97年4月の地平線報告会レポート



ムスタンの八十八夜/西尾暁子(きょうこ)さん

1997.04.25/アジア会館


西尾さん●美しいチベット服姿の報告者は、いきなり用意した原稿を手に話しはじめた。「皆さんの中にはネパールと言われ『どこ、それ?』なんておっしゃる方は多分いらっしゃらないことと思います。ですが3年前の私は『えっ、どこ?』という感じでした。山岳部に在籍しながらお恥ずかしい話ですが、憧れのヒマラヤはネパールにある、だけどネパールがどこにあるか知りませんでした・・・・」

●書いたものを読んでいるのだが、それが棒読みではなくて、きっぱりとして、人柄が滲み出る話し方だったせいだろう、驚くほど新鮮だった。はじめは、えっ、原稿を読むの?と内心驚いた出席者たちは、一瞬にして報告者のひたむき、かつ魅力ある語り口にひきこまれてしまった、と思う。

●日大農獣医学部(=帰国後「生物資源科学部」と改称)3年生だった西尾さんは、ムスタン郡の農業発展をめざすNGO組織「ムスタン地域協力開発会(MDSA)」が現地スタッフを募っていると山岳部の先輩から聞いた瞬間、「行こう」と決意した。「もともと考えるよりも先に行動してしまうような人間」で、「この時じっくり考え込んでいたらネパールへ行くことはなかった」と語る。男性を期待していたMDSAは、はじめ渋ったが、西尾さんは何度も手紙を書き、ついにOKをもらう。95年4月、その地ネパール中央部北端の町、ムスタン郡のジョムソンに飛んだ。標高2800m、人口1000人のこの町を中心として、稲作を試みることが仕事だった。

会場風景●「白っぽい所」というのが、はじめてジョムソン入りした時の印象だった。年間降雨270ミリ、毎日5、6時間は強い南風が吹く乾燥した気候なのだ。言葉もわからず、西尾さんの手さぐりの日々が始まった。MDSAは、会の創立者である75歳の近藤亨理事長の指導で、リンゴ園、野菜畑、ニジマスの養殖などの仕事を続けている。70人のネパール人スタッフと交流する中で、はじめはひとことも知らなかった西尾さんのネパール語は、急速に上達していった。
(→近藤理事長の出身地である新潟放送が制作したドキュメンタリー番組を駆け足で見せてくれた)

●村人たちの暮らしに溶け込むうち、あちこちの家で手作りの酒、チャンやロキシーを御馳走になり、主食であるダルバートタルカリ(ダルは豆スープ、バートは米、タルカリは野菜のカレー炒めのこと)の味を知った。村では皆、朝の歯磨きを丹念にすることが興味深かったという。かねて夢だった馬に乗るのも、楽しみのひとつだった。

質問風景●稲は北海道と新潟のものを持っていった。見事に出穂した。が、ついに実を結ぶまでには至らなかった。成功はしなくとも、ほんものの挑戦だった。その貴重な体験を「ジョムソンでの稲の適正試験」をテーマとして卒論を書くつもりだ。97年2月末帰国。4月には会の招きでムスタン・ラジャー(土侯)夫妻が初来日。「ネパールの位置も知らなかった」女子学生が2年足らずの間に通訳兼世話係も引受けるほどになっていた。
(食文化研究家の賀曽利隆さんと←)

●笑顔が、ムスタンの娘さんのように愛らしい西尾さん、質問にも動じるところは一切なく、最後まで凛とした気迫を感じさせた。こういう人はどこで何をしても光るだろう。男ども頑張れ。(ホライズン)


ネパール服スケッチスケッチを見せたり、実際に衣装をまとってみせたり、スライドがなくてもじゅうぶん楽しませてくれた。

チーズ写真を見る

休憩時間には、ネパールから持ち帰ったチーズをみんなで試食。現地で写した写真のプリントも、壁際に掲示され、人気を集めていた。

 

松田さん



マナスル登山隊に参加したことでも知られる、日本山岳会の大御所・松田雄一さん。近藤亨さんと親しく、今度の西尾さんの赴任にはいろいろと力を尽くされた。手にされているのは、昨年夏発行の『地平線データブック・DAS』



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