2006年11月の地平線通信

■11月の地平線通信・324号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙い障害を持って生まれた娘が19歳になった。仮死で生まれ、生まれた病院から未熟児センターに移送され、さらに専門病院に転院して母親の私が病院に付き添っていた頃、江本さんが病院に来てくださった。なんと、仕事を持ってきた。

◆子どもの状態をみるなかで、島へ旅することも、仕事もすることも無理だろうと感じていたので、ちょっと驚いた。「真智子さんは病気ではないから」と言われた。それは、「凛として生きよ」と言われたに違いないと思った。子どもが病気であると伝えると多くの仕事の依頼人は引いていった。「そういうことでしたら大変かと思いますので…」と仕事を引き下げてゆくのは、依頼人自体が「大変に」巻き込まれたくなかったのだと、今なら分析できる。江本さんは「真智子さんは病気ではないのだから」編集者が病室に足を運べば、「真智子さんは仕事ができる」はずだと言ったのだ。さらに、看護主任に「お母さんは、仕事をしているそうですね、仕事に行く間、なっちゃんをナースステーションで預かりましょうか」と言われた。私が、娘の病気を理由に仕事や旅から逃げてしまうことは、何とか生きようと懸命に息をしている娘に対して失礼ではないかと、思えた。病室のベッドのうえに写真原稿を並べ、、写真選びをしているところに、「教授回診」がまわってきて、ヒンシュクをかったことも懐かしい。

◆病院の付き添いを抜け出して地平線の集まりに出向いたことがあった。おおよそ、半年ぶりの「しゃば」だった。そこで、中年の女性に言われた。「病院の付き添いって暇で退屈でしょう〜〜気分転換にいらっしゃるといいですよ〜〜」と(今、思うとこの発言も地平線っぽくないと分析できるのであるが…)子どもの付き添いは、何しろ目を離せないのでトイレに行けない。朝食にありつくのは午後3時頃、夜はほとんど眠れない看護が続く。この時の私は、この女性の言葉に大いに傷ついた。「ここは自由に旅する人たちの来るところなのだ。これからの私が来ることのできるところではない」と。大学の講義で習ったことも思い出した。「旅は自由な旅ばかりではない。自分の意思で旅立つことができるのは、現代の限られた人だけ。旅には“強いられた旅”というものもある。自分の意思に関わりなく、仕えるものの運命に従って生きる女性たちの旅もまた旅なのだ」と。娘の夏帆を育ててゆく旅は“強いられた旅”なのかもしれないと思った。

◆あれから19年、娘と一緒に旅立ち、地平線会議にも顔を出し、旅の報告者も幾度かつとめ、要所、要所には夏帆も顔を売りに行っている。障害児の母親になったくらいでは、人の性格は変わらないのである。

◆娘が16歳の時、写真展を開催した。「ひょっとしたら死んでいたかもしれない」という事故に2度遭遇し、娘自身の体調も落ちていった。「ひょっとしたら間に合わなくなるかもしれない」という思いのなかでの写真展を開催してみて、16年分の娘の写真に囲まれ、3回の写真展で合計1か月過ごした。娘を支えて生きてきたつもりが、実は支えられて生きてきたのだと実感した。脳障害で言葉も持たず、表情の乏しい子どもだと思っていたが、写真の中の夏帆は実に生き生きとその時、その時の「言葉」を発していたということもわかり、親としては反省させられた。

◆3回目、大阪での写真展の時には夏帆は入院していて、その付き添いの病室から、私は「這って」大阪まで2度行った。なんだか…大変だったけれど、写真展をしてみて、娘の存在を「なんて素晴らしいのだろう」と再確認した。

◆その存在の価値を伝えることも私自身の仕事だと思ってきた。そして、やっと、その宿題ができた。『お母さんは、ここにいるよ-----脳障害児・夏帆と過ごす日々から---』(毎日新聞社刊 1300円税込み)を上梓した。本の前半は娘の19年を写真ストーリーでまとめ、後半は障害を持つ子を育てるためにノウハウを書いた。「病気の告知」「主治医との上手なつきあい方」「お母さんの息抜き」「医療費」「制度を使う」など、さらに「宗教」や「差別」「自殺」「デス・スタディ」も入れたので、とっても難しかった。

◆写真展の時に「よく16年も写真を撮り続けできましたね」と言われたけれど、それはライフワークである島の写真を撮り続けてきたので、自然と娘の写真も撮ってきたのだと、思う。大変な時期は幾度かあったけれど、そういう時に言葉だけではなく、実際に手や足を動かして力を貸してくれたのは、島が好き、旅が好き、という共通の思いのある友人たちだった。島の愛好家集団「ぐるーぷ・あいらんだあ」を続けて28年になったけれど、好きなことを続けてゆくことはとても大切だ。生きてゆくという旅のなかでも「好きなことをあきらめない」ことが、少し辛いことがある人生を支えてくれるのだと感じる。(河田真智子)


先月の報告会から

「八百年のうたかた」

三羽(みつわ)宏子

2006年10月27日 榎町地域センター

[800歳!]

千年に一人の逸材ともいわれる英雄チンギス・ハーンが齢45にして初めてモンゴルを統一し、モンゴル帝国建国を宣言したのが1206年。つまり今年2006年は大モンゴル建国800周年にあたる。「ナーダムや朝青龍だけではないモンゴルがあるのではないか?」と江本さんのこぶしにも力が入る、今宵の地平線報告会は熱いモンゴルナイト!

◆報告会は二部構成。前半は、アンコール上映が終了したばかりの映画『puujee』の翻訳が大好評で、民主化されたモンゴルと11年間にわたりつきあい続けている三羽(みつわ)宏子さん。彼女はモンゴルととてもユニークなかたちでつながっているのだ。後半は、元駐モンゴル大使として日本とモンゴルの架け橋となってきた花田麿公(まろひと)さんが登場。

◆職業的な立場は違うが、社会主義時代からモンゴルと関わり、花田さんとともに日モ交流に尽力するジャーナリストの江本さんもインタビュアーとして混じり、今では幻のような―たった13年前までのことだったのに―社会主義時代のモンゴルの真相を語ってくださった。2時間半、歴史をさかのぼり、草原の上空を旅して大きく俯瞰しているような、不思議な夜だった。

[民主主義モンゴルと不思議な関係11年]

「ふつうの会社員です」という自己紹介で話し始めた三羽さんは、現在精密機械メーカーに勤める社会人3年生。初めてモンゴルを訪れたのは1995年高校1年生の時、きっかけは夢の挫折だった。将来は舞台俳優になることだけを考え、劇団に所属しながら稽古を重ねてきたのに、演劇を学ぶため受験した高校に入学できなかった。

◆落ち込む彼女を見かねたお母さんからモンゴル乗馬ツアーへの参加を薦められ、なんとなく参加すると、「懐かしい感じがして」すっかりその魅力の虜に。草原で感じたのは、生まれ育ったビルだらけの東京では味わえなかった心の開放感!向こうに住み大学に通おうとまで考えたが、日本人である自分は言葉をまず学ぶべきだと思い直し猛勉強、東京外国語大学モンゴル語学科に入学したのだ。

◆その後モンゴル国立大学に1年間留学し、休みがあれば田舎の遊牧民ゲルに居候、ともに働き生活をした。ショックを受けたのが、どんなに小さな子供も家族の一員として仕事を持ち責任を分担していること。当然ながら三羽さんも、乳しぼりや燃料の糞拾いなど、日の出とともに起きて仕事をするが、はじめは慣れない。力仕事で指はぼろぼろ、足は家畜の糞まみれ。しかし一ヶ月もするとだんだんコツを得て、難しい家畜の乳搾りもこなすようになる。生きるために必要なものを、自らのからだを使って自然から得ていく生活の中、牛乳瓶2本を両手に持ち、水を毎日汲みに行く遊牧民の3歳の子どもに、三羽さんが日本の“水道”の意味を説明しても「?」のままで理解されなかったという。

