、牡蠣を剥く手を動かしながら、「もし大きい津波が来たらどうするか」と口に出した。親父は船を沖に出す。沖合の水深100mの所まで行けば、流れてきたロープがプロペラに絡まることもないので船は大丈夫だ。お袋と従業員は高台へ逃げる。自分は漁具を倉庫にしまってから、妻子を連れて逃げる……そんなシミュレーションをしていた。

◆操船に長けたベテランが海へ出て、万が一何かあっても若い者が跡を継ぐ。自然とそんなかんじ。その感覚がすごいなあ。昼食の後また牡蠣剥きをし、15時前、そろそろ翌日に剥く分を引き揚げに行くかとしていたときに大地震がきた。「本番だ!揺れが収まったら、さっき話したことをひたすらやっぺ」。

◆一家は冷静に動いた。父は素早く船を出し、拓さんは火事場の馬鹿力で漁具を運んで倉庫にしまう。そうして家に向かう途中、潮がものすごい沖まで引いているのが見えた。家に着きオロオロする妻に「逃げるぞ!」と声をかけると、妻はいったん中に戻り、ミルクとオムツを持ってきた。今考えると、金も持たずに子どもの物を持ってきてえらかったなあと思う。

◆車で逃げる最中、遠隔操作で閉まった水門に何かがぶつかるドスンという音が聞こえた。これが津波の第一波。ものすごい力だった。5mの津波が来る、と知らせる大津波警報が鳴り響く。避難所となっていたのは、海抜15mの伊里前小学校だった。そこから眺める海には変化が見えなかったので、しばらくすると下へ戻る人も出てきた。ここが生死を分けるポイントだったという。戻った人は帰ってこなかった。

◆拓さん自身も、車で子どものオムツを替えている妻に声をかけないまま、消防団の仲間について車を高台にあげるために町に降りた。そこで食堂のおじさんとおばさんが歩いているのが見え、気になったが声はかけなかった。家の様子を見たかったが、女房と子どもが心配してるかなと思い直し、行かずに車に乗りこんだ。そうして再び高台の小学校へあがると、集落はすでにものすごい煙に包まれて何も見えなくなっていた。

◆「来たぞー!」という叫び声。公民館の屋根がくずれていくのが見えた。空気に古い木のようなにおいと水蒸気が混じり、鼻にくる。「ここまで来るぞ!」という声がした。おろおろしている中学生たちに「上へ逃げろ!」と叫び、自らも妻子と共に小学校よりさらに15m高台にある中学校へ逃げた。水は小学校の校舎2mの高さまで来た。波に飲まれ、壁に押しつけられた車のハザードランプが光り、クラクションが鳴り響いている。その光景を見ながら、あのとき歩いていたおじさんとおばさんを止められなかったという、悔しいような、もどかしいような複雑な気持ちで漁師仲間によりかかった。海に向かってフェンスを叩いたのを覚えている。

◆引き波で、湾の上を走っていたバイパスに様々なものが引っかかり、防波堤が壊れていった。潮が水深7mくらいまで引くのと同時に、沖から映画のような津波が山となって押し寄せてきた。この第3波が、全てを飲み込んでいった。快晴だった空から、雪が降り始めた。そこに、先程のおじさんとおばさんが息を切らせて登ってきた。津波に足元をすくわれながらも走って逃げてきたのだという。心から安心した。どこかで冷静に、伝説の一場面にいる、これが語り継がれて大きな話になっていくんだろうな…と考えている自分がいたりもした。

◆幼い子どもがいたので、高台に残った民家に避難させてもらった。雪が舞う中、庭では漁師の先輩が「とにかく火ぃ焚け」と、薪を集めてドラム缶で火を起こしている。なぜ最初に火を焚くのかピンとこなかったが、「もうすぐ暗くなるしなあ」などと思っていた。家の中には多くの人が逃げ込んできており、すでに使える毛布はない。災害用の毛布を求め、寒風の中を歌津中学校へ向かう。学校の中はうす暗く、裏の幼稚園から逃げてきた子ども達が部屋の角でコウテイペンギンのようにぎゅうぎゅうに集まって3人で1つの毛布をかぶっていた。毛布はとてももらえる状況ではなかったが、ペットボトルの水を2本もらえた。

◆民家に戻ると、近所の家の人たちが毛布を持ってきてくれていた。外で火を囲みながら、軽トラのラジオに耳を傾ける。「親父は平気かな…」ふと言葉をこぼすと、先輩が沖を見てみろと言う。沖合に一列に並ぶ光があった。津波から逃れた漁船が、何かあったときにお互い助け合えるよう船団を組んで待機しているのだ。親父はきっとあの中にいる、大丈夫だべな、と自分に言い聞かせた。

