2007年9月の地平線通信

■9月の地平線通信・334号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

の通信を発送する当日の12日午前3時過ぎ、この文章を書いている。時に激しい雨音がするが飲み屋街(私の住む四谷荒木町はかっての花街で路地には酒場や割烹がひしめく)もこの時間ではさすがに静まり返っている。ところで、午前3時過ぎと書いて、ある文章を思い出した。

◆「今3時半(夜中の)ストーブをつけてペンを取り上げてこれを書いて居る。とても具合がよくて楽しい。でもつまむものがあったらもっと楽しいだろう」深夜ひとりでものを書く楽しさを伝える文章だ。「今4時夜なかにをきているのも楽しいものだ。何時になるかしようがないからをきている。役所に居る時前が「オトウフ」ヤの女の子で家中朝2時半にをきて「オトーフ」を作るのをきいてたいへんなしょうばいだなと思った。冬には寒くてたいへんなしょうばいだなあと思った」

◆私事で恐縮だが「わたしの一代記」と表紙に書かれたこの小さな冊子は母がノートに綴った文章を卒寿を祝って家族がまとめたものだ。平成11年1月とあるから8年以上前のことになる。93才になる前の日に旅立ってからやがて7回忌を迎える。小学校しか出ていないが、母は勉強熱心でビール好きであった。下町生まれで何かというと「江戸っ子」であることを自慢し、家族に配られた冊子には本人自筆の「さいごの江戸っ子」という文字が躍っている。

◆関東大震災で父と家を亡くした母の実家は、その後東京・品川の大井町駅近くに移った。子ども時代祖母のいるその家に行くたび、省線(国鉄のことを当時はこう呼んだ)を見下ろす高台から行きかう電車を飽きずに見守り続けたことを思い出す。ラジオが大事な時代で放送が始まると町の人通りが絶えたといわれるあのメロドラマ「君の名は」や「おらあ三太だ」で始まる当時の子ども向け人気番組「三太物語」などでは“ダッタン、ダッタン”という独特の省線の「効果音」がいつも耳に残った。列車の効果音は高台から見下ろす省線とともに最初の「旅へのあこがれ」の記憶なのである。

◆以上のことを書き出したのは、上野−浅草間に日本最初の地下鉄が走りリンドバーグが大西洋横断飛行をやった1927年、福島県郡山に生まれた金井重さんの最初の旅へのあこがれが「汽車見」だった、と聞いたからである。「小さい弟を連れて停車場に行くのよ。屋根に雪を載せた東北本線の列車が着くでしょ、そこから降りてくる人、乗ってゆく人を見ながら旅愁を感じてたわけね」サーカスの旅芸人たちもあこがれのマトだった。子ども時代、暗くなっても帰らないと「サーカスに売っちゃうよ」とよく言われた。そういう時、「売られてもいい、と思った」というのだ。町から町へ旅する人たちにあこがれていたから。

◆地平線報告会で重さんにはじめて話をしてもらったのは1988年1月だった。タイトルは「熟年パワーで駆け巡った50か国」。「旅には三つの秘訣があるの。時間・貧乏・好奇心。貧乏は大事なことよ、ホテルに入っちゃおしまいね」(地平線会議編『地平線の旅人たち』から)と豪快に話す重節(しげぶし)は、以来地平線仲間にとって欠くことのできない副読本となり、何度も報告会に登場してもらった。「サイタサイタ サクラ ガ サイタ」「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」の国語教科書で育った小学校時代、重さんのクラスで「一番遠くまで行った人」は宇都宮までだった。その少女が53才になってはじめた世界旅は、いつの間にか訪問国120か国余を数え、その中から新たな旅の流儀が創り出され、いまなお変貌を続けている。

◆母の話に戻って重さんより19才年長である母の時代、旅行は勿論国内に限られた。日本の敗戦後は4人の子どもを飢えから守るための戦いの日々が続いたからそれも随分後になってのことだ。ある日「旅の思い出」という別のノートが出てきた。「新幹線も省線みたいでいつでもやたらに乗れる。そしていつでも楽しい乗物である」(1977年8月22日)などと書いてある。私自身はほとんど一緒に行けない親不孝者であったが、母に多少は旅を楽しんだ時期があったのだ、ということを知って救われた気分になった。

◆どの国に生まれ落ちるか、で人生は大きく左右されるが、どの時代を生きたかも、同じように重要な要素だ。「幼稚園に入った年に満州事変、小学校で日支事変、女学校で大東亜戦争」(前掲書)というとてつもない時代を生き抜いてきた重さんの旅の報告は、“年金おばさんの地球見聞録”という捉え方では到底おさまらない深い内容に溢れている、と思う。「敬老」ではなく「敬重」の心で20日の重節に期待したい。頂いた著書『地球、たいしたもんだね』(1996年、成星出版)の署名に添えられた一句。「しげしげと 地球の細道 やぶ椿」(江本嘉伸)


[先月の報告会から

草原のアンテナ

江本嘉伸

2007年8月30日(木) 榎町地域センター

◆いつの間にかモンゴルの民族音楽がスピーカーから流れていました。馬頭琴のゆったりした音色に、会場の空気からほにゃほにゃと気持ちよく力が抜けていくよう。今夜の報告者の江本さんが、ふくれたザックから取り出した「ヒャーグ」と呼ばれる半乾きの草をみんなで順番に触ると、あちこちでよもぎに似た青い香りが広がっての〜んびり。「ユーラシア大陸は草の帯」と江本さん。遊牧民たちはこの上を行き来して暮らしてきた。そして電気が消えスライドが始まりました。

◆江本さんがモンゴルに関わるようになったきっかけは、母校外語大山岳部のモンゴル遠征。この時は新米記者の多忙さゆえに参加できず、その後も社会主義国モンゴルの壁は日本のジャーナリストにぶ厚く、モンゴル訪問の夢が叶ったのは1987年になってからだった。以来20年、計27回、滞在時間でいえば延べ4年間モンゴルへ通い続けている。

◆スライドの出だしは2007年の首都ウランバートル(以下:UB)の風景。自分で撮影したものなのにどこか他人事のようにがく然とした様子の江本さん。90年に民主化されて以後も何度も訪ね、市場経済への移行期の混乱を見続けてきたが、5年ぶりに訪ねた今回の変貌ぶりはまさに驚きの連続のようだった。路上にひしめく車、やかましいクラクションの嵐、あちこちに外見の美しいビルが建ち、観光の目玉になりそうな金ぴかの巨大な高さ23mの大仏も街に誕生。市内にあるザイサントルゴイ丘からは、富裕層の新しい住宅が真下の川沿いに並ぶのが見え、その向こう側のUBの街をはさんだ奥の郊外には貧困層が住むゲルや木の小屋が面積を拡大し続けている。

◆「市場経済は人にいろんなことを考えさせる。今までになかったことをやる機会にもなる」。丘の中腹に布で目隠しした精悍なワシがいたので写真を撮ったら、脇に座っていた青年がやって来てこちらを睨みつけ「1500トゥグリク(以下:tg。1円=約10tg)」と代金を請求した。江本さんはUBに滞在する時、セルベ川という川のほとりをランニングコースとしているが、ゲル地域の人々が水深の浅い箇所を石伝いに渡って市内の仕事場に向かう“通勤路”でもあるこの川で、今回新しい風景に出会った。「荷車をひいてせっせと行ったりきたりしている馬がいるんです」。荷車の上には数人が座っていた。馬をひく馬主の男性に聞くと、彼が始めた“渡し船タクシー”という新しいビジネス。運賃は片道100tg、一日の利用者数は2〜3千人、つまり日給にすると20〜30万tg!こうして市場経済の波に乗って器用に前に進んでいる人がいる。

