96年11月の地平線報告会レポート



●地平線通信より

 生と死のはざまで〜松原尚之
  1996.11.28/アジア会館

松原さん
 1990年に南極点徒歩到達の計画が持ち上がったのを聞いた松原さんは、サッポロビールの営業職に就くサラリーマンだった。「とにかく行きたい」という思いが先行して、その準備に参加することになる。

 91年10月に隊長の大西宏さんがナムチャバルワ峰で遭難死した後も、副隊長となって計画を進めていった。隊長を亡くしたことでスポンサー集めに苦労することになるが、実際には「なんとかなる」と楽観的だった。

 そして、グリーンランドの合宿に出かける段階になって、会社に話さなければいけなくなった。会社が終わって何度か飲みに出かけるもののなかなか切り出せず、けっきょく日曜日に上司に電話をして今回の計画を告げた。

 いったんは退職を覚悟したものの、長期休暇制度を導入する会社が多くなってきたこともあり、サッポロビールで「フロンティア休暇制度」を作ることになる。松原さんはこの第1号となって、無事にグリーンランドに出発することができた。

 南極大陸では、起きて、歩いて、食べて、寝るという日々が続いた。単調な毎日のなかで、松原さんは空想の世界に遊んだ。余分な情報がないぶん、飽きるまで空想ができた。

 環境調査を兼ねた南極点の徒歩到達を終えて帰国し、1年2か月ぶりに会社に復帰する。「会社への恩返し」と思って仕事に挑むが、以前のような調子が出ない。どうも調子が違うのだ。しだいに仕事がおもしろくなくなり、週末に山へ出かけられるのを待つようになる。

 そんなときに、マカルーの公募隊の募集を耳にする。学生時代に山岳部在籍していたことから、いずれは8000m峰の世界に挑戦したいと思っていた。復帰してから1年9か月しか経っていなかったが、今度は会社を辞める気持ちは決まっていた。ただ、それを言いだすきっかけがつかめない。ようやくマカルー遠征の話を切り出したところ、会社の人たちは好意的に見送ってくれた。

会場風景 マカルーの登頂はチベット側からのかなり険しい未踏ルートだったが、少しずつ慎重に進みながら、ようやく頂上に立つことに成功した。10年間の夢だった8000m峰に立てたことや、亡・大西宏さんも立った頂上であることから、自然に涙があふれてきた。

 次に、95年の秋にカンチェンジュンガの遠征に出かける。ちょうど、2番目の“8000m峰14座登頂”を競っていたときで、一人は遭難死、一人は登頂に成功というニュースを耳にする。

 松原さんは死と生の境が身近にあることを実感しながら頂上を目指した。無酸素登頂だったこともあって、8400m地点でこれ以上進めないと思う。けっきょく第1アタックの後は天候が悪くなって、そのまま撤退することになった。松原さんは、「自分が言いだしたのが情けない」と思う一方で、「死がすぐ先にあるような感じだった」とも言う。

 そして翌年8月にK2の登頂に成功する。難しい山だったことに重ねて、メンバー間の人間関係にも気を遣ったことが、更にうれしい登頂になった。「マカルーに続いてうれしかった。涙が出てきた」と松原さんは話す。

 現在、松原さんは登山ガイドやメーカーのアドバイザーをしながら、好きな登山を続けている。大学を出たときはこの世界に飛び込む勇気はなかったが、南極がきっかけになって夢が実現した。小学校のころにトムソーヤやロビンソンクルーソーを愛読していた松原さんにとって、何かのきっかけがあればよかったのだろう。

 カンチェンジュンガで生と死の境を実感した松原さんは、しばらくはヒマラヤに通いたいという。ヒマラヤの8000mの世界では、おそらく「生きていること」を強く実感できるのだろう。

恩田さん 「心も自由にして、本当にやりたい事だけをやれる状態にしたい。それが登山をしている理由かもしれません」

 自分の人生を、後悔しないように送りたい。だれでも思っていることだが、それを実践していく人はあまりいない。生が輝く場所は、手を伸ばせばすぐそこにあるのかもしれない。(新井由己)【写真:松原さんと結婚された恩田真砂美さんもクライマー。サラリーマンを辞めた松原さんと反対に、エコクラブの事務局から現在は会社員となり、役員の秘書をしている】




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