◆この時のことを思い出すと、こみあげてくるものがある。“火が、妙に勇気を与えてくれる。”ああ、このためにこの人は火をつけてくれたんだな…。何もしゃべらず、ただ火を囲んでいるだけで、力強い炎が不安を取り除いてくれた。親父が帰ってきたら牡蠣再開すっか。余震が続く夜、前向きなことばかり考えていた。伊里前地区で船を残せたのは拓さんの家だけだった。他の家は潮が引くのに間に合わず、船を沖へ出せなかったのだという。

◆翌日、内陸の登米市にある奥さんの実家へ身を寄せた。電気も水も止まっており、裏の川から水を汲み、浴槽にためて生活用水に使った。今まで水道をひねれば出ていたものが出なくなった、そんな今でも川を見れば水はいらないくらい流れている。「全てを流したけど、まだ使って生きていいと言ってくれている」。ここまで川が大切と思った事は無かった。小学校の校歌にあった「水に無限の情けあり」の歌詞の意味がわかった。「自然災害でこてんぱんにされても、結局、自然が助けてくれるんだ。」

◆ガソリンが手に入るようになると、避難所になっていた中学校へ頻繁に様子を見に行った。父ともそこで再会できた。沸き水をバケツリレーで汲んだ。瓦礫を燃やして火は常にあった。そのうち、竹でコップを作る人がでてきた。名前を掘ったり絵を描いたり。大の大人がかわいらしくそんな事をして気を紛らわしている。自然のもので何かを作る知恵、山菜採りなどの自然のめぐみを受ける知恵、そして遊びの中で昔からその知恵を共有した仲間がいれば、団結してどんな災害も乗り越えられるのだと思った。

◆自然に生かされ、自然から与えられていることを震災から学んだし、つないでいきたい。今まで当たり前につながれてきたことだが、近代的なものが流され、本来のものがこれだと見えた。江本さんが言う。「その自然観が、大きなものでつぶされてしまうかもしれないということなんだね」。拓さんを育ててくれた伊里前湾に、巨大防潮堤の建設が計画されているのだ。

◆計画によると、防潮堤の高さは海抜8.7m。その巨大なコンクリートの壁を支える土台は幅40mにもなる。海岸だけでなく、湾に流れ込む伊里前川も河口から上流へ1.7kmは両岸を囲む。上流の末端部は海抜6.7m。2012年10月の勉強会で、県の河川担当者から初めて一般の人に計画の概要が知らされた。十分な環境アセスメントも行なわれない事業だという噂も耳にした。伊里前川では伝統的なシロウオ漁も行ない、海の恵みを与えられて生きてきた。この計画が実施されたらどうなるのか。震災前の写真が映される。河口部での春のアサリ採りの様子だ。子どもから大人まで、みんなが海に親しんでいた。灯籠流し、川沿いの桜並木とこいのぼり……川と共に過ごしてきた日々が目に浮かぶ。

◆もともと海にはチリ地震津波に対応した高さ4.7mの防潮堤があった。川もコンクリで護岸されていた。昔は石垣だったので、隙間に手を入れるとウナギがうじゃうじゃいたという話を父や祖父から聞いたことがある。震災後は、春になると防波堤のコンクリが壊されて出てきた石に「ふのり」が沢山つくようになった。潮が入ってくるようになったからだ。子ども達とむしって楽しんだ。「今でもまだ川にお世話になっている」。海に近い津波浸水地は災害危険区域となったため、住宅は作れないことが決定している。それなのに、何で防潮堤を作るのだろうか。

◆12月、隣接する志津川地区と合同で町に陳情書を提出した。「ふるさとの魅力や誇りを伝えていく町づくりのため、再考願います」。動ける若手3人と連盟をくみ、漁民関係者20名の署名を集めた。役場関係者などは署名できなかった。「この気持ちは無下にできねえべな」と町の特別会議では全会一致で採択してもらえたが、県は音沙汰なしだ。そんな状況が長く続くと、周りは「そろそろ決めないと」という空気になってくる。それでも拓さんは「もっとしっかり話し合わなければダメだ」と言い続けた。高台移転について話し合う「まちづくり協議会」で、やっとの思いで「将来まちづくり部会」を立ち上げたのは2013年6月のことだ。部会には父・正海さんが入り、拓さんは有志として参加している。部会の発足から約1年、これまでに住民間での話し合いは3回行なわれた。興味のない人にも話をし、最近はやっと意見や要望が出始めている。商店を営む人が「ここはゆずれない」と言えば、「じゃあここには防波堤を作ろう」。「こっちは漁民の作業場があるだけだから、防潮堤をセットバックして、もっと浜との接点を残せるんじゃないか。」「沿岸部をかさ上げして、山側から見た防潮堤の高さが低くなるようにすればいい」。まだ全貌は見えないが、第4回目の話し合いに向けて準備をしている。継続して話し合っていきたい。ただ、親族のつながりなどもあり、こういう場ではどうしても発言しにくいという人も多い。

