2006年7月の地平線通信

■7月の地平線通信・320号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙れは誰でも経験していることだろうが、いつの頃からだったか、「自分が何者なのか発作」に襲われることがある。強烈な発作でその瞬間、あたりはシーン、と静まり返って世界が止まる感じになる。いわゆるココハドコ?ワタシハダレ?状態なので、認知症のあらわれのようにとられてしまいそうだが、違う。幼い時に発し、長じるに従って繰り返して起きる発作、といえばわかってもらえるかもしれない。えもとよしのぶとして通っている自分とは違う、宇宙に突然出現してしまった1個の存在。おまけに空からそれを見ている自分がいて、いま、お前がこうして通りを歩いているということは何を意味するのか?と突きつける。

◆あたりの建物も車も、自分が現実の世界でどんなステイタスにあるのかも、そんな瞬間は何の意味も持たない。宇宙に果てがない、ことを知ろうとする時のように恐ろしい、慄然とする瞬間だが、同時に他の体験では味わえない、めくらめく時間でもある。問題は、その頻度だ。おとなになるにつれて、どんどんその発作回数が減ってくるのだ。当然だよ、成長期の子ども特有の現象なんだから、と脳学者や心理学者は言うのだろうが、だからといって歳を重ねていくにつれ、消えてゆくわけでもない。頻度は減ってもしばしば出現し、これは何なのだろうか?と自問しつつきょうまで来た。明日以後もそんなふうに続くのだろうか、とぼんやり考え、年を取ることも「未知域」への探検なのだな、と思いつく。

◆6月末、山形でのマタギサミットに参加してみて、ここでも猟師たちの高齢化が大きな問題であることを知った。おととしのツキノワグマの「多発出没」以降このことが各地で痛感されている。どんなベテランでも足腰には限界があり、行動半径は年令とともに狭まってくる。「車で奥まで入らないうちに降りて手前で山に入り猟をする」「昔は奥まで行った。マタギと言っていいのか、いまは山を歩かないで熊がとれてしまう」などの発言が続き、その中から「野性に対して人間の圧力が減っている」実情が浮かび上がってきた。

◆サミットの後、月山方面に回り、麓の自然博物園で「平成18年度月山学講座 第2回『クマと人間の関係』」というのを聴講させてもらった。山形県に生息するツキノワグマは推定で1500頭、全国の約15%にあたり、推計の上では全国1位なのだそうだ。おそらく実際にはもっと多いのだろう。ひとり熟達の狩人(ここではマタギとは言わない)も特別参加していて、クマに遭遇して負傷した時の体験を語ってくれた。「自分より上にいると怖い」との話は説得力があった。座談の席となって、おととしだったかイノシシが山形県ではじめて確認されたケースが話題となった。ご存知のように、イノシシは雪の深い東北などの地域には生息しない。それが福島県から“越境”してきたらしい。

◆実はイノシシの進出は、東北だけでなく各地に見られる現象で、日本の農業政策と深く関わっている、と帰京してから農工大の神崎伸夫助教授に聞いた。1970年に日本は減反政策に転じたが、そのために放棄水田が増えた。そこに根をしっかり張るマメ科の植物「葛(くず)」の地下茎をイノシシは好んで食べるのだそうだ。放棄水田に限らず、畑にもイノシシが荒らしまわった跡をよく見かけるが、いわば人間がイノシシたちを呼び寄せていることになる。

◆動物たちのそんな問題を考えながら、日曜日、姥が岳を経てまだ残雪が豊かな月山に登る。月山は山形県の真ん中に位置する、6世紀に開山した修験の山である。最近、出羽三山信仰について文章を書く機会があったので、特別な気分で登った。雲が晴れた山頂付近で、空から自分を見つめる自分がいるのかな、と考えたりした。山頂の小屋に17才の甲斐犬の血をひく老犬がいた。さすがに足取りは少しふらつき気味だが、あるじ夫妻と4時間かけてゆっくり登ってきた、と聞いて感動した。ひと夏を1984mの山頂で過ごすのだろう。ちょうど1年前、くるみ、雪丸とわずか6日の間に仲間を失ったことを静かに思い出しつつ「長生きしなよ、また来るからね」と話しかけた。

◆家に帰ると、電話があった。6年前、雪丸を突然連れてきた近所の犬好き家族の奥さんからだった。「雪丸の血筋のわんこが5月1日、四国に生まれた。間もなく東京に来ます」。可愛がってくれる雪丸の家に是非、というのだ。あと1年はふたりの思い出だけで生きよう、と決めていたので心底狼狽した。しかし、6月29日、ちび犬は飛行機で東京にやって来た。一応面会だけ…と言って会った。雪丸そっくりだが、まだ1.4キロしかないチビがしがみついてきた途端、運命だ、と言い聞かせた。

◆はじめはおどおどしていて数か月でとんでもない元気者に変貌した雪丸と違い、2か月のこのチビ犬は、滅茶苦茶明るい。ムギッ、と何かをかもうとする姿が可愛くて「麦(むぎ)丸」と命名した。雪丸、くるみ、お前たちの仲間に入れてやってね。(江本嘉伸)


先月の報告会から その1

冒険心は円熟するか

三浦雄一郎

2006.6.23 ミウラ・ベースキャンプ

 「三浦雄一郎スペシャル・バージョン」の報告会は、まさに感動の3時間半。いつもの会場を離れ、東京・千駄ヶ谷の「ミウラ・ベースキャンプ」でおこなわれたので、より臨場感のある報告会になった。心にくいばかりのセッティングだ。

◆「ミウラ・ベースキャンプ」2階の会議室で6時半に始まったが、最初は三浦ファミリーの映像記録。すばらしい作品に仕上がっている映像には思わず見入ってしまった。3部からなる映像の第1部は「シシャパンマ2006プロジェクト」。三浦雄一郎さんは2008年に75歳でのエベレスト登頂を目指しているが、その高所トレーニングをもかねたヒマラヤ8000m峰、シシャパンマ挑戦の記録だ。6400m地点でのスキーでの滑走はド迫力。雄一郎さんがベースキャンプに下ったあと、同行の息子さんの豪太さんがシシャパンマ中央峰(8012m)の登頂に成功。豪太さんにとっては父親と一緒に登頂したエベレスト、チョーオユーに次いで3峰目の8000m峰ということになる。豪太さんにとっての喜びはもちろんのことだが、ベースキャンプでその知らせを受けた父、雄一郎さんの喜びはどれだけ大きかったことか。

◆第2部は雄一郎さんのお父さん、敬三さんの映像。敬三さんは今年1月5日に101歳で他界されたが、昨年の4月まではスキーをされていた。三浦敬三さんは日本スキー界の草分け的な方。99歳でのアルプス・モンブラン氷河、親子4代の滑降には驚かされてしまう。さらにその翌年、100歳になられた敬三さんはアメリカで親子4代の滑降を見せてくれた。「三浦ファミリー、おそるべし!」を強烈に見せつける映像だ。