◆日本へ帰国すると今度は母国なのになかなか馴染めず困ってしまう。どっぷりのモンゴル漬けだった自分をふり返り、「ここから一度抜け出さなければ!」と考える。草原で“日本人”を意識し、生まれた地で生きていかなければならないと感じたのだ。草原の生活はとても厳しい、けれどそこで生まれた人たちは大地で懸命に生きていた。

◆あえて、モンゴルとは無縁の精密機械の製造メーカーに就職し、内視鏡の国際営業を担当することになった。すると、日本で出会った知人のモンゴル人医師とのつながりもあって、なんと内視鏡の販売代理店がモンゴルの首都ウランバートル(以下UB)に置かれることに!今年3月には仕事でモンゴル入りし、内視鏡設備をモンゴル国立がんセンターに設置した。再訪問した秋には最新鋭の内視鏡設備を現地の医師たちに紹介して印象づけた。モンゴルの医療を発展させたいと奮闘する若いモンゴル人医師の力になれたらと、会社を巻き込んで新しい道を開いている。

◆今年の夏にも、プライベートでモンゴルへ。遊牧民の若者は、時代の流れとともに遊牧を離れて都会へ、一部は海外へ出て行くようになっていた。5年前に乳搾りを教えてくれた田舎の女の子は現在UBに上京し、民族衣装を脱いでオシャレに目覚めイケイケギャルに変身、一番夢中の遊びは街をランドクルーザーで駆けること!「もう草原には興味がないの」と話す彼女。とはいえ、遊牧民が消えてしまったわけではなく、今もモンゴルの草原で遊牧生活を続けている人たちがたくさんいる。三羽さんの持つカメラに、くったくのない無防備な笑顔を向ける遊牧民の家族たち。スライドに映る彼らの表情を見つめながら、一人ずつのエピソードを丁寧に思い出し話す嬉しそうな三羽さんが印象的だった。

◆外語大生時代の三羽さんは、語学能力が飛びぬけて高く、一つ後輩のわたしは流暢なモンゴル語にいつも聞き惚れていた。今年6月に初公開された映画『puujee』の翻訳を1年がかりで手がけ、プージェー家族の物語を温もりのある潔い日本語に置き換え、翻訳という重責の仕事を初挑戦で見事に果たして関野さんや山田監督をうならせた。そんな三羽さんがモンゴルと出会った不思議な縁のことは、今までほとんど誰にも話していなかったそうだ。ピンチはチャンスというけれど、そこから生まれ出た影響はすでに映画や医療の分野にも広がっている。ミツワンが、これからどのようなかたちでモンゴルに関わっていくのか?本人にもわからないとのことだけれど…ひそかにとっても楽しみなのだ!

[幻の時代? すごくこわい国、すごく遠い国]

 花田麿公さんが初めてモンゴルを訪れたのは1965年、今の三羽さんと同じ27歳の時だった。当時は日本と社会主義国モンゴルの間には国交などまずなく、「ものすごく恐ろしく遠い国、ものすごくこわい場所」だった。外大モンゴル語科卒業後に外務省に入省した花田さんは、「モンゴル担当じゃなければ外務省を辞める!」と周囲に公言。モンゴルにどうにか入国したいと望んでいた矢先、“婦人の公的参加セミナー”に日本代表代理で参加するため、上司を説得して渡航するチャンスを得る。絶対に外交交渉をするなという条件つきだった。

◆出発の日に、上司が「これで見納めかもしれない」とわざわざ見送りに来たというほど、得体のしれない危険地帯だった。入国ルートは、日本→インド→モスクワ(ここでビザ取得)→モンゴル、所要時間は1週間。奇跡的にモンゴルに入り、モンゴル外務省に属する人物らと面会を果たす。国交断絶している二か国の外交官が対面した、歴史的瞬間だ。花田さんは彼らに「外交関係の話は交渉するなと言われています。しかし、もしも万が一外交関係の話になった時には、モンゴル側の言い分を聞いて来いと言われている」という会話をする。両国が国交を樹立したのは、それから7年後の1972年のことだった。その後も、花田大使の努力は絶えず続き、“ゴビ”というカシミヤ工場建設にも力を発揮、完成した工場は戦後処理の一環として日本からモンゴルへ供与された。

◆花田さん曰く「日本モンゴルは、国交樹立の際に『過去のことについて言及しない』と条約で取り決めてカシミヤ工場を供与し、さらに後に政府幹部が過去の戦争についての歴史認識をはっきり示した。だから今の両国の関係は良い」。日モ友好の象徴として取り上げられることもよくあるカシミヤ工場。「花田さんがいなかったら、今の日本とモンゴルはなかったと強く言いたいくらい」と江本さんが力を込める。国を背負い、未知の地へ公人の立場で乗り込み冒険的な外交に正面から向き合ってこられた花田さんは、ところがお役人的なイメージとは果てしなくかけ離れ、朗らかでおおらかで笑顔いっぱい! そして面白いお話がとめどなく流れ出す口調はなめらか。この大きな人柄が、冷えきった国と国の間に、あたたかい橋をかけてきたんだ…。人が動いて国を動かし、歴史になっていくんだと、お聞きしながらぞくぞくしてしまった。

◆花田さんは、無数にお持ちであろう引き出しの中から、手品師のように話題を取り出しわたしたちに見せてくれる。「あのね、民主主義移行の裏舞台、真のすがたは日本でもロシアでもモンゴルでも実は知られていないんですよ」との言葉に、会場に来ている人たちがぐっと身を乗り出す。ソ連崩壊の余波で、後を追い半年後にモンゴルでも革命が起こったという定説が覆される。花田さんによると、モンゴルは、ソ連崩壊を待たずして早くもソ連に見切りをつけ、市場経済移行への熱を高めていたのだという。

◆1989年の天安門事件の後、在中国の留学生たちは祖国に戻り、革命への熱気を抱き希望に燃えた。同時期、花田さんはモンゴル国内の要人から要望を受け、「市場経済になるということは、一体どういうことなのか?」というテーマで、現地役人に監視されながらの講習会を開いた。1989年3月には、世界中にいるモンゴル人役人が本国に緊急収集され、「日本と密接な関係を結びモンゴルを民主化する!」という宣言が出されたという。花田さんは笑顔で話す。「逆だと一般的には思われているが、市場経済移行のバウチャー発行などもロシアよりもモンゴルのほうが早かった。移行期に日本は中心になって全面的な支援をしたのです。」

◆花田さんと江本さんのお話を聞いていると、民主化以降にモンゴルと出会った三羽さんが、ツアーに気軽に参加したり、留学や映画の翻訳や最先端医療機器ビジネスなど色々な角度でモンゴルに接触している事実が、夢ものがたりのように感じられてしまう。社会主義時代のモンゴルを駆け抜けてきた花田さんと江本さんにとって、2006年の建国800年に沸くモンゴルのすがたは、かつての常識が180度ひっくり返った摩訶不思議なのかもしれない。時代は違うけれど、二つの国を行き来しながら人と交流を深め、人と人をつなぎ、国をつなぎ、文化をつなぎ、歴史のピースを大事に積み上げてきた3人の皆さんからあふれだす、モンゴルへのでっかーい愛情!!! 報告会の間、皆さんの上には、濃くたくましく抜けるようなあの青空がどかーんと広がっていたような気がした。(大西夏奈子)

【地平線会議報告会を終えて】

映画『Puujee』の打ち上げが行われた7月、江本さんから「地平線会議で話してみないか」というお話を頂きました。それから数ヶ月。報告会の日を目指して、何を話したらいいのか、報告会に来る方々は何を聞きたいのだろうか、色々と思い悩みました。つまりは、報告会の日を終着点としてずっと考えていたわけです。

◆自分のような者が報告会の場に立っていいものなのか。人に話せる何かを果たして自分は持ち合わせているのか。悶々としました。当日を迎えた朝でさえも、よし、これを話せばいいのだ!という手ごたえはつかめないでいました。

