2005年10月の地平線通信

■10月の地平線通信・311号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙3連休が明けた10月11日、普通の人は仕事に行く日なのに、気分転換と言い聞かせて小雨がぱらつく山道を走っていた。原稿が進まない時、森を走ると何かヒントが湧いてくることが多い。濡れた木々や落ち葉が秋の匂いを伝えてくれ、それだけで十分嬉しいのに、この日は最高だった。耳もとでエンヤやシセル(リレハンメル五輪でオリンピック讃歌をうたったノルウェーの歌手)やバッハの歌や曲たちが延々と流れ続けているのだ。

◆4日前が誕生日だった。もう年なんか取りたくないよう、と密かに思っている老体に心優しい友人たちがなんと「ipod」なるものを贈ってくれたのだ。知ってますよね?ipod。私はほとんど知らなかった。手のひらにおさまる、そう、細長いライターみたいな小さなスティックに120曲(500曲というのもあるらしい)を詰めこむことができる。CDの曲目をパソコンに取り込んで移す感じなのだが、ちっぽけなものなのに流れる音質がいい。

◆うっとりしながら走りつつ、林道に沿ってイノシシが掘り返した形跡があちこちに残っていることににわかに気づく。おいしい根っこがあるのか、かなりの群れなんだろう、こんなに掘って、と少し警戒気味になる。鬱蒼たる樹林が途絶え、切り開きに出るところで、正面から生き物がやってきた。イノシシ…、ではなく、大きなシカだった。立派な角をした雄だ。向こうも私に気づき、びっくりしたように止まってじっとこちらを見る。優しく呼びかけてみるが、次の瞬間、身体を翻して森の中に消えていった。

◆甲斐のこの山でシカを見たのは初めてだ。昨年夏、丹沢の表尾根を久々にたどった時、頂上に近づくにつれ、シカがあちこちから現れたのに驚いた。わずか1時間のうちに23頭も出会ったのだ。シカの生息域は思った以上に広がっているのかな、と思う。

◆10月1日の土曜日は、そのシカをめぐる公開セミナーに参加するため、箱根登山鉄道「入生田駅」近くの「神奈川県立生命の星・地球博物館」に行ってきた。屋久島や北海道など集まった動物の専門家たちの発表は興味深かった。とりわけ深刻なのはシカたちが本来の生息域である中腹以下の低地から頂上に近い高地に押し上げられている丹沢である。木々の皮は食い尽くされ、個体数は増える一方だから、そのうち深刻な飢餓が襲うかもしれない。どうシカたちを管理してゆくか、会場を結んで議論が進行する中で、私は思わず手を上げ、北海道の西興部(にしおこっぺ)村の試みについて短く話した。9月末、その村を訪ねたばかりだったのだ。

◆ここに書いたことがあるが、6月の「マタギサミット」の報告者のひとり、伊吾田宏正さんが、そこで「NPO法人西興部村猟区管理協会」を発足させ、増えすぎたエゾシカ対策の新たな試みを始めている。もちろん、村と相談しながらのことだが、村全域を猟区とし、“害獣”としてのシカを地域の“資源”として活用しようというのである。10月からの猟期を前にマタギサミットを主宰する田口洋美さんが行くのに同行させてもらったのだ。

◆33才の伊吾田さんは偶然のことだが、横浜出身で中学、高校とも私の後輩にあたる。知床自然センターでクマの調査補助員をするために北海道に移り住み、さらに北海道大学の大学院時代、釧路地方でエゾシカの調査に携わってきた学者だ。西興部村に住んだのは一昨年の10月。1週間前に捕獲されたヒグマの肉をご馳走になりながら、学者が銃を持ち、過剰になったシカと対する日本の現代を考えた。

◆西興部は豊富にも近い。伊吾田さんと話しながら、北の地で酪農と戦っている田中雄次郎さんのことが思い浮かぶ。どんな人間か、この通信で師である三輪御大が心をこめて書いているので熟読してほしい。

◆10月9日、中国の学術隊がエベレストで再測量した結果が発表された。「岩までの標高8844.43m 頂上雪の厚さ3.50m」。むむ、これからはすべてこの高さとなるのか。地理学の世界にとって重大事だが私の仕事にとっても大きなことだ。

◆10月11日に戻る。この日、南米から帰った石川直樹君と話した。電話なので詳しいことは聞かない。声が現地からの電話の時よりしっかりしていたので、多少安心した。事故で負った頭の傷はほぼ治り、首が痛む程度という。11月はじめに計画されている写真展は別として、講演などは少なくとも年内は自粛する意向のようだ。そして、残された家族の意向もあり、帰らなかった女性のことを含め事故の詳細を石川君は語らず、書かない、と決めているようだ。

