2016年1月の地平線報告会レポート


●地平線通信442より
先月の報告会から

焚き火サバイバル

石井洋子

2016年1月22日 新宿コズミックセンター

■まもなく5回目の「3.11」がやってくる。三陸の津波被災地では「復興」を目指し、今日も防潮堤や高台造成工事の槌音がやまない。一方で、学校は次々と統廃合し、若者は村や町を離れ続けている。2015年、震災後はじめての国勢調査があった。その速報値によれば、前回(2010年)調査と比べて4割近く人口が減った自治体もある。宮城県南三陸町は同約3割減り、同県で最も深刻な自治体の一つだ。今回の報告者は、その南三陸町にボランティアとしてかかわり、ついに移住を決めたという。人が去る街に、どんな魅力を見つけたというのか。

◆「ひぃさん」こと、石井洋子(ひろこ)さんは南三陸町のリンゴ畑のかたすみで暮らしている。「家」はトラックの荷台に乗せられた自作の小屋。この時期、外は氷点下。洗濯物は瞬く間に凍りつく。でも水が蒸発するより、氷が昇華するほうがはやいそうで、「冬はお洗濯がきもちいい」と話す。お風呂は近所に「借り湯」。トイレはあちらこちらで「それなりに」。元気象庁職員で、元南極越冬隊員。これまでやってきたことは、「自分の中ではつながっている」。それをほぼ満席となった地平線会議の場で報告してもらった。

◆岡山県倉敷市で生まれた。干拓地が広がる、田んぼの中。小さい頃は背が低く、偏食で内弁慶。冒険などするタイプではなかった。でも本が好きで、『さまよえる湖』(スウェン・ヘディン著)や、『コンチキ号漂流記』(トール・ヘイエルダール)などを夢中で読んだ。力はなくても、冒険には憧れていた。中学のころ、世の中で地球環境問題が注目されるようになり「自分も自然や環境にかかわる仕事がしたい」と思うようになった。

◆大学で物理学を学び、親に頼まれて受けた公務員試験に「まぐれ」で合格。物理専攻者には気象庁や国立天文台や国土地理院などの進路があった。気象庁に見学に行くと、金髪サンダル履きの職員がいた。公務員のイメージががらりと変わった。女性でも技術的な仕事をさせようという流れもあり、へき地勤務もあると言われ「喜んで」と答えた。気象庁は地球環境を監視して守るのが仕事。自分が子どものころ願っていた仕事につくことができた。

◆気象衛星センター(東京都清瀬市)で、気象衛星から送られる地球の画像を毎日見ていた。しばらくすると、南極に行ける仕事があると知り憧れた。以来、第三希望まで書く転勤希望欄にはいつも「南極」とだけ書いた。少しでも南極に近づこうと、秋田県に転勤し、「高層気象観測」を学んだ。風船を飛ばし、上空30〜35キロの空を連続的に観測する。秋田への転勤がきっかけで東北の人と自然に出会った。

◆各地のお祭りに参加しては踊り、山車や神輿を担いだ。山好きの職員に連れられ、山登りをはじめ「見事にはまった」。沢登りや自転車、シーカヤック、冬はテレマークスキーで雪山をあるいたりと、東北の自然に夢中になった。東北の自然は、どんな人里離れた場所でも、マタギが入り込み、人と自然とのつながりが感じられた。いつか自分も自然と関わりながら生きていたいと考えるようになっていった。

◆あこがれ続けた「南極行き」は11年後、「第49次南極地域観測隊」で実現した。岩と雪と氷しかないため、白と黒と青しかないと思っていたが、「南極は実に色彩豊かな場所だった」。朝やけ夕やけの時間が長い。南極の空気は文明の影響を受けていないため、光を散乱するものが少ない。そのため夜から朝にかけてはっきりしたグラデーションが空に現れるという。

◆「月明かり」ならぬ「星明かり」も感じられた。また昭和基地はオーロラが観測しやすいところにあり、天の川と緑のオーロラを同時に眺めることができた。オーロラは太陽風が地球の大気にぶつかって発光する現象。オーロラの観測をすることで超高層大気の様子がわかるのだそうだ。太陽風の影響を調べれば宇宙もわかる。「南極で、宇宙を感じた」という。

◆会場では、420本ものフィルムで撮影した美しい写真が次々に紹介された。すぐそばまで集まってくるアデリーペンギンたち。ライギョダマシを釣ろうと開けた穴から顔を出したアザラシ……。南極の写真が映し出されると、会場から突っ込んだ質問が相次いだのは、地平線ならではかもしれない。

