2017年4月の地平線報告会レポート


●地平線通信457より
先月の報告会から

迷ったら丘に登れ

〜親子二人のダカール・ラリー〜

風間深志・晋之介

2017年4月28日 新宿区スポーツセンター

 ━━筆者前書き━━

■GW前日の金曜日の夕刻の高田馬場駅前はいつもより華やぎがあった。その人々の中を30年ぶりのあの人に会うために足早に歩く。少し早めに着いた戸山公園の新緑が眩しい。

◆あの人とは風間深志さん(66)、風間晋之介さん(32)親子である。私の朧な記憶では、30年程前に風間深志さんの何かの冒険に向けての壮行会でお目にかかって以来で、その時に幼い三兄弟と恵美子夫人も頭の中に映像として残っている。お母さんに抱かれていたのが三男晋之介君だったのだろう。30年は、長い。二人の娘たちの子育てが終わり、最近25年ぶりに報告会にも来れるようになった身として、この親子でダカール・ラリーに参戦という世界中探してもどこにもいない奇跡のような親子の報告に居合わせること、感慨ひとしおである。そんなわけで今回のレポート、編集長と相談の上、少し長めとなることをお許しください。

■あの時恵美子母さんに抱かれていた末っ子は結婚してお父さんと同じ齢で父親にもなった。役者としても活躍している晋之介さんは小顔のイケメン。14歳からモトクロスレース(小型バイクによるオフロードレース)を始め16歳で渡米。現地校でちんぷんかんぷんの英語とメキシコ移民も多いクラスでスペイン語も混じり更にちんぷんかんぷんな中で苦労しながらモトクロスに熱中し、自信をつけていく中で語学も身に付けていく。

◆そして25歳頃までプロレーサーとしてモトクロス一筋の人生を送った。怪我で第一線を退いてからは、日本の俳優養成所に入り役者の世界に転身。自分が父親になって子供の頃からの夢を思い出した。「父と二人でダカール・ラリーを走りたい」と。

◆パリ・ダカールラリーはフランス・パリを出発し地中海をアフリカに渡りサハラ砂漠を越えセネガルの大西洋を臨むダカールまで1万キロを20日で走る他に例がない過酷なレースである。風間深志さんは35年前、第4回レースに日本人として初めて出場し完走、クラス6位入賞を果たしている。2009年から南米大陸に舞台を変え、ダカールには行かないが冒険者たちが目指したその名を残し“ダカール・ラリー”になった。世界一過酷なサバイバルレースであることに変わりはない。

◆今年1月にパリ・ダカから数えて第39回のダカール・ラリーに参戦し、見事に完走した晋之介さん。父・深志さんもチーム監督として参加し夢を叶えた。以下、その報告である。

 ━━父親の凄まじい軌跡━━

◆まずマイクを持ったのは父、風間深志さん。バイク冒険家になる前の彼はバイク雑誌の編集者としてサラリーマンをしていた。5万部発行の雑誌を30万部まで大きくしたやり手である。広告収入が毎号1億円を超えて、もうこれ以上売っても収益は伸びないから売らなくてよいと言われ所詮、商業雑誌で俺の仕事は終わったと感じた。その時に友人、賀曽利隆はバイクで自由に走っていていいなぁ……と思った。

◆同じ頃知り合いがモーターレースで世界チャンピオンになったが、たった12行の新聞記事にしかならなかった。まだバイクは不健全という世間の風潮があった。会社をやめた風間さん(当時29)は、賀曽利隆(32)と元モトクロス全日本チャンピオンの鈴木忠男(35)とバイクでキリマンジャロ(アフリカ大陸最高峰5,895m)登頂計画を立てた。まだ計画段階なのに若き新聞記者だった江本さんが15段記事で書いてくれたことにビックリする。「そうか、スポーツじゃなくて冒険家と言ったら皆が興味を持ってくれるんだ……。よし俺はバイク冒険家になろう! みんなが度肝を抜くような冒険を毎年やっていこう!!」ここにバイク冒険家風間深志が誕生する。(いやぁ〜最初は名乗るの恥ずかしかったよ〜と母性本能をくすぐる笑顔。これだよ、この人の魅力!)

