THE GREAT JOURNEY

THE GREAT JOURNEY
応援団通信・第2号

1994.8.18

001 応援団の皆様へ 応援団長・惠谷治からひとこと
002 行動レポート 関野さんへのインタビュー(長文)
003 経過報告 日付順行動記録一覧
004 関連記事掲載記録 掲載された媒体の記事一覧
005 現地報道(日本語訳) 現地報道の内容
006 応援団への協力=寄付について グレート・ジャーニーを支援する方法


【応援団の皆様へ】

拝啓
 記録的な猛暑が続いている日本列島ですが、皆様はいかがお過ごしでしょうか?

 さて、関野吉晴は現在「グレート・ジャーニー」の第2期の行程に向かって、行動を再開いたしました。前回の通信ではパタゴニア南部氷床を縦断中の報告まででしたが、無事、氷床縦断に成功したことは、各種の報道でご存じの方も多いことでしょう。関野吉晴が南米大陸の最南端からパタゴニアまでの困難な行程において、事故もなく完全踏破に成功したことをここで改めてご報告いたします。その詳細については、別紙の「行動レポート」をご覧ください。

 パタゴニア踏破に成功した関野吉晴は、5月15日に休養と第2期の準備のため帰国していましたが、去る8月5日、再びサンチャゴ(チリ)に向けて出発いたしました。関野が帰国している間、大勢の皆様のご理解とご協力により、最大の難問でした資金調達のめどがなんとかついたのです。昨年の第1期の出発時には大変な借財をしていたのですが、それを返却し今回は軽やかな旅立ちとなったことをお伝えするとともに、改めて皆様に感謝するしだいです。

 その最大の理由は、サポート隊による撮影ビデオがフジ・テレビで放映されることになったからです。来春には、関野吉晴のグレート・ジャーニーの現場が迫力ある映像で紹介されることになるでしょう。どうぞ、ご期待ください。また、今後はほぼ定期的(月に1度程度)に、週刊文春の紙面に写真や活字の報告が載ることになるので、関野吉晴の行動経過をより詳しく知ることができるようになります。1年に1冊づつ発行していく計画の写真報告書も、毎日新聞社から出版されることも正式に決定いたしました。それと関連して、写真展の企画なども進行しています。応援団事務所としては、忙しさのあまり嬉しい悲鳴を上げる事態になりそうな予感がしています。

 そうした心配など人任せで、今ごろ関野吉晴は、うだるような日本とは別世界の南半球の凍えるような寒さのなかで、白い息を吐きながら自転車を走らせていることでしょう。グレート・ジャーニーの第2期の行程は「アタカマ高地縦断とアルチブラーノ(ボリビア高地平原)縦断」です。関野吉晴が残していった行動日程を、以下に紹介します。

●第2期 アタカマ高地・アルチブラーノ縦断(1994年8月〜1995年1月)

 8月5日        東京発
 8月上旬〜9月中旬   北部パタゴニア→南部アンデス→月の谷(アルゼンチン)
 9月24日        撮影スタッフとサンチャゴで合流
 9月26日        サンチャゴ発
 10月上旬〜10月下旬  アタカマ高地縦断(チリ、アルゼンチン、ボリビア)
            月の谷→サンペドロ・デ・アタカマ→ボリビアとチリの
            国境地帯
            世界最高所(6180m)のアウカンキルチャ硫黄鉱山で作業
            するケチュア族インディオを訪問。
 11月上旬〜11月中旬  世界最大の塩湖であるウユニ塩湖を縦断(ボリビア)
            塩を運ぶリャマのキャラヴァンに同行
 11月下旬       ボトシの鉱山労働者を訪問(ボリビア)
            タラブコ地方のケチュア族インディオを訪問
 12月初旬〜12月中旬  伝統医療の盛んなアポロバンバ山群(ボリビア)
            チチカカ湖東部のアイマラ族インディオ
            ティワナコ文明の遺跡群
 12月中旬       10万羽のフラミンゴが生息するポーポ湖をカヤックで横断
 12月下旬       チチカカ湖をカヤックで縦断

