■7月の報告者・山田高司は、北海道西興部村で開催予定の地平線会議 in 北海道のテーマ「モリズム」(森のイズム、森のリズム、森に住む)の体現者としての登壇である。山田といえば、世界中の河川を下ったパイオニアとしてのキャリアを誇り、地平線報告会にたびたび登場しているが、今回は“川の人”から“木を植え、森を造る人”へとそのスタンスを広げていった活動の変遷を追いつつ、彼が目指す「循環型環境保全」の想いと理念のビジョンを探る報告会となった。
◆山田は1958年高知県土佐清水市生まれ。東京農業大学拓殖学科(現・国際農業開発学科)に入学し探検部に在籍する。「僕は探検部の20期でちょうど創部20周年のプロジェクトを立ち上げようとの機運があった。地球の川を下る活動は先輩方から受け継ぐ伝統もあった。それならば自分は世界中の河川を繋いで地球を一周しようと考えた」。そのプロジェクトを『青い地球一周河川行』と名付けた。山田はジェームズ・ラブロックが提唱した『ガイア仮説』のイマージュを引用してアクションプランの定義を象徴的に示す。「川は地球の血管であり、森は肺、海は心臓。川下りの探検は地球の“血液検査”である」と。そして「まず日本から一番遠いところから始めよう」と、山田ら探検隊は南米に飛んだ。
◆1981年に南米三大河川、オリノコ川、アマゾン川、ラプラタ川を繋いで現地のカヌーで大陸を縦断。オリノコ川では強盗の被害に見舞われるも計画断念など微塵も念頭になく、ラプラタ川では鰐の足跡だらけの湿地帯をテン場にして「明日の朝は食われて鰐の腹の中かもなぁ」と笑い合ったというから剛気なものだ。今回驚かされたのは、山田らがアコンカグアを始め6000m級3座の登頂に成功していたことだ。山田曰く「初めから南米10座の登頂を目指していた。登山なんてものは10座狙えば3つくらいは成功するもんだよ」と。何とも破天荒な男だ。
◆南米遠征を終え、次に目指したのはアフリカ大陸だった。1985年から、セネガル川、ニジェール川、ベヌエ川、シャリ川、ウバンギ川、コンゴ川の探検を成し遂げる。そしてこの経験が山田自身の行動を“木を植える”段階へと転換させる契機となった。ニジェール川を下ったときに山田はアフリカの飢餓に直面する。ニジェール流域の森林が砂漠化して、そこで暮らす枯れ木のように痩せた子供らに心が疼く。
◆「農大探検部の理念は『未知の土地の人と自然を愛し探求する。そして探検で得た成果(活動の経験・体験)は現地に返すことで発展に寄与する』。だから原点に立ち返って森林の再生に力を尽くそうと考えた」。遠征から帰国した山田は環境保全活動を行うNGOを探し、『緑のサヘル』と出会う。そうしてチャド(1991年〜96年)と、続いてルワンダ(1997年〜2005年)で植林を行なった。その間にも川下りは続行され、長江、アムール川、黄河、メコン川、セーヌ川、テムズ川、ライン川、ドナウ川、ポー川なども、その一部を下った。
◆探検を続けながらも山田は環境保全活動へと傾斜していく。山田がロンドン大学の市民講座で地球環境保全の講座を受講していたときのこと。環境学の学者から「日本人の君がココで何をしているんだ?」と問われた。「今、我々は1万年以上続いた循環型自然環境の生態である“縄文シビリゼーション”と、鎖国によって海外の消費型文明の影響を避け続けた上で繁栄を得た“江戸ダイナスティ”の生活様式を研究しようとしているのに」と。そんな経験から山田の眼は日本へと向けられる。良い川と良い森があれば“縄文遊び”と“江戸暮らし” が実践可能だ。そういう場所を拠点にしようと考えた。