◆一方で環境汚染も進んでいる。かっては広々とした草原だったセルベ川の両岸を奥に進むと、無残なゴミの山が現れたのに大ショックを受けた。「富裕な人たちが住むマンションからここまでトラックで運んで捨てている、と知人は話していました」。一攫千金を狙って田舎へ行く人もいる。“ニンジャ”といえば、近年モンゴルで出没し始めた、不法に他人の金鉱に忍び入り採掘する鉱夫たちのことを指すそう。遊牧民らしからぬこそこそっとした感じが、現れてはドロンと消えてしまう秘密めいた忍者みたいだからだろうか? 彼ら“ニンジャ”が、掘った金を洗う際に大量の水銀を使い、それが健康を害する結果になっていることも問題になっている。

◆富裕層の陰で貧しい人々は急増している。江本さんはそれが気になっていつもUB郊外のゲル・バラック集落を訪れるそうだ。今回訪ねたあるゲルでは、妻をなくし、自身も脳梗塞でハンドルを握れなくなった運転手一家と出会った。4人の幼い子どもたちを抱え1か月わずか37,000tgの家族手当に頼る生活に途方にくれていた。肉など食べられない。こういう家族が都市にも草原にも沢山いるという。

◆チンギス・ハーンの「過剰なほどの復権」も大いに気になったことだそうだ。中心部のスフバートル広場にあるモンゴル政庁の正面玄関には堂々たるチンギス・ハーン像が建てられ、市内を見下ろす山肌には、白線で巨大なチンギス・ハーンが描かれている。1966年に出版された『モンゴル人民共和国史』には、チンギス・ハーンは「アジア、ヨーロッパの人民に計り知れないほどの死と災難と破壊をもたらした」と記述され、国民は彼の名前を口にすることさえできなかった。民主化とともに一気に復権したチンギス・ハーン。「それ自体はいいことだが、何でもかんでもチンギスという風潮には疑問がある。その名さえ語れなかった時代がつい先日まであったということを知っていてほしい」と江本さんは言う。

◆UBを離れ、草原に行けば電気のない生活が、というのはもう昔の話で、天を仰ぐ真っ白い大きなパラボラアンテナとソーラー電池を立派に備えるゲルもある。ある遊牧民のゲルを訪問した江本さんはビックリ! 扉を開けると、遊牧民のおばさんが携帯電話でぺちゃくちゃおしゃべり。メールを打つ手さばきもぽちぽちなめらか!オーストラリアに留学中の娘さんとは、街にあるテレビ電話で毎週話しているらしい。「これほど情報伝達の必要な国で、見事に普及していた」という通信ネットワーク。

◆ところでゲルを中国式に「包(パオ)」とよぶことがあるが、おかしい、と江本さんは指摘する。「ゲル」はhouseだけではなくhomeやfamilyの意味も含まれている大事な、広い言葉。安易に「草原のパオツアー」などとうたう宣伝文句には強い違和感があると話す。また、あの壮大な競馬の風景を見せながら、子どもたちの力についても語った。大きな大会では1,000頭以上の馬が走るレース、騎手は子どもだ。「馬に乗って30kmの距離を駆けるのは並みの体力ではもたない」と江本さん。「幼い頃から馬に慣れ、水汲みや家畜の世話でモンゴルの子どもたちは足腰を日常的に強く鍛えている。日本で大活躍する力士たちのパワーの源はここにある」。1992年に、旭鷲山含む6人のモンゴル人が初めて日本の角界に弟子入りした時のことを回想しながら「ほら、モンゴル勢だらけ」と、東西の横綱はじめ上位をモンゴル力士が占めた最新の番付表を見せた。

◆話は佳境に入り、ジャーナリストとしてモンゴルで遭遇した、忘れることができない歴史的現場について江本さんは語り始めた。民主化の動きが活発になっていた1990年2月21日深夜のこと。零下30度の厳しい寒さの中で高さ6mのスターリン像が取り壊され、ひき倒した顔の上をモンゴル人の足が踏みつぶす光景。厳冬期の街角で4時間続いた破壊作業をコマごとに見ていると、まるで少し前のイラクのニュースを見ているみたいだ。今ではこのことを知らないモンゴルの若い人も珍しくないという。

◆もうひとつは草原に飛行機の機体がころがっている写真だ。世界中を揺るがした1971年の林彪事件現場に、16年が経ってから報道者として初めて足を踏み入れた時の貴重な記録だ。毛沢東の公認の後継者に指名された林彪はやがて反逆者として粛清の対象になると中国から飛行機で脱出を図り、夜のモンゴルのヘンテイ県の草原に墜落した。ニュースは世紀の大事件として世界中を駆け巡り、不時着説や暗殺説や撃墜説が飛びかったがその真相は現在も謎のまま。当時読売新聞の記者として取材に成功した江本さん、草原にどっかり残った機体残骸の写真は、スクープとして一面を大きく飾った。ぼろぼろになった破片のそばに江本さんが立つ写真からは、とんでもない場に出くわした……と言わんばかりの、強烈な興奮と緊張感が伝わってくる。

◆ここで報告会は休憩時間に入るのですが、ほとんど誰も外に出ない。だって江本さんのザックから、次々とあれこれ出てくるのです……。ホーミーの音楽が流れて独特な雰囲気に包まれる中、「皆さんどうぞ!」と“モンゴル・ローカルフード試食会”が始まった。遊牧民から分けてもらったアーロールという硬い甘酸っぱいチーズ、シミンアルヒというお酒(15度くらい)、ローストした羊肉(密輸……)まで! 羊はナイフでかたまりから削り取って食べる。ぎっちり身がしまっていて、独特の臭みはほとんどなくとても美味しい。モンゴルの草原地帯では乳製品と肉類が主な食べ物で、それぞれ“白い食べ物”“赤い食べ物”と呼ばれ、これらをテーブルにいっぱい並べて来客をおもてなしする。江本さん、できることならモンゴルをまるごとかついで来て、今夜届けたかったんだろうなあ!

◆江本さんの親友的存在、元在モンゴル日本大使の花田麿公さんがここで登場。「遊牧文化は今後続いていくのでしょうか?」という江本さんの問いに花田さんは「遊牧がなくなると困ることが3つあります。まず、モンゴルの言語は遊牧文化と密接につながっているので切り離せない。それから、牧畜のフンがなくなると草が育たなくなり一気に砂漠化してしまう。そして、隣の大国ロシアと中国から国土を守れない状態に陥ってしまう」。今後、主に観光と地下資源で遊牧を支えながらモンゴルは生きていくことになるだろう、と花田さん。朝青龍については、「日本とモンゴルの文化の違いが表れていると思う。モンゴル人は相手を追い込んだりしないので、追い込まれるとどうしていいかわからない。許容の範囲も広い」と、自身の体験から語った。

◆さて、わたしたちのモンゴルへの旅も残念ながら終わりが近づきます。最後に、「地平線会議について」江本さんが思っていること。「“自分はわかっていない”とどこかへ行くたびに思います。それでも行けば新しい何かがある。みなさんも、もしそれを感じることがあったら、たったひとつでもいいから我々に伝えてほしいです。それが、この地平線報告会を339回も続けてきたひとつの理由」。

