2007年10月の地平線通信

■10月の地平線通信・335号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

谷荒木町の飲み屋街を毎日ほっつき歩く。「地回り」と称して、ちびの麦丸の“臭いかぎ行動”につきあうのである。麦丸はアルコールと少々小便くさい路地裏探検が好きでおかげでこの飲み屋街の隙間という隙間を覚えた。10月12日深夜、つまり昨夜もいつものようにとんかつ屋のわきの暗がりに来た。そこに小さな段差があったらしい。ギクッ!と左足に激しい痛みが走り、座り込んでしまった。心配そうに麦丸がのぞきこむがしばらくは動けない。しまった、やっちまった、山の続きだ。

◆金井重さんの傘寿のお祝いを兼ねた9月20日の報告会、レポートをご覧になればわかるように最後まで大いに盛り上がった。地平線会議を始めた当初、新しき行動、新しき発見、未知なる地域、発想が真っ先にあったため、このような高齢元気旅人の話を聞き、祝う集まりを開くとは予想もしなかった。時代と新しい個性の出現が私たちを動かしている、そんなことを思いながら深夜ほろ酔い気分で帰宅した。

◆翌21日、起きたのは6時30分だった。まずい! 装備、食糧は散乱し、ザックの口もあいたままだ。7時新宿発の特急には間に合わないと判断し、それでも大慌てで一切合財をザックに詰め込み、次の7時30分のに飛び乗った。久々に槍、穂高に会いに行くというのに反省ものの出発だった。

◆大糸線の穂高駅で神戸から来たTと合流する。4才若い山岳部の後輩。といっても勿論還暦はとうに過ぎている。21年前、二人で立山−薬師岳−黒部五郎岳−双六−槍−穂高のコースを3日で歩いた。8月モンゴルの山に一緒に登り、帰ったら久々に北アに行こうか、ということになった。目指すは常念岳から西穂高岳。結構長い岩稜を含む縦走ルートだ。9月末というのにまだ暑い。登山口から常念乗越のテント場に出るまで汗だくになった。6時間かかっている。予想通り水が大事な山行となった。

◆そして、飯。8月のモンゴル登山では羊肉が苦手な先輩たちのためにレトルトのご飯とカレーを日本から送り込んだ。熱湯さえつくればできる上、味がよかった。おまけに沸騰したお湯はそのままお茶にもなる。浅はかにも今回思い切ってそれをやることにした。「重いものはおいしい」が山の鉄則だが、おかげでザックは20キロを越えた。

◆上天気。夜、テントの外に出ると眼前に槍、穂高の連なりがシルエットとなって見事だった。難所のキレットが大きく落ち込むあたりもくっきり見える。槍ケ岳山荘、北穂高小屋の明かりが幻想的な世界を創り出しているのに驚く。そしてモンゴルさながらの満天の星たち。草の香りはないが、這い松に覆われたここは贅沢な山の夜の香りに満ちていた。

◆2日目、常念岳のてっぺんを往復してから槍を目指す。直線距離なら近いが、一度大天井岳を大きく回りこみ、赤岩岳、西岳と結構長い距離を往く。六甲の山で鍛え、マスターズ水泳100m自由形の選手でもある相棒は、地平線の三輪主彦と同年齢で同じように強靭な体力を持つが、互いにいい爺いであることは間違いない。

◆大天井ヒュッテの手前の細いまき道で、こちらにやって来る者がいた。大きな猿である。カメラを向けても悠然としている。やがて大猿の後方に数頭のチビ猿が出てきた。よく見ると頭上のガレた急斜面にも赤ちゃん猿を抱えた母猿、中ぐらいの兄弟猿などが移動している。「ラーク!」と相棒が叫び、ヒュー、と風を切って子どもの頭ほどの石が私の左手1mほどのところを飛んでいった。猿たちが落石を起こしたのだ。続いてもう一個がうなって落ちていった。私は頭を押し付けるようにして斜面にしがみついた。

◆西岳直下の急な梯子下りを終えたガレ場の下りで左足を滑らせた。瞬間、ギクッと足首を捻ったのがわかった。しばらく休んで様子を見る。ゆっくりなら何とか歩けそうだ。拾った木切れを杖にゆっくり槍の肩まで登った。

◆3日目、足首を守りながら行くので切り立った岩場が続くキレット越えには時間がかかった。ロープで結ばれた韓国人女性が恐怖の表情で岩にしがみついている。槍ヶ岳に登りに来る韓国の登山者が増えていて、ほとんどはキレット越えをして穂高に向かうという。初心者には怖いルートだろう。間もなく山岳部の現役時代に毎年通った懐かしい滝谷が見えてきた。よくこんな岩の墓場に冬も春も登ったものだ。

◆北穂高岳でテントを張り、翌日相棒は予定通り西穂高まで縦走し、足首が心配な私はひとり上高地まで降りることにした。これ以上いためないよう、細心の注意をはらいつつナナカマドの赤が美しい初秋の穂高をゆっくりゆっくり下ったのである

◆あれから2週間。次の山にも行きたい。そろそろジョギングぐらい再開したい、と思っていた矢先、飲み屋街のど真ん中でまた捻挫をしてしまったのだ。年相応に生きるというのは至難のことだ。アキレス腱断裂の三輪さんとともに「地平線松葉杖コンビ」として売り出すしかない秋である。(江本嘉伸)


[先月の報告会から

祝傘寿猶在旅途上

〜シゲ旅の現在・過去・未来〜
金井重

2007年9月20日(木) 新宿スポーツセンター
「カストロは私にとって大事な人なんです。彼がグランマ号でキューバへ渡ったときから応援しているんですから。勝手にですけどね」。そういって、初恋の人を思い出すように、その女性はニヤリと笑った。旅の話がキューバに及んだときのことである。今回の報告会の主役は、キューバ革命の中心人物であるカストロとゲバラに50年前から親近感をもって生きてきたというその女性・金井重(シゲ)さん。1926年がフィデル・カストロ、1928年がチェ・ゲバラの生まれ年であるならば、その間の1927(昭和2)年は、旅人・シゲさんがこの世に生を受けた年なのだ。

◆報告会は、シゲさんの傘寿のお祝いを兼ねて、9月20日、誕生日当日に行われた。お祝い企画も準備されているらしく、今回はじめて利用する会場「新宿スポーツセンター」の大会議室に到着すると、すでにわくわくムードが漂っている。3人がけの椅子と机が3列だーっと並んだ講義室のような部屋に、小学5年生の渡辺圭太くん(注:地平線発足当初からの仲間、渡辺久樹・京子夫妻の次男。最近よく報告会に参加している)を最年少に、幅広い年代の100名を超える男女が集まっていた。

<熊沢正子さんによるシゲさんの紹介>

 報告会は、長野亮之介さんの司会で進められた。はじめに熊沢正子さんから、「ふつうのおばさんになりたい? 〜シゲさんが55歳で旅に出るまでの話〜」と題して、シゲさんの人生や旅のスタイルの変遷などについて、きゅきゅっとまとめた紹介が20分ほどあり、その後、シゲさんのお話という構成。シゲさんの2冊の著書『年金風来坊シゲさんの地球ほいほい見聞録』(2000年、中公文庫、初出は1991年)、『地球、たいしたもんだね』(1996年、成星出版)の編集に携わった熊沢さんの説明によれば、福島で生まれ、軍国少女として育ちサバイバルなことが得意なシゲさんは、英語を学ぶために28歳で東京の短大に入学。その後4年生に編入し、32歳で大学を卒業した後、日本労働組合総評議会に勤務。労働組合が未組織のところに行って話をし、士気を高める「オルグ」とよばれる仕事をしていたと聞いて、シゲさんのあの歩きながら語りかける独特のテンポや落ち着きは、仕事のなかで培われてきたものなのかと納得。

◆53歳で仕事を辞め、語学研修のために渡米。その旅のしずくは世界各地に弾け飛び、「知らない場所に行くのが楽しくて」60代は精力的に旅した。同じ場所に繰り返し通うなど、旅のスタイルが変化したのは「同時代の人たちがどんな状況にあるのかもっと知りたい」と気になり始めてから。時代の状況とシゲさんの心の動き、行動を重ね合わせながら、慎重に言葉を選んで語る熊沢さんの説明は、とてもわかりやすかった。