◆南極越冬隊は29人の隊員だけで厳しい冬を乗り切る。暮らしを支えるのは、南極観測船「しらせ」に積んできた燃料や資材がすべてだ。食事はすべてプロの料理人がつくる。映画「南極料理人」は南極経験者には笑えないリアルさがあるという。料理人たちはいかに限られた食材で隊員たちを満足させるか工夫する。人が一人生きていくのに、年間1トンもの食糧を消費するのだそうだ。これは「南極に行ってはじめて知った」。

◆南極には世界の淡水の97%が集まるといわれるが、液体の水はほぼない。昭和基地の水が足りなくなると、雪や氷を溶かして水作りが始まる。だがそれには燃料がいる。「南極での暮らしは、大量の燃料消費に支えられている」。自然とのつながりの中で暮らしたい。そう思うようになって以来、どんなライフスタイルが自分に合うか、考えていたという。古民家ではない、いわゆる田舎暮らしもちょっとちがう……。

◆そんな時、島根県で子どもたちに自然体験を教える「しまね自然の学校」の岡野正美さんに出会い、焚き火小屋を知った。火が焚けるかまどがあり、ご飯が炊ける。「そこにあるものを生かしながら、光や空気を感じることができる心地よさ。薪が積んである風景が美しかった。これが近いかもしれない」と思った。そんな岡野さんが2011年1月、ロケットストーブを完成させた。もともとはアメリカの大学の先生が開発したもので、日本でも一部の人がつくって使っていた。

◆岡野さんのロケットストーブを見たとき「こいつはすごいなと思っていた」。ロケットストーブとは煙突の周りを断熱することで、熱を逃がさず、煙の中の成分まで二次燃焼させる燃焼効率の高いストーブのこと。散歩で拾える小枝や松ぼっくりでも、実用的な燃料になる。ペール缶とステンレス製の煙突などを使って自作することができるのも特徴だ。

◆南極から帰り、福島地方気象台で勤務を再開する。そこで東日本大震災を経験した。はじめて沿岸被災地に行ったのは2011年4月、桜が満開のころだった。「山積みのガレキから煙が出ていた。ショックを受けた」。ロケットストーブが被災地で役に立つはずと感じ、一斗缶で作れることや、瓦を積み上げるだけでも作れることなど、まずは情報を発信した。でもなかなか実際に作ったという人が現れなかった。

◆「じゃあ届けるしかない」そう思いたち、ロケットストーブをつくって届ける活動を始めた。ガソリンスタンドでオイルを入れるのに使われるペール缶を二つつなげたものが被災地に向いていると判断した。やがて協働の輪は広がり、ガソリンスタンドの人が缶を集め、ドラッグストアの人が発送用の紙おむつの段ボールを集め、石井さんは出来上がったストーブを現地に届けるという部分を担った。島根で作ってもらい、福島に送ってもらい、最後に自分が愛車インプレッサに満載して往復した(一度に最大8基も積み込んだ)。

◆持っていくと「これはいいね、ほしい」と言われた。はじめは避難所などで煮焚きや緊急用に使っていたが、キッチン付きの仮設住宅に移った人からも「ほしい」と言われた。煙も出ず、安全なロケットストーブは仮設の外で使えた。火をたくと、近所の人が集まってくる。すると、そこにはお茶やお漬けものが集まり、焼き芋が始まる。「ロケットストーブは物資の支援だけど、コミュニティーを取り戻す自立のためのツールなんじゃないか」と考えた。

◆子どもたちも火をおこして、自分たちで作って食べた。三陸地方はこれからも何十年かごとに津波が襲う。その時、生き延びられるように、子どもたちに火を使うことなどを教えたいと考える大人もいた。届けたストーブの数は160台以上に上っていた。どこのボランティア団体にも所属せず、ロケットストーブを届けるという支援を続けるうちに「支援って何だろう」と考えるようになった。

◆南三陸には「お茶っこ」でもしようと、誰でも招き入れてもてなしてくれる文化があった。津波にのまれず残った畑でできた野菜を使った漬けものを出してもらった。「支援しなくてはと思っていたが、たんに物資を配るような支援に疑問を持った。本来的に豊かな風土の中で助け合って生きている人たちはむしろ幸せそうだと見えることもあった」。