◆最後に、レトロ・カラーのスライドが一点。すっくり立ち、きれいな瞳でカメラを見ている十数頭の鹿たちだ。彼らは以前はUB近くの山に住んでいて、秋冬の時期に江本さんがそこへ行くと必ずひょっこり出てきたが、ある時期からぱたりといなくなってしまった。今その山肌にはチンギス・ハーンの絵が大胆に描かれているが、あの鹿たちは一体どこへ消えたのか? 絶えたのか、奥へ隠れているのか。「おそらく永遠に戻って来ないでしょう」と江本さん。時は流れている、現実はどんどん変わる。「伝える」ことに66年間の人生を賭け走り続けている江本さんから、私たち全員に見えないボールを投げられたようだった。終了間際には、外語大モンゴル語科卒業生・三枝彩子さんによる飛び入りのオルティンドー(モンゴル長唄)のサプライズも。小さな赤ちゃんを抱っこしながら素晴らしい歌声が響きわたりました。目に見えるものも見えないものもたくさんのおみやげが手元に残り、さあがんばるぞ!と明日が楽しみになりました!(江本さんの大学の40年後輩 大西夏奈子)


[まさにジェオ・ポリティックスの講義━━報告会に参加して]

 モンゴル語科一年のとき、江本さんのこの晩のような事情講義を聞きたかった。まさにジェオ・ポリティックスの講義そのものであった。新旧の写真を駆使しての話であった。この講義(そう講義といいたい)で江本さんは親切であった。新旧の旧の部分の写真、配布された相撲の記事、本当は相当面倒であったと思う。シミン・アルヒ(ミルク酒、モンゴル人のようにお燗して呑みたくなった)、マハ(肉)、ホルホイ・アールツ(乾燥酪製品スナック)等の土産に至っては正直ここまでやるかと。地平線のみんなとそれと共に生きている江本さんご自身への愛情なのであろう……などと空想しながら心楽しく講義を聴いた。

◆今夏二度にわたるモンゴル訪問で、二度目はノスタルジック登山であったようであるが、市場経済移行後の現代モンゴルの実態、問題点、でも愛するモンゴルをしっかり捉えておられたのはさすがと感心させられた。ウランバートル市の発展とはうらはらに牧農村は旧態依然としており、都会と牧農村の格差がますます拡大していく様子が限られたスナップから読み取れた。また、待ったなしの砂漠化など環境悪化も。

◆江本さんは写真の画面の中でもかなり親切で、例えば、実際にゲルの組立をアレンジしておられた。親切ということは若いのであろう。自分ならできたかと考えるとはなはだ億劫だ。さりげなくヘンティ県に墜落した毛沢東の公認後継者林彪機の現場写真を挿入されたが、前世紀の重大事件の歴史的な現場写真であった。この写真にまた接しただけでも新宿に足を運んだかいがあった。

◆江本さんから朝青龍問題でコメントをということで貴重な時間を頂いてしまったが、紙面を借りて一点だけ補足したい。朝青龍が反省すべき点が多々あることは論を待たない。日本側の問題であるが、外国人が大勢入っている伝統文化分野は日本にたくさんある。日本文化は国際化してしまったのだからもっとスマートにできないものか。例えば、お茶、お花、囲碁等々かなりスマートである。ソドノム首相訪日の際、裏千家を訪問したが、小雨煙る門外に唐傘和服でたたずむ公式出迎え人の粋な姿にしびれた。40年以上修行している外国人であった。

◆4人に1人が外国人力士である今日相撲協会はもっとスマートに国際化に向けて脱皮して欲しいと思う。日本文化にとって行儀、礼儀が基本であれば、例えば入門者を集めて、垢抜けた教室での講義を通じて言葉で理解してもらうなどいかがだろう。少なくとも親方の背中を眺めても外国人には体得出来ないものであろう。それにしても、会で隣に座わられた赤ちゃんづれの三枝さんの見事なオルティン・ドーに圧倒された。(花田麿公)

[貴重なお話、私にぴったりのタイミングでした]

 こんにちは。オルティンドーの三枝彩子です。先日は、「地平線報告会」で貴重なお話をありがとうございました。あの場で歌わせていただけてうれしかったです。

◆モンゴル語科に入学してから数えればもう13年にもなるというのに、未だに私にとってモンゴルは全体像のつかみにくい、どうとらえてよいのかわからないものなのです。わからないままにとにかく、少なくともモンゴルの歌とだけはなんとか継続して自分なりに向き合ってきました。ここ最近やっと、今まで避けてきた私にとっての「難しい話」(歴史とか社会とか)にも目を向けねばなあと感じていたところで山本千夏さんとお会いする機会があり、車谷建太さんをご紹介いただき、今回地平線報告会にもお邪魔した次第です。

◆江本さんのお話を拝聴できたのは、私にとってはぴったりのタイミングだったような気がしています。たぶん大学在学中に耳にしてもぴんとこなかっただろうと思うのです。報告会にいらしていた方々も、魅力的な方ばかりとお見受けしました。 ちなみに江本さんのスタンスが私にとって魅力的なわけについて、自分のブログで下記のような記述をしました。

◆《生身で実際にモンゴルと関わりながら、地に足をつけ、視野広く、深い考察をされている方のお話はわかりやすいし納得するし考えさせられる。ただやみくもに好きなんじゃない。 素敵なところに感動し、様々な問題に心を痛め、この先どうしたらいいんだろうね、と悩み、そこで我が身も振り返る》これからもどうぞよろしく。(三枝彩子)

[報告者のひとこと]

わずか20年のことだが、社会主義時代の遊牧草原、民主化のプロセス、市場経済導入の混乱などさまざまな現場に立ち会ってきた者として話したいことは山ほどある。モンゴルで見聞きし、感じたことを2時間あまりの間にどう伝えられるか、難しい課題だった。ともかくも過去にスライドやプリントで撮ってある画像と最新のデジカメ画像を組み合わせ、できるだけ「多くの現場」を見てもらいたい、と考えた。

◆帰国してわずか4日目の報告会。デジカメで撮った写真と昔のスキャンした写真をどう構成するかが課題だったが、丸山純、落合大祐両君の力で間に合わせられた。地平線の底力を自分の報告会でも見せつけられた。

◆はじめてモンゴルに行った時、花田麿公さんに出会った。以来、モンゴル問題の「兄」として、いろいろ教えてもらってきた。その花田さんに参加してもらって、報告会は深みを増した。「モンゴル人気質」「きのうまで、そして明日のモンゴル」を語るに、花田さんほど適役はいないから。三枝彩子さんの朗々たるフィナーレとともになんと贅沢な報告会だったことか。ありがとうございました。(江本嘉伸)


地平線ポストから

[「自分がどこにいるかわからないことの、何という不安」 ━━ユーコン夫婦漂流顛末]

 草原帰りの江本さん。そろそろご帰国でしょうかね。私たちは昨日帰宅しました。やれやれ無事に帰ってこられて、お家はいいなぁ〜とつくづく思っているところです。漂流日数42日間にわたる旅を終え、フェアバンクス〜シアトル〜バンクーバー〜成田〜羽田〜関空〜自宅という途方もない長い時間をかけて帰宅した次第です。うち、バンクーバー(予定通り)と関空(予定外)では空港のソファでお泊まりしています。

◆最終地はビーバーという村でした。ユーコン川の中流。サークル(前回お便りした町)の辺りから川はいくつものチャネルを持ち始め、島がうじゃうじゃと点在し、川全体の面積も広がり、ユーコンフラットと呼ばれる真っ平らな地形への流れとなりました。2万5千分の1の地図上において、それまで毎日確実にピンポイントで自分たちの居場所を把握できていた私ですが、サークルを出発して数時間後、ついに現在地不明になってしまいました。

◆自分がいまどんな環境に取り巻かれているのかが分からないことの、なんと不安なことか! どんなに分かりにくい場所でも山や崖や島やクリークなどの組み合わせから現在地を割り出せていたのに、なんの手がかりもないんです。前後左右に見渡す限り、岸だか島だか分からない陸が見え、クリークだか支流だか島と島の切れ目なのか分からない小さな流れがあり、本流だか支流だか分からない大きな流れもあり、地図上の至る部分に当てはまるような気がするのです。見るただでゾっとするような地図です。地図オタクの私が言うんだからこれ、ホント。3-4日ぐらいまさに漂流していましたかね。

