2008年1月の地平線通信

■1月の地平線通信・338号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

間は、ゆっくり早く流れる。ついきのうのことと思っていた出来事が20年、30年前、時には半世紀前だったりする。世界最高峰、エベレストの「時間」もその点で興味深い。

◆最初の登山計画は、1907年に持ち上がった。英国山岳会(AC)50周年記念として提案されたのだが、神聖な地域への入山をチベットは認めなかった。第一「エベレストなんて山はどこにあるんだ」。よく調べればチョモランマというチベット名があったのに、傲慢な英国は、前インド測量局長官の名をとって「エベレスト」と命名してしまっていた。

◆はじめて英国隊が入山できたのは1921年で、隊員のジョージ・リー・マロリーがノースコルへのルートを見つけるという成果をもたらした。翌22年の本隊は8312mまで達したもののノースコル直下で起きた雪崩でシェルパ7人の犠牲を出して撤退。24年の第3次隊でマロリー、アーヴィンが頂上アタックに出たもののそのまま帰らなかったのは有名な話である。「なぜエベレストへ?」と聞かれ「Becase it is there」と答えた伝説の男マロリーは、登頂の成否がわからないまま75年後の1999年5月北稜直下で凍りついたミイラ状態で発見された。

◆21年の許可が出た際ひとりの日本人僧が大事な役割を果たした。西本願寺から派遣され1913年から10年間ラサに滞在していた多田等観である。当時のチベットの王、ダライ・ラマ13世は若い等観のことを気に入り、特別にセラ大僧院で修行するよう命じた上、国際情勢などの問題で時にはアドバイスを受けた。英国隊の入山について等観はルートを限定した上で前向きに対応したほうがいいのではないかと述べ、ダライ・ラマは許可を決断したという。

◆英国隊の7次にわたるチベット側からの攻撃は失敗し、結局、エベレストが登られるのは1953年5月29日になってからだ。南側、ネパールのサウスコルをたどってニュージーランド人のエドモンド・ヒラリー、インド籍のシェルパ頭、テンジン・ノルゲイの二人が歴史的な登頂者の役割を担った。

◆1922年の隊に参加したジョン・モリスという知日派の英国人がエベレスト登頂直後の1953年6月2日の読売新聞に「特別寄稿」している。「人類の夢果たした英登山隊 30年の貴い経験実る 2度と繰返せぬ?登頂」という見出しで、「30年間に及ぶエベレスト遠征隊の、すべての隊員たちによる協力の成果とみなされなければならない」と強調した上、「エベレスト登頂は今後再び行われることはない」と言い切った。

◆気象、体験、資金力などよほどの幸運がなければあの山には近づけない、と彼は自身の体験から考えたのだ。モリスの見方はその時代の普遍的なものだったろう。しかし、エベレストは人を近づけないどころか、とんでもない客好きだったのである。90年代に商業公募登山が発達して登頂者は増え続け昨年だけでなんと514名がサミッターに。これまでの統計では少なくとも3565人が登っている。

◆2008年1月11日エドモンド・ヒラリー卿の訃報に接した時、これで地球の3極点の初到達者はすべていなくなった、とぼんやり考えた。1909年に北極点に初めて達したロバート・ペアリー、1911年南極点に達したロアルド・アムンゼン、ヒラリーの相棒であったテンジン(86年5月9日72才で死去)。感傷はなく、むしろ鮮やかな存在として今も生き続けている。

◆ヒラリー卿には何度かお会いしているが、印象に残るのは、5年前、オークランドの自宅にお邪魔した時の最後の会見だ。海を見はるかす高台の家で初登頂した山の「混雑による環境破壊」を憂い「私たちは幸せだった」と回想する老登山家は、養蜂に鍛えられた少年期の物語となると楽しげだった。「父は小さな新聞を発行していて、蜂ははじめ趣味でやってたんですが、だんだん箱の数が増えてきて、ついには1600箱もの蜂を飼うようになったんです。1才下の弟と私は子どもの頃から手伝うようになった。蜂の箱って、重くて40キロ以上あるからね。毎年20トンから30トンもの蜂蜜をとっていたんですから大変な仕事でした」

◆この夏、30周年目に入る地平線会議。前後百年は自分の時代ととらえ、貪欲に現代史を生きてほしい、と思う。ことしもよろしく。(江本嘉伸)


先月の報告会から

「ラテン・アメリカ5000年の孤独」

白根 全

2007年12月26日(水) 新宿スポーツセンター

 白根全さんは、一見、偏屈な感じのする人だ。わざわざ、場を和ませるために社交辞令を使うような気遣いはしない。それは、自身、情報一つ得るためにでも、掘下げるだけではなく、立ち位置を変えたり、既成事実をも検証し直すこだわりが、余計な修飾を削ぎ落としてきたからなのだろうと理解する。当然ながら、全さんの口から出る事柄は、どこのメディアからも聴いた事が無い見解だったり、未知かつ予想もつかない独自の説だったりする。 彼のアーカイブは、膨大多様で一筋縄ではいかない異質の物をもストックしているようだ。

◆そんな、滅多な事では人を褒めない全さんが、尊敬と敬愛と共に、その人間性を手放しで称える人がいる。それは、若き日に出会い、これ程までに永く南米に関わるきっかけになった天野芳太郎氏(1898−1982)である。氏は、アンデス文化の研究に尽力するばかりでなく、保管環境が整わないペルーで、私財を投じ博物館を建て貴重な収集品の保存にも多大な貢献をした。日本のシュリーマンとも云われている人だ。今回、報告の主題となった「ラス・シクラス遺跡」とは、その天野氏のフィールドであったチャンカイ河谷(リマから北へ90キロ)で、新たに発見された5000年も前の神殿遺跡だ。昨年、新聞で何回か報道されたのでご存知の方も多いと思うが、4大文明を発祥と覚えれば良かった世界史が、実は5大文明なのだとリセットしなければならなくなる可能性も出てきた。

◆前方後円墳に似た円形部分、高さ10メートルのピラミッドの天辺から、皮肉な事にペルーでは産業化しているという盗掘によって5000年の眠りから覚めたものである。この大発見に当初から関わってきた全さんの話は、ナショナル・ジオグラフィックにも未だ載っていない最新情報である。黄金の埋蔵品を狙ったであろう盗掘による8メートルの竪穴からは、意外にも神殿を地震の損壊から守る独自の建築方法が明らかにされた。シクラスという繊維でネット状に編まれた袋に大小の石が入れられ、神殿の壁の内側に詰められて、地震の振動を分散吸収するクッションになっていたものだという。この繊維から4960年プラスマイナス50年という数字が出てきた。

◆全さんの説明は、インカ時代から古代へ遡るタイムトラベルに加え、ペルーをはみ出して南米上を孫悟空のごとく飛び回る。頭の中に歴史年表と南米の地図がインプットされている事は、聴く側として求められる最低条件だ。一般的に発掘考古学と聞けば、硬派のイメージだが、全さんの説明は合間合間に、レアな雑学が満載でその楽しさにも惹きつけられる。「マチュピチュはインカセレブのリゾートだった」という突飛な白根説に、正直、参加者はとまどってしまうが、その驚く様子を見て楽しんでいる全さんからは、四半世紀にも亘るラテン仕込みのいたずらっぽい横顔も見えてくる。突飛とはいっても気象条件、環境の快適さ、ユニークな立地など綿密な計画都市でもあるマチュピチュの謎を解釈する白根説には、頷ける部分が多い。

◆ラク・シクラス遺跡に話を戻せば、起源を5000年前とし、以後100年から150年周期で新たな神殿を上に覆い被せるように積み重ね、徐々に神殿の規模が拡大化していき、少なくとも5回ほどの改修の跡が見られるらしい。アンデス文明のキーワードのひとつである『神殿更新』だ。不思議なことに、黄金はおろか土器さえ使った形跡は出てこないという。そして、人々の間には格差が認められず、リーダーがいたとしても旧大陸に存在した文明の支配者とはかなり異なっていたようだと全さんは言う。まだまだ分からない事は多いが、将来的には「チャンカイ遺跡、世界文化遺産」の登録を目指している。

◆ところで、全さんといえば世界にたった2人しかいない「カーニバル評論家」の1人だ。南米、中米のカーニバルならば勝手知った地元のごとく、更に北米、ヨーロッパ、アジアと世界のカーニバルを訪れてきて、今やライフワークになっている。だが、そもそもなんでカーニバル?と思うのは私だけだろうか。そのあたり、全さん曰く「カーニバルこそラテンの真髄! 人々が建前を脱ぎ捨てて本音で振舞い、感情を制御せず、氾濫、自由、暴力など人間本来の姿が見られるからやめられない」と。何かにつけて遠回しな表現を良しとする日本社会とは、まさに地球の裏側ほどの距離を感じる瞬間なのかもしれない。

◆ただし、全さんが違和感を感じるカーニバルがある。通算22回も訪れたというキューバのカーニバルだ。識字率99パーセント、高度なレベルの医療や教育も無償。ホームレスやストリートチュードレンなど皆無の理想郷であり、唯一成功した社会主義国家との誉れ高い国だ。しかし、全さんの目には、心の奥底から陶酔して無防備に酔いしれるカーニバルは見えてこないという。すぐ隣の最貧国ハイチの、暴力と狂乱のカーニバルとは対照的だ。

◆また、こうした全さんのシビアな視点の延長線には、ラテンアメリカに張り付く北の巨人アメリカの陰湿な陰を見るという。国益のためになら何でもしてきた国というのが、陽気が代名詞になっているラテン民族間に通じる常識だ。いざという時には、安全保障の名の下に最大限サポートしてくれる国家だなんて、ラテンの人達は夢にも思っていない。私が数年前に中東を旅した時、「アメリカは世界の警察だ」なんて能天気な事を言っていた上智大生から、後日、NHKに就職が決まったと連絡をもらった事を思い出した。全さんの話からは、日本の甘さや危うさも見えてくる気がする。

◆話題は、南米の食文化にも及ぶ。南米を起源とする食材は、トマト、とうもろこし、ポテト、トウガラシなど、私達にとっても欠かせないものになっている。2000種もあるというポテトの中には、チューニョと呼ばれる冷凍乾燥加工により3〜10年も保存できるものがあり、会場で現物を手にする事ができた。ペルーの人々は、特異な地形からくる数千メートルの高度差を農業や牧畜にうまく利用している。アンデス文化のもう一つのキーワード『垂直統御(バーティカル・コントロール)』という概念 だ。高所での運搬や織物の素材に活用されているのが、この地特有のリャマ、アルパカなどのラクダ系家畜だが、乳はとれず、従って乳製品文化は無い。アンデスと云えば、厳しい条件下での生活が想像されるが、意外や日照、水資源などに恵まれ、なかなか暮らしやすい所なのだそうだ。

◆こうして語られる内容は、あちこちに枝葉が広がり、とても2時間半の報告会で語り尽せるものではない。詳しいことは、「一にも二にも本を読め!」と、何冊もの本のタイトルが示された。ただし、ポイントとしては、如何なる本であろうと「疑いの目を持って読むべし!」だそうだ。そうした本を読んで、ある程度全さんの土俵に近づいてから話が聴ければ、明らかにもっと多くものが見えただろうと少々悔やまれる。こうした学術的要素が絡む報告会などには、聴くための下準備というのも必要になってくるのかもしれない。

◆それにしても、終始感心してしまったのは滑らかに出てくる数字の羅列だ。1532年11月16日、インカ帝国滅亡。1911年7月24日、ヒンガムによるマチュピチュ発見。1953年1月23日、カストロの武装蜂起など。年数ばかりで驚いてはいられない、月日までが付いてくる。数年後に耳順の私にとっては全くもって無理な話だ。広範に精通した内容だったため、連発花火のように次から次へと目いっぱい語ってくれた全さんは、本格的なユーターン・ラッシュも始まらない年明けの3日には、もうチャンカイ河谷へ向け飛び立って行った。(藤原和枝


[報告者のひとこと]

■親譲りの無鉄砲で子供のころから損ばかりしている、かどうかは不明だが、超個人的お約束として「権威と名のつくものは、それが何であれ一律楯突くこと」、および「流行りものはすべからく思考停止的ファシズムとして断固拒絶!」を旨にダラダラと生きてきた身からすると、報告会ではかなりエラソーな話をぶってしまったものだと反省しきりの今日この頃。まだまだ修行が足らぬ証拠だろう。風格は身に付かず、円熟には程遠い。

