■今回の報告者は坪井伸吾さん(62)。長年勤めた郵便局員の仕事を辞め、今年の4月から9月にかけてユーラシア大陸最西端のポルトガル・ロカ岬からトルコ・イスタンブールまでの約4,000kmを歩いて旅をした。旅を終え、日本に戻って約3か月。心の整理も進んだ今、60代にして挑んだユーラシア歩き旅について語っていただいた。
◆高校のときはヨット部に在籍。和歌山県のヨット競技(二人一組で操縦)の名門校で上の学年にも下の学年にも日本一になったペアがいた。自分たちは全国7位までしか進めなかったがここでの厳しい練習によって鍛えられたことがその後につながっている。1989年、アラスカで購入した中古バイクで北米を縦断。さらに中南米を走行しアルゼンチン南端まで走破した。途中で資金が尽き日本に戻るなどの紆余曲折を経ながらも、約4年をかけて旅をやり切った。過去に五大陸すべてをバイクで走り、合計6年、15万kmを旅した。これまでバイク、いかだ、徒歩、ランニングと様々な方法で旅を続けてきたが、何者?と聞かれたときはバイク乗りと答えるのはこの6年間に及ぶバイク旅が人生の軸にあるからだ。
◆バイクで南米を走っていた1992年秋から93年にかけてはアマゾン川源流から河口まで4か月かけて仲間二人と“イカダ下り”を実施した。この時代の旅で今と違うのは、インターネット普及前で「自分がどこにいるのかわからないという日々がずっと続いていく」という状況。現代では経験しようと思ってももうできない旅のカタチだった。同志社大学時代には人力車友の会に所属し、東京から東海道五十三次を京都まで人力車を引いて仲間たちと歩いた。これが歩く、走るの一番の原点につながっている。
◆今から20年前、2005年には北米大陸横断ランニングを実施。ロサンゼルスからスタートしてニューヨークまで5,400kmを単独で走り切った。一番の問題は水。水が無いと「死んでしまう」。猛烈に気温が上がる中、砂漠越えで6リットルもの水を用意して走ったがそれでも水は全然足りない状態だったそうだ。20年経った今も強く記憶に残る体験である。当時は、野宿を続けながら15キロの荷物を背負い1日50~60km進むことも当たり前だった。この北米大陸横断ランで培った経験は、今回のユーラシア歩き旅の土台となった。
◆今回の旅でやりたいことは明確だった。北米大陸横断ランのゴール地点(ニューヨーク)から、地球一周の線をつなぐ旅だ。前回のニューヨークから飛行機で大西洋を越え、ポルトガルに渡り、そこから日本に向けて東へと進むユーラシア歩き旅。20年前と同じようにはできなくても、自分でなんとかなるというイメージがあった。もちろん20年分の衰えも自覚していた。当時と同じ一日平均50kmの移動は無理だろう。昨年11月の富士山マラソン(河口湖周辺を走るフルマラソン)の記録は4時間半。年齢からいえば速いほうだが、「そのくらいの人はいっぱいいてアスリートとしては大したことがない」と率直に語る。今回のユーラシア歩き旅に挑戦するにあたり、「アスリートとしては無理だけど旅人としてやればできる」と語る。
◆ここで旅の前のトレーニング記録がお披露目された。旅の前、特別なトレーニングは何もしていない。月ごとのランニングの距離はゼロに近い。「行動するうちに順応して、できる」という坪井さん独自の旅人の論理が周囲を驚かせた。旅の前、坪井さんの寝袋購入に付き添ったときに「どういうトレーニングをしているんですか?」と訊くと、「やっているうちに体が慣れるんよ。何もしていない」と言っていたのは謙遜でなく本当だったのだ!
