2018年12月の地平線報告会レポート


●地平線通信477より
先月の報告会から

ヘンキョーに一瞬を待ちながら

明石太郎

2018年12月22日 新宿歴史博物館

★今月も、報告会レポートは法政大学澤柿教伸ゼミの学生にお願いした。地平線報告会のレポートを書く仕事は簡単ではないが、若い人には大いなる試練の場となるだろう。澤柿先生にまとめてもらったが、地平線報告会の責任者として編集子も少し手を入れさせてもらった。(E)

 

━━阿仁マタギの里

■2018年最後の報告者は、ミクロの映像からキャリアをスタートし、ついには国内外の“辺境”で貴重な記録映像を撮り続けてきたカメラマンの明石太郎さんである。定例の会場が改修工事ということで、新宿歴史博物館での開催となったが、会場の音響設備が充実していて、ドキュメンタリー映像の上映&トークという構成には、思いがけず格好の会場となった。

◆最初に流されたのは「又鬼(マタギ)」の映像である。マタギ発祥の地と言われる秋田県阿仁町(現在の北秋田市の森吉山)が舞台。狩りは残雪期、雪が残りつつも人が歩きやすくなり、熊が冬眠から目覚める3月頃に始まり5月まで続く。マタギの最大の獲物は熊であり、狩りには照準つきのライフルが使われる。狩りへ出る前には、山の神の怒りに触れないようにお祈りをする。山の中で領域を決め、仕留めた熊がどのマタギたちのものになるかを決める。独特な掛け声でコミュニケーションを取りながら熊を探す。足跡が最大の頼りである。

◆銃声が鳴り響いた。銃弾を受けた熊が山を転がり落ちる。しとめた獲物を前に、祟りを除けるための儀式を行う。木枝で熊の体を3回撫で、唱え言葉を3回暗唱する。マタギたちは喜びの表情を浮かべた。熊の解体が始まる。マタギ特有の先の尖った独特のナイフ「ナガサ」で熊を顎の下からさばき、ナガサを撫でつけるように皮を剥いでいく。肉と内臓を切り分け、熊の血をコップにすくって飲む。タバコの箱ほどある熊の胆は、生薬として使われる。解体はわずか30分ほどで終わった。

◆マタギたちは、すべてを丁寧に取り分けて何一つ残さなかった。肉は食用に、皮は敷物に、熊の胆や内臓は薬用となる。毛皮と熊の胆は、参加者たちの間で競りとなる。マタギは、山を歩くのが上手い。人間離れした脚使いで山を下っていく。村へ帰ると、肉や内臓をはかりで量って村人へ配分する。これを「マタギ勘定」と言うらしい。早速調理が始まる。大根で煮ると熊肉の独特な臭みが消えるといい、これをナガセ汁と呼んでいる。煮るそばで少年が美味しそうに汁を頬張る。女性たちが出来上がった料理を宴会場へと満面の笑みで運ぶ。そこには、今か今かと最高の肴を待つマタギたちの酔った姿があった。

◆上映は、ステージのそでに明石太郎さんが司会進行役の江本嘉伸さんと並んで座り、“解説”するかたちで進行した。今回「又鬼」は20分にまとめられていたが、上映後のトークの中で、本編は53分の作品だったことが伝えられた。江本さんに促されながらおもむろに口を開いた明石さんから、少人数での撮影を頼まれたため、カメラ2台(つまりカメラマン2人)で、16ミリフィルムのアリフレックスと呼ばれるカメラが撮影に使われたことが語られた。また、自身はまったく山歩きのトレーニングなしでの撮影だったため、斜面を直登するマタギについていくのが大変だったという。

◆マタギの儀式に「3回くりかえす動作」が多い理由は何か?という会場からの質問に、マタギに限らず神への祈りに3という数字が共通して関係している可能性が高いという返答であった。「犬でも3回まわってワンというでしょう」と明石さんがおっしゃると、会場は笑いに包まれた。(澤柿ゼミ2年・亀岡浩樹

 

━━遊牧の草原

■2本目に上映されたのは「開高健のモンゴル大紀行未知の大地に幻の巨大魚を追って」という1987年に放映された(撮影は1986年)作品。大草原や生活風景を映しながら、釣りをライフワークとする作家、開高健のモンゴルにかける意気込みなど、まずは、撮影が実現するまでの経緯の説明がある。舞台はモンゴルのハートランド「アルハンガイ」。社会主義時代のモンゴルでこの奥地の撮影が許されたのは当時が初めてのことだった。目的は開高健が追い求めてやまない「幻の巨大魚イトウ」である。首都ウランバートルから西へはるか600キロ。2日間かけての移動を経て撮影は本格化していく。

