2010年4月の地平線通信

■4月の地平線通信・365号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

4月7日。朝刊一面に「普天間移設 シュワブ陸上・徳之島先行」見出しが躍っている。ホワイトビーチ(うるま市)は消えたのか、と記事を読むと、とんでもなかった。官房長官は埋め立てなどに長期間かかるためシュワブほかを先行させ、その後米軍ホワイトビーチ沖を埋め立てて本格的な滑走路などを建設したいという意向を沖縄県知事に伝えたというのだ。

◆沖縄のどこに基地が作られるのも現在では断固避けるべきと考えるが、仮にホワイトビーチ案を本気で実行すれば、私たちに縁が深くなった浜比嘉島はその真っ只中におかれることになるだろう。「イノー」(礁海)と呼ばれる、独特の珊瑚礁池の生き物はおそらく死滅し、ジェット機の離発着の騒音でヤギたちものどかに木の葉を食べていられなくなるだろう。そんなことを、まさか本気で考えているのか。

◆3月19日昼前、四谷の自宅に重い箱が届いた。中には浜比嘉島の海をモチーフにしたカラフルな長野亮之介画伯のふたつの表紙にはさまれて、A4版116ページの美しい絵本がおさまっている。『あしびなー物語×わたしたちの宝もの』を誰よりも早く見た瞬間だ。見事な出来上がり。よし、間に合った。これで島に飛んで行けるぞ。ほぼひとりで制作にあたった丸山君に無事入手とお祝いの電話を入れ、羽田発16時過ぎの便で那覇に向かった。

◆20日早朝、勝連半島出身の友人、長濱さんの車で島に向かう。少し早めだったので、途中勝連城に寄った。2月末に起きた地震で城壁の一角が崩れ落ちた現場を素早くカメラにおさめ、海中道路を渡って外間昇・晴美さんの家に直行した。

◆ゴンとポニョが盛大に尾を振って迎える。薪の火でいつものようにコーヒーを淹れてくれ、少し早めに比嘉小学校に向かう。伊敷校長に挨拶してから会場の体育館へ。08年10月、山田高司が生徒たちに話した懐かしい場所だ。私のために来賓席のはじっこの椅子が用意されていた。

◆「平成21年度 第38回卒業式 平成22年3月20日(土)うるま市立比嘉小学校」と要覧にある。午前9時25分、8名の卒業生が入場し前の椅子に座ると、開式の言葉があり、次いで校歌の斉唱。「東天紅(くれ)ない 太平洋 四方(よも)の島々 明けそめて サバニは走る 大海の 我が故郷(ふるさと)は 栄えあり」「誇りは高き 浜比嘉の 文化の光 受け継ぎて 打ちふるパーランクー 音は響き 比嘉小健児は 意気高し」というのである。

◆校長の式辞、PTA会長の祝辞の後、「お兄さん、お姉さん」と、1-5年の在校生がいくつかのパートに分かれてうたうように卒業生を送る言葉を読み上げるのがよかった。そして送る歌があった。歌は「ビリーブ」。NHKの「生きもの地球紀行」のエンディングテーマで、小学校や中学校の合唱の定番として人気があるそうだ。可憐な歌声を聞きながら卒業生の女子、中でも山城朱羅さんは涙が止まらない。11時になろうとしている。最後に紹介されて私が卒業生の前に進み、ひとりひとりにできたてほやほやの本を贈った。沖縄タイムス、琉球新報の記者が来てくれていて、その瞬間を撮った。

◆式次第に「写真集贈呈」とあるように、この本は地平線会議の『あしびなー物語』である以上に、子どもたちの写真集である。左側からの『わたしたちの宝もの』を繰ると、見開きでカラー写真がぎっしり埋まっているのを見てほしい。08年10月、わずか4日間に当時の5、6年生たちが撮った島の写真、2221点のすべてが撮影時間順に並べられているのだ。このページを見るだけで、この本をつくった丸山純の優しさがわかる。8名は(そして今では中学2年生になった4名も)、ほんとうに嬉しかっただろう、と思う。

◆浜比嘉島を記録したこの本を、私は沖縄のすべての小学校、中学校に贈ろう、と、ある時から考えていた。これは、ひとり地平線会議の記録としてしまってはもったいない。浜比嘉という小さな島で育ち、暮らしている子どもたちだからこそ表現し得た何かがある。エイサーやパーランクー、組踊りなど芸術面で秀でている沖縄の他の地域の子らにももそういう芽は育ちつつあるのではないか。沖縄の友人たちも「是非!」と賛成してくれ、450の沖縄全小中校向けの部数を用意した。

◆比嘉小学校の卒業式を終えて那覇に戻り、メディアの方々と相談した。その中で沖縄県教育委員長の比嘉梨香さんと出会い、なんと本の贈呈式をやってくれることとなった。顛末は15ページに書く。『あしびなー物語×わたしたちの宝もの』は、地平線会議がこれまで以上に地域とのつながりを深めながら、つくりあげていった作品である。。この本をつくったことで地平線会議はまた一歩を踏み出した、と思う。

◆子どもたちによる浜比嘉島の自然の貴重な記録、やはり1部を官邸に送ろうか。今、本気でそう考えている。(江本嘉伸


先月の報告会から

黄雀が飛んだ季節

森田靖郎

2010年3月26日 新宿区スポーツセンター

■大会議室は、静まり返った。話が始まると場内は一気に引き込まれた。ものすごい情報の密度、量、迫力、一瞬たりとも予断を許さない緊張感溢れる時間。報告会では決まりごとになっている「20時のトイレタイム」も飛ばして、ノンストップ2時間の報告となった。