◆「こういう問題は、地域の人だけではどうしようもない一面もある」と、江本さん。「それでも、やっぱり住人の合意が大事。高さが欲しい、高ければ当分は平気でしょ、という意見もある。思いを伝えてきたけれど、それが反対派として受け取られてしまうこともある」。県は高さ8.7mを少しも下げないと明言している。L1と呼ばれる100年に1度来る規模の津波に対応するためだ。今回のような大津波はL2に値し、この場合は防潮堤で防ぐ事はできないが、その分逃げる時間をかせげるという主張だ。

◆「結局は逃げることが大前提。避難道の確保、整備が最優先では」。このテーマは前回の部会でも話し合われた。伊里前はリアス式の地形のため、背後は急峻な山。年配者や子どもも逃げれるような道を作りたい。計画では、川の水門も無くなるという。しかし川の両岸に高い防潮堤が建ったら、津波が川を遡上し、かえって奥の集落まで導く形になってしまう。住人からは途中で遊水池を作るという意見もあったが、県はL1級の津波は途中で止まると主張する。でもL2が来たら、波が圧縮されて一気に川を遡上してくるはず。それなら防潮堤の高さを低くして、民家が無い所で水を逃がしたら……。県の計画に納得がいかず、今も頭の中を様々な思いがめぐる。

◆拓さんは、「もし結婚していなくて1人だったら、あのとき自分は流されていた。妻子に生かされたと思っている」という。そしてしきりに「想いばかり語って、つっぱしってしまう」と反省されていた。でもその姿は、何かに突き動かされて行動しているようにも見える。もしかしたら拓さんの背中を押しているのは、子どものころの自分か、大きくなった自分の子どもなのかもしれない。自然に育まれた豊かな心や生きる知恵は目には見えない。拓さんは、時間の流れを超えた自然からの大切なメッセージを代弁してくれているようだった。(新垣亜美


報告者のひとこと

■ふっと見上げると、東京の夜空がネオン街の光で臙脂色に染まっていた。その雲の切れ間に、貫くように光る星が一つ、鋭く輝いていた。「東京の夜にも星はあるんだ。東京に住んで居ても星と対話することが出来るんだ」。東京の目まぐるしさの中にある、悠久なる時間の流れ。その星の光は揺るぎなく、これから進む未来への指標に見えた。電車のホーム。交差点。出逢うことなく隣を通り過ぎて行く沢山の人たち。そんな時代の雑踏の中で出逢い、想いを共有することができた皆様との不思議なご縁。皆さんとこの時代、この世界であの時間を共有出来たことに感謝しております。もし、南三陸に来られた際は遊びに来てください。いつも歌津伊里前の海に居ますので。

◆最後に北京の餃子! 最高に美味かったです! また皆さんと一緒に食べたいです。本当にありがとうございました。では、また会う日まで。お元気で。(千葉拓


「火がね、勇気を与えてくれるんですよ」

■先日の千葉さんの報告会、牡蠣をご馳走さまでした。地平線会議では3.11以降、何度も東北の被災地をテーマに報告会を開いてこられましたが、新参の私自身は震災の体験者から、津波に追われた一日のことを直接聞いたのは、初めてでした。あの日、船で沖に待機しているはずの父親を思いながら、大丈夫べかね、大丈夫だ、と言い聞かせたという千葉さん。「この時の心境を思い出すとまだ……」と声を詰まらせていましたね。心の震えが私の胸にも刺さるようでした。

◆その声をふりしぼるようにしてひときわ強く、「火がね、勇気を与えてくれるんですよ」と。何もしゃべらなくてもいい、炎を見ているだけで、不安が取り除かれるのだと。印象深い言葉でした。思い出すたびに追体験して辛くなるにも関わらず、私たちに語ってくださって、ありがとうございました。