◆とはいえ、賢くなった(気になった)、進化している、シビレマシタ〜……などなどお誉めのお言葉を寄せられると、調子に乗ってどこまでも突っ走ってしまう、本人も持てあまし気味のこの性格だけは何とかしたいものだ。ハッタリとケムに巻くというのがその実態で、『神殿更新』だの『垂直統御』だの、わかったようなことをかましてしまったが、ネタはブックリストを見ればすぐばれてしまうのである。いずれにせよ、暮れも押し迫ったあわただしいなか、遠路はるばる会場へ足を運んでくださったお暇な方々や、仕込みから受付まで担当の関係者一同に、あらためて真夏のペルーより感謝の意を表したい。

◆さて、そのペルーでは、ブックリストに挙げたアンデスのラクダ科動物の権威、稲村哲也愛知県立大学教授、シクラス遺跡の発見者で耐震工学専門の藤沢正視筑波技術大学教授、天野芳太郎氏の自伝『天界航路』の著者である尾塩尚氏ほか、チャンカイ・プロジェクトのメンバーに加えて、アンデスのジャガイモ研究の第一人者である山本紀夫氏率いる地球環境研究所の京都大学グループ総勢12名が現地に集結。昨年11月末から第3次発掘調査が進行中のチャンカイ谷シクラス遺跡を訪れ、あらためてその複雑な構造や謎に満ちた成り立ちに思いを馳せることとなった。予想以上に複雑な壁が入り組み、その全貌が明らかになるにはまだかなりな時間が必要になりそうだ。

◆今回は久しぶりに尾塩氏と同行し、天野氏の知られざる思い出話をうかがう機会にも恵まれた。齢70を数える尾塩氏いわく、自らの生涯で出会った幾多の人物のなかで、天野氏ともう一人、宮本常一氏はまさに巨人という呼び方がふさわしい大きな存在だったとのこと。現場に立つことや直接視線を交わしながら話をすることの重みを味わいつつ、地球の反対側のチャンカイ谷で出会いの不思議さを実感した瞬間だった。

◆実はまだ公表できないが、ペルー関連の大プロジェクトが密かに進行中で、今回はペルー政府文化庁その他関係諸官庁との折衝が主目的の一つでもある。うまいこと進んだら、一番先に地平線会議にお知らせいたしたき所存でござる。さて、カーニバルどーしよう!(ZZZ@ペルーより)

★報告会関連ラテンアメリカ理解のための必読書・基礎文献リスト(白根全)★

■1491―先コロンブス期 アメリカ大陸をめぐる新発見― チャールズ・C・マン著 NHK出版  2段組み715ページ
■天界航路―天野芳太郎とその時代― 尾塩 尚著 筑摩書房 632ページ
■ジャガイモとインカ帝国―文明を生んだ植物― 山本紀夫著 東京大学出版会 346ページ
■雲の上で暮らす―アンデス・ヒマラヤ高地民族の世界― 山本紀夫著 ナカニシヤ出版 392ページ
■リャマとアルパカ―アンデスの先住民社会と牧畜文化― 稲村哲也著 花伝社 288ページ
■古代アンデス 権力の考古学 関 雄二著 京都大学出版会 315ページ
■朝倉世界地理講座14 ラテンアメリカ 坂井正人他著 朝倉書店 496ページ
■反米大陸―中南米がアメリカにつきつけるNO!― 伊藤千尋著 集英社新書 218ページ
■フィデル・カストロ後のキューバ―カストロ兄弟の確執とラウル政権の戦略― ブライアン・ラテル著 作品社 376ページ
■ブラック・ジャコバン―トゥーサン・ルヴェルチュールとハイチ革命― C・R・L・ジェームス著 2段組み550ページ
■ヴードゥー大全―アフロ民俗の世界― 壇原照和著 夏目書房 2段組み484ページ
■シモン・ボリーバル―ラテンアメリカ解放者の人と思想― ホセ・ルイス・サルセド・バスタルド著 春秋社 512ページ
■太鼓歌に耳を貸せ―カリブの港町の「黒人」文化運動とベネズエラ民主政治― 石橋 純著 松頼社 574ページ
■甘さと権力―砂糖が語る近代史― シドニー・W・ミンツ著 平凡社 434ページ
■聞書 アフリカン・アメリカン文化の誕生―カリブ海域黒人の生きるための闘い― シドニー・W・ミンツ著 263ページ

●その他ラテン関係の必読書・基礎文献は多々あるが、とりあえず上記合計6595ページを読破したら、どこからでもかかってきたまへ!


地平線ポストから

[2008年こそ命のアンテナを磨く旅を]

 今、イラワジ川を下っています。早稲田探検部OBの高野秀行君と「秘竜イラワジを下れ」をやっています。「幻獣ムベンベを追え」「巨流アマゾンを遡れ」(集英社文庫、以下同じ)に続く、動詞題名3部作の第3弾に同行中です。

 高野秀行は、関東大学探検部仲間の後輩で、辺境冒険ライターとして最近売れているようです。日本の辺境四万十市の本屋でも、文庫のコーナーに高野秀行の名札付きで有名作家と肩を並べて並んでいます。

 語学天才の高野君には、アフリカ仏語圏で植林活動中によく仏文訳を頼んでお世話になりました。1997年には、一緒にアフリカ・ナイル源流をはいずり回った仲です。

 「いずれ、ナイル下りをやるから、その前にナイル川流域で木を植えて知り合いを作っておこうと思う、一緒にいかんか。」とおだてて、同行してもらいました。

 昨年2月、自転車で西日本走行中に高知にも訪ねてくれ、四万十川を一緒に下りました。その時の模様は3月に「神に頼って走れ」と題して出版される予定です。その時、イラワジ川を下ろうと盛り上がり、やってきました。その勢いで5月ごろ、第2回四万十川ドラゴンランをと企てています。』

 という新年の挨拶になる予定でしたが、ミャンマーがあんなことになってしまい、イラワジ下りは延期しました。

 閑話休題。

 高野著の「怪しいシンドバッド」のあとがきに、ある先輩の言葉が出ていました。『高野、いいか、世の中で真に重要な情報とは2種類しかない。一つは自分の身を守るための情報、もう一つは人を元気にさせる情報だ』「なかなか、いい名言やなあ。だれだ そいつは?」と聞いたら、「なに言ってるんですか、山田さんがナイルでよく言ってましたよ。」

 忘れていた。

 僕は、ここ数年、情報受発信拒絶性とでもいえる状況です。情報機器扱いが苦手なのもありますが、ここ四万十でさえ、悪化する自然が発する情報に僕の心身のアンテナは悲鳴をあげています。できれば発信したくない症候群になっていました。

 追い打ちをかけるように格差社会がすすみ、負け組になっている田舎は暮らしも大変になっています。

 昨年、ゴア元アメリカ副大統領が「不都合な真実」でノーベル平和賞を取りました。なにを今さらとも思いましたが、温暖化以上に、もっと早く深刻に、水、食料、資源不足が来るとの予測があります。世界の辺境を見てきた僕もそう思います。

 日本と世界の田舎はその時、1周遅れのトップランナーになるかもしれません。

 今、四万十で子供たちに講演で、次の話をよくします。

 「かつて、君たちのお父さん、お母さんが小さかった時代は、テレビ、洗濯機、冷蔵庫が家庭の「三種の神器」と言われました。21世紀は『情報と環境の世紀』といわれます。情報化時代の「三種の神器」を考えてみました。パソコン、携帯電話、そして命(心身)のアンテナではないかと思います。情報機器がいくら良くなっても、送受信する命のアンテナが健全でないと、うまく使えません。四万十川流域には、よその人がうらやむような森川海があります。ここで心と体を磨いて、いい地域と地球環境作りに役立ててください。」と話し、僕は子供たちの目の輝きに元気をもらっています。地平線の若者たちも是非、命のアンテナを磨く旅をしてください。

 3年前から書きためてきた体験談の雑文を、江本さんにあずけています。「夢酔独言」みたいなもので、公になるかどうかわかりません。

 今年あたりから、情報受発信頑張ろうと思います。恥ずかしながら、やっとパソコン、ケイタイの扱いに慣れてきたもので。

 良き年を。

 ★追伸、5月に四万十川ドラゴンランを計画中です。詳細は追って連絡しますが、是非参加してください。その楽しさは江本さんからお聞きくだされ。(四万十川住人 山田高司)[2008年こそ命のアンテナを磨く旅を]


[春、新聞記者をやめようと思う]

 寒波が襲来したこの年末年始、アイスクライミングのため南アルプスの三峰川岳沢を登ってきた。早大探検部時代の後輩と入山したのが暮れの30日のことだった。初日は林道終点から岳沢出合付近までだが、途中で雪が降ってきた。ちょうど寒波が日本上空を訪れるのと時期を同じくして入山したようだ。この日は他に2人組のパーティーが先に出発していたが、出合につくとその2人組は来てなかった。天候が悪化したので、どうやら途中で僕らと違う道から帰ったのだろう。

◆翌日も雪だった。しかも、風は強くなり、雪の量も増えた。岳沢は谷を登るルートなので、多量の降雪があると雪崩の危険が出てくる。参考にしたガイドブックにもそう書いてあった。さて、どうしよう。引き返すのはいやだが、雪崩も怖い。自分たちよりベテランそうだった2人組も帰ってしまったじゃないか。それなのに突っ込むのか。

◆1日テントで停滞して様子を見たが、風雪はやまなかった。「不安になったら引き返そう」と自分たちに嘘をついて出発した。登りだしたら案の定、雪の状態は不安定だった。傾斜が急になると雪面にひびが入った。見えない敵から逃れるように、危険地帯では走るように雪をかき分け登った。核心部である110メートルの大滝も、その上の急傾斜部分で雪崩が起きないか心配で、楽しむ余裕はなかった。

◆快晴のもと連続する氷の滝を登りに来たのだが、印象に残ったのは雪をかき分けるラッセルばかりだった。計画では尾勝谷という隣の沢でアイスクライミングを継続するつもりだったが、大滝の登攀で両足の親指が軽い凍傷にかかったので下山した。なかなか思った通りにいかないのが冬山だ。僕たちをあざ笑うかのように、下山を決めたとたん太陽が現れた。それにしても山はおもしろい。ここ2年間でそのことを再認識するようになった。

◆僕は現在、埼玉県熊谷市にある朝日新聞北埼玉支局に勤務している。去年の4月に富山市から転勤してきた。富山時代は仕事の要領も悪く下っ端なので、いろいろ不条理な理由で休みをつぶした。立山・剱をはじめとした富山の山々はでかすぎて、冬山はおろか、岩登りや沢登りも連休がないと難しかった。それに比べ熊谷だと、谷川岳や八ケ岳など1日でかなり遊べる山に車で2、3時間で行くことができた。しかも、「日本有数の暴力都市」と揶揄されるほど捜査1課系の粗暴事件が多いと聞き戦々恐々と赴任してきたが、意外と事件は少なかった。いいとこじゃん。休日は山ばかり登るようになった。

◆転勤当初は1人でしらふのまま北関東一の歓楽街と呼ばれる群馬県某市のキャバクラに通うような不純人間だったが、不思議なもので山に通ううち体から毒っ気が抜け、筋肉が引き締まり、ピリピリとした感覚が戻ってきた。ランニングも始め、体重が7キロ落ち、大学生の時とほぼ同じ水準に戻った。

◆気づけば、来年4月で入社してまる5年だ。地平線でヤル・ツアンポー峡谷探検を報告してからまる5年ということでもある。内輪話だが、朝日新聞では入社6年目で本社への異動の時期を迎える。しかし、僕には特に希望の部署はなかった。社会部は面白そうだが、いまさら警察回りから始めるのもなあ。経済部や政治部はよく分からん。文化面や家庭欄に至ってはほとんど読んだことすらない……。「角幡って希望部署はどこなんだ」と聞かれると、「探検部」と冗談で答えてきたが、実際に異動希望を出す段階になると困ってしまった。うーん、なぜ新聞社に探検部はないのだ。社会面の裏あたりに探検面があれば読まれると思うのだが……。

◆それに加え、新聞という媒体と自分自身の性格の間に、決して埋めることができない深い溝があることにも気付き始めてきた。新聞は基本的に社会の木鐸であるべきだ。世間もそれを求めているし、少なくても会社はそれを期待されていると思っている。「こうした方が世の中良くなる」という全体的なコンテキストの中で紙面が構成されているので、事件報道をのぞいて、記事に説教臭さがにじみ出る。小学生に手をあげた校長や、表示をごまかした食品会社には正義の鉄槌を振り下ろす必要があるのだ。

◆しかし、僕は木鐸としては少々ひねくれ者すぎるようだ。「どうでもいいじゃん、そんなこと」という見方をしてしまうことが結構ある。もちろん自分で書く場合にも「こうすべきだ」という説教じみた記事になることはあるが、本気でそう思っているのか自分で疑問だ。本気で思っている人にそう言わせた方が記事の収まりが良いからそうしているだけなんじゃないか。記者をやっていて楽しい時はしょせん特ダネを取った時だけ。平たく言うと、きれいごとを書くことにうんざりしてきた。たぶんあまり正義感がないのだろう。

