2025年5月の地平線報告会レポート


●地平線通信554より
先月の報告会から

天空の頂に憧れて

北村節子

2025年5月31日 榎木町地域センター

■今回の報告者は、1975年に女性として初めてエベレストに登頂した田部井淳子さんとともに登山隊に参加した、北村節子さん。今年2025年は女子エベレスト登山隊が登頂を果たしてからちょうど50年という節目の年でもある。新聞記者として働きながら、国内外の山を登り続けてきた北村さんが、自らの山との歩みと、大正〜昭和の前半まで日本における女性登山の軌跡を語ってくれた。

子ども時代と山への目覚め

◆北村さんは1949年、戦後間もないベビーブームの時期に信州で生まれた。営林署に勤務する転勤族の父のおかげで何回も転校したが、行く先々で田舎暮らしを満喫する。信州は学校登山が盛んで、小6では佐久の「双子山」、中2では「木曽御嶽」に登ったのがよい思い出だという。木曽御嶽は、北村さんにとっても初の3000m超えの経験だったが、みな、体育授業用の綿の白いトレパンで登り、校長先生はゲートル姿だった。まだ中学校の生徒たち、中には音を上げる子もいたが、北村さんにとってはとてもエキサイティングで、「山っていいなぁ」と思う原体験となった。

◆中学卒業後は、親元を離れて松本市の松本深志高校へと進学した。北村さんが3年生のとき、忘れられない事故が起こる。それが「松本深志高校西穂落雷遭難事故」だ。学校登山の一年後輩の2年生55人が落雷に遭い、そのうち11人が亡くなるという痛ましい事故で、これを受けて多感な思春期の生徒たちは大きな衝撃を受けた。後追い自殺まで起き、「生きるとは何か、死ぬとは何か」と考え込む生徒も多かったという。北村さんもやはり大きなショックを受けたが、この遭難は、山へ強い関心を持つきっかけともなったという。

◆翌年、上京しお茶の水女子大学に進学した北村さんは、「山が見えない」という東京の風土に素朴なショックを受ける。そこで、追悼登山と称して初めて穂高(西穂)へ向かった。弔いのために登山をしているはずが、そこで登山の魅力にハマってしまう。「なんて素敵なところなのだ!」と感銘を受け、“穂高病”にかかったのだ。なんとかしてここに通いたいと思い、翌年の夏休みから「上高地高山植物監視パトロール」のバイトに参加。北村さんにとってそれは「この世で最高のアルバイト」だった。山小屋で3食が提供され、山々をめぐっては、植物や昆虫などを採集する登山者や観光客に注意したり簡単な説明をする業務。そんな中で山に対する興味がどんどん増し、山の知識も増えていった。そこでのアルバイト代はすべて、登山装備へと消えていく。冬山登山を志していた北村さんは、冬山はやらないという大学山岳部入部はやめにし、独学で登山技術を学んで山行を重ねていった。

「女子だけのエベレスト登山隊」への参加

◆大学卒業を見据えて就職活動を始める際にも、女性であるがゆえの苦労があった。1970年代の当時は男女雇用機会均等法などなく、多くの求人は「男子のみ」。女性向けの求人は数少ない中で、運良く読売新聞社に就職することができた。が、当時の労働基準法では女性は深夜早朝勤務に就かせることができないという事情があり、本来、研修後は地方支局に配属されるのが通例だった中で、支局での勤務は難しいと判断され、いきなり本社社会部に配属。同期では女性は北村さんただ1人で、社としても17年ぶりの女性採用だったのだという。超・男性社会の新聞社において北村さんは記者としての道を歩み始める。世の中の動きを活字で伝えるという仕事は刺激的であり、手探りしながら仕事に邁進していった。

◆そんな中、1973年のある日、とある15行ほどのベタ記事を目にした。その小さな記事には女子登攀クラブが1975年の春にエベレストに登る権利をゲットした、とあるのにびっくり。というのも、そもそもエベレストといえば、ネパール政府から登山の許可をもらえるのは春、秋にそれぞれ1隊のみ。世界の強力な隊が虎視眈々と狙っていたから。「女性だけで挑戦」という発想自体がラディカルだったし、それに許可が出た、という事態も思いがけないことだった。