◆しかしながら報告会を終えてみて強く感じたことは、報告会は出発点であったということです。報告を聞いて下さった方からの質問や感想を頂く中で、自分の話したことの輪郭がようやくみえてきたのです。今まで駆け抜けるようにして過ぎたモンゴルとの11年間(というと大げさですが)。何らかの形で常にモンゴルと関わりつつも、じっくり自分とモンゴルについて考える機会は今までありませんでした。

◆モンゴル建国800周年という年。私もひとつのターニングポイントを持つことが出来ました。当日だけでなく、私にとってはそこまでの過程も報告会でした。報告会を終えてようやくスタートラインに立った。そう感じます。(三羽宏子)

[モンゴルと地平線会議]

 三羽さんは学部の学生であるときにモンゴルとの経済関係の会議で通訳を務めておられた。学部の学生がそのような会議で通訳を務める例を聞いたことがない。その後あるボランティア事業でご一緒したことがあるが、まさに当代を代表するモンゴル語の達人の一人であろう。映画PUUJEEの翻訳をされたのも当然である。

◆他方、江本さんとは20年前ウランバートルでお目にかかった。私の留守に大使館に見えたというのでウランバートル・ホテルにすぐおたずねして以来のご縁である。周囲の反対にもかかわらず何故か昼休みに訪ねてレストランで食事中の江本さんにお目にかかった。思えば運命的な出会いであった。

◆役人はプレスの人に必要以上の警戒心を有する習性があるが、同僚にも言わない生の情報を江本さんには話し、二人で検討したこともある。あっけらかんにお話申し上げて困った事態を招いたことは一度もない。モンゴルに関する情勢分析のスタートを江本さんと検証することで始めたことさえある。プレスの江本さんとである。私にとって、江本さんという人はそういう付き合い方のできる方である。地平線会議がマラソンしているのも江本さんのこのようなお人柄に負うところ大であろう。

◆そのような不思議な縁で結ばれた江本さんたちの地平線会議(他人ごとのように書いたがかく言う私も家内ともども長年の地平線ファンであり通信の読者である)の企画で、三羽さんの講演があり、またモンゴルということで私も招かれ多少のコメントをすることができたのは望外の喜びであった。特に一昨年、通信の集大成である『大雲海』の出版作業に参加して、地平線の皆様の熱い気持ちはモンゴルなどという一国のものでなく、地球的展望に立っていることを痛いほど感じてきているので、逆にモンゴルという地球の一角から三羽さんが心に残る語りをされたのを応援できてよかったと考えている。特に今年はチンギス・ハ−ンが1206年帝位につき大モンゴル国(イフ・モンゴル・オルス)を建国して800年であり、モンゴルでは年間を通じてお祝いムードで時宜を得た企画といえよう。日本国内に関係者の総意で設立された実行委員会の事務方を仰せつかっている身として私としても大変嬉しい企画であった。そして何よりもご無沙汰を続けている皆さんにお目にかかれたことが嬉しかった。(11月13日 花田麿公)

[燃えあがる☆モンゴルの相撲熱!]

■モンゴルから来た最初の関取、旭鷲山が11月13日、引退を表明した。心臓がそんなに悪かったのか、と驚いた。92年2月、旭鷲山を含む6人の若者がモンゴルからやって来た直後、大島部屋を訪ねたことがある。旭鷲山の本名は、ダワーギィン・バットバヤル。今でこそ驚くほど流暢な日本語を話すが、当時は一言も話せなかった。

◆ロシア語と片言のモンゴル語ができたので、私は部屋での取材の後、頼まれて6人に付き添い、墨田区役所で住民登録のお手伝いをした。モンゴルではブフ(相撲)は日本以上に広く普及した国技だ。モンゴルの草原でさんざんブフを取材してきた自分が東京の区役所でモンゴルの力士を連れて住民登録するなんて、なんとも不思議な気がしたのを覚えている。

◆どうして草の国から力士が日本に来るようになったのか、きっかけは市場経済の導入だった。91年暮れ、旧社会党の国会議員を通してモンゴル相撲の協会幹部から打診があり、議員の知り合いである大島親方(元大関旭国)に話がいった。親方は人材が確保できれば、と乗り気になった。

◆モンゴルのテレビ、ラジオ、新聞が<日本に行って相撲をとれば、お金になる。日本相撲にはAからBまで6つの階級がありA、Bクラスに入れれば下のほうでも年6、7万ドル、最高位になると100万ドルは稼げる>という、少々乱暴だが、わかりやすい宣伝をし、170人ものモンゴルの青年たちが応募した。

◆トーナメント方式で試合をやり、結果的に6人を選んだ。190センチあった17才のツェベクニャム(旭天鵬)を含む6人がおそるおそる日本にやって来た。しかし、うち3名が耐え切れずにモンゴルに帰り、旭鷲山、旭天鵬はいわばパイオニアとして残った。あれから15年、いまではモンゴルから来た力士は朝青龍、白鵬以下40名になろうとしている。(江本嘉伸)

■モンゴルではUB市内はもちろんのこと、田舎でもパラボナアンテナを設置してNHKの相撲中継を見る。日本の相撲が大人気なのだ! 同時通訳をする日本通ジャーナリストのトゥムルバータル氏が「イヨリキリ〜!」とさけべば、電波にのって海を越えモンゴル国民に相撲がリアルタイムで届く。モンゴルには朝青龍のテーマ曲もあり(頼めば三羽さんが歌ってくれるかもしれません!)、タイトルは「朝の青い龍」。歌詞は、♪朝の青い龍〜、朝の青い龍〜、負けることのないヨコヅナ〜♪というもの(大西夏奈子)。


地平線ポストから

地平線ポストでは、みなさんからのお便りをお待ちしています。
旅先からのひとこと、日常でふと感じたこと、知人・友人たちの活躍ぶりの紹介など、何でも結構です。

地平線ポスト宛先

〒173-0023
東京都板橋区大山町33-6 三輪主彦方
〒160-0007
東京都新宿区荒木町3-23-303 江本嘉伸方
E-mail :
Fax: 03-3359-7907(江本)

[水平線の彼方へ]

 どうも、安東です。世界最大の熱気球製作、ちゃくちゃくと進行中!つい先日、埼玉のとある鉄工所二階にある秘密工場で、気球本体部分の製作作業がありました。先月の報告会でもボランティア募集したところ、いろんな人が手伝いに来てくれた。洞窟仲間に自転車仲間、映像監督から青森ネブタ仲間などなど。

◆意外と活躍してくれたのが武蔵野美術大学の関野吉晴ゼミの学生たち。当の関野さんは新グレートジャーニーで中国雲南省に行っていて、気球の作業のことなど何も知らないと思うけど。関野さんの授業が休講なので手伝いに来た、という学生も。授業ではブタの丸焼きを作ったり、なかなか学生に人気だそうですね。せっかくだから気球の作業分も単位に認定してあげてください。そういえば安東は毎年この時期は雲南省の大理に長期滞在しているのに、今年は気球の準備で行けないよ〜。

◆お手伝いは巨大アルミシートを寸法に合わせて大量に裁断して加工する単純作業。現場に泊り込みで、夜遅くまでビールを飲みながらの歓談は、どっか外国のバックパッカー宿みたいで楽しかったですよ。もうボランティア作業は終わったけれど、手伝ってくれた人ありがとう。

◆さてその熱気球、世界最大だけあって試験で膨らますだけで一大イベント。12月2日(土)に栃木県栃木市内の「永野川緑地公園」(グーグルマップで検索できるよ)で浮上実験を行います。JR栃木駅から遠くて歩くと一時間かな。朝5時から準備開始で、何時に浮上するかわからないけど、午前中には終わるかな。飛ばすと巨大ゆえに下ろす場所が関東にはないので、ロープをつけて9トンのオモリをつけて浮き上がらせるだけ。でも15階ビルと同じ大きさなので、見ごたえ十分だと思います。お時間のある方は見物に来てくださいな。風が強かったり雨が降ると翌3日(日)に延期です。天候が怪しかったら安東の携帯090-****-****に電話してみてください。

