2026年1月の地平線報告会レポート


●地平線通信562より
先月の報告会から

探検的ココロ

平靖夫

2026年1月23日 榎町地域センター

■年始めの報告会。山形県からはるばる登壇したのは平靖夫さん(80)。事前に江本さんより頂いた資料には、『法政大学探検部を創設。全長75kmのクロスカントリーを10か国で完走。日本観光文化研究所に在籍。地元山形で環境保護活動…。』とある。それに加えて、60歳にして山伏の修行をされたという。「これはさぞや有難いお言葉を頂けるに違いない」。毎年目黒不動尊での新年護摩祈願が通例となっている僕はワクワクしながら会場へと向かった。

◆スクリーンを一切使わず、壇上に静かに座り思いのままに語り始める平さん。僕はその一言一言を聞き漏らすまいと全神経を集中させてメモを取る。しばらくして脳裏によぎったのは、「……ん? 意味が全然わからないぞ? 一体何のことを話しているんだろう……!?」。僕は瞬時にパニック状態に陥った。起承転結は度外視され、ご本人からはそのみごとな行動年表のお話が一向に出てこない。飛び石の如く展開されるお話はご本人の中では辻褄が合っていても、初見の人は置いてけぼりをくってしまうのだ。

◆慌てた江本さんが会の途中に質問を投げかけるも、気がつくと平さんの姿はそこになく核心は霧の中という前代未聞の報告会。これは事件です。なので今回のレポートは「平さんはこういうことをお伝えしたかったんじゃないかな……?」という僕の憶測も込めつつ書きますので、皆さんも一緒に魅惑の霧に包まれた平さんの思想の森を探検いたしましょう!

◆今回一番楽しみにしていた山伏のお話から。早期退職で岩手県への移住を期に平さんは山形県羽黒山の山伏修験に入門する。探検部時代に中央アジアに行っていた経験から、シルクロード経由の古い仏教の流れを汲むお寺の山伏(明治時代には迫害されていた)を選んだという。「まずは自分たちの葬式をして、次に死んでから再生し、修行により満願を果たして帰ってくる」。皆の目に見えるところでは滝行や相撲や火の上を歩いて渡ったり……。

◆しかし肝心な修験の内容は「喋ると破門されるわけ」。笑みを浮かべる平さんに僕は思わず「オーマイガー!」と叫ぶのであった。修行の「お山がけ」以降は地下足袋を履き、「山には行っても頂上は踏まない」ソフトな山登りに意識的に変わったのだそう。シーズンの初めには在居でこれまで逝った多くの仲間たちを想いながら護摩焚きならぬ「お焚き上げストーブ」をしている。羽黒山での修行は一度きり。その後は「自分だけの山伏」として、日々の暮らしのなかで自分なりに深めているところが実に平さんらしい。

◆遭難で亡くした仲間も少なくない。平さんご自身も1974年にヒマラヤで対岸の峰から谷中に拡がる物凄いスケールの氷の雪崩を目撃している。このころからかつてない頻度で大きな事故が発生するようになり、原因を探ると気候変動などの様々な問題が出てきて、知るとやはり恐ろしい。当時の命を惜しまない登山家を横目に、「人の命は絶対に失ってはいけない」という信念のもと、平さんが今回何度も仰っていた『逃げるが勝ち』という人生を一貫した精神がこのころから根付き始めているように僕には感じた。

◆ここで平さんの独特な語り口についてそのままお伝えしておきたい。江本さんがスキーの話題を振ると、「僕にとってスキーは誰にも捕まらないように逃げるための道具だったんです」と返ってくる。 →(逃げると言えば)カモシカの駆け上がる心肺機能の強さの解説。 →(滑ると言えば)スキーに塗るワックスの摩擦抵抗の仕組みと、昔はクジラの油が最適だったお話。 →電気の時代になったらもっと欲しいと今度は原発の時代となる。20世紀は自然に憧れ、自然を壊してきた。「そのままでいいのか?」。 →いま競技の世界では勝ち負けや速さだけではない情報が見落とされている。選手個人の主張やノンセクシャルの多様性。自分たちベビーブーム世代は「追い越すことが人生」で辛かった。これからは「競争」ではなく、「共走」や「共奏」といった楽しみのある形もあるべきとの持論を語る。 →このように想定を超えて様々な分野の思想のお話へと派生してゆくのである。