◆風景の中には、白菜が干してあり、柿があり、石積みがあり、木で船をつくる船大工が残っていた。「生活と自然のつながりや豊かさを見せつけられた。ここの人たちは自立していた。大切な人や家も流されてしまったけれど、大事なものは残っていた」と話す。気象庁の転勤は都市部が中心。いつしか「支援をする側ではなく、お漬けものを出す側になりたい。仲間に入りたい」と思い、移住することを心の中に決めた。

◆2013年3月、気象庁を辞めた。移住しようと思ったが住むところがない。そんなとき、島根の岡野さんにトラックハウスを提案された。中古のトラックを手に入れ、その荷台に家をつくることになった。本当にほしいものはつくるしかない。

◆家作りの一部始終を見ておきたいのと、少しでもいいから出来るところを自作したい、その中で、岡野さんにもの作りなどを学びたいという気持でテントと寝袋を持って島根に通い続けた。ようやくなんとか暮らせる形になったのは2015年。仕事を辞めてから2年がたっていた。

◆こうして「ひぃさん」は今、南三陸のりんご畑の一角で暮らしている。「暮らしを変えたいと思ったとき、それまでの便利さから離れてみないといけない。本当に必要なものは、美しい風景であり、心地よさであり、おいしさだ。南三陸にはそういうものが整っている」。「気象庁やめてどうやって食べていくの?」と聞く人もいた。だが、「そこに人が生きているのだから必ず仕事はある」と思った。

◆いま、「私の勘は間違っていなかった」と笑う。暮らしはじめると、人のつながりが次々と広がり、いまは大工見習や電気工手伝いをし、パン屋も始めようとしている。「気候変動、政治、経済、どれをとってもこれから困難な時代になりそうだけど、南三陸はそういうのを超越して豊かに暮らせる土地だと思う。南三陸で自立した街がつくれれば、日本や世界を変える地域にだってなりうる」と自信たっぷりに話すようすが印象的だった。

◆私も震災後、被災地に何度か通った。南三陸町ではスパイダー(蜘蛛仙人)こと八幡明彦さん(2014年5月、交通事故で逝去)の小屋を訪ねた。八幡さんもまた「南三陸には暮らしのすべてがそろっている」と言っていたのを思い出した。東北で誰かと出会う度、ほんの少しだけ自分の暮らしの軌道も修正された。今のところ東京でやりたいことがあるし、移住するほどの勇気はないけれど、影響を受けたわずかな変化は将来、案外大きな差になるのではないかと感じている。次回はぜひ、南三陸で石井さんにお会いし、ロケットストーブにあたってみたいと思った。(今井尚


報告者のひとこと

南三陸はやっぱり素敵なのだ

■仙台駅で新幹線から在来線に乗り換え、車窓からひろがる雪景色を眺めてようやく、ほっとした気分になった。「帰ってきた」という安堵感。都市の、はてしないエネルギーと物質、人人人……から抜け出した安堵感。そしてようやく、どうやら無事に地平線会議の報告者としての大役を果たせたらしいという安堵感を、下校時間前の閑散とした車内で静かに感じていた。

◆「東京には興味がないんです」と、江本さんから地平線会議にお誘いを頂いた時に、はじめそう答えたと思う。東京という都市には、興味を失ったのだ。地平線会議というのも、東京に人を呼んでお話させて文化人気取りの人たちだろうかと、まったくもって失礼であると思いながらその印象が拭えなかった。だいたいその場でわたしがお話できることなどないとも思っていた。

◆それにもかかわらず、江本さんから熱心にお誘いを頂き、これは断りきれないと受けてしまった。「地平線会議に集まる人たちは面白いから会っておくといい」そんな言葉にも誘われて。その直後、その面白い人たちにお会いする機会が訪れた。屋久島在住の新垣亜美さんが南三陸町に来られていて、仮設住宅での子どもたちのお泊まり会にお誘いを頂いたのだ。仮設住宅に集まったメンバーの方々が、震災直後からこの地域に関わり信頼関係を築いてこられたということは、子どもたちの楽しみ様からもよくわかる。

◆一緒になって遊び、調理し、食べ、そして大人だけの時間。楽しかった。震災のことにとどまらず、南極、屋久島、ネパールなど話題は広く世界をまたに掛け、それは実際にそこで呼吸した人の口から出た言葉なのだ。ああ、これが地平線会議なのかと思った。