●1995年

 1月初旬〜1月中旬   オホス・デル・サラード山(6893m、火山の最高峰)
            ユーヤイヤッコ山(6739m、頂上直下に世界最高所の遺跡
            がある)
            チリ、アルゼンチンでの登山
 1月20日        サンチャゴ発
 1月22日        東京着

 以上が計画の概要ですが、関野吉晴が戻るまでに、もう一度『応援団通信』を皆様のもとへ届けられることと思っています。< P>  前回お願いした応援団事務所へのカンパも、予想以上に大勢の方からいただきました。本当にありがとうございました。その報告は別紙をご覧ください。 今後とも、グレート・ジャーニーに対する皆様のご理解とご協力をいただき、計画を完遂させる決意でおります。よろしくお願いいたします。

                             敬具
                     1994年8月18日
                     グレート・ジャーニー応援団団長
                     惠谷 治

                             1994.8.18
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【行動レポート】

――『グレート・ジャーニー』の第一行程、いかがでした?

関野 けっこうおもしろかったよ。

 成田空港を発って、世界で一番南にある人口10万人以上の都市、パタゴニアのプンタアレナスに着いたのが去年の11月23日。23日にはスタート地点に向かう予定だったんだけれど、日本から送ったカヤックがまだ着いていなかった。10日くらいは待ったかな。昔、ペルーに行ったときには48日間も荷物の到着を待たされたことがあった。だから、ぼく自身はこんなものだろうとあせらなかったんだけれど、サポート・メンバーのなかに、日本への帰国予定が決まっているひとがいたんだ。計画が遅れると、サポート・メンバーがひとり欠けることになってしまう。仕方なく現地でカヤックを調達した。実際にプンタアレナスを発ったのは12月1日。予定より1週間遅れてスタート地点に向かった。

――スタート地点はどこだったのですか。

関野 プンタアレナスから500キロほど南に下ったナバリーノ島。この島のプエルト・ウィリアムというチリ海軍の基地の町をスタート地点とした。

 プンタアレナスからプエルト・ウィリアムまでは漁船で行った。この漁船がまたぼろい船でね。全長13メートルの小さな漁船なんだ。エンジン・ルームに入った水をポンプで抜いているじゃない、普通の船は。それを船員がなんと手で汲み出しているんだ。最初は2時間おきくらいに船員が排水作業をやっていたんだけれど、いいトレーニングになるということでぼくらが手伝い始めた。そうしたら、船員たちが作業に来なくなった(笑)。いつの間にか、水の汲み出しはぼくらの仕事ってことになってしまったんだ。それもだんだん浸水がひどくなってね。最初は2時間おきだったのに、最後は30分おきくらいに汲み出さなくちゃならないような状態。やばいなあこの船と、いやな予感がした。結局、この予感が的中することになったんだけれど、それはまた後の話。プンタアレナスからプエルト・ウィリアムまで、普通なら30時間もあれば着くのに、50時間もかかってしまった。

――プエルト・ウィリアムをスタート地点に選んだのはなぜだったんですか。

関野 この町の片隅に、南米大陸の先住民・ヤマナ人(ヤーガン族)の村があるんだ。50人くらいのヤマナ人が暮らしているんだけれど、もうほとんどが混血。純血のヤマナ人は二人しかいない。両方ともおばあちゃんなんだけどね。ヤマナ語を話せるのももう彼女たちしかいないんだ。ぼくは彼女たちに会うのは3回目になるんだけど、今回は先住民の昔の暮らしぶりを展示している小さな博物館に一緒に行ってもらった。展示物の使い方なんかの説明を聞きながら、昔の生活について話をきくことができた。

 展示品のなかに、裸体に紋様を描いた男たちが写った古いモノクロ写真があったんだけれど、彼女たちはこれがわたしたちのおとうさんなんだっていう。おとうさんといっても、彼女たち自身もう60歳を越えたくらいの年頃だから、かなり昔の写真なんだよ。彼女たちの説明によると、この写真撮影のときにもすでに昔ながらの生活は失われかけていたらしい。おとうさんはこの写真の撮影のために、わざわざ昔の暮らしを再現してあげていたというんだ。

 そんな彼らの祖先の墓が海岸近くにあるんだけれど、その墓地を出発点とした。人類5万年の足跡を辿る旅のスタート地点は、ここしかないと思っていたんだ。

――その後のルートは?