◆10月15日はちょっとした記念日だ。日本山岳会誕生百年のセレモニー(皇太子はじめ970人が出席する。私も一応参加)もさることながら、凄いと思うのは、この日地平線会議のウェブサイトの立ち上げからちょうど10年を迎えるのである。地平線の活動にいまでは欠かせなくなったこのメディアは、創始者である丸山純さんの力で成り立っている。何人かの仲間で支えられてきたその仕事は、すでに大きな足跡を残している。

◆65才以上の年寄りが人口の2割を越えたそうだ。7日の誕生日、私はついにそのひとりとなった。「ipod」を聴き、シカと出会いながら森を走る爺いに。(江本嘉伸)


先月の報告会から

チュコト半島春景色

安東浩正

2005.9.30 榎町地域センター

 2003年の5月、自転車冒険家の安東浩正さんは、冬季シベリア横断の旅を終えて、マガダンというオホーツク海の町にたどり着いた。今回報告する極東シベリアの旅は、そのときから始まっていたという。シベリアにはまだ東があったのだ。それはユーラシア大陸の東の果てである。そこへ自転車で行くためには、大地が凍結するときだけ現れる「冬の道」を探さなければならない。その道はどんな地図にも載っていないという。

◆2004年12月、「シベリアに決着をつけるため」日本の最果て稚内をスタート。宗谷海峡をフェリーで渡り、サハリン(樺太)を自転車で走り始める。いよいよ話が始まるかと思ったら、安東さんは悔しそうな表情を浮かべた。じつは帰国時にサハリンを通過した際、自転車を盗まれて撮影済みフィルムの4分の1を失ったのだ。16歳の女の子に自転車を運転させてあげたら、そのまま乗り逃げされてしまった。「命の次に大切」というフィルムは2度と出てこなかった。

◆サハリンの南半分は元日本領である。日本風の建築物を見て日本人と出会いながら、北へ向かう。あえて寂れた間宮海峡側をルートに選び、雪に苦労しながら進んだ。安東さんの報告会では、毎回パソコンを駆使して「動く世界地図」を見せながら話が進むが、今回はそれにGoogle Earthという驚きの地図が加わった。地球の衛星写真をどんどん拡大してゆくと、大陸の地形がわかるようになり、ついには町の家一軒一軒まで識別できるようになるのだ。(実際、藤沢の自宅を示して会場を沸かせた)この地図とGPSがあれば、地球上で行けない所はもうないと安東さんは言う。

◆話題が様々に飛びながらも、旅は間宮海峡の最狭部へたどり着く。大陸に向かって、海が凍った大氷原に思いのままのルートを描いて進んでゆく。それは、海峡の真ん中に差しかかったときのことだった。突然氷が割れて、自転車ごと氷の海に落ちたのだ。だが、意外にも海水は温かかったという。外気温−20℃に比べての話だが。沈むと思っていた自転車も浮いていた。海から何とかはい上がると、途端に衣服がバリバリと凍り始める。すぐにテントを張って服を着替え、生気をとり戻す。「自分の限界を過信しすぎていた」と安東さんは振りかえる。一歩間違えれば死んでもおかしくない話だが、それでも助かったのは、やはり周到な準備とトレーニングを重ねてきたからなのだろう。同行していたパートナーは、その先で日本へ引き返したらしい。

◆大陸に渡ったあとはオホーツク海を進む予定だったが、その道がどうしても見つからない。冬道ではなく「正式な」道をたどらざるを得なくなり、その通過は後回しにして、鉄道と車を使って2年前通過したオイミヤコンへ向かった。そこは−72℃を記録した世界最寒の地。このときも−52度くらいまで下がり、−50度前後の気温が1週間続いた。

◆2年前の装備なら3日ももたなかったと言うが、今回の新装備は絶大な威力を発揮した。身につけるものほぼ全てにVBL(ベイパーバリアライナー)という方式を採用している。訳すと防湿素材。肌と保温材の間にビニールのような素材をはさみ、羽毛などの保温材が汗で凍るのを防ぐというのが基本的考え方である。このような素材をいかに自分に使いやすくするか、カナダや知床で試行錯誤してきた。その完成形というのが今回の装備である。安東特許とでもいうようなものだ。「−60℃くらいど〜んとこい!」と思ったという。

◆自転車もこれまでに比べてずいぶん軽量化した。大学の機械工学科出身という安東さんならではの発想である。その裏にはいくつものスポンサー会社の協力もある。1つ1つの会社を回って頭を下げ、支援してもらうには大変な努力がいるだろう。上映された写真のうち装備が写っている写真には、必ず商標のマークを加えていた。そんな科学的工夫と地道な努力をいくつもいくつも重ねて、安東さんの壮大な冒険は成り立っているのだ。

