2025年5月の地平線報告会レポート


●地平線通信554より
先月の報告会から

頭の中は地図だらけ

賀曽利隆

2025年6月28日 榎木町地域センター

■今回の報告者は江本さんが「怪物」と称するほど、20代から勢力的に国内外をバイクで走り続けている鉄人「賀曽利隆」さんです。地平線会議の創設メンバーでもある賀曽利さんですが、報告者としては今回で何と16回目の登場となります。

◆レポートを担当しました私、福島県いわき市の渡辺哲にとって報告会へはコロナ前の2019年1月以来の参加となりました。報告会といえば必ず走って参加することにしているので今回も仕事を終えた金曜日の夕刻に福島県いわき市の自宅を出発し、国道6号線をひたすら南下して翌朝6時前に茨城県の東海駅に到着しました。先ずはランで気合いと気持ちを整えて、会場に向かいました。

◆報告会の冒頭、江本さんから「地平線では若者の発掘に力を入れているがシニアも凄い、その代表格が賀曽利隆さんです」と紹介されました。現在までのバイクでの総走行距離は約188万km。とてつもない距離を走破しながら、常に旅の記録を取り続けることで、それに裏打ちされた膨大な知識は聞いている人を圧倒するほどの迫力です。今までの旅のメモ帳は何と240冊にもなるそうです。

◆この日の第一声は「地平線で20代のころの話はしたことなかったので、今日はとても高揚している!」。早速20歳で飛び出したアフリカ大陸一周の話から始まりました。「広いな〜」、高校3年生の夏休みに千葉県の外房海岸に行く途中の車窓から広がる田園風景を見た時に賀曽利さんが発したこの一言がその後の運命を大きく変えた、すべての原点がこの一言にある、と回想されています。「アフリカなんてこんな広さなんかじゃないぞ!」と後に一緒にアフリカを旅する友人の前野幹夫さんの言葉が続きます。これがきっかけとなり一気にアフリカの雄大な大自然の風景が頭の中を巡り始めました。こんな狭い日本を飛びだして広い国々を旅したいと、沸々と気持ちに火が付き、「よし、アフリカへ行こう!」とすぐさま友人4人と具体的計画の立案に取りかかりました。

◆今回は会場に賀曽利さんと一緒にアフリカを旅したその前野幹夫さんが来られていました。前野さんにマイクが向けられると、「お前とは何十年も会ってなくとも、昨日会ったみたいだよ」と挨拶され、お2人の間柄を感じます。賀曽利さんも前野さんのことを「戦友」と呼んでいたほど、当時の凄まじい状況をくぐり抜けてこられたのですからね。

◆何故、アフリカへ行きたかったのか。それを賀曽利さんは「猛烈な反発心」という。大学受験を控え、敷かれたレールをただ進んでいくだけでいいのか、何かしたいのではないか、そんな「見えてしまった明日、見えてしまった自分」がアフリカへと駆り立てたのだと。大学受験には失敗してしまいましたが、「浪人はしない」と決めていたため、すぐさま資金稼ぎの仕事に没頭します。「すべて自分たちの手で準備し、必ずアフリカへ行く」という強い意志が1日20時間という過酷な労働を支え、2年間で100万円の資金を貯めました。

◆「生涯旅人」としてスタートの日となる1968年4月12日、横浜港から出港の日を迎えました。「やればできるのだ」と大きな自信を手に入れた賀曽利さんは、出発まで漕ぎつけた喜びに打ち震え、出航した船の甲板で、一升瓶をラッパ飲みしながら前野さんと祝杯を上げたそうです。この時の自信こそが「200万kmを目指す男」の礎となった、とのことです。