◆でも漂流中にフィッシュキャンプを見つけ、そこの一族と仲良くなりました(帰国前にはフェアバンクスの彼らの家にしばらく居候していた)。オトナから子どもまで、みんながたくさんの事を教えてくれました。アサバスカンインディアンとしての生き方、誇り、それに加えて町での暮らし、社会生活。彼らはとても複雑でした。インディアンであり、アメリカ人である。時代に翻弄された親世代と、生まれた時から文明社会にいる子世代。それは日本における戦前と戦後の時代の差よりも革命的なはずです。それが良いとか悪いとかではなく、血は受け継がれ続けるのです。

◆アラスカのインディアンはアサバスカンだけではないけれど、彼ら先住民への時代の流れが止まることはなくて、親も子もそれぞれに生きているのが見て取れました。それぞれの価値観と考え方で。これはエスキモーにおいてもきっと同じなんだと思います。そんな彼らの所に3日間留まって、フェアバンクスでの再会を約束して、再び流れ出しました。しっかり地図上でそのキャンプの場所を教えてもらったにも関わらず、相変わらずの複雑さに数時間後には再び居場所を確定できなくなってしまいました。

◆それでも本流を流れている限りは大丈夫なので、そうしているつもりだったのに、いつの間にか支流に入り込んでいて、気が付いたときにはもう引き返すこともできず、蛇行を繰り返す細い流れを進み続けるしかない状態に陥っておりました。支流だけあって川幅も圧倒的に細く、すなわち両岸が近いということはそこに棲む動物に近いということでもあり、クマの気配が色濃く漂うその流れを一刻も早く脱出したいのに、なんともなんとも長い心細い時間を費やさざるを得ませんでした。しかもそんなことが2-3度あったもんですから、私、もう、色んな事を覚悟しましたよ。

◆しかし!地図オタクが責任を感じて、おしりに火を付けて、脳ミソに指令を出し、悪あがきをして、なんとついに居場所を特定することができたのです。さすが地図! 地図はウソつかないね。自分たちのいる流れはやっぱり地図の通りなんです。試しにそのまま進んでみても、やっぱり地図の言う通りなんです。地図からこの先の景色を読み、その景色が読んだ通りであることは私にとっては得も言われぬ喜びです。そんな訳でして、居場所も確定し、次の町までの距離も分かり、それによって食料の分配もでき、気分は再びドリフターです。あとはビーバー村へ行き着くだけとなりました。そうして1355km+α(迷子分)、42日間に渡る旅を無事に終えることができたのです。

◆今後の課題は、(多胡光純と)二人一緒にそれぞれの旅ができるようになることです。一緒に行くからといって、同じ旅の展開である必要はなく、一緒にいても、それぞれが展開していけばいい。別々の旅の話のようで、実は一緒に旅していたんだよって感じの。目下、理想論を展開中です。そんなことができれば世の中みんな幸せよね……。

◆2か月もアトリエを放置したら、暑いけどやる気にもなります。なんだかアトリエ全体に、ほったらかしにされた事にスネている雰囲気が漂っています。かわいがってあげないといけません。冬までに、アトリエ内をまた改造したくなったりもしています。これにて旅の話はおしまいです。(8月24日 多胡歩未)


■先月の発送請負人 森井祐介、関根晧博、三輪主彦、野地耕治、櫻井恭比古、車谷建太、海宝道義、藤原和枝、後田聡子、三上智津子、岸本実千代、満州(ペンネーム)、落合大祐、松澤亮、丸山純、山辺剣、大西夏奈子(海宝亭のほにゃらかうどん登場!)


[素晴らしかったソウル!]
━━「プージェー」グランプリ受賞報告━━

 8月の最終週は、私にとって偶然に偶然が重なる不思議な出来事の連続でした。30年ぶりに訪れたソウルの街はとっても緑が増えていました。30年前、戒厳令が敷かれていたソウルは、赤茶けた山に囲まれた埃っぽい街でした。後で聞いた話ですが、韓国は、朝鮮戦争で失った緑を増やすために、年に一度植林の日を設けて木々を増やしてきたそうです。その成果は、30年ぶりだからこそよくわかるのかもしれません。

◆8月27日、地平線会議でもお知らせしていただいているドキュメンタリー映画「puujee」が、韓国のテレビ局EBSが主催するインターナショナルドキュメンタリーフェスティバル(EIDF)に正式に招待されたので、夫で監督である山田和也とソウルに出かけました。1つ目の偶然。山田は新グレートジャーニーの取材のために欠席の予定でしたが、偶然取材地がソウルになったのです。

◆EBSは韓国国営テレビ局KBSから独立した教育系のテレビ局で、4年前から開催しているEIDFは国内ではとても有名な映画祭だそうです。今年は、74ヶ国から合計292本の作品がエントリーされ、8月27日から9月2日までの1週間、24作品が会場上映され、58作品がテレビ放送され、各国から集まった映画・放送関係者による審査が行われ、同時にインターネットでも視聴者による人気投票が行われます。

◆8月28日板門店。新グレートジャーニーの韓国自転車縦断が始まりました。この日は板門店から関野吉晴さんが自転車で走り始めるので同行させてもらいました。イムジン河沿いに走る車窓から北朝鮮の山並みが見えました。30年前に見たソウル周辺の山と同じように、樹木がほとんどなく赤い斜面が痛々しいほどでした。洪水の被害も当然のように思われました。この日の夜、「puujee」がテレビ放送され、翌8月29日にてホール上映。観客は若者が多く、上映中の反応がはっきりしていることに驚きました。

◆(映画の中の)愛嬌のあるセルチンおじさんやバーサに怒られる関野さんには好意的な笑いが起き、馬泥棒のことやおかあさんの死を語るスレンばあさんを食い入るように見つめている姿が心に残りました。最後の場面では大きなどよめきが流れました。上映後、この日ソウル市内を走っていた関野さんが会場に駆けつけ、観客はこの偶然に大喜びでした。

◆9月1日授賞式。それまで毎日、ボランティアの朴ちゃんが、「今日もダントツで1位です」とインターネットの人気投票結果を報告してくれていました。グランプリは無理でも観客賞はいただけるかもしれないとかすかな希望を抱きました。他の11作品は問題意識が高い秀作ばかりですから。授賞式は生放送されますが、12人の監督たちとボランティアが席に着き、放送開始10秒前までお互いに記念撮影をしたりしてラフさにびっくり。入賞者が順番に呼ばれ、観客賞も逃したのでもうだめだと思ったら、グランプリで山田が呼ばれました。まさかの受賞に驚いた山田の英語でのインタビューはメロメロでした。

◆審査の結果は審査員全員一致で決まり、インターネットの人気投票も6票差で2位だったそうです。プージェーとプージェーの家族の生き様や彼らがおかれている状況が、強く韓国の人達の心の中に残ったことは、とてもうれしいことです。また、映画の中にこめた色んなメッセージが、言語や民族を超えて伝わったとしたら、本当にうれしいことです。何よりも感激したのは、受賞の瞬間、ボランティアの若者がみんな歓声を上げて喜んでくれたことです。500人の応募者の中から選ばれた60人が、通訳、HP作製、インターネット投票管理と舞台裏で働いていました。学生が多いのですが、中には会社を休んで参加する人もいて、この映画祭のボランティアになることはとても誇らしいことだそうです。私の通訳をしてくれた朴ちゃん(朴知允さん。22才の女子大生です)も、学校を休んで参加してくれたそうです。映画祭の1週間、政治、経済から自分の夢、悩みまで、夜遅くまで語り合う日が続いたのは、忘れられない思い出です。