◆シベリア横断の続きということでいえば、オイミヤコンが真のスタート地点である。冬の道は、北極海に向かって北東方向に続いている。オーロラを見上げながらトラックのトレースをたどってゆく。時おりすれ違うトラックが止まって食料をわけてくれる。自転車で旅をするのは人と出会えるからだと安東さんは言う。川でナマズ釣りをするエベンキ族に会い生の肝臓を分けてもらったり、ヤクート族の小屋で馬のモツ鍋を頂いたりしながら東を目指す。「サマゴン」という自家製アルコール度数90度の酒は飲むこともできるが、ラジウスのプレヒートにも役立つらしい。

◆安東さんは自由自在に話を進めてゆき、講演を楽しんでいるように見えた。多くの場数を踏んで、話し方にも安東スタイルが確立されつつあるようだった。

◆北極海が近づくにつれて、風景はタイガの森からツンドラの大雪原へと変わる。まるで「SFの氷の惑星」にいるようだという。冬の道を探すときは、「ワクワクするようなロマン」を感じる。北極海から先の道は予想していた海沿いではなく、山岳地帯の内陸へ延びていた。このあたりのツンドラには、トナカイ遊牧民のチュクチ族が住んでいる。お茶に誘われて、そのまま泊めてもらうことが何度もあった。1つの遊牧キャンプで所有しているトナカイは千頭以上だが、生活は実に質素だ。ヤクを飼うチベットの方が豊かに見えたという。ソビエトの崩壊とともに、辺境の地は中央から見捨てられ、人々の生活は昔のスタイルに戻っているらしい。会場では、お土産にもらったというトナカイの毛皮のコートや帽子が披露された。

◆次第に春が近づいてくる。雪が解けた地面には前年氷漬けになったベリーが現れて、冬眠から覚めたヒグマの足跡を見かけるようになる。川の氷が薄くなり始め、腹ばいになって渡ることもしばしばとなり、再び氷水に落ちた。最後の試練は強烈なブリザードだった。猛烈な風でほとんど進めず、自転車を捨てようかとさえ思う。脱出用のスキーは常に自転車に積んでいた。やがてテントから動くことができなくなり、精神的に追い詰められる。珍しく日本へ帰りたいと思い始め、4歳の娘の顔が浮かんだ。

◆5月13日、出発から6ヵ月後にベーリング海へでる。最東端のデジネフ岬まではまだ400kmあるが、気温が上がり冬の道は消えつつあった。極東シベリアの旅は、このエグベキノットという町がゴールとなった。報告会の最後に「次は何をやるのか」という質問がでた。安東さんは「自転車はもういいです」と答えた。チベットとシベリアの冬季横断をやり遂げたあと、莫大な資金のかかる極点をのぞいて、もう残されたフィールドはないのだろう。「冒険とは課題を見つける能力」だという。バフィン島で挑戦したスキーや、マニア級と自称する飛行機もこれからのツールになってゆくのかもしれない。「でももし自転車で何かをやるのなら」と言いながら、最後の写真を見せた。そこには月面の写真が写っていた。(小林尚礼 この冬に初の単行本「梅里雪山」を出版予定)


地平線ポストから

地平線ポストでは、みなさんからのお便りをお待ちしています。旅先からのひとこと、日常でふと感じたこと、知人・友人たちの活躍ぶりの紹介など、何でも結構です。

地平線ポスト宛先

〒173-0023 東京都板橋区大山町33-6 三輪主彦方
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-303 江本嘉伸方
E-mail :
Fax: 03-3359-7907(江本)


■速 報 ! !
雨の奥多摩一周山岳耐久レース(10月9、10日)から。

■雨がやみそうもないので、どうしようかと考えていましたが、タイツをくれるというので、会場に行きました。後輩のF原くんや地平線の理子さん(注:尾崎)や井倉(注:里枝)さんと出会ったので、とりあえず着替え、とりあえず出発しました。井倉さんエントリーしたけど雨が降っているのでやめたとのこと、賢明な選択だ。

雨がひどいので傘をさして出発。ゆっくり最後の方から出たら、途中の路はもう泥田、マングローブの泥で鍛えてきたのですが、これはもうどうにもならなりません。傘を持って、電気をつけてつるつる斜面を下るのは私にはもう危険です。皆さんもズルズル滑りながら「もういや!」 滑るのがいやなので皆さん周りの笹藪の中を走ってますが、自然保護の人からは怒られそうです。これ以上泥田をこねるのは楽しくないので、私も第一関門でリタイヤしました。関門の係員はリタイヤした人には親切で、暖かいコーヒーをくれました。今回は江本さん(注:2週間後の「能海寛100km」に備えて今回は不参加)並に食料をたくさん持ってきたので、ここで消費。見ていた人が、「俺もコーヒー」というから「リタイヤした人だけだよ」と言うと、その彼も「ヤメタ!」。30分ほど下ったところで、回収車に乗せてもらいました。