関野 ナバリーノ島とフエゴ島の間を隔てるビーグル水道をカヤックでたどった。350キロくらいは漕いだかな。4日後、フエゴ島に上陸。上陸地点で待っていた例の漁船にカヤックを預けて、山岳地帯を徒歩で横断。この山越えにも4日かかった。山を下って、また海に出たところで、漁船と合流。今度はマゼラン海峡を漕ぎ渡って、南米大陸本土に向かう予定だったんだ。ところがここであのいやな予感が的中しちゃったんだよ。

――あのぼろ船……。

関野 そう。沈没しちゃった(笑)。

 合流地点にはぼくらのほうが早く着いたんだ。やがて漁船がやってきて、その夜はみんな海岸にテントを張って寝た。朝、起きてみたら、船が沈んでた(笑)。

 食料からカメラやビデオの器材まで、みんなダメになっちゃった。全部船倉に入れてあったんだけれど、それがいけなかったんだ。沈んだときに水圧がかかっちゃったんだね。フィルムなんか、タッパーウェアに二重に入れて、その上ビニールの袋に入れてあったんだけど、それがぐしゃっといっちゃった。300ミリのレンズだって、もう悲惨。なかまですっかり海水が入っちゃって、金魚鉢みたいになっちゃった。

 船長はどこかにぶつけて船に穴があいたんだろうなんて言ってたけど、きっとぼくらが降りた途端、船員が水の汲み出しをさぼったんだよ。それで沈んじゃった。ま、最初からやばい船だとは思っていたからね。 船長以下、乗組員はまったく反省の色なし。この船は潜水艦としても使えるかもしれないな、なんて笑ってる(笑)。そもそもこの船自体、ぼくらが行くことをあてにして買ったものだったらしいんだ。日本から妙な奴らが来る、船を用意しておいて彼らにチャーターしてもらおう、その後はみんなで漁船として使えばいい、なんて感じ。

 まあ、沈んだといっても坐礁したかたちだったから、海水が引いてから修理してまた乗れるようになった。でも、この沈没の後は、乗組員一同いつもライフ・ジャケットを着るようにしたらしい。やばいと思ったらすぐに逃げられるように、だって。ビデオのクルーは、この船を足として使っていたんだけれど「カヤック漕いでいるよりも、漁船に乗っているほうが危険が大きい」なんて冗談言ってたよ。

――食料や器材を失って、その後どうしたんですか。

関野 どうしようかと思ったんだけれど、えい、行っちゃえと、また海に出た。ところが、この海が風の吹き溜まり。風にあおられてなかなか進めない。停滞に次ぐ停滞。天気のいい早朝にしか進めない。荒れてくるとさっと砂洲に逃げ込んでテントを張って、1日過ごす。そんな毎日だった。

 ここでサポート・メンバーのひとりが時間切れ。どうしても日本に帰らなくてはならなくったんだ。食料も尽きてきていたし、じゃあ、みんな一度プンタアレナスに戻ろうということになった。プンタアレナスで休養して食料などを買い揃え、再び現地へ。1日目は進めたんだけれど。その後1週間はまったく進めない。大荒れ。足留め状態で正月を過ごすはめになった。でも動き始めたら快調だったんだ。3日で南米本土に辿り着いた。

――この辺は、どんなところなんですか。

関野 パンパはペンペン草しかないような荒地なんだけれど、フエゴ島やナバリーノ島は、森林地帯。それも歩くのも難しいような密林。かなり深い森だね。地元では、セルバ・フリア、冷たい熱帯と呼んでる。冷帯雨林とでもいうのかな。海から吹いてくる強い風が冷たくて湿った空気を運んでくる。年間降雨量が5000から6000ミリもあるんだ。風が強いから木はみんな横倒しに生えている。標高の低いところはこの密林で、その上はペンペン草もはえないような荒地。そしてそのまた上は万年雪。そんな土地だ。

