2014年6月の地平線報告会レポート


●地平線通信423より
先月の報告会から

ATK(アタック)48・北極ヘビー・ローテーション

荻田泰永

2013年6月27日  榎町地域センター

■6月の報告者は北極冒険家の荻田泰永さん。荻田さんは、たくさんの貴重な映像を見せながら、現在の北極圏の様子と北極点を目指した今年の挑戦について話してくれた。

◆まずは自己紹介から。荻田さんは1977年生まれ。2000年から北極圏に通い始め、今年で13回目になる。きっかけは大学を中退してアルバイト生活をしていた1999年夏に、極地冒険家の大場満郎さんを偶然テレビで見て知ったことだった。「それまで北極に行きたいと思ったことなどなかった」という荻田さんだが、大場さんの姿に心が大きく動いた。「テレビの前の自分は、何かできるはずだという根拠のない自信と行き場のないエネルギーを持て余していた。だけどテレビの中の大場さんは明らかにエネルギーを使い切って生きているように見えた。そんな姿がうらやましく、かっこよく見えてしまったのだと思う」。翌年、レゾリュートから北磁極まで700キロを35日かけて歩く大場さんの遠征隊に参加。荻田さんにとって初めての海外旅行であり、初めての本格的なアウトドア体験だった。

◆2001年からは一人でも通い続け、レゾリュートからグリスフィヨルドまで500キロを単独で歩いたり、犬ぞり冒険家の小嶋一男さんとグリーンランドの2000キロを走破したり、ノンフィクション作家の角幡唯介さんと英国のフランクリン隊の足跡を辿る1600キロの二人旅をしたりと、毎年のように北極圏行きを繰り返し、12年に続いて2度目となるのが「無補給・単独・徒歩」で北極点を目指す挑戦だ。

◆出発点はカナダ・エルズミア島の最北端にあるディスカバリー岬。日本を発つとまず、バンクーバーに降りて食料や装備を調達し、オタワを経由してイカルイットへ。ここで10日間ほどのトレーニングを積んで、定期便でレゾリュート。最後は飛行機をチャーターして北緯83度のディスカバリー岬まで飛び、北緯90度の北極点まで800キロを50〜60日かけて人力で踏破する。途中で食料の補給は一切受けない無補給の単独行だ。

◆成功すればノルウェーのボルゲ・オズランド(1994年)、イギリスのペン・ハドウ(2003年、でも本当に無補給だったか疑わしいとか)に続き、史上三人目の快挙という。素人としては意外に少ない印象を受けたが、“納得”の理由が荻田さんの口から次々に語られる。

◆例えば地理的、環境的な問題。ご存知の通り、南極点と違って北極点は海氷上にあり、北極点のあたりは水深4000メートルの海の上に厚さ2〜3メートルの薄い氷が浮いているイメージだとか。しかも温暖化の影響で年々薄くなった氷は、付近を西から流れる極横断流の影響を受けてどんどん東に流される。植村直己さんの時代に多くの冒険家が出発点にしたコロンビア岬でなくディスカバリー岬が選ばれるようになったのも、できるだけ西からスタートしたいという理由からだ。薄氷には割れ目(リード)もできやすく、「いちいち迂回していたらキリがない。いかに海を通過していくかが重要」と荻田さん。そこで、最近の北極冒険で欠かせないアイテムになっているのが「ドライスーツ」なのだ。

◆ドライスーツはボルゲ・オズランドが海洋作業着などを扱うノルウェーのメーカーに作らせたものだといい、目的はズバリ「北極徒歩冒険で氷の割れ目を効率的に通過するため」。防寒着の上から着脱でき、1.6kg程度。空気を一緒に着込むので水面に浮き、軽く泳ぐこともできる。荻田さんがドライスーツで水に入っている写真を見ると、膝下と胸より上が水上に出て腰の辺りが沈み、ちょうど大きめの浮き輪の上に寝そべっているような格好だ。カヤックを使うほど大きくはないが、飛び越えることもできないリードに出会ったときに活躍するという。