◆授賞式の後、全員で近くの焼肉屋での打ち上げ大パーティ。こういう気取りのないホスピタリティがこの映画祭のいいところです。ここでは主役はボランティアです。監督、審査員、局員総勢100人ぐらいがワイワイと飲み交わします。あちこちでビールに焼酎を入れたダイナマイト(と呼んでいたと思います)という飲み物で一気飲み大会が始まりました。またしても偶然。三羽宏子さん(映画のモンゴル語翻訳者)が出張でソウルにやって来ました。当然、打ち上げに飛び入り参加。夜遅くまで語り飲み明かしました。たくさんの人と出会うことができた文字通りのお祭り。これもプージェーのおかげです。

◆ちなみに、「puujee」と最後までグランプリを競ったのは、ニューヨークに住むホームレスの日系人アーティストを取材した「ミリキタニの猫」でした。最後の偶然。この映画が9月8日、日本で封切られたのです。今日、早速観てきました。素晴らしい作品でした。「puujee」がこの作品より評価されたことに改めて驚き、うれしさがこみ上げてきました。渋谷・ユーロスペースで上映中です。ぜひご覧ください。みなさん、ありがとうございました。(9月9日 本所稚佳江「puujee」製作委員会)

[山に向かう喜び━━「後半の博子」3年目のアメリカ・トレイルラン]

 去年体調を崩したため、今年のアメリカでのレースは「White River 50 Mile Trail Run」(シアトル近郊の山を舞台)1本のみだ。不安、緊張、期待、それは今までよりも少なく、その代わり心地いいリラックス感と楽しみを抱えてレースまで時を重ねることができていた。

◆レースはディレクターの家族になることから始まった。小さい子供もいる、決して大きくないレースディレクター、スコットの家。彼の家はこの時期、毎年ホステル化するという。アメリカ各地からやってきたウルトラトレイルランナーたちがレースまでの宿としてスコットの家に住みつくのだ。海外から遠距離参加した私も例外ではなく、いつの間にか自由にスコット家を歩き回っていた。他のランナーたちとウルトラトレイルの話をし、食事をし、ウダウダとする。私はこんな、いい意味で大雑把なUSウルトラトレイルランニング世界が大好きでたまらない。アメリカの山奥で開催されるトレイルレースに何度も参加できるのはまさしくこんな人たちの助けがあるから。どういう形にせよ毎回いろんなサポートを受け、スタートラインに立てる。そんな素晴らしい経験は買ってもできない。なんて幸せなんだと思う。

◆7月28日のレース当日。空には雲がかかり、太陽はその奥にいるようだった。シアトルの夏は涼しい。長袖を脱ぎ、否応なく上がっていくテンションに任せるまま180名ほどのランナーたちとスタートラインに立った。プレッシャーはないが、緊張はしていた。今から山に向かっていくのだ。優しく包み込んでほしい。そう祈るように山を見上げた。

◆スタートの笛が鳴った。トレイルランナーが山に溶け込んでいく瞬間。鳥肌が立った。涙が溢れそうになっていた。すぐに入ったシングルトレイルを無感覚で走り抜ける。1つ目のエイドを通りすぎ、緩やかな長い登りを登っているところで、いきなり視界が開けた。切り立った岩間から遠くに緑の木々に覆われた山々が見え、眼下には白濁した川が流れている。目をつぶれば自然の匂いがした。ハムストリング(大腿二頭筋あたり)が張り始めているのを案じていたが、それもその景色をみたら、その場所にいる充実感で忘れ去ってしまった。そこにいるだけで、来ただけで意味があると思えていた。

◆喜びの感覚の中、第2エイド。すばやくゼリーの補給。過ぎると第3エイドから折り返してきたトップ選手とすれ違った。「Good job!」声を掛け合い、励ましあう。ここではトップ選手でも変わらない挨拶を交わす。たくさんの仲間と名前を呼び合えるのも素敵なエネルギー補充だ。雲が晴れ、太陽が出てきていた。次のエイドに到着すると、ボランティアの人達が水ボトルに氷と水を満タンにしてくれた。スイカ、オレンジ、バナナ、メロン……パンやクッキーはもう喉に入らない。果物を素早くほお張り、再びトレイルへ。なだらかなくだりを快調に下る。すぐ真後ろには女性ランナーがピタッと責めてくる。

◆道を譲ろうと声をかけるが、前に行かないという。後ろからのプレッシャーを強く感じつつ、かなり早いペースで約10kmのトレイルを下った。長い下りだった。何人かを抜いたが、それも後ろからくるプレッシャーのためだったろう。足はパンパン。下り切ったところで、あれ、ちょっと調子に乗りすぎたな、という感覚。やっと、25mile。まだ半分あるが、ハムの張りを強く感じる。しかし、パワーは切れていない、気持ちも上々だ。しかも、ここからは得意な山登りが待っている。まさしく私のフィールドに入るのだ。

◆照りつける強い太陽、奪われる水分。こんなことも楽しめるのは本当に山を愛しているからだろう、なんて幸せな人生、と酔いしれる。最大の峠を登りきると今コース最高点の景色。壮大な景色と太陽にありがとう。後は下るのみ。長い砂利をひたすら下る。順調に下るがスピードのない私は高スピードの選手に抜かれる。気にしない、気にしない。もうゴールは見えている。70km走って、あと10km、9時間半を自分の目標に置く。

◆「後半の博子」と呼ばれているくらい後半に強く、ごぼう抜きできる私であるが、今回は違っていた。何かが切れ始めていた。久しぶりのアメリカトレイル、最後足が止まってしまったのだ。でも後はゴール。結局9時間24分39秒で総合41位、女子総合9位(女子は70名弱)。暖かい声援と労いの言葉、そしてその場に溢れる計り知れないぬくもり。嬉しい。嬉しい。ただただここにいる自分が幸せに包まれていた。同タイムあたり7分間に7人のランナーがいて、内女性が5人いた。80km走ってきて、まわりに女性ばかりがいたのは分かっていたが何もできなかった。それが自分の実力なのだろう。世界には強い女性がいっぱいいる。 自分はアスリートではない。 飛びぬけた才能があるわけでも、特別に速いわけでもない。ただ、結果を求めるトレイルランナーではなく、トレイルを愛するトレイルランナーであることを誇りに思う。

◆自分の夢に向かって突き進んでいく人たちと出会い、果てしない大自然を目にし、日常からは見えてこない世界を感じさせられる。知ることができなかった感覚に陥り、信じられない優しさにココロが揺さぶられる。技術や、結果に目が行きがちだった自分を 初心に戻してくれたレースだった気がする。夢のような時間に、帰りの飛行機の中、涙し、このままずっと好きなトレイルに向かい続けていこうと強く思った。いろんなものに、トレイルに、トレイルランナーたちに、全てのエネルギーにただただ感謝するのみ。トレイルランニングはまさに旅。いつもいつも果てしない発見と感動をくれる。私にとってアメリカで8度目の大会だった。今回もまた大きなパワーをありがとう。やっぱり感謝の言葉しか出てこない。(トレイルランナー 鈴木博子)


「ザ・ドキュメンタリー・ネブタ・2007」

 8月初旬、日本全国から数百数千という旅人が北上を始める。我ら地平線野宿党もそれに遅れるにあらず。みんなキャンプ用品を満載し、ある者は自動二輪で、ある者は自転車で、鉄道で、夜行バスで北を目指す。本州が海に果てる青森に向かって…。