◆だけど気球が完成したくらいでは太平洋は横断できない。まだまだ解決すべき事柄は山積み。超低温下でも作動する撮影用など電子機器と電源、プロパンガスの気化促進法、呼吸用酸素供給装置、海洋漂流時のためにヨットにも乗り、冬富士頂上での高度順応もやっておきたい。気球による急降下もまだまだ練習しなきゃ。航空無線の勉強も終わってないぞ。これだけのプロジェクトだが資金提供スポンサーはないので、いろんなメーカーに備品供給お願いの広報もしたい。

◆最重要課題はジェット気流の予測だ。高度1万メートルを時速300キロで荒れ吹く魔物だ。気象はぼくの担当なので複数の気象情報を組み合わせていろいろな気象パターンのシミュレーションをしておきたい。間違っても低気圧の墓場と呼ばれる北方の海に落ちそうな風は避けたい。落ちるならハワイにしよう。漂流時食料調達用に釣具も買っておかなきゃ。ワイヤー製のテグスじゃないとシイラは釣れないぞ。ルアーはなにがいいだろう。太平洋の航路図もほしいな。そんなことよりもっと重要なことが…。課題はいくらでもある。間に合うだろうか?とりあえずのつじつま合わせの準備はまずい。これは神々の領域に挑むための本物のアドベンチャーであって、ディズニーランドのアトラクションとは違うのだから。また何かあったらみなさん手伝ってね。(11月12日 クラウドウォーカー安東浩正)

[3年がかりカナトとの自転車旅、めでたく行き止まりへ]

■11月5日、カナト(注:長男)と私の自転車二人旅は、3年前に荒川河川敷を出発してからようやく1000キロを超え、津軽半島の先端、竜飛岬に到達しました。とりあえずはこれで行き止まりです。

◆11月5日は夜明けとともに小泊の民宿を出発。めずらしく穏やかな日本海を眺めながら北上し、飯野(昭司)さんにも脅かされていた最後の難関、標高500メートルの峠を越えます。かつては砂利道だった峠道も、6年前に観光バスが入れる完全2車線の舗装路に改良され、思ったより楽に上がれます。でも最後は押し。つづら折りの道の頂上には素晴らしい展望が待っていました。

◆もう竜飛岬は手が届きそう。周囲の山々が色づいているのからすると想像がつかないのですが、休憩していた地元の人の話では「来週にはもう通行止めになるよ」とのこと。冬は目の前のようです。

◆道中、山道にめげたり、風邪をひいたり、藤原(和枝)さんをはじめ様々な方々に励まされながらのゆっくり旅でしたが、親子ともども「成長」を感じた3年間でした。列車に乗って海底トンネルを抜ければ、出たところは北海道。中学生になって忙しくなったのでしばらく間が空くと思いますが、この先は自分の力で頑張って行ってこい、とトーサンは願ってます。(11月13日 落合大祐)

[エミコさんの講演を聴いて]

■シール・エミコさんのモンベル・チャレンジ・アワード受賞記念講演会が10月14日、大阪、28日には東京で開かれた。ふたつの会場とも立ち見も出る盛況で、地平線仲間の顔も目立った。大阪講演の模様をレポートしてもらった。(E)

  パートナーのスティーブさんがスタッフと一緒に会場の準備を終え、エミコさんが登場した。講演を聴きに集まった人たちが視線を向ける。『特別な、きらきらする何か』をエミコさんに感じる気配が、ふわりと室内に満ちた気がした。

◆彼女が話をする前に、受賞者紹介者として、江本氏が前に。癌告知から、生存率20パーセントと言われた5年を経過したこと、畑で作物を育てながらの田舎暮らしのこと、そして、「本人からは言いにくいでしょうから」と、エミコさんが旅に出た心の内について話された。

◆スライドショーが始まる。オーストラリアでスティーブさんと出会い、バイクから自転車に乗りかえて足かけ17年の、闘病生活も含めた旅の軌跡が、心を込めて伝えられた。特定期間の報告を聴いたことはあっても、今回のようにまとまった話は初めてで、その内容たるや、やはり圧倒され、引き込まれるものであった。

◆「各大陸の端っこまで」を決め事に、オーストラリア〜東南アジア〜アメリカ〜アフリカ〜ヨーロッパ〜ロシア〜ユーラシアと、世界をジグザグに進んだ道のりを駆け足で振り返る。アマゾンジャングルの道なき道、水くみのため数キロを歩く女の子に出会ったアフリカのサバンナ、砂に車輪を取られて進めないサハラ砂漠、過酷な天山山脈越え、たくさんの笑顔…。どの写真も、撮影者の確かなまなざしを感じさせる。後の質問で、「写真集は出ないの?」と尋ねられていた通り、味わい深い写真を、足跡を辿りながら見てみたい、と思った。

◆喜びと一抹の寂しさが混じりあう『端っこ』のゴールに到着する度、ゴールするより、プロセスが旅の目的であったことを改めて感じるという。

◆数々のエピソードを話してもらう間、「気付いた」「気付かされた」という言葉がひんぱんに耳に飛び込んできた。それは、旅の日々を、自分と向き合いながら大切に過ごしてきた証であるように思えた。『気付く』には、自分がどう感じているのかを自覚し、そこから学ぼうとしなければたどり着けない。聴く方も、自分自身を振り返る機会となった。

◆そうした彼女の姿勢は病を抱えてからも変わることなく、むしろそのもうひとつの『旅』は、エミコさんをさらに押し上げた。…こう書いてしまうとあっけないが、無論想像を越えてすさまじい旅路だったはずである。

◆4年ぶりに命を『活かす』旅を再開し、パキスタン、インド、ネパールを2度に分けて巡った。現在入国数は79か国を数える。特にネパールでは、貧しいこどもたちとの出会いから新たな目標を見出し、帰国後スティーブさんとともに旅先貧困支援プロジェクト『笑み基金』を立ち上げた。この講演会でも旅のポストカードを販売した収益があてられたが、購入者には自家製無農薬野菜の嬉しいお土産までついていた。

◆質問に答えて、「必要以上の心配は、エネルギーに小さな穴をあけてしぼませてしまうようなものだから、しっかり準備をしたなら、あとはもう悩まないようにしている」とエミコさん流エネルギーの使い方を披露。なるほど、とヒントをもらえた気がした。

◆現在の住まい、彼女の愛する畑がある奈良の古民家の写真をもって、受賞記念講演会は終了した。スティーブさんの絶妙な(エミコさん曰く「さっぶーい」?)話術も飛び出し、大変な話も多かったはずなのに、気が付けば、ぬくもりを感じるひとときとなっていた(その後、食事、カラオケと、スペシャルな時間はまだまだ続く…)。

◆次の旅はネパールからチベット、中国へと続くハードなものになるらしい。最終ゴールの日本まで、目が離せないのである。『エミコ&スティーブの地球大冒険』(http://www.yaesu-net.co.jp/emiko/)でチェック!(11月10日大阪発 中島菊代)

[クマ汁を頂きながら]

 ブナの実の不作のせいで、あちこちにクマの出没する今日この頃。普段はクマの武運をひそかに祈っている私ですが、近所の猟師さんから罠にかかったクマ肉のおすそ分けにあずかり、かかっちまったやつは仕方ない、ありがたく賞味しました。

◆ちょうど動物とヒトの関係史を論じた"Hunters, Herders, andHamburgers"という米国の歴史学者の書いた本を読んでいるところです。狩猟時代から家畜時代を経て、現代の都市生活者はもはや直接に動物と対峙することなくハンバーガーの形でしか接触していないという意味がタイトルに込められています。キーワードはpost-domesticity(脱動物馴化)。