◆他の装備は、ガソリンのストーブや鍋、ヘッドランプ、熊よけの火薬やスプレー、GPSやコンパス、温度計、アイススクリュー、マット、化繊とダウンの2種類の寝袋とライナーなど。必要不可欠なものを最小限に抑えるが、50日分の食料を合わせると計120キロ。ソリ2台に積み込み、平らな所では2台を連結させて引っ張り、乱氷帯など凹凸の激しいところでは1台ずつ引き上げて運ぶ。この50日分の食料というところで今回は涙をのむことになるのだが、多めに用意すればいいかというと、それはそれで荷物が重くなって進まなくなるという難点がある。

◆特にスタート直後の沿岸部付近は、陸地に向かって流れるボーフォート循環流の影響で氷の乱立が激しい。報告会で流されたビデオには、重い荷物を引きずって何メートルもの氷のブロックをひとつひとつ苦労して越えていく過程が記録されていた。壁のような氷の上に立ち、なかなか上がらないソリを引っ張り上げる様子は見るからにしんどい。……などとぼんやり映像を見ていたら突然、画面の向こうの荻田さんが話しかけてきた。

◆「キツイ!誰か押してくれ、後ろから。そこで見ていないで!」。会場の様子を見透かしたようなサービス精神溢れるコメントに笑い声が上がった。「誰もいねえんだけど。大変そうだねって見ているね、向こうで。大変だよ!やってみろよ!」。いま北極にいる冒険家とテレビ電話でつながったような不思議な感覚になり、「いやいや無理だわ!」と思わず口元まで出かけた。そもそも何十キロもの荷物が私には持ち上がらないし、それを一日に何十回も、そして何日も繰り返すなんて想像するだけで発狂しそうだ。「ホント自制心との闘いです。イライラすると行動が雑になって装備を壊したり、自分が怪我をしたりするので、その辺に当たり散らしてスッキリします」。体力と、それ以上にものすごくタフな精神力が必要なんだと改めて感じさせる映像だった。

◆報告会では、そんな北極の風景を写した貴重な映像が次々に流された。しかも、荻田さんの喜怒哀楽もバッチリ映し込まれているのが印象的。例えば、氷のリードに直面した場面では、リードを挟んで向こう側の氷とこっち側の氷がキューキュー音を立てながら前後にずれて動いているのがハッキリ写る。これを前に荻田さんは、「いまここを通ってきました。危ないから回避。怖かったー! 恐ろしいわ!あり得ないわ!」と驚きと恐怖心を露わにし、またある日の行動風景では「もう嫌になってきた……」と漏らしている。

◆いまにも割れそうな20センチくらいの薄い氷を進んでいくシーンもあった。いずれ水に落ちるのは本人も分かっていて予めドライスーツを着込み、ソリにカメラをセットして(そう、画面に自分の姿がきちんと映り込むようにセットして)、四つん這いになってそうっと進む。そのうち、まず左膝が抜けて水に落ち、「ヤバいと思って」今度は腹這いになって進んでいくのだけど……、(ひゃ〜危ない!)とヒヤヒヤする観客を前に、北極の荻田さんの体は静かに水の中に沈んだ。この一連の映像は、北極の海氷上を歩く心許なさを充分に見せつけてくれた。

◆そして、北緯86度22分まで進んだ44日目(行動日数で38日目)、荻田さんは今年のエクスペディションの撤退を決めた。大きな理由は食料不足だ。当初の計画で1日4200〜5000kcalの食料を50日分用意したが、行動14〜15日で通過する予定の最初の1度(約110キロ)に17日を消費。スタート直後は荷物も重く、乱氷帯も激しいためペースが上がらないのは想定していたが、それを上回る遅れが生じていたのだ。そこで荻田さんは、その時点から行動計画を55日に修正し、1日1割程度の食料をセーブして進んできていた。だが……。「そもそも1日7000kcalくらい消費している北極で、規程より少ない食料にさらに制限をかけたので、とにかく腹が減る。日に日に脂肪は減って、頭まで痩せて帽子がゆるくなった。正直キツイわけです。キツいとメンタルも削れて来るし、集中力が落ちているのも分かる」。そしてその日、日本の事務局と毎日欠かさない衛星電話で、「これから3日ほどブリザードがくる」という予報が伝えられた。