◆真っ先に「これはぜひ取材したい」と思い、即、隊の母体となる「女子登攀クラブ」が奥多摩のバンガローで開いた隊の準備会を取材、そこで出会ったのが、田部井淳子さんだった。北村さんにとって、田部井さんは強い印象を残す女性だった。当時の女性は語尾を濁すような話し方をするのが通例であった中、「私はこう思います。みなさんどうですか」ときちんと句点をつけて自分の意見をはっきり言う態度が「とても気持ちいい人。この人好きだな」と思ったのだという。

◆田部井さんに強く魅了された北村さんは、数日後彼女の自宅を訪ねてまたもびっくり。彼女には2歳の娘がいたのだ。にもかかわらず遠征するという強い意志にあらためてうたれた。田部井さんとの話は大いに盛り上がり、ほんの30分ほど話す予定が3時間ほど話し込んでしまった。エベレストへの想いを抑えきれなくなった北村さんは、その数日後に、田部井さんに「私もエベレストに連れていってください」と電話で告げたのであった。電話越しに、田部井さんが“絶句”した空気を感じた。

◆登山歴の浅い北村さんが隊に参加することへ懸念を示す隊員もいる中、北村さんに可能性を見出した田部井さんによって、まずはサポートという形で隊に加わることになった。やがて、彼女の登山経験と体力、そして何より「やりたい」という熱意が認められ、正式に「日本女性エベレスト登山隊」のメンバーに加わることになる。

◆1975年の春、女子隊総勢15人のメンバーはネパールのカトマンズを経て、ベースキャンプへと向かった。カトマンズから途中の村までは軽飛行機で向かう隊が多いものの、女子登山隊は約1か月かけて徒歩で向かった。その意図は、体力作りと高度順応。時間をかけて体を高度に慣れさせたことが功を奏し、隊員たちのほとんどは高山病にならずにすんだ。

◆北村さんは、キャラバン途中、標高4000mから、経費節減のために一気に5350mのベースキャンプを目指す先遣隊に指名される。地元で雇った、文字も読めない人も多い500余人のポーターを率い、到着地ではその賃金を払うという大役。わずかな賃金で一人当たり30キロの荷を背負う彼らの中には、赤ん坊連れの母親や10代半ばの少年少女もいた。社会人になりたての北村さんにとっては世界のリアルを突き付けられる経験でもあった。

◆5月16日正午過ぎ、田部井さんがエベレストに登頂。この登山隊の成功は、日本における女性登山者の存在を世に知らしめる転機となった。「女性が登山をする」ということが、もはや例外でも特別でもなく、「ステキなこと」として認識され始めた最初の一歩だったのである。

七大陸最高峰と世界中の女性登山者たち

◆エベレスト登山を機に、北村さんは「女性と登山」というテーマに強い関心を抱くようになった。記者であるという自らの立場を活かし、あるいは必死で休暇を取得し世界中へ登山に出かけるようになる。田部井さんと北村さんの隊が次なるターゲットとして選んだのはチベットだった。エベレスト登山の功績が評価されて中国から特例的に登山許可がおり、1981年、幻の山と言われていた「シシャパンマ」へ女性9人で挑戦することになった。ここでも田部井さんが2つ目の8000メートル峰に登頂を果たした。

◆大勢で登る登山方法(極地法)に疑問を感じ始めた北村さんは田部井さんと2人だけで1983年にインド山旅に出ることになる。旅は少人数に限るということと、資金を寄付に頼るのではなく自分たちで工面するという新しい方法を試したのだ。

◆すでにキリマンジャロ、マッキンリーにも登頂していた2人にとって、このころから「七大陸制覇」が視野に入り始める。そして同時期、登山界にも「フェミニズム」の潮流がやってきていた。「女性が女性の力で山に登る」ということが1つのムーブメントになりつつあり、それを世界中の山々を登る中で肌で感じてきた。女性たちの登山のスタイルについても、国籍によって違いがあり、アジアでは女同士で登るパターンが多いが、欧米では父娘や夫婦など男女ペアで組むことが多い、そんなことにも気がついてきた。男女混成チームにおいても、性別で役割を分けずに、女性も男顔負けの力強い活躍を見せる場面を数多く目にしてきた。