◆約40日の船旅を経てモザンビークのロレンソマルケスに降り立ち、いよいよアフリカの大地を走り出しました。食費を最小限に切り詰め、全泊野宿という超貧乏旅行でしたが、現地の人の優しさに触れながら旅を続けている途中で最大の危機に直面します。エジプトのベニスエフから古代遺跡の残るファイユームへ向かう途中で道に迷い、住民に道を尋ねようとした途端に、「イスラエル、イスラエル」と叫びだし暴徒化した群衆に襲われてしまったのです。殴られ蹴られ引きずり回されて、もう死を覚悟したそうです。そんな危機を地元の民兵により助け出され、どうにか難を逃れました。

◆アフリカに旅立つ前は腕や足の1本位は無くす覚悟でしたが、いざ死に直面すると、生きたい、死にたくないと生への気持ちを強烈に感じたそうです。その後も様々な危機を乗り越え、旅をスタートしてから1年を過ぎようとしたジブラルタル海峡を渡る前日に賀曽利さんは前野さんへ打ち明けます。「もう一度アフリカに戻りたい」と。この1年でアフリカに魅かれた思いを抑えることはできませんでした。その申し出を前野さんは淡々と受け止めたそうです。

◆そして二人はスペインで別れ、その後前野さんはイスタンブールから西アジアを横断し、インドのボンベイから日本へ戻りました。当初の計画通りのルート通り旅を終えたのです。賀曽利さんは西アフリカ経由で南下し、スタート地点のモザンビークのロレンソマルケスに戻り1969年12月に日本に帰りました。

◆続いて1971年8月に世界一周に旅立ちます。この旅もアフリカを中心とし、それもサハラ縦断をメインに据えての旅でした。タイのバンコクからスタートし、パキスタンのカラチでバイクを引き取り西アジアを横断〜アラビア半島を横断〜メッカ巡礼、そしてアフリカ大陸に入り西アフリカのラゴスからサハラ砂漠縦断を開始しました。地中海のアルジェまで約5000kmのルートのうち、途中の約1000kmは無給油地帯なので、サハラ砂漠を走るトラックを見つけ出しガソリンを積んでもらう作戦で、どうにかサハラ砂漠を縦断しました。その後は更にヒッチハイクでサハラ砂漠を縦断し、その後カナダに渡り、北米の全49州をバイクで走り1972年9月に日本へ戻りました。

◆20代最後は六大陸周遊(1973年8月)です。この旅はヒッチハイクをメインにして、バイクは現地でレンタルするスタイルを取りました。バイクを大陸から大陸へ輸送するには時間もお金もかかるためです。今回もタイのバンコクからスタートし、オーストラリアはヒッチハイクとバイクで回り、トータル2周しました。モーリシャス島〜マダガスカル〜南アフリカに入り、バイクを借りて南アフリカを走り、更にヒッチハイクでも回りました。ヨーロッパから北米そして南米コロンビアのカリまで来たところで、夜間野宿している際に何と盗難に遭ってしまいました。カメラや写真メモ帳等盗まれてしまい、ショックで気持ちを立ち直すことができず、残念ながら南米一周を断念し1974年11月に帰国しました。

◆ここまでの前半戦を怒涛のごとく話し続けた賀曽利さん。まるで先週旅をされてきたのかのような勢いで現地の地名や回ったルート、訪れた時期等を正確に記憶されています。若かりし日の賀曽利さんをが思い浮かべ、引き込まれた前半戦でした。

◆後半は30代の旅からスタートです。20代のほとんどは海外を走っていた賀曽利さんですが、30代に入り強烈な虚脱感に襲われたそうです。それこそ命懸けで走ってきた世界に対して、今まで自分のやってきたことは何だったのかと。そこで目が向いたのが日本です。峠や温泉といったテーマを持つことで日本を見て回ろうと決心し、30歳にして初めて日本一周に旅立ちます(1978年8月)。

◆そして1980年2月には鈴木忠男さん、風間深志さんと共にアフリカ大陸の最高峰「キリマンジャロ」にバイクで挑むチャレンジが続きます。出発の直前、当時の読売新聞(夕刊)の一面にこの冒険行について掲載された新聞記事のコピーが会場内に回覧されました。これは当時江本さんが書かれた記事です。