◆その答えは実は足元にあった。「始めは四万十川流域を拠点とすることには抵抗があった。故郷に近過ぎて。でも日本最後の清流とそれを育む森が残っていて循環型生活のロールモデルになり得る環境だった」。山田は環境NGO『四万十・ナイルの会』を主宰し、日本の林業の山仕事を学びつつ、自然との共生を目指す生活の実践を模索。そして四万十流域の活性化や環境活動のイベントを数々立ち上げたが、そんな山田の実践力と豊富なキャリアを頼って、国内外から環境団体や政治家の視察が多く訪れるようになる。おかげで年間に20〜30件もの企画書や活動プランの立案を余儀なくされることに……。政治家の視察の案内や立案プランの予算管理の責までも負わされ、山田は気力・体力ともに削られ疲弊していく。「木を植えるったって、花咲か爺さんもいれば、性悪な意地悪爺さんもいるんだよ」と、山田は嘆息する。
◆こうして山田が探検から環境活動に軸足を移していったのは、農大探検部の理念の体現に拠る必然ではあったが、その動機となったのは幼少期からの原体験と“血筋=山の家系”の影響が大きいと自己分析する。山田が生まれ育ったのは四国最南端の足摺岬。大河ドラマ化で話題のジョン万次郎の生誕地よりさらに10kmほど先端に近い漁港で、「俺の方が万次郎よりアメリカに近いんだ」と笑う。遊び場は磯の岩場で、そこで鍛えられたので、探検部のクライミング訓練など造作もなかったそう。また同市は海と山が隣り合わせになった地形が特徴で、市域の多くを山林が占めている。だから森林での遊びにも長けるようになり、子供時代のオヤツといえば磯で獲った魚介や山で罠を仕掛けて捕獲した野鳥を焼いて食べたという。小学生時代の友達の多くが林業に関係する家で、森で駆け回って逞しく遊ぶ彼らに憧れた。
◆また山田は日本の森の劣化を目の当たりにしてきた世代でもある。戦後の経済成長に伴い、日本の森は『拡大造林』という国策によって様相を大きく変貌させた。それは薪や製炭業の資源にしかならない照葉樹林を伐採し、建築資材として需要が急増し生育も早い杉やヒノキなどの針葉樹を大量に植林した。しかし安価な輸入木材の市場価値が優勢になると、人工造林の針葉樹の森は捨て置かれ“緑の砂漠”と呼ばれるまでになる。「多くの友達の家が生業としていたから拡大造林を一概に悪とは決めつけられないんだよ」。人が生きるためには森林環境と相剋関係にある宿命や矛盾を成長期に身に染みて理解したことも、現在の活動の礎ともなっているのだ。
◆山田が述べる動機のもう一つのテーゼである“血筋=山の家系”については、自身の人格形成に影響を与えた曾祖父の存在が大きいと語る。「曾祖父は“サンカ(山窩)の民”と関係が深かった。いわゆる『山師』で、山の森から木を伐り出すサンカの杣人を束ねて山林の現場を牛耳る親分的存在だった。喧嘩も強かったというし、山の荒くれ者たちから人望も厚かった。山や森を熟知し、国有林の視察に林野庁の役人が来れば案内もした。地元では村長より立場は強かった。そういう実力者じゃないと山師は務まらなかった」。土佐清水の平家の落人部落の流れを汲む“まつろわぬ民”の山人と深い絆を結び、貴重な山の資源を集約して川に流し街に届ける。そんな山の叡智を身に着けた血筋の大立者にシンパシーを抱くのも当然の成り行きであろう。
◆話は続く。「うちの話好きな婆さんから山の話はたくさん聞いた。そして婆さんは二十四節気と七十二候ごとに山に入っては、美味しい季節の恵みを採ってきて孫の僕らに食べさせるのが大好きだった。彼女は毎日同じ道を歩いて新しい自然を見つけていた。自然と共に生きることに関しては天才でしたね。爺さん婆さんは完全に持続可能な生活をしていた。お宮のある鎮守の森を中心に一里(4km)四方、つまり自分が歩ける範囲、で生活が成立していた。特に婆さんは歩ける範囲から外に出ずに一生を終えたが、その世界の内に深遠な宇宙があった。自然信仰の原型ですよ」
◆結論として山田は持続可能な循環型社会のキーワードを3つ挙げる。「自然崇拝」、「祖霊信仰」、「子孫繁栄の願い」だ。豊かな自然を畏敬の念をもって崇め、その恵みに感謝しつつ生きる。そして豊かな自然を残し伝えてくれた祖先に深く感謝する。加えて自らに繋がる地域の子孫繁栄を一番の望みとして自然と共に暮らすこと。これが持続可能で豊かな循環型地域社会を築く要点だと。