<シゲさんのお話 Part1〜3>

 そしていよいよ主役が登場。「熊沢さんに丸裸にされ、因幡の白うさぎの心境です」と、いつになくやや緊張気味の表情で現れたシゲさんだが、すぐにいつもの明るい調子に。地平線会議での単独報告は、なんと6回目らしい。この日のシゲさんの話は3部構成で、各パートの冒頭に、これまでに訪れた世界各地の写真が紹介された。カブール、イエメン、グァテマラ、フィンランド、アルジェリア、ネパール、トルコ……と、さすが120カ国以上訪ねているとあって地域もバラエティに富んでいる。

◆第1部のテーマは、「スタディ・ツアーのシゲさん 〜なぜ一人旅のシゲさんがツアーに参加するのか?〜」。2006年1月、ピースボートに乗船したのをきっかけに、最近シゲさんが魅かれているスタディ・ツアーについての話が中心。ピースボートでは、現地の人とはもちろん、参加者との交流も楽しんだという。「インターネットなどからの知識はたくさん持っているけれど経験が少ない若い人と、知識はないけれど経験がある私、その2つが結びつくと、これがちょっといいんですよ」。その体験が刺激になり、その後、シゲさんは相互理解や体験学習を目的とするスタディ・ツアーに積極的に参加。「社会と結びつきつつ、好きなことをしたい」という心境に合った旅のスタイルを見つけたのだ。「人はひとりでは生きられない。社会とつながりあって生きるっていいなあと最近強く思うようになったんです」と語られたのも印象的。

◆また、ツアー中にカンボジアで現地の子どもたちに絵本を読み聞かせしたものの反応が悪かったため、帰国後、丸山令子さんにアドバイスを受けた話から、地平線会議には自分にとっての「先生」が大勢いると言及。どこかの国に興味をもつと、たいていその地に詳しい地平線メンバーがいるので、必要なことはほとんど教えてもらってきたという。

◆そのようにして旅を続けてきたシゲさんの人生を語る上で、外せないキーワードがある。最近、五木寛之の本のタイトルにもなった「林住期」である。第2部では「アニミズムがむくむくと 〜林住期を意識して原始的な宗教が起きあがってくる」と題し、人生の転機となったその言葉を中心に話が進められた。古来インドには「四住期」という考え方があり、そのひとつ「林住期」は、子どもに仕事を譲って林に住み、これまでの人生を振り返るとともに、これからの人生を考える時期。インドでその話を聞きながら、「あなたは今、林住期ね。旅をしながら人生を考えているのね」と現地の女性にいわれたとき、シゲさんは叫んだのだ。「みんな聞いたか、私は今、旅する林住期であるぞよ!」と。仕事を辞めて自由に暮らすようになってからも、常に心のどこかでくすぶっていた「好き勝手に遊んでいるうしろめたさ」。それがそのとき払拭されたという。

◆ここでいったん休憩。海宝道義さんお手製のおいしいゼリー(ゆず・オレンジ味)とコーヒーをいただく。そして会場に甘い幸せ感が漂い始めるなかで、第3部「旅と循環 〜25年の旅の空で再び見えてきた社会〜」がスタートした。

◆最初に「ふかぶかとはだしをつつむ砂の冷え」「モクモクと巨石のモアイ絶海にわれを迎えきエナジー秘めて」などシゲさんの旅の句がいくつか紹介された。「旅を始めた頃は、何もないけど時間だけはあると思っていたのが、今は時間との競争。死を意識すると毎日を大切にするようになるものね」と語るシゲさん。「人生とは、はかないもの。同じ場所に行ったとしても、自分も相手も状況が変わる。すべて一期一会なんです」

◆その確信に満ちた語りを聞きながら、さすが80歳の方の言葉は含蓄があるなあと思っていたら……、「なので一期一会と思うと、気がラクなんですね!」と。どひょ〜。気がラクときましたか。そうですか。また、最近は、自分から変わろう、社会を変えていこうという意識を持った人が増えている感じがするという話もされた。そしてシゲさんは、にこやかに「さあ、これで終わり。話を取捨選択するのは皆さんの自由。それをするのが地平線会議。話を全部真に受けちゃダメですよ!」と締めくくり、大きな拍手に包まれて報告を終えた。

◆けれどもこの日はこれで終わらないのだ。まずは会場のみんなで「ハッピーバースデイ」を大合唱。続いて車谷建太さんがお祝いに三味線を演奏。曲は津軽五大民謡のひとつ、じょんから節。一番気持ちを込めて弾ける曲という。お祝い三味線のやさしい音色が会に華を添えた。そして最後に痛々しいギブス姿の三輪主彦さんが登場して、シゲさんに花束贈呈&ごあいさつ。「ケガをして落ち込んでいたけど、シゲさんに元気をもらった」とあいさつされた三輪さんの笑顔を見て、会場にいた多くの人が喜んでいたと思うな。

<お楽しみ企画満載の2次会>

 さて、報告会は終わりましたが、レポートはまだ終わりません。お楽しみ企画盛りだくさんの2次会のことも書かねばなりません。今回の2次会会場は、こちらも初めての四川料理店「成都」。2階の貸切会場は、少し遅れて到着した関野吉晴さんを含む総勢60名が入ってぎっしり。そんななかチベットの鐘(丸山令子さんがインドで暮らしていた頃入手されたとか)を叩きながら、にぎやかな会衆を上手にとりまとめて進行されるのは丸山 純さんだ。岡村 隆さんの音頭で乾杯するとともに、ビールがどんどん消えていく。そして次々と運ばれる料理に舌鼓! ひときわ歓声が上がったのは、餃子が登場したときだ。なじみの「北京」の餃子とはまた違った、素朴な力強さと愛嬌をもつ、これまた魅力的なぷくぷく餃子で、口に含めば、そのジューシーさで頬はゆるゆるに。

◆また、シゲさんにまつわるクイズも用意されていて、「地平線会議のメンバーで一番いい男は?」「地平線で一番影響を受けた人は?」などの問いかけに会場も白熱!? ちなみに、シゲさんが選んだ一番の男性は……「絶滅危惧種、鷹匠です」。すなわち松原英俊さんでした。一番影響を受けたのは、関野吉晴さん。理由は「自分たちのごっつい世代にはない、やさしさをもった旅を始めた人だから」。行ってみたい場所は「イリアンジャヤ」とのこと。

◆その後は、シゲさんへのプレゼントタイム。大西夏奈子さんが贈呈したのは、「日本一短いしげさんへの手紙」(詳しくは夏奈子さんに譲ります)。続いて、地平線会議からのプレゼント。こちらは長野亮之介さんが描いたシゲさんのイラストを丸山さんがプリントした、キュートな特製Tシャツとスカーフで、「いいなあ!」「ほしい!」の声続出。そうそう、お店から中国版の誕生日セット「桃まんじゅうとそば」のプレゼントも。

◆そして最後に、今回の報告会および2次会を企画推進してきた裏方さんが紹介された。「われらがシゲさん」の誕生日を祝いたいと思う人たちが企画し、そして大勢が集まって、楽しく満ち足りたひとときをともに過ごせたこと。それがなんだかとてもうれしかった夜。シゲさんをうらやましく思った人も多いのではないかなあ。こんなにたくさんの仲間に心から祝ってもらって! 「シゲさんの話に刺激を受けた」「元気をもらった」という声もあちこちで耳にした。

◆年齢や国籍を超え、人と「連帯」しながら旅を続けてきたシゲさんは、自分のなかの好奇心を大切に守り、育みながら生きてきた人なのだと思う。ほめ上手で、相手の話に感心したシゲさんが「すごいわね〜」と声をかけるたび、横で聞いている自分がほめられたような気分にいつもなる。そしてまた、「常にできるだけ楽しいことを追求する」という、しなやかさ(したたかさ?)。それもシゲさんの強さであり魅力だなあ、などと思っているうちに夜は更け、宴の余韻覚めやらぬままに時計の針は0時をまわっていた。翌週メキシコへ旅立つというシゲさんは、まだ大勢の人の輪に囲まれていた。(妹尾和子:当日、シゲさんを2次会会場へ案内すべき大事な場面で迷子に。シゲさんをはじめ、ビールお預け状態で長らくお待たせした皆さま、すみませんでした。迎えに来てくれた落合さん、ありがとうございました。)


[報告者からの口上]

私は50代から60代にかけてまさに若さと貧乏、好奇心もりもり、66ヶ月で65ヶ国を旅しています。

 1991〜2000年、日本の金、金、金の経済は早くも失速し、地下鉄サリンの事件など日本中が金に浮かれている間に世の中がおかしくなりました。しかしては、阪神淡路大震災では、日本中からボランティアが集まり、私も一週間テントに泊まるなどして、助け合い運動の仲間入りしてきました。世の中お金ぢゃあないないよというわけです。この10年は42ヶ月43ヶ国を旅しました。

