2003年05月の地平線通信



■5月の地平線通信・282号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙はこの春から、大学院へ通うことになった。「今何年目?」とか「いつ卒業?」などと未だに尋ねてくる人がいるので、念のために言っておくが、ぼくは去年の9月に大学を卒業した。(「なんで卒業できたの?」という野暮な質問は禁止!)

●とにかくぼくはこの春から大学院へ入学した。所属は東京芸術大学大学院美術研究課修士課程先端芸術表現専攻というところである。やたら長い名称で舌を噛みそうだが、要はファインアートなどの現代美術を中心に、幅広く表現者を養成するところだと勝手に思っている。クラスメートは本当にバラエティに富んでいて、学部時代に取り組んでいたことを聞くと、いくつもの答えが返ってきた。ロボット作りや、神経についての研究、アニメーションから彫刻、地域プロジェクト、映像、写真、詩、身体表現、演劇、お金の流通などこれらの履歴を見るだけで、この専攻がいかに幅が広く、実は曖昧模糊としているかがわかるだろう。

●その証明といえなくもないが、面接のとき、ある教授から面白い質問をされた。彼はぼくのプロフィールを見ながら問う。「冒険と芸術は違うものなのですか?」。冒険は芸術に成りうるんですか?という質問ならまだ理解できる。しかし、この教授は冒険と芸術の差異は一体何か、と尋ねているのだ。つまり彼は冒険を一つの芸術としてとらえているということらしい。意表を突いた質問に戸惑い、ぼくはうまく答えられなかった。しかし、その質問によって、旅(彼に言わせれば“冒険”)とアートの新しい関係性について考えているのが自分だけではないことがわかった。「ここではないどこか」の感覚を他人とわかちあうために、表現方法をさらに開拓していけば、それはアートになりうる。

●ミクロネシアの航海術などに興味をもっていろいろ調べてきたが、たとえそれがフィールドワークの真似事にしかなっていないとしても、そのような文化人類学的なアプローチに限界があることだけはわかっているつもりだ。研究者には常に客観的な視点が求められるのに、ぼくはそのような視点に徹することができず、どんどん中へ入ろうとしてしまう。研究者よりは表現者のほうに惹かれるので、論文を書くという行為を重要視する学術的な研究というものに、おそらく向いていないと思うのだ。

●実際に現地に行って自分の身体に刻んできた極地の感覚をどのように表現するか。北極のイヌイットやミクロネシアの島民、チベットに住む山の民など先住民がもつ自然の中で生き抜くための知恵を都市の中でいかに蘇らせ、人間が元々もっていた野生の部分をいかに引きずり出すか。時おり経験する神話的な時間の流れや、以前はシャーマニズムなどによって得られたここではないもう一つの世界を予感するための力を、アートのようなソフトウェアから導き、新しい表現行為につなげていくこと。それが描いている夢であり、目標でもある。

●余談だが、6月下旬に新刊を出版することになった。タイトルは「大地という名の食卓」。旅と食に関する6つのエッセイとふんだんに写真を使った、あっさりめの本である。秋には、アフガニスタンやその他の旅に関する本がいくつかでる予定なので、そちらもあわせて、気にかけていただけたら幸いだ。また、6月23日には京都の同志社大学で旅の話をする。関西での会は久しぶりなので、興味がある方はいずれサイトに出す告知を見てほしい。

●面接のときにある教授から「ちゃんと学校くる気はあるの?」と聞かれた。彼はうすら笑いを浮かべて尋ねるので、ぼくも負けじとうすら笑いを浮かべながら「腰を据えてじっくり大学院の勉強に励みます」と力なく答えたのだが、それもあながち冗談ではない。(ように努力したい・・・)。この2年間は真剣に表現と向き合う時間を今以上にとりたいと思っている。思索の時間もたまには必要なのだ。なーんてことを言ってはみるが、結局旅の虫が騒ぐのは火を見るより明らかである。どうなることかわからないが、いつものようにマイペースで自分が興味をもっていることへストレートに突き進んでいこうと思っている。それだけはいつも変わらないのだ。[石川直樹]


地平線はみだし情報 埜口保男さんの小学館ノンフィクション大賞受賞作「みかん畑に帰りたかった」ついに発売!