まだ早い段階でのリタイヤだったので、7時には五日市の出発地点に戻りました。KAMI尾先生(注:大会専属ドクター)やAMA野さんにら挨拶して、その日のうちに家に戻りました。今回のリタイヤは悔いも疲れも残っていません。(10月9日夜 三輪 自宅からメールで)

■江本さあん、ダメです。バテました。はじめからきつかった。昨年は楽しかったけど、ことしは楽しくなんか全然なかったです。やっぱり9時間台でないと、勝てませんね。来年はやるぞう!(10月10日朝、ゴール地点からケータイ電話で 鈴木博子 12:15:06で女子の部3位に入賞するも不満)

大いなるメコン
─11年がかりの踏査を終えて─

北村昌之

 1994年よりメコン川に関わり、約10年が経ちました。その間、中国そしてメコン川を取り巻く経済、環境は大きく変化をとげました。それに比例するようメコン川流域は、アジアに残された探検フィールドのひとつとして、探検隊、登山隊が入域し、足跡を残しました。そして、私達もその探検シーンに多く関わってまいりました。

◆1994年の源頭探検では同時期に入域したフランス人探検家Michel Peissel 率いる源頭探検隊と源頭発見競争をしただけでなく、後に源頭調査を行った中国科学院をも巻き込み、世界をまたにかける水源論争にまで発展することになりました。1999年の源流域(源頭〜昌都)の初降下では、2004年に合同隊を組んだアメリカ人カヤッカーPete Winn率いるアメリカ隊と同時期に入域し、わずか2日差で私達が初降下の栄光を手にすることができました。

◆2002年秋には1999年の航行終了地点の昌都から永保橋までの未降下区域、約820kmの航行計画を立てましたが、日本を出発する1週間前に軍事的、金銭的理由に計画の縮小を迫られ、雲南省とチベットの省境から永保橋までに変更を余儀なくされました。しかし、川のグレードは私達の予想を超えており、度重なるポーテージ、ライニングダウンを行い、18日間でわずか航行距離230kmという技術、経験、認識の甘さを露呈する結果に終わりました。私達の遠征から約1ヵ月後、Jim Norton率いるアメリカ隊も渇水期に同地域の航行を行いましたが、やはりClass4〜5(コンチネンタルスケール)の瀬に苦戦したという報告は、メコン川そしてチベットでの初降下の難しさを改めて痛感することとなりました。

◆2004年春にはアメリカ、中国、オーストラリアとの四カ国合同で2002年に許可が取り下げられた昌都〜チベット自治区塩井間の航行を行いました。時間的な制約に加え、Class5 6の難易度の高い瀬の出現により、当初計画した区間の一部は航行はできませんでしたが、海外の良き仲間に巡り会い技術、経験ともに大きくステップアップすることできました。しかし、同年夏にオーストラリア人のカヤッカーMick O’sheaらによってメコン川の全流(源頭〜海まで)が初航行されました。私達が外国人未開放地域の許可収得のため10年来地道に中国政府と交渉していた矢先に、「無許可」による彼らの行動には言葉もありませんでした。

◆アメリカ、フランス、オーストラリアなどの諸外国のカヤッカーやラフターが初降下を狙うなか、私達がゴールに最も近いところにいただけに一足先を越された事は誠に残念ではありますが、「探検」や「冒険」の持つ性格上仕方がない事と考えています。

◆メコン川全流航行踏査の最終章となる本年は中国国内だけではなく、インドシナ半島を縦断し南シナ海まで約3500kmの航行をおこないました。通過した国は中国雲南省南部・ミャンマー・ラオス・タイ・カンボジア・ベトナムと6カ国におよび、国際河川メコンの自然、気候、文化、民族など様々に移り変わるだけでなく、開発、環境問題などで激動の変化をとげる地域でありました。また、私達の使用した船の種類も雲南省南部ではレベルのClass4レベル以上の高い航行技術が要求されていたためカヤック、カタラフトを中心としおこないました。ミャンマー、ラオス北部では地元の山で取った竹で筏を作り流れに身を任せてくだり、ラオス南部、タイ、カンボジア、ベトナムではできるだけ「現地で使用されている舟での舟旅を」と当初より考えていため、舟を3回買い換えての旅となりました。今回はそれらをできるだけ肌で感じ取るためローカルスタイルを最大限に取り入れ、人力によるメコン川の航行を計画立てましたがその姿は外国人旅行者、そして現地人からも「crazy!」にみえたことでしょう。

◆アジア人らしいエクスペディションを実行してこようと考えて望んだ今回の遠征でしたq。その成果はまだハッキリとしません。しかし、今後の探検計画を練る上では良い経験になったと考えます。(メコン川航行踏査隊2005隊長 北村 昌之 、9月20日)