◆ヨーロッパを横断するために巡礼路を利用する計画を立てた。ヨーロッパにはスペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラ(以下、サンティアゴ。キリスト教の三大巡礼地の一つで聖ヤコブの墓がある聖地)へと収斂する無数の巡礼路がある。当初は寒さを敬遠し南を回るつもりだったが、調査を進めるうち「巡礼路をつなぐ」というコンセプトに惹かれて計画を変更した。その中でもフランス・ルピュイの“岩山の上の教会”の写真を見て心を動かされ、「ここに到達したい」と思った。
◆3月31日に郵便局を退職し、4月10日に日本を出た。ユーラシア大陸最西端に位置するポルトガルのロカ岬から聖地サンティアゴへの巡礼路(通称:ポルトガルの道)を北上した。旅の2日目、この日の宿をどうしたらいいかわからない中、同じ道を辿る4名が声を掛けてくれ迎え入れてくれた。すごく嬉しかった、心強かった。メンバーはオーストリア、イギリス、アメリカ、イタリアの壮年男性陣。即席の国際チームの誕生だ。
◆ここから坪井さんたち5名は、車が通り土埃の舞う巡礼路、ぶどう畑の中を通る巡礼路と数日間行動を共にした。4日目にはイギリス人のデービット(63)がリタイア。脚の故障で歩けなくなってしまったがそのときのデービットの寂しそうな表情が忘れられない。皆何かしらの想いがある。重いものを背負っている。彼らにとっては一生ものの感じが伝わってきただけに彼のリタイアは寂しかった。元々団体行動が苦手と語る坪井さん、歩くペースの違いもありチームは自然と分解した。
◆所々続く難路をこえ、300km地点の古都コインブラへと到着。ここまで無事に来られたことで、「自分は最後まで行ける」という感覚が生まれた。ドミトリーではポーランド人男性のスタンとの出会いが待っていた。日本に8年住んでいたことのあるスタンの話を詳しく聞くとなんと坪井さんの地元、和歌山で生活をしていたという。しかも年齢も坪井さんと同じだとわかった。そこからスタンの身の上話を聞いた。共鳴し合う二人の時間。旅の醍醐味である“思いもよらない出会い”が訪れたひとときだった。
◆さらに歩みを進めこの巡礼路の中間地点350km、アルベルガリアという街に着いた。街の中央広場には巡礼者の立派な像が建っている。街の人にとって巡礼者は生まれたときからいる身近な存在。巡礼者のための補給食が道端に用意されており街全体が巡礼者を受け入れている。
◆ここで一枚の印象的な写真がスクリーンに映された。両腕にストックを持った50代ぐらいの白人女性の後ろ姿。果てしなく続く巡礼路をバックに、今にも倒れそうな状態でうなだれている。明らかに限界を迎えている様子だ。でも「助けを求められるか、倒れない限り手は出せない」。それぞれが何かを求めて懸命に歩いているのだ。坪井さんが実感を込めながら「この街に辿り着くだけでも凄い。大概の人はスタートすること自体を諦めてしまう。ここに立っているだけである意味尊敬に値する。それをこの街の人たちはわかっているから、巡礼者は大事にされ尊敬もされている」と語った。ここに立つ人たちは皆何かしらの想いを抱えながら、この道を歩いているのだ。
◆ポルトガルから国境の川を越えスペインへ。そして、いよいよ最初のゴールであるサンティアゴ大聖堂へと辿り着く。700kmの道のりを歩いてきた巡礼者の中には感極まって泣く人もいて、街中に幸せが満ち満ちている。巡礼路の良さは、大聖堂というかたちのあるゴールがあり、ここできれいに完結すること。皆で同じ道を歩む中で、同じ夢を見ることができる。皆で歩くこと自体が楽しく、偶然再会する人たちもいて、出会いが満ちていることが巡礼路の良い所だと感じたそうだ。そこからさらにフィステーラへと足を延ばした。地の果てを意味するこの地まで計1,000kmの道のりだった。坪井さんの中の目標地点だ。今回の歩き旅全体からすると、1/5の距離に過ぎないが、これ以上先の旅は想像がつかない。目標が叶い、ここで座って立ち上がれなくなってしまった。夢という名の目標があって、それを原動力にここまで動いてきた。夢が叶った瞬間に、夢は夢でなくなり、ここから先、何を原動力に自分自身を引っ張っていけばよいのかわからず呆然としてしまったそうだ。