◆1991年には、湾岸戦争に揺れる世界情勢を尻目に南極のビンソンマシフへ、そして翌1992年に西部ニューギニアへ行き、カルステン・ピラミッドに。いろいろなトラブルの末結果的には田部井さんが登頂している。七大陸制覇を達成した後は、誰かが決めた目標を達成するのではなく、自分たちで決めた目標を追いかけよう、ということになった。そこで目標に定めたのは、ヨーロッパの「アイガー」「マッターホルン」「グランドジョラス」だった。グランドジョラスは頂上直下の崩落事故で目指したシーズンは通行不可で登れなかったが、1995年には田部井さんと北村さんの年齢を合わせて「101歳の記念」をアイガー登頂時に祝うことができた。

昔の女たちはいかに山に登ったか

◆北村さんは今、自らが生まれる前の時代の女性たちがどのように山に登ってきたか、ということを文献や聞き込み調査をしながら調べているのだという。昔のことを聞くために訪ねていくと、「つい先日亡くなった」「今はもう認知症になってしまっている」「調べて訪ねて行った住所は空き家だった」などというケースが多く、直接本人から話を聞き出すことはそう簡単ではない。今回、北村さんが調べた女性登山史の一部を紹介していただいた。

◆大正年間に入ってからは山に登る女性の写真も少しずつ残されるようになってきたが、その中の服装を見ていくだけでも、日本人女性が山に登るスタイルに変化があることがわかる。1919年の女子高等師範学校付属校の生徒たちは当時一般的だった「茣蓙」を雨具がわりに着ているし、1929年には、ある婦人の、鹿島槍下の冷池のテントに着物姿でたたずむ写真も残されている。大正時代の女学生の学校登山は、袴にわらじを履いて登るのが普通だったようだ。それにしても、大正~昭和初期に山に登る女性たちというのは、どんな身分だったのだろうか。

◆1957年には、川森佐智子さんという方が日本人女性として初めてマッターホルンやモンブランに登ったことが記録に残っている。彼女は8か月間も単身で欧州滞在しこの山行を成し遂げたというが、気になるのはその財源だ。実は彼女の夫は名だたる軍備品の発明者であり、戦後は造船会社の重役を務めていたとのことで、かなり裕福だったであろうと想像できる。彼女の死後田部井さんが彼女の追悼文集に一文を寄せているが、「御殿のようなお屋敷だった」とそっちの方に感心した様子。川森佐智子さんのように、当時の日本で先鋭的な登山をやっていた女性のほとんどは資産家であり、名家のお嬢様で高学歴というケースが多いようである。

◆例外もある。中村テルさんという方で北村さん自身もお会いしたことがあり、とびきりの美人で華やかなマダムだったという。元々は資産家の生まれであったものの、実家の没落から若くして自らで家計を支えなければならなくなったという経緯がある。英語を学び、18歳の時点で一般サラリーマンの3倍は稼いでいた彼女は当時としては珍しい「自分で稼いで山に登る女」だった。戦後も通訳として活躍し、日本で初めての女性山岳会であるYWCA山岳会を作ったという功績も残している。

◆今でこそ女性にも登山への門戸が開かれているが、そうではなかった100年近くも前に、これほど多くの女性が登山をしていたということに驚かされた。こうして多くの事例を並べてみると昔の女性たちは軽やかに多くの偉業を成し遂げているかのように思えるが、その無謀とも言える大きな挑戦を前にして、どれだけの人が「女性にはそんなのは無理」と言われてきたのだろうかと想像する。

◆ほぼ男女平等の世となった今、むしろ「女性だから」ということが言い訳にできない時代になった。しかし、今回、自分の中で「女性だから無理」と無意識に決めつけていることはないだろうか、と改めて振り返ってみた。

◆私事であるが筆者は先日、バイク(大型二輪)の免許を取得した。私は女性の中でもかなり小柄であるため、周りから「さすがに無理なんじゃないの」と言われたものの、絶対に諦めないという気合いでなんとか卒業検定合格まで至った。高校生のときからずっとバイクに乗りたくて、でも自分には無理だと決めつけていた10年以上の時間よりも、諦めないと決めた3か月で意外にもあっさりと乗り越えられてしまうのは拍子抜けだった。エベレストに比べて非常にスケールが小さい話で恐縮なのだが、登山をし続けてきた昔の女性たちの自分を信じる力の強さは半端ではないのだろうと想像している。

◆今回の報告会では、北村さんや、北村さんが生まれる以前の女性たちも、今以上に女性に自由がない時代に、自分たちがやりたいことをやってきていたことに、とても勇気づけられた。