 2001年に入って、9・11の同時多発テロには全く驚きました。アメリカはすぐアフガンを攻撃し、イラク戦争を始め、世界中がどこもかしこも危なくなりました。それでも旅は続き17ヶ月19ヶ国を旅してきました。

 さてここからが報告会で言いそびれたこと、それは“人生は旅”そして“旅情”です。実は99年、内戦後のウガンダで現地NGOの男性と問答し、「私ですか、シゲ教よ。それはアニミズム+日本仏教」と答え、彼は入信を希望しました。この話は以前の報告会で話しています。

 さてさて、我々はどこからきて、どこへ行くのか、です。月から、宇宙から、アフリカから、南方から、いろいろ人の数だけありますが、シゲ教としては虚空系です。虚空から旅してきた私は今、虚空への帰路を目指して旅を続けているところです。いつ虚空へ帰るのかって、それはわかりません、教祖さまでも(笑)。昨日と同じ今日はありません。今日と同じ明日も。いまの出会い、今日の出来事のひとつ、ひとつが一期一会なのです。

 ひとり一人が人生の旅を歩みつづける、旅情をこめて。今日もこんな旅ができた、有難いことだ、この旅への感謝が虚空へ飛び立つエネルギーだと思っています。

 社会の流れ、激しい渦にまきこまれながら、浮かんだり流されたり、こうして私の旅は続いてきました。いつの旅も楽しいものでした。これからも面白い旅になると思っています。みなさんも旅情をこめてあなたの人生の旅を。再見もいいですね、楽しみです。私はいま人生の旅を喜んでいます。その心は、

  親なし子なしケイタイなし ペットなく
      町姥なれど なかなかによし

  町姥(まちうば=まちんば 町に住むおうな⇔山姥) 

 9月20日お店を出して頂いた海宝さん、お祭り気分を、会場の皆さんはなやかな気を有難うございました。(金井 重)

《日本一短いしげさんへのお手紙  by 地平線十一歌選》

 人生の大先輩しげさんから、元気やユーモアや勇気を何げないかたちでたくさんいただいているなあと、9月の報告会にのぞみ改めて思いました。そこで、いつも驚かされっぱなしのしげさんを今回はサプライズできたら! と、しげさんファンのお友達に声をかけてみたところ、全国から渾身の力作手紙(川柳仕立て)が届きました。

 「旅すれば するほど増える しげ教徒 私も狙う 次期教祖の座」by 菊池由美子。

 「シゲさんの 歩み続ける足跡が われの道行きをも 照らす」by ねこ(中島菊代)。

 「しげさんと わたしもおなじ 乙女座よ」by 17日生(多胡)あるみ。

 「しげしげと 足繁く通う 127ヶ国」by 羨まし 多胡夫。

 「ゆく旅の 花野へつづく 小径かな(解説:旅の先々でわくわくしながら寄り道をしてはそこに花が咲き、やがては皆の前で話に花を咲かせる。しげさんの旅をイメージしました。)」by 車谷建太。

 小久保純子(めちゃくちゃ上手なカラーイラストで参加。しげさんがピアノ鍵盤の上をかろやかにステップ踏む絵です)。

 「老いゆくも しげ路ゆくなら どんとこい」by 鈴木博子。

 「すごいわね! しげさんほめる そのたびに 虹色光る 玉飛んでゆく」by 妹尾和子(長野画伯のしげさんイラストをはめこんだ手作りのキーホルダーも添えて)。

 山辺剣(しげさんへの想いを散文で)。

 「地平線 行けば行くほど 新たなる 世界ひろがる祝 八十歳」by 三羽宏子。

 「しげさんに 会えたら嬉し 会えぬとも 考えるだけで ワクワクたのし!」by 大西夏奈子。

 しげさん、本当に本当におめでとうございます( ^ v ^ )!!!

※以上あいうえお順、敬称略させていただきました。なお、このたびは呼びかけ人大西が知る範囲でのしげさんファンの皆さんに独断でお声がけしました。(大西夏奈子)

シゲいわく
「町姥(まちんば)も、なかなかによろし」

 ある自主上映会で映画『蕨野行』を観た帰り、同行者たちと近くの焼き鳥屋で一杯やった。村田喜代子の小説が原作のこの作品は、村はずれの「蕨野(姥捨て山)」に行った爺婆たちと村に残された家族たちの物語で、掟に従って“蕨になる”(あの世に逝く)のを待つ老人たちの「枯れざま」がジンジン沁みる。だが、ジョッキ片手に盛り上がった話題は、彼らとはまったく別の生き方を選んだ一人の女性についてだった。かつて口減らしのために嫁ぎ先を追われ、実家にも戻れずに山に入った、ヒロインの妹。自然界を独力で生き抜いて野生動物のような風貌になった彼女が蕨野に現れ、「そのまま死ぬことはない、山へ行こう」と姉を誘う場面がある。「なんで、あそこで一緒に逃げないんですか!」と、20代半ばの男性会社員が声を熱くした。「せっかく山姥が来てくれてサバイバルの条件が揃ったのに、チャンスをみすみす逃すなんて、自我が弱すぎる!」。自分は辞めたい会社も辞められないでいるくせに、まっすぐに山姥を礼讃できるそのアホな若さがまぶしかった。

 村の掟に従うか、山姥になるか(世俗に生きるか、世捨て人になるか)。昔はその二つしかなかった選択肢が著しく増えた現代は、特に、結婚をせず子供も産まずに年を重ねた女(私もその一人)には生きやすくなった(たぶん)。けれども、たとえ強い自我に突き動かされて「やりたいこと」を追いかけた結果としての幸運な「今」であっても、ふと自分を天の目で「普通じゃないな」と見下ろしてしまうことがある。そのあたり、あの大先輩はどうなんだろう……と思っていた矢先の8月、お宅を訪ねる機会に恵まれた。

 シゲ大人は語り始めた。「親無し子無しペット無し、ケータイ無けれど、町姥もよろし。そう、なかなかによろし。……これが、今の心境だねえ」。最初に「夫無し」が入らないのは、齢八十ともなれば連れあいに先立たれた同世代が増える一方なので、わざわざ言及する必要がなくなってきたせいだろうかと、30歳下の聞き手は深読みする。以前は大人、旅先で「ご主人は? 結婚は?」と聞かれるのがウザくて、「亭主はアラブの大富豪で、財産残して先立った」なんて、大ボラ吹いていたこともあったはずだから。(実はシゲさんは、結婚相手となるべき男性たちの多くが戦火に散ったために独身を通す女性が少なくない世代に属しているのだが、「結婚の最終バスに乗り遅れただけ」という言い方を好んで使う。「いやいや、事故か何かでバスが遅れているだけかもしれないでしょう」なんて未練を見せずに、夜道をさっさと歩き出すような、潔い言葉だと私は思う)。

 「どうしたって山姥にはなれないよ。そんな力もないし、社会ともつながっていたいから。でも、普通の人っていうわけにもいかないの、さんざんはみ出しちゃってるんだから。だから“町姥”。旅に出れば旅先で、うちに戻れば地元で、ただ、みんなと仲良くできればいいの」。一茶が雀の子と戯れるように、ではない。外国の街角で、異邦人オバアの出現に唖然とする人々の間に有無を言わせず分け入って、一緒に肩まで組んでピース写真を撮ったり、ヨガやらクラウン修業やら演劇やらの市民講座にしばしば「受講者中、最高齢」で参加して、あのパワフルな言動で周囲を圧倒したり……といった、あくまでも「シゲ流」のやり方で、町に親しむのだ。そう、「町姥」とは、そんな「シゲ流」の言い換えにすぎないのかもしれない。でも、「なるほど、町姥か」と、ストンと胸に落ちてきた。ギリギリの線で踏ん張って、「諦める」「捨てる」といったネガティブさを弾き返すような、これもシゲさんらしい潔い言葉ではないか。

 「それから、名もなく旅人でありたいねえ」。ここはちょっと抑え気味の低い声になった。かつて「総評オルグの金井重さん」と呼ばれた“働きマン”は、かなりの凄腕だったと漏れ聞く。その人が勤めを辞めて旅に出て、ただの「シゲさん」と呼ばれたとき、頭の上を風が吹きぬけるような解放感を味わったという。だから、本を出して、ときどきは講演の声もかかる、「年金風来坊(あるいは熟年バックパッカー)のシゲさん」といった呼ばれ方は、あまり本意ではないようだ。そこは、早期といえども職場からリタイアして旅人になった“ご隠居”の余裕なのか。あるいは戦後の社会派インテリゲンチャの潔癖さなのか。