◆ここから先、スペインからフランスのルピュイに向けて“東へと”進む約2,000kmの旅がスタートする。巡礼路の1つである通称“フランス人の道”を逆行して、ヨーロッパを東へと横断するルートを進んだ。すれ違う巡礼者たちと「ブエン カミーノ(良い旅を!)」と挨拶しあう。巡礼者からは「そっちは逆だよ!」と何度も注意された。そもそも巡礼路を逆行して歩く人などいないからだ。道標の存在に気付かず何度も道に迷った。ここで坪井さんの精神の変化へと話が移る。
◆朝起きて、巡礼路を歩きながらひとり前日のことを振り返る日々。旅では昨日の自分自身にあれでよかったのか、もっとできたのじゃないだろうかと自問するのが習慣となっている。昔は自分自身が許せなかった。自分はもっとできたはずだという思いが、常に何をしていてもあって腹立つことが多かった。最近は自分自身を許せるようになった。昨日あれでよかったのかと自問したときに、いやよく頑張ったよなという返事が自分の中から返ってくる。今は緩くなった感じがあり楽になった。昔はもっとキリキリした感じを持っていた。飄飄としたイメージの坪井さんの意外な一面に触れた思いがした。
◆フランスへと入るためのピレネー山脈越えはいちばんの難所となった。20kmの距離で標高差1,450mを一気に下りる。フランスに入ると、ひたすら畑が続き、気温も35℃から40℃くらいに上がり日陰もなく猛暑が待ち構えていた。宿では夜になると皆で人生について語り合う。日本人との出会いもあった。73歳の男性と話をすると、寿命と健康寿命は違うんだよと言われた。生きているからといって、やりたいことがやれるわけではないのだと。だからやれるときにやりたいことをやるべきだと。体力的には落ちる一方だから、今やらないでどうすんだという想いでこの人はここに来た。思うことと実行することは全然違って、やはり実行できている人は尊敬に値する。
◆EU(シェンゲン圏)にはビザなしで最大3か月しか滞在できない。そのため今回、ポルトガルのロカ岬(リスボン)からフランスのルピュイまでの約2,800kmを3か月以内に到達する必要があった。これは「年齢と体力的にギリギリの挑戦」だった。結果として、本当にギリギリながら 3か月以内にルピュイへ到達できた。旅の最終日はドミトリーに泊まった。ドイツ人2人が巡礼路の最後の夜を祝ってくれ、気持ちよく終えることができたそうだ。
◆その直後、地平線の創設メンバーの一人である岡村隆さんの訃報が入ってきた。あまりにガックリときてしまい次のルートを何も考えられなくなってしまった。滞在期限の3か月を超えて旅を継続するためには、EU非加盟国へ出国する必要があり、“とりあえず”ルート上にあるセルビアへと出た。岡村さんの件があって完全に気持ちがダウンし何もする気が起きず、ドナウ川のほとりに立って、ボーっとしていた。気持ちが回復するのを待っている状態だった。
◆その後バスで西隣の国、ボスニアのバニャルカへと移動。そこから東へと歩き始め国境を越えて再びセルビア。南部の都市ニーシまで歩いた。道路状況は織り込み済みだったものの、路肩がまったくない道が延々と続く。気温40℃近くになる中、道幅いっぱいの大型トラックやトレーラーがガンガン行き交っており、巡礼路とは比較にならない“命がけの道路”だった。さすがに身の危険を感じたため山の中をぬけていくルートを使うことにした。
◆車を避けるため山へと迂回したが、山中ではクマの足跡を発見、地図アプリの表示が消える、往復4kmもの道迷いと、精神的にギリギリの状況になった。道に迷った挙句、国境地帯の「ドクロマークの地雷警告」に出くわす。地雷原に迷い込んでしまったのだ。極限状況の中、山の中を走ってどうにか街の宿へと辿り着くことができた。別の場面、ひとり歩く坪井さんの姿に心を動かされたのであろう。疲れ切って歩いていたときに中年の女性が手を振ってこちらに向かって走ってきて坪井さんに温かいパンを手渡してくれた。言葉はわからなくても頑張ってという純粋な気持ちが伝わってきた。
◆セルビアから東へ進もうとするも、ルーマニアやブルガリアといったEU圏が隣接しており入国できない。飛行機を使ってそれらの壁になる国を越えてトルコへと進むことで“EU回避ルート”を取りつつ日本へと近づいていった。トルコでは路肩も広く快調に距離を稼ぐことができた。スタートから約4,000km地点のイスタンブールに着いたとき、燃え尽きて帰国を決断。自分の中で疲れ果てた感じがあり、かつ右目に翼状片ができてしまい日本で治療する必要がでた。より本質的には旅がもう嫌になってしまっていた。