◆今年の10月、田部井さんをモデルとした劇映画『てっぺんの向こうにあなたがいる』(主演・吉永小百合)が公開される。それに合わせて、北村さんの著書であり、田部井さんとの山行の詳細を綴った作品『ピッケルと口紅』の文庫化も予定されているそうだ。この秋は、映画や書籍とともに田部井さんと北村さんが世界中で重ねてきた山行の数々に思いを馳せてみたい。[貴家(さすが)蓉子

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 イラスト 長野亮之介


報告者のひとこと

「女性登山隊」が成り立っている社会

■自分の山登りは「やわ」なものなので、たまたまエベレスト隊とか田部井淳子さんとかのかかわりで人様にお話する立場になったのは面はゆいことでした。が、たしかに50年という年月を経てみると、自分自身の「滑って転んで」にも「歴史」が透けて見えるもんですね。戦後の経済成長に従って、ズック靴はキャラバンになり、革靴になり、コフラックの二重靴に。行動食だって、乾パン・魚肉ソーセージじゃなくて、「車で立ち寄る」「山麓のコンビニで」調達する、大福や作り立てのおにぎりに。レトルトのかば焼きもあるぞ。行動としてはだんだん軟弱化。行く先は広域化、これって幸せなのか、といぶかりながら、年齢のせいもあってもう宿命甘受です。こうして楽をしながらますます「昔はよかった」なんていうバーさんになるわけね。順調順調。

◆ところで、報告中でも少し触れましたが、日本の女性登山には「女性同士で」が結構多い。欧米のほとんど「カップルで」に比べると、「これはなぜ?」と思わずにいられません。逆に言うと日本の男性は「男同士」で登る機会が欧米より多いはず。つまり基本的に「男女別々文化」。これって、国会の党役員が背広男ばっかりだったり、地域の合唱団で女声は大勢、男声が足りない、なんて日本の現象にも通じる気がします。

◆こう見ると、「女性登山隊」というキーワード、案外いろんなものを引きずっているのかも。「どこへ登った」だけでなく、「女性登山隊」が成り立っている社会についてもあれこれ詮索してみたい気分です。

◆貴家さん、大型二輪の免許取得とはすばらしい! バイクは新しい世界につれていってくれる乗り物です。私は30代になってから400ccまでの中型二輪の免許を取って、行動半径を広げることができました。今思えば私こそ「女性だから、30代だから」と、自己規制して中型で満足していた気配があります。貴家さんの勇気に脱帽! でもくれぐれも事故には気を付けてくださいね。挑戦するということは、同時に「より慎重になる」ことを伴うものです。[北村節子


断然面白かった北村節子さんの話

■女性のエベレスト初登頂から50年、にちなんで北村節子さんがご登場と聞いて、これは是非に、と久しぶりに報告会に駆けつけました。期待に違わず心躍るエキサイティングなお話でした。思えば地平線に顔をだすのはほぼ半年ぶりのこと。この間、学部長を務めていた現場で発生した大事件の処理に追われ、この四月からは大学の経営陣にとりこまれてしまって学生の相手をする時間も自分の研究テーマに取り組む時間もすっかりなくなってしまっていたのでした。

◆その代わりといってはなんですが、ゼミの卒論生だった杉田友華さんが継続的に地平線に顔をだして通信にも記事を寄せてくれていましたので、私の欠席を埋め合わせてくれたようで嬉しく思っています。その彼女も今春から北の大学院に進学して研究ライフをエンジョイしてくれているようです。学生たちを地平線に連れてくるようになってはや10年。この間、前任の北大とまったく異なる学生気質に戸惑いながらも試行錯誤しながらやってきましたが、荻田泰永氏の北極ウォークに参加したゼミ生もいましたし、本格的に雪氷圏のフィールドワーク研究の世界に飛び込んでいった杉田さんのような若者も育てることができました。