◆1980年2月資金繰りで延びていた出発の日がやってきた。3月になると雨季に入ってしまうギリギリであった。密林の中をがむしゃらに登って行き、倒木で行く手を阻まれると前輪にロープを結わえ付け滑車を使い吊り上げる。大真面目でクレイジーな死闘を繰り返し、大きな岩の壁を前にこれまでだと悟った。4,000m超のところであった。ピークをきわめられなかったが満足感と手ごたえを感じた冒険であった。その後、足で登山して「山は足で登るのが一番いいですね……」とわかったらしい。逆に登山なんて簡単すぎてびっくりしたそうだ。100kgのバイクをひきずらないで自分の身体を足で運べばいいんだからね……って、ハイその通りと言うしかない。

 ━━1982年、パリダカで起きたこと━━

◆そして1982年元旦をパリで風間さんと賀曽利さんは迎える。世界で最も過酷なパリ・ダカール1万キロサバイバルラリーの第4回目、日本人初参戦である。二輪だけでなく四輪、トラックまで400台がスタートラインに並ぶ。スズキDR500を改造して37リットルの大型タンクをつけた愛車の前でポーズをとるモノクロ写真の二人から緊張と興奮が伝わる。フランス語が話せない彼らは60ページに及ぶ道順を示したラリーの命とも言うべき指示書をパリの寿司屋で訳してもらう。15ページ訳すのに1時間かかった。風間さんはもうあきらめてパリになんと指示書を置いて行く。賀曽利さんだけ一応バッグに入れて持って行ったそうだ。

◆ゼッケン81番が風間さん、82番が賀曽利さん。サポートの4輪駆動車もつけられず、とにかくパリをスタートした二人は初日に道を間違えてあわててUターンしたところで賀曽利さんのバイクが観戦に来ていたバイクと激突してしまう。賀曽利さんの肉体的精神的なダメージも大きかったが、風間さんはバイクのダメージをすぐに点検し、なんとか走れるということを確認する。

◆事故で1時間以上のタイムロスがペナルティになり散々なスタートになったが、逆に順位なんてどうでもいい、完走して大西洋を見ようと腹をくくって地中海を渡る潮風に吹かれたそうである。アルジェからアフリカ大陸に入りアトラス山脈を一気に走りサハラ砂漠へと突入する。

◆夜のサハラを走るためにタンクを大きくするのと同時に大切なことはライトである。でも二人のライトは6Vで提灯レベル。明かりを砂漠はものすごく吸収するから大変な思いをしたそうだ。システムやルールもひとつひとつ身体で覚えながら行く。牛の大群に囲まれたり、砂嵐で1日のコースがキャンセルになったり(食料の補給はなし。でもフランス語の伝達はわからない)で、飲まず食わずの状態で通りすがりの“戦友”に貴重な水を分けてもらったこともあったそうだ。

◆指示書を持っていないから人の後を追っかけていくしかない。『砂埃の匂いがするうちは俺は生きている……』と思ったそうだ。そのうち前にも後ろにも人がいなくなり俺一人に。喉が渇いて仕方ない中、不安を飲み込んで走り続けると口が閉じれなくなって、金魚のパクパク状態になった。口の壁に冷たい風が当たると水の役割をする。水は飲めないけど、空気を吸ってる!!! 俺にとって一番目に大事なものは空気だ! 次は水だ! 次は何と言っても飯だ!! と実感する。

◆配られる列に並び、立ったまま缶詰を食らったそうである。遅い夕食の後、日課となっているDRの整備。それが終わると砂の上に銀マットを敷き寝袋の中に入り眠る。寒さで震える夜もある。スタートしてから死亡事故も含め毎日何人もの負傷者が出て131台あった二輪も一台、また一台と消えていく。