◆大草原や植物を画面いっぱいに映しながら、モンゴル奥地の風物を語っていく。様々な動物と人間の共存からなる当時のモンゴルは、どこか気迫のある雰囲気が漂っていた。イトウを求めて川に行くが、気温が上がる日中は岩陰に身を潜めてしまうという。モンゴルでは自然を信仰の対象とする習慣がある。その一つであるテルヒンツァガーン湖は、広大であり神秘的であった。水中撮影により、魚や藻の様子をはっきりと目視でき、よりリアルさが伝わってきた。

◆植物から動物まで、ありとあらゆる自然をテロップをつけて説明し、これにより、開高健と明石さんの一行が、草原の広大さや自然の優しさに引き込まれる様子が、描き出される。日本人にはなじみのない「オトル」という牧畜民の知恵も紹介された。一箇所の草場を動かずに羊やヤギに草を食べさせ続けると草原はたちまち荒れてしまう。それを避けるために1週間とか10日ごとに草場を移動させるのだ。「オトル」は、自然と共に生きるモンゴル遊牧民の間に数千年前から受け継がれている知恵だという。

◆ある日、羊がオオカミに襲われた。これを知ったモンゴル民がオオカミを撃ちとるシーン、鬼気迫る迫力に圧倒された。オオカミを遠くから撃ち抜く技術は一級品で、撃たれたオオカミは混乱し、やがて死んでいく。リアルなシーンだからこそ現地の雰囲気を肌で感じ取れた。撮影最終日、開高健はついにモンゴルの川の王者イトウを釣り上げる。打ち上げられたイトウからは、美しさと畏敬の念を感じ、身の色が変わっていくその瞬間を捉えていた。

◆上映後、明石さんと江本さんとのトークがはじまると、一転、当時の世界情勢の話に。1986年のモンゴルはまだモスクワの指令で動く社会主義国だった。もちろん、いまのような成田〜ウランバートル間の航空便はない。明石さんたちは北京から国際列車で一昼夜かけてモンゴルに向かった。レールの幅が「広軌」と「標準軌」で違うので中国・モンゴル国境の駅で必ず下車して車両交換を待ったのだそうだ。車中で税関逃れの人にものを持っているように頼まれたりと、モンゴルに行くまでには様々な苦労や事件があったという。

◆上映された映像の中で出てきたオオカミ狩りの撃つシーンは、非常に残酷なものであったが、明石さんの話では、モンゴル人にとってオオカミは、見れば反射的に殺したくなってしまう存在であったという。というのも、オオカミは、仲間を引き連れて一晩で羊たちを100頭も殺してしまうこともあったからだ。羊は遊牧民にとってはなくてはならない存在であり、羊を守るためにオオカミを見たら撃ち殺すという行為が体に染みついているからである。「撮影で“オオカミが振り向くシーン”を撮りに行った際も、狩人は狼を見つけても撮影をする前に撃ってしまうほどでした」と明石さん。

◆明石さんは、後述するように2003年にもイヌワシの撮影に訪れるなど、4回もモンゴルを訪れている。現地では野菜が作れず高価なため、北京で野菜を調達して行く。一方、魚は現地でよく釣れてたくさん食べた。このテレビ番組はサントリーの一社提供だったのでお酒だけはふんだんにあった、と明石さんが喜びの表情で語ると、会場が笑いに包まれた。開高健は釣りが好きな冒険家であった。ユーモアのある人であり、大所帯で生活を送る際にはフランスの小話をしたりと、皆が楽しんだり仲良くなれるような機会を持とうとした。時にはつまらない話や下ネタもあり、無理して笑っているときもあったという。

◆休憩を前に、モンゴルに詳しい大西夏奈子さんの「4分トーク」があった。大学でモンゴル語を専攻し、いまもモンゴルに通い、日本ではモンゴル出身力士たちの取材を続けているという大西さんが、モンゴルは現在、大気汚染と政治腐敗という2つの大きな問題を抱えていると訴えると、驚きの声が広がった。冬の首都ウランバートルは、ゲル集落から出る石炭ストーブの煙や排気ガスなどが盆地の底にたまり、ひどい地域だとまるでホワイトアウトの中にいるようで、肺炎や気管支炎になってしまう子もいる。親たちはSNSを使って情報交換したり、抗議のデモを行ったりもしている。