先月の報告会から(報告会レポート・284)
アイニョ・ビ
関野吉晴
2003.4.28(月) 牛込箪笥区民センター

◆先日、ゴンチチさんの「黒い蟻の生活」という曲をライブで聴く機会があったのだが、「みなさん、ついてきてください…」と客に訴えながら始まったそれは、本当に必死でしがみつけばつくほど遠くに行ってしまう摩訶不思議なシロモノであった。

◆メロディーを捕らえたっ!と思った瞬間、ぐぃんぐぃんと音階も曲調も変わっていき、1つのまとまりが2小節も続かないのだ。さっぱり掴み所がないというか、得体が知れないというか、音楽であんな体験をしたのは初めてだった。なのに、曲が終わったとたん我に返って感じた「なんだったんだ、今のはっ!」という衝撃は1ヶ月たった今もまったく色あせていない。

◆と、こんなことを思い出したのも、関野さんのトークから似たような印象を受けたゆえである。自分にマイペースなのが持ち味の関野さんになんとか寄り添いたい、没入したいと思うのに、どんどん独りで先に行ってしまう逃げ水のような人。GJで彼を追った山田和也ディレクターはさぞ苦労したことだろう。

◆「アイニョ(居る)・ビ(おまえ)?」「アーイ・ニョ」という挨拶で始まった7年ぶりの里帰り先は、彼が一番仲良くしているというマチゲンガ族のトウちゃん一家。ペルー南部アマゾン川の源流の1つであるシンキキベニ川に暮らす少数民族である。現象に生きる彼らにとっては居るか居ないかが問題で、その間どうしていたかなどという過去には関心がないらしい。そして、その挨拶を交わした瞬間が一番幸せなのだと関野さんは言う。彼らには、「僕のことどう思っているの?」という関野さんの問いの意味がわからない。そりゃそうだ、彼らにとっては「今」がすべてなのだから。

◆そんな関野さんも最初から彼らに受け入れられたわけではない。現地語を話せる案内人を伴っても、余所者と会うのを嫌う彼らに初っ端から逃げられた。もう慣れただろうと思って2回目は独りで行ってみると、やっぱり逃げられた。それが今では、名前も年齢も必要なかった彼らの名付け親(その名も、「トウちゃん」、「カアちゃん」、「ハポン」、「センゴリ」、「ソロソロ」、「ゴロゴロ」、「オルキーディア」など)兼唯一の年齢推定者なのである。

◆世界遺産であるマヌー国立公園の地図から始まった150枚のスライドは、ほとんどトウちゃん一家のアルバムであった。江本さんも一瞬で惚れてしまった娘がいるようだが、それらは本人たちも知らない彼らの美しさを切り取る関野さんの沸々とした喜びが伝わってくるものばかり。そんな関野さんも、自分の子供は撮らぬと家族からクレームがついているらしい。

◆川の民である彼らは、関野さんに「どこの川から来たの?」と聞く。しかたないので、「多摩川」と答える。「その川はきれいか?鳥や魚はいるか?」「・・・」「ここまでどのくらいかかったのか?」「一週間」「じゃあ、隣の川と同じだ」こんな問答をしてしまったら、私だって軽いショックを受けるだろう。余計な尺度を持たないことは豊かである証しだ。

◆関野さんは、長くつき合う先住民には共通点があるという。自然との距離が近い、効率を優先させない、競争を好まない、ゆったりした時間の流れを持つ。彼らは植物みたいにゆったりしているけど動いている。例えば、女たちは男たちが狩猟から帰ってきてからやっと芋の皮をむき始める。さすがの関野さんも「先にむいとけよなぁ」と最初はイライラしたそうだが、慣れると1日の様子をみんなで報告し合うとてもなごむ時間であることに気付く。

◆食事は2時間かけてゆっくりとる。空腹、炎の色彩、森や泥の匂い、子どもたちが騒ぐ声。「美味しい」は、食べる時の場すべてなのだと知る。日本人にだって「何をしている時が一番幸せか?」と聞いて、カラオケとかテレビと答える人はまずいないだろう。美味しいものが食べられることや、家族が健康であることなど日常のささやかな幸せを挙げる人が多いに違いない。当たり前のことが大切なのは、私たちもマチゲンガ族も同じなのだ。彼らは鏡、彼らといると自分の本当の状態を知ることができると関野さんは言う。