◆domesticityの時代には、動物の生死やセックス、屠殺があたりまえの風景として身近にあったのが、近代化とともにpost-dの時代になり、ヒトは動物の肉や乳製品などに大きく依存しているにもかかわらず、物理的にも心理的にも動物から遠くなり(でもペットとはかつてないほど友好関係にある、ペットの人間化!?)、動物を大量消費していることに罪や恥の念を抱くようになったとか。米国でポルノや暴力が60年代以降はびこりだしたのも、それまで当たり前なものとして見飽きていたものが見えなくなったからであり、ベジタリアンや動物愛護、環境保護運動の高まりも、罪悪感の裏返し。また何千年も前に大半が消え失せたPre-d(ヒトは他の種と同じ生き物として、必要最低限のものを食べ、動物を霊的存在と見なしていた段階)への回帰の願望も見られるとのこと。

◆もっとも、日本は様子がだいぶ違うようだとも言っています。仏教、儒教、神道があいまっているせいか、domesticなメンタリティーはしかとは形成されず、欧米ほど急進的な菜食主義は日本では見られません。本では吉田兼好や南総里見八犬伝、宮崎駿などが例示されていますが、確かに、子どもの本棚を見て改めて驚いたことに、金太郎や、舌切り雀、花さかじいさん、浦島太郎、とどれもヒトと動物の親和的な世界が当たり前に描かれています。洋ものは赤ずきんちゃんなど、動物とヒトが対立しているものか、動物どうしの世界を擬人化しているのが多いみたい。著者は今後、ヒトが動物の一種として他の動物とどう倫理的な関係を持つべきか、幅広い議論とそれに向けた努力が必要になるとしています。◆年を取ったら病院で薬漬けになって死ぬよりは、姥捨て山に行くのもいいかなあ。自殺したい人は寝室で首つりなんていうもったいない死に方はしないで、自然に返してあげてほしい(添加物を取りすぎてる人は食習慣を変えてからですね。マズくて動物に食べてもらえないばかりか、土にもなれやしない)。

◆そうそう、クマ汁は、よっぽど煮込まないと噛み切れないというので、圧力鍋で調理したらgoodでした。あとで聞いたら猟師は水から茹でて、茹で汁を捨て、再度同じことをしてから煮込むとのこと。なるほど、うちでは脂身までクマなくいただいたおかげで、冬眠できそうなほどオイリーではありました。ご参考までに。(11月10日 山形県鶴岡市・旧朝日村 難波裕子))

[南極観測船「しらせ」の出航]

 ■11月14日昼前、晴海通りを走っていた。12月、ハワイで「ダブル・フル」を走るため、少しでも鍛えておかなければならない。勝鬨橋の手前で間に合いそうもない、と判断、タクシーをつかまえ、晴海埠頭(ふとう)客船ターミナルまで急いでもらう。11時40分、なんとかすべりこんだ。桟橋には人の波。やがて吹奏楽の演奏が始まった。南極観測船「しらせ」が出航するのだ。

◆1981年に進水したこの砕氷船(11,600トン)は20余年にわたって南氷洋の氷と格闘してきた経年疲労から今回と来年12月からのもう一度の航海後、引退することが決まっている。桟橋には乗組員(海上自衛隊員)の家族、友人たちにまじって高校生とおぼしき一団が紺地に赤い十字型に星を配置した小旗を懸命に振る姿が目立った。旗には「秋田県にかほ市金浦 白瀬南極探検旗」と印刷されている。1912年、苦闘の末、南極の一角に日の丸を立てた白瀬中尉南極探検隊の隊旗として使われていたものを故郷の人々が大事にしているのだ。

◆当時、白瀬たちが南極に向かうのに使った船はわずか204トンの木造帆船「開南丸」だった。旧金浦町(昨年10月から「にかほ市」)の人々は日本人初の南極探検家の不屈の精神に敬意を表して白瀬が雪原に日章旗を立てた毎年1月28日、小中学生らが「雪中行進」をして偉業をしのぶという。

◆ところで「しらせ」を見送りに行ったのは、シール・エミコさんの縁である。8月のモンベル・チャレンジ・アワード授賞式ではモンベルの広報担当、永島祥子さん(31)が司会をした。先月のモンゴル報告会に顔を出してくれたので最後に紹介したが、その永島さんが今度の48次南極観測隊のメンバーとなっていたのだ。もともと京都大学大学院で地球物理を専攻した人で6年前には42次観測隊員として日本から「しらせ」に乗って南極に向かい越冬している。43次隊からは観測隊員たちはオーストラリアまで空路飛び、フリーマントルで「しらせ」に乗船することになったので最後の大航海を体験したわけだ。

◆今回永島さんの出発は11月28日。帰国は2008年3月の予定だ。できれば、南極からメールください、とお願いした。行ってらっしやい、永島さん!(江本嘉伸 ナゾの「ダブル・フル」については後日に)

[49年目に達成したシルクロード横断の夢、そして「300日3000湯計画」へ!]

 10月13日、バイクでの「シルクロード横断」から帰ってきました。8月16日に東京を出発し、神戸港からバイクともども中国船の「燕京号」に乗り込み天津に渡り、シルクロードの玄関口の西安へ。そこから一路、西へ西へと走り、天山山脈南麓のコルラからタクラマカン砂漠を縦断し、崑崙山脈北麓のニヤへ。シルクロードの西域南道でホータン、ヤルカンドと通り、中国西端の町カシュガルへ。フェルガナ山脈のトルガルト峠(3752m)を越えてキルギスに入り、カザフスタン→ウズベキスタン→トルクメニスタンと中央アジアの国々を通り、イランからトルコへ。東京から1万3171キロを走破し、10月10日にイスタンブールに到着。アジアとヨーロッパを分けるボスポラス海峡の海岸でバイクを止め、対岸のイスタンブールの町並みを目にしたときは、胸にググググッとこみ上げてくるものがありました。

◆約600キロの「タクラマカン砂漠縦断」では延々とつづく大砂丘群を見ながら走りました。その途中では大砂丘のてっぺんに立ち、際限なく広がる大砂丘地帯を一望したり、砂漠公路を外れてバイクで砂丘を走りまくったり。中国西端の町、カシュガルからはカラコルムハイウェーを南下し、標高3600mの地点にある神秘的は湖のカラクリ湖まで行きました。湖の北側にはコングール峰(7719m)、南側にはムズタークアタ峰(7546m)がそそりたち、抜けるような青空を背にした雪山の雪の白さはまぶしいほどでした。トルガルト峰を越えたキルギスではイシククル湖(クルは湖の意味)の湖畔でひと晩泊まりましたが、対岸の夕日を浴びた天山山脈の雪山群の眺めは強烈に目の底に残りました。夕日を浴びた標高5000m前後の雪山がズラズラズラッと連なっているのです。

◆今回の「シルクロード横断」では天山山脈をはじめ崑崙山脈、カラコルム山脈、パミール高原…と、中央アジアの大山脈を間近に眺めることができ、「カソリの世界地図」の空白部分を埋めることができたような思いです。とくに天山山脈の大きさには驚かされました。最初に出会ったのは新疆ウイグル自治区に入ってまもなくのことで、オアシスのハミ近郊でした。砂漠に落ちる前山の向こうにトムラッチ峰(4880m)を見たのです。山頂周辺の雪が陽炎のように揺れていました。中国とキルギス国境のトルガルト峰は天山山脈とパミール高原の接続部の峠。キルギスの首都ビシュケクで見た天山山脈の風景もすばらしいもの。カザフスタンからウズベキスタンへの道は砂漠に落ちていく天山山脈の西端を越えていきますが、あまりの寒さに我慢できず、峠のカフェでコーヒーを飲みながら暖をとったこともありました。

◆シルクロードはぼくにとっては特別な世界なのです。小学校4年生のときのことですが、国語の教科書でスウェーデンの探検家、スウェン・ヘディンの「タクラマカン砂漠横断記」を読んだのです。それにすっかり感動し、その後、小学校の図書館にあった子供向けの中央アジア探検記を全巻、読みあさりました。そして「大人になったら、中央アジアの探検家になるのだ!」と心ひそかに決めました。シルクロード全域の踏破というのはその時からの夢であり憧れでした。今回の「シルクロード横断」の途中でぼくは59歳の誕生日を迎えましたが、シルクロードへの憧れを抱いてから49年目にして、10歳の少年時代の夢を果たすことができました。イスタンブールに到着したとき、夢を見つづける、憧れを抱きつづける大事さをあらためて感じるのでした。

◆さ〜て、11月1日からは1年をかけてバイクで日本中を走りまくります。「300日3000湯計画」と名づけた全湯制覇の日本一周に旅立ちます。ぼくが日本の温泉巡りをはじめたのは1975年。温泉巡りをしながら、世界でも冠たる温泉大国の日本を見てみようとしたのです。現在までに1700余りの温泉(1温泉地を1湯と数えているので、実際に入った温泉は5000湯ほどになります)に入っていますが、日本という国は思ったよりもはるかに大きな国で、30年余りをかけても、全湯制覇にはほど遠い状態なのです。そこでこの機に一気に全湯制覇を目指そうとしたのが「300日3000湯計画」。さ〜、行くゾ!!ということで、しばらくは報告会にも参加できませんが、みなさんの応援のほど、よろしくお願いします。(10月25日ファクス 賀曽利隆)

[真夏のブラジルからこんにちは!]

