2004年7月の地平線通信



■7月の地平線通信・296号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙 〜新しい旅(グレートジャーニー・ジャパン+海のグレートジャーニー)〜
レートジャーニーを終えて二年以上経つ。その間、ペルー・アマゾンに行き、30年間の付き合いをしているマチゲンガの家族と再会した。ネパールの北ドルポで医療活動をした。しかし主に国内で動いていた。

●ここ33年間、半分以上の期間を海外の電気も、上下水もないところで、土地の人に泊めてもらい、できる限り同じものを食べて暮らしてきた。しかし自分の足元、あるいは日本についてあまりにも無知である事を痛感してきた。学生時代に国内の山を登り、川を下ったが、流域や山麓の人々と交流することはなかった。

●グレートジャーニー終了後は日本を知ろうと足元を見て歩いている。二風谷のアイヌ、山形の鷹匠、新潟のマタギ、東京西部の農林業に従事している人たちと交流している。その中で最も力を入れているのは私の地元東京下町での職人達との付き合いだ。

●私の生まれた下町に全国のブタ革なめしの八割をしている地域がある。そこで体験労働をしている。アンデスやアマゾンでも「泊めてください。食べさせてください。何でもしますから。」と頼み込んで居候させてもらった。仲良くなってから話を聞き,写真を撮った。日本でも同じ流儀ですることにした。

●木下川のなめし皮工場は屠場から運んできた毛と脂のついた皮を、様々な工程を経て、伸縮性のある、色つやをつけた革にする工場である。生の皮は、乾くとするめのように硬くなる。逆に濡れると生皮に戻って腐りやすくなる。熱にも弱い。原皮のままでは利用価値はない。しかし、皮を様々な薬品を溶かした液に漬けてドラムに入れてまわし、乾かし、引っ張り、揉んだりして、やわらかくて、腐り難く、熱にも水にも強い革にする。およそ2-3週間をかけた様々な工程を経て進められる。

●今は不景気で仕事が減っている。かつて中国、台湾、韓国など日本人技術者がに指導に行った。それらの国が技術を習得してしまうと、そこで加工された革製品が格段と安価で輸入されてくる。このような産業の空洞化、外国人労働者、職人の高齢化、差別など様々な問題を抱えている。日本の一端が凝縮して見えてきた。今後も油脂工場、屠場、養豚場などで働くつもりだ。さらに日本がクリアに見えてくるだろう。

●足元から日本を見ると共に七月上旬から日本人のやって来た道を辿る旅に出る。考古学、自然人類学、遺伝学などの最近の成果から三つの主要ルートが考えられる。@シベリアからサハリン経由で北海道へ。Aヒマラヤの南にルートをとった者たちはインドシナ、インドネシア、そしてオセアニアに拡散した。この旅路が「海のグレートジャーニー」にあたるものだ。その一部が黒潮に乗って日本にやって来た。Bそして中国大陸からダイレクトに又は朝鮮半島を経由してやって来た。日本は人も文化もけっして単一ではない。実に多様性に富んでいる。様々な民族が混じりあい、いくつもの文化を作りだした。

●今回も自分の腕力と脚力にこだわり、寄り道にたっぷりと時間をかけて、6年ほどかけて歩くつもりだ。いままで縁の薄かった東アジア、東南アジアを歩き、見ることができる。そして少しでも日本人、また自分がクリアに見えればいいなと思っている。

●最初は北方ルート、シベリアを移動し、夏の間に間宮海峡に達する。海峡が結氷するまでは狩猟民たちを訪ね歩き、結氷したら徒歩で間宮海峡を横断するつもりだ。北海道上陸は来年の夏になるだろうか。[8日新たな旅についた 関野吉晴]



巻頭説明 地平線報告会の回数について

1979年9月を第1回として始まった地平線報告会、大阪と東京で開いた先月のように、一月に2度もやったことがあるので、月数、あるいは地平線通信の号数とはあいません。回数でいえば、今月がちょうど300回になります。ただし、300回のお祝いを含んだ報告会は、まる25年を迎える9月の報告会からスタートさせ、11月6日の前夜祭、7日の大集会につなげてゆくつもりです。恒例の1万円カンパも間もなくスタートさせる予定です。詳細は次号で。[EMO]