◆見上げれば夜への狭間のブルーモーメント。青森の街が夕闇に染まる刹那、地上では何かの予兆がはじけつつある。巨大ねぶたに火が灯り、囃子(ハヤシ)は和楽器を構え、跳人(ハネト)はその時を待つ。野宿党にとっても最大の饗宴「青森ねぶた」がまさに始まろうとしている。

◆午後7時ちょうど、「どどォ〜ん」と祭り開始の合図が響くと、うぉおおお〜と歓声と共に興奮の渦が巻きおこる。太鼓が空を裂き笛が響き鉦が奏で、ねぶた囃子が始まった。内臓の奥まで響くこのリズム、瞬間的に血液が沸騰する感覚。そうそう、みんなこの瞬間を待ってたんだよ。すべてはこの時のために、遠路はるばるやってきたんだ! 囃子に合わせ「ラッセラーラッセラー!」と誰かが叫ぶと「ラッセー、ラッセー、ラッセーラ!」の呼応が波のように広がり、跳ね踊りが始まった。

◆ねぶた、囃子、跳人の三つが調和するこの瞬間、我々は異次元の世界へトリップする。祭りとは、現実から魔性の世界へ抜け出す魔法の劇場。2時間跳ね続ける肉体の限界への陶酔! 声が枯れても叫び続け融合する魂の呼応! 鼓動! 熱気、熱気! 1週間続く競演!22台の大型ねぶた、2万人の跳人、300万の群衆。1年間この時のために生きてきたんだ。もうぼくらは祭りの一部と化し、今年もまた怒濤の夏が始まった。

◆初めてここに来た者はびっくりするかもしれない。数百台のバイクや自転車が並び、色とりどりの大テント村が、突如ねぶたの期間だけ出現する。ここは青森市が用意する無料臨時キャンプ場。ここに集まる旅人は観光客ではない。みんな個々にやってくるが、跳人になる目的に気持ちはひとつだ。跳ね疲れてくたくたでも、夜中このキャンプに帰ってくれば、新たな宴があちこちで始まる。もちろん野宿伝統の鍋も持ってきたので、今晩も恒例のヤミ鍋だ。うちらの宴にはいろんな旅人が集まってくる。誰でも歓迎だ。旅の話は尽きず、毎晩何時に寝たかもわからない。空が白んでるから4時までは続いてんじゃないかな。ここでは1週間、こんな生活が続くのね。

◆最終日だけは昼間の運行。この日は余興といった感じで、跳人の数も夜間の何分の1と少ない。それだけに本当に好きな連中が残ってる。だけど今年の最終日は違った。ドラマがあったんだよ。開始直後に雨が降り始め、どんどん強くなり、もうバケツをひっくり返したようなどしゃ降り。でも強く降るほどみんなのテンションが盛り上がる。跳人はひとりで跳ねてるんじゃない。ラッセラーの呼応でみんなつながっているので、躍動が波のように伝播し、感動が広がるの。人間がね、本気で何の邪心も迷いもなく踊ったり跳ねるとすごいんだよ。仲間たち、もうこれっきりの最終日、どしゃ降り。その現実に酔うが如く跳ねる姿が、雨飛沫のかすんだ情景の中、幻想のようにくるくるまわる。ぼくは本当に感動してウルウルきちゃいました。

◆祭りが終わればこのキャンプ場ももう閉鎖。ねぶたに来ないと始まらない日本の夏だけど、ねぶたが終わると夏まで終わった気分。何百もあったテントがひとつまたひとつと消え、チャリもバイクも1台また1台と去り、野宿党員もある者は南へ帰り、ある者はさらに北へと。「また来年!きっとだよ!」それが別れの合言葉のように、周りから聞こえてくる。青森の別れのバラードは、いつも悲しみのエモーション。あの活気を思うと、ヒグラシのカナカナ声が妙に切ない。ああ、青春の夏は終わったのね。(完)

≪青森か関東ねぶた参加の野宿党員ひとこと集≫

跳ねちゃあ呑んで野宿して。楽しかったです/野宿野郎編集長

●これを機に我らが野宿党からも新しいねぶたバカが生まれてくれるといいなぁ/ねぶた対策本部長じんべ

●なにこれ。なんなのこれは。なんでこんなに楽しいの?/いくちゃん

●ねぶた衣装洗濯してキレイに畳まれタンスで休んでる。また来年!/朝まで休憩党タカハシ

●すべてねぶたパワーのなせるワザなのでしょう。すっかりハネト中毒にかかってしまったたかこでした/たかちゃん

●ニッポンの、カーニバル終わり、津軽の地、燃え尽き身心、見上げし雨空、灰の如し/アフロあきら

●今年はチャリダー&お囃子デビューしてきたよ♪ほんと、ねぶたバカです/ともちゃん

●ねぶたでハネて、ねぶたに生きました。まったく夢心地です/サオヤの月カントク

●楽しすぎてびっくりしました。終始びっくりしていました/アフリカ縦断娘みおみお

●たくさんの見物客に見られ跳ねるのは気持ちいいっ!/駅野宿いけぴい

●中には上半身ビキニ1枚という露出度の高い娘もいた/匿名希望

●もっと早く行けばよかった/党記録係ふじもっち

●今宵の酒に酔いしれ、眠たげな祭りの余韻かな/党首

≪追伸≫ いくちゃんは関東柏ねぶたで跳ねた後、疲労骨折が判明。加藤編集長ら3名が青森から帰京後、足首の腱鞘炎等で病院送り。跳ねただけなのにケガ人続出。しかし祭りは過激であるほど美しい。日本に祭り多しといえどねぶたこそ最高峰である。ええ、そうですよみなさん、跳ねなきゃ損です。来年も野宿党は全力を持ってねぶたに挑みます。じゃあまた8月に青森で! いつものキャンプ場で!(ラッセラーマン安東浩正)


『南極レター』 No. 16

[ブリザードの襲来]

 皆さん、こんにちは。9月に入りましたね。最初にお知らせです。9月10日に、地球丸という出版社から「WATER」という雑誌が創刊されます。アウトドアとエコライフをテーマにした雑誌です。この雑誌に、私も記事を書かせていただいています。「南極日和」。よろしかったらご覧ください。

◆8月はあっという間に過ぎました。8月は昭和基地で月平均気温が最も低い月ですが、今年はブリザードが多かったため、月平均気温が平年より3.5℃も高く、統計開始以来4番目に温かい8月となりました。襲来したブリザードは4つ、計9日間にわたりました。……おかげで野外活動は……何が大変だったって、いちばん苦労したのは、「決行」「中止」の「判断」でした。8/6のオペレーションは8/7になり、8/14のオペレーションは8/20になり、8/20-21のオペレーションは8/23-24になり、8/28-30のオペレーションだけ予定通り行えました。ずいぶん、訓練された気がします。

◆毎回とても難しい判断を迫られましたが、少なくとも8月はいずれの判断も間違いではなかった(こういうのは全て結果論です)ので、よくがんばったと自分では思います。これが残り3オペレーション、10月半ばまで続きます。最後まで間違わない判断をしていきたいけれど、自然現象相手のことは、「絶対」なんてどこにもありません。あと1か月半、普段よりしっかり目の前にある「南極」と話し合ってみんなを安全にオペレーションに連れ出したいと思っています。