◆第3部が雄一郎さんの7大陸最高峰からの滑降。これには目がくぎづけになった。エベレストの8000m地点、サウスコルからの滑降はほんとうに命がけ。スタート直後5、6秒ですでに時速170キロを超えている。その時点でパラシュートを開くのだが、それでも氷の壁を猛烈なスピードで滑走し、大岩を飛び越えていった。よくぞ助かったものだ。さらによくぞこれだけの映像を撮影したものだ。南極の最高峰ビンソンマシッフでの滑降では大雪崩に巻き込まれていく様子が鮮明に映し出されていた。そのとき三浦さんはとっさに小学校5年生のときに蔵王で雪崩に巻き込まれた体験を思い出し、それが結果的には命を救ってくれた。どのようにしたら自分の命が助かるのかを極限の状態にたたき落されたときでさえ、冷静に考えられる人なのだ、三浦雄一郎さんは。それだからこそ、ここまで命を落とさずに第一級の行動者としてやってこれたのだと思う。

◆貴重な3部からなる映像が終わると、長女の恵美里さんの挨拶。「ミウラ・ベースキャンプ」の代表者の恵美里さんは輝かしい経歴を持つ方だが、それを少しもひけらかすことのない、やさしい目をした女性だ。つづいて豪太さんの挨拶。豪太さんは日本モーグル界のリーダー的存在で2度のオリンピック出場はよく知られている。恵美里さん、豪太さんを間近に見ていると、「(好きなことをやりつづけながら)よくぞこれだけのお子さんたちを育て上げたものだ」とあらためて三浦雄一郎のすごさを感じてしまう。そしていよいよ真打ち、雄一郎さんの登場だ。半ズボンにトレッキングシューズといういでたちの雄一郎さんはとても70歳を過ぎている方には見えない。頭のてっぺんから足の指先まで、全身から若さをかもし出している。人間の若さというのは、その人の内面から発するものだということを教えてくれた。

◆雄一郎さんのお話は心ひかれるものだった。幼年期から青春期にかけて体験した東北の山野から受けたものが、雄一郎さんの骨身になっていると強く感じさせた。八甲田では生まれながらにしてスキーをはき、ソリですべった。津軽半島の西側、まだ道もない時代に小泊から龍飛崎までの冒険行、サバイバル行をおこなった。黒沢尻(北上市)を拠点にして奥羽山脈の山々をも駆けめぐった。それらはすべて今日の雄一郎さんにつながっている。その間には2年間もの闘病生活をも送っているのだが、それに耐え抜いたことによって、雄一郎さんの精神力はより強靭なものになった。

◆北大時代のお話もおもしろく聞いた。とくに学長の美人秘書にねらいをつけ、彼女をGETするまでのエピソードなどは頭にこびりついてしまって離れない。その「学長美人秘書」が奥様なのだという。 お話を聞きおわったとき、ぼくは「三浦雄一郎は夢追人だ!」と思った。三浦さんはとにかく前向き。すべてを楽観的、プラス指向で考えられる方。それができるのは、いつも夢を追いつづけているからだ。「夢追人」は何事にもメゲない。何しろ目指すものがあるのだから。いつでも全力投球できる。心の中から出る叫びがあるからだ。命を賭けるときも躊躇することなく突き進んでいける。それが自分の命を護る一番いい方法だと本能的に知っているからだ。そんなことを考えさせられた感動的なお話の数々だった。

◆そのあと地平線会議の江本嘉伸さんとのトーク。江本さんも若さを感じさせる方だが、いつも以上に若々しく感じた。それは三浦さんの発散する若さを江本さんがまともに受けとめたからだと思っている。江本さんは1981年、読売新聞社の記者時代の取材ノートを披露してくれた。それは77才だった三浦敬三さんを取材したときのもの。そのとき敬三さんは、「(雄一郎さんは)すごく親思い、兄弟思い」だと言っている。三浦雄一郎さんと江本嘉伸さんのトークのあと、数多くの質問、そして感想が出たが、それが終わったところで、隣の別会場に舞台が移される。そこには数々の中華料理がテーブルに並び、何でもありの、飲み放題のドリンクが用意されていた。

◆恵美里さんは「ミウラ・ベースキャンプ」のスタッフのみなさん一人一人を紹介してくれ、さらに愛犬の「ランマちゃん」を連れてきてくれた。1歳2ヵ月のチベッタン・スパニエール。チョモランマからとったという「ランマちゃん」はあっというまに会場の人気者になった。恵美里さんと豪太さんは「ミウラ・ベースキャンプ」内にあるトレーニングルームや低酸素室などの案内ツアーにも参加者のみなさんを連れていってくれた。

◆こうして10時過ぎに報告会は終わったが、会場を立ち去りがたかった。三浦ファミリーのみなさんのあたたかさ、家族の絆の強さにふれ、ほろ酔い気分になったこともあって、ぼくは胸がジーンとしてしまった。今回の「三浦雄一郎スペシャルバージョン」の報告会は地平線会議の歴史に新たな1ページを加えた。そんな報告会に参加できて、ほんとうによかった。「ミウラ・ベースキャンプ」をあとにすると、三輪主彦さんらと報告会の余韻にひたるかのように新宿まで歩いた。(賀曽利隆)


先月の報告会から その2

冒険の影と光

田中幹也

2006.6.30 榎町地域センター

 田中さんの報告を今回初めて聴くまでに、通信で氏の文章を読んで、なぜか心に残ったことを覚えている。それは、報告会の最初に紹介人として現れた荒野のサイクリスト・安東浩正さんの「旅先で出てくる思いをメモし、特殊な文章を書く、他にない冒険野郎」という称号(?)にも通じるかもしれない。

◆田中さんの書く文章は、おおよそ(個人的な見解として)冒険の人らしくない。突き進まない。 安易に肯定しない。シニカル。そしてどこか、 普遍的だった。自分に置き換えて読むことができた。だから印象に残ったんだと思う。

◆まずは安東さんが、田中さんの『垂直の旅』について、そのものすごさを語る。クライマーとしてスタートした田中さんの経歴は、『冬季初登』のオンパレードだ。でも、登擧で得た教訓は、「才能がない分野は、努力しても時間とエネルギーの無駄」 「才能のなさを悟るには、相応の時間とエネルギーが必要」であった。