 気温は最低気温でマイナス4度くらいなんだけれど、風が強いから体感温度はマイナス20度くらいになるのかな。でも夏だったからね。これでも暖かいほうなんだ。人はほとんど住んでいない。会ったのは灯台守くらい。漁の季節になると漁船がいるらしいんだけれど、出会わなかったね。マゼラン海峡は交通も多いから、大型船にも出会ったけど。

――本土に上陸してからは?

関野 まずは快調だった。この時点で一か月の遅れだったんだけれど、5日くらい休んで、今度は自転車。アルヘンティノ湖に達して、またカヤックに乗り込んだ。湖を漕ぎ渡るのは速かったよ。2日で80キロも湖面を進むことができた。風が強いだろうなってことはわかっていたから、カヤックはきついだろうと思っていたんだ。ところがそれよりもきつかったのは、湖に達するまでに漕いだ自転車だった。風が強すぎて前に進めないんだ。下り坂だったら、普通なら漕がなくても前に進むじゃない、自転車なんて。ところが、向かい風が強すぎて自転車が止まってしまうんだ。下り坂なのに自転車をおして歩かなくちゃならないんだよ。

――アルヘンティナ湖を縦断後、いよいよパタゴニア南部氷床に入ったわけですね。

関野 そう。大変だった。パタゴニア南部氷床の縦断が今回の旅で最大の難所だったといっていい。なにせ氷床縦断に34日間もかかってしまったんだ。

 2月1日、氷床に入った。この辺は、別名『嵐の大地』と呼ばれているんだ。でも、最初のうちは、そんなにひどくなかった。みんなで、なーんだたいしたことないじゃないか、なんてなめた口きいてたんだよ。ところがだんだん風が強くなってきて、あれっこれはたいへんだぞ、ということになってきた。

 風が強くなってくると、ひどい地吹雪になるんだ。風はみんな西風。そのなかを70キロもあるソリを引きながら北に向かって歩く。すると、西側に向いている身体の左半分は強風に飛ばされてきた雪がへばりついて真っ白になっちゃう。ところが、右半分はどうってことない。そんな状態で、その上、風に押されて真っ直ぐ立っていられない。立ち止まるとまたたいへん。あっという間にソリが雪に埋まってしまう。1分もかからずに、10センチや20センチも積もってしまうんだ。しかも足元はクレバスだらけの氷床。そんなところを34日間も歩きつづける羽目になった。しかもそのうち半分は停滞。大きなテントを張ると風で飛ばされてしまうから、小さなテントを張ってみんなそのなかで縮こまっていた。氷河に閉じ込められたみたいなもの。おそろしかったよ。

 いちばん弱ったのは、燃料がソリごと夜の間に飛ばされちゃったときかな。朝起きたら、消えているんだ。周りを探しても影もかたちもないんだ。晴天がつづけばぎりぎり間に合うだろうというくらいしか燃料が残っていない。戻るか進むか、みんなで協議した。もう一度探してみてそれから考えよう、ということになった。すると、なんと3キロも先に散らばっているのがみつかった。ソリだから、すべっていったと思うじゃない。ところがなんと、ソリごと飛ばされていたんだよ。このときがいちばんまいったんだけれど、その他のものもよく飛ばされていた。テントとかスキーとかね。

 とにかくずーっと停滞しっぱなし。あと一日か二日待って、嵐が治まらなかったら、撤退しようと話し合っていたら、その翌日カラリと晴れた。それでやっと抜け出すことができたんだ。