◆そして坪井さんにとって本当に大事な原点である「人力俥友之会」の50周年記念パーティーが控えていた。様々な理由があり気持ちの堤防に小さな穴が空き、そこから少しずつ日本への想いがどんどん入ってきて止められなくなってしまった。体力的にはまだ動けるのに精神的な部分で自分の弱さを感じてしまい悔しかった。成田に着いたとき、都内の自宅までの80kmを歩いて帰ろうとした。2日かければ辿り着ける。結果的には台風の通過が重なり15キロ歩いたところで電車を使うことになったが最後まで自分の足で旅を完結させたかったという坪井さんの強い意志の表れだった。
◆旅を振り返り記憶に残ったのは、それぞれの国でその時々に助けてくれた人々、お世話になった人々。今後は、可能であれば(どのようなルートを辿るにせよ)日本までのルートを繋ぎたい。もちろんイスタンブールより先は簡単ではないというのもわかっている。ただ、「寿命と健康寿命は違う。僕はまだ動ける。体が動くうちにやりたいことをやりたい」と言って、坪井さんは今回の旅の報告を締めくくった。[塚本昌晃]
■地平線で話させていただいてから2週間が過ぎた。もう遠い昔のような気がする。旅そのものも同じだ。成田空港から都内の自宅を目指して歩いた9月3日以降、長距離はおろかまったく運動もしておらず、体重は8キロも増えた。ここ5年程、52キロ前後の体重しかなかった。2キロ減ると危険水域に入る状態。トルコで計った時は50キロを切っていた。58キロになったのは20年ぶりぐらいでちょっと嬉しい。
◆旅のさなか、いつも昨日を振り返っていた。昨日、頑張って次の町まで歩を進めておいたほうがよかったのではないかと。実際に町まで到着すると、いやいやこれは止めておいて正解だった、と思う。20年前に北米をランニング横断したときも同じ問いかけをしていた。あのころは、こんなユルイ答は返ってこなかった。カリフォルニアのモハベ砂漠を越えられなかった夜、日記を書いていて腹立たしさのあまりボールペンを床に叩きつけてしまった。今回、そういう感覚はいちども訪れず、気持ちはわりと平穏だった。
◆堪えたのは7月9日に入って聞いた地平線創設メンバーの一人、岡村隆さんの訃報だった。少し前に「お一人お一人にちゃんと人生のお礼を伝えるのには、もう少し時間が欲しいけどなあ」と、岡村さんらしくない書き込みを違和感ありつつも流してしまっていた。当時、巡礼路編をギリギリEU滞在日数内で終了させ燃え尽きていたためダメージが大きく、フランスにいて葬儀に参加できず申し訳ない気分だった。ともかくEU圏外に脱出しないといけなかった。フランスのリヨンから、まるで環境の違うセルビアのベオグラードに飛んで、心身ともに疲れてしまいドナウ川をぼんやり見ていた記憶がある。
◆イスタンブールに着いたときも気分はかなりモヤモヤした。ポルトガルからトルコまでは、旅立つ前に予想した未来図で、結果はほぼその通りになった。問題はその時点で、まだ時間も体力もあったことで、難しいのは終わらせ方だった。マラソン競技のようにルールがあるものはゴールに到達すれば自動的に終わる。でも自分で始めたものは自分で終わらせないといけない。イスタンブールの町中を歩き回り、自分を納得させる理由を探した。うすぼんやりした言いわけしか見つからず、結局いまだにすっきりはしていない。
◆「そもそもなぜそんなことをしようとしたのですか?」。報告会で腑に落ちる話にするためには答えるべき問いであると思い、過去にさかのぼって古い写真を出した。並べた写真を見せたら余計に混乱するかもと思った。懐かしい写真たちは、そのときに自分が一番惹かれたこと。基準は外ではなく自分の中にあると気づいた。結果もさほど重要ではなく「ああ面白かった」と本当に思えたら、それで充分なのだ。
◆旅に出る前に江本さんに「昔と同じことやっても意味がない」と、諭されたが、報告会後に「同じじゃないんだな」と、しみじみと言ってもらえてうれしかった。真向かいに座っていたので途中で寝ていたのも丸見えでしたが結論がそこでホッとしています。[坪井伸吾]

イラスト 長野亮之介