◆今日は、8/28-30に行ってきたラングホブデ野外観測の時の写真を添付します。風が吹き雪も降りますという予報とは裏腹に無風快晴という好天をゲットして出かけた遠足は、みんなの思い出に残ったようです。みんなの喜ぶ顔を見るのがいちばん好きです。◇写真-1 遠足:小屋の裏にある「やつで沢」に行きました。普段接することのできない景色、自然にみんな興味津々です。池の氷(写真ではわかりづらいと思いますが、池は完全に凍っています)の模様を眺めています。◇写真-2 池の氷:こんな模様ができていました。◇写真-3 ハムナ氷瀑:小屋の南にある189mの山から見た南側の景色です。氷床から流れ落ちる氷の滝、ハムナ氷瀑の全景です。◇写真-4 ラングホブデ:同じ山から北側を見ました。ほら、南極では太陽は北の空に昇ります。細長い半島が5本あって指のようになっています。私たちがかすめて通る半島には「親指岬」という名前がついています。写っている高い山は長頭山(378m)です。登った山(189m)にせよ、長頭山にせよ、日本のレベルで考えるととても低いけれど、こちらで眺めているととても高く見えます。

◆海を雪上車で走っていても、見えているものになかなか近づきません。雪上車のスピードが遅いこともあるかもしれないけど、南極には障害物がないので、遠くのものまでしっかり見えているからなのでしょうか。低い山が高く見えるのも、比較対象物がほとんどないからでしょうか? それと、低い山なのに形がとても山らしい(丘ではない)のでしょう。地形にメリハリがあるのですね。◇写真-5 ゆきどり小屋:ラングホブデには立派な小屋があるのでとても快適に生活できます。寒くないのがいちばん嬉しいです。外観はモンベルHPの南極通信でご覧ください。   http://about.montbell.jp/common/system/user/infomation/disp.php?site_category_id=8&infomation_id=34

 今回はこれくらいにします。そうそう、9月から夏日課に戻りました。朝食が7時、始業が8時、週休1日。あーあ。いえいえ、嘆いていないで頑張ります。実際、日が早く昇るようになったら目が覚める時間も早くなりました。それではまた。(永島祥子@昭和基地 2007/09/02)

★今回も写真を見せられずごめんなさい。いずれ帰国後しっかり見せてもらう機会があると思います。(E)

『南極レター』 No. 17

 みなさん、こんにちは。今日は、みなさんにお願いがあります。もしよかったら、昭和基地に手紙をください。先日9月1日に「家族会」がありました。隊員の家族が国立極地研究所に集まって、第48隊越冬隊帰路の行動予定や越冬隊への「第1便」、「託送品」、「託送金」の取り扱いなどについての説明を受けました。「第1便」、「託送品」、「託送金」というのは、次に来る第49次南極地域観測隊に託して越冬隊に届けてもらうもので、家族・友人からの手紙・写真・録音テープ・ビデオテープや越冬終了後必要となるものなどです。「第1便」は優先して越冬隊に届けてもらえるもので、「しらせ」からヘリコプターで昭和基地まで運んでもらえます。重量制限が厳しく、1人当たり1梱包、3kg以内です。「託送品」というのは、「しらせ」乗船後に受け取れる荷物で、1人当たり1梱包、20kg以内です。例年、第1便に入れることができなかった手紙、テープ、本、衣類などが送られているようです。というわけで、皆さんからの手紙をこちら南極まで届けてもらうことができるので、よかったら手紙をください。(永島祥子@昭和基地 2007/09/08)

★やがて1年になるのですね。もち論、地平線会議からのお礼を添えて「地平線通信」を送ります。(E)


[出ますぞ、アフリカの犬たち!!]

 江本さん、おはようございます。今は南紀・那智勝浦です。バイキングの朝食を食べすぎ、腹ごなしがてら無料のインターネットコーナーでこれを書いています。先日は心配かけてすみません。江本さんと連絡を取れ、ということだったんでしょう(注:数日前、突然滝野沢さん名で携帯に電話あり。応答しても風の音のみ。後でバイクに吊るしていた電話が何かにこすれて勝手に江本宛てダイヤルしたと判明)。確かにここのところご無沙汰していました。でも通信はちゃんと読んでいましたよ。

◆何しろ、冬から春にかけてはダンナの趣味に付き合って東北各地で山スキー三昧(ダンナはテレマーク)だったし、5月中旬にやっとシーズンが終わったと思ったら、今度は単行本の原稿を書くので自宅に2か月近く軟禁状態が続き、それが解けると夏の恒例行事である昭文社のバイク用地図「ツーリングマップル」の実走取材のため、担当である関西エリアをバイクで走り回っているというわけです(先日の舞鶴も今日の南紀もずっとその取材です。賀曽利さんも東北を担当していますよ)。取材は一人であちこち気が向くままに担当エリアを旅しながらネタを集めるという比較的気楽なものなのですが、何しろ長いこと取材に出るのでその前後がまたバタバタ忙しいのです。

◆この「ツーリングマップル」、温泉情報やキャンプ場情報も地図上に書き込んであってガイドブックいらず。便利ですよ! ライダーだけじゃなくチャリダーや車の旅人にも利用されています。書店には必ず置いてあるので、ぜひ見てください。「関西編」の表紙は私ですよ(東北は賀曽利さん)。余談ですが、最近はキャンピングカーを多く見かけます。リタイヤしたご夫婦なのでしょうか。欧米のようにシルバー世代が元気に旅して回るようになると日本も変わるかもしれませんね。

◆そうそう、軟禁状態で仕上げた本は、またしても「犬」です。タイトルは「イヌタビ in アフリカ」(ジュリアン出版:1575円)。アフリカの犬だけに特化した本で、犬だけじゃなくアフリカの写真も満載です。しかもオールカラー。2年前に出した「犬眼レンズで旅する世界」を見てくれた編集者が声をかけてくれたのですが、「写真が小さくてもったいない」という意見だったので、今度の本ではかなり大きく使ってくれています。うれしいことです。売れてくれるともっとうれしいのですが、どうでしょう? 何しろマイナーなアフリカですから。編集者との話し合いで「ヨーロッパの犬を写真に撮っている人は多いけど、アフリカはたぶんいないから」ということで決定したのですが、おそらくアフリカの犬の本としては世界初、ではないかと思います。まあ、犬を見るためにアフリカへ行く人なんて私くらいしかいませんね。

◆さて、台風も近づいていることだし、今日は紀伊半島を北上して、そろそろ帰宅モードに入ります。報告会にもなかなか顔を出せませんが、本を押し売りするために、そのうち顔を出すかもしれません。そのときはみなさん、お義理で買ってくださいね。(9月4日 滝野沢優子)

[松葉杖マラソンしようか━━アキレス腱が切れちゃった!]

 昨年7月高校時代の仲間が集まってシニアサッカーチームを結成した。1周年の記念すべき試合で後ろから足を蹴られ(たような気がして)、立ち上がれなくなった。しかし自転車で行ったので左足で地面をけりながら家に戻った。我が家では娘の夫がラグビーの試合中に骨折し、まだ入院中だったので「絶対に骨折なんかしないでよ!」と厳命されていた。

◆家に戻って「骨折はしなかった」と言い訳をしたが、娘にも奥さんにも激怒された。翌日医者に行ったが骨折はないと言われ安心し、毎日自転車で50km走るリハビリをはじめた。しかし数週間たっても腫れも痛みもひかないので、同じ医者に行ったら、こともなげに「アキレス腱が切れてる」と言われ、直ちにギプスをはめられた。ほとんど切れていたのが自転車漕ぎで完全に切れたらしい。教訓、治る前に勝手にリハビリなんかやってはいけないのだ。

◆スポーツ選手は手術して早く治すが、ふつうの人は固定してゆっくりしたほうがいいとのこと。これ以上痛いのは嫌だし、ヒマは余るほどあるので固定して治療する。3ヶ月ほどでくっつきギプスをはずしてリハビリになるという。