 この氷床縦断も、いま思えばおもしろかったよ。でも抜け出したときには、もう2度とあんなところに行くものかって思ったよ(笑)。

 氷床を抜け、太平洋側に出て、ここで漁船と合流。周辺の島々を巡った。ちなみにこの漁船はあの沈んだ漁船じゃないよ。全長14メートル。あの漁船より1メートル大きかった(笑)。ここでサポート・メンバーとはお別れ。再び自転車にまたがった。ひとりで800キロくらい北上して、今回の旅は終わった。

 自転車で北上中に新聞を読んでいたら、チロエ島という島でアジア系の木材パルプ会社と先住民のウィジチェ族がトラブってる、という記事が出ていたんだ。チロエ島というのは前にも行ったことがある島なんだよ。記事に出てくる先住民のリーダーは、そのときによくしてもらったひとだった。アジア系の企業というのが、ある新聞によると日本企業だというんだ。これはちょっと様子を見てこなくちゃと思って、チロエ島に寄ってみた。

 チロエ島は、7〜8年前から島の周囲の海の汚染がひどくなっていた。原因は、鮭の養殖。チリの大企業や外資系企業の鮭の養殖場がたくさんできて、大量に海にまかれる餌のためにプランクトンがわいたり、水温が異常に上昇したりして海が汚染されてしまったんだ。おかげで他の魚や貝が採れなくなってしまった。実は、いまチリの鮭の漁獲高って世界一なんだ。その八割がこの島で養殖されている鮭。そしてそのまた八割がなんと日本に輸出されているんだよ。そもそも鮭養殖の技術指導をしたのは日本なんだけど。

 また同じチロエ島で、今度は森林を巡って日本がトラブルを起こしているというんだけれど、現地で調べてみたら香港の会社だった。先住民の土地にすごい道路を作って森林を伐採していた。2万3000ヘクタールという広大な森林を買収してばさばさ伐採しているんだ。もう森林はずたずたにされている。先住民たちはこの土地のなかに自分たちの土地が含まれていると主張していた。

 この木材の輸出先がまた日本なんだよ。そもそも1970年代にこの森林の資源調査をやったのが日本企業なんだ。だから、先住民たちと支援グループの人たちは、どうも香港の会社の背景には日本企業がからんでいるんじゃないかとにらんでいる。まあ事実はどうかわからないけれど、とにかく日本に向けて送り出される木材がもとでトラブルが発生していることは間違いないよね。

――チロエ島のウィジチェ族とプエルト・ウィリアムのヤマナ人。この他の先住民との出会いはなかったのですか。

関野 以前の南米行で知り合っていたヤマナ人と同じヤーガン族のカワスカル人とプンタアレナスで再会したよ。

 19歳の女の子。最後の純血のカワスカル人の女の子なんだ。カワスカル人の村を出て、プンタアレナスの学校に通っていた。前に会ったときにはまだ中学生だった。そのときに、将来はなんになりたいの、と聞いたら、考古学者になって自分たちの先祖のことを研究したいといっていた。今回、まだあのときみたいに考古学者になりたいの、って尋ねてみたら、その意思は変わっていなかったよ。ただ、プンタアレナスには人類学や考古学を勉強できる大学がないんだ。どうしても首都にいかなくちゃならない。先生に聞いたら、彼女、実はあんまり成績がよくないんだって。でも、先住民保護の観点から、優先的に進学できる制度があるらしいんだ。その制度を利用すれば大丈夫かもしれないということだった。

 彼女が属するカワスカル人は、もう十数人しか残っていない。太平洋岸の漁村で、みんな漁民として生きている。漁船はベルギーの先住民支援団体が、チロエ島の先住民に注文して造ってもらって、彼女の村に寄贈したもの。結局、二重の先住民援助になるわけだよね。その船の名前が、『マリア・ルイザ号』。それがあの女の子の名前なんだ。ちなみに、この船を造ったチロエ島の先住民って、あの例の森林伐採に反対運動を起こしているウィジチェ族なんだ。マリア・ルイザが考古学者になって自分たちの歴史を学びたいというのも、あのウィジチェ族のリーダーの影響なんだよ。