◆賄賂が非常に多く、政治家が人気取りのために国民にお金を配ったり、金を悪用したりと、国政は荒れている。ただし、現在のモンゴルが持っているのはマイナスの側面だけではない。再生エネルギー大国になる可能性があり、AI技術も世界トップレベルを目指して発展しようとしている。新しくチンギス・ハーン空港も完成し、これらは非常に期待されている。遊牧民の儀式がどれも3回であることに疑問を持っていた大西さんは、又鬼の話を聞けて大興奮して今夜は眠れない、とまでおっしゃった。

◆オオカミが撃たれた瞬間の映像が見事だったことに対して明石さん夫人、貞兼綾子さんから質問があった。明石さんの答えは、その瞬間、撃ったダルワ爺さんのすぐ隣にいたという。たまたま良いタイミングでカメラを回していて、まさに千載一遇のチャンスであった。それ以降あれよりいいものは撮れていない。いくら素晴らしいものを目にしても、カメラに撮れなくては意味がない、そういった意味でも、狩る決定的な瞬間が撮れたことは価値のあることであった。

◆また、社会主義時代には全否定されていたチンギス・ハーンが、現代では国祖として復権している、という指摘は興味深かった。モスクワの指示で長く「ヒトラーのような扱い」を受けていたチンギス・ハーンは民主化で復権し、過剰なほどに崇拝されるようになった、と江本さんは指摘した。(澤柿ゼミ3年・島崎司吏、2年・竹中智哉

 

━━盟友たちとの撮影行、ギアナ高地

■休憩を挟んだ後、3本目に流れたのは「新世界紀行〜魔の山チマンタ」という映像であった。1987年の作品である。舞台は南米大陸ベネズエラ南部にあるギアナ高地。日本の約1.5倍の広さを持つこの高地には100を超えるテーブル状台地がある。映像は、切り立つ台地に雲がかかる幻想的な空撮シーンから始まる。この地の誕生はおよそ2億年前、大地殻変動が起こり平原は隆起し分裂した。そして柔らかい部分が流され硬いところだけが残り、切り立ったテーブル状の山になったという。

◆数十億年の地球の歩みをそのままにしたような風景で、頂上に生息する生物は2億年もの間隔絶され、独自の進化をすることとなった。アーサー・コナン・ドイルはこの地をモデルに『失われた世界』を執筆したという。今回の取材班は山登りのベテラン5人で編成。まずはカヌーでアウヤン山の周りを通ってチマンタ山塊を目指す。両サイドに緑が生い茂る川を進むと、目の前に突如として堂々たる岩壁が現れた。これこそがアウヤン山だ。

◆取材に入ったのは3月で気温は40℃近くと蒸し暑い。乾季のため川の水量が極端に少なく、いたるところで舟を引っ張ることとなった。男達が川に飛び込みロープを手づかみして船を引いていく。しばらくしてアウヤン山の麓に到着したが、ここからでは何もわからないため、取材班は空から山々を撮影することにした。標高差1000mを超す絶壁に沿ってジャングルから熱風が吹き上げ、それが乱気流となり、飛行は非常に危険である。撮影した年にはすでに2回墜落事故があったといい、気流の良い日を選びに選んで撮影に臨んだ。

◆空から見下ろすと、テーブル状台地が広い大地にぽつぽつとあることが確認できる。ヘリコプターで進むこと1時間、世界最大の落差979.6mを誇るエンジェルの滝が見えた。そのまま進んでアウヤンの頂上付近に辿り着く。台地は麓からは想像できない程広い。さらに進むこと1時間半、ようやくチマンタ山塊に到着した。画面いっぱいに広がる黒く大きな空洞。黒い絶壁の下から地底の鳴動が聞こえてくるようだ。

◆深さの見当もつかないその闇の中を、小さなヘリコプターが飛んでいる。その様子はまるで薄羽蜉蝣のように頼りない。このシーンには聴衆の皆が息を呑んだ。頂上に降り立った取材班はさっそくベースキャンプとする場所を探す。結局、1000mの高さからいつ落下するかわからないような崖寄りにテントが張られた。一息入れてタバコを吹かしながら仲間と談笑する取材班の姿をカメラが追う。ここに3週間滞在することになるのだ。