◆しかし今振り返ってみれば、このお話の展開は今回平さんが最も伝えたかったことへの伏線のようにも感じる。平さんは唐突に原爆のお話を語り始めた。原爆が投下されて以降、進駐軍による報道管制の敷かれた日本では、アサヒグラフによる初めての正式報道がなんと7年後の昭和27年だったという。当時小学生だった平さんはそこで初めて知った感覚を記憶している。被爆した人たちが長年に亘り喋ることが許されなかった空白の7年間があったのだ。今歴史を勉強しようとしても抜け落ちているような事実。平さんご自身はオリンピック競技としての宣伝活動のなかで「1%でも真実があればそれを100倍くらいにしてPRする方法」を学んできたが、「でもウソは作れなかった」。今はウソを作ることが要求され、その大量に信じてもらえた事実の方を大事にする時代になってきていると話す。

◆そして今は被爆した世代から傾聴できる最後のチャンスだとも。地平線会議の人たちのなかには実際に戦場に赴き行動する人がいる。そうでない人たちにも「他人事」と思わずにできる同質なこととして、身近な人からの傾聴の大切さを挙げる。実際の体験や身近な傾聴のなかで、どんなふうに理解してゆくか。自分たちが残せるものがあるとしたら、それを紡いでゆくこと。「未知と無知。その暗闇の先の見えない真実を探ることこそが探検であり冒険だと思う」と語り切る平さんの目はこの日一番に輝いていた。

◆現場で感じ、自分の頭で考えて血肉に変えてゆく。そんな平さんの人生において最も重要だったフィールドワークの一つ。それは1968年。法政大学探検部として3名で挑んだカラコルム越冬でのことだった。インドとパキスタンの情勢が急速に悪化し、戒厳令により登山どころではなくなりメンバーは空中分解してしまうのだが、平さんは一人現地の村に留まり、結婚式に参加したりと次第に馴染んでゆく。お土産に洋服を作ろうと仕立て屋に行ったところ、次に連れて行かれたのは山の牧場だった。「どの色の山羊で作る?」と聞かれ、1〜2か月をかけて山羊から洋服が縫い上がるまでの本物の現場を目の当たりにすることに。登山の断念はあったが、このホームスパン(手作業で紡がれる毛織物)との出会いこそがかけがえのないフィールドワークだったと振り返る。この日も40年前に仕立てたハリスのツイードを身に纏っていた平さん。とても丈夫で大事に手入れすれば一生着られるそうだ。

◆ 天然物の毛織物はそのまま畑で分解されるが、ユニクロ製品はそうはいかない。洗濯時に出るカスは海に流れるとなかなか浄化されないという。海を望む酒田市にお住まいの平さんは、この10年間鮭の放流活動にも従事されているが、4年を周期に毎年何万匹と帰ってくる鮭が去年は10〜100分の1に激減している。ほかにも松林の松枯れ問題の本質は地球温暖化といわれているが、実際には表には見えない農業用水や松の木につく菌根菌などとの関連性があることなど、「真実から遠ざかる現状に我々はどう向き合うか?」という問題提起が続く。

◆スキーで初めて行ったフィンランドとのご縁から、天皇をお連れして一緒に滑った経験もあるという平さんは、似たような環境と文化を持ちながらも、長年交わることのなかった先住民サーメとアイヌの人たちとの初めての民族間交流の実現に尽力。当時は国連先住民会議よりも先駆けた画期的な試みで、このときアイヌの代表として選ばれた白老町の人たちが今日のウポポイの活動に繋がっているという。ここでもっと現場での交流の様子を詳しく聞きたいと会場から質問が飛ぶも「その直接的な答えは何処に行ったんかーい!」とツッコミたくなるほど全然話してくれない平さん……!

◆そんな話の流れのなか、前半の最後に平さんはあまりにも突然に娘さんを殺害された過去を話された。衝撃的な告白に会場にはギュッと緊張感が張り詰める。そして平和についてご自身の考えを静かに語り始める。それは平和とは憲法9条だけでは成立せず、人権(24条)と掛け合わさって初めて実現するのだというお話だった。人の命を一番に大切にしてきた平さんに起きてしまった非情な体験。ご自身のなかでその無念を昇華させることがどれだけ過酷だったかを想わずにはいられなかった。