◆ここからは『賀曽利隆のオートバイ・ツーリング』(成美堂出版S57年発行)所載「パリ・ダカール1万キロラリー奮戦記」を参考にしているが、ドン尻からスタートした時は『順位なんてどうでもいい、とにかくダカールに着ければそれでいい』と思っていたのがサハラ砂漠も終盤になり賀曽利さんは79位→52位→38位と順位を上げると『1分でも1秒でも速く走りたい、少しでも順位を上げたい』ということしか頭の中になくなったそうである。

◆しかし愛車DRは自転車のライトで砂漠を走るようなもので何回も転倒しながら夜の砂道をふらつきながら走り始める。ガオまであと百数十キロ、ガオに着いたら1日休みがある。一刻も早く着きたい、はやる気持ちと焦りが取り返しのつかない事故を招いてしまった。心もとないライトで夜道を走るため、その対策としてほかの車の前を走り車のライトを借りることにしたのだ。突然立ち木が目の前に現れ「あ!」ブレーキをかける間もなく100キロ以上のスピードで砂漠特有のトゲの立ち木に激突した。

◆左足が骨折したことはすぐにわかった。気持ち悪いほどに出血しているのがヌメヌメした感触でわかった。左手、左腕が全く動かなくなっていた。『ここでは死にたくない』車が通るところまで右膝と右腕を使って這いずっていく。幸運にも止まってくれるラリー車があり、大切な懐中電灯を貸してくれ「がんばるんだ、レスキュー車が必ず来るから」と言い残して走り去った。

◆車が近づくたびに懐中電灯を点滅させ合図を送った。次に止まってくれた車もラリー車だったが3人が車から降りて火を焚いてくれ、気が遠くなる賀曽利さんの頬を何度もたたき、がんばれと励ましてくれた。3時間近くたってついにレスキュー車が来て3人は車に飛び乗りガオに向かって走っていった。賀曽利さんは途中何度も大丈夫だから行ってくれと言ったが、彼らは気にしなくていいのだと傍に付いてくれていた。「ありがとう。本当にありがとう」3時間のロスがどれだけのものかわかる賀曽利さんの心底から湧き出た言葉である。

◆賀曽利さんの事故を風間さんはガオで知る。一時はレースを棄権しようかとも思ったがとにかく早く完走し、パリの病院に入院している賀曽利さんに会う方がいいと思いスピードアップした。その結果が堂々18位、クラス6位入賞という結果を生む。友情の勝利である。パリの病床でこの快挙を聞いた賀曽利さんは痛みが薄らいで、また夢がふくらんできたと言っている。風間さんは「賀曽利さんとは10年会わなくても親友だと言える」と。

◆過酷をきわめたこの20日間の冒険は今もすべて覚えていると言う。ラリーが終わって金持ちも貧乏人もそれぞれの国、生活に戻っていく。しかし皆同じように大自然と向き合い過ごしたこの日々から得たものは変わらない。冒険こそが人間の成長になると風間さんは確信したそうである。

 ━━「人の目がこわかった」の真意━━

◆その後、1984年にネパール側から、1985年に中国側からと2回もエベレスト(8,848m)にチャレンジ、300本以上の鋭い針のようなスパイクタイヤでのバイク登山だった。万一それが自分の足や身体に触れたら大変なことになる。酸素ボンベを背負い苦しくなった時に吸った。自分が決めた『バイク冒険家』を貫きたかった。「なんでこんなことするの?」と聞かれて「自分の挑戦だ」とい言うしかなかった。

◆一番怖いのは山ではなく人の目だった。澄み切ったヒマラヤの大気の中、エンジン音は歓迎されるはずがない。自分が要求しないものが目に入ると人は批判的になる。物音がすると藪にバイクを隠すという冒険家どころか忍者のような、盗人のようなことをした。世の中のバイクに対するイメージを変えたかったから、一層人の目が怖かった。「ナマステ」と笑いながら挨拶し人の顔色を見ながら登った。夢と現のような体験をしながらバイクで6,005mという世界記録を樹立した。