◆2018年〜23年の「イラクの巨大湿地帯(アフワール)探検」以来深く関わる世界最古のメソポタミア文明のギルガメッシュ叙事詩から例えを引いて世界の現状を説く。「現在の世界はシュメールから始まった“観察と実験の科学文明”の繁栄の絶頂期と、最悪の危機の両方に同時に立っていると思う。メソポタミア文明は森を殺すことから始まった。ギルガメッシュ王が都市建設のためにヨルダン杉の伐採に向かうが、杉の森の守護精霊フンババと対立し、策を弄して森の精霊を殺す。これが我々の収奪型文明の始まり。そして過去8000年で世界中の80%の原生林が消滅し、現在も生物の絶滅種が急増していて第6の絶滅期との説もある。一種の生命体が大規模環境破壊原因になっているという、地球史上類のない事態になっている。
◆我々はデジタル文明の絶頂期にいるが、自然と共生し持続可能な生活の実現の最適解は人工知能(AI)でも生成できない。しかし自然との共生モデルのビジョンや解決のヒントが、縄文・江戸の生活にあるのかもしれないとも思う。そして四万十川での活動を通して学んだ経験値が役に立つだろうとも予見している」。ティグリス・ユーフラテス川の河口付近(アフワール)と、多摩川と荒川を含めた江戸時代の環境が似ていて、山田は“江戸ポタミア”と洒落のめすが、日本文化が伝統的に継承してきた叡智をベースに思考実験や実践を通して自然と共生し持続可能な循環型生活環境実現へのヒントが得られるとしたら……、これは夢想なのだろうか?
◆山田が植林に関わった地域が、現在では大きな森にまで拡大していてGoogle Earthで視認できるという。その事実を知ると自然環境との共生という超難題の解決も、あながち夢物語ではないのかもしれないと思える。山田の姿にはドイツの宗教改革者の言葉が重なる。「明日世界が滅びるとしても、今日リンゴの木を植える」(マルティン・ルター)。その希望の象徴であるリンゴの木に実を結ぶのが、人間の原罪の結実ではなく、“真の知恵の実”であることを祈るばかりだ。(文中敬称略)[三五康司]
◆ご縁あって賀曽利隆師匠と知り合ったのがキッカケで地平線報告会初参加(向後元彦さんの1982年第35回)。その後出入りするうちに何故か3代目地平線通信編集長を拝命するも、好き放題ヤラかして(押賣新聞とか……)、武田力さんから「変酋長」認定される。
◆行動の履歴としては、一風変わったアフリカ大陸横断を敢行して第114回報告会を担当。その後江本ハーン様を三跪九叩頭の礼をもって拝し、『読売新聞社第2次チンギス・ハーン陵墓探索行』にBC要員として加えていただく。モンゴルの草原で約4か月暮らした後にアジア大陸横断を目指し、戒厳令下のチベットに潜入して捕まったり、ダウラギリで温泉に浸かったり、ガルワールヒマラヤに登ってガンジス川源頭の氷河で沐浴したり……。各地で聖地巡礼などするうちにインドの沼に溺れてあえなく大陸横断失敗。その後は単発で向後さんに誘われベトナムでマングローブ植えたりしてました。
◆しかしアラフィフを迎えるころ、不摂生と激務が重なり脳疾患を発症、ついに「今夜が山」(by医者)を人生初登頂。何とか生還を果たすも、視覚障害と半身麻痺の後遺症を背負う羽目に。もうポンコツなので行動者としては戦力外だけど、報告会で白杖ついてる奴がいたらオイラです。

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イラスト 長野亮之介
■6月梅雨のはじめ、江本さんから電話あり。9月の地平線会議 in 北海道の「地平線モリズム」に向けて、露払いの話をせよとお達し。しばらく人前で話したことないので、長年の盟友長野亮之介画伯との対談ならできますと答えた。そんなこんなで7月の地平線報告会での対談になった。6月のある週末、白根全さんと長野画伯が館山の山田亭を訪ねてくれて話し合ったとき、今回の対談の内容は「地平線で対談するレレレのおじさん」になるなと思った。