■高山在住の染織家、中畑朋子さんから

 飛騨のクラフト協会の展示会が新宿のオゾンであります。私も、土曜日、日曜日には上京する予定でいます。かなり広い会場いっぱいに飛騨のクラフト作家の作品が並びます。楽しんでいただけると思います。よろしくお願いします。

会場:リビング・デザインセンター OZONE
   1階 ギャラリー3
   (新宿区西新宿3-7-1 新宿パークタワー)
期間:2005年10月18日(火)〜24日(月)
出展作品:飛騨で制作されたクラフト製品

地平線はみだし情報

越後の松之山に住んでお米作りをやっている小川さんから「茅刈りボランティア」大募集の呼びかけが来ました。時期は11月5〜6日。詳しいことは28日の報告会でチラシを配布します。

地平線特別報告

地平線のウェブサイト開設10周年に際して思うこと

丸山純

 地平線のウェブサイト(www.chiheisen.net)がオープンして、 この10月15日でちょうど10周年になる。前年から先進的な動きはあったが、素人がウェブサイト(ホームページ)を気楽に開設できるようになったのは、日本ではこの1995年からだ。

◆当時はまだパソコン通信の時代で、地平線でも90年からニフティの「会議室」機能(今日の掲示板に相当)を使って、「地平線HARAPPA」というささやかな場を運営していた。ここでいろいろ話をしているうちに、そろそろ地平線でもサイトを持つべきだという使命感が湧いてきて、2週間ほどで一気に作り上げ、公開に踏み切った。個人が制作したページでこれだけコンテンツ(内容)が充実したものは珍しいと、開設当初はかなり注目を浴び、手探りで私が編み出したデザインをパクったページなどもけっこう見受けられた。

◆当時私の頭にあったのは、あの「地平線放送」の再現である。地平線会議の発足直前から、まだ10万円以上もした留守番電話を使って、2分半の「番組」を流していた。テレビで紹介されたとたんに1万通の電話が殺到して電話局の交換機がパンクし、活動停止を余儀なくされたが、インターネットなら音声だけでなく、文字や画像、映像などもミックスして発信していける。新しい可能性にあふれたメディアを手にしたことに、わくわくさせられた。

◆ところが、11月から翌年1月にかけてパキスタンに出かけて帰国してみると、文字通り時代が一変していた。これまではトップ集団の背中がかすかに見えていたのに、たった3ヵ月のあいだに周回遅れになっていたのだ。一気に気力が萎えていくのを感じた。

◆もうひとつショックを受けたのは、Windowsユーザーに地平線のサイトを見せてもらったときだ。あれほど苦労して作ったページが、おかしなところに改行が入り、がたがたになって表示されている。画像の色もおかしい。MacintoshとWindowsではずいぶん画面表示が異なると聞いていたが、ここまで差があるとは思ってもみなかった。

◆それでもしこしこと、地平線通信の掲載や報告会のレポート、地平線周辺のニュースの紹介などを続けてきたのだが、すぐに出くわしたのがプライバシーの問題である。仕事をさぼって報告会に参加したのに顔の写った写真が掲載されていたとか、検索エンジンで自分の名前を打ち込んでみたら地平線通信の宛先不明者一覧でヒットした、などという苦情が寄せられた。

◆プライバシーの保護と、情報を積極的に公開していくことを両立させるのは、なかなか難しい。サイトの閉鎖も何度か検討した。しかし、こそこそと内輪で情報を共有しているだけでは、地平線会議の発展は望めない。活動全般に透明性を高めていくことで、より多くの人たちが参加 しやすくなっていく。ウェブサイトを持つということは、そういうオープンな思想を実践していくのだという思いが、しだいに強くなった。

◆なお、かなり以前から報告会の会場写真の紹介はやめている。地平線通信のコーナーなど固有名詞が多く登場するページには、検索エンジンのロボットが来ないような記述をして防いでいる。メールアドレスも、迷惑メール業者のロボットに見つからないような仕掛けをほどこして掲載するようにした。こうした工夫で、少しでもプライバシーを守っていきたいと思う。

◆この9月のひと月間で、地平線のサイトは2万6836ページが閲覧された。1人が何ページを見てくれるのかは判らないが、これは大きな数字である。報告会や二次会の席で、どうして地平線に来たのかと尋ねると、ウェブを見てという若い人もけっこういる。95年の公開当時のデザインをほとんどそのまま変えていないことや、公開に間に合わずに書きかけにしてしまった「工事中」のページがいまだに残っていることなど、そういう人に出会うとほんとうに恥ずかしくなる。