 この町姥は相当な勉強好きでもある。「今はね、世界はグローバリズムという同じ風に吹かれている。でも、すべての人々が同じ条件でその風を浴びているわけではないのね。だから、いろんなところへ行って、その様子を確かめたい。だけど、21世紀に入って世界はますます複雑になっているから、ただ観光客の目線で見ただけじゃ、何もわからないのよ」。労組の中央組織に20年勤めて養った目でも把握が難しいほど、世界の変化は予測不能になってきた。それを正しく見極めたいと、最近のシゲさんは予習もバッチリした上で、通訳が付いてきちんと中身が理解できるスタディーツアーに参加している。「調べて、行って、知って、考えて、そして見えてくるでしょ。そうすると初めて、われわれは連帯できるのよ。現地の人々と。それから、一緒に行った日本の人たちともね」。

 「連帯」なんて“古くさい”言葉だろうか。私はそうは思わない。言葉が殻だけでなく身が入った状態で使われているかぎり、死ぬことはない。流行語が数カ月で死語化するとしたら、それは腑抜けた使い方をした人たちの責任だろう。ともかくも、「世界中の人々と連帯すること」は、シゲさんの大きな夢だ。夢を追いかけるがために「町姥」にならざるをえない自分自身を受け入れ、多すぎるほどの人が集まる日本の町に住んで、地球各地の大小の町をめざして旅を続ける。(熊沢正子/チャリンコ族・エッセイスト)


地平線ポストから

[いのちの不思議━━「デネの森」からの便り]

 地平線のみなさん、お久しぶりです! 毎号送っていただいている通信で、それぞれが様々な地で旅を続けられていることを楽しみに読んでます。ところで、ここ八ヶ岳での暮らしも早いもので、もう1年になります。1年前のぼくたちは、住む家も見つからないまま、先もまったく見えないまま彷徨うように移住してきましたが、シェルパ斉藤さんの旅人小屋でお世話になったり、たくさんの友人たちの心やさしい助けの中で、何とか家も見つかり自分たちの暮らしが少しずつ形になっていきました。人のつながりと、思いやりをひとつ一つ実感しながら、感謝する1年でした。

◆新しさは、いつもぼくたちに変化の機会を与えてくれます。新しい自分たちに脱皮しながら、さらに変化が訪れ、その度に自分たちを見つめ直し、また先へ進んでいく……。この1年は、ぼくたちにとって本当に大きな意味のある時でした。そして、いつも共にいてくれるラフカイとウルフィーにも、またひとつ大きな出来事がありました。

◆7月21日、ラフカイ2度目の出産で、ウルフィーとの間に3匹の子犬を授かったんです!ただ、最初に生まれてきたオスの子は、残念ながら呼吸をすることがないまま亡くなっていきました。小さな小さな身体に、一生懸命たましいが宿ろうとするその気配に、ぼくたちも人工呼吸と心臓マッサージで懸命にサポートしました。ときどき力の無い肉体に、いのちの輝きが重なってくるのが感じられ、その瞬間はまるで黄金色の光に小さな身体が包まれているように見えました。

◆「もうちょっとだよ。早くこっちの世界においで。みんなお前が来るのを待ってるよ……」。確かに傍まで来ているたましいに語りかけながら、鼻から息を吹き込み、胸を圧し続けました。でも、やっぱり彼は向こうに留まることを選択したようでした。数時間後、硬直した肉体には、もういのちの気配はなくなっていました。その間、ラフカイはしっかりと2匹目のメスの子を産み落とし、元気に泣き叫ぶその子に優しく乳を与えていました。

◆翌早朝、ぼくたちは亡くなった子を両手に抱いて、八ヶ岳へ移住するきっかけになった「いつかそこで暮らしたい」と思っているある山の高台の森へ行きました。そこの大地とひとつになれば、きっと彼も幸せだろうと想ったからです。スコップで穴を掘っている間、この世に生まれてきたのに、世界を知らないまま還って行ってしまった彼のことを想うといつまでも涙が止まりませんでした。

◆そして、千恵とそのとき2人でふと思いついたこと、せめて誕生した証として名前を付けてあげよう。ぼくたちは彼を「デネ」と名付けました。ぼくたちが何年も旅し続けてきたラフカイの故郷でもあるマッケンジー河沿いに暮らす人たちの民族の名です。地面の穴に入ったデネに土をかけながら、周りの森や生き物たちにデネを仲間に入れてくれるように祈りました。そしてデネは、その大地と確かにひとつになっていきました。いつでもそこに行けばデネに逢える場所、ぼくたちはそこを「デネの森」と呼ぶことにしました。

◆大好きな森は、デネがいてくれる大切な森になりました。「デネ、ありがとう、ぼくたちとこの森をつないでくれて。ありがとう、この森に意味を与えてくれて」。家に戻ると、さらにもう1匹、メスの子が生まれていました。しっかりと2匹を抱いてるラフカイは、母の顔になっていました。7月21日、いのちの不思議を知りました。ラフカイ、ウルフィー、子犬たち、ありがとう。そして今、生後2ヶ月になった子犬たちは、すくすくグングン成長して元気に我が家の庭や野山を駆け回っています。いのちがその姿から輝き出しています。そんな子犬たちは、これから犬生を共にする人との出逢いを待っています。家族として、仲間として、そして一緒に自然の中を駆け回る友として、ひとつの小さないのちと共に歩んでくれる人を。田中勝之


[只今、ヨーロッパを疾走中!]

 残暑お見舞い申し上げます。旅立ちから567日目の6月22日、アジアとヨーロッパが交差する街イスタンブールに到着しました。アジアの大地で刻んだ轍は24000km! 厳しくも充実の日々でした。あれから早1か月半……、私はまだイスタンブールです……。この街は私が最も多くの旅の時間を過ごしてきた街です。少々気力の低下もありましたが、この美しい街並みと楽しい仲間たち、素敵な出会いが再び私にエネルギーを注いでくれました。明日から旅人再開! ヨーロッパの大地を駆け出します。目指すはユーラシア大陸最西端ポルトガルはロカ岬です!! 旅はまだまだ続きます。07/08/07 自転車世界一周中 伊東 心

(注:イスタンブールの美しい絵葉書で 9月号に間に合わなかった残暑見舞い)

[モンゴルの遺跡保護━━秋のウランバートルから 1信]

 江本嘉伸様 お元気ですか、当地暖かでコートなしで歩いていました。テレビを見ると横浜と同じでした。ところが、昨日朝3時過ぎに16度だったのが6時には零下に下がり雪でした。まだ黄葉で(10月の黄葉は初めて経験しました)、黄葉に雪は美しいものですね。午後には雪も止み6度に回復しています。6月にも気がつきましたが、秋になっても帽子をかぶったモンゴル人をほとんど見かけなくなりました。昔はモンゴル人と言えば帽子と傘だったのに。今、昔のモンゴル人は私だけになりそうです。ご存じの別な理由から帽子が手放せませんので。

◆第3回「モンゴル日本文化フォーラム」(モンゴル側主催)というものに出席しました。今回はテーマを絞り込み、有形及び無形文化遺産の保存・保護というものです。モンゴルは遊牧文化であり、有形のものが残りにくいとの理解が一般ですが、予想を超え発見されただけでも数千、いや、万を超える文化遺産が地中に眠っているようです。と言っても釈迦に説法、江本さんご自身がゴルバンゴル(注:読売新聞がモンゴル科学アカデミーと共同主催したチンギス・ハーンの陵墓を探索する学術調査の名。「ゴルバン(3つの)ゴル(川)」は、オノン、ヘルレン、トーラの3つの川を指し、モンゴル帝国発祥の地をあらわす)でかなりの部分を発見されたのですよね。

◆ところが、遺跡を盗掘すれば金になるということがわかってきて、闇市場が形成されているそうです。専門家によれば盗掘者は南の中国から入ってきて今桜前線ならぬ盗掘前線が北上中でウランバ−トルに近づいているそうです。そこでどう保護し保存するかということで、討議の話題に警察だの住民意識だのとまるで自警団のような話がポンポンでました。フォーラムは両国政府にこういう対策をすべきだというようなことを助言という形で提案をしたのですが、やがてはファンドレイズになりそうとの予感がします。

◆フォーラムはヘンティ県で2日目をやり、3日目にはカラコルム以前の宮殿跡があるホドーアラルのアヴラガでやりました。ほとんど知られていないチンギス・ハ−ンの初期の宮殿であり、その上に2層の生け贄を捧げた祭壇があります。大通りの上の草の色が違うとか、ここから北東は全部鉄器工場で大量の武器を作っていたなどがわかり、大変面白い所でした。