◆ 会の後半では平さんの人柄をズバリと表現したお二人のお話がとても印象的だった。この日60年ぶりの再会を果たしたという北村節子さんは、新聞記者駆け出し時代に若かりし平さんの平節により、環境を考えるうえで “衝撃の目から鱗体験” だったエピソードを語ってくれ、観文研時代を知る宮本千晴さんは、あらゆる分野で一人黙々と探求を繰り返してきた平さんの印象を『放浪の思想の探検家』と表現した(お二人の投稿にその内容は詳しく)。「彼のストーリーをまだちゃんと聞けたためしはない(一同笑)。いずれはみんなに示してくださいよ」との激励を受けた平さんは「逃げてばかりで無責任な人生だったという自己嫌悪の塊でした」と吐露。それでも自分を育ててくれたフィールドや人々に対する恩義は何よりも大切だと感じていて、人生の局面で陰ながら自分なりの恩返しを頑張っていると話した。

◆「逃げる」という行動のなかには生物としての生存本能が活きている。当時アルピニズムが主流だった登山界の潮流のなかで気候変動を学び、人の命との天秤に対する自分の考えを尊重していた平さん。環境問題の原稿に対し新聞社の人から「こういうことを書いちゃいかんぞ。これを書かなければずっと食える」と助言されるも身を引いた過去がある。そこには現場の体験から、仮に本流とは違っても自分を曲げない決断をする姿があった。その結果、平さんは人生を通じて、「好奇心の赴くままに様々な世界を縦横無尽に駆け巡り、実に多くの人間との交流を重ねて、(仮に今後誰にも語ることがないにしても)ご自身のなかで納得のゆくまで己の思想を深め続けた人なんだ」。と深く頷きながら感嘆する自分がいる。

◆脈絡がないようでいて、世界は思想は何処までも拡がってゆくことを説かれていたようなお話の数々。それはまるで一つの薪を焚べるとパチパチッと火の粉があがり、すかさず別の火の粉があがったかと思うと、その真相はボワッと煙のなかに消えてゆく……。平さんの人生の護摩炊きを間近で見つめているような不思議な余韻に包まれる時間だった。『自分で考えて、自分で理解して、自分で決めていく』。そんなお言葉を僕の心に残してくれた、ちょっぴり奇人で破天荒で仙人のような平さん。報告者の逃げ足に誰一人追いつけなかったという語り継がれるべき伝説的な報告会として、ここに記録しておきます(書ききれないことが山ほどあってスミマセン)。平さん、ありがとうございました![車谷建太

平さんから「足を痛めて入院してしまいました。今月は『報告者のひとこと』は書けません。来月頑張ります」との連絡が。お大事に。[E

イラスト-1

 イラスト 長野亮之介


~ 平靖夫さんの話を聞いて~

生涯の行動年表を

■平君の話を聞きに行った。一度じっくり話を聞きたかったからだ。しかし補聴器を忘れたので話の内容はほとんどわからなかった。

◆平君は古い友人だ。でもじっくり話を聞いたのはずっと昔のことで、以後気にはしていても「いま何をしてるの?」と聞ける機会はあまりなく、人生や営みもほんの断片しか知らない。ただ、聞けばいつもちょっと恥ずかしそうな小声で「ヘえー、そうなの!」というような思いがけない言葉が返ってくる。平靖夫は控えめな心優しい人で、いまはまっていること、いま結論だと思っている具体的なことしか話さないから、ちょっととらえどころがないかもしれない。だが、実態はこの世を自分の目と体と頭で確かめないと気がすまない、そしていつも今の課題にはまっている探検少年なのだと思う。だから平靖夫は会うたびに新しい。不思議な人だ。

◆いや、不思議なのは、彼について具体的なことはほとんど知らない関係なのに、古くからの友だと安心して言えることの方だ。彼について具体的なことはほとんど知らない関係なのに、彼の人生は彼独自の探検による気づきと、体験的な探求と発見や確認の連続だったと勝手に理解しても間違いではないような気がすることの方だ。さらにいえば、それらの行動や思索は平にとってはまともな人の世を守るための探索なのだと言っても怒られはしない気がする。

◆といっても、これは古い友達という関係に甘えた勝手な妄想にすぎない。やはりそろそろ当人の口からその探検的放浪の物語を聞かせてほしい。なぜ法政に探検部をつくったのか。つくって何をしたかったのか。なぜ探検に惹かれる若者たちを繋ぎたかったのか。志賀高原で何を見たのか。自然について何を知っていったのか。知るための最先端の探求者に何を見たのか。山谷を自在に駆けめぐる技(スキー)に何を期待したのか。なぜ修験道なのか。そして何がいまやれること、今の人がやっておかなければならないことなのか、等々。わたしの知らないことはたくさんあるのだろう。たとえば生涯の行動年表をつくってみてほしい。そうすれば、みんなが「なぜ、なにを、で?」と聞き出していける。平靖夫を知りたい人は多いのだから。[宮本千晴