◆「絶対に牡蠣の仕事はやるまい」と思っていた千葉さんが故郷に戻ったのは、幼いころ海に親しんだ原体験があったからなのですね。今、世界中の農村・漁村で、若い働き手が都会に出てしまったことで過疎化や文化の継承に悩んでいると思います。どうすれば若者が居つくのか。このとき一つには、土地の自然・文化の中で子どもたちが温かく育まれ、五感を通した楽しい思い出がたくさんつくられることが大事なのだと思いました。

◆二つめには、一度外に出ること。育った地域を離れ、異質なものに触れることで原体験が目覚め、強い自己認識と確信を持って故郷に帰る。これが、自らの手でより良い故郷にしようという、未来への力強い原動力になるのだと思いました(沖縄の平田大一さんも、同様の道筋をたどっていらしたように思います)。だとすれば、防潮堤によって子どもたちにとって大切な自然の遊び場が失われてしまうことは、長期的にどんな影響をもたらすのか……。

◆しかし、良い悪いで一概に判断できることではないのでしょう。住民の意見が二分している状況は、沖縄の基地問題(あるいはリゾートホテル建設問題)にも似ていると思いました。なくて済むなら、なくていい。しかしあった方がいい、ないと立ち行かないという人も少なくないのが現状です。容易に結論が出るはずはありません。沖縄の場合、本土の人間の無関心が問題を深刻化させているといえます。しかし親類や友人同士ですら激しい争いになるため、島でヨソ者が軽々しく知ったような意見を言わないよう注意を受けたこともありました。住民同士でとことん話し合うしかないようなのです。

◆防潮堤に関して、東京の人間はどういう姿勢を取り得るか……と考えさせられました。愛する故郷の人々に「反対派」と敵視される事態は、千葉さんにとって不本意で苦しいことだと思います。地域の他の若者達も本気で話し合ってくれるといいですね。世界では、防潮堤の影響などに関する事例はあるのでしょうか。世界の漁村ではどうしているのでしょう。視察してまわり、比較することでヒントが掴めないでしょうか。

◆ネイティブ・アメリカンは七代先の子孫のことを考えるといわれます。住民の方々が長期的な視野で判断なされることを願っています。(福田晴子

「マンモス防潮堤が……、攻めてきた?」

■千葉拓さんが話し始めてまもなく、純朴で少しとぼけていてとてもいい性格だということがわかり、いっぺんで好きになりました。震災についての詳細な説明や防潮堤についての思いを伝える時でさえ、なんとなくほのぼのとした感じがしてしまうのが千葉さんの“味”なんでしょうね。だからといって、聞いている側が真剣にならないかというとそうではなく、だからこそ聞き入ってしまい、時間が経つのも忘れるほどでした。

◆恥ずかしながら、マンモス防潮堤の建設が問題になって議論されているとはまったく知りませんでした。そういった防潮堤を国が作る計画があるというのは知っていましたが、これが作られれば沿岸部の人たちは安心できるんだ、だから良い計画なんだ、とはなから信じていました。

◆ところが、肝心の地元の方たちはだれもがそう思っているわけではないということを初めて知りました。たいていのことについては、ひとつの意見とそれに反する意見を聞いて自分としてはどう思うのかを導き出すようにしていますが、防潮堤についてはまったく一方向からの意見しか取り入れておらず恥じ入るばかりです。

◆遅ればせながらインターネットでいろいろ調べてみると、南三陸町だけではなく、気仙沼市などでも住民の疑問が噴出しているということもわかりました。

◆10年ほど前に、仙台から車で海沿いを北の方向に旅したことがあります。いつものことですが、ガイドブックや情報誌を全く見ずに風の向くまま気の向くまま、綺麗な景色や気持ちが惹かれた道など、直感に導かれての気ままな旅でした。星が綺麗そうだからこっちに行ってみようと思って行った先で、無数のキラキラ光る目に囲まれてびっくりしたり(あとで調べるとそこは牡鹿半島でした)、複雑な海岸線の景色を眺めながら気仙沼まで行ったり(ということは、南三陸町の海も見たということですね)、海や岩や浜があってこその、心に残る旅でした。

◆この目でみたからこそ、それらすべてがマンモス防潮堤に遮られてしまう寂しさというのがとてもよくわかります。そこで漁業を営む人たちにとってみれば、景観の問題だけではなく生態系の変化にも敏感になるのは当たり前でしょう。やっと今マンモス防潮堤問題のスタート地点に立った私ですが、何をすればいいのか、何ができるかを考えてみたいと思います。(瀧本千穂子) 


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