先月の報告会から(報告会レポート・299)
見上げればシロクマ
安東浩正
2004.6.25(金) 新宿区榎町地域センター

◆6月5日、栄えある植村直己冒険賞を受賞したばかりの安東浩正さん、今回の旅は、自転車をスキー板に乗換えて、極北カナダ・バフィン島の首都イカルイットで始まった。ヌナブット準州(1999年4月に誕生したイヌイット人自治州。バフィン島を含む199万4000平方キロの広大な地にわずか25000人が住む)の中心都市でもある。何をしに行ったか?「凍った海の上をスキーで行く自主トレ」である。

◆実はスキーなんかやったことがない。ゲレンデスキーすら一度きり、それもあえなく捻挫という体験で終わっている。夜空に乱舞するオーロラを眺めつつ、1週間ほどでクロスカントリースキートレーニングを終え、飛行機で「ちょっとしたエクスペディション」出発地のクライドリバーへ。途中キキクタルジュアク村を通り、終点のPangnirtungまで約600キロの旅のはじまりである。
◆安東氏の報告では毎回のことだが、スクリーンに映し出される 「動く世界地図」がいい。素早く地球上の位置を示してくれ、そのお陰で、私たちは自分のアタマをその地点に飛ばすことが出来るのだ。その上で、美しい豊富な写真データ群である。

◆見渡す限りの白い世界に映る黒い点は、日向ぼっこをするアザラシ。続いて灰色の点がスクリーンに映し出され、その点が拡大されていくにつれケモノの姿が…。シロクマの登場である。そもそも、そこはシロクマ(ホッキョクグマ)のテリトリー。「出会わないのがテクニック」なのだが「人生最大の危機」が訪れてしまう。

◆夜、就寝中に、バリッ!という音が。シロクマの前足でテントの入口が蹴破られたのだ! 目を開ければ、真上にシロクマの頭。安東氏に気づかずテントの中をのぞいているその姿はまさしく「死神」だった、という。その絶体絶命の時、アタマよりもカラダが動いた。寝袋の中に入れておいたベアスプレーを「死神」めがけて噴射。見事、撃退。この瞬間のことはあまり覚えていないと語るが、ほんの数秒だったろう。シロクマよりも安東氏の野性が勝った瞬間だった。

◆その後もシロクマの姿におびえつつ旅は続く。しかし、真っ白な世界はつらいことばかりではない。まるで島が動いているかのように見える、雪原に舞う鳥の群れ。ギンギツネやウサギなどの野生動物たち。凍った海の雪原を歩いていると、時々地図にない島があらわれる。氷山が凍った海に閉じ込められて出来た島なのだ。その「氷の宮殿」はなかなか沈まない夕陽に照らされ、淡いピンク色に染まり光り輝く。チベットのカイラス山に次ぐ印象的な光景だと語る声には、安東氏の自然に対する畏敬が滲み出ていた。

◆シロクマのテリトリーを抜け、アウユイトック国立公園ではトール西壁などロッククライマー垂涎の岩壁をながめつつ、そろそろ融け始めた氷の海を白夜の中進み、一ヶ月の冒険は終わった。これまでの旅との違いは「人との出会い」の回数であろうか。世界第5位の大きさというバフィン島の人口密度は恐ろしく少なく、殆どの地域には人間が住んでいない。何日間も人間と出会わない日々を過ごした後のイヌイットの人々との出会いを、彼は心底うれしそうに語る。

◆子供たちから猛烈にサインをせがまれ、「手のひらじゃ、すぐ消えちゃうのにな〜」と内心思いつつも、せっせとサインをする。満面の笑みを浮かべる子供たちの写真には、一人一人の手のひらに安東氏のサインと、その子の名前がカタカナで書いてあるのが写っていた。