◆「ここで3日間吹くのかよ……」。すぐに様々な計算が荻田さんの頭の中をかけめぐった。ブリザードで3日間動けなくても、この飢餓状態では少なくとも1日分の食料は消費せざるを得ない。そうすると1日分の行動時間が削られる。風で氷が動いてまた乱氷が増えるし、自分もどれだけ流されるか分からない。それでも行けるのか……。荻田さんは「ものすごく悩んだ」と言う。多分あと17、18日で北極点まで到達できる。セーブしていけば計算上はそれだけの食料も確保できる。体の状態はどうだろうか……。そこで荻田さんはハタと気がつくのだった。「計算上は捻出できると考えているが、これは行くための計算だった。必要な55日に手持ちの食料を当てはめて算出している。『いまヤバいぞ、俺』と思って過去を振り返った。角幡と動いたときの飢餓感、あのときどれだけ体が動いたか。あれ以上に乱氷が厳しいという予測。いろんなシチュエーションを考えるとあまりにリスキーだった。もしかしたらエイヤーでいけるかもしれないが、リスクはどんどん高まっていく。カツカツの状態で北極点を目指すのは得策ではないなと思った」。

◆再び日本と連絡をとってピックアップを要請した。それから迎えが来るまで3日半ブリザードに閉じ込められたが、多いときは1日22.8キロ東に流されたという。「正直、悔しい。自分の力が及ばなかったという気は全然しない。大きな装備のトラブルも怪我や凍傷もなく無事にきていた。ただ食料が足りなかった。なんで俺はあと5日分の食料を持っていかなかったんだと、そればかりだった」。荻田さんは「惜しかったなあ」と繰り返し、「来年またチャレンジしたい」と話した。

◆さて、荻田さんの語る“北極”はもう少し続く。過酷な環境から街に帰ってきて、やっと温かなホテルのベッドで休める至福のひとときを迎えたのかと思ったら、実はそうでもなかったというエピソードだ。「前回はピックアップされてレゾリュートの宿で休んだ夜、寝返りをうって手がベッドから落ちた拍子に『ヤバい!氷が割れている!』と飛び起きた。床に這いつくばって『氷が、氷が』と5分くらい混乱して『あ、終わったんだ』と分かってまた寝るが、それを一晩に2、3回、一週間も続けた。今回は引き上げた後も神経が高ぶって3日間で2時間くらいしか眠れず、4日目のオタワのホテルでやはり飛び起きて窓際に行って、『氷の状態は、乱氷は……』と確認していた。氷上のキャンプで寝ぼけることは絶対なく、ずっと神経を集中させていて何かあれば即スイッチが入る状態でいるが、安全なところにきたらそれまで抑えていた恐怖感が出て来たのではないかと思う」

◆北極では身を守るために五感を研ぎ澄ませているせいか、200メートルも先にいるシロクマの気配を感じたこともあるという。まるで野生動物のようだ。だが、逆に都会で同じように神経を働かせても参ってしまう。街の宿に引き上げてからの1週間は、荻田さんが人間社会に適応するためのリハビリ期間のようなものなのだろうか。極限の環境下で本来の力をフルに発揮させるのと、ギラギラとネオンの光る都会で感覚を閉ざして暮らすのと。話を聞くうちに、どちらが正常なのか分からなくなってしまった。(菊地由美子


報告者のひとこと

北極点への挑戦は「究極の障害物競走」

■前回の地平線報告会で話させてもらってから、早いもので4年が経ちました。まさかそんな年月が経っているとは驚きでした。この4年間の間に、角幡唯介との1600km二人旅と、北極点への挑戦を二度経験することになりました。今回お話しした「北極点無補給単独徒歩」は、2012年に続いての2度目の挑戦でした。

◆現在の北極点を目指す冒険のスタイルや、植村さんの時代との相違点や今でも変わらない点など、私の挑戦の手法を通して理解してもらえればいいなと思いながら話させてもらいましたが、果たしてどこまで伝わったかは分かりません。北極点を目指すにあたっての障害となる乱氷帯やリードは今に始まったものではなく、はるか昔の極地探検の時代から同じように存在していたものであって、それを越えていく手法が変化しているだけです。