◆その後を費やす『水平の旅』は、冬季カナダ・ロッキー山脈が主な舞台となる。ご自身のスライド&トークもここから始まった。よく質問を受ける「なぜカナダなのか」ということを、日本で紹介されている『カナダ』の姿がほんの一部であることも含めて、先に話された。 当初は一度行くとまた次のテーマが見えてくるという具合で特に意識せず通っていたが、ヒマラヤのように面倒な手続きなしで行ける気軽さや、スケールの大きさや自由さに、カナダの良さ がだんだん見えてきたという。

◆装備の話。会場の一角には、今季のカナダ行きなどで使った装備が並べられていた。各地地図・登山靴・スキー板・アイゼン・ピッケル・スコップ・ストーブ・コッフェル・水筒・カップ・フォーク・中綿なしのゴアテックスウェア・フリース・スパッツ・ゴーグル・ザック・靴下・手袋・アンダーウェア・テント・シュラフ・マット…。特注品なしの普通の市販品。よくわからないが、冬季としては簡素と言ってもいいのかもしれない。こんな格好でよく・・と装備の軽さについて時に指摘されるらしいが、田中さんはこう言う。「装備が完璧でも失敗する人は失敗する」。

◆食糧の話。これもかなりシンプル。ビスケット・粉ミルク・マカロニ・インスタントラーメン・チョコ・キャンディー・コーヒー・紅茶…(シンプルなわりに、おごってもらったものも含め食べ物は多く、空腹を刺激された)。これらについても、「運動量に見合わない」という指摘があるそうだが、田中さんは言う。「実力があるなら粗食でも成功する」。なお、ラーメンは旅の終了後、最高6袋食べたことがあるそうだ。

◆今までの旅についても、実感として得た言葉を織りまぜながら、紹介された。最初の冬季カナディアン・ロッキー縦走。テントと焚き火の風景。吹雪が来ると、テントの周りに風よけブロックを積み上げる。熊の足跡をルートの参考にする。体感温度が−70度にもなる自転車での旅(自転車は現地購入・売却)。

◆オレンジの光を放つ夕陽のもと、広がる雪原にたたずみ、「来てよかったな」と感じる。ひと冬終えると、「人間の力ではとても太刀打ちできないようなところ」にまた来年も来ようかな、と思うのだった。自ら課題を設定し、いくつもの実績を残した。

◆そして今回のメインのひとつ、『引きこもり』の話。現地での出発前、まずはユース・ホステルに引きこもる。踏ん切りつかず、ベッドに横たわっている写真や、人から話しかけられるのがうざったくなり、ベッドの枠に衣類を干しているように見せかけ、実は『バリア』にしている写真が登場。ルートの検討はもう済んでいるのに、地図を何度も眺めもした。(たまたまユースで遭遇したという、当日会場に来ていた大西夏奈子さんにとっての第一印象も、「いつも地図を見ている怪しいオーラの東洋人」だったという。そんな彼女は、田中さんから、『地平線会議』を紹介された。)

◆やがてユース・ホステルを出るも、周辺に雪洞(雪の家)をこしらえて泊まる。早くも作ってしまった本番用「たらこスパ」の写真…。しかし振り返れば、引きこもっていたときこそが、重要な準備期間だったと感じた。ぼーっとしていただけのようでも、旅を前に葛藤しながら、とてつもないエネルギーを使っていた。その証拠に、食べて寝ての生活でも、体重は減る一方だった。(例えばヨガでは『気』を高めるとき、膨大なエネルギーを使うと聞いたことがあるのを思い出した。)

◆カナディアン・ロッキーは、スキーもやったことがなかった田中さんを導いた。だが通いつづけるうちに、モチベーションが下がってきた。思いを巡らせる。「通い始めたころは『挑戦』だったが、いつしか『惰性』になってきた」。どうしたらいいのか思い悩んだ。

◆「壁が立ちはだかったとき、『難易度を下げて続ける、妥協するタイプ』と、『捨ててしまって、別のテーマにトライするタイプ』に分かれるが、 自分は後者」。そう言い切る田中さんは、2006年の冬季カナダ行きに新しいテーマを課した。それは、冬季カナディアン・ロッキー縦走から離れ、カナダ中央平原のウイニペグ湖を山スキー踏破。「面白くなければ(カナダも冒険も)捨てちゃおう」という思いを伴っての旅立ちだった。結果スキーで300kmを踏破した。「湖の上はラッセルもなく、荷物はそりで引けるので、どちらかというとフツーの旅に近い」と振り返る。湖畔には小さな村があって、スノーモービルの行き来もあり、ルート取りも楽。

◆旅を終えた後、村に1ヶ月程滞在した。地元のネイティブたちと出会い「相手に興味がない限り声をかけない、媚びない無愛想な人たち」と、自分とを重ねる。来冬も来る、と言って別れた。『踏破』から『人』へ、興味の広がりを感じた。

◆『水平の旅』で得た教訓。「モチベーションの低下した分野は、努力しても時間とエネルギーの無駄」「モチベーションの限界を知るには、相応の時間とエネルギーが必要」

◆「壁にぶち当たることで、次へ次へと可能性が広がっていく」と語る田中さんに、傾聴していたサバイバル登山家の服部文祥さんはこんなようなことを言った。「『壁にぶち当たる』は正しい表現ではないように思う。『捨てる』と言うが、やってきたことは繋がっているのだから」。田中さんは答えた。「僕が言いたかったのは、そういうことです。ありがとう」

◆「自分にとって、久々に気分的にも晴れたかな?」と言う田中さんは、冬季カナディアン・ロッキーの旅をも手放そうとする今、かわりに飛び込んできた想いをあたためている。先の大西さんは、彼を『青い炎』と表した。きっとまた、心の底からすくいだした実感を携え、熱くクールに、 次の旅を伝えてくれる日がやってくるだろう。その日を待ちたい。(屋久島病のねこ、中島菊代)


地平線ポスト

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■[父島から]

 こんにちは。東京から千キロ南にある小笠原諸島の父島に来ています。小笠原に最初に定住したのは白人や南洋系の人々です。彼らを中心にお話を伺い、日本人とは何か、国境とは何かを考えています。

◆近頃、日本の国境をテーマに「日本国内」をあちこち回っています。去年は沖ノ鳥島、硫黄島へ行きましたし、先月に入ってから竹島、対馬、隠岐と日韓の狭間を右往左往していました。その竹島ですが、先月に無事上陸を果たしました。韓国の警官が常駐し、灯台などが建っていました。意外だったのは島へ向かう船が日本の払い下げ船ということです。まだ取材半ばですが、回っていて思うことは、日本の国境は普通に外国へ行くよりも困難な場所が多いということです。政治的な秘境にされてしまっているのです。来月以降、北方領土や尖閣諸島に向かう予定です。では取り急ぎ。(西牟田靖 7月10日)

[服部文祥さん出版記念の会、家族全員参加で]