◆そこにちょうど異動の時期が重なり、登山を再開したことで肉体でものを考えるような探検部時代の感覚も戻ってきた。良いタイミングかもしれないと思い、3月いっぱいで会社を辞めることにした。会社の責任者にその旨を伝えると、「ああ、そう。なんとなく分かる」と言われた。いつでも辞めそうな人間に見えていたようだ。話したとたん自分よりも周りがそういう方向で動き出した。

◆新聞記者になってどんな「抜かれ」(他社に特ダネを書かれること)より嫉妬したのが、早大探検部の先輩である高野秀行氏が書いた「西南シルクロードは密林に消える」(講談社)だった。読んでいて「くそう、いつかは自分も」と思った。とりあえず、やめてからの活動の方針は「探検して面白いものを書く」、目標は「ホームレスにならないように頑張る」と最も低い水準に設定した。まずは名刺に書くための肩書きを考えなくてはいけない。探検家は面はゆいので、ルポライターあたりにしとこうかと思っている。(角幡唯介


[深雪のラッセルとともに鷹狩りの季節が……]

■「類は友を呼ぶ」の諺もあるが、暮れも押し詰まった12月20日、大きなザックを背負った髪の長い35才の女性が月山の山奥にある我が家を訪ねてきた。彼女の話によると大学の法学部を出た後、酒の雑誌記者の仕事に就き、数年前にその仕事を辞め世界一周の旅に出、今は好きな東北の山を登りながらマタギや鷹匠を訪ね歩いているという。話を聞くほどに「変わった女だな」と思ったのは、その山行のほとんどが単独行であり、テントや避難小屋泊りで飯豊連峰、朝日連峰、早池峰山、大雪〜トムラウシ、羅臼岳等数多くの縦走を果たし、一番大変だったのは23キロのザックを背負いブヨの集中攻撃にあった日高山脈の縦走だったとのこと。しかし、雪山は仲間の後について登った秋田の太平山が一度だけでカンジキも今まではいたことがないという。そこで月山の西に独立峰のようにぽこんとそびえている雪山初級クラスの品倉山(1,211m)に案内することになったのだが、麓の湯殿山スキー場から歩きはじめた私たちは予想外の雪の深さに苦しめられることになった。

◆新雪の柔らかい雪はカンジキをはいても膝や太股までもぐり、まず彼女を先頭でラッセルさせてみると木の根元や雪におおわれたヤブに股や腰まで落ち込み、そのたび「キャー、キャー」と悲鳴をあげる。「動物が皆逃げるじゃないか」と思いながらラッセルを交代して進むが、品倉山の急斜面のとりつきまで、堅雪の時なら1時間もかからない距離が3時間近くもかかる有り様だった。さらに頂上に向かう急斜面に挑んでみたが腰までもぐる深雪では時間ばかりが過ぎていき、容易にその頂に近づく気配もなく、下山にかかる時間を考えると悔しいが午後2時の時点で登頂を断念せざるをえなかった。

◆その時急斜面の雪の上に腰をおろして休憩をとった私たちが目にした光景は、西のかなた遠く、陽を浴びて白く輝く鳥海山の雄姿だった。それは私たちの苦闘に報いるに十分なほどの美しさだった。その後下山していく彼女の後姿は、まるで足にくさりで鉄の玉でもつけられた奴隷のような重い足取りで思わず苦笑いしてしまったが、深雪のラッセルにも一度も音をあげなかった粘り強さはなかなか見上げたものである。

◆暮れから正月にかけて例年にないほど穏やかな天気が続き、1月中旬からの狩りにむけて、毎日昼夜を問わず村の中を鷹を腕に据えて歩きまわる。いよいよ待ち望んでいた鷹狩りの季節の到来だ。 (松原英俊


[初めて聴いた言葉…『鷹落とし』]

 江本さん、地平線会議のみなさま、新年あけましておめでとうございます。南会津も大晦日から「大雪警報」の知らせと共に年末年始は真っ白な世界となりました。が、一昨日の小寒にも雪は降らず、今朝(1月8日)は朝から雨が降っています。これも暖冬の影響でしょうか?

◆少し前の話ですが、先日(といっても年末)夕暮れ時に息子を抱いて玄関先に出たら、近所の叔父さん(けいいちさん)が手に何かをぶら下げて歩いてきました。最近、視力が落ちたせいか?けいいちさんが近づくまで手に持っているモノも、得意げな顔をしている表情にも気がつかなかったのですが……数メートル先まで近づくと、何となく生き物?のような気がして声をかけてみました。

◆「けいいちさん、それ何?」『こらぁ頭ねぇけど、ヤマドリじゃよ』「どうしたの?それ?」『これは、鷹の仕留めたヤツの残りだぁ』「……?」『さっき、そこの城山の方で、鷹がヤマドリ狙ってるの見つけたもんで、そっちの方見てただ。そしたら、鷹がヤマドリくわえて城山の中に入ってったから、そっちの方に行ってみただよ。そしたら、頭だけ食べて、これ落としてったみてぇだ。こっちの方では、こういうヤツを『鷹落とし』っていうだ! なかなか、ねぇだよ』と嬉しそうに、まだ温かそうな、頭のないヤマドリを手にぶら下げているけいいちさんの話に内心驚きながら耳を傾けました。鷹落としの獲物を持って歩いている近所のおじさんの後ろ姿を眺めながら、自分は見たことのない身近な自然の営みに思いを馳せることができました。みなさま良い1年を……。(冬の雨音を聞きながら 南会津より酒井富美


[ことしも、鷹匠やマタギに学びます]

■新年明けましておめでとうございます。昨年、武蔵野美術大学を卒業した佐藤洋平です。大学では文化人類学教授の関野吉晴先生にお世話になっていました。在学中にアラスカを旅したことがきっかけなのか、狩猟文化や民俗学にも興味を持っています。また、海に関心があり昨年はハワイの伝統航海術船「ホクレア号」の日本航海を追っていました。この1月は鷹匠の松原英俊さんのお宅や新潟のマタギ集落に伺う予定です。地平線会議の皆様にとって良い年になりますように! (佐藤洋平


[嗚呼! 八幡平雪中の邂逅]

★その1

■あけましておめでとうございます。いかがお過ごしですか。私は、正月明けてから、八幡平にスキーを持って遊びにいってきました。後生掛温泉の湯治場に泊まって(なんと1泊2000円ですばらしい温泉付ですよ!)、近くの山を滑っていました。

◆焼山の近くをひとりとぼとぼとスキーをかついで歩いていたら、うしろから男女のペアがやってきました。女性がとっても可愛く印象的な方……どこかで見たことがあるなあ……と思って自分の記憶をたどりました。彼女の温泉ブログの大ファンでよく見ていたので尋ねたところ、やっぱり! 滝野沢さんでした。奇遇というかなんというか。こんな渋いところで地平線の人に会うとは。雪の中には3人だけ。

◆お2人とも毎週スキーに行ってるというだけあって、速い! ちゃっかりラッセル泥棒となってしまいました。そういえば、わんちゃんは年をとったので、最近は一緒に山へは行っていないそうです。 (恩田真砂美


[嗚呼! 八幡平雪中の邂逅]

★その2

■1月5日、豪雪の秋田・後生掛温泉の裏山にダンナと一緒にスキーで登っていたら、恩田真砂美さんに会いました。さすが世界の山を股にかける登山家、女1人の雪山登山でも危なげなく頼もしいですねえ。その日の登山者は私たち3人だけという、マイナーな山で地平線関係者(?)に会うとは。世界は狭いとびっくりでしたが、(白根)全ちゃんが提唱していた「業界2000人説」を思い出してまたしても納得しました。

◆そんなわけで、我々夫婦は5月くらいまで山スキー&テレマークで雪山三昧です。主に西大顛、安達太良、裏磐梯など福島周辺の山に不定期に出没していますので、見かけた方は声をかけてください。

★追伸:1月11、12日は千代田区スポーツセンターで「温泉入浴指導員」(厚生省認定)の資格取得のため、みっちりと講習を受けておりました。このほかにも日本温泉地域学会認定の「温泉観光士」「温泉ソムリエ」の資格も持っているんですよ!! 今や地平線会議きっての温泉通を名乗ってもいいのでは? と思っております。(数では賀曽利氏に負けますが)(滝野沢優子


『南極レター 番外編』
[地平線通信を南極で受け取りました!]

 江本さん、地平線通信読者の皆さん、明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。南極に来て、1年と少し経ちました。今こちらは次の隊が持ってきた物資の輸送作業で大忙しです。ヘリコプターに乗らない大型物資の氷上輸送が終わり、1月6日からは本格空輸が始まっています。輸送の荷受は前次隊が行うことになっているので、私たち48次隊は年末からずーっと、チームを組んで荷受けや配送業務に携わっています。

◆この夏は天気が悪く、12月下旬にブリザードが1回、おとついあたりから再び平均風速25m/sに達する強風が吹き、空輸も49次隊の夏作業もストップしています。夏の嵐は降雪を伴わないようで、風ばかりが強くて視程はあります。今日はまだ15m/sの風が吹いていますが、「飛行作業を予定通り実施する」そうです。荷を受ける側はラフタークレーンやユニックを使いますので、こんな風の中ではおっかなびっくりです。

◆さて、先月半ばの「第一便」で「地平線通信」を受け取りました。つい、読みふけってしまいそうになりますが、今はパラパラと見るにとどめ、帰りの長い船旅までとっておくことにしました。越冬交代まであと20日ほどです。明日9日は私の誕生日。南極で迎える4回目(注:永島さんは南極越冬は2度目)の誕生日です。4回も南極で年をとれるなんて、とてもラッキーです。1月生まれでよかった。去年の誕生日の頃は、48次の仲間たちのこともまだよく知らず、これからどんな1年になるか想像できず、不安な気持ちで観測や夏作業に従事していたことを思い出します。

◆1年経った今は、ずいぶん気楽な気持ちでいます。帰国後のことは不安も多いけれど、ここでの生活はとてもよかったな。仲間たちに本当に恵まれました。48次隊はやさしい人が多くて、いろんなことがあったけど、決して誰かを孤立させることもなく、許し許されながら共に一年間過ごしてきた感じです。

◆あと2か月と少したったあと、みんなと別れるのがつらいんですよねー。これから本当の家族のもとに帰っていくわけですけど、一緒に暮らした越冬の仲間もすでに十分家族です。私からすると、お父さんが何人かいて、おじさんやお兄ちゃん、弟がたくさんいるようなもんです。基地を出入りするたびに、「行ってらっしゃい」とか「おかえり」と言ってもらえるのがいちばん好きでした。残りあとわずかですが、最後まで安全に、南極ライフを堪能したいと思っています。それではまた。(1月8日 永島祥子@昭和基地 第48次日本南極地域観測隊・地圏担当)


[夏のしっぽを追って−伊豆・八幡野で迎えた初めての正月]

 江本さん、あけましておめでとうございます。お正月は四谷でお過ごしでしょうか。私は伊豆で過ごしています。最寄りの伊豆高原駅は観光客も含め大勢の人でにぎやかですが、私が住んでいる昔ながらの海側の集落は、いつものように静かです。元旦には、近くの八幡野港から初日の出を見ました。この辺りは冬場、太陽が水平線からではなく伊豆大島から昇るんですよ。冬の青い海の先に大島をはじめ利島や新島、神津島がよく見えます。

◆伊豆半島の東海岸・八幡野(やわたの)に生活のベースを移して約8か月、仕事の関係もあり東京と行ったり来たりですが、少しずつ慣れてきたかなと思う今日この頃です。元々ここは母方の祖母の実家。母のいとこたちは、子どもの頃、夏休みになるとこの八幡野の家でひと夏を一緒に過ごしていたそうで、今も親戚が3人集まれば必ずといっていいほど八幡野の話になります。

◆私は次の世代ですが、やはり八幡野の家で過ごす夏を楽しんでいました。クマゼミの鳴き声で起き、海で泳ぎ、庭でスイカやとうもろこしを食べ、テレビで高校野球の中継を見て……。その合間に昼寝や宿題をして、夜は花火。そんな子どもの頃の夏のしっぽを追いかけるように、この地にやって来てしまいました。数年前、ある会で自己紹介のためにと「豊かな暮らし、幸せな暮らしのイメージ」「自分にとっての“気持ちのいい場所”」について具体的な記述を求められたことがありました。そのときに思い浮かんだのが「八幡野の家の夏の庭のシーン」であり、自分にとって大事な存在であることを改めて意識したように思います。