◆1979年に始まった地平線会議が30年を越えたことを「歴史を作った」と評した森田さん。冒頭「9(ナイン)シンドローム」という独自の考え方を披露した。9のつく年には何かが起きる魔力がある。中国の現代史の始まりといわれる五四運動は1919年、第二次世界大戦は39年、そして89年に天安門事件が起き、ベルリンの壁が崩壊した。

◆森田さんの著作はルポ35作、小説5作にも及ぶ。「歴史は未来のルーツ」と捉える森田さんは、2010年から2019年の10年間、新しい時代の産みの苦しみに立ち会うためになお中国の旅を繰り返している。

◆森田さんが中国の旅で出会った三つの村というのが、まず興味津々だった。「一線を越えた?」取材でその後、閉ざされたという。まずエイズ村。WHOや国防リサーチで名高いランド研究所が警告を発している中国のエイズ問題は、「貧困」と「政治」にあると森田さんは指摘する。

◆河南省には年収2万円以下の貧しい農家がある。貧困から逃れるために売血で収入を得ている。国家で禁じている売血を見逃し民間業者を野放しにしていた村政府に責任があると森田さんは言う。注射針の使いまわし、さらに血漿成分を取り出した後の血液を農民の体内に戻していた。3800人の村で380人がエイズに感染し、83人が死亡した。森田さんをエイズ村に案内した地下教会の牧師さんとは、その後連絡が取れなくなった。中国から撤退を表明したグーグル問題と同じだと森田さんは語る。

◆政府に都合の悪い情報を隠蔽する中国の体質について、次に「臓器移植の村」について話が進んだ。北京オリンピック前にアメリカを訪れた胡錦濤国家主席とブッシュ米大統領(当時)の共同記者会見をCNNニュースで見ていた森田さんは驚く。プラカードを掲げた中国人女性が会見場に飛び込んできたのだ。その後、香港のテレビ局の会見で、その女性が中国の臓器移植病院関係者だと知る。プラカードには「生きたまま臓器を取り出すのをやめて」と書かれていた。

◆瀋陽にある専門病院では2000年以降急激に臓器移植が増え、この10年間に中国全土で6万件の臓器移植が行われている。瀋陽の病院に問い合わせて森田さんは更に驚く。日本語と英語での説明があり、渡航移植に向けた国家ぐるみのビジネスではと疑うほどだ。ドナーを待つ期間は数週間程度。臓器の価格も決まっており、スピード、臓器の価格、どれをとっても他国を凌ぐという。中国では死刑囚が臓器提供を行うのは最高裁でも認めている。現実には死刑囚は多くても年間2000人ほどだとすると、臓器のドナーはどこから来るのか。

◆江沢民時代、法輪功の学習者や地下教会の信者が「政権の敵」として多く収容所に送られていた。瀋陽から一時間ほどの場所にある、大きな収容所には常時1500人位の収容者がおり、そこが臓器工場ではないかと森田さんは潜入を試みる。だが身に危険の迫っていることが判明し急いでその場所を後にした。以降、そこへの立ち入りが出来なくなった。

◆三つ目は「日本人が作られている島」の話。福建省にある小さな島で密輸密航が日常的に行われており、島には将来日本国籍を有する資格がある子供たちがいるという情報で森田さんは島に渡った。「日建子」と呼ばれる日本国籍の取得には大きく三つの形式がある。日本人と福建人が結婚してできた子供をIII型、連れ子がいて認知したものをI型、誰の子かは関係なく里親として認知した子をII型といい、次々と違法に日本国籍を取得していく。なかでもII型は偽装認知といわれる犯罪である。

◆中国には生まれながらにして戸籍のない子供が大勢いる。その子供の里親になり、日本人に認知してもらうことで、親権を得て日本に出稼ぎに行くのだという。偽装認知には約200万円が必要で、そのうちの50から70万円を日本人に渡す。その島では約100人、日本国籍を取得する予定の子供たちがいる。日本はDNA鑑定を採用していない。さらに国籍改正法(08・12施行)後、認知は生まれてからでも許可されるために、偽装認知に追い風になっている。ここも森田さんが取材した後、外国人が立ち入れなくなった。

◆そして、番外編で毒入りギョーザ事件では、昨年末、習近平国家副主席の訪日のレセプション会場で、事件の捜査が行き詰まっていると聞かされた森田さん。その話をしている同じ頃、中国から「犯人逮捕」が日本のマスコミにもたらされていた。犯人は森田さんが、前回の報告会(08・9)で指摘していた、工場内の臨時工だった。

◆ここまででも十分な迫力だったが、話はここからいよいよ本題へ。香港で、森田さんはある秘密工作の解散式に立ち会った。それは黄雀行動と呼ばれ、天安門事件の民主化運動を行った学生たちを海外へ逃がす支援活動であった。黄雀の語原は、「蟷螂(かまきり)、セミを窺い、背後に黄雀(こうじゃく)あり」という中国の諺にある。敵に後ろを見せるな、油断をするなという意味だそうだ。

◆1989年の5月半ば天安門で民主化運動を行っている学生達に対し、中国政府は「動乱」と決定した。学生達は天安門広場で篭城を決めハンストを行う。ハンストが7日目になると、国際法に則り、政府のトップ趙紫陽は交渉に応じた。学生に同情的な態度に、趙紫陽は近く失脚すると察した。学生たちは、広場の死守組と撤退組の二つに分かれた。血の日曜日と言われた6月4日未明、天安門広場を戒厳部隊が取り囲む。