◆私のようなヒマ人でも世の中に多少のしがらみはある。例えば地平線の印刷発送業務、これは29年間ほとんど休まずやってきたのだが、歩けないので重たい紙を運ぶこともできない。ネコの手クラブ、ブドウ農家の手伝いも、右足損傷で運転ができないので役にも立たない。「みわ塾」の富士講の先達も、9月に行われるオジさんたちの富士登山の先達もダメだ。その他いくつかのお仕事もある。皆さんにお断りの電話やメールをして治療に専念することにしたが、すぐに退屈し、松葉杖トレーニングをはじめた。これなら上半身を動かすだけだから大丈夫だ。

◆外へ出てみてはじめて分かったが、東京という町は障害者には本当にやさしくない。歩道にはいろんなものが置いてある。自転車はよけてくれない。松葉杖があっても片足でバランスをとるのはなかなか難しい。人間の足は微妙な動きをしているのだ。駅のエスカレーターは便利だが、足の動きと見た目とのタイミングが合わず実に恐ろしい。電車で座る気はないが席を譲ってくれる気配はほとんどない。私のひがめかもしれないが、「松葉杖で電車になんか乗るなよ!」という目をされる。足が不自由になって世の中をちょっと別の目からみることができるようになった。すべてにおいて私はやさしくなかったよなあ。地平線会議でもワッセワッセと先を急いでいたなあ。ネコの手(注:山梨県の中山嘉太郎両親の果樹園への押しかけ支援グループのこと)なんてただのおせっかいだなあ。

◆固定しておけば自然治癒するかどうか、かなりの不安は残っているのだが、まあガマンしよう。最近2時間かけて松葉杖で5km歩けるようになった。わきの下と手のひらには松葉杖タコができた。松葉杖マラソンを目標にしようかな。(三輪主彦)

[借金返済しました!]

■江本さん、今、借金返済しました。2-4日であっち(注:アラスカ)に振り込まれるそうです!嬉しいです。晴れて社会人の気分。9日から上京します! これもひとえに、私の一番の理解者である姉からの惜しみない無償のビール提供(注:有香さんは名だたるビール飲み「ねこさんには負けるけど」)と、どんな些細なきっかけも見逃さずに機会があれば私(私の生き方への)小言を言いつつも、それでも世話をしてくれた母のおかげです。

◆〈『どんなバイトをしたの?』との編集長の質問に答えて〉 ええと、いくつかのパターンがあります。ある日は、「早朝(6時から!)マンガ喫茶、昼過ぎから塾(おもに理科、数学の講師です)、夜病院のオペ室清掃」。次の日は「早朝マンガ喫茶 警備(サッカー場、花火打ち上げ 道路工事現場などいろいろな現場で。警備員の制服が我ながら似合うのにびっくりです!)」。そのほか北海道航路のマリンガール(新潟〜小樽間のフェリーに乗船、受付やレストランでの呼び込みの仕事)、新潟市内での巨大昆虫展の切符もぎり、大書店「ジュンク堂」の棚卸し、出会い系サイトのサクラ(メールを書いて男子を誘い込む仕事。あまり人気なく、歩合制なのですぐクビに)などなど本当いろいろやりました。

◆またバイトを通じて今回も沢山の素敵な人達と知り合うことができました。 夏期講座で頑張っていた塾の教え子達の可愛さと純粋さにジーンときたり、カーフェリーのバイトで仕事が終わるとすぐに服を脱いじゃうマリンガールにドキドキしたり(@_@)、昆虫展のチケットもぎりチームでの「酒の失敗談」や「ゾウカブトとアトラスオオカブト」の話に笑わされっぱなしだったり、マンガ喫茶の早朝バイトで「年長者のクセにはじけまくる酒臭い私」をしょうがないなぁと受け入れてくれたみんなに感激したり、清掃の仕事で量りを壊してしまった時に誰も責めないどころか優しくされて心が温かくなったり。 皆さん、本当にありがとうございました。

◆ああ、アラスカにいるかわいい官房長官(9才の雄)、ひーこら(9才の雌)(注:両方ともアラスカン・ハスキー。本多さん自身の愛犬)に早く会いたいです!!(9月6日 本多有香 次のユーコン・クエスト挑戦は09年2月の予定)

9月20日の会場

 右図のように、都立戸山公園内の「新宿スポーツセンター」内、2階大会議室です。早足で10分、ゆっくり歩くと15分ほどかかるかもしれません。2次会は21時15分頃から明治通りと早稲田通りが交差する馬場口交差点の明治通りに面した四川料理店「成都」(高田馬場1-4-21 3205-0068)2階で開く予定です。



「明日の報告会、参加できなくて残念です。プージェーが映画祭にノミネートされていて、ソウルに来ています」との本所稚佳江さんからのメールが届いたのは8月29日深夜だった。50作品が参加した映画祭で12本に残ったため、滞在を延長した、とのことで「puujeeが受賞するかどうか、いい報告ができるといいのですが、残った12作品は秀作揃いで、ちょっと難しそうです」と控えめな文面だった。

◆それなので9月1日当日、「グランプリです!」と一報が入った時は、心底嬉しく、本所さん、山田和也監督の興奮が目に浮かぶようだった。折りよくソウル入りした三羽さんからも直前にメールが入り、本所さんが書いているように上映時には関野吉晴も居合わせたらしい。東京では「puujee」の背景とも言うべきモンゴルの現代史を私と花田麿公さんが語ったばかりで、なんというか不思議な偶然が重なったことは本所さんも強調している。山田・本所さんは東京農大探検部OB、OGで結婚して今年でちょうど25周年、銀婚式のお祝いともなった。ちなみに、賞金は1万ドルである。

◆2月のユーコン・クエストで予想外の出費を強いられ借金して出走、大健闘した女性マッシャー、本多有香さんからのメールも嬉しかった。内心どう借金を返済できるのか密かに心配していたのだ。「アイドル系」と書かれる風貌ながら化粧気まったくなく、腕っぷしだけが売り物の彼女が頑張って返したお金は多分、「puujee」の賞金に近い額になると思う。家族の応援もあったようだが、ひたむきに汗をかく姿勢には心うたれる。なかば強制的に裏話を書いてもらった。

◆三輪さん、無念だろうけど今度だけは辛抱だね。さあ、新しい会場で金井重さんのお祝いだ!(「安部首相辞任!」のニュースを聞きつつ 江本嘉伸)


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

祝傘寿猶在旅途上〜シゲ旅の現在・過去・未来

  • 9月20日(木曜日) 18:30〜21:00
  • ¥500
  • 於:新宿区立新宿スポーツセンター(03-3232-0171)

55歳で仕事を辞め、旅の空の自由人(自称「年金風来坊」)となって早や25年。我等が「シゲさん」こと金井重さんが、今月傘寿を迎えます。

これまでに訪れた国は120ヶ国を超え、なおも更新中。最近は「スタディ・ツアー」にハマっています。「一人旅のシゲさん」がツアー?! どういう心境の変化? これには深ぁ〜いワケがあるのです。はじめての旅で訪れたインドに端を発するシゲ旅のヒマツとは?! 

今月の報告会はシゲさんの誕生日当日に設定しました。80才のお祝いを兼ねて、シゲさんの旅の哲学を語っていただきます。様々なお祝い企画も準備中。乞うご期待! 二次会もあります。


通信費(2000円)払い込みは郵便振替または報告会の受付でどうぞ
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議(手数料が100円かかります)

地平線通信334/2007年9月12日/発行:地平線会議/制作:地平線通信制作室
編集長:江本嘉伸/編集制作スタッフ:三輪主彦 丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 関根皓博 藤原和枝 落合大祐/
イラスト:長野亮之介/印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト http://www.chiheisen.net/
発行 地平線会議 〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-303 江本嘉伸方


to Home
to Tsushin index
Jump to Home
Top of this Section