◆冒険は続く。1987年史上初めてバイクによる北極点到達に成功。冒頭にふれた、私が行った壮行会はおそらくこの時であろう。1989年には南米大陸最高峰アコンカグア(6,965m・アルゼンチン)バイク登頂に挑む。バイクでは5,880mまで、そこから徒歩で6,750m達成。同年南極大陸のビンソン・マッシフ(5,140m)は、歩いて登頂。1992年史上初めてバイクでの南極点到達に成功。同時に陸路による日本人初の両極点到達者になる。まさしく毎年、度肝を抜くような冒険をしてきたとんでもない人である。

━━2度目のパリダカで致命的な事故 そこからの再起━━

◆2004年、2度目のパリ・ダカールラリー挑戦。1982年にはなかったハイテクなGPSに気をとられているうちに、スタートしてたった1.3km地点でトラックとの正面衝突事故に巻き込まれた。ハイテクが風間さんの野生のカンを狂わせた。病床の風間さんは地平線第300回報告会の会場にビデオ画像で登場した。事故から200日、8回の手術を経て脛に通されたイリザロフ療法のチューブで患部を24時間洗浄中という痛々しい姿。江本さんのインタビューを受けている。

◆この時53歳の風間さん。成長していく息子たちに再び原点に戻って地平線を追いかける、活力あふれる父の姿を見せてやりたいという思いからの挑戦だった。それが思いもかけなかった大事故。障害を受容するまでにはどれほど深い絶望があったことか。うつ状態にも陥っただろう。経済的な負担を考えても心配事は尽きないことは容易に想像できる。しかし、ここからがこの人の真骨頂なのだった。

◆2009年12月の地平線報告会「ハンディキャップチャリダーズ・ゴーゴー豪州」で報告したように、足にハンディキャップをもつ仲間と自転車でオーストラリア横断5,150kmの旅をしたのだ。これは2007年のスクーターによるユーラシア大陸横断18,000km、2008年の四駆車でのアフリカ大陸縦断に続く第3弾である。運動器(骨・関節・筋肉・靭帯・腱・神経など身体を支える器官)の大切さをアピールするキャンペーンに呼応するものである。

◆治療が上手くいかず13ヶ月間苦しんでいた風間さんを一週間で治した恩人でもある帝京大学の松下隆先生は「外傷分野だけに限って言えば、先進国では日本の治療は飛び抜けて最低。なんとかしなければいけない」と言う。ドイツに80、タイに40ある外傷病院が日本にはないに等しい。事故でプラチナアワー(緊急措置が有効な事故発生後1時間以内)にそこに居合わせた医師が適材適所で動くシステムがない。それは風間さんがまさしく身をもって感じていたことだった。

◆二人は意気投合し、行動につなげる。2010年「障害者による日本列島縦断駅伝」が実行され、沖縄から北海道まで127人がタスキをつないだ。風間さんは全行程を自転車で伴走した。この年南北アメリカ大陸を縦断、健常者より障害者の方が元気だと感じた。風間さんは障害を負ったことで「いつから障害者ですか?」と心置きなく聞くことができると言った。「皆さんは聞けないでしょう?それは慣れてないから、心の壁があるからです」

◆リオのパラリンピック以降障害者レースを見る目が変わってきたとも感じたそうだ。彼らがスポーツをする姿は本気で体当たりで「頑張っている」以外の何物でもない。溢れる情熱が人の心を動かす。そこには健常者も障害者もない。心が元気かどうかだ。『達成とは何を成し遂げたかではなく、成し遂げたことで何を得たかである』最近読んだ女性クライマーのリン・ヒルの言葉が自然に浮かんできた。