◆前日に結成された広場を死守する学生グループ「天安門広場保衛総指揮部」リーダーに女子大生、柴玲が選ばれた。「今、11億の蟻が山の上にいる。麓では大火事で、火の手が押し寄せてくる。蟻たちが生き残る方法は一つしかない。皆で手を取り合って丸い玉になり、山を一気に転がり降りることだけ。そうすれば、外側の蟻は死んでも内側の蟻は助かる。私たちは外側の蟻、祖国のために死ぬことは怖いことではない」。スピーチを聴き学生達は戒厳部隊突入による死を覚悟した。

◆台湾から亡命してきたシンガーソングライターが学生を説得するため赤十字の車で広場にやって来た。戒厳部隊との交渉後20分間の退避猶予のあと一斉に部隊の戦車突入が始まった。6月4日午前3時。赤々と燃える北京の夜空、広場から逃げる学生、多くの市民労働者が犠牲となった。学生達はばらばらで戒厳令下の北京から広東省へ逃亡した。

◆森田さんはここで「黒い五星紅旗」を見せてくれた。黒い国旗に多くの学生が助けられたが、犠牲にもなった。6月10日香港メディアから柴玲の生の声が放送される。柴玲は指名手配第1人目、世界中の誰もが彼女の生存を諦めていたが、生存報道に世界中の多くの人々が勇気づけられた。天安門武力突入から一か月後ウーアルカイシもパリに到着した。

◆パリで民主化運動の立ち上げに参加しようと森田さんは日本で活動していた中国人留学生と一緒にパリへ飛ぶ。パリに向かう途中、なんと飛行機は予想に反し北京に着陸。空港に降り立った飛行機の窓からは大勢の戒厳部隊が見える。機内に留まった二人に武装警察がやってくる。森田さん達は従うわけにはいかない。従えば動乱罪と煽動罪だ。国家権力の圧力。そんな最中でも森田さんは一所懸命ルポの文章を考えていて、そんな自分が嫌になったという。

◆死を覚悟した中国人留学生、そこにフランス人機長が現れ、「お客は渡さない。ここはフランス国営航空の中だ。私の許可なく二人を連れ出すならハイジャック犯として通報するぞ」との言葉に武装警察は退いた。パリに着くまで二人は一言も言葉が出なかった。報告会場の緊張感はピークに達し、シーンと静まり返った。

◆パリに到着しウーアルカイシと会う。すぐにニューヨークに行って国連へ訴えようという。シカゴから陸路でニューヨーク・チャイナタウンに直行した。国民党時代に渡って来た老華僑たちはアンチ共産党で協力的だった。ここで福建省から来た出稼ぎ密航者と知り合い、密航者を運ぶ蛇頭女親分ピン姐御と出会う。そして、100、65、6という数字を聞いた。日本を100とした場合、アメリカ65、中国6の労賃だという。中国人が日本で働けば単純に15倍の賃金が得られるということらしい。こうして90年代の日本は中国からの密航者であふれることになる。

◆それ以降、森田さんは雀から蛇を追うことになった。天安門の学生達は命をかけて自由を得ようとした。出産、言論、政治、農村戸籍の撤廃、それは我々日本人にとって当たり前の自由だ。20歳そこらの学生達が11億の蟻のため、命をかけて自由を得ようとした。その後、中国は経済の自由化に大きく舵を切り大きな発展を遂げる。天安門世代といわれる40代半ば革命第七世代がいまの中国を動かしている。彼らが得た経済的自由が世界を変えつつある。日本、中国そしてアメリカの関係の原点は、天安門事件にあるという。

◆それに対して日本人の同年代はバブル世代。命をかけて自由を得ようとした世代と大消費時代に青春を過ごした世代の対比はものすごいコントラストだと思う。グローバルビジネスを舞台に、この対照的な二つの同年代はどのようにお互いを見ているのだろうか。次の世界の分岐点は2012年。中国、アメリカ、韓国、ロシア、そして台湾と日本と密接した国々のリーダーが変わる時だ。

◆話は中国製造業の話に及ぶ。日本製品を買う中国人層の変化。「競争が良品を生む」中国製品の性能向上。中国は富裕層から中間層のボリュームゾーンへ購買層がシフトし、コストと品質さらに模造品に日本メーカーは苦戦している。中国製品と日本製品を冷静に比較し購入する賢い消費者だ。

◆僕はムサビの大学院をでて、日本の電機メーカーに勤める工業デザイナーとしてこの春6年目を迎えた。上司は社歴約20年のバブル世代。生産工場が中国あり、業務委託で中国企業と関わることもある。中国企業は、日本のモノ作りでは考えられないスピードで製品化を行う。僕たちが一年以上かけて作るものを、企画初期から発売までたったの3か月でやってしまう。

◆中国は次世代の巨大な実験場に思える。89年中国の学生達は民主化運動に命をかけた。香港返還まで10年を切り、自由と民主主義を守ろうと香港市民の不安感が、黄雀行動という民主化運動の学生逃亡支援に繋がった。学生運動の裏側で趙紫陽と●(とう)小平の権力闘争があった。表の事実と裏の真実を行き来しながら、森田さんは中国をフレームにして世界を見つめる。日本人は握れば固まる泥の民族なら中国人は砂の民族だと森田さんはいう。指先から零れる中国人に国は個人の自由を許すことが出来ずに管理しているという。今回の報告会は様々な指針に満ちていた。(山本豊人


報告者のひとこと

「ミッション・インポシブル・イン・北京」

■私の話を熱心に聴いていただいた皆様に感謝をしなければなりません。2時間、休みもなく私の話に退屈もせずに耳を傾けていただき、光栄でした。しかも、長い話の最後にフォルクローレも聞かせて、自分ながら厚顔無恥に呆れております。