◆その後は1982年12月に風間深志さんと共に日本人初のパリ・ダカールラリーに参戦しました。このレースでは賀曽利さんは夜間に立木に激突し、大怪我を負い無念のリタイヤとなりました。その怪我の回復後に遂に南米一周を完遂させました(1984年10月)。

◆そして40代に突入した際に急激な体の衰え気力の萎えを感じるようになりました。賀曽利さん自身、かつては「サハラの狼」といわれていたのが「牙を無くした狼」になってしまった、と揶揄されていました。そこでこの局面を乗り越えるには、今まで最も情熱を注いできたサハラしかない、とサハラ砂漠縦断を決意し1987年11月に挑みました。40リットルの特注ビックタンクを搭載したSX200Rでサハラ砂漠往復縦断を成し遂げて、新たに力を取り戻すことができたそうです。

◆ただ、帰国後に更なる試練が賀曽利さんに襲い掛かります。40代編日本一周に旅立つ直前に何と左の肺に腫瘍が有る事が発覚しました。ただお医者さんの許可を得つつ旅を続行し、世界一周〜サハリン〜インドシナ一周〜オーストラリア2周を成し遂げます。痛みがなかったことをいいことに逃げ回っていましたが、いよいよ腫瘍が肥大化していたために、遂に腫瘍を摘出する手術を受けることになりました。40代の大半は常に肺の腫瘍のことが頭にあり、肺癌で自分は50歳までは生きられない、と覚悟して尻に火が着いた感じで「生き急いだ年代だった」と振り返ります。

◆更に50歳となった1997年12月には、またしても病魔が賀曽利さんを襲います。こんどは脈拍が途切れ途切れになる不整脈が続き、しばらくの休養を余儀なくされました。体調が戻っても「心臓をやられてしまった」と思うと、出歩こうという気もまったく起きずに、「このまま一生バイクに乗れないのでは」とさえ思ったそうです。当時江本さんからも、「1年間はおとなしくしていなさい」、と忠告を受けたそうです。そんな危機を救ってくれたのも実はバイクでした。

◆出発を1年遅らせた50代編日本一周(1999年4月)の途中で、何と奇跡が起こったのです。お医者さんからはこの不整脈とは一生つきあっていくことになる、と忠告されていたのですが、日本橋を出発してから13日目に何と脈が正常に戻ったのです。それ以降現在まで不整脈も一切なくなりました。常々バイクは「最高の健康機器」と宣言し、それを体現している賀曽利さんですが、正に説得力がありすぎるエピソードですね。

◆また温泉巡り日本一周(2006年11月〜2007年10月)では何と3063の温泉に入りまくり、これはギネスの世界記録に認定されました。真冬の信州でも温泉に入り続け、一日で10〜20湯の温泉に入る過酷な旅でしたが、これによって血管まで鍛えられたと力説されています。

◆還暦を迎えても何のその、60代編の日本一周(2008年10月)では厳冬期の北海道をアドレス125で走破し、更に海外ツアーも勢力的に走り続けました。そしてついに70代に突入です。70代編日本一周ではVストローム250というバイクで5年半で23万kmを走破しました。これまで1台のバイクで20万kmを走ったのは、初めてでした。

◆そして報告会の終盤では日本観光文化研究所の話題も出ました。宮本常一先生が所長を務められていた通称「観文研」。長らく賀曽利さんは所員として活動されていました。宮本常一先生が1981年に逝去され、1989年に観文研は閉所となりましたが、「先輩方からの教えがもの凄く生きている、ほんとうに観文研時代の経験は貴重だった」と振り返ります。

◆各年代を乗り越えるたびに病気や老いや様々な障害を乗り越えてきたなか、「70代への壁を乗り越えるのが今までで一番楽だった」と言います。まだまだ走るパワーは留まることなく、今年10月にはアフリカ縦断の旅を控えている賀曽利さん。いよいよバイクでの通算走行距離200万km到達まであと12万km余りまで迫って参りました。

◆もしや2年後の80代編日本一周中にその瞬間が訪れるのかと、密かに私も今からその瞬間を楽しみにしています。この先もどうぞお気を付けて、バイクで走り続けて下さいね。全国のカソリファンを代表してこれからもしぶとく背中を追って行きますよ。賀曽利さん、また焚き火キャンプやりましょう。次回は夜中に薪がなくならないよう、大量に準備しておきますので!![福島県いわき市 渡辺哲

イラスト-1

 イラスト 長野亮之介


報告者のひとこと

来年の西興部地平線、必ず行くぞー!