◆最終日はウランバ−トルでやったのですが、打ち上げで江本さんとゴルバンゴルをやった科学アカデミ−考古学研究所長のツェヴェーンドルジ先生に会いました。道中デルゲルハーンでゴルバンゴルのことをいっている人がいたので、モンゴルの人に正しく理解して欲しく、江本さんは大事な友人であり、ゴルバンゴルは考古学上偉大な貢献をしたのだと改めて説明したところ、関係者みんなにわかっている、わかっていると言われました。モンゴル人の心にまた触れた思いです。(10月7日 ウランバートル発 花田麿公)

[プージェーについて━━秋のウランバートルから2信]

 日本・モンゴル外交関係樹立35周年にちなみモンゴルが日本年としたことでテレビのインタビューを受けました。今回の訪問の目的を中心に話が進められましたが、このテレビがNTVでしたので、映画プージェーについても質問を受け、回答しました。ただ、Soeulでのグランプリの映画祭の正式名称とその権威・評価について聞かれましたが、知識が不足してよく答えられませんでした。残念でした。この映画の放映の意図について聞かれたときに次の通りこたえました。

◆この映画は意図して当初から撮影した記録映画ではなく撮影したら大変重要な問題をはらむ映画となりました。この映画は、モンゴル乃至、モンゴル政府を批判する意図で作成されたものではなく、撮影したら重要なフィルムになってしまったとうことです。市場経済移行期の国、あるいは途上国が、グローバリゼーションの中で遭遇する優れて今日的な出来事をとらえており、どこにでも発生しうるテーマであるからこそ、万民の心をうつのであり、Soeulの映画祭でもグランプリを勝ち得たのでしよう。

◆そして強調したいのはこの映画の成功は世界的な旅行家関野吉晴氏が、この魂の気高いプージェーという少女を発見したことであり、モンゴルの方々にとって当たり前の少女かも知れないが、大人に媚びないという点で外部世界では驚きであり賞賛をうけるであろう少女だったからです。

◆映画の放映後も聴視者からアプローチがあり、そのアイル(注:ゲル1、2戸から成るモンゴルの最小の居住単位のこと)を教えて欲しいとの要望があるそうです。では。(花田麿公)

★「プージェー」は、9月7日、モンゴルのNTV放送で放映された。かねて花田さんからこの映画のことを知ったオヨン議員(注:民主化の星と言われ、その後暗殺されたゾリグ議員の妹。兄の意思を継いで有力な国会議員となっている)の紹介で実現したものだ。番組を見たモンゴル人から「感動した。この映画を見て私たちの多くのことを理解した」などのメールが寄せられ、花田さんを通じて関野吉晴氏や山田監督夫妻にもそのことが伝えられた。(E)

[日本の国境の島踏破、そして新生活のスタート]

 みなさんお元気でしょうか。二つの大きな節目を迎えましたので報告したいと思います。仕事のことと人生の転機についてです。

◆まずは旅について。ここ数年来「日本の国境の島」をテーマに旅を続けていたのですが、やっとケリがつきました。「日本の国境の島」とは北海道・本州・四国・九州以外の離島です。地理的に外国に近い島。外国との間で領有権を主張しあう島。開拓したのが日本人以外の島。日本領土なのに日本人が行けない島。僕は国境の島以外の離島にも百ほど出かけています。上の条件でふるいにかけると9つだけが残ります。
◆北方領土(北海道)、父島・硫黄島・沖ノ鳥島・南鳥島(東京都)、竹島(島根県)、対馬(長崎県)、尖閣諸島・与那国島(沖縄県)。
◆こうした島への旅はあまり旅情をそそられるタイプの旅ではありません。数日〜数週間行ってすぐに帰ってくる「点の旅」だからです。行くのが大変な島が多く、あらかたの島を訪れるまで、プランを立ててから約7年、本格的に旅を始めてから約2年半かかりました。以下旅のあらましです。

 〈北方領土〉  北方領土はロシアに実行支配されています。日本からは政府の主催するビザなし渡航という方法で行くことができますが、参加の条件が厳しいので断念、日本政府の抗議を覚悟でロシアからの上陸を目指しました。サハリンへ行き、そこから船でオホーツク海を南下、船内一泊の航程でした。
 上陸したのは国後島と色丹島です。どちらも開発されていない北海道という感じの風景でした。道は舗装されておらず、人口はとても少なく、森と山と護岸されていない川のうねりが特徴でした。現地に行ってみて感じるのは北海道との近さと遠さです。国後島は知床から島影が水平線をさえぎるようにして見ることができますが、国後から知床を見てみるとまるで鏡写しのような風景が広がっていました。そこからは日本の携帯が通じます。また野付半島の対岸からは日本のテレビ番組「笑っていいとも」を見ることができました。
 北方領土は国境地帯だけに監視の目は厳しかったです。北方領土では行くところ行くところ確実にFSB(かつてのKGB)の尾行がついていました。国境警備隊がホテルの部屋にやってきて、釘を刺されたこともあります。国後島は日露の裏社会が仕切っているのが明け透けでした。逞しい体つきのロシア人ダイバー数人が誰もいない浜をウェットスーツ姿でとぼとぼ歩いているのを見たことがあります。彼らは国後島と野付半島の海峡に船を出し、潜って海産物をとっています。水揚げされたウニなどの海産物が根室に持っていかれます。対岸の根室との闇のつながりはとても興味深いものでしたが、それは返還されな いことで成り立っている関係で、とても皮肉に思えました。

 〈竹島〉  竹島の場合もやはり、上陸のために一度出国せざるを得ませんでした。日本海に浮かぶ韓国の島、鬱陵島へ水中翼船で行き、その島から日本から払い下げられた中古船で向かいました。往復5時間、上陸20分という弾丸ツアー。そんなツアーなのに韓国中から集まる観光客でツアーは大盛況でした。
 一言でいうと韓国という国のえげつなさを知る旅、ということになります。韓国は島が自分たちのものだと示すために既成事実の積みかさねに抜かりがありません。木すらほとんど生えない断崖絶壁の島が二つ。そのうちのひとつにはビルが建ち、30人以上の警備兵を常駐させています。灯台があり、高射砲があり、銃を構えた警備兵が微動だにせず立っていました。
 島が見えてくるやいなや韓国人はデッキに押し寄せ、大撮影大会です。なんでこんなに盛り上がるのか。韓国人ではない僕には感情はとても共有ができず疎外感を感じました。愛国心の発火ポイントとして位置づけられているこの島は韓国人にとっての聖地なのです。こうした場に行くと、普段あまり自分でも意識しない日本人としての意識がムクッと顔を出します。まさにナショナリズムとは何かを考えさせられる島です。
 この島でも北方領土同様の監視態勢が敷かれていました。島に上陸した100人ほどの乗船客を十数人の警備兵が監視に当たります。限られた上陸時間で島を徘徊していると「日本人か?」と韓国語で誰何されそうになりました。
 北方領土にしろ、尖閣諸島にしろ、日本以外の国から行くことは日本政府の方針に背くことになります。それぞれの島の訪問記を雑誌や夕刊紙に発表すると、たちまち外務省から担当者が呼び出されました。

 〈尖閣諸島〉  日本政府が行かせたがらないという意味では、日本がしっかり管理している尖閣諸島も似たようなものです。尖閣諸島は日本の海上保安庁が監視していて、上陸は基本的に不可能です。上陸すれば不法侵入、接近しても罰金をとられる可能性が高いのです。島まで行ってくれる船を探しましたが見つからず、上空からセスナで見るにとどめました。上陸のチャンスは一度だけありました。成功した場合、海上保安庁に呼び出され、取り調べを受けることになります。船を出した船長は罰金を命じられますが、その分を乗船者で折半すると一人あたり10万円になったのでしょう。取り調べと罰金の折半を覚悟した上で尖閣行きの船に乗るつもりでした。しかし海上保安庁の監視が行き届いているためか、半年以上待ちましたが、とうとう出港することはなさそうです。

