れんさい・地球探検シリーズ…5


地球探検シリーズでは、世界じゅうのさまざまな土地を探検している「地平線会議」の仲間たちの行動をしょうかいしていきます。



砂漠につくるぞ、マングローブ
                              向後 元彦さん

今回は「砂漠に緑を」というきみょうな名前の会社の代表をつとめる向後元彦さんに登場していただきます。向後さん現在48才。ヒマラヤや西アジア、ミクロネシアなどを家族ぐるみで旅した経験をもち、この10年ほどは、アラビアの砂漠にマングローブの森をつくろうと、研究と実験をつづけています。

 雲ひとつない青空から、太陽が情けようしゃなく照りつける。砂漠からは砂まじりの熱風が吹きつけ、温度計は日かげでも47度を示す。アラビア半島の夏は、からからにかわききっている。1977年の夏、向後さんはクウェートにいた。

「おどろいたことに、こんな砂漠の国でも、街なかではあちこちに緑があふれているんです。あり余る石油のおかげで国が豊かですから、海水から真水をつくって、街路樹や庭木にかんがいしているんですね」。

 しかし都市を一歩でも出ると、そこには草木のはえない、不毛の砂漠が広がっている。石油でもうけた金をいくらつぎこんでも、国土の緑化は点でしかできない。

「そんなクウェートの風土を見ているうちに、砂漠を緑に変えることができればおもしろいぞ、とひらめいたんです。大学時代は農学部にいたので、植物にくわしい先生や友人がたくさんいるし、きっと道は開けるにちがいないと思いました」。

 さっそく帰国して友人たちと相談するうちに、海水で育つ木があることをふと思い出した。学生時代にボルネオへ行ったとき、海のなかからにょきにょきとはえているマングローブの森におどろいた経験がある。

「そうだ。雨の降らないアラビア半島も、海水なら無限にあるから、マングローブで森をつくればいいじゃないか、と考えたわけです」。

 マングローブというのは、ひとつの植物ではなく、干潮のときは陸地になり、満潮のときは海にしずむ潮間帯で育つ木の総称である。人の背より低いものから40メートルもの高さになるものまで、100以上の種があり、東南アジアなどの熱帯雨林地帯に多く分布している。

「1978年の1月に『砂漠に緑を』という会社を設立して行動を開始しましたが、マングローブについての専門的な知識がまったくなく、最初の三年ほどは苦労の連続でした」。

 まず取り組んだのは、アラビア半島に適した種類のマングローブを発見することである。アラビア半島の各国やパキスタン、東南アジア、沖縄などを調査してまわり、どんな環境がマングローブの成長にふさわしいのか、研究した。また、調査先から集めてきた種子を実際に海岸にまいて育ててみた。

「夏の熱風や冬の寒さ、塩分が濃い海水、波、フジツボや海藻、原油汚染など、さまざまな障害がつぎつぎとおそってくるたびに、せっかく芽を出した何千本ものマングローブが枯れていき、心が痛みました。会社の資金もなくなり、もうだめかと思ったことも何度かあります。しかし現地や日本で応援してくれるおおぜいの人たちのことを考えると、そう簡単に引きさがるわけにもいかず、挑戦をつづけてきたわけです」。

 現在では、約3万本のマングローブが順調に育ちつつある。


●チョウと山に夢中になった

 向後さんは東京の下町で生まれたが、3才から5才までは戦争のために長野県に疎開した。東京に戻ってからは、吉祥寺の近くに移り住む。当時はまだ武蔵野の自然が豊かに残っていて、草花や動物が好きな少年にとっては絶好の環境だった。

「小学校時代のことはほとんど覚えていないんです。おそらく、自主性のない、ボーッとしている少年だったのでしょう。スポーツも苦手で、野球なんかもへたくそでしたね」。

 興味があったのはチョウの採集で、手づくりの網をもってしばしば野山を歩きまわった。高校では山岳部に入ったが、急な山道を重い荷物をかついで登っていても、チョウを見かけると網をふりかざして追いかけ、みんなにあきれられたという。

「高校時代はすっかり山登りにのめりこんでしまいました。授業はもちろん、修学旅行さえさぼって山に出かけたこともありますが、そういうときに限って、雪山の頂が劇的にすがたを現わしてくれ、深い感動をおぼえたものです」。


●山岳部から探検部へ

 受験勉強はほとんどしなかったので、最初の受験には失敗した。予備校時代には山の本を集中的に読みまくり、ヒマラヤへ強いあこがれをいだくようになる。一浪のあと、東京農業大学に入学するが、伝統ある山岳部をもつという魅力にひかれてだった。さっそく山岳部に入部して、年間百五十日以上も山に登る。

「そろそろ自主性がめばえてきて、必要もないのに1年生に一番重い荷物をかつがせてしごくような山岳部の古い体質に、疑問を感じるようになりました。それに先輩たちが日本国内の山にしか関心がなく、困難なヒマラヤ登山をちっとも考えないのも、軽べつしていましたね」。