◆伊豆の自慢はなんといっても魚がおいしいこと。近くの魚屋さんに通って、旬の魚の調理法を基礎(!)から学習中です。地平線会議の方をはじめ、友人や仕事関係の人、家族や親戚が家に遊びに来てくれるのもうれしいです(お酒を飲む時間が増えて、太ったのは問題!)。きょうだいのように仲のよい母のいとこたちは、実際にやって来て、またメールや手紙で、家に残っている家具や道具(曾々祖父の名入りの木箱などもありました)のこと、庭のみかんの木の種類などいろいろなことを教えてくれます。たまたま今は私が住んでいますが、ここはみんなの家なのです。

◆そうそう、きょうだいといえばチンパンジーの女の子もいるんですよ。私が生まれる前の話ですが、動物心理学を専門としていた大叔父は、神奈川の丘の上の家で、アフリカ生まれのチンパンジー「サチコ」を人間の子どもと共に家庭で育てるという試み、研究をしていました。1961(昭和36)年から翌年にかけてのことで、当時、個人でそのような研究・挑戦をするのは珍しく、幼いチンパンジーを入手するのには苦労したようです。当時、5歳と3歳だったその家の人間の息子たちは、生後9か月でやってきたチンパンジーの妹を大歓迎し、抱き合って遊んだり、食卓を一緒に囲んだり……。

◆そんな楽しげな家族の日常のシーンをとらえた写真が、大叔母がサッちゃんとの日々を綴った本にはたくさん収められています。私の母や叔母もサッちゃんと一緒に海に遊びに行ったそうです。もちろん互いに楽しいことばかりでなく、サッちゃんの成長に伴う腕力アップによる苦労、そして動物本来の姿ではない生活をさせているという思い、葛藤なども家族にはあったようで、最終的には多摩動物園で飼育してもらうことに。

◆それからもう何十年も経ちますが、母のいとこたちの記憶のなかでサッちゃんは今も生き続けていて、ときどき話題に上ります。大叔父は数年前に亡くなりましたが、生前に地平線会議の話をしたら、きっとすごく興味をもっただろうと思います。今年も、自分の知らない世界を垣間見させてくれる報告会、そして通信を楽しみにしています。毎月届く通信を通して、いろいろな土地でそれぞれの営みがあり、時間が流れていること、いろんな考え方があることを伝え、教えていただき、ありがたく思っています。(妹尾和子


[ことしもぶんぶん飛びまわりそう]

■こんにちは。本日1/11は急遽、出張でソウルに来ています。雪がしんしんと降り、静かな朝を迎えています。昨年の海外出張の行先は、3月:韓国、7月:シンガポール、8月:マレーシアのコタキナバル、その足で韓国に8日間、12月:モンゴル、香港から韓国。10月は中国に住む姉家族に会いに行き、上海の崇明島という長江の中州の島で国慶節を過ごしました。

◆飛行機の発明は素晴らしく、また、短時間で異文化への移動を可能にしてしまう、すごい利器だなあと乗る度に思います。1週間後には来年度の売上げ計画を立てに、再びソウルに赴きます。新しい1年の始まりです。今年もよろしくお願いいたします。(三羽宏子 映画「プージェー」字幕翻訳者)


[ウルドゥー語文化交流活動、2008年新たな展開へ!]

 2005年8月末から2007年3月半ばまで、僕たち東京外国語大学のウルドゥー語劇「はだしのゲン」印パ公演活動は、インドでの18公演、パキスタンでの10公演を果たし、報告書の作成を残して実質終了しました。地平線会議からは2007年3月の報告会にお呼びいただき、記録に残すことができました。感謝です。

 今年は何か別の文化交流活動はできないものかと考えた末、ちょっと浮かんだ案があります。相手がいることなので、実現可能かどうか現時点では皆目分からないものの、新年にあたり抱負として紹介させていただきます。

 交流の最低条件は、1)僕たちの専攻するウルドゥー語・文学と直結していること。2)毎年秋の外語祭で開く1年生主導による印パ料理店の純益金を活用できること。目的地は北インドのウッタル・プラデーシュ州はアーザムガル県のミジュワーン村。ここで行なわれている農村改革運動に文化活動として、またボランティア活動として参加できないかどうかを確かめに、僕は大学院生らとともにこの3月半ばから4月頭にかけて3週間ほどインドへ行ってきます。

 うまく行けば、以下の人たちとともにウルドゥー語を通した交流ができるのではないかと期待しています。ウルドゥー進歩主義詩人の故カイフィー・アーズミー氏、その奥様で舞台・映画女優のシャウカット・カイフィー女史。その娘の映画女優シャバーナ・アーズミー女史。その夫君でヒンディー語映画界を代表する作詞家のジャーヴェード・アフタル氏。キーワードは「Yaad Ki Rehguzar」「Kaifi aur Main」。ネットで検索してみてください。ここに宣言します。2008年から東外大ウルドゥー語専攻の文化交流活動は新たなる道を突き進みます。卒業生をも含めた専攻生の積極的関与が必要となります。乞うご期待!(麻田 豊


《おめでとう、夏帆さんの成人式!!》

 1月13日、河田(榊原)真智子さんは自身のブログ「海うさぎ・最重度障害児・者のためのサポートネットワーク」にこう書いた。「謹んで、御礼申し上げます。明日、成人式を迎えられますことを。このブログを読んでくださっている方からもメールをいただいたり、お花をいただいたり……感激です。幾度も命の危機を通り抜けて来た娘が20歳になる。親としては感無量です。『謹んで』などという言葉を自然に心からのことばとして使うのは一生のなかで初めてのことかもしれません。頑張って生きてきた夏帆にも、感謝です」

◆翌1月14日、はたちの夏帆さんは目黒パーシモン・ホールの目黒区主催の成人式に「総絞りの振袖」姿で参加した。お母さんが京都の市原亀之助商店に特別に頼んだものだ。会場の前で、記念撮影。花束を持って駆けつけた夏帆さんファンの婦人たちの多くもこの日は特別に和服姿だった。この日に備えて猛烈な準備に追われたお母さんは、この瞬間はカメラウーマンに徹していた。会場から夏帆さんの自宅まで20分ほどを皆で歩く。寒いが、よく晴れた日だった。なごやかな、少しふしぎな顔ぶれの行列だった。

◆自宅には、島人たちからの心が待っていた。沖永良部島からのエラブユリ、八丈島のカサブランカ。そして、奄美大島から届いた伊勢エビ、カンパチ、ブダイなどの新鮮な魚たち、豚味噌、チラガー(豚の顔)、島の焼酎……。最後に友がつくった大きなケーキ。20本のローソクをつけて。

◆40人を越す人たちが参加した、多分この日日本で一番幸せな成人式だった。(`江本嘉伸


[ああ! エベレスト・ビューホテル!]

 ここ、行ってみたい…。それは2006年末に見たTV番組「世界の絶景100選」で紹介された絶景。それが始まりだった。1年後の2007年末、少し?早い目の休暇を取り関空からバンコク経由でカトマンドゥ入り。成田からの同志渡邊泰栄さんとバンコクで合流、翌朝一路カトマンドゥへ。エベレスト街道起点ルクラへの国内線は濃霧5時間待ちでようやく搭乗。まさかの山斜面にあったルクラの空港への着陸はその待ち時間も吹っ飛ぶ最高の飛行アトラクションだった。

◆パグディンへ向かう途中に日本語の看板を見つけ思わず立止まる。「HAT-J アップルプロジェクト」。なんだか嬉しくなった。街道の途中にはあちこちにマニ車がある。旅の無事と目的達成を祈り回しながら先を急ぐ。ナムチェでは美味しいケーキなども堪能できた。そしていよいよシャンボチェの丘に建つあの場所へ。ここまでの景色も思わず足を止めずにはいられない景色の連続だったが…その場所は文字通り言葉失う絶景だった…。

◆どの部屋からでもエベレストを眺めることができるというこのホテル…。エベレストを中心に夕焼けが映える。オレンジから赤へ、そしてピンクに染まり夜に帰ってく。宇宙の中に吸込まれたかのような雲ひとつない紺碧の空からの変化を部屋の前にあるテラスからただ見守れる贅沢を噛みしめている自分がいた。無事来れてよかった。絶景をみせる山々にも感謝でいっぱいだった…。ホテル・エベレストビュー。そこは神々しいまでの山々に囲まれた休息地。聖域への入口なのかもしれない…。(村松直美


《「天」と「大地」の響きの間にかけがえない「わたし」の音がある》

 みなさん、おめでとうございます。いつも地平線通信に刺激をいただいています。私の方は高峰登山から離れ、学生や子どもたちと自然の中に入ることが多くなりました。そのひとつ、昨秋にある企業のサポートをいただき富士山麓で実施した10〜12歳対象の1泊2日の冒険キャンプで感じたこと。

◆テーマは『自然のなかで、自ら感じるままに動いてみる・遊んでみる・過ごしてみる!』。初日はなんと台風襲来。招待でもあり、キャンセル続出かと思いましたが全員参加。テーマに何かを感じた子どもたちが集まってくれたのでしょう。申し込み段階から今回の場は始まっていたようです。大雨の中、森の中の広場の上にタープを張り巡らし、中央に焚き火。早く到着した子どもたちもベース作りに参加してくれ、何とか開会式に間に合わせることができました。

◆いよいよ、冒険キャンプの始まりです。焚き火に薪集め、お餅つきに食事作り。大雨のなか、火を囲んでぐっと凝縮したときが過ぎてゆきます。翌日は一転、台風一過の素晴らしい空。早朝に赤富士と対面し、登山口では十六夜のお月さんが富士山と宝永山の間に沈んでゆく光景に出会えました。朝食を終え、まずはみんなで樹林帯の小道へ。

◆森を抜けるといよいよ、この2日間のクライマックス。富士山南面 双子山の弟に向かって広大な斜面が広がっています。その奥には兄山があり、宝永山があり、そして富士山頂がある。独立峰ながら、まるで4つの山々が連なってあるかのよう。今回はその弟山を目指します。「ここからはラインもペースも自由。あの山の上で会おう!」。話が終わるや否や、まるで競馬のゲートが開くがごとく頂に向かって走り出す元気組。そして秋の柔らかなひかりのなかを自分のペースでゆっくりと歩んでゆく子に友達とおしゃべりしながら登ってゆく子ども。それぞれが思い思いのリズムを刻んでゆきます。

◆早く着いた元気組は「あのお兄さん山にも登りたい!」と。残念ながらそこまでの時間はないかな。でも、兄山との鞍部まで下りてまたこちらに登り返してきたら、と提案すると彼らは何度も何度も繰り返していました。このエネルギーはいったいどこから湧いてくるのでしょう。下山後は再び森へ。2日間の体験の個人での振り返りの後はみんなで分かち合い。それぞれが感じたことを伝え合ってゆきます。そのうちに不思議なことですが、個々の「いのち」が森とともに多様な感性に包まれた大きな「ひとつながりのいのち」となってゆくようでした。

◆私たちのなかの「とらわれのないこころ」。意識の制約がはずれ、それが開かれたとき、そこには想像を超える何かが生まれてくるようです。第九のラストに風や大地、木々や岩の響きが重なり、さらに個々の「いのち」の振動までもが自由律で入ってくるようなシンフォニー。「天」と「大地」の響きの間にかけがえない「わたし」の音がある。その「いのち」の音がどこまでも明るく、よろこびに満ちて響き続けています。(戸高雅史


[また旅立てるその日まで、待っていろよ、世界!]

 あけましておめでとうございます。すっかりご無沙汰しています。

◆近況といいますと「海や山に囲まれた三浦で、のんびり子育てスローライフ」なんて…そんなもん私にはあるわけもなく四十路の身体に鞭打って母(なにしろ私は志願兵ですから)&仕事&主婦を気力体力でこなしています♪ 子供たちは颯人(そうと)3歳と凛果(りんか)1歳になりました。スクスクというよりガシガシ育っております! 颯人は反抗期&遅い赤ちゃん返りで「抱っこ抱っこ星人」謳歌中なので、私の右腕がテニス肘(腱鞘炎か)になりました。

◆16キロを抱っこして、同時に11キロをおんぶして、保育園で使う昼寝布団を2セット&着替えやらオムツを入れたかばんを肩からかけて歩いていると、背骨が骨盤に埋まるようなかんじや肋骨がきしむのをかんじて「シェルパの荷上げ」がふと頭をかすめましたが、いやいや 体型から言ってもヤク(偶蹄目)ですね♪ 「育児は育自」といいますが本当に「育児は修行」です(笑)。

◆そんなわけでなかなか報告会にも発送作業にも行けないものです。バイク乗りのはしくれとしては、風間氏&賀曽利氏の報告会は垂涎ものだったけれど行けなかった(泣)。私が出かけるには、(1)子供が2人とも元気。(2)夫が宿直勤務ではない日。(3)仕事が定時退社か早退できる日。これが簡単そうで結構ハードルが高い。戸山まで2時間足らずなのに近くて遠いものですねぇ。

◆春からライダーに復帰します。当分は子供を寝かしつけてから「深夜ご近所ばしり」です。それから夫の実家を二世帯住宅に建替中なので「住宅ローン」なんてものに追われる事になります。6年前の私には考えられなかった、人生ってわからないものですね(笑)。また旅立てるその日まで待っていろよ世界! 