 ━━息子の出番━━

■そんな偉大な冒険家を父に持った息子、晋之介さん。小さい時から南極や北極に行って2,3か月帰って来ない父親の背中を見て育ったが、日本にいるときは毎週末に友人家族ら合わせて20人くらいで自然の中でキャンプをする生活で、その中で団体生活も覚えていった。テントでも熟睡できるのもその頃のおかげかなぁ……と笑う。自分のバイクを持ったのは小学5年生10歳くらいだった。モトクロスに熱中し渡米までした。

◆挑戦できる環境があるならやらない手はないと言う末っ子に気負いはない。素直に憧れの偉大な父親とダカール・ラリーに参戦したかった。クラウドファンディング用のプロモーションビデオがあり、報告会ではまずそれを流した。クラウドファンディングは12月に360万円の達成をしている。映像が豊富にあることや眩しいLEDライトなどに時代の流れを感じる。愛車はヤマハY2450F。ゼッケンは118番。今年1月2日にパラグアイからスタートし、ボリビア、アルゼンチンと3か国を12日間かけてアンデスの5,000m超えの高地を走り抜ける過酷なレースである。

◆主催者は昔から安全面と環境面に気を使っている。GPSで世界各国からオンタイムでコースを監視できる。また全個体に発信器が装着されるから、昔よりリスクは低くなった。しかし、ナビゲーションの難しさはトップの選手でも迷うことがあるほどで逆走する車もいた。指示書を持たずに走るなんて考えられない!と父の顔をちらっと見る。しかしその父から教えられた大切なこともある。

◆迷ったら少しでも高い丘に登って、ヘルメットを外して、耳を澄まし、光るものを見つけ、太陽を見て方位方角を見定めて、オンコースに戻るのだと。過酷な大自然の中で助け合いながら生きてきた人々は優しかった。特にボリビアの首都ラパスでは街中に至る20kmも手前から沿道にすべての人が出て歓迎してくれ嬉しかった。日本でも、もっとダカール・ラリーが注目されるといいのになぁ……と本音が出る。ぬかるみにはまったりする危険個所は見所でもあり、観客が待機していて十人程が走ってやってきて助けてくれる。

◆前半戦は気温50℃、湿度98%。後半アンデス山脈は4,000m超えの高地が6日間続き、高山病のリスクもある。気温が低い中での突然の雨や、山肌へ落雷があり石が砕け飛んでいるのが見える中を進んで行かねばならない。さすがにギャラリーもいない。過酷な状況で見るからこそ、山肌を染める朝夕の景色は最高に美しかったそうである。チームはメカニックなど9人でサポートする。宿営地にテントを張り寝袋にもぐりこんで仮眠する前にもやらなければいけないことがある。指示書の確認だ。

◆メカニックはマシンの整備で寝る暇もない。金持ちの1億円位の予算があるチームだと冷暖房完備のキャンピングカーで温水シャワーを浴びれるが、晋之介さんは頭や身体を冷水で拭くくらいだったそうだ。昔自然の中で遊んだ経験がここでも生かされている。短時間で休める身体が備わっていないとやっていけないレースであることは時代を超えても同じである。12日間で10kg痩せた。

 ━━息子の勇気━━

◆バイクは150台参戦し完走できたのは97台。その中で67位の成績である。もちろん二輪では唯一人の日本人だ。父、風間さんは言う。「1位の選手も100位の選手を讃える。皆が賞賛し合う。すごい成績とは言えないけれども、昔より高くなっているレベルの中でよくやった。そして息子の偉いところは、彼が9位の車にバイクの貴重なガソリンを分けてあげたことだ。

◆息子より上の順位のバイクに止められて、動かなくなったバイク修理を手伝った。普通は止まりたくないものだが、止まる勇気があった。俺には出来ねえと思った。そんなことやれなんて俺は教えてないのに。自然を知っている奴は優しくなれるし、強くなれる」嬉しそうな父親の顔だった。35年前に賀曽利さんを助けてくれた仲間がいたことを思い出す。