◆2000年の地平線通信新年号に「過疎の村の成人式で講演するレレレのおじさん」という文章を寄稿した。当時住んでいた高知県十和村の1981年生まれの新成人65人に、私の1981年から20年間の川と森の地球遍歴の話をした。それまでは各大陸の河川探検別、アフリカ・チャド、ルワンダでの植林活動別に講演することはあったが、「青い星の川を旅して木を植えて」と題して20年分まとめて話すのは初めてだった。思わぬ好評でその後3年間、近隣の市町村の成人式に呼ばれた。
◆昨年、父が95歳で他界し、納骨のため高知県四万十市の実家に今年5月の連休に帰郷した。父母の写真と一緒に祖父母の米寿の記念写真をコピーして、館山の新居に飾った。祖父母の満面の笑みの写真を、白根、長野両氏は感心してくれた。明治維新、日本にやってきた外国人たちの日本の感想に「微笑みの国」と日本人を賛美する記録がいくつかある。それがうなずける自然ないい笑顔だ。極東の国の辺境、高知県南端の土佐清水市、明治生まれの才気煥発な「海の人」の娘が、「森の人」に嫁いで、森の暮らしに馴染み、昭和時代後半、孫たちに森と海の暮らしのチエとワザを語り教えてくれた話をした。7月の地平線対談のネタの一つは、これでいこうとなった。もう一つのネタの「ギルガメッシュとフンババの話」は後述する。
◆1980年代、「青い地球一周河川行」と題して、南米、アフリカ、ヨーロッパ、アジアの川を巡った。第一弾の「パンアフリカ河川行」はナイル源流の治安が悪くて入域できず中断。1990年代からチャド、ルワンダで砂漠化防止植林をしながら好転を待つ日々となった。大谷選手より20年早く「水(川)と土(森)」の二刀流を始めた。農大探検部の設立(1961年)の趣旨が「冒険探検の成果を現地に還元しなさい」であった。西アフリカの川で干魃のため飢えて痩せ細っていく子供たちにたくさん出会い、なんとかせねばと、植林プロジェクトに身を投じたのは自然な流れだった。5年間のアフリカの川旅で心身魂ともにアフリカに馴染んでいたことは、言葉に尽くせぬほど役立った。
◆当時のチャドは、治安、気候共に世界最悪のひとつと言っても過言でない状況だった。そんなところへ木を植えにいく若者を熱心に支援してくれる人も多く、欲しいと言えば大量の本を送ってくれた。手塚治虫の「火の鳥」、白土三平の「カムイ伝」、赤塚不二夫の「天才バカボン」全巻が現地の事務所の書棚の隅に並んだ。治安、気候が最悪な所で、「火の鳥」と「カムイ伝」はテーマが重すぎた。「天才バカボン」は繰り返し読んで飽きず笑い、いいリラックスになった。特に、バカボンのパパに邪魔されても、目ん玉つながりのお巡りさんに鉄砲ぶっ放されても「レレレのレー」と掃除を続けるおじさんに己を模した。1997年からは四万十で山仕事しながらアフリカ、アジアでの植林支援に通い、バイクやカヌーで行く人々を見送りながら「レレレのレー、気をつけて」と心から応援した。ハレの日はカヌーやバイクで旅したが、ケの日常は山道具を手に森の手入れに勤しみ山の暮らしの教えを習い、年末はナイル源流に通った。健康を害するほど大変な時期もあったが、充実した楽しい日々だった。何より、どこでも、いつでも応援してくれる「花咲か爺さん」や「人よし婆さん」がいて自分の祖父母を思い出した。
◆祖父母の自然信仰の教えは、以下の3つのとってもシンプルなものだった。①自然崇拝②先祖感謝③子孫繁栄。①めぐみ豊かで時に恐ろしい自然を畏敬し崇拝する。②めぐみ豊かな自然と、その付き合い方を伝えてくれた先祖を敬い感謝する。③めぐみ豊かな自然と、その付き合い方を子孫に伝え繁栄を祈る。この3つを持って、自然の近くで暮らす世界中の人々の所に行くと、すぐに親近感を持たれ溶け込めた。私の三種の神器だ。
◆いつころからか、祖父母の満面の笑顔と同じ顔を浮かべてくれる世界中の人々に出逢いにいくのが、いちばんの幸福感、楽しみになった。自然の近くで暮らす人が持つ世界共通の笑顔だ。「花咲か爺さん」の隣には「意地悪爺さん」がいて、「人よし婆さん」のそばには「人悪婆さん」がいるもので、時には「ここ掘れワンワン」の犬のように、苦労させられた。またあるときは「因幡の白兎」ならぬ「四万十のクロウサギ」よろしく一肌も二肌脱ぎ、もっともっとと脱がされ疲労困憊の時もあった。たくさんの申請書、報告書を代筆した。それも含めていい思い出になっている。