P.S パリダカ中止は新年早々驚きました。つくづく平和を祈願します。賀曽利さん「南米」お元気で楽しんで来て下さい! 三輪さん・江本さん足(足以外も)お大事に。(青木明美


[偽りの世に]

 「おめでとう、今年のお正月はいかが致せしや」「子年です、寝正月しました。しげさんはどうしてましたか。いつもは何してんですか」「読書ですよ。地平線通信読んでます」「えっ読書? 読書が地平線通信ですか」「そうです。B4二つ折り毎月の地平線通信。そんなにびっくりしないでよ」

 手元にある十二月号の通信をみてみましょうか。いろいろあるけどまず五頁の『狩猟のすすめ・食べるために殺す過程』(服部文祥)と彼がすすめる、みすず書房の機関誌「月刊みすず」十一月号も一緒に読むと、サバイバル登山では自分の食べるものは自分で捕って、殺し、食べる。食べるなら自分で殺せ、覚悟はあると明言してます。そして村の巻き狩りに参加しついに鹿を一頭仕留めます。山中を駆け回り、じっと期待してついに撃つ。倒れた鹿の頸動脈を切ってとどめを刺す。私も緊張しました。音をたてないように、鹿に感づかれたら大変。そして射止めたあととどめを刺すまで手に汗を握りました。最後に彼は、これからこいつを下して、解体して、肉を分ける。僕はレジャーハンターじゃあない、と高らに宣言します。彼自身に。

 そうよね。私達の暮らしの中にあふれている食べ物と、食べられるものの生命の距離、これはとても恐ろしいことなんです。『本当に命を大切に思うかどうかは、少年時代に殺した昆虫の数による』とサル学者の河合雅雄さんがおっしゃっているのをふと思い出しました。

 一見狩りとは別のようですが根っ子は同じでしょう。とにかくいつか読もうと思っていた「河合雅雄の動物記(1)ゲラダヒヒの星」をしっかり握っていました。この痛快さ面白さで次々と五巻、冬場の暖かい場所で毛づくろいしながら読みました。どうしてこんなに面白い本が書けるのだろうと、彼の自伝がのっている「森に還ろう」も読みました。彼のジャングルでの楽しさ、凄さ、たいしたもんです。気がついたら世の中は新しいカレンダーになるところです。

 地平線通信十二月号はまだ五頁と六頁を読んだだけです。最後の頁をみて下さいな。葉巻をくゆらす地平線ゲバラのチャーミングなこと。二十数年前の南米の貴公子も今や中年真っ盛り。世界に二人きりいないカーニバル評論家、白根全さんです。彼は南米を云々するならまず伊藤千尋「反米大陸」をはじめ、それぞれの名著十数冊、数千頁の書名をあげ、読破してこいと檄をとばします。ゲダラヒヒの次は「反米大陸−中南米がアメリカにつきつけるNo!」(集英社新書)です。

 こんな具合で地平線通信の読書は、延々と続くのでありますよ。

     偽りの世に

  偽 偽の情けない世に
  君この勇気溢れる通信
  天からの贈りものを
  悦んで下さい
  偽 偽証の呆れた世に
  志溢れる通信が
  君の手に渡る縁を
  悦んで下さい
  偽 偽造の凄まじき世に
  信義溢れる通信を
  交り合う生命を
  悦んで下さい

 さてさて話はもとに戻って、十二月号のフロント頁です。読むほどにあーら不思議、ある日ある時、東京のど真ん中新宿の彼方からゆらゆらと、山の気が立ちのぼったのであります。

  新宿のアジトに集う四人衆
  山の精みち 山の気うまし

                   (金井 重


[ビシュケクから、おめでとう]

 江本さん、東京外国語大学の橋本です。с новым годом(ロシア語でHappy new year)!!! 今年も、よろしくお願い致します。

◆なんと、先月のメールが通信に載っているとは、驚きました。ぎりぎりだったのでお手数お掛けしたかと思いますが、載ったと分かりうれしかったです。ありがとうございます。お正月はいかがお過ごしでしょうか。私はキルギスのビシュケクにて年を越しました。こちらでは、年越しの瞬間みな花火をあげ、ケーキを食べてお祝いしています。そこらじゅうで花火があがるので、すごく綺麗でしたし、迫力がありました。日本では個人レベルでは手に入らないような大規模な花火が、ばんばんあがっていました。とはいえ、日本のように正月ムードは長くは続かず、2日からは普通の日のようでした。

◆初めて知ったのですが、こちらにも干支というものがあり、ねずみの人形やカレンダーが売られていました。(あまり可愛いくはありませんが)個人的に今回の年末年始は、来る年をキルギス風に祝うこともできましたが、過ぎ行く年をきちんと見送れたような気がします。日本での年末は毎年何かと慌ただしかったからか、そちらの方をより感じました。来週の半ばにビザを手に入れ次第、ウズベキスタンに向かいます。1月号の通信にも、ぜひ載せてください!またメールするかもしれません。(ビシュケク発 橋本恵 07年3月報告者)


《くま&ちあきの多摩川野宿歩き》

■多摩川のほとりで育った熊沢正子と、ミニコミ編集長(仮)にして野宿啓蒙家(?)の加藤千晶。昨年某月、地平線報告会二次会の席で出会った「外でゴロゴロするのが大好き」な年の差23歳の女2人が「一緒に遊ばない?」と手を取り合った(←違いますよー。手を引っ張られたんです。ぐいぐい。)ところから、この計画が始まった。「多摩川」+「野宿」で、いったい何をしようか? しだいに固まっていった作戦は「河口から源流までを、月に1回程度、1〜2泊で野宿しながら歩きつなげる」というものだ。

◆【第1回戦】のスタートは小春日和の昨11月13日(平日)。多摩川右岸の河口に一番近い駅、京急大師線終点の小島新田から歩き出した。まずは住宅地を抜けて土手に登り、対岸の羽田を離着陸するジェット機を眺めながら、潮位観測所がある河口へ。ヨシ原が尽きた先に広がる突端の砂州では、初老の男性が1人、スコップでひたすら穴を掘っていた。「ここが多摩川の終点って書いた杭を立てるための穴だよ」「お役所に頼まれたんですか」「まさか。お役所は抜きにくる側。前にも立てたんだけど、『こんなの駄目だよ』って引っこ抜かれて。だから、また立てるんだ」。黙って見つめる同行者の口は「お」の字に開きかげん。キッパリ言い放つおじさんの頭上には真っ青な空が広がっていた。

◆上流に向かって、土手や河川敷の遊歩道を進んで行く。いたるところに建てられた簡易住居(いわゆるリバーハウス)は、外側をブルーシートで覆ったものが目立つが、鉄パイプの外枠で補強されていたり、高床が張られていたり。門まであるものもあって、テントというよりは、小さな家といった感じだ。住民たちは釣りをしたり(「釣った魚はどうするんですか?」「食べるの。おかず!」)、日向ぼっこをしたり、何人かで椅子を並べておしゃべりしていたりする。暖かい日だったせいか誰の顔も明るく、南欧の避寒地キャンプ場を彷彿とさせる長閑さだ。空が暗くて寒い日には、また違った雰囲気になるのだろうか。

◆新六郷橋で左岸の東京都側へ渡った。学生野球部が練習するグラウンド脇を通り、自転車道を疾走するサイクリストたちをよけ、愛犬との散歩を楽しむ善良な市民に嫌われないよう笑顔で会釈しながら、てくてくと歩き続ける。やがて日没。野宿目的地の多摩川台公園にたどり着く頃、あたりはすっかり暗くなっていた。〔く〕

★ということで、公園を偵察。2人とはいえ、か弱い女性同士だもの。考えるのは「この場所、1人だったら野宿するかなあ?」ということ。「ここどう?」「どうでしょう…」と、園内をうろちょろ。結局、石段を上って最初にあった東屋で野宿することに。場所を決めるとすぐさま防寒対策にオーバーパンツを穿く熊さん。タイツの私は着替えにまごまご。これからは「オーバーパンツの時代だ!」と思ったのでした。

★落ち着いてみるとここ、少し小高い場所の為、川向こうの夜景が見下ろせ、結構ステキ。ピクニックテーブルまであり、そこに並べられたのはフランスパンやらワインやらのお御馳走。実はこの日は私の誕生日で、それを野宿で熊さんに祝ってもらったのだー!  翌日は、通勤で多摩川駅に向かう人らがぽつぽつ通るのを眺めながらパッキング。またてくてく歩く。けれどあんまり頑張らないのだ。軽く歩いて、この日のゴールは二子玉川・兵庫島公園。そこでは所在なく石を投げるおじさんが「つげ義春」の世界を展開している一方、小奇麗な奥様方が子供を遊ばせていたりして。あー、多摩川って何だか懐が深いなあ、と思った次第です。

★さて、待ちに待った【第2回戦】は12月8日(週末)、二子玉川駅を朝9時出発。のはずが、私は1人、大寝坊。寒いから冬用寝袋にすっぽり入り寝ていたら、携帯のアラームにも、熊さんの電話にも気付かなかったのだ! 半泣きで二子玉川に到着し、追いかける。向かいから来るお散歩中の人たちに「ザックを背負った女の人らとすれ違いませんでしたー?」と駆け寄っては、「あー、いたよ」との返事をもらい、ホッとしては追いかける。結局、合流できたのはお昼頃。寛容に迎えてくれたのは熊さんと今回のゲスト・岡本さん(熊さんの弟子? 25歳・女子)。

★暴走自転車に追い立てられ、犬の糞を避けながらサイクリングロードの端っこを歩いていると、熊沢さんが昔、自転車旅行中のイギリスで作ったという歌を歌い始めるではないか。「うーんこ ふみふみ つきすすめー、おうっ!」(←牧場の中を行くために羊の糞を避けるのがとても困難だった、パブリックフットパスのことを思い出したのです。)。そんな感じでその後は3人、突き進んだのでありますっ。〔ち〕

◆ねぼすけと合流した場所は狛江の二ケ領宿河原堰の脇。徳川家康が作らせた二ケ領用水の取水口で、明治の初めまで「水争い」の舞台となった場所だ。側には1974年の台風による堤防「決壊の碑」も建っているが、『岸辺のアルバム』(山田太一脚本の名ドラマ)も知らない同行者たちに「なんですか、それ?」と返され、切なかった…。

◆この日は左岸、右岸、左岸と進んで、府中の「郷土の森」界隈で公園野宿。弟子岡本は、野宿どころかテント寝さえ未経験の初心者ながら、持ち前の自然体で自室に布団を敷くごとく寝袋を広げ、さっさと眠りに就く。しかし土曜だけあって、夜半には若者たちがやってきて宴会騒ぎ。こちらは3人なのでわりと動じないでいられたが、もしも自分だけだったら、どんな防衛策をとっただろうか。

◆翌朝、私たちが宿を借りた東屋の周りに、おじ・おばたちがみるみる集まってきた。平均年齢60代半ばというジョギングサークルの面々だ。この人たちと一緒に体操をしてから、川岸に戻って歩き出す。対岸に多摩丘陵がぐぐっと迫る景観美をめで、河原に下りて靴裏に石の感触を楽しみ、また土手を歩いては自転車やランナーにおびえ……。そうこうしているうちに昼が迫り(夕方から仕事がある加藤同志のタイムリミット)、石田大橋を渡ってたどり着いた高幡不動駅がゴール。ついでにお不動さんに詣でて、この先の旅の安全を祈願してきた。

◆こんな具合に、東京の川を、のんびりのんびりと遡る野宿旅。ガンジスではないけれど、やはり「川は異界」だということを時々思い出させてもくれます。さて、今月は第3回戦。地平線会議から特別ゲストも参加してくれる予定です…。〔く〕


「日常の、地味で大きな変化のこと」

■昨年3月、海宝氏主催の「24時間チャリティラン・ウォーク(リレーの部)」に初めて参加しました。途中から膝と腰が痛くなり、終了後の数日間は職場でひそかにロボット歩きとなっていましたが、これをきっかけに、わずかな距離ですが、通勤手段を徒歩に変えることができたのでした。また、昨年4月には視力回復の手術を受けました。中学生の頃から続いたコンタクトレンズ生活におさらばし、朝目が覚めてすぐ広がるクリアな世界や旅行に各種用品を持っていかなくていい気軽さ、どこでもすぐ眠れる嬉しさを味わえました。あと、生理用ナプキンを布製のものに変えました。以前よりけっこう心地いい気がしています。いずれも、地味で日常的ですが、生活に大きな影響を及ぼした出来事でした。

◆昨年よく浮かんだ言葉に「対応力」がありました(あぁ、年のせい?)。呼吸のことを知りたくて2年程前から(細々と)ヨガを続けているのも、あるいは前述の「変化」も、実はそうした気持ちと関係があるのかもしれません。今年もそんな心向きで、手放したり、出会ったり、深めたりしながら日々を送ることになりそうです。

◆「日常の、地味で大きな変化」は、どれもまず「人」によってもたらされました。今年も、普段接する人たちはもちろん、地平線通信を通して出会える人たちから、元気や勇気ややる気や気付きや刺激をもらえること、楽しみにしています。

PS.以前に比べればささやかでも確実に運動量は増えているはずなのに、ちっともやせないのはなんで???(今年も出ます、チャリティラン・ウォーク! 中島菊代@大阪)


[自分のおもちゃの旅立ち!]