◆晋之介さんに奥さんは心配していた?と江本さんが聞く。「心配していたと思いますね。2004年の父親の負傷のことも知ってるし……。でも来年、第40回もやりたいと思ってます。もっと順位も上げたい。遺伝ですかね……」と爽やかな笑顔。かかる費用は1,000万円を超えるそうだ。怪我をしてこの日の報告会に松葉杖姿で参加していた母、恵美子さんに江本さんがマイクを向ける。心配しましたか?「東京にいてもオンラインで順位がわかるの。地球の裏側で真夜中に見ているから心配で毎日眠れない。間違ってるコースを来ているな……っていうのもわかってしまう。あれあれ、そっちに行ったら谷だよとか……」旦那の時も心配だった?「やはり血を分けたわが子ですから息子の方が心配です! モトクロスも毎年骨折していたし……。やめたと思ったらまた始めてしまった」

◆それを聞いて深志さん苦笑。晋之介さんに俳優とうまく両立できるものですか?「昨年は8月以降は全て準備に使った。時間の使い方というのは今後必要になっていくと思う。練習にだって怪我のリスクはあるから注意しなければならない。役者業でも完全に一本立ちはしていないから、今後課題になっていくと思う。昔から反骨精神があって、今の俳優業界にも不満を持っている。それとも戦いながら、ぶち壊しながらやっていきたい! 役者も冒険も目標に向かう心のベクトルは同じ!」

◆映画の現場でも今回のダカール・ラリー完走で一目置かれるようになったらしい。「僕、親父と違ってこんな顔でしょ。だから軟弱に見られがちで、この結果は今後役者人生でも生かせると思うし、僕が役者でメジャーになっていくことでモータサイクルの世界に貢献したい」。顔は違うが中味は父親のDNAを引き継いでいるのであった。がんばれ!!!(高世泉


恒例、柚妃ちゃんの質問コーナー

[1]晋之介さんはバイクに乗っている時ほとんど立ち乗りだと言ってましたが馬に乗ったことはありますか?

  A:一度だけあります。立ち乗りはできなかったなあ。

[2]深志さんは映像で髪の毛が真っ白でカッコいいのに、どうして今日は白くないのですか?

  A:映像を自分で見てあまりに真っ白でファンががっかりすると思って900円のカラー染めを買って染めました。

いつもながらの鋭い質問にタジタジなのであった。(泉)


報告者のひとこと

子どもたちのいる風景━━地平線会議のすごさ

■まずはじめに、この歴史ある地平線会議へとお声がけいただき誠にありがとうございました。あんなに子供たちもいる場だとは思っていませんでした。そして、あのような場に自分の子供を出席させてくれる大人がいることに感動と関心を覚えました。多くは大人相手に話をしてきましたが、僕らのような活動をしている人間が本当に話すべく対象は子供たちなのでは?と再確認させられたような気分です。

◆冒険に出て、夢に向かい、その為に犠牲を払い、努力し、理想を掴むということ。自身の目を輝かせ、やりたいことに真っ直ぐに立ち向かうこと。幼い頃には多くの人がこの行為を自然とやっていたと思います。いつしか僕らは自分の限界を決めつけ、何かに抑圧され、自分の本当にやりたいことに立ち向かうことをしなくなって行く。

◆社会へ出て何かを我慢し、ルールに沿うことは必要な事ですが、僕ら大人たちが子供達に何を見せてあげられるのか、何を残せるのか、この事は社会にとっても大切な事だと思います。モバイルに身を覆われ身の回りの素晴らしい世界に気づかなくなっている。「生きる」上で何とも勿体無いことです。「知る」事より体で感じ、触れ、体験するという、デジタルではなくリアルに感じる事の大切さはこの地平線会議の皆さんは知っていると思います。