■登山家であり、編集者の服部文祥さん(2003年10月、「縄紋山男ヒダカ自給山行」報告者)の初めての本、『サバイバル登山家』 (みすず書房刊 2400円+税)の刊行を祝う会が7月11日夕、渋谷のモンベル渋谷店サロンで開かれた。山野井泰史、平山ユージ、岩崎元郎はじめ登山界を代表する顔や、山岳カメラマン、新聞、出版などメディア関係の人たち、テンカラ(和製毛バリ)師など多彩な面々が集まり、台風の猛威や豪雪に耐え、岩魚や野草を食事に文字通り「サバイバル山行」に徹する異色の書き手の初出版を祝った。

◆冒頭、文祥さんはいつも留守番役をまかせている妻小雪さんと3人の子どもたち(長男・祥太郎、次男・玄次郎、長女・秋=しゅう)を紹介、サバイバル人生の背後にある家族の風景を明らかにした(地平線報告会での最後のスライドは、そういえば苛酷な日高山脈単独行から帰宅した服部君が目にした昼寝する家族の姿だった)。

◆小雪さんは女子美のワンゲルで活躍した細身の山女で、この日配られた資料には、91年、まだふたりが学生当時、岩崎元郎さんの司会で大学生と山のテーマの座談会に参加している記事のコピーも含まれていた。絵描きである小雪さんは目下子育てイラスト日記「兄兄妹(あにあにいもうと)」を執筆中。本にしたら『サバイバル登山家』より売れるのでは?と一部でささやかれている。(E)

[マタギサミット、来年はついに東京開催と決定]

■6月24、25日と山形市のホテルと山形芸術工科大学で田口洋美さんが主催する「第17回ブナ林と狩人の会:マタギサミット in やまがた」が開かれた。秋田、山形、新潟などのマタギ衆と各地の大学や研究機関の研究者など160名が集まり、野性動物の出没、狩猟の後継者問題などについて語られた。地平線会議からも、長野亮之介画伯、地元山形の飯野昭司さん、網谷由美子さんらが参加、熱心に日本の野性についての議論に聴き入った。

◆マタギサミットは、新潟県村上市松山の三面(みおもて)で「クマ狩りに見られる地域性」をテーマに開かれた第1回(各地のマタギ衆たち36名が参加)以降、年々参加者が増えている。いまでは各大学の研究者が毎年参加、田口さんを代表とするグループは平成18年から3年間、文部科学省・日本学術振興会科学研究費補助金(1400万円)を受けられることとなった。テーマは「少子高齢化時代における持続的資源利用型狩猟システムの開発に関する新領域研究」。なんだかすごい。また、来年の第18回マタギサミットをはじめて東京で開催することを決めた。(E)


たご・あるみプロジェクト報告

おととしの秋、開かれた「その先の地平線 地平線会議300か月記念フォーラム」で実行委員長をつとめた落合大祐さんを中心に、5月末から7月にかけてひそかなプロジェクトが進行した。あのフォーラムの後日報告を兼ねてここに経緯を公開する。

[ウエディング・ドレスのアジア会館報告会]

■2004年11月6日、私たちは昼から大久保の関根晧博邸に三々五々やってきて、翌日の「舞台」の練習と手品に使う大道具の準備を始めていた。この日のために鈴木博子さんが愛知から300キロを走ってきて、静岡からは三輪主彦さんとともに前日の夕方に日本橋にゴール。マンボが大音響で流れる合間にも、話題はその300キロのことで持ち切りで、その片隅に京都からこの集まりを手伝いに来た女性がいた。この人が江本嘉伸さんがまるで我が娘のように語っていた前田歩未さん。ドイツで2年間も職人の修行をしていたとは思えないほど、人目を惹き付ける魅力のある人だった。

◆関根邸のガレージには刷り上がったばかりの分厚い集大成『地平線大雲海』が運び込まれ、その編集作業の後半、1ヵ月間ほとんど寝ずに作業を指揮していた丸山純さんが晴れ晴れとした表情で開梱を始めていた。この日から逆算して、印刷会社への入稿がほとんどぎりぎりという段階で獅子奮迅の活躍をしていたのが多胡光輝という青年で、少し遅れてやってきた彼のことを、その場にいた人たちは拍手で迎えたのだった。

◆その夜のアジア会館での前夜祭を終わって、オークションの高揚した雰囲気を身にまとって話足りない私たちはぞろぞろと夜の公園に向かった。いくつかのグループに分かれながら、それでも缶ビールを手に、尽きない話は最後にパトカーのサイレンにかき消されるまで続いた(思えば、その時に二人は言葉を交わしていたのかもしれない)。

◆そして翌日の地平線会議300ヵ月記念フォーラム。「その先の地平線」と題し、その先に突き進む若い旅人たちを中心にステージに上がってもらい、お昼間際の「パート3」が多胡さんの報告「マッケンジー河漕飛行」だった。彼はなんと会場の上空からパラグライダーで現れる演出で登場し、参加者の度肝を抜いた。予定よりも進行が遅れていたためにみんな空腹で、ステージの前に陣取ってタイムキーパーをやっていた歩未さんはが気が気でなかったと思うが、話が終わった後にはそれを忘れて、みんなが彼のモーターパラグライダーに触り、彼の肉声を聞きたがった。素晴らしい報告だった。

◆5月にその二人、多胡さんと歩未さんが京都で結婚式を挙げると聞いたのは、そのほんの1ヵ月前のことで、互いの家に出入りする仲になったとは言え、もう少し先のことだろうと思っていた私は、ちょっと悔しく思った。そしてこの二人を祝う会を、東京でもやろうと決めた。

◆7月1日、因縁のアジア会館には招待者40名あまりに集まっていただいた。岸本佳則さん、実千代さん夫妻、中島菊代さん、村松直美さん、稲見亜矢子さんらおなじみの関西陣、遠くは岡山から北川文夫さん、山形から飯野昭司さん、福島の旧伊南村から酒井富美さん、吉健さん夫妻、2歳の颯人くんを連れた青木明美さんの顔も見える。名前を挙げればきりがないが本当にあの日以来忙しくふだん会うことができない人たちが大勢集まった。

◆あの時の冒険者、登山家、探検家、旅人たちは、1年8ヵ月のあいだ、何も変わっていないように見えた。だが、二人は確実に成長していたし、それと等しく私たち皆それぞれの内外で少しずつ何かが変わったのだと思う。多胡さんの先輩格である田中勝之さんが二人の出会いからいままでを300%に脚色して紹介(マッケンジー川上空を飛びながら嫁さん探しを開始、ついには京都郊外で理想の女性を見つけるという大胆なストーリーを画像とともに)。菊地千恵さんがそれを引き取って5月13日に京都の落ち着いた座敷で行われた結婚式の模様を話してくれた。