 歴史を語るときに、私は「過去」や「過去の人」をおもちゃにしてはならないと自分に言い聞かせております。自分に都合よく解釈し、弄ぶことがないようにつねに警告を発しております。

 報告会で話し足りない側面を補っておきます。一つは、元祖中国の民主化運動家たちが、事件をどのようにみていたか。そして、アメリカとくにCIAは、なぜ天安門事件を予測出来なかったのか。

 98年10月、私はニューヨークに本部がある「中国人権」で、一人の民主化闘士と話しました。魏京生という名前を覚えている人はいませんか。79年、「北京の春」という中国で初めての民主化運動のきっかけとなった「民主の壁」で、「第五の近代化」として民主主義を掲げ、●(とう)小平を「毛沢東と同じ権力にしがみつく独裁者の道を歩む」と批判し、18年間獄中生活を送った人です。

 そもそも天安門事件は、ブッシュ米大統領(当時)の訪中にあわせて、魏京生の釈放を求める運動がきっかけでした。その後、97年11月江沢民国家主席(当時)訪中直前に病気治療を理由に魏京生は釈放され渡米をさせられたのです。中国の狙いは2000年のオリンピック誘致運動です(シドニーに僅差で敗れる)。魏京生は米中外交カードとして政治利用されました。

 魏京生とは、「中国人を救うのは文化か、経済か?」と、言葉をナイフのように投げあったのを覚えています。

 「中国人は短い記憶しか持たない民族だ。天安門事件のことを忘れて、民衆はカネの自由に走っている」「民衆は長い憂鬱な眠りから覚めて、向前看(前を見て歩こう)を、向銭看(カネを儲けろ)に変えている」さらに、「下海」(ビジネスに身を投げろ)が合言葉になっていると、話が盛り上がりました。

 「中国で起きたのは東欧やロシアのような旧政権崩壊ではなく、旧体制の金属疲労から来る炉心融解であった」「流血と犠牲のなかで最終的に天安門広場の残った学生たちが得たものは民主化ではなかった。彼らの行き過ぎた行動が国家の長老たちを慌てさせた」。その分、民主化を闘ってきた「'79北京の春」の世代は大きな代償を支払ったことになるという話に私は頷きました。天安門事件後、ほとんどの民主的な行動が停止させられ、母体をも傷つけた死産だったのではないかと、私らは結論を得ました。次に、アメリカは天安門事件をなぜ事前に防げなかったのかが話題になりました。

 ブッシュ大統領(当時)ほどCIAを大事にした大統領はいません。CIAは「血の日曜日」を予想をしていなかったのだろうか? ブッシュに命じられたCIAの「ミッション・インポシブル・イン・北京」はすさまじかったのです。学生を救出する作戦「黄雀行動」(CIAではイエローバード作戦)をキャッチし、それを利用して香港の本部と地下ネットワークを築き、中国のIBMといわれた四通公司の万潤南を通じて広場の学生たちに盗聴防止機器やファクス機を送り、「紙爆弾作戦」に便乗して、貴重な学生情報をいち早くキャッチしていたのです。情報源の学生15人を広東省から香港へ逃がすために高速モーターボートまで用意させ救い出す一方では、二人は中国当局に捕まり処刑されています。なのに、なぜ事前に防げなかったか……。その疑問に、魏京生から答えは出ませんでした。天安門事件後、ブッシュは中国に厳しい制裁を課しながら、一方で最恵国待遇を延長するなど手ぬるいと批判され「北京からバクダッドまで甘やかしている」とクリントンに敗れました。クリントンもまた大統領に就任すると制裁を撤回しました。中国市場の独占を狙う外交問題評議会の強い意向が働いていたことは言うまでもありません。

 「ギョーザ事件について、重大な発表があります」報告会のあった夜、一通のメールが入っていました。ある中国機関が、「日本発」の発表に違和感を覚え、私に送ってきたものです。「毒入りギョーザ事件の被疑者逮捕」を、人民日報をはじめ中国紙はいっさい報道していません。日本発の報道で、中国側の関係者が知ったのです。単独犯、日本を標的にしたテロではなかった、工場内の農薬を使った手口など……決着にはいくつもの疑惑がありますが、日本との経済的な関係を配慮したことだけは伝わります。経済発揚を期待する上海万博を前に事件に決着をつけたかったのでしょう。被疑者は、捜査当初取り調べ対象者55人に入っており、嘘発見器にもかけられていましたがシロの判定でした。組織犯罪と見ている捜査陣は単独犯に納得しません。この事件には、もちろん裏があります。被疑者の待遇、金銭面の不満を犯行動機として食品テロだけは避けたかったのでしょう。犯行の手口など合理的な説明はありません。真相はすべて闇の中に葬るつもりでしょうか。

「国家を救うのは文化か、経済か」という論争で、「中国人を救うのは経済、結局はカネだろう」と失笑していた魏京生の言葉を、思い出しました。

 最後に報告会での素晴らしい聴衆の皆様に感謝、ありがとうございました。(森田靖郎


[先月の発送請負人]

地平線通信3月号の印刷、発送、及び応援(2次会のみ参加してビールを飲む)の仕事をしてくれた方々は、以下の通りです。いつもほんとうに助かります。ありがとうございました。

関根皓博 森井祐介 車谷建太 松澤亮 村田忠彦 江本嘉伸 杉山貴章 武田力


地平線ポストから

ハイチ、絶望の大地から−200年以上前に黒人奴隷が独立を達成した世界初の黒人共和国にもっと関心を

■『アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない 恥辱のあまり崩れ落ちたのだ』(映画「カンダハール」のモフセン・マフマルバフ監督著、現代企画室刊)という本があります。古い友人の映画関係者が義憤だか義務感だかにかられて、まったく翻訳経験もないまま刊行してしまった曰くつきの一冊です。ハイチの大地震の報道に触れて、最初に思い浮かんだのがこの本でした。