◆最近はあまり聞かなくなったが、みんなで自由に書き込める掲示板がほしいという声もよく寄せられる。しかし、掲示板を設けると、顔の見えない参加者がどんどん増えていくはずだ。毎月の報告会と地平線通信という2本柱が、地平線会議の活動の核である。掲示板により多くの人が集うと、地平線本来の活動とは別に独り歩きしていくことになるだろう。そんな心配から、掲示板の楽しさや可能性にあこがれながらも、まだ踏み切れないでいる。

◆現在の地平線のサイトは、すでに発行された地平線通信の収録をメインにした、後ろ向きのものになってしまっている。夢はふくらむのだが、ウェブというメディアを活かそうとすると、先のプライバシーの問題をはじめ、現実にはさまざまな困難がつきまとう。このあたりを、今後どうするか。10周年を迎え、そろそろ新たな展開を検討したい と思っているところだ。

◆最後に、格安でホスティングサービスを提供してくれる松田仁志さん、全文検索エンジンを用意してくれる北川文夫さん、私の不在時など にサイト更新を担当してくれる武田力君と松尾直樹君、そしてさまざまなかたちで支援してくれる旧地平線HARAPPAのみなさんに、ありがとうとお疲れさまを言わせていただこう。(10月11日)

悪夢の1日からの復活
なんと 愛犬から…

賀曽利隆

 7月6日は悪夢のような1日だった。真夜中の2時ごろだろうか、「ヒューッ、ヒューッ」という海鳴りのような激しい音で目がさめた。なんとそれは自分自身の呼吸音。さらに「ハーハーゼーゼーゴーゴー」と今まで聞いたことのないような、なんとも気持ち悪い音を自分の肺が発しているのだ。息苦しくて、とてもではないが寝てはいられない。気管がよじれて、ねじれて、ブルブル痙攣しているかのような苦しさで、窒息死してしまうのではないかと思ったほどだ。酸欠状態なのだろう、頭がクラクラし、目の前が真っ白になる。自分の体に一体、何がおきたのかわからなかったが、非常に深刻な、異常な事態に見舞われたことだけはよくわかった。

◆その後は一睡もできなかった。苦しくて横になれないのだ。体を横にすると、気管がひきつって、ほとんどまったくといっていいほどに呼吸ができなくなってしまうのだ。そこで起き上がり、イスに座った。それでも苦しい。立って歩くと、すこしは楽になる。ということで夜が明けるまで部屋の中を右まわりに、左まわりにと、ウロウロウロウロ歩きまわった。気力のみといった感じでなんとか朝までもちこたえた。

◆体がすこし楽になったところで、近所の医者に行った。先生はぼくを診るなり、「カソリさん、これはひどい!」と第一声。これが医者のすごさというものだろう、「気管支喘息の発作ですよ」と即座にいった。まさか自分が喘息の発作に見舞われるだなんて、想像だにしなかった。先生は喘息発作の怖さを話てくれたが、歳に関係なく、20代、30代でも死ぬ人が多いという。命を落とさないまでも、呼吸ができなくなることで障害が残り、寝たきりになってしまう人が多いのだという。さすが「強運カソリ」、ラッキーだった。

◆すぐに吸引処置をほどこされ、その日から6種類もの薬を飲まされた。気管を拡張させる張り薬も張った。ぼくは薬が大嫌いなので、これだけ大量の薬を飲むのは初めての経験だ。薬に対してはほとんど無垢のような体だったので、きっとそれがよかったのだろう、日一日と目にみえてよくなり、夜も寝られるようになり、1週間後にはほぼ正常な状態も戻った。医者に行くと、先生からは「さすが、カソリさんだ」とお褒めの言葉をいただいたが、そのときはごく普通に、ごく当たり前に呼吸をできることのありがたさを身にしみて感じた。

◆そこで先生にはショッキングな話を聞くことになる。気管支喘息の発作の原因がわかったというのだ。それはアレルギー性のもので、血液検査の結果、犬の上皮がアレルギー源だという。なんということ。我が家では10年以上、キャバリアを飼っているが、寝るのも一緒という溺愛状態。その愛犬「ベス」の毛やフケが発作の原因だという。危うく愛犬で命を落とすところだった。先生には「もうこれ以上、絶対に家の内で飼ってはいけませんよ」といわれたが、それだけはできません…。

◆でも、原因がわかってすごくホッとした。気も楽になった。と同時に「人生、一瞬先は闇だ」と改めて思い知らされ、「したいことは、今、すぐにやるんだ!」とばかりに、夏の間中、バイクで各地を駆けめぐった。7月21日から29日までは「東北一周」、8月6日から10日までは「静岡→長野→山梨」、8月12日、13日は「福島」、8月14日から20日までは「琵琶湖一周→福井→京都」、8月23日から27日までは「秋田→青森→岩手」と、アクセル全開で駆けめぐり、全走行距離は1万キロ超の10614キロになった。そのおかげで体は絶好調。悪夢の気管支喘息などブッ飛ばしてやった。ぼくにとってはバイクで駆けることが何よりもの良薬なのだ。