◆彼らの生活は、起きている間はほとんど「食」探しであとは遊び。関野さんが遠出するとおもしろがってついてくるのだが、すぐに疲れただの足が痛いだの言ってなかなか先に進めない。そうかと思えば、獲物がたくさん捕れるからと大喜びで狩りに出かけてしまう。運や技術に左右されるが、その日のうちに成果がわかる狩りは、どうやら彼らにとって苦痛ではないらしい。毎日が取引と説得の日々だったと苦笑する関野さん、どこかで聞いた話のような気もするのですが…。酒、歌、踊り、楽器など遊びはなんでも自分たちでつくってしまうという話を聞くと、私たちはずいぶん楽しみを奪われているのだなぁと実感する。

◆子供たちは3歳からナイフで遊び、森と川が先生となって10歳で弓矢を扱うようになる。自立の時だ。初めて獲物を仕留めたゴロゴロは、カアちゃんに成果を投げ出すとブスッとしてベッドでふて寝してしまった。これも、与えても威張ってはいけない、もらっても負い目に思わない、という彼らの美学ゆえ。ついに我慢しきれず、夜中になって狩りの様子を興奮してしゃべりまくったというゴロゴロ。そりゃ、そうだよなあ。

◆トウちゃん家の床に転がって天井を見ると、素材のわからないものがなんにもない。線や管もない。逆に、私たちが自分の家で転がってみても、素材のわかるものはほとんどない。線や管だらけで、そのうちの1本が切れても困ったことになる。自立という意味では彼らにはかなわない。最近、山田監督のドキュメンタリー映画「障害者イズム」を見たのもあって、「自立って何だろう?」と考えこんでしまった関野さん。後の懇親会の席で、「僕もジャンプしたい」と気になる発言。関野さんの自立とは?彼は何を打ち破ろうとしているのだろうか。

◆自分すらも押し寄せる文明と自覚する関野さんは、なぜマチゲンガに通うのか。彼が余所者と接触していない人々にひかれる動機はなんなのか。それは、人類が「13回の絶滅の危機をくぐり抜け、奇跡的に生きている」ということ、「One of 3000万種」ということをリアルタイムに自覚できる場所へ還りたいからなのかもしれない。懇親会で、「この夏も里帰りを計画しているんだ。ベネズエラ、ペルー、シベリア、ネパール、エチオピアのどれにしようか、まだ迷っているんだよなあ」と言う関野さんの顔は、今までに見たことがないくらいくしゃくしゃの笑顔だった。[大久保由美子]



地平線ポストから
地平線ポストではみなさんからのお便りをお待ちしています。旅先でみたこと聞いたこと、最近感じたこと…、何でも結構です。Fax、E-mailでも受け付けています。
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●西牟田靖さん…2003.4.30…杉並区発《E-mail》…ご存知、かつての東長崎“元気・文化村”住人

◆日本とかつての日本の領土を回る旅に終止符を打ちました。豊島区のアパート富士見荘がゴール地点。3月17日のことでした。住んでいたココがスタート地点でした。この時期、華麗なピンク色の花を咲かせていた桜の木は切り落とされていました。時の流れを感じました。それもそのはずです。2000年の1月に旅を始めたわけで、かれこれ3年と2ヶ月もたってしまったのですから。

◆原付のカブで、町乗り感覚で、ゴールを決めずに始めた旅でした。だけど結果なかなか壮大なものになってしまいました。真冬の北海道をカブで一周した後、船でサハリン。未舗装路を2000キロ以上そのカブで走りました。その後南下し、日本国内をカブで隅々。訪れた離島の数は国内だけで約百。韓国と台湾は現地で調達したスクーターで回りました。中国東北部(かつての満州国)や北朝鮮、ミクロネシアにも足をのばしました。時間の使い方次第ではもっと違うことができたのに。そんな考えがチラッと脳裏をかすめることもあります。でも自分で選んだ道です。経験を糧にして、胸を張り、それでいて奢らずに謙虚に暮らしていくつもりです。