 レシフェの後田です。地平線の皆様お元気ですか。昼間は倒れるほどの日差しで、学校までの片道1時間半でのぼせてます。道端のマンゴーの実もふくらんできたし、レシフェはもう夏ですよ。

◆先日、母から救済小包が届いたのですが、日本食や本、洋服(母は私がボロボロになるまで服を着るのを嘆いています)に混ざって、今年初めの地平線通信が入っていました。3通も!月はバラバラで、母の選択のポイントが不明ですが、ありがたく封を切りました。 ブラジルに住んで1年半。住み慣れてしまえば、ここは我が国といったところで、どこか遠くへ旅行に行きたくて、行きたくて。ブラジルもレシフェもかなり好きですが、約束や時間を守らないのは、ブラジルの文化なんですかね。そうなんでしょうね。頭では分かっているんですが、全身では受け入れられず。決して気が長い方じゃないので、あちこちの教室で「小爆発」を起こしています…。

◆生徒は期限を守らない、約束した日に来ない。前もって連絡してくれるか、あとで「ごめんね」を言ってくれるかしたら、私はちっとも怒らない自信があるのに。とてもストレスフルだったので、ブラジル人の生徒に、「どうして、こんなんなのよ?私は待つのに疲れました!」とぶつけてみたところ、「先生、恥ずかしい。ごめんなさい。でも、これはブラジルの文化です。」と言われました。

◆こんな場面に文化って言葉を使ってもいいのか?と思いつつ、私は一気に小言ババアに!!約束したことが出来ないときは、せめて連絡しなさい。そうしないと、人に信用してもらえなくなるよ。ブラジルではいいのかもしれないけど、少なくとも日本では、それはとても悪いことですよ。私にこんなことを言う資格があるのか分からないけど、「信頼」とか「信用」っていう言葉は、自分の中で結構大事だから、みんなに話しました。

◆うちのクラスの生徒は「拍手!」「集中!」「はい、よーし!」という言葉を教えてないけど、ふつうに使っています。あと「先生はプンプン怒っています」も知っています。漢字テストを返すと「とてもよし。」と静かに肯いたりしています。私は日本語教師だけど、もしかしたら教えてるのは日本語だけじゃないような気がしています。なんていうか、私という人間全部が問われている、と感じます。恐ろしいことです。

◆そんな微妙なストレスはあるものの、人は優しいし食べ物もおいしいし、のんびりと毎日を過ごしています。が、旅に出たい。その欲求はとどまるところを知りません。日本語学校の図書館で、旅本や冒険本を見つけては、乱読し、夏休みよ早く!と願っています。12月16日に修了式をして、こちらは夏休みに入ります。5年前に行った、パタゴニアの氷河の元へ、旅立つ予定です。「カラファテの実を食べたら、パタゴニアに戻る」と聞いたことがありますが、カラファテのジャムでも良かったんですね。もう飛行機のチケットを買ってしまいました。あとは、生徒たちが、日本語能力試験と学期末試験で、うまいことやってくれれば、気分良く旅立てるんだけど。(11月10日 レシフェ発 後田聡子)


地平線名物…

渾身レポート
  [明美の第2子出産奮戦記]

★速報★ さっき17:56に3930gのビッグな女の子を無事産みました。今回は病院来てから3時間の大安産だったけど大きくて頭出すのに苦労しました!(笑)名前は凜果(りんか)の予定です。夕飯も完食したので今日はゆっくり寝ます。(10月22日20時54分メール 青木明美 あかちゃんの写真とともに)

 私は自分が欲張りなヤツだと今回初めて気付いた。颯人を授かっただけでも奇跡かもしれないのに…平成16年6月15日に36時間の苦闘の末、長男颯人を産んだ翌日には「もう一人、産むぞ!」と、ひとり固い決意をしていた。颯人に兄弟をつくってあげたかったのだ。

◆颯人を母乳で育てていたので、8ヶ月以上生理が戻らなかった。10ヶ月で仕事に復帰、1歳になる平成17年6月に保育園に入れて、さあ!いざスタンバイ第2子。よく「出産後は妊娠しやすいから気をつけて」と言われるが、そんな事も無く1年過ぎた。颯人の出産報告で周知の事実だが、我が家の場合は「マタゲバデキル」というわけにはいかないのだ。そこから、また私の悪い癖の皮算用は始まっていた。3歳違いになると進学が重なってお金が大変。4歳違いになると私が40過ぎてしまう!出産のいろいろなリスクも年齢とともに高くなるし、何より自分の体力に自信が持てなかった。颯人を育てていて、やっぱり20代ママのようなフットワークは無い事をつくづく実感するのだ。なんとしても40の大台前に、2歳違いで産むぞー計画スタートである。

◆基礎体温とにらめっこして自分なりにタイミング法(排卵日に狙い撃ちする方法)を試みたが案の定うまくいかなかった(だいたい「さあ!さあ!今日こそ」なんて意気込んで交感神経を高ぶらせるとストレスになって妊娠しないのだ)。8月になって、病院探しを始めた。颯人の時にお世話になった横浜の不妊専門病院は、子連れでは診察してもらえないからだ。当然といえば当然だ。私も颯人を授かるまでは精神的に追い詰められていて、子供のいる人がうらやましくて仕方なかった。どうして私のところにだけ赤ちゃんが来てくれないの?と涙した。不妊治療に通っている人にとってみれば、二人目不妊なんて相当に贅沢な悩みであって「一人いるなら充分じゃない!」と思う。その気持ちを考えればとても子連れ通院なんて出来なかったし、病院の方からも子連れは困りますと言われた。仕事を休んでの通院(日中は保育園に行っているので)or駅前託児所のようなところに一時的に預けての通院などいろいろな方法を考えたけれど、予想できる通院の頻度からいってもそのつど仕事を休むのは不可能だったし、知らないところに突然預けられる颯人のストレスを考えると、やっぱり子連れで診てもらえるところを探すしかなかった。結局、高度不妊治療まで対応していて(前回うまく妊娠したからといって今回も妊娠できる保証はどこにもないので、最終段階まで対応可能な病院を選びたかった)、なおかつ仕事を終えて颯人を保育園にお迎えに行ってからで間に合い、そして子連れで診てもらえる病院は自宅から2時間以上はかかる東京にしか見つからなかった。職場が横須賀のはずれの車通勤しか出来ない場所だったので、時計の針が17時をさすのと同時に会社を飛び出て、横浜横須賀道路&第三京浜をかっ飛ばし、環八からはひたすら裏道を使って診療時間終了間際に滑り込むように通院していた。この時、自分では仕事と育児に追われてあくせくし、ぐずる颯人を叱り飛ばし、汗だくでゼェゼェヒィヒィいいながら排卵誘発の注射を打つなんて、妊娠モードには程遠いことをよくわかっていた。妊娠とはもっと心身ともにリラックスしていて、それこそ「コウノトリノゴキゲンヲウカガウ」ような状態(副交感神経を優位にする)でないと無理だ。妊娠とは非常にデリケートで、精子と卵子が出会って受精して、それが成長するというのは気の遠くなるような確率の神秘のドラマなのだ。でも現実の私は走り出したら止まらない。ノルアドレナリン全開!(だから妊娠しないんだって!笑)