 〈沖ノ鳥島、南鳥島〉  他の島で行きにくかったのは沖ノ鳥島、南鳥島でした。どちらもとにかく遠いのです。日本で唯一北回帰線よりも南にある沖ノ鳥島は東京から約1700キロ、小笠原の父島から約1000キロも離れています。沖ノ鳥島は石原都知事の視察に報道陣の一人として同行するという形で渡航しました。
 東京から約1900キロ南西にある南鳥島は行けずじまいです。日本の政府が一般人の上陸を許可していないからで、近くへ行こうと思っても、地理的に離れ過ぎています。ヨットなどの技能を持たない僕には自力ではほぼ不可能です。つまり国境の島に日本人が行けないのはヘンピという理由よりも政府の許可が下りないなどの理由によるのです。
 行くことができていない島やポイントはまだ他にもあります。しかしそれらは行ける見込みが立ちません。そこでひとまず旅を終えます。悔しさの残る、後味の悪い、静かなフェイドアウトです。

 〈自分の旅立ち〉  8月12日、首相官邸の横の山王日枝神社で結婚式を挙げました。相手は拙著の読者です。知り合いの編集者が書いた旅行業界誌の書評、それを目にした彼女が僕の本を読みました。考え方が共感できるに違いない、と思い、ブログをたどって連絡を取ってきたのが始まりでした。最初に彼女からメールが来たのは昨年のゴールデンウィーク。なんとなく返したメールがつながり、じゃあ会ってみますか、ということになりました。7月のことでした。その後、何度か会い、11月にはほぼ結婚することで合意していました。現在はほやほやの新婚、もちろん二人きりの生活です。確か3月ごろ、地平線通信にボロアパートでの生活にピリオドを打ったと書いたはずですが、結婚前なので公表を控えていたというわけです。

◆神戸の大学1年生の9月以来ですから、20年近くも一人暮らしを続けていました。大学を卒業し、就職のため上京、8カ月で退職し、フリーター、そしてフリーライター。その間に十数回の引っ越しを経験しました。貧しい友人や先輩が家に転がり込んできたこともありました。また2000年から数年間は日本や近隣国を原付バイクで放浪し、事実上、住所はありませんでしたが、野宿生活が長く、いずれにせよほぼ一人暮らしで生活してきました。ここ10年ほどは一人暮らしが嫌で嫌で仕方なかったのですが、貧しいライター生活では家族を養っていくことはできないだろうし、そもそも彼女なんかできないだろう。ずっとそんな風に思っていました。
◆その考えは05年に拙著「僕の見た『大日本帝国』」がヒットしてからも頑なでした。フリーで活動する不安定さを嫌というほど知っている僕は冷静でした。「どうせまた今後も同じような生活が続くのだろう。今後もずっと風呂なしの安いアパートに一人暮らししよう、人生そんなに甘くない」と。実際、2年前の8月号の通信では「本が売れて以降も僕は引き続き風呂なしのボロアパート暮らしを続けています」と決意表明的な文章を投稿しています。
◆しかし、人生わからないものですね。本を書くために一年間机にかじりつきしつこく取り組んだのは確かですが、こんな形で報われるというのは予想外でした。世の中にこれほどしっくりとくる異性がいるなんて。僕は日本一の幸せ者です。家族以外の異性と二人で暮らすのは初めてなのですがとても順調です。たとえば食事どき、世界のことや日本で起きていることについて日々論議を戦わせていて、お互い妥協をせず言いたいことを言い合うのですが、この半年、ケンカを一度もしたことがありません。炊事や植木の水やり、掃除といった日々するべきことは自然と役割分担ができています。
◆彼女はマスコミの人ではないのですが、文章の素質は僕なんかよりもずっと上です。しかも語学が堪能です。その優秀さと才能にときどき嫉妬してしまいたくなるほどです。将来について不安がないといえば嘘になります。だけど困難に一緒に立ち向かえる「同志」ができたのはとても心強く思います。今後の旅は二人で行くことが多くなるでしょう。同じ場所へ行き、興味や関心、感動を共有したいと思います。実は尖閣諸島へすでに一緒に行っていますが。
◆なお新婚旅行は「ヨーロッパの北朝鮮」と呼ばれたアルバニアを予定しています。「旅行博」でお会いしたアルバニア大使の人柄に二人とも惚れ込んで、決意しました。ここでも「日本の国境の島」同様に国や国境について考えることになるでしょう。(新婚生活を満喫しつつも、本の執筆のため再び机にかじりついている西牟田靖より)

[甲州街道をぴちぴちパンツで走ってしまった]

 江本さん、こんにちはー。9月末、海宝さんの主催されている「甲州夢街道」に参加、挫折して参りました。215キロを36時間で走ろう、というこの遠足(レースじゃなくあくまでも遠足=とおあし =、なんだそう!)、スタートが朝6時に下諏訪の為、前泊しなければ参加できません。今までなにかの前日には必ず野宿をし、野宿パワーを発揮しようとしてきましたが、なんで家から行けるのにわざわざ野宿するのか、と自分自身疑問がないわけでもなかった。それが野宿しなければ参加できない遠足だなんて、これは出ずにはいられません。それから一度ウルトラマラソンがどんなものか見てみたかったのだけれども、果てしない長さに100キロなどよりむしろ気楽に走れるだろう、という姑息な計算もありました。

◆私事で申しますと、この大会一番の目玉は、(私の)ぴちぴちパンツデビューでした。初めて走った3月のお台場チャリティーランの時、ランナーが揃いも揃ってあのわけの判らぬぴちぴちパンツを嬉々として履いていることに衝撃を受け、なんだこれは、こんなんでいいのか、と思わないでもなかった。けれども、いつの日かいっぱしのランナーになったら履いてみたい、と、うっかり憧れてもしまったわけです。その後いろんな人に聞いてみると、どうやらあれはすごくいいらしい。遠足間近、私は憂鬱でした。どう考えても辛そうなんだもの。辛いことは極力回避したいと常々思って生きているのに。そうだ、回避のためにはぴちぴちパンツだ。よい道具はいっぱしでない者にこそ必要なのだ。勢いづき「お金で解決できることはお金で!」と拝金主義に転向した私は、急きょ遠足2日前にトレイルラン用リュック、ウルトラマラソン用スニーカー、疲労軽減用高級アミノバイタルまでも大人買い。それもこれも未知なる215キロへの恐れがなすもの、というか、遠足前にそわそわしている小学生の気分でした。

◆しかしともに参加し、普通のリュックをしょって走ったたかしょー(杉山貴章)さんは両肩が擦れていなばの白ウサギちゃんのような有様に。トレッキングシューズで走った山辺(剣)さんは、足と膝を激しく負傷、帰りの電車でトイレまで歩けずおしっこをちょこっと漏らす、などとあわれなことになったのです。大枚はたいた、余は満足じゃ。ほっほっほ。

◆さて、参加するからにはエイドで海宝さんの美味しいごはんが食べたい。なんとか3つのエイドを営業時間内に通過するぞ! を目標にてろてろと走ることにしたのですが、長丁場なのでゆっくり走る人もおり、一人ぽっちということもなく、ちょこちょこ話せるので、楽しかった。しかしみなほとんどなにも持たず、両日雨ばかり降っていたのですがビニールのかっぱなんかで走っている。なんとすごい人たちなのか、と思いました。彼らは「ずーっとこんな感じで走っていれば、完走できるよ」と口々に云うのです。それはつまりは「寝ない」ということではないか! これは野宿の敵だ! 恐ろしい遠足である!

◆しかし思いのほか、いいペースで走ってしまい、笹子峠を越えた所にある103キロ地点の第3(最終)エイドを夜の10時半に「絶対、寝ちゃいけない」「明るくなるまでなんとか辛抱(明るくなると急に眼がさめてくるらしい)」「ゴールの日本橋で待ってるよ!」と送り出されてしまいました。どうやら、残り19時間半、寝ないで歩いたり走ったり時速6キロ弱を維持できれば完走できるようでした。

◆しまった〜〜〜!!! 数時間寝ても大丈夫ならば元気も出ようもの、もう間に合わなそうならばのんびり行けるもの。それが一番微妙で、辛い状況に! しかも私はエイドで食べすぎて気持ち悪くなって吐くわ、暗くなるとすぐさま眠くなるわ、大変なことになっているのです。しかし私は影響されてしまった。完走目指して、眠らないでいられるところまで走ろう、などと思ってしまうから不思議です。

◆なのだけれども、野宿神の思し召しか、財布を落としたのです! 大月駅そばのコンビニでまさに眠気覚ましドリンク「強強打破」を買おうとした時ないことに気がつき、周辺を探したり、その前に寄ったコンビニの電話番号を調べ問い合わせたり、警察に紛失届を出したり、私の頭はフル稼働。眠気は吹き飛びましたが、時間も飛んでゆきました。もう間に合わないなあ。眠いのに寝ないのはいかんのだ、私はしばらく走ってから、廃屋に忍び込み、ふて寝しちゃった。そして朝になってまた少し走って、よろよろと歩いて(寝て起きたらぜんぜん走れなくなっている!)藤野駅まで行って、電車に乗って(お金は心やさしい見知らぬランナーの人が貸してくれた)帰って来ました。

◆日本橋にすごすご荷物を取りに行くと、関根さんご夫婦や野宿党の人たちが来てくれていて、嬉しい。それから呑みに行き、ビールが美味しい。「少し練習すれば、案外完走できそうな気がするなあ」、などと負け惜しみのようなことを云う私。しかし足首はぽこぽこ腫れており、一晩家でぐっすり眠ったら生まれたての小鹿のような有様に。その後一週間は毎日むやみに眠く、ちょっとおかしいんじゃないかと思うくらいでした。そんなわけであっさり前言撤回。こりゃムリだ〜。恐るべし、215キロ!