◆先ずはこの3年の旅の軌跡をまとめることに精を出します。世間に発表できるように頑張ります。


●西澤栄里子さん…2003.5.5…長野発《E-mail》

◆四万十川でお世話になりました西澤です。地平線通信に自分の文や名前が登場していること本当に嬉しかったです。ありがとうございました!この連休如何お過ごしでしたか?私は仕事の都合で連休が4日、5日の2日間だけだったり、その内の一日は家の用事があった為、遠出はできず、「あっ」という間に終わってしまったお休みでした。先日の関野さんの報告会にギリギリまで行くつもりでいたのですが、やはり仕事の都合で現地区民センターに着く時間を考えた結果、行くのを諦めました、大変残念でした。今月末の報告会には是非今度こそ行かれるよう頑張ってみたいと思います。


●田中雄次郎さんから…2003.3.7…「あおそら牧場(北海道天塩郡豊富町)」発《Fax》
…東京農大卒業後北の大地に移り住み20年以上酪農と戦い続ける三輪主彦さんの教え子

◆江本さん、大変ご無沙汰しています。お元気ですか。三輪先生の弟子、田中雄次郎です。毎月の地平線通信、気合をいれて読んでいます。〈三輪主彦氏の卒業を東京の海辺で祝う会〉のこと、何としてでも出席、参加したかったのですが、年中無休の酪農の仕事に都合つけられず残念です。ただ、8月に出来たら弟子仲間数人とお祝い会う実現したいと北海道で企画しています。三輪先生に「祝電ファックス」をここにひと言。お願いして申し訳ありません。『先生、ご苦労様でした。高校を卒業してひたすら肉体労働に励むうち本当に体力がつき,そして知力も確かについて来ました。ありがとうございます。脚力は必ずいつか先生がまだ元気なうちに再逆転します。8月お待ちしています。』

◆江本さんのご活躍、多方面から伺い、いつも驚いています。すばらしいエネルギーですね。まだまだ若輩、浅学な自分に力を頂いています。此の頃の私は悩み病める日本の近代酪農と戦っているつもりでいますが、まだまだもがいてもいます。宮本常一先生から「日本型酪農を考えろ」と言われたことをしきりに忘れまいとしています。いつか江本さんも気晴らしになるかわかりませんがいらして下さい。お元気で。


●山本カヨさん…2003.5.2…和歌山県九度山町発《E-mail》
 …仕事を休んで、はるばる報告会に初参加した

◆江本様 先日は、関野さんの報告会でお世話になりありがとうございました。帰るなり、仕事が残業続きでお礼を申し上げるのが遅くなってしまいました。地平線のことは最近ホームページで知ったばかりで、報告会も始めての参加でした。

◆関野さんの素晴らしいお話を聞くことができ、2次会では身近にお話をすることができ(まさか、こういうことができるなんて思ってもおりませんでした。報告会の醍醐味の一つなのですね)。なにより素敵な人達と知り合うことができ、参加して本当によかったと思っております。あれ以来、関野さんのお話の内容を想い出しては自分なりに色々と考え続けています。考えすぎて、仕事場(大阪市立大学医学部生体化学の研究室で実験助手として働いてます)ではぼ〜っとしていると思われているかもしれませんね‥。

◆九度山町は紀ノ川(有吉佐和子の小説にあります)沿いにある町で、大阪夏の陣(?)までの15年間、真田幸村が隠れ住んでいた真田庵があります。また高野山の麓に位置し、昔高野山が女人禁制であったころ、弘法大師様のお母さんが慈尊院というお寺(ここも九度山にあります)に住んでいました。それで、弘法大師さんがお母さんに会うため月に9回高野山から下りてこられたので、九度山という名前になったそうです。この慈尊院の横から高野山に通じる山道があります。弘法大師さんが通った道なのですが、一町ごとに灯籠のような石碑が180基高野山の女人堂まで続いています。約23 〜24キロでしょうか。私も2、3度この道を高野山まで歩いたことがあります。なかなか楽しいですよ。機会があれば江本さんもいかがですか? 九度山は和歌山県の北部で大阪との県境に近いのです。南海高野線で難波へ出て、地下鉄御堂筋線で新大阪それから新幹線で東京まで出てきました。


●三輪主彦さん…2003.5.2《E-mail》

◆熊野奥駈けに行って来ました。吉野から熊野本宮大社にぬける80キロの山道で、修験者の行場です。時々テレビで、崖の上から逆さまにぶら下げられ「親に孝行するか!」とかやっているあの山域です。