◆7月25日の対談が終わって、山田和也さん(農大探検部先輩、映像監督)が寄ってきて、「オマエ、盛りすぎ」と言った。話の数の「盛りすぎ」か内容の質の「盛りすぎ」か聞きそびれたが、今回は確信犯だった。四万十の山仕事の師匠たちや土佐清水の漁師の幼友達は「盛って」話を面白おかしくする。過酷で危険な肉体労働の休み時間の貴重な娯楽のひとときをたすけてくれる。ネタはすべて首から下(身体)で体験した話、大袈裟だが作り話ではない。
◆長野宅に前日から入り、翌日開演まで、生まれてからや先祖の話、世界中の川探検、植林のこぼれ話など話し続け、あとは長野画伯の引き出す裁量に任せた。惠谷治さん(早稲田大探検部OB、戦場ジャーナリスト、故人)の教えを守って、「感情は出さず観察だけを話した。思考は入れず行動だけを語った」(つもり)。大河のように蛇行したこれまでの人生の流れの中で、蛇行した先の細部に面白いことがたくさんあった。そのすべてを話していたら何日かかかるかわからない。長野画伯と話しながら、どこを削るかずっと考えていた。終わってから、うまく話せたか、何を話したかさえ思い出せない。「盛りすぎ」て、とりとめなく、まとまりのない話になっていたら、まっことごめんなさい。
◆最後に、「ギルガメッシュ叙事詩」について。メソポタミアで人類最初の文字で書かれた人類最古の神話の王様がギルガメッシュ。この王がユーフラテス川を遡って、森の番人フンババを殺しレバノン杉を切り出したことから文明は始まった。今、メソポタミアに始まったホモ・サピエンスの文明は、史上最高の絶頂期であり、同時に最大の危機でもあるようにみえる。人類史上、今ほど便利で快適で贅沢な暮らしは経験していない。今ほど大量の自然破壊も経験していない。我が世の春を謳歌しているが、SDGs(持続可能性)を免罪符のように語り、環境破壊と最終戦争の危機の課題をAIやロボットの最新技術に酔うことで先送りしているようにみえるのは、ついていけない私だけか?
◆各地で講演したころ、演題を任されると「青い星の川を旅して木を植えて」と題したが、サブタイトルは「木を植え 林を育て 森を愛で 川に託し 海に恋し 星を想う」だった。これからも、じっくり観察し、できる行動は続けようと思う。この春から館山市シルバー人材センターに登録し、草刈り班のゴールデンルーキーとして、相変わらず10歳年上世代、団塊世代に可愛がられる「レレレの日々」。休日は楽しく、森や海で遊び、観察し、行動している。その話は次回。[山田高司]
◆1899年、本多清六(日本林学の祖、東大教授、造園学者)が多摩川水源森林を調査した。当時、多摩川で繰り返された洪水と渇水の原因を探るためだった。明治の東京の発展のために多摩川源流の森林荒廃が進んでいることに警鐘を鳴らした。1909年、尾崎行雄東京市長が多摩川水源視察。これを受けて東京市で多摩川水源林購入開始。その後、購入は続けられ、現在も続いている。現在多摩川水源林(山梨県含む)の約50%は東京都の所有、東京都水道局の管理下にある。
◆本多清六は、1920年の明治神宮創建時の公園植樹責任者でもあり、100年経った現在、明治神宮の森と多摩川水源林の森は原生林に近づいている。あと100年で、原生林の様相になるだろう。多摩川で手入れが遅れた森と明治神宮の150年計画の森が相似している。森林の再生力を見抜いていた先人の観察力に脱帽する。