◆岩の合間に張り巡らされた植物を掻き分け、取材班は開けた場所を探す。滝の上にヘリコプターを着陸させる場所を見つけた。カンッ、カンッ、カンとハンマーの音が周囲に響く。懸垂下降で滝を降りるため、ロープを固定するボルトを岩に打つのだが、永年の浸食に耐えた岩は想像以上に硬い。谷底に降りたつと、身体中に水流の飛沫の音が響く。人跡未踏のこの地に数億年に渡って響いてきた貴重なこの滝の音を、取材班は人類で初めて聴く栄誉に浴している。

◆最後のシーンで、懸垂下降で壁にぶら下がる隊員が「花を見つけたぁ〜!」と叫ぶ。「何のはなぁ〜?」と、崖の上から聞き返す声。「わかんなーい」と返答がきた。会場は笑いに包まれた。映像を見終わった後、江本さんと明石さんのトークが始まった。1987年のチマンタ山での撮影はとてもアクロバティックなものだったという。まったく底の見えないクレバスに1日1回の雷雨。しかも雷は下から上がってくる。このような自然の驚異にさらされ続けた。とても危険で怖い撮影が成功したのには、パイロットの力が大きかったという。その彼もこの撮影の3年後に事故で亡くなってしまった。

◆これが一番怖かった経験? との江本さんの問いに、明石さんは、1981年に行ったアフガニスタンでの経験が一番怖かったと言う。惠谷治さんをリーダーに、早大探検部仲間の坂野皓さんをディレクター、カメラマンを明石さんがつとめ少数民族ハザラ族ゲリラに扮しての山中35日間の行動。日本人と外見は似てはいるものの、まったく意思疎通ができない。お腹を下して外で用を足している所に銃を突きつけられたこともあり、今となっては笑い話になっているが、その時はいい得えも知れない恐怖だったという。今回は上映されなかったが、明石さんが歩き続けてきた「辺境」がどのようなものだったか、想像することはできた。

◆この日は3作品の上映予定であったが、明石さんの作品の中には、世界初の瞬間を捉えた貴重なものがあり、せっかくの機会ということでいくつかの映像が追加で上映された。追加の4本目の映像は、野生のユキヒョウの動いている姿を捉えたものである。これは、1987年に防衛大のチョモランマ登山隊に同行した際、偶然撮れた映像だ。登山ルート沿いで撮影中に、だだ広い雪の斜面にポツンと黒い動く点のようなものが目に入った。それがユキヒョウだった。それまでチョモランマにはユキヒョウはいないとされていた。6600mという標高で900ミリの超望遠レンズを使って撮影したという、非常に貴重な映像である。

◆最後の映像は「大草原にイヌワシが舞う〜モンゴル・カザフ族 鷹匠の父子〜」という2003年の作品。冒頭で、右手で鷲を使い、左手で馬を操る勇壮なカザフ族の姿が映し出される。何千年も前から変わらぬ伝統的な姿である。タカ匠よりワシ匠と言ったほうが正確だが、この作品は、普段は服や帽子を作る暮らしを送り、鷲匠の技を競う大会で2度の優勝歴を持つというカザフ族の鷲匠が、失われつつある技を二人の息子に教え、大会に出るまでの過程を追っている。

◆まずは、新たに訓練に臨む息子の相棒となるイヌワシの雛を手に入れることから始まるが、これにも昔から伝わる伝統的な方法を使う。イヌワシは絶壁の途中に巣を作る。親鳥が餌を探しに巣を離れる隙を狙って、体にロープをくくりつけて崖を下り、巣に残された雛を攫いに行く。思いの外雛が大人しかったこともあり、14歳の息子はこの命がけの作業を遂行した。雛を家に連れて帰ると、枝などを折って重ねて巣を作り、そこで雛を育てる。餌は小さく切った羊の肉。ある程度育ったらイヌワシとの信頼関係を築くための様々な訓練を開始する。

◆ここまで上映されたところでちょうど報告会の終了時刻となってしまい、鷹匠大会の結果は結局わからなかった。明石さんのコメントでは、現在も鷹匠の伝統は健在で、人間たちが鷹やイヌワシを乱獲しないでいるから共生できている証拠である、ということであった。報告会では合計5作品を見せてもらったが、明石さんがこれまでに作ってきた作品は81作にも上る。最近の仕事としては、NHKの「ダーウィンが来た」の取材をしていると言う。今もなお、ありのままの生き物の姿をカメラに収め続けているのだ。また、会場では、3.11後から福島で取材を続けている「生きものの記録」シリーズのDVDセットが割引販売されており、報告会が終了する頃には完売していた。(澤柿ゼミ3年・大森琴子、2年・飯野志歩