◆しかし困ったことに今はなんだか少し、口惜しくなっている。また走りたいような気に、なっている。すぐに「来年どうする?」などと云い合ってしまった挫折者3人は、来年は同じ日時に日本橋からこっそり逆走しようか(下諏訪からだとまた同じとこらへんで寝ちゃいそうだから……)、などと半分冗談半分本気で画策しています。(お財布、届きました〜。野宿党マラソン部員・加藤千晶)

 ★識者談話:たかが215キロぐらいで、オシッコちびるなんて。そんな程度の距離は鼻歌を歌って行く距離です。下島伸介さんをみなさい。足が壊れてから4000kmも走っています。貝畑和子さんはヨーロッパを走った後、ちょいと一走りでシベリアを横断しています。中山嘉太郎さんは野宿をしながら西安からイスタンブールまでほぼ1万キロを走っていきました。わずか200kmの距離でうれしがってはいけない。次は鼻歌を歌って往復できるぐらいになってください。ハッ、ハッハ 未熟者め! 私にかかってきなさい! 松葉杖でもまだ負けないぞ!(三輪主彦)

[ヨーロッパ最高峰エルブルース山頂火起こしに成功!]
━━人類史上初! 8,000m峰摩擦発火への道。挑戦中━━

「この挑戦は、失敗に終わるかもしれない……」ロシアの大氷河で私はそう諦めかけていました。ここはヨーロッパ大陸最高峰エルブルース。首都モスクワから南へ千数百kmのグルジア国境沿い。カスピ海と黒海にまたがる大コーカサス山脈主峰です。

◆思い返せば2003年11月アフリカ大陸最高峰キリマンジャロ。山頂5,895mで高山病と強風で火が起きず1時間以上も粘った末に敗退。手の血豆はやぶれ、オレンジ色の胃液を氷上に何度も吐きました。アレから4年。私はいったい何をしてきたのだろうか。火起こしの「心技体」。それを見つめて、やってきたのではないのか。

◆雨が降ればわざわざ外へ出て、火を起こし。台風が来ると言えば喜び。どうやって雨や風を防ぐか研究をしました。そして歩いた。他人には不要とも思える重さで、長距離を。結婚式の「キャンドルサービス」や葬儀の「鎮魂火」。ダライ・ラマ法王の側近であるチベット高僧と共に「護摩焚き」など。一つひとつが精神力を高め、「祈り」そのものの日々でした。そして、現在の標高4,150m。体調は抜群。絶好調。快晴微風。絶好の条件が揃っています。にもかかわらず! 火が起きません。さて、ドウシタモノカ。

◆日本を発ってから3日目、ロシアでの挑戦は早くも危機に瀕しました。ここで失敗すれば、山頂では相当に苦しむでしょう。どうにかしたい。そう思い自問自答しつつ調整し、10回ほど再チャレンジを繰り返しました。……が、結局この日は撤退。手の平にあるマメがつぶれてしまえば、更に成功の確率は低くなる。それを誰よりも知っているのは私です……。

◆失敗は成功への一里塚。宿舎に戻り、今日の学びをノートに書きとめました。原因と対処、これからの予定を見ながら、いくつもシミュレーション。高度順応と共に、ある意味で最悪ともいえる状況に順応していかなければなりません。はやる気持ちを抑えて、翌日は発火具を持たずに歩きました。そしてアタック前日、自分を奮い立たせるため、撤退した場所を見下ろす高度4,200mへ。ここでリベンジを果たしたことで自信回復。

◆そして2007年9月24日。ものすごく簡単に書けば、私はエルブルース山頂で火起こしに成功。煙が立ち始めた瞬間。「よしっ!」と素肌むき出しの右手を握り締めました。……と同時に集中でどこかへふっ飛んでいた頭痛と動悸に意識を支配され一息。ふう、苦しい。解っちゃいるけれど紙一重。ただいま標高5,642mなり。深呼吸して、世界平和への祈りを捧げました。

◆さて山に登った。火を起こした。それだけならば読者は、このレポートを読み進めるにしたがって、いくつかの疑問を持つでしょう。その一つは「火を起こしていったい何の役に立つのだろうか?」ということ。答えを直球で言ってしまえば、その質問自体が「時代錯誤」。「何の役に立つのか?」ではなく、既に「役立っている」のです。

◆「火起こし出前授業」を終えて、ある小学生がこんな感想をくれました。「オーバーかもしれませんが、命を救うことができて、いい経験になりました」。消えそうな火を生命と捉えたこと。ナマの体験だけが持つ「手ごたえ」は彼の財産です。

◆この遠征結果を知らせた某大学では「研究室の3年生ゼミで紹介したら、「火」についての思い出や想いなどが次々と出てきて、楽しい時間となり、熊本が改めて火の都だと再認識しました。いつか貴兄を研究室にお呼びして、「火」を熾して、学生に火をつけてほしいものです」と。つまり、この超マニアックな「挑戦」が「いったい何の役に立つのか?」ではなく、既に多くの人々に伝わり、そこからメッセージを受け取った人は行動を起こしているのです!

◆今、子供たちに伝えたい。大人も取り戻したい。それは元気な「根っこ」。物を買うことよりも、知識を得ることよりも、そういった枝葉を広げることで疲れきってしまう前に。巨木の根っこを観るがいい。大地に深く根ざす確かさを。

◆「人類史上初!」とは大げさな、しかし日常生活の中でもあれこれと現実味を帯びている昨今。その解決策を探るために、「原始技術」は「子育て」や「企業研修」でも必要とされています。できるか解らないものに挑戦し続けてきた人間の歴史を追体験する。そこで得られる「情熱と知恵」が世界を動かし、地球の上で暮らす「精神性」を育みます。おかげであなたは何十冊もの本を読む時間や苦労から解放されるでしょう。もはや単なる昔の技術ではありません。「温故知新」どころか、「これしかない!」と断言しておきます。

◆詳細は書ききれないので、本にしたいと企んでいます。「祈り」と共に、本気のその先へ。まだまだいくぜ! 魂に火を点けたい読者。写真は『野人魂』 http://yajin.jugem.jp/ を。メッセージや質問は へ今すぐどうぞ。(情熱着火男:大西琢也)

※メールアドレスは、検索ロボット対策のため伏せてあります。メールを送る場合は“”の部分をクリックしてください(web版編集担当者)

[そこつ神様はおられます]

(注:以下はメキシコに旅立つ前、地平線通信を通して金井重さんが託した便りです)

野元甚蔵さま

 今年の鹿児島の夏は如何でしたか。

 9月20日、千葉の蓉子さんにおあいしました。蓉子さんは「お父さんが『地平線会議の9月はこんな集会だよ』と話しておりましたので」とわざわざお出でくださったのです。そして帰りに文庫本にサインをとおっしゃったのに、私はそこつにも前の方の名前を書いてしまいました。今でもあわてもの、そこつものでお恥ずかしい限りです。

 もう30年近く前のことになりましたが、熊本の青林舎のロケ先まで、私が画家の丸木位里・俊先生の車を運転して、と言っても東京湾からは船で。宿には石牟礼道子さんが待っていて下さいました。私が「そこつ者です」と挨拶したら、石牟礼さんは「あーら九州にはいっぱい神様がおられて、そこつ神様もいらっしゃいます」とおっしゃいました。

 蓉子さんはいつも、お手紙かメールで、野元さんといろいろお話なさっているのでしょうね。そんな優しさを感じておりました。そしてハタと、あゝそこつ神様は「蓉子さんから、野元さんにお手紙が届きますよ」と教えて下さったんだと気がつきました。

 私が野元さんとおあいしたのは平成16年7月、東京市ヶ谷の日本山岳会ルームで「野元甚蔵さんの米寿と長寿を祝う会」でした。

 中肉中背すっきりした野元さんのお姿、あの大冒険をしてチベットに入り、40年後のダライ・ラマ14世と鹿児島での対面を、淡々とお話する野本さん、世紀の冒険家となごやかな出会いがなつかしく思い出されます。

 祝う会に長女の中橋蓉子さん一家も参加。その時蓉子さんともおあいできましたし、野元さんのかざりのない笑顔が忘れられません。

 野元さん、今年は90歳ですよね。お元気なのがとても嬉しいです。地平線会議の江本さんは、何度かお訪ねしているそうで、お話をお聞きしています。私は9月の地平線会議のおかげで蓉子さんのご住所をお聞きし、そこつ神様のおかげで野元さんと文通が出来ればとても嬉しい御縁です。

[只今17年半ぶりのタイです!]