◆今回の旅には、様々な実験的な要素が盛り込まれていたようだ。太陽の位置と腕時計でのナビゲーション、ホワイトアウトの中でのGPSを使ったナビゲーション、特殊装備のテスト、食料・燃料無補給での旅の達成。彼の旅が「文明と野性」の絶妙なバランスの上に成り立っているというところがまた、私たちを惹きつける。最後に、夜空に輝くニューヨークの摩天楼がスクリーンに映し出され、私たちも白いツンドラの世界から物質世界へ一気に引き戻された。軽やかさと綿密さ、生真面目さの中にそっと仕込まれている笑い、頭脳と身体、野心と謙虚さ、相反する様々なものをバランス良く併せ持つ旅人は次の目標をどこに定めるのか。報告が実に待ち遠しい。[横内宏美]



地平線ポストから
地平線ポストではみなさんからのお便りをお待ちしています。旅先でみたこと聞いたこと、最近感じたこと…、何でも結構です。Fax、E-mailでも受け 付けています。
地平線ポスト宛先
〒173-0023 東京都板橋区大山町33-6 三輪主彦方
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-303 江本嘉伸方
E-mail :
Fax: 03-3359-7907(江本)

●永瀬忠志さんから…2004.6.28…大阪発《Fax》

◆6月6日の大阪報告会では、お世話になりまして、ありがとうございました。小中学生のころ、クラスの日直当番は教室の前に出て、朝礼と終礼の司会をしなければならない時があり、その時はクラスの皆の視線に赤面して、うつむいてボソボソとしか話せませんでした。人前で話すのが大の苦手でした。

◆今でも子供のころの恥ずかしがり屋の性格が残っており、人前に出るのは苦手ですが、大阪報告会実行委員の皆様の熱意に押されて何とか終えることができました。立派な資料も作っていただきまして、ありがとうございました。

◆19歳の時の日本縦断以来、歩き旅を続けてきて、その総距離は3万9800kmになりました。この7月中旬ごろに沖縄へ行き、約300kmほど歩いて、赤道の地球一週分の約4万kmにする予定でいます


●石川直樹さんから…2004.7.5…東京発《E-mail》
  …応募して合格した展覧会に出展することに...

◆ウィーンで展覧会をおこなうことになりました。今回は二人展で、相手は俳優の伊勢谷友介くんです。伊勢谷君は“都市”を舞台にした映像作品を、自分は“極地”をテーマにした写真作品を展示します。会期中は二人のどちらかが会場にいます。

◆ウィーンという場所は、地平線関係者(もちろんぼくも含めて)にとっては、およそ縁のない場所だとは思いますが、万が一ヨーロッパにお立ち寄りの際はぜひ遊びにきてください。

『On The Edge of Nowhere −二つの異なる「自然」−』
■日程:2004.7/10(土)〜17(土)
■時間:12:00pm〜20:00pm
■場所:kuspace wien
■住所:Rechte Wienzeile 37 Stige 3/Stock 3 1040 Vienna
  ウィーン4区・ナッシュマーケット向かい。Kettenbruckengasse駅から徒歩30秒。


●安東浩正さんから…

◆先月の報告者、チャリンコ野郎の安東です。クイズ$ミリオネアの収録に行ってきました。司会みのもんた氏とクイズで対決、全問正解すると1000万円獲得できるTV番組です。わからないとき一度だけ電話で問い合わせできるのですが、そのテレフォンブレーンと呼ばれる助っ人に、地平線第一回報告者にしてかつてクイズグランプリというTV番組で決勝まで勝ち進んだ地平線クイズ王の三輪氏、および三輪氏より博識であるという奥方、アマゾン筏下りの坪井伸吾氏とJACCの池谷氏にお願いしました。

◆数万人ともいわれる一般応募者の中から予選や選考を勝ち抜いてきた挑戦者は10人です。さらに芸能人3人。芸能界にうとい安東ですが、杉本彩というきれいなお姉さんがいました。