■坪井伸吾さんは自分のことを声高に話さない。以前、そのことについて質問したら「自分のことを話したい人が多いから、聞く側にまわっている」という答えだった。そんな坪井さんの話が存分に聞ける機会とあって、楽しみにしていた報告会。印象に残ったのは、旅のスタイルの変化や、出会った人々とのエピソード、体力と精神力についての葛藤。そして「寿命と健康寿命は違う。やりたいことを今やらないでどうするのか。思っているのと実行するのは違う」という言葉だ。これは坪井さんが退職後にすぐ旅に出た理由であり、さまざまな事情を抱えながら世界各地から巡礼路を歩きに来ている、思いを実行している人への敬意でもある。そして自分への問いかけのようにも受け取った。
◆子どものころから「自分で確かめないと信じられない」性格だったと語っていた坪井さん。今回の旅も「自分がどこまでできるか試してみたい」というのが原動力で、おそらく他人の評価は関係ないのだろう。かつて北米5400キロを走り抜け、そして今年、ロカ岬からイスタンブールまで4000キロを歩いた偉人でありながら、それを自慢するでもなく(自慢してもらっていいのだが)、淡々としているのが、また魅力だ。ユーラシア大陸横断のために「巡礼路を逆に歩く」ことが、現地では発想のないことであり、間違っていると注意されたときに歩いてきた道、距離を見せると一転ヒーロー扱いされるという話も面白かった。巡礼路事情について知ることができたのもありがたかった。
◆会場で坪井さんのお嬢さん、友ちゃんに久しぶりに会えたのもうれしかった。友ちゃんは、2009年の地平線会議30周年大集会「踊る大地平線」で「ダイナミック琉球」を一緒に踊った仲間。当時10歳だったそうで、お母さんの敬子さん含む大人たちと練習を重ね、舞台で踊ってくれたのだ。友ちゃんに話を聞くと、お父さんは家ではあまりしゃべらないそうで、この日の話の内容は初めて知ることばかりだったとのこと。意外なことに、家では会話が続かないことも多いそうで、「会場で質問に答える様子を見て、ちゃんと答えられるんだと驚きました」とも。その言葉を選びながらの静かな話し方は、坪井さんと重なるものがあり、謙虚さと芯の強さが伝わってきた。
◆旅はまだ続くのだろうが、独自の観察力・感受力による坪井さんらしい言葉による滋味深い旅行記が1冊にまとまる日を、今から楽しみにしている。[日野和子]
■こんにちは。いつも通信を読むのが楽しみな86歳女子です。金井重さんとのおしゃべりの中、地平線会議を知ってから、30年は経っているでしょうか! 浦和に住んでいて、介護の真ん中の時、榎町の報告会に数回出席しました。それが偶然坪井伸吾さんでした。人力車で東海道を歩き、アマゾン河を筏で銃撃を受けながらわたり、アメリカ横断ランを完遂。偶然、この3回の報告会に出ていたのです。今回の報告会でその坪井さんがユーラシア歩き旅を話されるとは!
◆私は60年安保時に早大露文にいました。幸運にも4時退社と知らずに受けて就職した東京海上損保に働きながら2足の草鞋を履きました。安保の後も勤務評定反対など授業ボイコットばかりで、あまり勉強をした記憶がありません。体育で山岳をガラガラポンの抽選で引き当て、数回山へ行ったときに知り合った今の夫がいて、現在があります。
◆夫の両親の介護に26年。孫4人の夕食も世話をしました。いちばん小さい孫が小学3年になるとき、夫の初の転勤で仙台に行き、とても気に入ってマンションを買いました。移住40日後にあの大震災に遭遇しました。あのとき、江本さんから電話をいただいたことを感謝しています。仙台駅隣の高層マンション23階で、制震マンションなので被害なしでした。夫はヘルニアで前日入院、3月11日午後2時半全身麻酔、2時46分に医師がメスを取ったとたんに大揺れ!! 手術は止められ、本人は3日間眠り続けて、地震、津波を知らず!! 今でも夫婦そろって元気に過ごしています。
◆夫より私がスポーツ観戦好きで、テレビが主ですが、バスケットボール、サッカー、バレーボール、野球、カーリング、ラグビー、特にワールドカップ級は大好きで、録画ではなく、午前2時でも3時でも起きて観戦します。来年は冬季オリンピック、WBC野球、サッカーと楽しみがいっぱいで今からワクワクしています。
◆梶彩子さんのロシアの話、今後の西興部村の地平線など魅力いっぱいです。残念ながら行かれないので、ささやかですが、カンパで応援します。最後に、会津の酒井富美さんとは民宿に泊まり、地平線の縁で手を取り合いました。また、仙台で東北大学の桜を見に行った帰り、古本屋に入って、宮本常一さんの本を見つけ、5月に佐渡へ旅行したときは宮本常一さんの足跡をうかがい知りました。江本さんのご健康と、スタッフの皆様のご活躍を心からお祈りいたします。[仙台 小村寿子]