◆2月25日の大阪での報告会で歩未さんとタッグを組んだ坪井伸吾さんが先導し、二人が拍手の中、登場。「近況報告」と題して、多胡さんには最近の空飛び仕事のこと(タクラマカン砂漠、雲南などを忙しく飛び回っている)、歩未さんにはドイツの話をしてもらったのだが、「ミニ報告会」とは言え、ウエディングドレス姿で話をするというのは地平線史上前代未聞のことだろう。このウエディングドレス、多胡さんの母上の手作りだと言う。耳を傾ける佳き人たちのおかげで、二人のエネルギーをダイレクトに感じられる場になった。

◆2時間のお祝いの会は、食事をする間もなく運び、最後にとっておきのメッセージが読み上げられた。歩未さんの「師匠」、ドイツの木のおもちゃ職人ノベルト・フェルノイヤーさん一家からこの夜のために届けられた心のこもったエピソードは、「アユミの人生は、テルによって保証された」という感激の言葉で始まっている。おめでとう、テル! おめでとう、アユミ! その先の地平線に幸あれ。(落合大祐)

[ファイル0513]

■4月中旬の土曜日の夕方、あるみさんからノートパソコンの調子が悪いというメールが入りました。復刻プロジェクトで『大雲海』を作っていた2年前に一度、パソコンごと送ってもらって直して以来、たびたびメールで相談を受けていました。多胡君はマックユーザーですから、ウィンドウズのことはわかりません。このときばかりは頼りにならなかったようで、またパソコンを東京まで送ってもらうことにしました。

◆あるみさんのパソコンを見てみると、確かに調子が悪い(あたりまえ)。しかも、この症状はどう考えても落としたとしか思えませんでした。メールで問い合わせると、「コードに足を引っかけて落としたような気がする」だって。どうやら落とした衝撃で内蔵のハードディスクに傷が付いてしまったようです。

◆ハードディスクを外してバックアップを取りフォーマットして、リカバリ後データを書き戻しました。この中に“0513”というフォルダがあって、たくさんのファイルが入っていました。5月13日の結婚式のデータです。最初にあるみさんが「万一だめでも、一つ重要なデータフォルダがあるんです」といっていたのはこれのことだったんですね。

◆今は、あるみさんもマックユーザーになったそうですから、これからはパソコンも含めて多胡君が見てくれることでしょう。(地平線パソコンよろず相談員 武田力)

:歩未は本来「あゆみ」とよむが、本人も友人も「あるみ」と呼ぶことが多い。

[育児の日々から久々に…]

■育児にかまけて、「その先の地平線」以来の地平線行事への参加(上京すら久しぶり)でドキドキでしたが、変わらずバイタリティあふれる面々のオーラに触れて、封印中の旅心を大いにそそられました。本当は、息子・颯祐(そうすけ)に「かせきごっこ」を作ってくれた新婦の歩未ちゃんや(恩田真砂美氏からの出生祝い)、息子の親友「ノチュー」のお母さん(オオカミ犬「ラフカイ」)のお母さんである千恵さん、何度も読んで励みにした出産ドキュメントの筆者・明美さん、来る前に見た「プージェー」のクレジットに登場していた夏奈子ちゃん、他にもゆっくりお話ししてみたい方はたくさんいらっしゃったのですが、この初めての子なし夜遊びを機会に、1歳4ヶ月になる息子の断乳を決行したため、お酒も美味しいお料理も自制しなければならず、1次会のみでそそくさと退席しなければならなかったことが大変悔やまれます。

◆というのも、今まで日に7〜8回も搾り取られていた授乳を突然絶つわけですから、出口を失った乳でおっぱいは張り裂けんばかりにパンパンになり(痛いんだ、これが)、飲酒やカロリーの高い食べ物など、血行によさそうなことは御法度なのです。もしも、あのとき私のおっぱいが透けて見えたなら、叶姉妹ばりの巨乳(青筋付き)に、みなさん食欲をなくしていたことでしょう。息子におっぱいを忘れてもらうため、一夜の宿を提供してくれた恩田氏と、息子を実家に連れて行ってくれた夫のおかげで(4回も夜泣きしたそうな)、今まで行動を制限していた授乳から、ついに解放されそうです。(そのかわり、叶姉妹ばりだった巨乳はすでに見る影もなし)。ということで、ようやく浴びるほど酒を飲んだり、子供を夫に任せて山登りに行ったりできそうなので、みなさん、ぜひ声をかけてくださいね!(大久保由美子)

[背負子についた扇風機のお化け]

■私がはじめて背負子に扇風機のお化けみたいのがついたのを観たのは、地平線300か月記念会場でした。これ、な、なんだというのが正直な感想でした。300か月記念の準備会場に我が家の駐車場が当てられ、入れ替わり立ち代り若い男女が(そうでない人も)忙しく現れ活気に満ちあふれ、昼食の買い物に関西から夜行バスで到着したばかりの若いお嬢さんを伴いコンビニにおにぎりを買いに走りました。

◆それから20ケ月。扇風機みたいな機械を背負い世界を飛び廻る有名な多胡光純さんとコンビニに一緒に行った綺麗なお嬢さん前田歩来さんが今日の主役 花婿花嫁さんでした。お二人は輝いていました。特に花婿はイケメンで、ちょい悪風な彼も今日ばかりはでれでれと、あるみさんはすてきなドレスに身を包み幸せそう…。オバサンもちょっぴりウン10年前を思い出し、となりのオジサンを見ましたがいまは片鱗も無いわが亭主にため息が出ました。(オジサンも)同じ感想だと思います。(関根五千子)

[ゴッチにぴったり!]

 先日の結婚を祝う会、本当に楽しかったです。パーティーの準備はほとんど何もお手伝いできないまま、京都挙式のレポートだけさせていただいて、なんだか申し訳ない思いです… 今回のパーティーでも、改めて地平線の底力を感じました。5月の京都挙式、今回の地平線のパーティーを終えてから、ふと考えてみたら、ゴッチとは学生時代からもう10年以上の付き合いになるんだなぁと、しみじみ思いました。あのデレデレの幸せ満タンの笑顔に辿り着くまでの、たくさんの紆余曲折を見つめてきただけに、なんだか自分のことのように嬉しいです。だから、今回のパーティーを企画し、実現させてくれたみなさんに、ぼくも心から感謝しています。ありがとうございました。

◆それにしても、あるみさんはゴッチにはホントぴったりのお相手だと、千恵とつくづく話しています。ずっと前からぼくたちは「ゴッチにはお母さんみたいな、芯が強くてバシッとゴッチをやり込めるくらいの女性がいい!」と思っていましたから(笑)。これから、幸せ2乗、創造力2乗になった2人の行く先が楽しみです。(田中勝之)

[かせきごっこに夢中だった息子]