60年前の志賀高原の山小屋の思い出

■平さんとの接点は60年ほどもさかのぼる志賀高原の一夜。駆け出し記者だった私は当時、上高地など貴重とされる自然地区の保護活動に熱を上げていて、草木鳥獣虫魚、すべてアンタッチャブル、といわば前のめりの環境派でありました。そんな私に「タイラっていう兄ちゃんに会っておいで」とアドバイスをくれた人がいて、その人が志賀高原の素朴な小屋に住んでいる、との情報に「それなら」と出かけた次第です。彼=平氏は山中にひっそりと客もとらない小屋の主(山本さんという独特な仙人もどき)の居候でした。

◆暖房は薪ストーブ。薄暗く小さな小屋の一室は気持ちよい暖かさでしたが、その薪が周辺の森から得たものと聞いて私は「まずくはないか」とつっかかります。そこで彼が語ったのが、「海の向こうから来た石油を焚けば、自分の周囲は傷つかないさ。でも、ここの薪なら『これだけ暖めるにはこれだけの樹木を消費するのだ』と自覚できる。それがキモだ」という理屈でした。

◆あああ、とその一言で、私は今は広く言われるようになった「ライフサイクルアセスメント」の概念に気が附きました。あらゆる消費には、その消費や使用にいたるまでに用意される消費財すべてに思いをいたせ、というわけです。がりがりの保護主義だった青い私の開眼の一夜でもありました。なので平さんは、以来60年にわたって消費とかエントロピーを考える上での私の「師匠」でもあったわけです。

◆当時はどこか闘争的な雰囲気を漂わせていた青年が、今回のレクではにこやかな好々爺?に見えました。が、ちょっと禅問答風なお話には、「山伏に入門するには自分の葬式を出して、一度死んでから生き返る、というプロセスをへる(のじゃ)」といった説話風の物語が出たと思えば「長距離スキーの走行には、滑り係数と摩擦係数のバランスを考えてワックス決める」と工学部的な解説が出る~~やっぱり、好々爺と見せて、あの小屋の一夜同様、われわれになにかの「なぞかけ」をしていた、と思えます。これは師匠から次の宿題をもらったかな。今は思案投げ首状態です。[北村節子

放浪する思想家

■岡村隆さんと酒を呑んだ席などで、法政探検部の創設者で直接の先輩でもある平靖夫さんについて、何度も話が出た。山に入ったときの強さとか、自然に対する独特の姿勢とか、人を巻き込むリーダーシップとかを得意そうに語ってくれるのだが、平さんが何をしているのか、どんな人生を歩んできたのかが、よくわからない。酔っぱらっているせいか、いつも「とにかく平靖夫はすごい!」という決め台詞でごまかされてしまった。

◆で、1月の報告会、これでいよいよ平さんについて知ることができるぞと期待していたのに、さらにわからなくなってしまった。平さんは主語や目的語をどんどん省略してしゃべる。さらに、センテンスの途中から時間と空間を飛び越えて他のエピソードに突然ワープする。思いもよらない例え話から深い思想的な話になったり、平さんの思考スピードにこちらがぜんぜんついていけないのだ。

◆後半のトークタイムで宮本千晴さんが日本観光文化研究所(観文研)時代の平さんについて語ってくれたが、20代から「放浪する思想家」だったという話を聞いて、なるほどと納得した。他の観文研の所員たちと違って、平さんにとって旅や自然のフィールドは、思索を深めるための舞台に過ぎなかったのだろうか。だから、そこから得られた自分の思想は語ってくれても、それに至るまでの過程はあまり説明していないのかもしれない。

◆最近の地平線報告会では珍しく、スライドも映像もなかったが、話だけだとかえってこちらの想像力が広がっていくのも面白かった。しかし、報告会レポートを担当する車谷君、大変だろうな。どんな平さんを描いてくれるのか、楽しみにしています。[丸山純

素晴らしい『あるくみるきく 平靖夫号』

■江本さん、ありがとうございます。昨日は平靖夫さんの話を聞けてよかったですよ。今日はさっそく『あるくみるきく』126号の「志賀高原の自然・雑魚川辺」を読み返しています。まさに「平靖夫像」が凝縮された1冊ですね。

◆さらにもう1冊、『あるくみるきく』169号の「雪の山野を駆ける・スキーラングラウフへの招待」をみつけました。昨日、平さんが話された75キロスキーレースのすべてがのっていますね。

◆『あるくみるきく』のこの号には、宮本常一先生の訃報も入っていました。[賀曽利隆 報告会の翌日に]


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