報告者のひとこと

地平線会議にふさわしいと考えたものを選んで……

 かなり前のことですが、江本さんから報告者の依頼をいただいたことありました。こちらも仕事が空いていたので気軽に引き受けたのですが、報告会直前に仕事が入って、土壇場でキャンセルした苦い経験があります。今回報告会を無事果たせたことを喜んでいます。

 報告のテーマは別に定めず、今まで撮影した作品の中から地平線会議にふさわしいと考えたものを選び、ダイジェスト版で見ていただくことにしました。『又鬼』、『モンゴル大紀行』、『魔の山チマンタ』の3本。

 『又鬼』(1983 群像舎)は、私のドキュメンタリーカメラマンとしての立ち位置を決定づけた作品です。人は少しの塩と他の生き物の命を断って食べるしか生を活かす道はない。人に限らず全ての生き物の宿命である。又鬼衆の「春クマ狩り」はその一端を垣間見せてくれました。何と潔い生き方をしている人達なんだろう! その生きざまに感動しました。それから3シーズン秋田県阿仁町に通って撮り続け、1983年完成し秋に公開されました。

 以後クマとの出会いは、「野生の王国」(1985)では冬眠から醒めたクマに追われ、『白い馬』(1995)でゴビ砂漠のゴビ熊を探し求め、「ジョン・ミュアーの道を行く」(1995)でクロクマに食料を奪われ、「不思議の森の冒険」(2006)は軽井沢の森の中で2mまで異常接近されてクマよけスプレーを持ったまま睨み合い、数秒後クマが目をそらし去ってくれたので助かりました。小便チビリましたね。その後クマとの付き合いの集大成となる『平成熊あらし』(2009群像舎)が完成しました。

 「モンゴル大紀行」(1987)は私のメジャーデビューの作品です。大手民放テレビの大型特別番組で、しかも未知の大地モンゴルで幻の大魚イトウを『オーパ!』の小説家開高健さんが釣るという企画。担当の坂野晧ディレクターからの電話を受け取ったのは取材先の西表島の民宿でした。私は覚えていないのですが民宿のおばさんに言わせると、電話を切った後大声を出して飛び上がったのだそうです。

 難問がありました。取材半ばでカメラマンが離脱し他のカメラマンと交代できるものかどうか、それをディレクターに伝えねばなりません。普通、私たちの世界ではあり得ません。それでも自分の意志は強く、泡盛を飲んだ勢いで過激になった事もありました。それをOKしてくれたのが岩崎雅典ディレクターでした。西表の上原港で見送ってくれた時に、「頑張ってこいよ!」と送り出してくれた言葉が今も耳に残っています。

 「魔の山チマンタ」(1987)は、「潜入・アフガニスタン35日間の記録」(1981)で組んだ恵谷治、坂野晧と私とで南米の秘境・ギアナ高地に挑んだ記録です。TBSの新番組「新世界紀行」の2作目。5年続いたこの番組には10本以上に関係しました。中には3週にわたった作品も含まれます。

 チマンタ山塊の頂上台地は雨が多く常に高湿度だと聞いていました。ビデオカメラは湿気に弱く、大量の乾燥剤を準備したのです。案の定、台地は雨ばかり。稲妻も横に走る。「髪の毛が逆立ったらカメラ、三脚を置いて岩陰に逃げろ!」と教えられました。霧が深く行動できない日もあり、雨が上がり霧が晴れて断崖絶壁から無数の滝が滴り落ちる絶景も見ました。行動が制限されていささか欲求不満ではあったが「まあいいさ! 又来れば!」と現場で話しました。長く取材タッグを組んできた、その恵谷治、坂野晧も鬼籍に入り、再訪は夢のまま終わりそうです。

 今や4K8Kの時代。画角は3:2から16:9のハイビジョンになり、映像機材の進化著しい昨今、報告会では30年前の作品や番組を見てもらいました。画質や音声の悪さにもかかわらず会場に熱気を感じました。当時のTV局、制作会社、スタッフが手を抜かず、ごまかさず、丁寧に番組に取り組んだ事が見る人に伝わったのではないでしょうか。その気持ちを忘れずにこれからも撮影の仕事を続けて行きたいと思います。報告会は尻切れトンボで終わってしまいましたが満足しています。参加していただいた皆様には最後までお付き合いいただきありがとうございました。(明石太郎・カメラマン)


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