 先住民に関していえば、たとえばこんなことはいままでなかったんだけれど、ヤマナ人とカワスカル人とが彼らだけの会議をプンタアレナスで開くようになっていた。北部の先住民たちの活発な権利要求の運動の影響、そして去年新しく制定された先住民の歴史、伝統、自然を保護しようという法律の影響もある。まあこの法律は、選挙のときの彼らの票をあてにしたものなんだけれど。

 チリ全国に先住民が約100万人いるといわれている。先住民全体の全国会議は首都
・サンチャゴで開かれている。プンタアレナスで開かれる二種族の会議は、南部先住民の地方会議みたいなものだね。彼ら自身も全国会議のときは首都に行くんだ。先住民の全国運動会なんてのもやってるんだ。

――今後、第二回以後の課題は?

関野 写真やビデオをもっときちんと撮りたい。順調に進んでいるときは結構撮影しているんだ。でも、しんどくなってくるとなかなか撮ることができないんだ。その結果、なんだか気持ちよさそうに進んでいる場面が多くなっちゃた。でもちゃんとしんどいときにも撮影しなくちゃね。そうしないと、日本に戻ってから、みんなになんだか楽しいばかりの旅をしている、なんて思われちゃうかもしれないじゃない(笑)。

 距離的には今回は、直線距離にして1400キロ、実際に踏破した距離は2400キロ。直線距離の六割増だね。人類の旅・5万キロといっていたんだけれど、実際の移動距離は8万キロくらいになるんじゃないかな。
(インタビュー・構成 土方正志)

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【経過報告】

●1994年
 2月1日    パタゴニア南部氷床縦断に出発。
 2月2〜5日  ウプサラ氷河縦断。
 2月6〜7日  嵐のため停滞。
 2月9〜15日  マリアモレノ山脈。空撮などしながら北上する。
       この間、停滞3日。
 2月16日   ラウタロ山塊到達。
 2月17〜22日 嵐のため停滞。ほとんど進めず。
       18日、燃料がソリとともに強風に飛ばされる。
 2月23日   強風の中を前進。ラウタロ山塊を抜ける。
 2月24日   霧の中で迷う。
 2月25日   ランセル山塊西側通過。
 2月26〜28日 霧のため停滞。
 3月1日    霧の中を磁石を頼りに前進。ホルヘモン氷河到達。
 3月2〜4日  ホルヘモン氷河通過。東海岸到着。
       パタゴニア南部氷床縦断を終える。
 3月6〜14日  カヤック、船で東海岸フィヨルドの島々を巡る。
       カワスカル族の村を撮影。プンタアレナスに戻る。 
 3月21日   この日までにサポート隊、撮影スタッフすべて帰国。
       関野ひとりとなる。
 3月23日〜4月1日  パイネ国立公園。
 4月11〜15日 東海岸フィヨルドのプエルトユンガイを目指して北上。
       プエルトユンガイの倉庫に預けてある自転車を受け取り、
       南街道を北上する予定だったが、崖崩れで道路が封鎖されており
       なかなか肝心のプエルトユンガイに行けない。
       15日、やっとプエルトユンガイ着。
       南街道北上開始。
 4月16日〜5月1日  南街道北上。
       この間、チロエ島でアジア系企業が現地住民と森林伐採の件で
       トラブルを起こしているという新聞記事を目にする。
       チロエ島へ向かう。
 5月3〜11日  チロエ島滞在。ウィジチェ族の村で、森林伐採に関する取材。
 5月15日   関野、帰国。

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【関連記事掲載記録】

●新聞
 1994.4.30  朝日新聞――難関、パタゴニアの氷床縦断
        探検家・関野吉晴さん人類移動たどる5万キロの旅
 1994.6.26  THE JAPAN TIMES――Doctor retraces trek out of Asia
 1994.7.25  朝日新聞(大阪版)――刻まれたシーン「壮大な旅に挑む」
       (文・後藤正治)

●雑誌等
 1993.8月号  FIELD&STREAM(ソニーマガジンズ)――7年の旅(文・関野吉晴)