◆多摩川の森の調査をしながら、手入れの遅れた森林が気になり、休日に訪ねてきた。四万十では、源流の不入山の手付かずの原生林と200年自然のままに任せた自然教育林(国有林内)が相似している。奥多摩の森林でも同じ現象が進んでいる。東京都民は100年後、屋久島に行かず、ここの森と渓谷美を楽しむようになるだろう。30年前、屋久島の自然ガイドのプロはいなかった。後輩の野々山富雄(駒大探検部 OB)は、1995年から屋久島に移住し、たまに入る登山ガイドと他のアルバイト掛け持ちだったが、その後プロで食えるようになり屋久島ガイドの草分けとなった。今、屋久島の自然ガイドは150人以上いるという。いずれ、奥多摩のプロ自然ガイドも150人くらいになるかもしれない。
◆人気漫画『鬼滅の刃』の主人公は東京の雲取山付近で炭焼きをしていた設定。全国の森林内と同じく奥多摩の森の中にも炭窯の跡は多い。1960年代に、化石燃料の輸入が本格化し、燃料革命が始まるまで、日本は炭と薪が主要燃料だった。日本中の山間地の基幹産業は炭焼きだった。今は中東各国が世界の燃料生産地の役割を果たしているが、かつて日本の山村が、今の中東の役割を担っていた。燃料革命が起き、収入源の危機を救ったのが、国策「拡大造林」だった。
◆館山の森はマテバシイが多い。高知県では同じブナ科のカシが炭の優良木だったが、館山ではマテバシイが利用され、植林されたらしい。今、マテバシイの森を歩き、炭窯跡を巡るのが楽しい。四万十暮らしのときのように、いずれ炭焼きをしたい。燃料、環境問題を考えるきっかけになるかといえば、そう簡単ではない。日本人が消費するエネルギーを、日本の森のバイオマスに換算すると、3年持たないとの試算がある。そんなことを考えながら、南房総の森山海暮らしを楽しんでいます。
■7月の報告会にはもう一つの意義があった。昨年7月9日に急性白血病のため逝去された岡村隆さんの一周忌追悼の集いとして「偲ぶ会」が、二次会で催されたのだ。地平線会議創設メンバーのお一人であり、スリランカの仏教遺跡探索にご活躍された岡村さんを偲び40人近い人々が集った。
◆奥様の節子さん、ご子息の征さんもお見えになり思い出話を交わした。節子さんによると「岡村は生前、東京と故郷の宮崎、そしてスリランカの3か所を拠点に暮らしたいと申しておりました」とのことで8月には所縁の遺宝を携えてご家族でスリランカを訪問されるそう。
◆白浪五人男ではないが、我らが地平線会議には図抜けた才覚と行動力、そして天賦の人間力を誇る“タカシ三人衆”がいる。ご当人・賀曽利師匠がこう語る。「森本孝・岡村隆・賀曽利隆は“観文研三馬鹿タカシ”と呼ばれたんです。そして岡村隆・山田高司・賀曽利隆が“地平線三馬鹿タカシ”なんですよ! 当然この“馬鹿”は尊称ですからねー!」。つまり「偲ぶ会」は、正規地平線“馬鹿”三人衆揃い踏みであったわけだ。きっと岡村さんもお喜びだったことだろう。
◆岡村さん、念願が叶い雨過天晴の想いなのでは? きっとアチラの「天界仙会議」(命名:久島弘氏)でもご活躍のことでしょう。[三五康司]
■7月の報告会に参加しました。報告会への参加は昨年6月の賀曽利隆さんの報告以来、1年ぶりです。報告会への参加=ランニングの練習と決めているので、報告会前日の7月24日(金)の終業後に福島県いわき市を出発しました。途中雨に降られたりもしましたが、傘を差しつつ国道6号線を夜通し進み続けて、翌朝6時過ぎに茨城県の大甕に到着しました。約77kmを走り、大甕駅から常磐線に乗り込み一路新宿へと向かいました。
◆報告者の山田高司さんのお話を聴くのは、たしか2000年に福島県南会津で実施した「地平線報告会 in 伊南村」での大桃の舞台以来となります。お話の中で一番心に残ったのが、「探検・冒険は成し遂げた結果がゴールではなく、現地に還元すること」という言葉です。
◆世界中の川下りを実践されてきた山田さんは、砂漠化していく大地に植林することで森を再生させる活動をこれまでずっと続けてこられました。それによりグーグルアースでも緑地が確認されるほどに緑が拡大されたことを、とても素晴らしく思います。また、川下りの旅は下からの目線で旅をする、これは低いところから眺めると現地の生活がよく見えるということ。「高い所から見下ろせ」と宮本常一先生の教えとは逆の視点で、旅をする目線により感じることが違ってくることに新鮮さを感じました。