◆法政大学という大規模私大に移ったときに「もう極域研究の最前線にでることはないだろうなぁ」と覚悟はしていました。それでも目標は高く掲げておきたいと、1)自分のゼミ生を冒険・探検の世界に引き込むこと、2)法政大学在職中に南極に行くこと、3)一流の学術誌に論文を載せること、の三つの目標を掲げてやってきたのでした。1)は地平線の皆さんにすっかりお世話になったおかげで実現できましたし、2)もコロナ禍の厳しい中で越冬隊長として最後のおつとめを果たすことができました。残る3)もあとちょっとで国際誌に論文が受理されるところまできています。ということで、これで三つの目標も果たせたことですし、研究・教育の最前線からはいったん退いてもいいかなと思うようになりました。学部長になったのはまったくの晴天の霹靂でしたけれど、南極とはまた違う組織運営を実践したことで未体験ゾーンの刺激をうけたこともあり、いま与えられている立場でも大学経営という新たな挑戦領域にむけてなにかしてみたいな、と思うようにもなったところです。

◆四月からは、担当する多摩キャンパスに加えて九段にある大学法人本部と、二つの勤務地を往復することになりました。朝イチで江戸前老中御用部屋へ出仕して秘書さんと各部署への指示の打ち合わせ、午後は領地国元へとって返して教職員との会議、というような日々です。日本のど真ん中が勤務地になるなんて、自分が思う自分らしさからしたら最もありえないはずだった展開で、まるで参勤交代大名のような気分です。ただ、江戸城のすぐ脇にオフィスがあるので、報告会が開催される早稲田の会場に来るのは前よりも楽になりました。日本山岳会(JAC)のルームも市ヶ谷の近所ですので、これからなにかと交流が進みそうです。

◆JACと言えば、北村さんのお話を聞いていて、大学山岳部での女性部員の活躍の歴史ということにも思いがよぎりました。昨年末に法政大学山岳部創立100周年記念祝賀会におよばれしたときにお土産に100周年記念誌をもたされたのですが、その編集後記にとても共感したことを思い出しました。そこには《当初この記念誌は「担い手不足のため作成しない—」。そのような決定がなされかけた。そこで「私たちがやります」と声を上げてしまったのが私だ》と書いてあったのです。この「私」こそが現在JACの事務局員をされている豊泉さんで、その昔は男女分かれて活動していたという法政大学山岳部『女子部』の流れを引く若手ホープだったのでした。

◆カチカチと自分の頭の中でいろんな事象がくっつき合う瞬間を体験して、北村さんが手がけておられるという「女性の登山史」ができあがってくるのがとても楽しみになりました。特にお話を伺っていて面白かったのが、大正デモクラシー前後の富裕層の「お嬢」が先駆的なアルピニズムを実践していたという話。「チェアーにザックは……」と叱責されたのを茶化して「ロックにザックは……」とふざけ合うお二人の光景も目に見えるようで、ほんとうに面白かったです。

◆中村テル女史はもともとは夕張の出ですが、実は、遠く北の地でもインテリ・富裕層が山で幅をきかせてきた時代はありました(男の話ですけど)。学生登山界で槇有恒と共にリーダー格として活躍した板倉勝宣らの時代などがそうです。未開の蝦夷地に分け入っていくにはそれなりの時間とお金に余裕がないとできなかったのですからそれも当然とうなずけます。ただ本州とちょっと様相が違うのは「都落ちした富裕層/開拓地の名士」という雰囲気もあったことです。私の世代は、そのころの雰囲気をまだ持っていた先達とかろうじてお付き合いできた時代でした。

◆まだ未踏で心残りのルートがあるのでサポートしてほしい、と老教授から頼まれてガイド役を引き受け、下山した後に「晩ご飯をご馳走するから」と、山の格好そのままで札幌市内のフランス料理レストランに連れて行かれたことなどを思い出しました。その一方で、坂本竜馬の血筋を引く「原野の農民画家」としても知られる坂本直行氏らの活躍もありました。なかなか女性の活躍までは私の浅学では引きだせないですが、そのような視点でも北の登山史を見つめ直してみたいと思うようになりました。

◆さて、私が取り込まれてしまった大学経営陣のトップは、田中優子氏に続いて本学二人目となる女性の総長でもあります。この総長のもとで大学経営の舵切りをしている日々の合間を見て、今後もちょくちょく報告会には顔をだしたいと思っていますので、どうぞよろしくお願いいたします。[法政大学・澤柿教伸 いまでは副学長!=E]