■えもとさん。本日終了です。あと1日なので気分は楽です。まだ新年明けたばかりなんて信じられないなぁ。お正月気分なんてすっとんで、てんやわんやの毎日です。デパートはまさに戦場です。連日の激務で、朝は起きても目が開きません。日中は実演をしていても手順は間違えるし、意識朦朧とするしで、私は今、とにかく寝たいです。それも15時間ぐらい。先月からこの1週間の準備ために、残業続きで休みもなかったので、始まる前から「早く終わらないかな〜」と思っていたぐらいです。

◆でもやっぱり、「arumitoy」が旅立つのを見るのはうれしくて、頑張れるってもんです。おかげでセールストークも上手くなってしまいました。話術ってスゴイのね。「arumitoy」の個性的な子たちを見て、新聞に載ってましたよね!とかテレビで見た!と思い出してもらえるのも、「(あまり見かけないような)へんな形でよかった〜」と思えます。

◆いろんな繋がりで今があって、これからも長く続けていけることを大事に考えたいなと思っています。でも、ゆるく。アトリエの作業や現場の販売を手伝ってくれた家族、それから売り上げに貢献してくれたり、さくらをやってくれたりした地平線関係の人たちに、そしてそして、遠くから応援してくれたみなさんに感謝しています。でも、まだこれからもよろしくおたのもうします。(1月14日夜 多胡歩未 1月9日から15日まで大丸京都店で「〜丹後・丹波・山城〜 京の味めぐり技くらべ展 」に作品を出展、実演販売した。)


[ことしは時間軸の旅をしてみようと思う]

 明けましておめでとうございます。と書きながら毎年、「何が明けたんだ!」と考えている。天文学的に「元旦」は何の意味もない。その日が冬至なら「今日から太陽が復活するぞ!(一陽来復)」と新年の気持ちになる。私は、昔は冬至から新しい年が始まったが、その後時の権力者が自分の都合に合わせて動かしたと思っている。日本でも突然、政府の都合で明治5年の12月2日の翌日を明治6年1月1日にした。庶民は大晦日も年越しもないまま元旦を迎えたのだ。私としては、一年の最初の日ぐらいは自然現象の何らかの意味ある日にしてもらいたいが、定着しているので、今さらどうしようもない。

◆私たちは四次元空間に生きているのだから、もう少し時の流れに関心を持ってはいかがだろう。私たちの住む場所には所番地がついており、ちゃんと年賀状も届くし、そこを訪ねることもできる。今の私たちには、時間を遡ったり先に行ったりする能力はないが、記憶の中では遡ることはできる。「三丁目の夕日」の映画を見ているうちに、「自分記憶」の中の時間と世の中の時間が合うところを感じた。

◆私は地平線報告会(2005年9月)で「ローカル年号をつくろう」と言った。2008年、平成20年というのは公の暦。それはもちろん必要だがそれにリンクして自分の暦もつくっておこうという提案だった。例えば私なら「3時間切った年」(マラソンを2時間台で走った!)とか「アキレス腱を切った年」とか自分中心の歴史年表が作れる。自分の住所をはっきりさせることで地元との関わりができるのと同じで、自分暦があれば歴史との関わりをより深く見ることができる。それは旅に出て、外から自分のふるさとを見るのと似ているのではないだろうか。

◆私はここしばらくは時間軸への旅をしてみようと思っている。私のDNAの中には、私が恐竜であった頃、お猿であった頃、ノアの洪水に遭った頃、縄文人として鹿児島県上野原のあたりに住んでいた頃、卑弥呼さんと出会った頃のことなど断片的に残っている(?)。今年は役行者と修験の山を飛び回った記憶を呼び覚ますために葛城山、熊野奥駈け、富士山、など霊山といわれる山々をたどってみようと計画を立てている。

◆話は変わるが、私は昨年7月に断裂したアキレス腱のリハビリと称して毎日3時間以上、4万歩以上、町中を歩き回っている。しかし「努力はほとんど報われない!」の格言通りで、いまだに階段を前向きに下りることはできない。まあそれは置いといて、私の歩くところはなぜか青シートのテントが続いている。この寒空に凍えている人たちがますます増えている感じがする。

◆私は10数年前から「インドの路上生活者だけじゃないよ。日本の状況の方も大変だよ」と言い続けてきた。特に今、働いてもどうにもならないワーキングプアーが増えている。北海道や青森は特にひどい。私たち「猫の手クラブ」が手伝っている山梨県の果樹農家でも、低賃金重労働に嫌気がさし後継ぎのなり手がなく困っている。一部大企業や金融関連企業は好景気で、そこの社員は同年齢の数倍の給料をもらっているそうだ。「そりゃしょうがないよ!企業努力しているのだから」と言う人もいるが、「努力してもどうにもならない」人もいるのだ。それを放置したら、いずれ暴動が起きることは過去をたどればすぐわかることだ。

◆私たちは旅の中でいろいろなものを見、聞きしている。それだけなら今のテレビの旅番組の方が数段に優れている。テレビでは見えない色、音、匂い、空気を感じ、考えて、それを伝えていくことが、様々な特典を受けて旅をさせてもらっている我々旅人の義務だろう。地平線報告会、通信は発信基地としての役目を持っているので、どうか大いに利用して欲しい。……でも通信の字は小さすぎて見にくい。何とかして!(三輪主彦


「勿論! サッカー観戦で年明け」

 明けましておめでとうございます。私たちは今年も元旦から天皇杯決勝を観戦してきました。今回はわが「ガンバ大阪」が準決勝(もちろん観戦済)で敗退し、少しさびしい気もしましたが、元旦には気持ちを切り替えて、以前住んでいた広島(サンフレッチェ)の応援をしようと国立競技場にいきました。

◆まずスタジアムに着くと、サンフレッチェのユニフォームやマフラーを着け、応援準備を整えます。次にビールとお弁当(毎年横浜の崎陽軒のシウマイ弁当)で腹ごしらえ。それから、夫は先発メンバーのチェックをし、私は双眼鏡であたりを見渡し、観戦している有名人をウォッチング。(今年は、新代表監督や辛口コメンテーターなど大勢見つけました)。

◆またピッチで試合前の練習をしているお気に入りの選手を目で追ってはニンマリ。相手チームのイケメン選手もしっかりチェック。そしていよいよキックオフ。夫は割りと冷静にサッカーの試合自体を楽しんでいるようですが、私は応援歌を歌ったり、手拍子を打ったり、大声で叫んだり、マフラーを振り回したり、 惜しいプレーにため息をついたりと、応援することを楽しんでいました。サッカーのルールなんか少々知らなくても、そんなの関係ない♪ みんなで一緒にワーワーとお祭り騒ぎするのが楽しいんですよね。

◆試合結果は、惜しくも鹿島(アントラーズ)に負けてしまいましたが、2008年の初観戦をおおいに満喫しました。そして今年もまた50試合近く、夫婦それぞれの楽しみ方でサッカーを観戦したいと思います。皆さんもぜひ一度スタジアムに観戦に足を運んでください。楽しいですよ。 (大阪住人 岸本実千代


[南アフリカ夫婦ペンギン三昧旅!]

 12月28日から1月7日まで、ダンナと一緒の冬休みで南アフリカに行って来ました。現地ではケープタウンを起点とし、110ccのカブタイプのレンタルバイクを借りて、いつものように自由気侭なツーリング。喜望峰(アフリカ大陸の最南西端)やアフリカ大陸最南端のアグラス岬、ワインで有名なステレンボッシュの町などを訪れたり、ケープタウンのハイライト観光であるテーブルマウンテンに登ったり(ロープウェイもありますが、ウチらはもちろん、徒歩で〜す!)もしましたが、何と言っても今回の第一目的はペンギンに会うこと。実は、この近年、夫婦揃ってペンギン好きに。

◆日本各地の水族館や動物園もけっこう行きましたが、野生のペンギンをぜひこの目で見たいね、ということで、今回の南アフリカ行きとなったのです。ケープタウンの近郊では何か所か野生のアフリカン・ペンギン(日本ではケープペンギンと呼ばれています)のコロニーがあって、見学することができます。ペンギンというと、寒い南極に住んでいるというイメージが未だに強いようですが、暑いアフリカにも住んでいるのです。

◆ここのコロニーで一番有名なのがケープ半島にあるボルダーズ・ビーチ。今は夏で、晴れた時の昼間の気温は30℃ぐらいでした。ボードウォークから柵を隔てて見学する入口と、もう一つ別に海水浴場側の入口があって、こちらに入場すると、何と野生のペンギンと一緒に海水浴ができるのです! ペンギン好きにはたまらないシチュエーションです!! 普通の鳥と違って、ペンギンは人間がかなり近付いても逃げないので(南極のペンギンも好奇心が強い個体は、自らカメラマンのすぐ近くまで近付いて来るんですよ)、柵を隔てずに夢のツーショットが実現! どちらも入場料がかかりますが、もちろん私達は両方入りました。

◆砂地やブッシュには巣もあって、ペンギンが卵を抱いています。仲のいいペンギンの番が寄り添って寝てる微笑ましい姿や、交尾しているところや、仲間どうしの小競り合い、海に飛び込もうと迷っているうちに波に飲まれるように海に入ってしまう様子、岩の上を移動中にツルッと滑ってオットット状態など、ペンギンって観察しててと〜っても楽しい鳥なんですよ。別のコロニーでベティズ・ベイという所も、近くのバックパッカーに泊って、夕方と朝と2回見学。こちらは曇りで寒く、フリースとジャケットを着て震えながらの見学でしたが、ペンギンたちのかわいらしい様子に、心はあったかです♪ 

◆それから別の話ですが、ケープタウンに着いた初日に、町中で日本人のバイク友達に偶然会いました。還暦を過ぎた、でも賀曽利さんのように元気な男性で、ホンダのワルキューレというでっかいバイクで世界をまわっている方です。いやー、世界は狭い…。(神奈川在住”旅する節約主婦ライダー”古山里美


ことしもアフリカ! アフリカ!]