■300ヶ月記念フォーラムで出会った「多胡さん歩未さん」の地平線会議・結婚を祝う会に出席させて頂くために久々に東京に出た。

◆300ヶ月記念の時は生後5ヶ月だった颯人は2歳になり、誕生日が来ると40歳になる私は第2子妊娠中。(もうすぐ7ヶ月・10/14予定)

◆やんちゃ盛りの颯人を連れて行くにあたり、夫が「大変だぞ、ついてってやろうか」と言ってくれたのに「大丈夫だいじょうぶ。お気に入りのシール帖もチビ絵本もミニカーもオヤツも持ったから」と言ったのは大きな間違いだった。多胡さんのお母様のお手製という歩未さんのドレス姿はとても素敵で、かろうじて御二人には「おめでとうございます」と一声かける事は出来たが、大好きなタクラマカンの映像も颯人を追いかけながらの「ちら見」だし、心温まるドイツからのお手紙もホテルのロビーに漏れてくる江本さんの声をとぎれとぎれにしか聞けなかった。きれいにディスプレイしてあった歩未さんの作品も多胡さんの絵葉書も颯人の遊び道具と化してしまった。見た目のかわいいクォーターやフスフス、つぃくつぁくばんぴーに喰いつくと思い込んでいたが、実際はスレンダーブロック&かせきごっこでばかり遊んでいた。これは意外な発見だった。

◆颯人が生まれてから「育児は育自」と毎日自分に言い聞かせる日々だが今回もいい勉強になった。2歳児がおとなしくしているわけはないのは周知の超想定内だ。私の認識が甘かった。頼るべき時は夫に頼るべきだった。ずーっとひとりで踏ん張ってきた私は、結婚して家族が出来ても、どうもひとりで何とかしようとするところがある(反省)。

◆お二人をはじめ出席者の皆様、大切な会だったのにお騒がせ致しましたm(__)m。颯人の相手をしてくださったり、料理を取りに行ってくださったり本当にありがとうございました。

◆御二人の初々しい雰囲気を見て自分の結婚式の頃を思い出しました。二人の時間を大切に!そして御二人のご活躍と末永いお幸せをお祈りしています。

◆第2子妊娠出産も秋にまた報告できればな〜と思っています。(青木明美)

[ありがとうございました!!!]

■「7.01 多胡光純と前田歩未を祝う会」を開催して頂き、心から感謝致します。 思い返せば、ガソリンスタンドの夜勤専門のアンチャンだった僕を日の当たる世界に導いてくれたのは地平線会議でした。自分で撮った写真や映像を世の中に出すチャンスを与えてくれたのも地平線会議でした。そして人生を一緒に歩くパートナーと巡り合わせてくれたのも地平線会議でした。僕の人生は地平線会議なしでは考えることできない、地平線会議には足を向けて眠ることできない、そう思うのです。今後もひきつづき地平線会議で力が必要なときはいつでも多胡を呼びつけてください。日本はもとより世界のどこへでも飛んでいきます。

◆7.01に開いて頂いた我々二人の結婚を祝う会では、多くの人の笑顔に囲まれ、僕らは幸せ者だと思った次第です。会に向けた準備と段取りに快く動いてくださったスタッフの皆様、そして当日お忙しい中アジア会館まで足を運んでくださった皆様に心からお礼申し上げます。木のおもちゃ作家と空飛び野郎の組み合わせです。頑固者の組み合わせでもあります。これからもお互いが選んだ道に磨きをかけつつ、二人オリジナルな人生を創造していこう、そう強く思う今です。なにぶん世間知らずの二人ですが、これからも地平線会議のみなさまのお力添え、なにとぞよろしくお願いいたします。

◆すでにご存知かと思いますが、結婚後、僕ら二人の拠点は京都にしました。ただ、僕自身は今年に入ってからモーターパラグライダーを引きつれ海外ロケにでる機会が多くなってます。仕事が入るとだいたい半月は家を空けます。必然的に歩未さんと一緒に過ごす時間はなくなります。そのことが大きな気がかりではあります。でもそれが僕らが選んだ道の形でもあります。現実として受け入れ、そのなかでお互いの生きる道を創造していきます。

◆7.01にチラリと話しましたが、モンゴル行きとアマゾン行きが正式に決まりました。前者は7月末に出て8月半ばに帰国、後者は8月の後半となる予定です。これも地平線300回記念のときに思い切り報告させてもらったことや、タイムキーパーを無視して流したプロモーションビデオが大きな要因だったり。心から感謝します。今、自分の周りに起き始めている上昇気流を確実につかみ、さらなる自分の望む舞台へ翼を走らせるために、今は頑張りどころだと思っています。放映日が決まりましたら連絡致します。

◆今回の東京入りは7.01がメインでしたが、時間を作り歩未の武蔵美時代の恩師都丸先生に会い話しました。その席での話を少々。歩未さんの初期作、卒業制作で最優秀賞をとった「かせきごっこ」は知育教育玩具として当時最先端を走っていたと聞きました。そして残念なことにそれを評価しその力を伸ばせる土壌が大学界にはなかったことも話してくれました。都丸先生は歩未さんに社会に出ることを勧め、その実社会で歩未さんの力を伸ばす道を勧めたと。そんな過程がドイツへの情熱をさらにかきたてたのかなとも思いました。

◆さらに「朝起きたときからデザインですからね」と都丸先生はサラリとおっしゃりました。工芸品や美術品のみにデザインという言葉が使われると決めつけていましたが、デザインとはそういった狭義ではないようです。生活をデザインする。その延長線上に表現の世界がある、そんなことを思いました。僕なんかはガムシャラに自分の思いを追求するあまり、生活の部分を大いにそぎ落としていることは分かっていました。

◆ガソリンスタンド時代の資金のやり繰りなんかもそうですし、今でも農耕民族的な貯蓄発想はむずかしく、ダンダンダンとライフルをぶっ放すようにやってきたチャンスをモノにするような、さらなるチャンスをモノにするべくライフルを磨くかのようにフライト技術を磨くといった狩猟民族的発想のもと生きているのです。そんな僕は生活の部分を大切にできる人、リズムがある人を「いいな」と思うことも分かっていました。歩未さんに惹かれたのもそんなところが大きく起 因しているのだと思います。

◆最後にもう一度、僕ら二人のために7.01の会を準備して頂き、そして多くの人に集まってもらい、心から感謝します。気心しれた人々に囲まれるのは嬉しくて、リラックスできて、何も説明すること必要なくて、僕は鼻の下が伸び伸びになってしまいました。新井さんがアップしてくれた写真を見るたびに歩未に「最悪」と吐き捨てるように言われます(笑)でもでもそれが多胡の今です。地平線の仲間に囲まれることが正直に嬉しく、歩未さんといっしょにいることが本当に嬉しかったのです。そんな席を準備してもらい、僕は幸せです。(多胡光純)