高低差8000m超えのジェットコースターのような報告会

■中二で行った木曽御岳で「山っていいな」と感動していた可憐な少女(主人公)が、新聞社入社を経て田部井淳子さんと運命的に出会い、瞬く間に逞しい女性へと成長してゆく……。紙芝居形式で駆け抜けた報告会は壮大かつスピーディーで、まさに高低差8000m超えのジェットコースターのようでありました。

◆当時の新聞社に漂う男社会気質は如何様だったのか? エベレスト初登頂を目指す女子隊に流れていた空気感は? 女性特有の長所も短所も深く理解しながら、北村さんが度重なる現場で体得してきた「女性ならではの底力」というものが男性の僕にもひしと伝わってきました。

◆好き嫌いや人生の価値基準に芯が通っている北村さんだからこそ、運命の大波が来ても咄嗟の判断に迷いのない場面が多々あり、その感性と逞しさにも驚嘆しました。過酷な現場の連続なのに、ご本人は飄々と楽しそうに乗り越えてきている感じが凄いんです!

◆女子隊エベレスト初登頂達成後に、悩める田部井さんに寄り添う北村さん。人生いざというときにはこれまで共に歩んできた信頼がお互いを支え合うのだとしみじみ……。隊の登山の難しさを痛感した後に、すべてから解放されるようにお2人で(あるいは3人で)、七大陸制覇が視野に入るほどの勢いで登山に没入し、純粋に山々と戯れている姿が僕の目には最も幸せな瞬間に映りました。北村さんにとって、山とは人生の困難を学び、人生を心の底から楽しむ現場だったのですね。

◆ これほど壮大なストーリーを、頭脳明晰で鋭い感性を持ちながらも、時にユーモラスでチャーミングにまとめ上げるその見事な語りぶり。スパッと終わる歯切れの良さたるや名人級の報告会でした。ジェットコースターが終わり、「もっとずっと聞いていたいな……」との思いに包まれております。まだまだ興味深いお話の引き出しがたくさんありそうな北村さん。記者時代の取材よもやま話等も含めまして、別の機会がありましたらまたお聞かせくださいね![車谷建太

100年前、山に登るときの女性たちの服装!

■なんて気持ちよい風がふいたことでしょう! 北村節子さん、田部井淳子さんに、8000メートル級の山々に連れていってもらったような2時間半でした。そして、面白いお話しがいっぱいでびっくり。

◆山の世界にも社交界があるということにハッとしましたが、写真のなかの田部井さんは確かにどんどんおしゃれになってゆく。チーム登山で、誰が頂上へアタックするのか?生々しい攻防戦も、北村さんにかかると不思議と軽やか。その人が登る理由があるのだと納得できてしまう。チベットの秘境もパプアニューギニアも、そうか、山は背景であり、北村さんの目が活写しているのは「その土地のひと」と「ともに登るひと」なんですね。

◆後半の、日本女性の登山史もとっても興味深い。上流の奥さま、努力家の職業婦人、なぜか料理研究家が多いのよねえと人物描写が際だって面白いうえに、目を引いたのは山に登るときの皆様の服装。着物に袴をつけた勇姿あり(ちょっとモンペ風)、ゴザを体に巻き付けるという実に素晴らしいアイデアも! そうまでしても、山に登りたい、高い所に立ってみたい、世界を見下ろしてみたいという女性たちがいたことに、大いに励まされた2時間半でした。[佐藤安紀子

本になるのが楽しみです

■女性が登山を始めたのはいつからか。どのような登山だったのかという登山史を意識したことがありませんでした。歴史としてみたときに社会での女性の立場から登山の在り方も今と違っていたはず。着物で登山をしていた時代、どんな人がどんな風に!? この史実が本になるのが楽しみです。

◆また、北村さん自身の学生時代の登山経験から田部井淳子さんとの登山に至るお話の背景には「女性」の社会的な立場も常について回る。近代女性登山史の生の声が聞ける機会に参加でき無理してでも行ってよかったです。北村さんの登山愛と社会背景、女性だけの登山の裏話をもっと聞きたかった。今、当たり前のように育休が取れるのも先輩女性の皆さんが奮闘してきてくれたお陰ですね。

◆今回子連れで参加しましたが、報告会中に子どもが泣いても気にしないでと声をかけてもらい、とても気持ちが楽になりました。ありがとうございます。子育てが落ち着いたら北村さんお勧めの穂高へ行きたいです![うめこと、日置梓

イラスト-2

  イラスト ねこ


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