 2年生の終わりごろには、先輩とはげしく対立した。しかし山岳部をやめてしまっては、わざわざこの大学へ入った意味がなくなる。どうしようかと毎日真剣になやんだ。

「ちょうどそのとき、ノイスというイギリス人が書いた『冒険−−この駆りたてるもの』という本を読んで、本当の登山とは、未知の山をめざす探検的な行動なのだと、あらためて気づいたんです。そこで、山岳部をやめて新しく探検部をつくり、ヒマラヤをめざすことになりました」。


●ひとりぼっちのヒマラヤ

 探検部ができて1年後の1962年4月、あこがれのヒマラヤがそびえるネパールへ、ついに探検と農業調査に出かけることになった。

「探検部の部長の先生が隊長で、隊員は2人だけという小さな遠征隊でしたが、調査がひととおり終わってから、かなり長い期間にわたって、たった1人でネパール東部をあちこちさまよい歩きました」。

 当時のヒマラヤ遠征といえば、本国からもってきた食料や装備を運ぶために何百人の人夫をやとい、ぞろぞろと大名行列のように進んでいくのがふつうだった。ところが向後さんは、現地の人たちのそまつな食事をいとわず、自分でも重い荷物をかついで、氷河やふもとの村むらを歩きまわった。「お前の旦那はどこにいるんだ?」と、遠征隊からはぐれた人夫とまちがわれたこともある。

「初めて8000メートル峰を間近に見たときは、心の底から感激しました。それまでは霧でぜんぜん山が見えなかったのに、ある朝テントの入口をあけると、目の前にマカルーの純白の頂がダーンとそびえたっていたんです。とぼしい食料と高山病でふらふらだったこともあり、ひときわ強い印象として残っています」。

 国境の尾根に立ってチベット高原の赤茶けた風景に心を打たれたり、ガイドと2人だけで6000メートルの未踏峰の登頂に成功したりと、めざましい成果をあげて、1年半におよぶネパールの旅が終わる。


●家族ぐるみの旅へ

 1964年に探検部の遠征でボルネオに出かけたあと、向後さんは大学を卒業してサラリーマンになった。そして、ネパールへ調査に行ってきたばかりの紀代美さんと結婚する。

「この時期は、南極大陸の最高峰ビンソンマシフの初登頂をくわだてていたんですが、砕氷船をやとうばく大な費用が集まらないうちに、アメリカ隊に先をこされてしまいました」。

 このざせつのあとは、紀代美さんと2人で、家族ぐるみの旅を実行するようになる。1967年にはネパールからパキスタンをへて、西アジアを旅し、そのままイギリスへ。ロンドンに1年以上滞在するあいだに長女の江美ちゃんが生まれたが、すぐにいっしょにスイスを旅行する。 帰国後は、東京で生まれた次女の美陽ちゃんと四人で、南太平洋の島じまやオーストラリア、韓国、インド、ラダック高地、ネパールなど、さまざまな国をおとずれた。 また、「あむかす」というグループをつくって、ふつうの人が旅や探検に出かける手助けをしたり、韓国でコピー機の製造をしようと会社をつくって家族と3年間韓国で暮らしたりと、ほかの人がやらないような仕事にもつぎつぎと手を出した。


●緑の冒険

 1980年から2年間、向後一家はクウェートに滞在した。海岸にまいたマングローブはまだ1本も育たず、資金もなくなって、胃が痛くなるような毎日を送っていたが、81年になると、とつぜん幸運の女神がほほえみはじめる。向後さんたちの計画を資金的に応援しようという人が、少しずつ現われてきたのだ。

「それに、クウェートから車で1時間半ほど行ったサウジアラビア領内に、カフジ入り江という絶好の栽培実験地を見つけたことも幸いでした。波の静かなこの入り江がなかったら、そのごの実験はとうてい不可能だったと思います」。

 7月、夏の太陽が照りつけるなか、パキスタンから採取してきた種子を1人でまいた。そしてアラビア半島各地の調査から帰ってきた10月初旬、クウェートから車をとばして真っ先にかけつけてみると、四百本ほどのマングローブが、いっせいに小さな葉を開いて迎えてくれた。

「まさに『やった!』と思いましたね。なにしろアラビアでマングローブの栽培に成功した者はいなかったわけですから。ここで芽が出なければ計画のすべてがおしまいになってしまうという、最後の機会でした」。

 これをきっかけに、道がどんどん開けてくる。アブダビやオマーン、パキスタン、カタールなどの海岸でも実験が始まり、どこでも順調な成育が確認されている。一番大きな木は高さ2.5メートルにも達し、種子が落下して二代目の若木が自然に誕生したところもでてきた。実績が認められて、国連の緑化計画の手伝いをするようにもなった。

「現在、世界各地ではマングローブ林の破壊が急速に進行しています。これを少しでもくいとめ、病んだ地球の緑を自分たちの手で回復していきたい。ささやかなアラビアでの経験を生かして、そんな壮大な『緑の冒険』に本気で取り組んでいこうと、いま夢みているところです」。

〈『こどもの光』1989年5月号〉



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