◆しかし!みのさんと対決するには早押しクイズで勝ち残らなければなりません。この番組は半分みのさんとのトーク番組みたいなものですが、早押しで勝てなければ始まりません。すでに幾つものラジオのトーク番組で、たとえばテリー伊藤さんだとかアパッチけんさんといった強豪と互角に戦ってきたので、桧舞台にさえ立てばこちらのものです。クイズの成否を答えるまでの、みのさんのあのなんともいえない間合いがこの番組のハイライトですが、この間の2次会で某代表世話人Y氏がみのさん役に扮して予行演習もしてますので1000万円はもらったも同然です。

◆早押しクイズ第1回戦!日本史の問題でした。正解だったけれどタイムが3位で逃しました。勝ったのは沖縄の主婦で結局100万円持っていきました。

◆第2回戦、プロ野球の問題。さっぱりわからん。勝ち残ったのは京都のお姉さん。わからないので適当に押したそうです。なんという強運。しかも強運ついでに1000万円に挑戦する最後の問題まで運だけで行きつきました。世の中すごい人もいるものです。結局不正解でしたがそれでも100万円獲得!

◆第3回戦、日本の文学作品を古い順に並べる問題。楽勝!しかし!早押しのタイムは2番目!残念!ここで勝ち残ったお兄さんは13問正解で500万円持っていきました。通常ならあと一人か二人挑戦できるのですが、2人目が結構長引いたので、時間がなくなって終わってしまいました。というわけで、いちおうTVの画面に少しは映ってますが、茶番に終わってしまいました。ずっと別の場所で待機してくれた三輪夫妻と、坪井さんには、3時間近く待たせただけになってしまい、おすそ分けにもありつけず申し訳ないかぎりでした。 ◆放送は7月8日。この通信が出る頃はもう終わってるか。次の挑戦者は、あなたかもしれません!ファイナルアンサー!


◆安東浩正出演のNHK「トップランナー」の放送日の案内です7月18日(日)19:00〜19:44/再放送7月22日(木)24:00〜24:44NHK教育チャンネル「トップランナー」は若者に人気の番組です。地平線でおなじみのシベリアやチベットがたくさん出てきますのでお楽しみに!


●鈴木博子さんから…2004.6.30…ダマスカス発

◆シリア、噂どおり人がめちゃくちゃいい!!街を歩けば、5分に一度は「寄ってけ」コール、10分に一度は何かが出てくる(笑)。今日に限っても、チャイ、果物、アイス、デザート、コーヒー、オレンジジュース、コーラ、甘味、とご馳走になった。シリアに来てからというもの、このシツコイくらいの誘いに感動しっぱなしである。

◆といっても、贅沢な不満が少々。本当にいらない時でも、“物”が出てくるのである。甘い物の苦手な私としては、激甘を勧められると辛いのであるが、さすがわたくし日本人、我慢して完食しております(笑)

◆問題は、ここはイスラム圏に間違いないということ。例によって、痴漢もあり、今日は子供におしりを触られた。“言ってやろう”と構えると、坊主は一目散に逃げだした。早え〜早え〜!

◆すると、いつの間にか2人の誠実な兄ちゃんが現れ、坊主を懲らしめてくれた。偉いぞ、兄ちゃん!そうでなくちゃ男は!

◆今、インターネットカフェでこれを書いている。バックでは洋楽が、工事現場の音と重なって聞こえてくる。久しぶりのアラブミュージックでない音楽を聴き、感傷的になっている。

◆たくさんの地での出来事が、映画のように物語化され、こころに響いてくる。音の魔術だ。大地に出会い、人に出会い、やっぱり旅をしていてありがたいと思えるし、鳥肌が立つくらい失いたくないと思える。いつまでも何かを体中で感じられる人間でいたいと思います。ではでは。


●三上智津子さんから…2004.627…東京発《E-mail》…「30年前の氷山を‥」br>
◆先日の安東さんのお話、特に白熊が顔の50センチ上に…楽しくワクワク聴かせていただきました。氷のお城の写真を見て、突然(それまで、すっかり忘れていました)、30年前のグリーンランド東岸で氷に閉じ込められた時に見た、エメラルドグリーンや水色の美しい氷山を懐かしく想い出しました。そして発見?しました。どちらも幻想的で美しいけれど、陸地の氷山は、ピンク、紫で、海上の氷山は、ブルーやグリーンなのだ!?と。ちょっと感動!理屈で考えれば当然かもしれませんが‥