◆年末になって、江本さんから過去の地平線通信などの「資料」を頂いた。びっしりと書き込まれた通信のすみからすみまで読んだ。すっかり寝正月だ(笑)。Facebookなどのソーシャルツールで簡単に情報発信し、「お友達」に「いいね」して拡散してもらえる時代に、手づくりの冊子を発行し続けるエネルギーに、地平線会議の実力を感じた。

◆明確な意志を持って積極的に行動する個々が集まった集団と言えばよいのか。世界を飛び回る行動力と同時にこつこつと小さなものを作り上げる行動力。それが37年も続いている。頭が下がった。ネットで情報を拡散しても、署名を集めても動かないものが、動くとすればこんな力なのかもしれないとも思った。その仲間に入れるなら、とても素晴らしいことだと思った。

◆地平線会議の悪しき(笑)印象は拭えたものの、さてなにをしゃべろうかということには頭を悩ませた。南極には行ったものの、それは長期海外出張のようなもので、私自身何かを成し遂げたわけでも、何かを立ち上げたわけでもない。しょうがないので、生い立ちから今までの一風変わった人生をひと通り話させてもらった。これまでの報告とはちょっと違ったものだったかもしれないと思う。聞いてくださった方がどんなふうに感じたか、この号でのレポートを私も楽しみにしている。

◆電車からBRT(津波で壊滅した気仙沼線を走る「バス高速輸送機関」)に乗り換え、峠を越えると南三陸町だ。海と暮らしの間に立ちはだかるような防潮堤や、大きく削られた山に建つ「今時の」住宅、かさ上げのために高く盛られた土を見ると悲しい気分になる。地平線会議の報告では、南三陸のいいところをいっぱい話したけど、こんな現実もある。目を背けるわけではないけれど、社会構造に由来するこれらを変えたいのなら、自分自身の暮らしを変えて、ほんとうに豊かな人生、本当に豊かな地域のために実践するしかないと思っている。

◆トラックハウスに帰りつき、ロケットストーブに火を入れる。またわたしの日常が戻ってきた。東京の「ルヴァン」のカンパーニュをストーブで炙り、友人にもらった栃の蜂蜜で頂く。旨い。東京では「女わざと自然とのかかわり」展を見に「食と農」の博物館まで足を伸ばした。東北の女性の手わざを丹念に集めて「女わざ」という手づくりの冊子に綴ってきた会と博物館の共同企画であった。

◆東北の布たちを東京で見る。手わざに費やした膨大な仕事量(=愛?)を感じた。ぜひ東北でやってもらいたいなぁ。今回、視点を東京に移し、色々な人とお話できたことで、南極と南三陸という極端に限定され狭くなりかけていた視野を回復することができて、なんだか気持ちがすっきりした気がする。

◆都市は諸悪の根源と思う一方、東京には東京の伝統やいいところがある。一方田舎には田舎の悪い所もある。それもわかって、昔に戻る「田舎暮らし」ではなく、ロケットストーブのあるような新しい田舎暮らしをしたいと思って南三陸に来た。まだ仮暮らしのトラックハウス生活がこれからどうなるのか、不安がないわけではないけれど、今回の報告会で「まちがってない。」との手応えを感じることができました。

◆熱心にお誘いくださり、色々と面倒を見てくださった江本さん、ありがとうございました。おいしいカレーをご馳走さまでした。素敵なイラストと、つながりにくい電話にも関わらず本質に迫る予告を書いてくださった長野さん、技術的なサポートと準備でお世話になりました丸山さん、ありがとうございました! 会えた人も会えなかった人も、ありがとうございました。南三陸はやっぱり素敵なのだ。ぜひ、遊びにきてくださいね!(石井洋子


お泊まり会に来てくれたひーさん

◆この年末にも、子どもお泊まり会をしに南三陸町志津川を訪れた。2011年の夏からはじめて10回以上になるが、仲間共々、行く度に成長していく子ども達に会うのを心から楽しみにしている。仮設住宅の集会所に集まり、みんなで遊んでご飯を作って食べて寝るだけなのに、仲間と過ごす時間のかけがえのなさを思わずにいられない。子ども達も無意識のうちにそれを感じてくれていることだろう。

◆そんな集まりに、ひょんな事からうれしいゲストが参加してくれた。1月の報告者である、ひーさんこと石井洋子さんだ。ひーさんは行き当たりばったりな私たちのやり方を察してさりげなく手伝ってくださり、気づけば子ども達ともうち解けて一緒に笑っていた。翌朝にはロケットストーブで美味しい焼き芋作り。おかげで今回も楽しい会になった。お泊まり会のあとは、大人達の時間だ。報告会に行けないと分かっていた私は欲張って南極やカヌー旅、ボランティアや移住生活などの話を聞きまくった。