 1994.2月号  アサヒカメラ(朝日新聞社)――イメージ・ステーション
       (アドベンチャー)
 1994.4月号  FIELD&STREAM(ソニーマガジンズ)――
        モンゴロイドの道 人類のたどった400万年の旅路
 1994.6月号  翼の王国(全日空機内誌)
 1994.6/16号  週刊文春(文藝春秋)――
          冒険家・関野吉晴「人類の旅50,000キロ-1
          パタゴニア誘惑の魔界」
 1994.8/11.18号  週刊文春(文藝春秋)――
          探検家・関野吉晴「人類の旅50,000キロ-2
          風の谷のパタゴニア」
 1994.8/24号  スーパージャンプ(集英社)――
          ザ・グレート・ジャーニー 最果てのモンゴロイド
 1994.9月号  山と溪谷(山と溪谷社)――
          嵐の大地・パタゴニア縦断 写真と文=関野吉晴
 1994.9月号  こどもぴあ(ぴあ株式会社)――
          こどもレポート・おしごと 関野吉晴さん

※このほかにお気づきの記事があれば応援団連絡事務所へお送りください。

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【現地報道(日本語訳)】

●ラ・プレンサ・アウストラル 1993.12.2(木)

 日本人、7年間の探検開始のための準備整う
 昨日、プエルト・ウィリアムスに向けてカヤックで旅立つ

 日本人医師、ヨシハル・セキノは最近、アメリカ、アジア、アフリカ大陸にわたる広域調査のため、プエルト・ウィリアムスから7年間かけて踏破を開始する準備を整えた。
 次いで、アルミランタスゴ湾までの遠征をおこなったあと、今月半ばには到着するとみられるプンタアレナスまで航行するためのカヤックを用意した。

 この期間中は、目的達成のために歩き、ペダルをこぎ、櫂をかき、スキーをして、2001年の元旦に横断を完了する最初の探検家になりたいと希っている。また同時に、彼はモンゴロイドが、この範囲で発達した現地部族たちと交わった関係を分析したいと思っている。この第一段階では、イチノ・マサヨシ、フルシマ・シゲル、ヤマヌシ・フミヒコ、シンヤ・アキオと組んだ日本のテレビ・チームが同行することになる。

 プンタアレナスに到着したあとは、プエルト・ナタレスとトーレ・デル・バイネ、カラファテのアルヘンティノ湖までの踏破、そしてさらにカンボス・デ・イエロ方面に向かうために、自転車で移動する。

 内陸部の運河に出るために、またカレータ・トルテル、そしてプエルト・エデンへと航行するために、そこから再びプンタアレナスにカヤックを持ってくる船を準備している。その後、プエルト・ユンガイ方面に向かうが、踏査の第二段階は単独でおこなわれることになる。

●エル・メルクリオ 1994.1.6(木)

 カヤックでの大縦断

 日本人探検家、ヨシハル・セキノは、2001年にアフリカで完了する予定の5万Kmの旅の第一段階で、ビーグル海峡南部海岸地帯のナバリーノ島からカヤックでの1カ月の航行ののち、プンタアレナスへの到着を賞賛で迎えられた。

 彼の長い旅のこの段階ではマサヒロ・ウチダが同伴して踏破し、このユニークな探検をサポートしている日本のテレビ隊が、プラヤ・コロン(昨日午後到着した地点)でドクトル・セキノを待っていたのである。

●ラ・プレンサ・アウストラル 1994.1.6(木)

 ヨシハル・セキノ 7年探検を開始
 日本人南部地域横断を1カ月でなし遂げる
 イエンデガイア−アルミランタスゴ間を徒歩とカヤックで航行

 (ロランド・マルティネス・V)

 日本人医師、ヨシハル・セキノがビーグル水道と内陸部水道をカヌー、あるいはカヤックで航行し、そしてティエラ・デ・フエゴ島を4日間かけて歩き、南部地域横断を1カ月でなし遂げた。
 7年間かけて繰り広げられる冒険をこの地方で開始した探検隊は、アメリカ、アジア、アフリカをずっと歩き通すという。 