◆あの時は、「宗谷」の乗組員だった人から南極の話を聞き、南極の山に登りに行きたくなりました。けれど当時、方法としては、チリに停泊しているアメリカ海軍の船に乗せてもらうしかなく、結局'65年の日大隊の人から、グリーンランドなら比較的簡単に行けると言われ、物好きの仲間に声をかけました。総勢7名。平均年齢49才で、隊長は最年少の三上=当時28才=がつとめました。事前には何の準備もできず、行き当たりばったりの旅でした。何日間もイヌイットと船を借りる交渉をして、やっと北上を開始。

◆東海岸は海から直接、険しい岩峰がそびえ、ほとんど平地が無く、太古の氷河期の様相です。何日目かに、氷床がせり出し、その横が少し平地になっている所を見つけ上陸地点として、迎えの日にちを決め、いったん船を返しました。

◆氷床がゴーッと音をたてて崩れ、氷山になって離れていく様子を観察したり、未踏峰の岩山に登ったり、氷が溶ける時のピチピチという音を聞きながら眠りについたり、という贅沢な時を過ごしましたが‥。

◆約束の日が過ぎても迎えの船が来ない。岩山に登って遠くを見たところ、水路全体に氷が張っていて、船が来れる状態ではありませんでした。イヌイットの住む部落からはるかに離れた場所で、食料がなくなったら餓死だ!越冬なんて無理だ!と大袈裟に騒いでパニックになりかけていた時、イヌイットが2人、小さなボートで狩りにやってきました。

◆ボートは喫水線が浅いので、氷の割れ目や上を通れるようでした。そのボートには大小10丁位のライフルと船尾にはお腹を割かれて仰向けになっているアザラシが乗っていました。それで彼らの部落まで運んでもらいました。途中ライフルの打ち方を教わったり、アザラシを削って食べなさいとナイフを渡され…でも、かわいい目を見たら食べられませんでしたが…

◆その時に見た氷山の美しさは、言葉では言い表せません。同じ海に浮かんでいる氷山なのに、何故いろいろな色があるのか…とっても不思議でした。

◆でも、あの時はその美しさにあんなに感動したのに、20数年、ほとんど思い出しませんでした。今回の安東さんの氷のお城の写真を見るまでは…あっ、今、書きながらもうひとつ思い出しました! 東海岸から西海岸に戻る小型飛行機(いつ壊れてもおかしくない、なかなかエンジンがかからないオンボロ機)から見た、真っ白い氷原に不思議な形に広がる、いくつもの湖の神秘的な色! 目が釘付けになったものです。真っ白のはずの氷雪に、あれだけの色彩が秘められている不思議に、自然の奥深さ、神秘さを30年たった今になって改めて思い出しています。

◆広島三朗(*)さんに誘われて以来、地平線報告会には何度か参加させていただき、そのたびに元気のエネルギーを、たくさんいただいてきました。仕事の関係でなかなか時間がとれず、思うようには参加できないのですが、地平線通信は、すみずみまで、読ませていただき、毎月楽しみにしております。いつも、すばらしい企画をありがとうございます。今後とも、よろしくお願いいたします。

(*)広島三朗:カラコルムに通いつづけた登山家。1997年8月7360mのスキルブルム峰に隊長として登頂、下山後、雪崩の爆風で5人の仲間とともに逝く。85回報告者