◆いま南三陸町入谷で生活のベースとなる家探しをしているひーさんは、「居心地のいい場所で暮らしたい」と言う。「ここには空き家や土地はいっぱいあるけれど、水があって、日当りもよかったりするいい所には絶対に人が住んでいる。40年前の地図を見ても、その頃からちゃんと住んでいるんだよね〜」。そんな話を聞くと、移住のむずかしさと共に、人々の知恵の素晴らしさと土地の魅力を感じ、この地にますます惹かれていく気持ちがわかる気がする。話に夢中になり、いつの間にか時計は深夜2時をまわっていた。

◆翌日の朝食には、ロケットストーブで焼いたパンをごちそうしていただいた。自家製ワイン酵母のパンは、美しい紫色。林で拾ったクルミ入りだ。挽きたてコーヒーと一緒に、ゆっくりと味わった。そしてひーさんは、大工仕事に出かけていった。震災から5年が経とうとしている今、ひーさんとの出会いは、ちょっと大げさだけれど東北の希望のように感じた。被災地からこんな素敵なことも生まれはじめているんだと。ひーさん、南三陸で、また一緒においしい物を食べながら、ゆっくり話がしたいです。(屋久島 新垣亜美

なにも無いからこそ見えてくる

■「遠い世界の話だろう」と思って臨んだ報告会だったが、意外にも私の日常生活に繋がる要素が幾つかあり、最後まで興味深く聴いた。まず気になったのは、越冬生活のワンシーン。イグルー(室温−35℃!)でのパーティーにチラリと映ったカセットコンロだ。煮炊きや暖房で私が頼りにしている市販品は、冬場、室温が10℃を切ると悲しいほどの弱火になる。たぶん、あれは南極仕様の特注品だな。そう思って報告会後に確認したら、「普通のカセットボンベ2本を、交互に温めながら使っている」の返事。「ウチやホームレスの皆さんの暮らしの工夫は、実は南極標準だったんだ」と嬉しくなった。

◆『南極越冬』と聞くと、私は西堀栄三郎さんのエピソードが頭に浮かぶ。「遠征途中の雪上車からパーツが脱落したおり、手元にあった紅茶を凍らせ、その固着力で修理箇所をがっちり補強した」というあの逸話だ。しかし、そんなのは昔の話。現代では運び込んだ多量の物資に囲まれ、何の不自由もなく越冬生活を送っているに違いない。そう思っていた。けれど彼女の話を聞く限り、今も昭和基地は無いモノを創意工夫で手作りする、ワクワクの世界らしかった。

◆朝目覚めたら、住まいのトラックハウスの周辺を散歩し、拾ってきた枝などをロケットストーブにくべて湯を沸かす。そんなふうに1日を始める石井さんの目には、木材や松ぼっくりが全て燃料に見えるという。私も、ケリーケトル(やかん付き薪ストーブ)や自作のウッドガスストーブ(缶コーヒーと発泡酒缶を組み合わせた廃物利用)で遊ぶようになって以降、紙や棒っきれは木質燃料そのものだ。40〜50gの木片があれば、チマチマと仕事机の上でコーヒーを沸かすことができる。道端の分厚いマンガ雑誌など、何リットルもの熱湯が捨てられているに等しく、ため息が出る。

◆ツボを押さえた長野画伯の「報告者プロフィール」にも拘わらず、当初、私には石井さんの転身の真意が掴めなかった。その疑問も、力強い本人の言葉で聴くうちにスッキリ晴れた。無いものだらけの南極暮らし。全てを奪われた被災地での支援活動。なにも無いからこそ見えてくる、豊かな自然や人との繋がり。そして、その大切さ。石井さんの選択は、筋の通った、極めて当然の流れだったのだと納得した。

◆かつて訪れた国々で、森林や鉱山を先進国の資本が貪り食っている現実に、私は少なからぬショックを受けた。帰国後、いま有るモノを遣り繰りして暮らす面白さに目覚め、ついには、菓子袋1枚捨てるにも後ろ髪を引かれるようになった。お蔭で部屋は半ばゴミ屋敷と化している。そこに住む私の目に、石井さんのガランとしたトラックハウスの中は、惚れ惚れするほど美しく、輝いて見えた。(後端技術研究家:久島弘


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