◆それを子供達や外の世界に発信してゆく。この素晴らしい集まりを知り、体験して欲しいと心から思いました。「僕」にできる事、今後も自分の活動を通して、発信して行きたいと思います。またあの場で報告できるよう、刺激的な日々を、進化ある日々を過ごして行きます。ありがとうございました。(風間晋之介

初体験? 奇妙なダカール冒険行

■39回目を迎えた今回のダカール・ラリー。参戦の目的は親子参加で初出場の息子を完走に導くこと。と、アフリカを離れて9年目、南米大陸を舞台に展開する今のダカール・ラリーは果たしてどの様なものになっているか?(少し懐疑的に)を、この目でしっかりと見定めてみたいと思ったからだ。

◆結果的には、ラリーの舞台の中心は「サハラ」から「アンデス」に移り変わり、そして、二輪&四輪混成のラリーの内容は変わらぬものの、その様相は「個人」から「チーム」戦に、「冒険」的から「コンペティション」化したラリーへと変貌した。

◆そんな部分を指し、過去のサハラ・スタイルに強い執着と憧れを抱く古いダカール・ファンたちからは、一部批判めいた声も聞こえてくるが、いやいや、現行ダカールの自然の過酷さ雄大さもなかなかのもの、あの大サハラに負けじと劣らぬ素晴らしさだった。スタートtoゴールの二週間、毎日の平均走行距離800km、標高5,000mを超える雨模様のアンデスを7日間も走り続け、クソ暑い平地の原野を駆け抜け、その気温差は+47℃から

−3℃までという厳しい自然環境の中だった。

◆出場選手は、その昔はなかった「Dakar Series」の予選をくぐり抜けた60数か国の精鋭たち。世界のオフロードの頂点に位置するラリーに、生涯の思い出となる「完走」を目指し走るのは今も昔も変わらない。そんな中で「Spirit of kazama」のエースライダーとなった我が息子は、全出場ライダー167人中、67位という好成績だった。初参戦での完走は見事と言えるものだったのだが、「親子参戦」と銘打ち、監督の立場で参戦した親父としての気持ちはどうだったのか?と言うと、もうたまらないほどの複雑さ?であった。

◆出発前の日本で、なにか特別な親子同士の親愛さを込めた応援をしてくれた三浦雄一郎さん親子だったが……僕たちの場合は、親子であるが故、本人同様の緊張と真剣さを持って望んだラリーの一部始終だったが、確実に走るのは今回は僕ではなく息子。監督である親父の毎日の仕事と言えば、ただ毎日「心配」するだけで、痛くも痒くもない日々を過ごすだけ。

◆毎夕、息子が日課を無事に走り終えてキャンプ地に帰って来るのは死ぬほど嬉しいことだが、う〜〜う〜〜、まだまだ僕は現役で走りたいのだ!と、心の底から思う「ダカール・ラリー」の参戦でした。(風間深志


5月連休も参加した風間さんの「地球元気村」

■ぼくは、記憶にはないが、生後4か月から風間さんがやっている「地球元気村」に参加しているらしい。先日、5月3日、4日も山梨県山梨市の「元気村・天空の畑」に参加した。今回の晋之介さんのダカールラリーも、Jスポーツ3を観て応援していた。こんなご縁もあり、晋之介さんの話は一度聞いてみたいと思っていた。

◆深志さんのパリダカ初参加したときの、『水が命の一滴だった』というのを聞いて、自然の過酷さを感じたし、地球元気村の活動にもつながっていると思った。晋之介さんのラリーのお話で一番心に残った言葉は、『トップの人もビリの人も同じ距離を走っていて、体にかかる負担や、つらさも一緒だ』ということだった。ぼくは、同じ目的に向かうライバルは、良き仲間であるということを強く感じた。

◆改めて、自然の恵みを大切にしていきたいし、本当の仲間を大切にしていきたいと思った。今後とも、宜しくお願いいたします。(長岡祥太郎 小学六年)


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