◆中心になっている山上が岳は、日本で最後に残っている「女人禁制」の山です。今回の先達の小森さんは四万十にも来てくれました。彼はここ数年間、この差別をなくすために心血を注いでいる人です。私は、「そんな場所が一つぐらいあったっていいじゃないか」という気もしていましたが、仏教教典にある差別から発していることを知って、怒りを感じいまはこんな掟は廃止すべきと思っています。大峰山山上が岳の建物は大勢の女性の方々の寄付を集めているし、重要文化財として税金も投入されています。

◆かつて奈良県の女性教師たちが、実力行使して上ってしまいましたが、それが朝日新聞に報道されたため、大変ないやがらせ受けました。今回はそんなことがないように…。

◆「奥駈け」は、なまった体にはかなり大変なコースです。5日間毎日ほぼ12時間歩きました。弥山や釈迦が岳では雪が残っており、ちょっと下がるとブナの新緑。その下ではミツバつつじの真っ盛り、さらにシャクナゲが満開という春の歩みを見てきました。

◆私はテントを持っていかなかったので、シュラフカバーだけでしたが、雪の残る山でのビバークは寒く大変でした。ベンチの下や神社の床下など、ほとんどホームレス状態。さらに神社の床下では、真夜中に琵琶の音が近づいたり遠ざかったりして耳なし芳一状態で眠れませんでした。熊野にはまだ魔物が取り付いているのです。

◆大雨のなか、ぐじゃぐじゃになりながら、熊野本宮にたどりつきました。修験者にとっては、この修行を通して命の再生を感じるのだそうですが、まさに私も魔界から逃れて、生き返った感じです。


冬のシベリア自転車大横断達成まで、あとわずか!!

各ページにロシア語で「4月」と書かれたメモ帳を破って3ページ分、ぎっしり書かれた旅日記が5月8日、新宿区の江本自宅に届いた。2002年夏の終わり、北極海に面するムルマンスクを自転車で漕ぎ出した安東浩正からだった。冬のチベット高原を自転車で走り抜け「チベットの白き道」を書き上げた33才の冒険者は、いまやチベットの5倍の距離を走って冬のシベリアを横断し、カムチャッカに向かっている。

◆江本さん!ずいぶんごぶさたしてしまいました。遅れがちのスケジュールになかなか筆をとることができませんでした。昨日、かねてから懸念していたアルダン川を凍っているうちに渡ることができました。ヤクーツクとマガダンの間にあるこの川には橋がないので凍結しているうちでないと自転車で走れないので、シベリア完全横断のためには急がなければなりませんでした。まだまだ山岳地帯に悪路が続くでしょうが、これで太平洋まで大きな障害はなくなり、ただ走り続けるのみです。日中は気温はプラスになるので道がドロ沼と化して自転車では走れない所があり、そんな所は夜凍っている時に走ります。昨晩走った時は-25°C、日本では桜も散った4月中旬ですが、こちらではまだまだ寒さを楽しめます。1月にイルクーツクよりEメールして以来のお便りですが、地平線通信用に手紙を書こうと思いつつ、なかなか出せずにスイマセン。

1.バイカル湖のクリスタル
◆イルクーツクを出発してから旅は遥かにおもしろくなってきました。ブリヤート共和国ではこの国におけるチベット仏教の総本山、イボルギンスキー・ダッツァンに宿泊し、学生僧たちといろいろ話しできました。2月に入りバイカル湖は完全に凍結し、南端から北端まで凍湖面を縦断、その間に3回の横断を伴ったので、1000キロ、1ヶ月近く湖上にいました。積雪の多い所では自転車を押さなければならなかったり、乱氷帯では大きく迂回を余儀なくされたりします。風の強い所では雪もなくてスパイクタイヤで走るアイスハイウェイは快適そのもの。だけれど所々に氷の割れ目があるので油断はできません。2度ほど落ちかけてタイヤがズブズブと沈み始めた時は冷や汗ものでした。バイカル湖は世界一の透明度で有名ですが、この氷は完全にクリスタルのようです。乱氷帯の氷のピラミッドの向こうに沈む夕陽、湖を取り囲む 2〜3000メートル級の山々が、雪原の向こうに、蒼い空の下に広がっています。氷の上にキャンプすると、氷のクラック音がバイカルの息吹のように聞こえてきました。