■今回の地平線会議での報告会は自分にとっては16回目になりますが、すごく期待したのは我が旅人生の原点をみなさんにお伝えできるということでした。1回目は1982年2月のことで、「パリ・ダカール・ラリー」を一緒に走った風間深志さんとの報告会でした。このとき、ぼくは34歳になっていました。それ以降の報告会では南米一周、サハラ砂漠往復縦断、インドシナ一周……というように、その時々の行動を報告させてもらいました。

◆我が旅人生の原点というのは1968年まで遡ります。20歳の旅立ちです。友人の前野幹夫君と横浜港からオランダ船の「ルイス号」に乗船。2台のバイクを積んでアフリカ大陸を目指したのです。1年をかけての「アフリカ大陸縦断」が2年あまりの「アフリカ大陸一周」になりましたが、22歳になって日本に戻ってきたとき、ぼくは生涯をかけて世界を旅しようと心に決めたのです。「22歳の決心」どおりに、「世界一周」(1971年〜72年)、「六大陸周遊」(1973年〜74年)とたてつづけに世界を駆けまわりました。

◆今回の報告会でうれしかったのは、「アフリカ大陸縦断」を共にした前野君が来てくれたことです。我々は17歳の夏の日、外房の鵜原海岸でキャンプしたのですが、その鵜原に向かう外房線の車中で「アフリカに行こう!」という話になったのです。横山久夫君、新田泰久君をまじえての4人組。結局、アフリカに旅立ったのは前野君とカソリの2人でした。横山君、新田君はすでに他界しましたが、今でもなにかというと2人を偲んでいます。

◆今回の報告会でうれしかったことのその2は、江本嘉伸さんの書いてくださった新聞記事を見つけ出したことです。報告会の事前の準備で資料を探している最中にみつけました。1979年11月17日付けの読売新聞の夕刊です。社会面一面をぶち抜くようにして、「冒険ライダー三人男」、「アフリカの最高峰キリマンジャロ」、「オートバイで登っちゃおう」……の大見出しが躍っています。賀曽利隆、鈴木忠男、風間深志3人のバイクでのキリマンジャロ挑戦を江本さんが記事にしてくれたのです。その記事のコピーをみなさんに見てもらいました。

◆80歳を過ぎた鈴木さんは今でもバリバリの現役ライダーだし、風間さんは1万人以上ものライダーを能登の千里浜に集める「SSTR」の主催者だし、賀曽利は生涯200万キロまであと12万キロ、あれから45年たっても変わらずに元気な「冒険ライダー三人男」だと江本さんにお伝えしました。

◆今回の報告会では賀曽利隆の40回に及ぶ「海外ツーリング」の一覧と、全部で12回になる年代編、テーマ編の「日本一周」の一覧をみなさんに見ていただきました。この一覧は受付で1枚づつ取ってもらいましたが、じつはみなさんに一番、見てもらいたかった「カソリの世界地図」があったのです。1968年〜69年の「アフリカ大陸一周」から2024年の「台湾周遊」までのすべての我が旅のルートを色分けして示した手作りの世界地図なのです。それをどこかの時点で回して見てもらおうとしたのですが、すっかり忘れてしまいました。残念無念。

◆でも限られた時間内で60年近い「カソリ旅」を話すことができ、最後に2026年の北海道・西興部村で予定されている地平線会議に「必ず行きますよ!」までを話せたのはほんとうによかったと思っています。[賀曽利隆


イラスト-2

  イラスト ねこ


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