[私の宝物]

■7月1日のほとぼりがようやく覚めた頃、帰宅しました。改めて、みなさまありがとうございました。よく考えてみても、エライ事だったと思います。たくさんの方に集まっていただき、祝福され、かたや幹事の皆様は忙しく動き回り、私達は次にナニが起こるのかも知らず(入場するまで、参加者すら知らされていなかった…!)最初から最後まで、びっくりと喜びが満載でした。

◆昨日やっとノベルト達に電話することができました。彼らのメッセージが私には当日まで内緒だったことは知らなかったらしく、「びっくりして余計にめちゃくちゃ嬉しかったよぉ〜!」と告げたら、「いい仲間達だね」と言っていました。そして、「ところでMr.EMOTOって誰!?」と言っていました(笑)

◆幹事団としては、私があのメッセージに対して涙しなかったことが悔やまれているようですが、そうではございませんよ。あの場で泣いてなるものかとものすごく必死で涙をこらえていました。2次会が終わって部屋に戻り、疲れ果てて爆睡しているダンナさまをよそに、私は改めてメッセージを読みながら人知れず涙していたのでした…。だからもうホント狙い通りです。正直めっちゃびっくりしたもん!メッセージが届いたことは聞いていましたが、英語のメッセージだということだったので、あんなにたくさん一生懸命書いてくれているとは思っていませんでした。

◆もちろん私はあの家で起こったすべての事柄を忘れていないし、あそこに書かれていたことすべてに思い当たるフシがあるし、でもそういうのは私の中にだけあるものだと思い込んでいたので、彼等が同じように些細なことまで感じてくれていたことが何よりも嬉しかったのです。もしかしたら、私が想っている以上に彼らは私のことを想ってくれているのかもと感じずにはいられませんでした。

◆宝物が一つ増えました。自分では絶対に聞きたくても聞きだせることではないので、本当に素晴らしいことです。しかもそれをやってのけてくれる仲間がいるなんて、自分が自分でないみたい!そんなことに比べれば、ドレス姿で報告会をやることなんて、足元にも及びませんです。信じられないぐらいたくさんの愛を感じています。こんなにもヒトを動かしてしまって、一体私はナニをしているのか…!?と思ってしまいます。そして私にできることは、この喜びをみんなに還元するべく、日々励むことかな。みなさまの期待を裏切ることのないよう、責任をもって、でものんびり歩いていきます。これからもどうぞよろしくお願いします。ありがとうございました。お疲れ様でした。(あるみ)


[ドイツからの言葉]

■あるみさんは、ドイツのビラーベックという町で、ノベルト・フェアノイアーさんを師匠として木のおもちゃ修行をした。昨年夏には多胡君とふたりで再訪している。その一家から日本からの質問に答えるかたちで届いたメッセージの全文。

★ノーラ(次女 18才)のメッセージ

 1 お祝いの言葉 親愛なる私の姉、あゆみ、そしてテル、私はおふたりが人生を共にすると決断したことがほんとうに嬉しいです。あゆみの人生設計はテルが現れたことで保証されました。結婚のことを聞いた時、どんなに嬉しく感じたか、書き尽くせません。あなたのドイツの2番目の家族は、あなたを誇りに思い、あゆみが5年前にやってきたことがほんとに嬉しいです。テルヨシとあゆみ、あなたたちはいつでも大歓迎ですよ。

2 あゆみの第1印象 あゆみが私の家に2ヶ月ほど滞在すると聞いた時(実際は2年以上いたのよね)私はとっても興奮して幸せな気分でした(あゆみ、多分レーナと私がそこいらじゅう踊りまわったことを想像できるでしょう?)。そして私たちがあゆみを待ち望んでいた日が来ました。彼女はビラーベックまで列車で来ることになっていました。でも、私はそんなに待てなくて父にムンスターまで車で行き、彼女を乗せて家まで連れてくるよう頼んだのです。私たちは急がなければなりませんでした。列車はすでに到着していて、私は父があんなに飛ばすのを初めて見ました。私たちは列車の発車1分前に間に合いました。彼女は窓際に座っていて、びっくりしたという笑顔で出てきました。その瞬間、私は彼女が大好きになりました。車を取りに行ったノベルトを待つ間、私は「あなたのお部屋はきれいにしてありますよ」と言いました。3度言った後、彼女は私が言いたがっていることを理解してくれました。言葉の壁は一瞬にして除かれたのです。思えば、あなたははじめて見た瞬間からほんとうに特別な人でした。私の姉、あゆみ。

3 私はあゆみが創り出すすべてに感動しています。彼女が自分の夢を達成していることにも。彼女には皆を驚かす才能があり、これからも日々ますますの成功を得ると確信しています。彼女には創造性と才能があるのですから。

4 あゆみのエピソード 小さなネズミの話 ある日、あゆみが家の前に靴を脱いで昼食のため奥に入ったんです。しばらくして靴を履くと何かやわらかなものを感じた。直後のあんなに大きな叫び声は私たちは聞いたことがありません。私たちは靴の中から猫がくわえてきたねずみをつまみ出しました。5 最後にあゆみが日本に帰国する直前、彼女ははじめての大きな注文を受けていました。なので私たちは午前4時まで仕事をしました。沢山のコーヒー、笑い、仕事、そしてこの日を思い出すための写真撮影などそれは特別な夜でした。

★アネマリー(母 48才)のメッセージ

 親愛なあゆみ、親愛なテル、人生を共にするふたりに心からのお祝いを言います。あゆみ、ノーラが沢山のことを話したし、私もほぼ同じです。ひとつだけ私から。ある日私はひとつのことを学んだんです。私がおいしい料理を作れればあゆみを少し幸せにすることができる、と。たとえば、“Apfelweintorte”や “Kirschkuchen mit Streusel”などのケーキ(テルは知ってますよね)をつくる時、一緒に料理したり、焼いたりするのがとっても楽しかった。

あゆみは、ドイツで沢山仕事をしなければなりませんでした。どうかノベルトのメッセージを見てね。特別だったこと。ニュルンベルグでの最初のオモチャ・フェアの後、私たちはあゆみにケルンとビラーベックの特別なお祝いを見せましたね。そう、ドイツのカーニバル。誰もがおしゃれをして、とてもおかしかった。彼らは「ヘラウ」とか「アラーフ」とか叫んで、そうすると他のめかした人たちが飴を投げるんですからね。これはあゆみのことではないわね。では、ノベルトのメッセージを読んでね。