◆ということで10月9日からはバイクで韓国に行ってきます。韓国は「近くて遠い国」とよくいわれるが、我々ライダーにとっては「とてつもなく遠い国」だった。旅行者のバイクの持ち込みを一切、認めない国だったからだ。それが今年の5月にバイクの持ち込みが解禁になった。時代が大きく変わったのだ。それを記念して、バイクツアーに力を入れている東京の旅行社「道祖神」が「カソリと走ろう!」シリーズの第11弾目として「目指せ金剛山・韓国縦断7日間」を企画した。

◆10月9日にツアー参加者は日本各地から各自のバイクで下関港に集合する。関釜フェリーで釜山に渡り、日本海(韓国名東海)側を北上し、38度線よりもはるかに北の韓国最北端の「高城統一展望台」まで行き、そこから軍事境界線の向こうに朝鮮半島の名峰、金剛山を望むのだ。さらに息を飲むほどの海金剛の海岸美を見下ろすことになる。金剛山の山塊が海に落ち込んだところが海金剛で、朝鮮半島随一といっていい絶景の地なのだ。

◆2000年の「サハリン縦断」、「韓国一周」から始めた「東アジア走破行」。今回の「韓国縦断」もその一環となるものだが、2006年には「天津→クンジェラブ峠」の「中国横断」を計画している。さらに「北朝鮮一周」も近いうちになんとしても実現させたいと思っている。人間、普通に呼吸さえできればもう怖いものなしで、何だってできるのだ。(賀曽利隆 10月1日ファクス)

「大草原の小さな家」
開拓者 TA中YU次郎と家族の冒険

三輪主彦

 稚内の近く、豊富という町のTA中牧場へ行ってきた。9月末に緑いっぱいだった山の木々は、一雨ごとに3本、5本と黄色い葉に変わっていた。6日朝、東京でみる天気予報では稚内は3℃。牧場の丘の上から間近に見える利尻岳はもう雪を被っていることだろう。

◆TA中くんは初期の地平線大集会での報告者。79年、宗谷岬から佐多岬までリュックを担いでほとんど毎日野宿で旅をした。60数日間で使った総費用は4万円。佐多岬の直前では栄養失調(?)寸前で意識不明になり倒れた。今では日本徒歩縦断など珍しくもないが、当時は大冒険だと感心した覚えがある。その彼が10数年前、旅の一日目にお世話になった地に戻り、牧場を経営することになった。新規で牧場をやるということは、これまた大冒険。彼はいまもまだ冒険のさなかにいる。

◆「北海道はいいところ、こんな大自然の中に入植しませんか」とサラ金コマーシャルのような言葉で多くの若者が牧場に入っていった。東京農大出身のTA中くんも、農協の甘い罠に誘われて大きな借金付きで入植した。バブルが弾けて不況になると、大きな負担だけが残った。国も農協も経営規模を拡大するように指導した。大規模にすれば収入は増えるが、設備投資にまた借金は増える。TA中牧場はその話には乗らず、逆に個人でできる適正規模に縮小した。しかし今の時代、大きく強いものだけが生き延び、零細牧場は誰も助けてくれない。仲間の多くは耐え切れず離農した。

◆TA中牧場に着くとすぐに着替えてコンクリート壁のコンパネを作る作業にかかる。零細牧場は搾乳だけが仕事ではない。夏は自前の牧草を取り入れるために朝から晩までトラクターにのる。白いシートで包まれた牧草が牛舎の脇に積み重ねられている。自分の牛は買った飼料ではなく、自前の草で育てるというポリシーだ。

刈入が終わった今は土木工事。牛の糞尿を垂れ流しせずに、コンクリート床の屋根つき建物に入れるようにという法律ができた。環境が問題になる昨今、当たりまえのことだが、零細農家には負担が大きい。大規模農家には補助金が出るから業者に頼めばいい。しかしお金に余裕のない農家は自分でやるよりほかはない。この周囲で業者に頼んでいないのはこの牧場だけ。農協は金を貸すから頼めというが、借金漬けにされるのはゴメンだと拒否。中学生、高校生の子供を総動員して自前で作り始めている。壁は山から切り出してきた4mの丸太を組んで作る。私はその丸太のペンキ塗り係。鉄鋼業界が不況を脱すると、鉄骨の屋根は不必要になった。糞尿を完熟させて肥料にするには太陽光と切り返しが必要だから、もともと屋根なんか不要だったのだ。

◆小泉改革に象徴されるように、今の時代大きなもの、強いものはますます強くなり、弱小者はますます無視される構造になっている。一昨年来たとき突然停電になった。搾乳の途中だったので冷却槽が長時間とまると大変だ。しばらくして復旧したが、ここはなかなか電気がつかない。「また忘れられたんだ!」携帯電話は圏外なので、町まで車で行って連絡するしかない。町中の最後に電気がついた。