 あけましておめでとうございます! 昨年は、報告会でお話させていただくという素晴らしい機会をいただき、また12月1日世界エイズデーには自転車で街を真っ赤に染めエイズ予防を呼びかける『コグウェイ for STOP AIDS』を盛り上げていただきありがとうございました。日本中のおもしろい方々がどんどん集まる地平線会議に出会えて最高です。

◆さて、私も今年はさらに動き回り、パワーアップしていきたいと思います! 
1)自転車ツアー昨年11月に行ったエリトリア共和国(東アフリカ)を引き続きやります! こちら、アフリカ一の自転車大国エリトリアの魅力をたっぷり味わえ、大名行列的熱烈歓迎、笑い満載のレアなツアーです。それから、エリトリア人を日本に呼んで東海道自転車ツアーなんかもやりたいなぁと企み中。実は私、観光親善大使なのです! ぎゃ。また、サバンナを走って太陽と大空と動物に会いにいく「自転車サファリ」(タンザニアを予定)やルワンダを走るゴリラツアーも計画中です! 
2)自転車活動 もちろん、今年も世界エイズデーあたりには『コグウェイ2008』を開催しますのでみなさまぜひ真っ赤な衣装&グッズを用意してお待ちください! 
3)旅。ユーラシア、米などアフリカ大陸以外の期間限定大陸旅行。もちろん自転車で。その前に自転車活動の話をしながら日本中を走りまわる予定です、日本全国のみなさまお声をかけていただければどこでも参ります! 今この地球に生まれてきた最高の人生、やりたいことをやっていろんな世界を見て自分の道を楽しく走っていきたいと思います! 将来の夢はわがまち池田の市長今年もみなさまにとって最高に幸せで楽しい年になりますように!(山崎美緒

★[注]Cogは英語では"歯車の歯"の意味。自転車のペダルと後輪をつなぐチェーンを支える歯車を指す。コグウェイとは、楽しく自転車を漕ぎ(漕ぐ=Cog)ながら自分の力で道(way)を切り拓き、社会へさまざまなメッセージを発信する事業。以上コグウェイHPから。(E)

《新グレートジャーニー最後の行程と
 海のグレートジャーニー及び初期日本人の
 黒潮ルートのカヌーでの航海について》

■07年8-10月に、許可と天候などの関係で「新グレートジャーニー・南方ルート」の最後の北朝鮮、韓国、朝鮮海峡は終えてしまいました。朝鮮海峡はそれまでの天気とうって変わって無風快晴で、順調にカヤックで漕ぎ渡りました。朝鮮半島を先に移動したために中国部分が残ってしまい、現在単独でビデオ撮影もなしに自転車で中国旅行中です。

◆3月初めからは新グレートジャーニー最後の行程を始めます。極北という困難さを克服して南米大陸最南端まで達した人々の旅路がグレートジャーニーですが、もう一つの困難、海を克服してオセアニアに達した人々の旅路が「海のグレートジャーニー」です。一方、サハリン、朝鮮半島、中国大陸・台湾からやってきた初期日本人の他に、東南アジアから海路でやって来た人々もいます。

◆インドネシアのセラウェシ島で当時の素材、技術でアウトリガー付きの丸木舟を作り、今年、来年の2年間をかけて二つの実験航海をする予定です。(1月13日、旧満州国にて、北朝鮮国境を目前にして 関野吉晴 「気温は−8℃〜−18℃です。かつて付き合っていただいた2月のモンゴルと同じような気温ですね。新疆のウルムチではもっと寒かったです」)


[アンモナイトはなぜ野宿の初夢を見る?]

 修行中の安東です。新年はヒマラヤ奥地、ムスタン王国入口の聖地ムクチナートで迎えました。2つの八千メートル峰、ダウラギリとアンナプルナ間の大渓谷を流れるカリガンダキ河上流にその聖地はあり、樹木もなく月面のような荒涼とした大地が続いています。この辺りは化石がゴロゴロしているらしい。暇さえあれば川原でそれらしき石をカチ割って探しますが、簡単には見つかりません。でも大丈夫、チベット人の村人がたくさん持っているので、見せてもらいましょう。アンモナイト、ウミユリ、二枚貝、謎の丸い卵?などなど。数千万年前、ヒマラヤが海の底だった証明です。

◆その聖地はヒンズーとチベット仏教の寺で成り立っています。ヒンズーで祭られるのはビシュヌ神。なるほど、ビシュヌといえば仏陀の化身、二つの宗教が仲良く混在できているわけです。仏教寺の観音菩薩の下では、古来より燃え続けるありがたい炎を拝むことができます。湧き出す天然ガスらしい、と今なら科学的に説明できちゃうが、その昔はこの絶え間ない炎は神秘の象徴だったのでしょう。アンモナイトも謎で信仰の対象となり、ウミユリの化石はシバ神のポコチンと考えられていたそうです。昔の人は想像力があったなあ。神秘もヘタに解明されると、ロマンがなくなる。

◆でもまだ謎も残されていました。先ほどの謎の丸い化石、不思議な曲線美をもっています。地元チベット人は、「こりゃ目玉の化石だ」って言います。何の?「でっかい魚だよ」 でも目玉だけ化石になるかあ? 素直に考えて卵の化石じゃないのか? じゃ、何の卵だろう? 直径は10cmほどです。ぼくはきっと恐竜の卵だと思うなあ。あなたは何だと思います? 新年早々、太古の海の謎に胸がトキメキます。一個100ルピーより。化石は男のロマンだあ〜。

◆さて、安東は昨年、あちこちのチベットに行く機会がありました。北は青海湖、東は四姑娘山、南はナムチェバザールと、チベット文化圏の北南東の端っこは制覇、西の端だけは行けなかった。五体投地の巡礼者にもたくさん会ったし、話題のチベット鉄道にも乗って、全部で10回くらい行ったんじゃないかな。でもアドベンチャーでなくて、ガイドのお仕事でした。チベットはかつて自転車で走りまくっているので、地勢的なことは任せてくれ。辺境、どこでもご案内します。仕事くれ〜。

◆アラスカやシベリアなど、ここ数年はオーロラ舞う極北ばかりだったのですが、本来の安東の領域は雲南とチベットなのです。ムクチナートもネパールにありますが、完全にチベット人の世界です。今回、ここに来るにあたって2冊の本を読み直しました。「セブンイヤーズインチベット」byハインリヒ・ハラーと、河口慧海「チベット旅行記(1)」。どちらも定番の野宿読本ですね。慧海はここムクチナートから歩いて1日のマルファ村にしばらく滞在の後、ヒマラヤの険しい峠を越えてチベットに潜入したのでした。100年以上前の話です。荒涼とした景色は今も昔も変わらないでしょう。慧海のマルファ出発時の一句、「空の屋根、土をしとねの草枕、雲と水との旅をするなり」、かっこいいじゃないか。ところが実際は、「雪をしとねの岩枕」だったそうな。そう、アドベンチャーと野宿は切っても切れない。求道者ならば野宿しなければならない。

◆そんなわけで、今年も地平線野宿党は3次会野宿を続けます。これまで一度でも参加した人は50名を越えました。野宿するともれなくノジュラーメーリングリストに入れます。新宿で野宿できれば、世界中どこで野宿しても怖くない。冒険への第一歩はまず3次会から。心配しなくても大丈夫。野宿プロのお兄さんお姉さんが手ほどきしてくれますよ。あなたの参加、お待ちしています。要寝袋。要闇鍋の材料。最後にハラーの本の序文に、探検家冒険家の核心に触れる言葉があったので紹介しときます。「人生の夢はすべて少年時代に始まる……」(10歳の時、川口浩探検隊の隊員になりたかった辺境案内人 安東浩正


ちいさなポスト

■[マッシャーは、ことしもアラスカへ]
 今、成田でこれからアラスカに行ってきます。9日にオーストラリアから帰国した後時間とれなくてすいません。今回は昨年お世話になったビルのハンドらーの仕事です。ユーコン・クエストの犬たちを運ぶトラックを運転して、チェックポイントごとに世話をするんです。4月なかばに帰国します。オーストラリアの稼ぎ? うーん、目標の半分いかなかったかなあ。(1月16日 本多有香 携帯メール)

■いつもあたたかいお心づかいありがとうございます。今年もよろしく。(鹿児島・野元甚蔵 3月に91才に)

■結婚して初めてのお正月を迎えました。(真下圭子・旧姓田端 11月23日に会社の同僚と結婚しました。3月頃から産休に入ります)


[浜比嘉島で待ってまあす!!] 

 あけましておめでとうございます。沖縄の東海岸に位置する浜比嘉島は、今年も初日の出を見にたくさんの車がホテルや港に来てました。とはいえここ浜比嘉島民にとっては旧暦で動いているためまだ年末です。

◆さて、2008年は浜比嘉島にとって記念すべき年になることでしょう。地平線会議大集会が開かれるんだゾー!

 去年12月にナガノ画伯が絵を描きに来た時に島の人何人かと飲んで、おおいに盛り上がりました。そして届いたカレンダー! さっそく区長はじめ伝統芸能の踊りのメンバーや島の顔役数人にひとりひとり手渡して地平線会議を説明し協力を仰ぎました。とはいえ関野さんや田部井さんさえ知らない島の人達に地平線を説明するのは至難の技でしたが。それでもみんな「おーそれはいいねえ! 盛り上げよう」と言ってくれました。野外舞台の設営や雨天の際の公民館使用なども協力してくれそうです。

◆時期は台風が落ち着き、島の行事もなく、モズク養殖の海人が暇な10月がいいのではということでした。私は浜比嘉島をたくさんの人に知って欲しい。この島は今は本島と橋でつながり那覇から車で1時間ちょっとで来れるのに自然や古い家並みが残る島。奇跡的に開発もされてない。でも最近変な噂も聞いたりしていろんな思惑で変わろうとしています。外の力が必要になるときも来るかもしれません。地平線に集う広い視野を持つ仲間たちにこの島を紹介したい。刺激の薄い島人にとって地平線会議到来はどんな風に映るかな? 少なくとも面白がってくれること間違いなしでしょう。沢山の仲間の参加をお待ちしています!(浜比嘉島住人 外間晴美


『南極レター』 No. 20 2008/01/10

[魚拓をとって、そろそろ帰国準備]

 みなさん、こんにちは。遅ればせながら、あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。気づいたら、南極レター、12月をすっ飛ばしてしまいましたね。忙しくなってくると時の経つのが早いです。

◆12月の前半は「まだやるか?」というくらい、野外活動を続けていました。主に、ライギョダマシ。それと海氷GPS観測+アデリーペンギンルッカリー視察です。12月16日に観測・遊びを含めて越冬中のすべての野外活動を終えましたが、この16日の間に漁協活動で9日、海氷GPS観測で2日、外に出ています。漁協活動に至ってはほとんど病気です。ほとんど、夕食後に行っていました。

◆でも、私たちのライギョダマシに対するこの根性は、最後に功を奏しまして、ついに、過去の記録を塗り替えるライギョダマシを12月4日に釣り上げることができました。体長138cm、体重35kgの大物です。日本新記録です。世界記録は180cm、80kgくらいだそうです。結局、一年間のライギョ釣りを通して、3匹釣り上げることができました。88cmは食べました。115cmは歴代3位、138cmは歴代1位ということで、大きいもの2匹は日本に持ち帰り標本になる予定です。極地研究所や各地で行われる「南極展」で大きなライギョダマシを見たら、「これがアイツか」と是非思ってください。

◆3匹とも魚拓を取りました。漁協活動に超積極的参加者だった私は当然のように3枚とももらうことができました。ちなみに大きい2匹は失敗して顔が右向きです。大きすぎて厨房で作業できず、室温の高い風呂場でやったために、痛まないように早く作業をしようとあせっていたんですね。5,6人もいたのにだーれも気づきませんでした。やっちゃった、て感じですが、まあ、仕方ありません。これはこれで価値が生まれたりして、ね。所詮、素人軍団の手探り仕事なのでいいのです。

◆持ち帰る魚拓は夫の許可もすでに得て(笑)、自宅の天井やら壁やらにベタベタと貼る予定ですので、帰国した暁には是非その大きさを見に来てもらえたらと思います。

◆さて、通常の話題に戻りましょう。12月17日、「第一便」が飛んできて、生鮮食料品や皆様からいただいたお手紙やプレゼントを受け取りました。手紙や絵本や新茶などなど、たくさんの贈り物を本当にありがとうございました。「気持ちを受け取って」とメールをくださったみなさんも本当にありがとうございました。どれもこれもとてもうれしかったです。

◆そして、キャベツ、生卵、グレープフルーツ、スイカ、などの生鮮食料品の旨さといったら、どんな珍味にも勝る旨さでした。第一便より数日間は食事中の会話が心なしか少なかった気がします。黙々と、バクバク食べるって感じです。生卵ぶっかけご飯なんて、2杯、3杯平気でかきこんでしまいます。「新鮮」なものが入手できることって、今では当たり前ですが、実はすごく有難いことなんだと思いました。