◆1939年4月4日東京都豊島区雑司ヶ谷生まれ、私は近くの鬼子母神神社やみみずくの棲む欅並木の下で遊んでいた。1945年3月8日の東京大空襲で父の姉と息子が浅草で被災、隅田川で真っ黒い焼死体で見つかった。姉の夫と学徒動員から家に戻った長男が家に水をかけて消火し、生き残った。戦後その叔父は鬱で鉄道自殺をした。
◆私の母は次女で両親は東大赤門前で丁稚が沢山いる大きな米屋だった。その家も全焼し、母の姉の夫が、満鉄にいて東京に迎えにきた。父が戦地に行っていた母は渡満を嫌がったが、両親、長女一家4人、うちは母と3歳の弟と私の3人、未婚の叔母が3人の12人で哈爾濱(ハルピン)に向かった。敦賀から北朝鮮経由で2か月もかかって哈爾濱に到着。哈爾濱は6月、春と夏が一度にきて美しい街だったと叔母が書き残しています。母の弟は中学2年の時学徒動員で渡満、肺結核にかかり除隊、哈爾濱で親の家に戻りましたが、苦しんで死にました。
◆哈爾濱では満鉄の隣が大使館、反対隣が放送局、庭の木に水を撒くと翌日はキノコが沢山採れました。哈爾濱に若いロシア兵が入ってきました。母や叔母は片言のロシア語で、彼らがコルフォーズだったことを知りました。着物を着た母と叔母が彼等と撮った写真が今も手元にあります。冬は坂を橇で下って、松花江の上をトラックが走っているのを驚きの目で見ていました。私も片言でロシア語を話しました。
◆8月15日終戦。家族の中で私たちが一番初めに帰国の道を採りました。母29歳。頭を坊主にし、男装のつもり。懐にコルト銃と青酸カリを持っていました。無蓋の石炭貨車に乗り、母はどんなにつらかったかと思います。日新丸ではコレラが流行り、子供が次々に死んでいきました。莚にくるまれ、ボートに乗せられ、沖に捨てられていきました。私も子供ながらに、いつ死ぬか?と思いました。
◆佐世保に着いても上陸が許されず、緑濃い日本の陸地を眺め、船辺をサヨリが銀鱗を光らせる姿が、今でも目に焼き付いています。やっと日本に上陸。その際検疫と言われ、女性が横一列に並び、全員お尻を出し、検便をされたと母は悔しがっていました。恥も何もありませんでした。
◆佐世保から東京に帰る列車は大混雑、窓から乗って、母はピカドンが落ちた広島で降りようと思ったそうです。がすし詰めで降りられず、目白の父の兄の家にたどり着いたら父が先に帰国していました。しかし叔父の家は娘5人がいて、ぎゅうぎゅうでした。目白駅前に父はバラックで自転車屋を始めました。父は南方の島で生き残り、戦争の話は一切しませんでした。ただ、マラリア熱があり、高熱を出すと「うちのお庭に象が来た!」と叫びました。庭もなく、象もいないのに。
◆中学二年の夏休み、代々木の日ソ学院にロシア語の夏季講習を受けに行きました。習うのは学校の先生が多かったように覚えています。黄色いスカートを身に着け、おさげ髪の少女は珍しかったと思います。日本女子大の学生がうちに下宿して、卒業時に世界文学全集を全部私にくれました。モーパッサンの『女の一生』バルザックの『絶対の探求』など訳もわからず読みました。文字と文学が大好きでした。中学3年では学校初の女子生徒会長になり、暴力教師を議題にしました。卒業式には生徒総代になりました。
◆高校は北園を選びました。非常に自由で、制服なし、大学並みに科目選択を自分で行いました。卒業前の進路調査で、引き揚げで貧しく長女だったので、多分10月過ぎに先生に就職しますと伝えました。もうほとんど試験が終わっていて、残っていたのが三越と、東京海上でした。私だけが両方受かりました。三越ではどこの売り場を希望ですか?と問われ、本の売り場ですと答えたのを覚えています。東京海上には入社の日に損害保険会社と知りびっくりしました。
◆運が良かったのは東京海上では9時15分始まり、4時退社でした。そこでダメ元で上司に「明日休ませてください、早稲田大学に入りました」と言いました。女性では初めてでしたが、男性は高卒で夜学に行く人が何人もいました。大手町から早稲田に楽に行くことができました。
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