◆アフガンの民衆はソ連軍の侵攻以降、数十年間にわたり苦しんできたのに、世界はバーミアンの大仏像がタリバンに爆破されるまで無視し続けてきた。仏陀像は衆生を救えなかった無力さを恥じて、自らその身を砕いた、という内容です。ハイチの大震災はまさしく人災で、23万人を超す犠牲者が出なければ、誰もこの最貧国を振り向きもしなかったという人類の恥辱そのものでしょう。

◆いまだにタヒチと間違えている人が多いハイチですが、カリブ海に浮かぶこの小さな島国のことを知る日本人はほとんどいません。200年以上前に黒人奴隷が独立を達成した世界初の黒人共和国で、ナポレオンの軍隊を撃破して革命を成功させた、栄光ある歴史を誇る国です。人類史上唯一成功した奴隷革命で、世界に先駆けて奴隷制を廃止した国でもあります。日本とは無縁と思われがちですが、実はその先駆性は明治時代の日本人に多大な影響を及ぼしたほどで、ハイチ革命を指導した奴隷出身のトゥーサン・ルベルチュール将軍は「黒偉人」と呼ばれ、鑑とし手本とするに相応しい人物と称賛された存在でした。

◆ところで、今年のカーニバル本番は昨年行き損ねたトリニダード・トバゴにリベンジ出撃、前半はハイチのジャクメル、後半はドミニカ攻略という予定でした。カリブの島々でカーニバル三昧のはずだったのが、チケット代金を振り込んだその当日にハイチが大地震に見舞われたのです。あの世界トップ最貧国を直撃という報道に、神も仏もヴードゥーのお助けもないものかと思わず絶句!

◆首都ポルトー・プランスのカーニバルは2007年に攻略(地平線通信328号、329号で報告)しましたが、まず気になったのはその際お世話になった友人知人の安否でした。ご近所で以前から知り合いの駐日特命全権大使氏も「本国とはまったく連絡が取れず、被害状況も把握できない」とのこと。電話はまったく通じず、CNNやBBCのニュースぐらいしか現地報道はありません。隣国ドミニカ駐在のJICA職員の友人が震災後2日目に現地に入り、凄惨な被災状況を伝えてくれました。大統領官邸から各省庁、病院やホテルに至るまでほとんどの主要な建物は倒壊し、被害がなかったのはアメリカ大使館ぐらいとのことで、とにかく覚悟を決めて現地入りすることにしました。

◆ドミニカからようやく連絡が取れ、知り合いの無事が確認できたのは震災後3週間目のこと。その時点ではまだ電気や水はもちろん、宿泊先や食料も調達困難とのことで、現地入りできたのはトリニダードのカーニバル取材を済ませてから、震災後5週間目となりました。

◆ドミニカからの陸路入国が可能になっていましたが、車窓から目にしたのはただ瓦礫の山だけ。倒壊した建物は放置されたまま、テント村が至るところに散在している変わり果てた首都の姿でした。宿泊可能な場所はすべて世界中から現地入りしている援助団体に占拠されているため、友人の毎日新聞前メキシコ特派員が紹介してくれた現地アシスタント氏の家にお世話になりました。

◆彼の案内で被災地をできるだけ歩きまわってみましたが、1か月以上たってもいまだ倒壊した建物の周辺では、死臭が立ち込めているところも多々ありました。当初、略奪や銃撃など治安悪化の報道もありましたが、ほとんどはガセネタだったとのこと。実際は各国の援助オリンピックのような状態で、震災現場で活動している各団体にとっては絶好のPRの場となっていました。何時間でも辛抱強く並ぶ被災民の行列に食料を投げ込んで、奪い合う様子を撮影し寄付金集めに利用することすらあったようです。

◆世界最悪の貧民街と呼ばれるシテ・ソレイユ(太陽の街)にも行ってみましたが、悲惨さに慣れてしまったような人々が困難な状況の中でも尊厳を失わず、秩序を守り助け合っている姿が印象的でした。最後まで連絡の取れなかった旧友のガブリエル君とテント村の一角で偶然再会できたときは、これまでの人生では味わったことのない不思議な感動に震えました。

◆臓器売買目的の幼児誘拐など、言葉を失うような極悪非道な行為も報告されていましたが、チリで地震が起こったとたんにハイチはすっかり忘れられてしまいました。自然災害とはいえ、犠牲がこれだけ大きかったのはむしろ人災というべきこの国の状況に由来します。雨季が始まった現在でも100万を超える被災民はテント暮らしのままで、伝染病の蔓延が懸念されています。詳しくは、日本最後の良心であらせられる藤永茂せんせーのHP「私の闇の奥」http://huzi.blog.ocn.ne.jp/darkness/を参照していただければと思います。(カーニバル評論家 ZZZ−全

洞窟の中へ降りて行くと、氷の色が白から空色、さらに深くて透き通った青へどんどん変わって

■松澤亮です。アイスランド遠征(第285回報告会「氷河のトンネル」小久保純子)に行って以来、断続的に氷河洞窟をやっています。今年は念願のパタゴニアへ行ってきました。アンデス山脈の上には、南極とグリーンランドの次に大きな陸氷があります。その巨大な氷原から何本もの氷河が流下していて、夏にはそこに氷河洞窟ができます。