2. レナ川の幻の白き道
◆次のステージは、凍ったレナ川を通ってヤクーツクへ向かう旅です。レナ川上に冬道があるらしいと聞き、当初の予定を変更しての挑戦でした。井上靖は「おろしゃ国粋夢譚」で大黒屋光太夫の旅のハイライトをヤクーツクからイルクーツクへ真冬に旅した所としてますが、そのルートにはふれてませんでした。ぼくは光太夫はレナ川を通ったのではないかと考えたのですが、おそらく間違いないようです。今は他の所に通年の自動車道があるのでレナ川上の冬道もトレースがない所もあったりしましすが、30〜40キロごとに村があり、自転車で走ってもちょうど真冬なら1日ごとの距離で村にたどり着けるなあ、と思ってたら、それはかって馬を交換したりするための駅を馬が1日に移動する距離ごとにもうけたものだと分かりました。サハ共和国はぼくらと同じ顔をしたモンゴロイドたちの世界です。なにしろ人がものすごくいい。食糧をたくさん持ってても、人々がどんどんくれるので減るばかりか増えてゆきます。村々では家に泊めてもらいながらレナ川を2000キロ近く走って来ました。それは冬の間だけ存在する、すべてが氷の中にとじこめられてしまう、タイガの中を流れてゆく、幻のような白き道でした。春が訪れるとともにとけてなくなる夢街道でした。

3. 旅の最終ステージへ
◆ヤクーツクから太平洋のマガダンへのルートは、シベリア横断の最終ステージになります。サハ共和国の首都ヤクーツクではTVのニュースに登場したために、ここではちょっとした有名人です。ここまで、いくつもの村の学校で子供たちを前に旅の講演をしてきました。村の入り口では役所の人や村人がぼくが到着するのを何時間も待ってくれたりします。学校ではヤクート族の民族衣装を着た子が歌を披露してくれたり、この村にはじめて来た日本人だと食事に招待してくれ、民家に泊めてもらいながら旅をしてきました。そして先に触れたとおり、アルダン川を凍っているうちに渡ることができ、これから山岳地帯に入り、寒極のあるオイミャコンへ向かいます。冬には零下60°Cになるこの辺りももう日中はポカポカ陽気です。ここからは村もまばらになり、またしばらくテントの旅が続くでしょう。太平洋には5月中旬に着く予定、そのあとカムチャッカに飛びます。日本に帰るのは6月下旬になりそうです。

◆脈絡なく書いてしまいました。日本語でEメールができる環境がなかなかなくてペン書きスイマセン。よかったら通信にでも使ってください。また、どこからかお便りします。現在13418キロ。1ミリだって車には頼っていません。完全横断まであと1300キロ![安東浩正 4月15日 サハ共和国より]


〜速 報〜
250日14927キロ 安東浩正冬季シベリア大横断達成!!

5月10日、通信原稿締め切りぎりぎりの日、ローマ字のメールが届いた。マガダンに着いた、安東浩正からだった。ついに、長い、厳しい旅をやってのけたのだ。

◆シベリアのサイクリスト安東浩正、ついに太平洋に到着しました。5月6日午後8時(現地時間)にマガダンの町郊外のベショーラヤ湾において、サンクトペテルブルグ以来230日ぶりに海に出ました。太平洋のオホーツク海はまだ海岸付近は凍結していて大雪原がずっと続いていました。そのまま最後のキャンプを海上の氷の上で過ごしました。北極海のムルマンスクを9月に出発してから250日、14927キロの長い長い旅でした。その間に1ミリだって車やほかの乗り物に頼っていません。大西洋に通じるバルト海フィンランド湾サンクトペテルブルグから運んできた海水を太平洋に通じるオホーツク海に戻して旅は終わったわけです。大西洋から太平洋まで完全横断にすることができました。

◆海が近づくにつれて、長かったいままでの出来事を思い出すとともに、なんだか悲しくもなってきました。ひとつの旅を終えるというは、ひとつの小さな人生を終えるようなものです。だから、悲しいのです。海上の氷の上に降り立った時、嬉しさより悲しみのほうが大きかったのです。