 江本さんへ サワディーカー♪ いま、タイです!! 地球をぐる〜っと一周し、17年半ぶりにタイのチェンマイに戻ってきました。(モチ自転車で!)めっちゃ感激です!!!(:_;)うるうる……チェンマイは変わりました。大きく変わっていました。私たちも……、してることは17年半前と同じですが、内なるなにかが大きく変わったような気がしています。チョモランマまでの道のり、苦しみましたーーー(笑)

 26日の風間さんの報告会、すっごく行きたいです!!(でもまだ帰国していません……悲)ところで、今回のチベット旅のドキュメンタリーの放送日が決まりましたと、榛葉さん(注:エミコさんの旅を取材し続けている番組ディレクター)からご連絡をいただきました。10月8日(月)「筑紫哲也ニュース23・マンデープラス特集『いのちのペダル・チベット編』」です。お時間がありましたら、ぜひぜひみてください☆彡とりいそぎです♪(エミコ&スティーブ(^_^)(^v^)/地球をEnjoy♪)

■只今走行中! チベット→中国雲南→ラオス→タイ北部
http://www.yaesu-net.co.jp/emiko/ [by八重洲出版]

■毎週月曜更新♪ 世界一周アルバム
http://www.cateye.co.jp/newshtml/news.html [byキャットアイ]

(8日のマンデープラス、よかったですよ。もうすぐ帰国、感無量でしょう=E)

『南極レター』 番外編

「多忙な南極の日々」

■昨日野外より戻りました。地平線通信最終締め切りは、今日ですね。明日からまた野外なので、今回は、南極レター、ちょっと厳しいかな。今日は、明日からの旅行準備と、内陸旅行準備連絡会という会議、それに10月の誕生パーティがあります。それに15日締切の原稿が1本あります。明日13日からの野外は2泊3日の予定ですが、天候がちょっと怪しいです。昭和基地からいちばん遠い、80kmほど離れたスカーレンという所へ行きます。昨日戻った野外も同じところへ行きました。3日間、ブリザードで停滞したので、6泊7日の旅行になりました。いろいろと大変なこともありましたが、やっぱり苦労がある方がおもしろいですね。(10月12日 南極昭和基地発 永島祥子 南極レター間に合いますか? との編集長の質問に答えて)


■久島弘さんの連載開始!

世界的なビンボロジストとして知られる久島弘さんが『望星11月号』(東海大出版会)から、「ぼくは都会のロビンソン ある『ビンボー主義者』の生活と意見」というタイトルで連載を開始。イラストはお馴染み、長野亮之介画伯。


■注目の再放送■

 いつも、おいしいうどんその他を提供してくれ、世話人仲間の間で絶大な人気の海宝道義さんのアメリカ横断ランがNHKで放送されます。

◆10月28日(日)午後11時40分 総合テレビ
《NHKアーカイブス》
 NHKスペシャル『4700km 夢をかけた人たち〜北米大陸横断マラソン』(1994年10月16日放送)

◆10月29日(月)15時00分 衛星第2
 49分間の番組です。最初に日本賞受賞作品「なにして あそぼう」(18分40秒)が放映され、その後になります。


《通信費支払いリスト》

 07年4月以降通信費を払ってくださった方々のお名前です。万一、漏れていた方がおられたらご一報ください。通信費は2000円(年)ですが、5000円、10000円とカンパしてくださった方もいます。ありがとうございました。(地平線会議世話人一同)

 麻田豊、足立洋太郎、荒川紀子、安東浩正、池泰次郎、池田祐司、江口浩寿・由利子、大嶋亮太、岡朝子、尾方健治・康子、長田乾、小山田美智子、帰山和明、加藤千晶、河田真智子、菊地民恵、岸本佳則・実千代、北村敏、木下聡、後藤聡、坂本順哉、鹿内善三、嶋洋太郎、新垣亜美、新村美穂、菅原保徳、杉山貴章、高野政雄、高橋千鶴子、丹波真以子、中嶋敦子、永田真知子、中橋蓉子、名本光男、野々山富雄、野元伊津子、早川淑子、福島健司、藤川佳三、藤木安子、藤田光明、堀内満津枝、松尾直樹、松川由佳、松中秀之、松本典子、三浦順子、水落公明、三橋孝子、南博之、南澤久美、宮内吉晴、宮部博、柳沢美津子、山本和弥、山本豊人、吉岡嶺二(あいうえお順)


[編集後記]

 この通信の締め切り直前、素晴らしい本が届いた。『風の記憶 ヒマラヤの谷に生きる人々』(春秋社)。01年5月の報告者でもあるチベット学者、貞兼綾子さんの力作だ。トリブヴァン大学の奨学生時代、初めてランタン谷を訪れた1975年以来、ヒマラヤの谷に住む人々の暮らし、その精神世界を追ってきたフィールドワークの結晶とも言うべき書。チベット仏教各宗派のヒマラヤの谷への進出の歴史と現在など、貞兼さんならではの記述は迫力がある。是非一読をすすめたい。

◆ささやかな通信ではあるが、時には地球を軽くまたいで情報が飛び交う。きのう12日もモンゴルの花田麿公さんとは携帯電話で、南極・昭和基地の永島祥子さんとはメールで大事なやりとりをした。別に速報を目指しているわけではないが、ほとんど新聞作りの領域ではないか、とひとり驚くことがある。

◆デネのことを書いてくれた田中君と千恵さん、ありがとう。重さんに捧げる若手の歌、川柳、俳句、面白かった。還暦を迎えた3000湯達成目前の賀曽利隆兄、おめでとう。26日は風間深志の新たな挑戦をしっかり聞くぞ!(江本嘉伸)


■先月の発送請負人 森井祐介 関根皓博 村田忠彦 車谷建太 藤原和枝 満州(ペンネーム) 三上智津子 江本嘉伸 松澤亮 の各氏でした。

10月26日の会場

 右図のように、都立戸山公園内の「新宿スポーツセンター」内、2階大会議室です。早足で10分、ゆっくり歩くと15分ほどかかるかもしれません。2次会は21時30分頃から明治通りと早稲田通りが交差する馬場口交差点の明治通りに面した四川料理店「成都」(高田馬場1-4-21 3205-0068)2階で開く予定です。



■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

手負い熊大陸横断ミッション

  • 10月26日(金曜日) 18:30〜21:00
  • ¥500
  • 於:新宿区立新宿スポーツセンター(03-3232-0171)

'04年1月、パリ=ダカール・ラリーに単車で参戦した風間深志さんは、モロッコで無謀運転のトラックと正面衝突。帰国後の治療が難航し、左足のヒザの皿(膝蓋骨)を失いました。意外にも日本が外傷治療の後進国である現状も認識しました。

この夏風間さんは「体が自由に動くことの幸せ」を訴えるWHOのキャンペーンに同調し、ロシアのウラジオストックから、スペインのロカ岬に至る一八〇〇〇キロをスクーターで走り、出会った人々に運動器(骨や関節など)の大切さをアピールしてきました。

今月は風間さんに、旅の再開に至る戦いと、ユーラシア大陸横断ミッションの顛末を語って頂きます。メンバーとして旅に同行した帝京大学医学部整形外科の竹中信之医師も駆けつけてくれる予定です。


通信費(2000円)払い込みは郵便振替または報告会の受付でどうぞ
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議(手数料が100円かかります)

地平線通信335/2007年10月13日/発行:地平線会議/制作:地平線通信制作室
編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井祐介/イラスト:長野亮之介/
編集制作スタッフ:三輪主彦 丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 関根皓博 藤原和枝 落合大祐/編集協力 網谷由美子/
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト http://www.chiheisen.net/
発行 地平線会議 〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-303 江本嘉伸方


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