◆この東京の病院もかなりその筋では有名な病院で、いつもものすごく混んでいたし、先生は横浜同様、早口&ベルトコンベアーのような診察だった。ただ質問には的確&端的に答えてはくれた。専門用語が多いのは横浜の先生と同じで「?」と思うことも、その場では理解しきれない事もあったけど、2回目という事もあって不安な気持ちにはならなかった。ただ面食らったのは子連れ診察だ。キッズルームがあって、待ち時間の間は子供が飽きないように、おもちゃや絵本で遊べたり、おむつ交換が出来たり、夫婦&子供で来ている人も多くて、不妊専門病院にありがちな張り詰めたようなとんがった空気も無く、二人目不妊にも暖かい雰囲気だったけど、いざ診察となるとキッズルームに子供だけ残すのは禁止されており、診察時に子供を預かってくれるわけでは無いので診察室に一緒に入る。ある程度の年齢の子は脱衣籠の横の丸イスに腰掛けたり、お母さんのそばに立っていたり出来るだろうが、1歳を過ぎたばかりの颯人には無理だ。「じっとしていられない年齢の子供は抱っこしてください」と言われた。「えっ?!颯人を抱っこしながら内診されるの?!」結局、颯人を腹の上に乗せて内診台に上がるという珍芸というか、かくし芸のような子連れ通院を年が明けるまで続けた。

◆颯人を6月に産んで、夏生まれの子は下着一枚で転がしておける気楽さを知っていたので、出来れば4月から8月に出産したいなと思い、なんとか7月から11月中に妊娠できないものかと都合よく目論んでいたけど、やっぱりそうは問屋が卸さなくて、12月が過ぎ、年が変わって1月(今年)。その日は朝からとんでもない大雪だった。何だか胸騒ぎがして落ち着かなかった。夫は「こんな日にわざわざ病院行かなくても、また次回(来月)でもいいんじゃない」と言った。夫が休みだったので颯人を見てくれ、私一人で病院に向かう事になった。電車で行くか車で行くか悩んだ末に車で家を出た。横浜横須賀道路に佐原インターから乗ると、風景は関越でスキーに行くような有様だった。ノーマルタイヤの私は亀のような速度でしか走れなかった。その間にもどんどん激しく降って来る。「事故ったらどうしよう」「途中で通行止めになって、一般道に降りたら予約の時間に間に合わない」冷や汗が出る。ノルアドレナリンがどっと分泌するイメージが脳を駆け巡る…「あー今日は交感神経優位はだめなんだってば!」なんとか第三京浜までたどり着いた。ここまでくれば東京方面は積雪の心配は無かった。こんな日は、みんな診察予約キャンセルで、ガラガラかなと思ったけど、いつもと変わらず混んでいた。みんな必死なんだ…

◆昨日、会社帰りに診察に来たとき、先生がエコーに写った卵子の成熟度を見ながら妙に自信ありげに「ばっちり!間違いないね(今にも排卵しそうという事)明日もう一度見せてね」と言われていた。先生はエコーを見ながら「やっぱり!大成功!(排卵済みという事)」と言った。こんな大雪の日に排卵かぁ(笑)…でも無事受精するかどうかはこの時はわからないし、たとえ受精したとしても着床するか、そして成長するか、これからも沢山のハードルがあるのだ。でもなんだか予感があった。サハラ砂漠で20年ぶりという、雷鳴とどろくものすごい嵐に遭った時「嵐を呼ぶ女」と言われた事を思い出していた。「大雪が赤ちゃん運んで来たかも♪」

◆3週間後、2年4ヶ月ぶりに再び、私は先生から「おめでとう!」と言ってもらえた。そして、また産院探しを始めた。三浦横須賀地区は出産を取り扱うところが本当に少ない。妊娠したとほぼ同時に病院を決めていないと、予約がいっぱいで産める所が無くなっちゃうのだ。颯人を産んだ病院はアクティブバース&母子同室&母乳育児等、難産だったけど満足行くお産が出来たから、またお世話になりたかった。でも、お産の時に夫が休みを取れるとは限らないから、母がない私は颯人を連れて子連れ入院できるところを探さなければならなかった。その結果、横須賀で子連れ入院できるのは助産院が1軒と個人病院が1軒だけだった。助産院は見学に行ったけれど、颯人の時の36時間がトラウマになっている夫が「今回2人目とはいえ、おまえが助産院でするっと産めるとはとても思えない。何かあった時にすぐ医療行為が出来るように、頼むから病院で産んでくれ」と言われてしまったので選ぶ余地も無く個人病院に決定し、10ヶ月の妊婦生活に突入した。颯人の時は、ずーっと不正出血が続き、切迫で2回も入院したり、最後まで不安な妊婦生活だった。「出産は女性の身体を浄化する」らしいが、本当に37年分の汚いものが出産で全部出たようで、今回はすこぶる順調だった。検診に行くといつも「問題ないね」と言われた。でも私は高齢妊婦なのだ。颯人の時は本当に妊娠継続自体が綱渡りのハイリスク妊婦だったから、子供になにかあった時のことを夢中で勉強した。高齢だとダウン症の確率も高い。颯人の時は「子どもを選ばないことを選ぶ/メディカ出版」を読んでいたから羊水検査は受けなかった。今回ももちろん受けなかった。ただ妊娠反応が出てすぐ「障害をもつ子を産むということ/中央法規出版」というのを読んであらためて「何があろうと、がんばって育てよう」と誓った。つわりは前回よりきつかったが、つわりが終わってからは子育てに追われて妊娠している事を忘れそうなくらいだった。あっという間に臨月だった。その臨月に夫が突然、羽田に転勤になった。宿直のある部署だった。「颯人のために、どうかパパのいる時に出てきてね」とひたすらおなかに向かってお願いしていた。

◆予定日を8日過ぎた10月22日の朝、おしるし出血があって、陣痛らしきものがやっと来た。夫が休みで家にいた。病院からは「経産婦なので15分おきになったら来て下さい」と言われていた。陣痛が来るたびにフーフーと痛みをのがしながらスーパーで私がいない間の買出しをして、病院のそばのショッピングセンターのアジアンレストランで夫と颯人と3人で昼食をとる頃には10分おきになっていた。ゆっくり食事をして、ショッピングセンターをうろついて15時に病院に入った。前回のことがあるので、どうせまだまだ生まれないと思い、夫と颯人をいったん家に返した。私は病室の床にひざまづき、ベッドの縁に枕やクッションを積んで、それにしがみつくような格好でひとりで陣痛をのがしていた。こんな体勢の方がベッドに寝ているより重力の関係で、赤ちゃんが早く下りてくるのだ。16時半に5分おきになった。でもまだ「死ぬー」ってかんじじゃないのでまだまだだなと思いながら、「とりあえず5分おきです」とナースコールをした。そこに姑が来てくれて「ああどうもどうも」なんて言ってると、助産師さんがやって来て「陣痛室に行きましょう」と言われた。陣痛室に入って30分もしない17時頃から陣痛が本格的になって来て、間もなくあっという間に子宮口10センチ全開大になって「どうするココで産んでもいいし、分娩室行ってもいいよ」と言われ、陣痛の合間に「行く行く分娩室行く!」と分娩室に移ったのが17時30分くらい。この頃になると陣痛中は「もうやだー!ひえー!なんでうまれないの!」と大騒ぎしだして、陣痛の合間には普通の会話「あれ?だんなさん立合いじゃなかったっけ?」「まだまだだと思ってさっき家に返しちゃったんです。間に合わなきゃ間に合わないでいいです。上の子もいるんで、そっちの世話が優先です」なんて冷静に答えちゃって、また陣痛が来ると「死ぬー!ぎゃー!」みたいな(笑)。結局、頭が大きくてなかなか出てこなくて、前回同様に会陰切開することに…そしてMAXいきんで「ううっ!うりゃーっ!出ろー!!」17時56分に3930gの超ビッグな女の子を無事に産みました。やれやれ…病院に着いてから3時間足らずの大安産でした。2人目は楽って本当ねってかんじ。予定日から8日遅れたからか、産んだ時には4キロあったらしい。ハカリに乗せる前に大量ウンチをして、かろうじて3キロ台に(笑)…横着して腹帯を全くしなかったからなのか、ラーメンだのハンバーガーだの食べたいものを食べまくっていたからか…(でも私自身の体重は8キロ弱しか増えなかったのになぁ)