◆距離も時間も長かった旅ですが、いろいろなこともありました。凍ったバイカル湖、レナ川、高くそびえる山々、タイガの深い森‥。どれも圧倒的な美しさでした。また、マイナス40°C以下の厳しい寒さ、雪に埋もれたトレース、凍った氷に空いたクラックなど自然の厳しさもありましたが、いまとなっては懐かしい思い出です。シベリアではその自然の美しさや厳しさだけでなく、人々との出会い素晴らしい旅でした。ホスピタリティーに溢れる少数民族の人々、村々ではいくつもの学校を訪れ子どもたちに話をしてきました。沢山のドライバーや人々が私の旅を支えてくれました。ローマ字では読みにくいので、ここでは多くは書きませんが、また帰国してから報告したいと思います。

◆今後の予定ですが、このマガダンは陸の孤島です。脱け出すには飛行機か船しかありません。カムチャッカに飛びたかったのですが、フライトがなく、なんとか貨物船をヒッチハイクできないか、と考えてます。あるいは、ハバロフスクに飛び、ウラジオストックまで自転車で走るかもしれません。日本に帰るのは、6月下旬になるのではないか、と思います。

◆私の到着がすでにいくつかの日本の新聞でも報道されたようです。こちらのテレビでもぼくの旅の終了が報道されました。ここまでの旅、皆さんの応援があってのことです。どうもありがとうございました! では、日本で会いましょう![安東浩正]


「障害者イズム・このままじゃ終われない」
有料試写会のおしらせ

このたび6年間にわたって取材・撮影を続けておりました、ドキュメンタリー映画、「障害者イズム〜このままじゃ終われないPart1自立への2000日〜」をようやく完成させることができました。5月は、なかのゼロ視聴覚ホールで試写会を行います。東京での封切り公開、地方での上映ともにまだ未定ですが、私たちはこの作品を、なかのゼロで行うような小さな上映会をつなげていく上映キャラバンという方法で全国の方々に観て頂きたいと願っております。地方へのフィルム貸し出しも行っておりますので、ご利用頂けると幸いです。まずは試写会にいらしてくだされば幸甚です。[ドキュメンタリージャパン 山田和也(関野吉晴「グレートジャーニー」の現地取材にあたったドキュメンタリー監督)]
■「障害者イズム・このままじゃ終われない」有料試写会
■5月30日(金)14:30から/19:30から
■於:なかのZERO視聴覚ホール(中野区中野2-9-7TEL:03-5340-5000)前売り1000円、当日1300円
http://www.venus.dti.ne.jp/~djdj/movie/roadshow.html


地平線個人情報


◆みわ塾好評発進! 三輪主彦が新たな試みとしてはじめた、注目の「みわ塾」が 4月24日スタート。「10人ぐらい」との予想に反して、昼間から22人がつめかけ、夜の部とあわせると40人に。宇宙をテーマとした深遠な講義で、ライバルを自称する江本は強いショックを。

◆木登りに目覚めてしまった長野亮之介画伯、3月「ベーシック・ツリークライマー」の資格を取得。ダブル・ロープ技術を使って登る、優雅なクライミングを目のあたりにして、元クライマーの江本は強いショックを。




■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

氷河のトンネル

5/30(金) 18:30〜21:00
 May 2003
 ¥500
 新宿榎町地域センター(03-3202-8585)

「井戸のような竪穴の中は、氷がまっ青でまるで海の底。入口から吹き込む雪が、マリン・スノーみたいでした」と語るのは、農大探検部OGの小久保純子さん。昨年9月、ヨークルヘイマル(アイスランド)で発見したグレイシャーケイブ(氷河洞)の印象です。

5つの大学やクラブの合同隊『アイスランド氷河洞窟プロジェクト』に副隊長として参加した純子さんの動機は、“未知への挑戦”でした。ケイビング歴5年の彼女ですが、氷河洞ははじめて。世界的にも氷河洞探検の記録は少ない。情報が少ないほど燃えるタイプの小久保さん。目標は大きく、目的地の氷床厚いっぱいの「400mのタテ坑発見」でした。手探りで見つけ出した氷河洞を前にした彼女の反応は、「えーっ! ホントにあるんだあ!」でした。

45日に渡る氷河上での生活やアイスランドの様子など、小久保さんの未知との遭遇を報告して頂きます。

※後半、早稲田大学探検部の丸中太郎さんから、ギアナ高地でケイビングに挑戦した遠征の模様を紹介していただきます。


通信費(2000円)払い込みは郵便振替または報告会の受付でどうぞ
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議(手数料が70円 かかります)


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