そういえば、こんなことも…。地平線会議1/4世紀こぼれ話

◆「地平線会議」が発足して間もない1980年1月9日(水)と翌週の2回、四谷駅に近い喫茶店「オハラ・パートII」に、主だったメンバーが集まり、喧々諤々の議論を繰り広げました。そのメンバーというのは浅野哲哉、伊藤幸司、江本嘉伸、恵谷治、岡村隆、賀曽利隆、軽部ひさ子、河田真智子、向後元彦、佐藤英昭、武田力、丸山純、宮本千晴、三輪主彦、森田靖郎、山田高司の各氏。熱気ムンムンの集まりで、血気盛んな恵谷さんが江本さんにかみつき、「それは、大新聞の記者だからできることだ!」と、大声でまくしたてたのが印象的でした。今、「地平線会議」の中心的な活動をしてくれている丸山純さんは24歳で早稲田大学の6年生でした。

◆このときの集まりでは「地平線会議」にとっての最大の目標だった「年報」制作の話が、かなり具体的になってきました。森田さん、恵谷さんをはじめ、何人ものメンバーが年報制作にかかわってもいいといってくれたのです。ついに「年報」制作に向けての第一歩を踏み出したといった感がありました。

◆このときの集まりの様子ですが、まず江本さんからは西堀栄三郎さんから「地平線会議」への評価のお言葉をいただいたという紹介がありました。西堀さんのコメントは「地平線会議は人間の探究心に対するヒントを与えてくれる。各自のボランティア活動だけでは長続きしないので、スポンサーシップが必要」というものでした。

◆宮本千晴さんからは「情熱ごっこにはしたくない。これは長くつづける必要がある。継続させる力が大事だ」、向後元彦さんからは「西堀さんや今西(錦司)さんといったジイサマを引っ張りだすというのも、ひとつの方法だけど、その必然性があるかどうか…」、伊藤幸司さんからは「多くの人たちがいろいろなプロジェクトをおもしろがってできるような、そんな場にしたい」、恵谷治さんからは「ただの仲よしグループではないということをもっとアピールしないと」、岡村隆さんからは「我々がやろうとしていることは社会運動のようなもの。そのためには、より社会に知らしめる必要がある」、三輪主彦さんからは「探検的活動をした人をインタビューして、その活動が人生にどう影響したか、それを伝えるのはすごく意義のあること」…、といった話が出ました。四谷の喫茶店「オハラ・パートII」でのあの熱気こそが、ぼくは今日の「地平線会議」の原点のような気がします。それにしてもコーヒーとツナサンドでよくぞあれだけの長時間、居られたものです。(了)[賀曽利隆]


◆30年余の東京生活を終え、生まれた地、佐渡に戻ったのは、1ヶ月前のこと。先日、荷物を解いていたら、旧いファイルノートが出てきました。セピア色になった新聞の切りぬき、メモ書き、ハガキ通信のコピー等々。

◆私が地平線会議に出会ったのは、1981年7月。ちょうど「地平線から1980の発刊記念大集会「いま地平線に旅立つ1981」でした。

◆次々語られる体験談は、冒険、探検に無縁、まして、これまで日本を離れたことすらない私には目をみはるものがありました。そしてひきずり込まれるように、アジア会館通いとなっていきました。

◆単なる報告会通いの私に三輪さんから声がかかり、追いうちをかけるように江本さんからも話があったりで、報告会を手伝うようになったのは、1982年の春。どうも、「女性の手で女性の報告者を」というねらいがあったようです‥。

◆初めての仕事は、装身具の研究をしている向後紀代美さんの報告会「ブータンの旅から」。紀代美さんは向後元彦さんの奥様。家族で世界各国を旅し、何事にも経験豊富な方です。先着30名様にはお茶と手作りケーキのおまけ付き、旅の話の後半は民族衣装の着付講習にしたら、定刻の6時30分前に、大勢の方が集まりました。

◆「せっかくだから、オリジナリティーのある内容に」という向後さんに助けられながらの企画。ハガキ通信の制作、印刷所通い当日の手配etc…と、慣れない事ばかりでしたが、いろいろな人の手を借り、終えることができました。その後も報告会に限らず年報の制作など、できるところで動いてきたように思います。