◆町の小学校に通うこの家の三男がスクールバスに乗り遅れて15kmの道を歩いて帰ってこようとしたこともある。携帯電話を持たせても圏外では使いようもない。幸い泣きながら歩いているところを家族が見つけて事なきを得たが、町から離れた土地は、何の手当てもない。テレビ電波も届かない。速達も配達区域外。

◆数日いるだけで腹の立つことをたくさん聞いたが、本人たちはいたって明るく、この現代離れした生活を半分ぐらいは楽しんでいる。お母さんは物々交換で手に入れたイクラ山盛りのおすしを作ってくれる。朝5時から搾乳するお父さんと一緒に起きた中2の娘はマラソンの練習をし、その後糞尿の掻き出しをしている。5歳の子も放牧している牛を集めに回っている。「おじさんも手伝ってよ」といわれるが私の言うことを牛は聞いてくれない。上の二人は今年都会に出たが、一家8人、結束して大草原の小さな家そのままに生活している。

◆誰もやっていないことを、大きな流れに逆らって勇気をもって行うことが冒険なら、このお父さんはまさに冒険者そのもの。一昔前日本縦断徒歩旅行して以来、全生活を賭けての冒険をしている。何でも自分の力でやろうというのが冒険者の習い。しかし壊れたトレーラーの代わりに自分の腕力を使おうとしているのを見たら、「そこまでやるなよ!」と言ってしまった。せめて車検の取れる中古トラックとトレーラーを雪が降る前に見つけてやろう。未来をみつめてもがいている冒険者を応援するのは、隠居おじさんたちの責任だ。

■向後元彦さんからのお誘い

 向後さんはここ十年、ミャンマーでマングローブ再生プロジェクトを、現地NGOと共におこなっています。マングローブ植林の現場があるイラワジ川河口域は現在外国人入域禁止ですが、向後さんと一緒であれば入域可能です。(M輪)

 自然がいっぱいのマングローブの森に行ってみませんか。まさに冒険的旅人の地域です。ということで「ミャンマー、イラワジ河口域へのエコツアー」を企画しました。期間は12月1日〜12日。定員:8名のみです。応募メ切り:10月30日(現地の入域許可取得に3週間を要する)、費用は20万3千円です。連絡:渡邊ユリカ(mail:

■アパラチア山脈から

 坪井です!きょう、ペンシルバニアに入りました。今回のスタートから900キロ、ゴールのニューヨークまであと750キロです。体調はいいです。なぜだか前回より速く走れる。暑くないのと、水を多量に持つ必要がないので荷物が軽いせいかも。クツも香川(注:澄雄)さんに教えられた通り、かかとにゴム貼って直しながら同じやつで走って快調です。では、地平線の皆さんによろしく!(10月11日午前10時ケータイ電話で)

■アラスカに「帰った」マッシャーから

江本さん、お久しぶりです!私は今、圭三(注:舟津)さんちにいます。圭三さんは、日本に今朝発っていきました。これから10日間、圭三さんのお犬の世話をさせてもらいます。でも、わんこが少ないので、楽チンです…

◆こっちは今朝雪が降りましたが、もうやんじゃってます。これじゃ、根雪にはならないですね。ヒーリーに戻ったら、またがんばって犬のトレーニングを始めます。それまではここで暢気に過ごしておきます。そいではまた!(本多有香10月11日メール)

■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

天から海へたゆとうて11年

  • 10月28日(金曜日) 18:30〜21:00
  • ¥500
  • 於:新宿区榎町地域センター(03-3202-8585)

農大探検部を母体としたメコン川全流航下隊が活動を始めたのは'94のことです。チベット高原に端を発し、遥かな南シナ海へと続く一筋の流れは、想像以上の紆余曲折を隊に味わせます。

学術的な論争を呼んだ水源特定問題から始まり、中国内での許認可のトラブル。上流域では、あまりの水勢に航下を断念する場面も。世界各国が注目していた、全流初航下の一番争いでは農大隊が最有力候補でしたが、'04に無許可で決行したオーストラリア隊に抜けがけされました。

今年2月20日からの第5次遠征は、中国雲南省からインドシナ半島を下る最終ステージ。なくべく現地の舟を利用する「アジアン・スタイル」を意識し、竹筏、木製舟など3度も買い換えつつ海を目指しました。166日目、ついに海に辿り着くまでのてんまつは……。

すべての遠征に参加した北村昌之隊長に、11年に渡るメコン航下への思いを語っていただきます。


通信費(2000円)払い込みは郵便振替または報告会の受付でどうぞ
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議(手数料が70円 かかります)

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