◆パタゴニアでは氷河の脇にテントを張り、日々氷河の上を歩き回りました。氷河洞窟を探すときはまず氷河の地形を見て氷河上の水流(べディエール)を探し、その水流がクレバス等に流入する(または過去に流入していた)場所を見つけます。これがムーランと呼ばれる竪穴型の氷河洞窟で、中を探検するには洞窟探検とアイスクライミングの装備を組合わせて使います。氷水で濡れながら活動する場合もあるので防水も大事です。さらにダイビングまでやるケースもあります。

◆氷河洞窟の中へ降りて行くと、氷の色が白から空色、さらに深くて透き通った青へどんどん変わって行きます。パタゴニアの氷河は特にクリアな氷が速い速度で流下していて、豊富な水流で素早く穴を開けられるため、非常に美しい青色をしています。これほどの青の中へ入って行く感覚は他では味わえません。やっぱり氷河はいいですよ。今回私が行ったペリートモレノ氷河をはじめ、観光地になっている氷河も多いので、チャンスがあったら氷河トレッキングに参加することをおすすめします。簡単な氷河洞窟に入れる場合もありますし。

◆アイスランド、北西カフカス、アメリカに続き、今回パタゴニアへ行った最大の目的は、非常に限られた場所でしか見られない特殊なタイプの氷河洞窟だったのですが、このタイプの洞窟はその形成プロセスが解明されていません。おそらく氷河自体の個性と環境が大きく影響していると思われるので、現地で見て理解するヒントを得ようと考えていました。これで主要なタイプの温暖氷河は押えたことになる筈だったのですが、今年は小規模なものしか形成されておらず、充分な観察は出来ませんでした。とはいえ本場の雄大で美しい氷河の上で、今まで論文でしか知らなかったフィールドを、その著者に解説して貰いながら歩けたのは貴重な経験でした。もっと早く行けばよかった。

◆今回はイタリアの研究者を中心とする探検隊(NHK等で紹介されたメキシコの巨大結晶洞窟を調査したグループです)に参加したのですが、彼らの技術力、経験豊富なメンバー層の厚み、スポンサーや資金を集めるノウハウ、そして記録と表現にかける情熱に圧倒されました。プロの映像作家、写真家がメンバーに入っており、その作品から得られる資金も少なくないようです。そして成功した遠征の実績をアピールすることで、次回の遠征だけでなく、他のメンバーの新たな企画もサポートが受けられ、成果が出なかった場合でもちゃんと報告が発表されています。日本ではここまではできていないなあ、と感嘆しました。(松澤亮

走りながら、地震で崩れた勝連城趾の石垣が見えました−寒かった沖縄マラソン完走記−

■去る3月7日に、三度目の「おきなわマラソン」を走ってきました。「NAHAマラソン」とは違いますよ。東京マラソンに次いで参加者の多い「NAHA…」は沖縄本島南部が舞台。「おきなわ…」は沖縄市(旧コザ)をスタートして本島中部9市町村を巡る大会です。今話題の普天間移設代替地候補に挙がっているうるま市ももちろんコース内。我らが浜比嘉島も遠望し、肝高の阿麻和利の舞台、勝連城趾もかすめて走る、最近の地平線会議とは縁を感じるレースなのです。一般人はまず入れない嘉手納基地内を3キロほど走り抜けるコース設定もセールス(?)ポイントとか。

◆昨年12月に走った「NAHAマラソン」の結果があまりにも酷かったので、なんとかリベンジしたいという漠然とした目標を胸に、1月からそれなりに練習しました。今回同じ大会で初フルマラソンに挑戦した友人と一緒に練習プログラムを組み、寒さにくじけないよう励まし合いつつあっという間に大会当日に。

◆前日に沖縄入りしたときは気温26度だったのに、翌日から寒波が襲来。東京で雪が積もった週です。大会当日は雨まじりの曇りで、気温は16度くらい。走るにはちょうど良かったですけどね。走りながら、地震で崩れた勝連城趾の石垣が見えました。レースは練習の甲斐有ってか、久々に4時間を切り、3時間54分台。約9000人中690番でした。タイムはイマイチですが、ずいぶん楽に走る事ができました。“ウルトラじーじ”の原健次さんからも言われましたが、やっぱり練習量とタイムは正比例しますね。友人も無事完走しました。

◆レース翌日に浜比嘉に渡りました。道中“四島の小中学校の統廃合反対”という看板が目につきます。浜比嘉島ではいつものように外間昇・晴美夫妻宅に転がり込み、リハビリ生活を三日ほど送りました。ここでも天候不順の上、予期しない寒さに参りました。夏服を重ね着し、たき火の傍から離れがたい気温です。「だから沖縄も寒いときは寒いんだって言ってるでしょう」と晴美ちゃんに笑われました。そんな寒さでも昇さんは裸足にビーチサンダルでしたが。寒さと雨の為か、あまり島の人とも出会わず、平識現区長は選挙戦の最中で忙しく飛び回っていました(注:その後当選した)。帰る日にようやくお日様を拝めた寒い沖縄滞在でした。(長野亮之介

−フィリピン便り−
「縄文号に棲みついた新たな住民、トカゲ」
━━来月、いよいよ出航です━━

■3月中はインドネシアにいましたが、今はフィリピン、パラワン諸島の北部、ブスアンガ島のコロンにいます。昨年8月に縄文号とパクール号が着いたところです。日本列島に向かっての出航は5月中旬、4月20日過ぎから、本格的準備に入りますが、今回はカヌーのチェックと、修理に必要な素材集めが目的です。パクール号は元気ですが、縄文号は傷みが進んでいます。元々左前方と後方に腐った部分があり、穴埋めがしてあるのですが、その隣接部がすかすかになっています。想定内のことなので、出発前には修理できると思っています。