◆「日常生活の中で旅を続けていくには」という、あのときの向後さんのテーマは、その後の私の課題になっていったような気がします。1984年の終わり、いよいよ私の旅のはじまりです。足を踏み入れたのは、台湾、蘭嶼島。そこに住むヤミ族の村に11年間通いました。仕事をしながら年に一度、1週間の旅…。その後も台湾、フランスのブルゴーニュの田舎に通い続けています。

◆風のそよぎで田んぼの稲が右に左に波うちます。夜には蛍が家の前を飛び交います。この風景を先にまで残していけたら…。そう願いながら、ふと20数年前に思いをよせるひとときでした。[故郷・佐渡に引っ越したばかりの 高野久恵]


◆1939年5月、チベット僧に同行するモンゴル人に扮してチベットに潜入、幼少のダライ・ラマ14世の行列に遭遇するなど、近代チベットの貴重な経験と記録を持ち帰った野元甚蔵さんを迎え、7月3日(土)午後、地平線会議有志による「野元甚蔵さんの米寿と長寿を祝う会」が、東京・市谷の日本山岳会ルームで開かれた。

◆ダライ・ラマ誕生日祝賀パーティ出席のために鹿児島県山川町から上京したもので、祝う会には長女の中橋蓉子さん一家も参加した。

◆出席者がひとりひとり紹介された後、作家の渡辺一枝さんが歓迎の挨拶、野元さんは、著書「チベット潜行 1939」(2001年、悠々社)を手に、当時のチベット体験、潜行者としての立場、インドから日本に帰国する際の緊張など克明に語った。次いで、江本嘉伸氏撮影によるチベット人の暮らし、文化の貴重な写真を盛り込んだビデオの一部を鑑賞し、コーヒー・タイムに。

◆「祝米寿」と書いたケーキのほか、渡辺さん持参のチベットの味“トマ”やツァンパのほか、他の参加者たちからも手作りのチベット菓子・カプセ、バター茶などが、もてなされた。

◆貞兼綾子さんによってお祝い品が贈呈され、さらに記念のカターも。写真の撮影が終わると、先般来日したばかりのダライ・ラマ法王の妹、ジェツン・ペマさんから野元さんへのメッセージが披露された。

◆盛り上がったのは、田中明美さん制作による「蔵日新聞」(発行部数30部)が配布された時。落合大祐さんの協力で当日写真も入り、素晴らしい出来栄えだった。

◆出席者 中西純一 安東浩正 貞兼綾子 渡辺一枝 斎藤朋子 山口和美 中嶋敦子 増渕隆 金井重 熊崎和宏 藤田祐子 松本榮一 細貝幸 絹川祥夫 田中明美 長田幸康 横内宏美 落合大祐 阿佐昭子 木村みどり 菊地由美子 江本嘉伸 中橋一・蓉子(野元さん長女夫妻) 野元さん孫2人 野元甚蔵




■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

パリ・ダカの地平線へ…

7月23日(金曜日) 18:30〜21:00
 ¥500
 新宿区榎町地域センター(03-3202-8585)

「22年前、パリ・ダカで見た地平線への憧れが、オレの旅の原動力なんだ。今回、もう一度原点に立って、これからの旅のスタートを切るつもりだったんだけど…」というのは、冒険ライダーの風間深志さん。

今年初め第26回パリ・ダカール・ラリーに参戦しましたが、出走4日目に大事故に。モロッコ、タンジェ郊外で対向車のトラックに左足を引っかけられ、飛ばされて電柱に激突。折れた骨が皮フを突き破る状態の複雑骨折でした。以来8回の手術を受け、現在も加療入院中です。

これまで、バイクによる両極点到達、エベレストバイク登山挑戦など、オモシロイ記録を残す風間さんに、今月登場頂きます。走行距離1.3km。一瞬のパリ・ダカに何を見、何を思うのか。じっくり語っていただきます。


先月の発送請負人 江本嘉伸 藤原和枝 松尾直樹 村田忠彦 森井祐介 落合大祐 川堺恵生 坪井伸吾 岸本実千代 武田力


通信費(2000円)払い込みは郵便振替または報告会の受付でどうぞ
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議(手数料が70円 かかります)


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