◆乱氷を越える手法は一生懸命ただただ氷の山を越えていく、という事に尽きるのは今も昔も変わりませんが、10年ほど前から小さなリードは専用のドライスーツを着て泳いで渡る手法が定番となっています。ただ、ドライスーツは巨大なリードは渡りきれません。2012年の北極点挑戦時には幅が10kmほどにもなる巨大なリードの出現もあって撤退を決めたこともあり、今回は特注のフォールディングカヤックを用意しました。しかし、今回はカヤックが必要なほどの巨大リードの出現はなく、逆にカヤックの重量で食料の余剰が少なくなり、結果的に日数不足で撤退を余儀なくされました。

◆北極海の最大の難しさは「不確定さ」にあると思っています。足下が流れ動く海氷であると言うのが、不確定さの最たる要素です。ルートの状況は毎日変化します。ずっと氷のない海であれば、海の対処だけすれば良い。ずっと凍っていれば、氷の対処だけすれば良い。しかし、北極海では海氷が流れ動く事で、氷の箇所もあれば割れて海の箇所もあり、海が2〜3日経ってうっすら凍りはじめた中間の状況にもなり、巨大な乱氷もある、しかも気温が前回挑戦時にはマイナス56度まで下がるという、人間の活動が極めて困難な、言わば「究極の障害物競走」なのです。

◆考え得るあらゆる状況に等しく対処できる手法を、自分が引いて進めるだけの最低限の物資重量内に収めながら、全ての効率を最大限に高めていく事で成し遂げられるのが「北極点無補給単独徒歩」であると思います。その難しさが面白さの裏返しでもあるのですが、できればあんな恐ろしいところには戻りたくないという思いもあります。それでも、これまで14年間自分が積み重ねてきた経験や知識を使えば、自分にはできるという自信もあるので、それを確認するためにもまた来年の再挑戦をしたいと思っています。

◆当面の問題は、今年もそうでしたが2000万円の必要資金の工面です。今年の挑戦でお金はなくなってしまったので、来年までの半年でまた2000万円頑張って作ります。どうしよう……。(荻田泰永

サポートする大木さんもまた、北極冒険家に負けないくらいのチャレンジャーだ

■巨大な氷と格闘しながら前進する荻田さん。ご自身の撮影による動画や写真の数々は驚きの連続だった。北極圏、見渡す限り氷の世界では、そこで活動する生命が一段と際立つようだった。氷点下40度を下回る世界で、そこにいる、ほとんど唯一の生命が発する温もりと動き、を想像した。

◆北極圏は一見無彩色の世界だが、撮影する時間帯や気象状況で、氷は青みがかっていたり、わずかに緋色を帯びていたり、多彩な表情があった。そりを引いて歩いてきたばかりの、氷の大地。それがキュウキュウと音を立てながら、ゆっくりと割れて、移動していく様子は、動画から伝わる、自然のスケールに圧倒された。厚い氷の下は、深い北極海なのだ。

◆動画と写真を交えながら話す荻田さんは、2010年の報告会の時とくらべて、話がとてもスムーズな印象をうけた。北極点単独無補給は莫大な費用がかかる冒険活動。遠征を実現していく中で、支援者に自分の行動をプレゼンする機会が多々あったのだろう、と勝手に想像しながら聞いていた。

◆報告会の終盤では、今回の遠征で日本の事務局を務めた大木ハカセさんのエピソードも面白かった。大木さんは、ツイッターで荻田さんにコンタクトをとったと言う。経営者として3つの会社社長を務めていたが、「荻田さんが北極での行動に専念しているのに、片手間でサポートするなんてフェアじゃない」と、会社を他の人に譲り、ご自身は事務局を法人化して運営に専念。サポートする大木さんもまた、北極冒険家に負けないくらいチャレンジャーだと思った。

◆荻田さんには1歳半になるお子さんがいるそうで、「子の誕生によって,極地冒険への考え方に変化はありましたか?」ということを、次回は伺ってみたい。(山本豊人 1才の子の父)


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