◆新しい住民が住みついていました。やや太めのトカゲのつがいです。ゴキブリ、アリ、シロアリ、キノコ、コオロギなど、もともと同行者はいたのですが、トカゲは初めてです。精霊が送り込んだのでしょうか。5月中旬にここを出航し、ルソン島、台湾を経由して、7月中旬にはゴールの石垣島に到着する予定ですが、風任せ、潮任せの航海なので、予定通りにはいかないと思います。航海中にどのくらい台風と遭遇するか、それも私たちの日程を左右するでしょう。

◆今までは海賊やイスラム過激派アブサヤーフの危険はありましたが、静かな海を航海してきました。これからは治安的な障害は少ないにですが、南シナ海に出て、うねりが出てきます。台風、低気圧など今までにない物理的な障害と付き合っていかなければなりません。期待と不安が入り混じった状態です。(4月7日 関野吉晴

《旅に詠む》

*ラダック詠(二〇一〇年二月)
 金井 重

ヒマラヤの 山系深き 村は過疎
 人ら冬ごもる ラダックに着く

陽がのぼり 全山白く 輝きぬ
 ヒマラヤ山系 神在す嶺

山襞の 雪の模様の 濃淡に
 個性くっきり 大自然の妙

 〈ストーク・グル・ツェチュ祭〉 四首
雪山に 囲まれ人ら 優しかり
 誰もが我を 支え登りぬ

あざやかな 仮面舞踏の その中に
 ふたりのシャーマン 飛び込み踊る

トランスの シャーマン飛び跳ね
 鈴なりの 人らどよめき 歓喜の興奮

山腹の 寺院ゆるがす 大歓声
 祭り一色の 村の喜び

 〈セコモル(教育施設の寮)にて〉
交ごも 一七、八の 寮生の
 祖父母と暮す 未来を語る

我に三男二女ありと民宿の
 主の破顔 ぬくき牛糞

アムチ言う ストレスも 気の滞り
 天地と体の 気を巡らせよ
  ――アムチ……チベットの伝統医

雪山の 過疎の村々 冬野行く
 老夫の姿に 明日を祈りぬ

雪山と あの神の嶺 はるかなり
 車と人のデリーの大路

*リシュケシュ詠(二〇一〇年三月)
 山かすみ はるかに青き ガンジス河
 ビタールアシュラム 山腹にあり

部屋にやもり 庭に神話の ハヌマーン
 マンゴーの花 つまみつつ食う
   ――ハヌマーン……猿の一種

顔黒く 体毛銀色の ハヌマーン
 賢者の顔して 枝から枝へ

風さやか 木々のエナジー 匂いけり
 ブーゲンビリアの 紅き羞い

街のなか 問・聴診の 老人医
 体にためるな 減量せいと

地の果ての キツネ顔の犬 動かずに
 我を見て消ゆ 三月の朝

戸をたたく のは山羊と風 人見知り
 しないよ彼らが 先住者だもの

円盤のごとき 牛糞山積みし
 人ごみの聖地 牛車緩るゆる

障害者という弱々しいイメージから脱却したい!
―障害者チャリダーズ日本縦断いよいよ後半へ―

■障害者チャリダーズは旋風を起こせるか!? 那覇から東京までの第1ステージでは77人の障害者と多数の医療従事者が参加してくれました。各地で地元テレビ局・ラジオ・地方紙等に取り上げてもらったおかげで、それを見た人々からうれしい声援やみかんやあたたかいコーヒーをいただきました。某局朝番組の効果も絶大でたくさんの方に声をかけていただきました。

◆沖縄出発の時は半袖で汗をかきながら自転車を漕いだ日も、菜の花やこぶしが咲くおだやかな熊本を走った日も、さぬきうどんが食べたくて時間が遅れているにも関わらず食欲には勝てなかった日も(笑)、兵庫県警が後方支援してくれた日も、山梨で雪に降られ悔しながらも走行を中止した日も、どんな日もただひたすらに前へ前へ自転車を漕ぎ続けてきました。そして障害を持った参加者はいつも前に前に前向きに挑戦していて活き活きしています。

◆そんな姿を見て一番驚くのは近いようで実は遠い医師のようです。普段では見られない患者の表情、患者の気持ち、かける思いの強さに感嘆している様子。医師はリハビリの姿や回復後の姿を見る機会がなかなかないのです。そんなのでいいのかしら? 事務局として先生と連絡を取っていると障害者=車椅子というイメージを持った先生もいて本当に情けなくなります。確かに他者の力を借りなくてはいけない障害者も、元気でパワフルな障害者も障害は10人10色です。でも、世間一般の障害者という弱々しいイメージから脱却したい!

◆そして! 那覇から東京まであっという間だった(必死だったと言う方が適切か?)障害者日本縦断駅伝第1ステージもゴールしてから早3週間。その3週間もまた身を削って第2ステージの準備をしてきましたが、とうとう4月7日に東京国際フォーラムを出発します。

◆第2ステージの日程は次の通りです。■7日東京国際フォーラム9時出発、4号線で埼玉・草加10時半、茨城・古河14時を通過し、栃木・宇都宮18時着。■8日宇都宮9時発、4号線を北上し福島・白河総合運動公園16時着。■9日白河9時発、西白河東部広域農道を北上し阿武隈川沿いに県道355を走り福島県立医大病院16時着。■10日福島赤十字病院から4号線で北上、宮城入り仙台に16時。18時よりモンベルクラブ仙台店にてイベント。■11日はちょっと休憩。笹かまでキュッと1杯。■12日仙台を7時半発、岩手・平泉駅に16時半着。■13日平泉駅前8時半発、4号線をひたすら北上、岩手県庁に16時半着。■14日岩手県庁9時発、道の駅石神の丘を昼頃通過し二戸駅前に16時着。■15日岩手県・二戸駅前10時発、青森県境11時、青森・八戸港に15時着。その日はフェリーで過ごし■翌朝16日北海道・苫小牧10時発、札幌・テレビ塔に15時着その後ゴールイベントを予定しています。みなさんの応援が走者の更なる力になります。ご声援よろしくお願いします。(骨肉腫のサキこと今利紗紀