 昨日14時過ぎに、プンタアレナスに到着した。
 そして、彼の傍らでカヤックの櫂を操ったのは、彼の同伴者、マサヒロ・ウチダだ。セキノには、彼の探検の第一段階を終えた満足感がみられた。この期間中、前進をはばむ強い突風との闘いだったと、ラ・プレンサ・アウストラル紙に語った。

 12月5日にナバリーノ島を出発し、カヌーでイエンデガイア地区まで航行し、下船してからはアルミランタスゴ湾への出口まで4日間歩いたと語った。ついで、新たにカヤックでわれわれの町まで航行した。また、28日から先週日曜の間は、強い向かい風のために多くは前進できなかったと述べた。探検の間、旅の間、彼らを支援したレオンティーナ号を巻き添えにしたアルミランタスゴで起きたような波々を含めて、通常の航行ができない強いうねりに遭遇した。

 同様に、マイナス3℃を含むほどの低温にも苦しめられた。気象条件によるものの、毎日平均5時間櫂をこぎ、昨日にいたっては10時間の航行をやってのけた。
 ドクトル・セキノは3日間ゆっくり休養したあと、彼の横断の第二段階を開始する予定だ。それのためには、マサオ・ハシモトの同伴で自転車を使ったプンタアレナスからプエルト・ナタレスまでの旅になるだろう。それは3日間続き、アルヘンティノ湖に入ってカヤックで渡る旅は、アルゼンチンのエル・カラファテから続けられる。

 万年雪のウプサラ経由で横切るために、スキーが用いられ、南の氷原から再びカヌーを使いプエルト・ユンガイまで航行し、チリ領のホルヘ・モント方面に辿り着くまで踏破は継続される。
 この段階ののち、南部の街道を通り国の北部への旅を続けるために、プエルト・エデンまで航行したあと、プンタアレナスへの帰路を予定しているプエルト・ユンガイに引き返すことにしている。

 セキノは2001年元旦に横断を成功させる最初の探検隊員でありたいと希っているが、同時にこれらの地域で発展した原住部族とモンゴロイドが持っている関連を分析したいという。そのために、ウキカ町をも訪れ、プエルト・ウィリアムスではヤマナスの子孫たちと接触した。

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【応援団への協力=寄付について】

 前回の「応援団通信」で説明しましたが、グレート・ジャーニーの資金については個人に迷惑をかけたくないというのが、関野吉晴の基本的態度です。しかし、応援団に参加された方の中から、応援といっても何もできないので、せめて寄付くらいは、という声もあり、応援団事務所で検討した結果、関野吉晴の行動資金とは別に、応援団事務所の活動を援助していただくという形でカンパを受けることにしました。その旨をお伝えしたところ早速、大勢の方々から寄付をいただきました。感謝の気持ちでいっぱいです。帰国した関野に報告したところ恐縮していましたが、彼も応援団の立場を理解し喜んでくれました。寄付していただいたお金は、応援団の通信などの運営費に使わせていただきます。

 応援団事務所では寄付をいただいた人と、そうでない人とを区別するようなことはまったくありません。応援団に登録されている方には全員、この「応援団通信」を今後ともお送りしていきます。しかしながら、グレート・ジャーニーに心から賛同していただき、寄付までしていただいた人に何らかの特典がなければ、本来の意味で公平ではないという意見もあり、とりあえず『年間報告書』が発行されたときには、それを割引きすることを考えています。また、応援団長の趣味で、「グレート・ジャーニー特製世界地図」を製作するという計画もあり、寄付をいただいた方にその特製地図を差し上げてはどうかといった意見もあります。いずれにせよ、次回の通信で詳しい内容をお伝えできればと思っております。寄付をいただいた方々には、心よりお礼を申しあげます。

■銀行振込:三和銀行四谷支店 口座No.3704854
      グレート・ジャーニー応援団連絡事務所
      〒160東京都新宿区若葉1-6 あかつきビル3010
      TEL03-3359-0609 FAX03-3353-7153

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