◆1年ぶりの報告会への参加となりましたが、報告会ならではの緊迫感や迫力にはやはり引き込まれますね。何かを伝えるにはフェイス・トゥ・フェイスがいかに大事であるか、ということを改めて痛感しました。
◆最後に。9月の北海道西興部村での「地平線モリズム」では、何かお手伝いできればと思っておりましたが、7月28日に発生した大地震の支援活動で熊本を訪れることとしました。みなさん、参加できずに大変申し訳ございません……。[福島県いわき市 渡辺哲]
■地平線報告会には、2024年1月以来の参加だった。土曜日に開催されるようになり、地方在住の勤め人としては喜んだものの、いかんせんお財布的なハードルは残る。そのため他の用事やイベントなどとの抱き合わせを狙いがちだが、狙いすぎていると結局行けないことに気がついた。それでとにかく行けそうな日の目星をつけて、報告者やテーマを待った。7月、報告者は山田高司さん(聞き手は長野亮之介さん)、テーマは森。二次会では岡村隆さんを偲ぶ。行こう。きっと9月開催の地平線モリズム西興部に気持ちを繋げてもくれるだろう。
◆会場を見渡してみると、知ってる顔も案外多い。いや、どちらかというと似顔絵で知ってる顔、である。あの人も、あの人も、見たことあるよ(似顔絵で。話したことはないけれど)。山田さんのお話は、記念集会などで直に聞いたことはあるものの、ステージからではなく定例報告会の距離感でお話を伺うのは初めてである。そしてやはり、「あれ? 山田さんてこんなお顔だっけ?」と似顔絵とオーバーラップさせてしまうのであった。
◆私が山田さんを認識したのは2003年3月の地平線報告会 in 四万十ではなかろうか(とはいえ、参加することは叶わず、当時としてはまだ珍しいネット中継を垣間見、地平線通信でレポートを拝読したに過ぎなかったが)。その時の母体イベント『四万十黒潮エコライフフェア』の実行委員長が山田さんだった(という振り返りができるのも、地平線会議アーカイブのおかげです)。当時ご自身も『青い地球を旅して木を植えて』と題してスライド&トークを展開された。そのときから、私にとって山田さんは「四万十川」のイメージがまずある。
◆更にアーカイブでお名前を辿ってみると、1995年10月に「緑輪隊、ニッポンを走る」(日本縦断サイクルキャンペーンとアフリカはチャドでのNGO「緑のサヘル」の活動)、1998年1月に「再生の森から」、2000年9月に地平線報告会 in 伊南村で「川に流れて川を喰う」、 2008年10月に地平線会議 in 浜比嘉島「ちへいせん・あしびなー」で「青い地球の川をカヌーで旅して木を植えて」、2009年11月に地平線会議30周年大集会「踊る大地平線」で「記録すること、続けること」、2018年10月に地平線会議40年祭「恋する地平線 ヤケッパチでも続ける宣言!!」で「森と川に恋して」、2023年8月に「アフワール漂流譚」、2023年11月に地平線報告会500回記念集会「つなぐ 地平線500!」で地平線会議の歩みの発端でもある「78年12月の学生探検会議」、そして今回の「森のヒト」。その軌跡に、一貫して地球に思いを馳せ、活動されてきたことを改めて感じさせられた。また、地平線通信に掲載される各地の雄大かつ細密なイラストは、いつも旅のイメージを大きく膨らませてくれる。
◆報告会当日、「あの本は山田の本でもある。面白いよ」と江本さんから聞き、受付で入手した『メソポタミアのボート三人男』(高野秀行著 集英社刊)。個人的には「先生みたい」な印象もあった山田さんだったが、読み進めると、やっぱり「隊長」である。配付された資料に紹介されていたガイア仮説「川は血管、森は肺、海は心臓」を思い出しながら、西興部では、まずは森と、深呼吸でつながろうと思う。[中島ねこ]
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