◆その後すぐに49次隊の人たちが昭和基地に入り、「しらせ」のヘリコプターを使った野外観測もすぐに始まり、今日に至るまで「怒涛」の夏期間を過ごしてきています。私もすでに3泊4日の野外に2回出かけてきました。スカーレンにも行ってきましたが、雪上車で9時間かかった道のりがヘリコプターではたったの30分でした。空を飛んでいくっていうのは、なんとプレッシャーの少ないことでしょうね。海氷上を行く11月までの沿岸旅行ではあれほど神経を尖らせすり減らせ、すべて終わるまで緊張の4ヶ月を過ごしていたのに、最近の野外活動の気楽なことといったらありません。49次隊への引継ぎと支援という形でお供しているので、実質上の観測実行責任も49次隊側にあります。いろんな意味で気楽です。とはいえ、南極の野外で過ごすことに変わりないので、必要な緊張感は当然ですが保っています。今後、ボツンヌーテンと言う南極氷床にポツンと突き出た独立峰とか、S16からとっつき岬までのクレバス地帯(夏こそ危険)にも足を踏み入れますので、やはり最後まで緊張感を保って無事に観測を終えなければなりません。この夏は去年とはうって変わって天候がよくありません。12月下旬にブリザードが1回来ました。1月に入ってからも降雪を伴わない嵐が1度、そして今日もまた先ほどから15m/sを超える風が吹いて、「飛行作業」がストップしています。この時期、前次隊は新しい隊が持ってきた荷物の荷受けをするので、日中はどうしても抜けられない仕事のある人以外は総出で荷受作業に従事します。はじめは大型物品の氷上輸送(雪上車で陸揚げ)の荷受け、それが終わると持ち帰り大型物品の氷上輸送、次に「本格空輸」が始まってヘリコプターで搬入される一般物資の荷受と配送作業をします。昨日でここまでの作業が終わり、しばらく49次隊や「しらせ」が自分たちで行う作業の期間があり、それらが終わると、今度は持ち帰り物資の輸送が始まります。ですので、最近の私の仕事は、野外に出て歩き回っているか、基地にいて1日中トラックに乗って玉掛け(クレーンに吊り荷をかける仕事)なんかをしている感じです。今日みたいに風が吹くと、ようやく部屋に篭って、たまっているデスクワークが片付けられます。今日は「公用・私用持ち帰りリスト」の提出締切日なので、居住棟では多くの隊員が持ち帰りの私物を作っています。そろそろみんなで引越しです。ここでの生活も残りわずかです。さて、では今日も写真を何枚か添付します。ライギョが2枚と、元旦に見に行ったペンギンの雛の写真が4枚です。お気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、今回はモンベルのホームページの「南極通信」に使っている写真と同じです。手抜きですみません。あちらの方が頻繁に更新していますので、よろしければご覧ください (http://www.montbell.jp/generalpage/index.php?general_id=10)。それではまたメールします。昭和基地からあともう1回くらい送信できたらいいなと思っています。(永島祥子@昭和基地)


森田靖郎のページ

「悪酔い、そして迎え酒」━━日本を初期化してみたら

 酒に酔うと、ヒトは話さなくてもいいことも話す。アルコールの語源はアラビア語の「ひきだす」という意味だ。米ペンタゴンから軍事情報を引き出した中国人女スパイ(カトリナ・リョン)のハニートラップの手練手管は酒だった。

 アメリカ議会民主党の公聴会では「米中サイバーテロ・」(拙著『中国の「犯罪源流」を往く』講談社)が話題になった。「貧者の兵器・サイバーテロ」がNASAに侵入、機密情報が盗まれた。コードネーム「チタンレイン」は訓練された三人の中国人だったことを報告した。「中国では三万人のネット警察がインターネットやメールを検閲している」と、グーグルが中国のゴールデン・シールド・プロジェクト(黄金の楯)を牽制した。「情報や報道の自由度は167か国中、中国は159番目だ」と国境なき記者団(RSF)の一人が発言した。公聴会後の酒宴は長風(くどい)話で盛り上がった。酒に酔った政治亡命者は天安門事件の秘話を引き出された。私は「イエスタディ・ワンスモア」をサンポーニャ(アンデスの楽器)で演奏した。「俺は、魚釣島(尖閣諸島)に上陸した七勇士の一人だ」アメリカ在の中国人は、私に乾杯を迫った。「不法入国で強制送還されたあの七勇士の一人か」「不法入国じゃない。あの島は中国だ」男は盃を上げた。中国の東シナ海ガス油田開発のため七勇士は五星紅旗を持ってゴムボートで島に不法上陸した。「サンフランシスコ平和条約」(1951年)により尖閣諸島は日本の領土と認められている。七勇士に私は乾杯の手を引っ込めた。「日本は自給率が四割だそうだな。さらなる農業の自由化が必要だ」アメリカ人議員は、日本の食糧事情を引き出そうとしている。日本の自給率の低下は、戦後アメリカの占領政策の一つだろう。日米安保条約後、農業離れが進み農産物のアメリカからの輸入が激増し自給率が下がりはじめた。「重油を使って温室で育つ日本のマスクメロンは、農産物でなく石油製品だ」と、韓国人の話にどっと沸いた。米中韓に煽られて日本人の私は孤立した。

 中国の歴史認識問題による対日糾弾、潜水艦の領海侵犯、竹島(韓国では独島)問題をはじめむき出しの韓国の対日批判など極東アジアの日本に対する敵対的行動が目立つ。

 「『ショーダウン』という近未来シミュレーションをご存知?」米民主党議員の秘書の中国人女性が私に紹興酒を勧めた。「2009年、中国のミサイル攻撃で新たな日中戦争の火蓋が切られる」先代ブッシュ大統領政権で国防副次官を務めた軍事専門家のジェド・バビンと、レーガン政権で国防総省動員計画部長だった中国軍事専門家のエドワード・ティムパーレークが共著で書いただけにリアリティがある。

 2008年11月アメリカで初めての女性大統領が誕生する想定からシミュレーションは始まる。2009年1月、中国共産党はナショナリズムを掲げ反日運動を強め、尖閣諸島の放棄や首相の靖国参拝の終結を迫る。日本近海で大規模な軍事演習を行い、威嚇する。日本はアメリカに救いを求めるが、リベラルで親中派の女性大統領は、「中国を刺激したくない」と中国の対日軍事威嚇に見てみぬふりをする。中国は日本が屈しないと見ると2009年8月、巡航ミサイルを靖国神社に撃ち込み、尖閣諸島を占領する。さらに中国は北朝鮮に韓国攻撃を指示し、第二次朝鮮戦争がはじまる。北朝鮮のミサイルが大阪に撃ち込まれ、日本は中国に降伏するという、日本にとって最悪のシナリオだ。私は宿酔いを覚悟して酒を呷った。

 私は、日本がいま置かれている立場を理解するために、いつの時代まで初期化し戻さなければならないのかを考え、明治の中ごろ、「日清戦争」前夜まで遡ってみた。

 日清戦争(1894-5年)直前の明治23年、山県有朋はその意見書で「正を衛り、邪を斥ける」と主権線の侵害を許さず、利益線を確保しろと国民国家体系をはっきりと主張していた。日清・日露戦争(1904-5年)後は産業も戦争も工業化への幕明けだった。あれから百年、鉄道や船舶、航空機を通じて、国境を越えてヒト、モノ、カネそして技術や情報が行き交う国境なき時代感覚、つまり「ポストモダン」の世界観に日本は浸って久しい。めいめいが自分の価値観に従って生きることを強いられ、無重力のような空間で劣化した日本人を尻目に、隣人たちは19世紀的なナショナリズムを高揚させ、領土や民族意識のなかで覇権体制や国民国家体系を形成し始めている。国民国家という旧来の空間(領土)と時間(歴史)の意味が希薄な日本だけが、東アジアにぽつんと孤立している。福田康夫首相は、年の瀬に訪中した。中国が主張するガス油田開発を認め、08年で終わる対中円借款に代わり新たな経済支援を約束するつもりだ。この国のトップは、ポストモダンから醒めず政府援助のあり方がわかっていない。共生の時代に援助は「カキク」から「ケコ」の時代に移っている。「カネ、機械、車」というモノでなく、「健康(食や環境の安全)、こころざし(信念)」つまり(身体と食と心)が求められている。二十世紀が動脈の時代としたら二十一世紀は静脈の時代だ。心臓から各臓器へエネルギーを送りこむのが動脈なら、各臓器で働き続けた血液を心臓に戻すのが静脈だ。働き続けた地球から、美しい昨日を引き出すアルコールはないのか。血液をサラサラにするには酒に限るのだが……。(森田靖郎・ノンフィクション作家)


■お知らせ■

 板橋にある植村直己冒険館の設立15周年記念のシンポジウムが1月26日(土)の13時から板橋区立文化会館(東武東上線大山駅・三田線板橋区役所駅から7分ぐらい)の小ホールで開催されます。講演は大谷映芳さん、パネリストは地平線会議でおなじみの安東浩正さん、永瀬忠志さん、元極地研究所の渡邉興亞さんらです。ぜひご参加を!先着250人、入場は無料です。


[歴史に残る貴重品!浜比嘉島・地平線カレンダー 残り僅かです]

 長野画伯が果敢にも新境地の切り絵に挑戦した『地平線カレンダー2008――琉球国浜比嘉島鳥獣影画』、おかげさまで人気も上々です。

●地平線のウェブサイト(http://www.chiheisen.net/)や葉書(〒167-0041 東京都杉並区善福寺4-5-12 丸山方「地平線カレンダー・2008係」)での申し込みを受け付けています。

●頒布価格は1部500円、送料は8部まで80円、それ以上は160円。

●お支払いは、カレンダー到着後に郵便振替(「郵便振替:00120-1-730508」「加入者名:地平線会議・プロダクトハウス」)で。いきなりご送金いただくのではなく、かならず先にメールや葉書などで申し込んでください。

●今年初めの段階まで、こちらのミスでメールでの受け付けに不備がありました。もしこの時期にご注文されてまだ到着していない方は、ご一報ください。申し訳ありません。


《ありがとうございました》

前回お知らせした以降、新たに次の方々から通信費(1年2000円)を頂きました。地平線会議は会員制ではなく、会費は取りませんが、通信制作・発送にあたっては「通信費」として皆さんから志を頂いています。(1月16日 地平線会議世話人一同)

シール・エミコ//岸本実千代/三澤輝江子/天目石要一郎/金井重/田口幸子/中澤和子/新堂睦子/谷脇百恵/宮崎拓/井ノ倉里枝/川本正道/野元甚蔵・菊子

[お詫び]12月号「狩猟のすすめ・食べるために殺す過程」筆者は服部文祥さんです。

[あとがき]

■「18頁か20頁になるかも」という江本さんのひとこと。338号のメールが届き初めたのはいつもよりかなり早く11日金曜日の夜からでした。これまでは水曜日の発送の前、日曜、月曜の夜にメールが送られてきます。まとめる作業は深夜に及ぶため内容をしっかり読むことはなかなか出来ませんでした。

◆今回は金曜、土曜と相当な量の原稿が早めに届いたのでラクでした。まずそれぞれの分量を把握するための作業に入りました。メールから改行マークを取る行程を経て印刷出来る状態にし、プリントアウト、後ろの、あるいは右手の窓にテープで止め、全体を眺められるようにします。これがなかなか壮観です。

◆もちろん編集長の意向もありますが組み合わせはほとんど私に任されています。どれとどれを組み合わせると1頁になるか、内容の関連は?、などなど。はりつけてあるプリントアウトを眺めながら…。それらの作品をいつの間にかしっかり読んでいることに気がつきました。行間にある筆者の想いに私の心を漂わせるのです。338号の制作は思いもかけないゆったりした心満ちる時をさずけてくれました。なかなか旅に出ることの出来ない私ですが、地平線の彼方に心を誘ってくれる通信作りを心から楽しんでいることをお知らせしたいと思います。(森井祐介)

◆そんなわけで、2008年年早々、大仕事となってしまった。書いてくれたみんなに、ありがとうを言います。ことしも、地平線通信を内容豊かにするためご協力を。そしてそして、夏帆さん、成人式もう一度おめでとう!!(江本嘉伸)


■先月の発送請負人 三輪主彦 森井祐介 関根皓博 松澤亮 塚本健斗 後田聡子 満州 藤原和枝 山本千夏 岸本実千代 江本嘉伸 久島弘 白根全 光菅修


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

食べに翔べ!! 〜離陸前奏曲から〜

  • 1月25日(金曜日) 18:30〜21:00
  • ¥500
  • 於:新宿区立新宿スポーツセンター(03-3232-0171)

「ワタシは生き物を見たらとりあえず追いかける習性があるんですよ。つかまえられれば食べ、ダメなら観察するんです」というのは本邦唯一の現役鷹匠・松原英俊さん。昨年6月の地平線報告会では、動物たちとの交流話の中に伺えた、食への飽くなき好奇心が印象的でした。

御本人曰く、学生時代の貧乏な山行で狩猟本能が目覚めたとか。今回も動物話満載です。尾瀬の山小屋でアルバイトをしていた松原さん、仕事が終わってから夜の山歩きを日課にしていたところ、思わぬ生き物との出会いが…。

報告会後半では、いよいよタカの話を“みっちり”して頂きます。大卒後、24才で沓沢朝治鷹匠に師事。25才で独立以来、無数の試行錯誤を経て今に至ります。様々な失敗と挫折の中でも、ある経験を乗り越えられたことが鷹匠として生き抜くための試金石でした。

他の講演では話したことのないエピソードを、今回は披露して頂けるということです。乞御期待!!


通信費(2000円)払い込みは郵便振替または報告会の受付でどうぞ
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議(手数料が120円かかります)

地平線通信338/2008年1月16日/発行:地平線会議/制作:地平線通信制作室
編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井祐介/イラスト:長野亮之介  編集制作スタッフ:三輪主彦 丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 関根皓博 藤原和枝 落合大祐/編集協力:加藤千晶 印刷:地平線印刷局榎町分室 地平線Webサイト http://www.chiheisen.net/
発行 地平線会議 〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-303 江本嘉伸方


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