◆私は11月29日で40歳になるが、私の母は40歳で私を産む時、高齢出産という事で帝王切開だった。母と同じ40で4キロの子を自然分娩出来るとは自分でもびっくりした。そして病院が混んでいるので4日で退院するように言われ、母子ともに元気でうちに帰った。

◆「女の一念 岩をも通す」というわけで、欲張って2児の母になった。夫はもう妊婦の私はこりごりだそうだ(笑)。私も子供は2人で充分だが、病院通いをせずに「コウノトリノゴキゲンヲウカガウ」モードで自然に三人目が出来たらそれはそれで、また「うりゃー!」と産もうかなとは思っている。

◆名前は凛と生きていくように凛果(りんか)です。ソート&リンカ 外国人にも発音しやすい音にしたつもり…地平線をめざしてほしいな♪(11月13日 青木明美)


■特集「天空の旅人 紅葉列島をゆく」■

エア・フォトグラファーの多胡光純(たご・てるよし)さんが北海道から東北まで紅葉を追った5週連続のNHKの番組が話題となったが、その総集編が放映される。

★11月27日(月)夜9:00−10:30 NHKBS-hiハイビジョン特集 「天空の旅人 紅葉列島をゆく」で、多胡さんによると「5か所の空撮に未公開空撮映像をプラス、さらに地上での出会い触れあいを編集した90分番組」とのこと。後日BS-2でも放映される。

■リヤカーマン、永瀬忠志さんの番組がテレビ東京系列で■

11月23日夜9:00〜「リヤカーマンのでっかい地球!大冒険」南米縦断で前回断念した「マナウス」から「ポルトベーリョ」までの約900キロの旅に挑んだ経緯が紹介されるらしい。詳しくはhttp://www.tv-tokyo.co.jp/rear-carman/で。


■地平線はみだし情報★服部文祥著「サバイバル登山家」(みすず書房)ついに4刷に!!


★★地平線会議からの報告とお礼★★

 先月の通信で通信制作費について窮状を訴えたら、皆さんから早速あたたかい振込み、あるいは書留の支援が相次ぎました。世話人一同、心からお礼を申し上げます。通信に書いたように、地平線会議は「会」ではありませんので、「会費」というものは存在しません。あくまで自由意思で今後もおつきあいくださいますよう。とにかく、ありがとうございました。

★先月以降、通信費を送ってくださった方々は、以下の通りです(手違いで漏れていた場合はすみません、ご一報ください。次号で追記します)。一応1年2000円ですが、4000円、6000円、1万円と数年分振り込んでくれた方もいます。 

 酒井富美 島田利嗣 大嶋亮太 永井マス子 鰐淵渉 岩淵清 鈴木博子 佐藤安紀子 村松直美 伊藤栄里子 南澤久実 尾形進 田部井淳子 虎谷健 北村操 関根晧博 高城満 土谷千恵子 中村易世 藤本亘 野元啓一 三上智津子 宮寺修一 山田研也・涼子 李容林 下島伸介 田中雄次郎

★こんなお手紙もいただきました。

■「江本さんそして通信制作、発送をして下さっている皆様、いつもいつも本当にありがとうございます。読みやすく工夫されたレイアウトもさすがですが、内容も素晴らしくワクワクして引き込まれます。特に江本さんのほのぼのとした(人間味が伝わることが多い)トップページは大好きです。(そうそう、麦丸ちゃん元気ですか?)毎回とっても楽しく、すみずみまで読ませていただいております。

◆通信費のことがずっと気になっており、何か月前から報告会に持参しようと用意はしておきながら、そのままに・・。昨日(27日)の報告会には出席できると封筒に入れ準備しておりましたが、仕事の会議が長引き、とうとう間に合いませんでした。このままで年を越してしまうなんていうことになったら大変なので郵送させていただくことにしました」。(10月28日 三上智津子 通信費として5000円、「発送作業の後、缶ビールとおつまみでも」と10000円を添えて書留で。三上さん、ありがとうございます。そのようにさせていただきます)


[あとがき]

原稿のレイアウト、印刷、宛名貼り、から封筒閉じまで、地平線通信の発送作業にはいろいろなレベルで高度な作業を必要とするが、なんといっても高等なテクニックを要するのが「折り作業」である。10ページ、12ページの紙をきれいに三つ折りにする仕事はしろうとには簡単にはできない。この道ひと筋20余年の三輪主彦がインスタント・コーヒーの壜をローラー代わりに、鮮やかな手さばきを見た人は驚嘆するに違いない(編集段階では「鬼」の仕事をする小生が発送作業となると手際が悪く、のろいことを多くの人が、仕方ない、人それぞれ向きがあるんだから、とあたたかく見守ってくれているが、大阪からたまに手伝いに来る岸本実千代という人は、怒りのあまりついに「江本しばき棒」まで考案した)。

◆しかし、しかし、しかし。この通信が届いて驚かれた人は多いと思う。なんと折りがないではないか。封筒にそのままスポン、と入れたままではないか。これはおととし12月に出した「その先の地平線 地平線会議300か月記念フォーラム」特集の通信(64ページと分厚かったので折れなかった)以来の歴史的出来事ではないか。

◆長い間、地平線通信は郵便局から出していた。それを今回思い切って宅配便に切り替えてみたのだ。発想し、具体的に折衝にあたってくれたのは“地平線受付専門官”を自認する藤原和枝さんである。彼女の話では1センチの厚さまでは80円で行きます、という。ほんとうなのか。とすると私が半年にして5キロになってころころした麦丸(家では「ワルサース種」と命名)のマンガを描いて通信にそっとしのばせても大丈夫ということか。これまで12ページになると90円を払わなければならなかったことを考えると、これはどえらい転換ではないか。

◆そんなわけで、びっくりしつつ通信をお届けします。藤原さん、ご苦労さまでした。(江本嘉伸)


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

きづなで登る八千米

  • 11月24日(金曜日) 18:30〜21:00
  • ¥500
  • 於:新宿区榎町地域センター(03-3202-8585)

「八千米に登るとヒトが変わるんだよ。夢がかなうと顔も変わる。それを見るのが、うれしくて面白くて」というのは、登山家の大蔵喜福(よしとみ)さん。14才から登山を始め、20代は岩登りのバリエーションルート・ハンターでした。技術的に難しくなるほど、喜びも大きいけれど、分かち合う相手がいない。そんな思いが後の公募登山につながるのかもしれません。

'02年から5回の公募登山を主宰。日本の高齢者(60才以上)八千米サミッターの3割は大蔵さんと共に登頂を果たしました。「コミュニケーションを密にとらないと登れない。だから家族のように親しくなる。その分、こっちも本気になる」と大蔵さん。今年はマナスル(8163m)に遠征し、3人を登頂させました。「'56年の日本隊マナスル登頂は、日本で登山が文化として認められたシンボル。日本・ネパール国交樹立の先がけでも。いろんな意味でマナスルは面白い」と大蔵さん。

環境教育にも登山は最適という大蔵さんに今月はお話し頂きます。ホットなマナスル報告を皮切りに、公募登山の醍醐味、山の面白さを語って頂きます!


通信費(2000円)払い込みは郵便振替または報告会の受付でどうぞ
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議(手数料が70円 かかります)

to Home
to Tsushin index
Jump to Home
Top of this Section