★ノベルト(師匠 50才)のメッセージ

 親愛なあゆみ、“Steckenpferdchen”(私たちのオモチャ店の名前です)のメンバー親愛なるテル、冒険的なエアフォトグラファー、ふたりが人生を共に生きてゆくと知ってとても嬉しいです。ふたりが沢山の豊かな日々を送られるよう祈っています。2001年12月、あゆみが初めて我が家にあらわれた時、若い強靭な心をもつ女性との印象を受けました。はじめての会話が少し難しいドイツ語ー英語、英語ードイツ語だったけど、私たちは理解しあうことができたね。

ビラーベックでのあゆみの実際の仕事について。第1日 ニュルンベルグ・おもちゃフェア出品のためのパッキング(寒い雨の日だった)第2日 午前3時に起きてニュルンベルグまで車で行き、会場内に私たちのブースを設営した。この日から6日間、おもちゃフェアが続いたよね。これは、あゆみにとってきついウォームアップだったと思うよ。おもちゃフェアを終えて私たちは一緒に仕事を開始し、木のおもちゃ制作をあゆみは大変なスピードで習得していった。だから、自分自身の木のおもちゃを創り出すまでそんなに時間がかからなかった。

我々、フェアノイアー一家は、田舎に住み、自分たちで何でもつくるのが好きだ。あゆみは次のような仕事をたちまちマスターした。コンクリートをミックスして注ぐこと 新しいおもちゃ店に壁貼りをし、色を塗ること 工具類の保持と修理 木造の倉庫造り 屋根職人の仕事 サッカー・ファンのように叫ぶこと その他。私が京都のあゆみの素晴らしいアトリエを訪れた時、彼女がビラーベックでやった仕事のいくつかの要素がそこにあって、私はとても身近なものに感じたのを覚えている。

昨年夏、私たちはテルに初めて会って彼はトウモロコシパンを上手に切ることを学んだ。これは、良き夫であるために非常に大事なことです。アネマリーから少し教わり、彼はうまくできるようになった。良き結婚に欠かせない良き資格を私たちは指摘しておきたい。

 東京で良き友人たちと素晴らしいパーティーを! 

追伸:テル、君の車に名前をつけたよ「クヌート」というんだ。(デンマーク王の名。多胡君は中古車を買って預けてある)

★イエンツ(長男 23才)のメッセージ

 おふたりの共に歩む人生に幸あれ!イエンツ


[地平線速報]

■[シール・エミコさん 『モンベル・チャレンジ・アワード』受賞決定!]

 世界一周自転車の旅の途中、ガンに倒れ、一時は余命半年?と心配されたほど深刻な病状から見事再起を果たしたシール・エミコさんが「モンベル・チャレンジ・アワード」の受賞者に決定、8月8日(火)モンベルクラブ渋谷店で授賞式が行なわれる。このアワードは、「挑戦」をテーマにモンベルが行動者に贈るもので、第1回の受賞者は自作ボートで大西洋横断をやったことのあるスイス在住の中島正晃さん。エミコさんは第2回目の受賞者となる。

 ★受賞を記念して10月14日(土)エミコさんのスライドショーがモンベル大阪本社で、10月28日(土)には、渋谷店で開かれる予定。

■「プージェー」第2ラウンドへ。

 関野吉晴さんとモンゴルの少女、プージェーとの交流を描いた山田和也監督の映画「プージェー」、好評のうちに7週間の「ポレポレ東中野」での上映を終えた。4700人以上が入場(当初最低ラインを3000人以上としていた)、まずまずの成果をあげたが、全国展開はいよいよこれから。

 現在上映が決まっているところは、

★9月23日(土) 野外こども上映会 世田谷区羽根木公園 関野、山田挨拶予定
★9月24日(日)(仮)モンゴルの夕べ 梅が丘パークホール 馬頭琴コンサート、関野、山田挨拶予定
★9月30日(土)(仮)関野吉晴デー 関野吉晴探検資料室主催 墨田区地域振興部環境保全課 03-5608-6207
★9月30日(土) 久留米市 六ツ門大学事務局 0942−33−2271
★10月8日(日)又は9日(月) 山梨県 まだ日程と会場は未定です
★9月予定 大阪第七藝術劇場
★9月予定 横浜日劇
★11月予定 京都シネマ

なお、自主上映会の開催を含め問い合わせは、
puujee製作委員会 本所稚佳江
TEL&FAX03−5386−6700
まで。


地平線はみだし情報 関西大学探検部OBで北海道弟子屈在住の西川栄明さん『北海道アクティブ移住 SOHO夫婦のログハウス日記』(北海道新聞社出版局 1200円)を出版。


[編集後記]

 6月は二つの報告会があり、地平線会議にとっては慌しい月だった。報告会レポートにあるように、どちらも刺激的で教えられることの大きい内容だった。遠くにいて参加できない人には申し訳ないが、発足以来320か月、ほんとうに贅沢なことをさせてもらっている、と思う。内容が優れていると信じている割に私たちの報告会や活動が広く喧伝されず静かに進行しているのは、「市場経済」の論理と全く反対の志で行動しているからだと思う。報告者に御礼も払わず、汗をかく人は少しも儲からない。はやりのNPOになる気もない。はじめた当初から自然にそうなっているので、多分これからも変わらないだろう。

◆たご・あるみプロジェクトは、本来全く私的なことなのだが、地平線会議のいまにとって共有するに足る大事な何かがあると考え、ページを割いた。ドイツからのメッセージなどほとんど読めない小さな字となったが、あえてそのようにしたことをご了解ください。

◆7月のクマ・シカ報告会、面白いですよ、是非!(江本嘉伸)


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

狩って食うシステム

  • 7月24日(月曜日) 18:30〜21:00
  • ¥500
  • 於:新宿区榎町地域センター(03-3202-8585)

近年、全国的にシカ・クマ・イノシシなどの大型野生獣による農林業被害件数が増えています。オオカミが絶滅して以来、ヒトが狩るしかない日本列島の大型獣ですが、ハンターは年々減少し、高齢化の一途。せっかく捕獲した獲物も利用されず、いわばゴミとして廃棄されているのが現状です。

そんな中、北海道はエゾシカの肉を特産品として売り出しはじめました。このプロジェクトの立役者が梶光一さんです。北大クマ研(学生による任意サークルだが、クマの研究ではパイオニア)在籍中に“シカ研”を立ちあげ、以来30年にわたり北海道の大型野生獣を研究してきました。「日本人と大型獣のつき合いは、明治以来はじめて経験する状況になってるよ」という梶さん。つきあい方を考える上で必要な基礎データつくりに力を発揮してきました。道の環科研ではエゾシカの生息数を確認するシステムを構築。シカを資源として管理・利用する方途を開きました。

今春から農工大の教授に就任した梶さんに、クマやシカとの長いつきあいについて話していただきます。


通信費(2000円)払い込みは郵便振替または報告会の受付でどうぞ
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議(手数料が70円 かかります)

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