★サキさんたちチャリダーズの面々がサポートにあたっているのは運動器の10年キャンペーン「障害者100人による日本縦断駅伝」。札幌までの道中、万一、一行をお見かけした方は地平線通信を見たよ、と声をかけてあげてください。

祭りだ! 花見だ! ダイナミック琉球だ!

■踊る大地平線ダンサーズのファンのみなさま、いかがお過ごしでしょうか? ダンサーズ関西支部(?)は、約4か月ぶりに活動を再開しました。まず、3月26日はねこ(中島菊代)さんの職場のお楽しみ会での再活動記念パフォーマンス。新しく入ったメンバー(ねこさんと岩野祥子さんの職場からそれぞれ一人ずつ増えました)を交えての初めての舞台で、スタンバイのときはちょっと緊張しましたが、いざ踊りが始まると、お客さんが大きな掛け声をかけてくれたり、立って一緒に踊ってくれたりして、とてもいい雰囲気で気持ちよく踊れました。

◆こういっちゃナンですが、私たちも数箇所の振りをバージョンアップさせたりなんかして、とてもブランクがあったとは思えないできでした。大集会のころよりうまくなっていたのでは……?(でたー、関西人特有の自分褒め!)

◆そして、4月4日は井ノ倉りえさんのかかわっている「モモの家」が主催したお祭りで披露。またまた新メンバー(今度はりえさんの職場から二人、しかも一人は男性ですよ)が加わり、初の屋外公演。祭りだ! 花見だ! ダイナミック琉球だ! というようなノリで楽しく踊れました。太陽の下で踊るのも、とても開放的でのびのび踊れて、なかなか気持ちのいいものですよ。

◆それにしても、お客さんの前で踊るのって、ホント楽しいですよね(私だけじゃなくメンバーみんなの意見)。人前で踊ることがクセになってしまった私たちは、定期的に練習して色んなところでお披露目しようと盛り上がってます。更にバージョンアップする計画もちらほら……ふふふ。今後が楽しみです。もっともっと進化したら、東京公演でもしようかしら……。(岸本実千代

遅い時間だけど、見に来てくださーい

「僕らのカヌーができるまで」劇場ロードショー いよいよ始まります!

■2010年4月17日(土)〜30日(金)ポレポレ東中野にて20時50分より

 レイトショー開催。夜のくつろぎのひとときを、僕らのカヌーとご一緒にお楽しみください。前売り券/1,200にて絶賛発売中!(当日一般/1,500)ポレポレ東中野劇場窓口にて4月16日までご購入いただけます。
(お問い合わせ:03-3371-0088 )
http://bokuranocanoe.org/
お問い合わせは   まで

関野吉晴特別対談
4月18日(日)長倉洋海 写真家
  23日(金)大島新 映画「シアトリカル」監督
  24日(土)山田和也 映画「プージェー」監督
  25日(日)江本嘉伸 ジャーナリスト
  28日(水)江藤孝治 本作総合演出
※上映終了より開始 23時10分頃終了予定


スレンさんに200頭の羊を!「puujee」特別上映会のお知らせ

■地平線会議の皆様にご支援いただいた映画「puujee」も公開4年目を迎え、昨年9月には、関野吉晴さんとともにモンゴルを訪れ、プージェーの家族や同級生達にも映画を観てもらうことができました。しかし、残念ながら、私達が出会ったプージェーの家族は遊牧をやめ、親戚の元に身を寄せていました。2004年以降家畜が減ってしまい、現在は羊・山羊が60頭、牛8頭、馬は1頭もいません。

◆行方不明だったプージェーのお父さんが戻ってくるので、それを機に草原に戻りたいと思っているが、家畜を買い戻す資金がないのであきらめざるを得ない状況だと、プージェーの祖母スレンさんに聞きました。モンゴルでは、08年の世界的な金融危機の影響を受けて経済状況が悪化、羊・山羊の仲買システムにも資金が回らなくなり、遊牧民の草原離れが進んでいます。プージェーと出会った1999年頃には国民の半数だった遊牧民の人口が三分の一にまで減少しているそうです。国策も遊牧から銅や金の鉱山業に重心が動いてしまっています。遊牧民に対する国の助成も皆無に近くなっているそうです。

◆映画「puujee」を世界中に公開できた反面、モンゴルに対しては何も出来ていないことに忸怩たる思いを募らせていました。まだ映画の赤字を解消していないという現実があります。ジレンマです。しかし、スレンさんが草原に戻りたい、と言うのですから、それをお手伝いすることが当たり前だと考えました。

◆幸運なことにモンゴル上映会のコーディネーター、アンフバヤルさんも手を貸してくれることになりました。遊牧生活をしているアンフバヤルさんのお父さんに相談して支援計画を立てました。200頭の山羊、羊を用意すれば、スレンさんが草原に戻ることができるというのです。羊・山羊が1頭3,000円です。それを約200頭分集めれば、スレンさんは草原に戻る事ができます。「puujee」上映会を開催し、寄付を呼びかけようと思います。

◆この上映会のことをご家族、ご友人にお知らせいただければ幸いです。ご来場お待ちしております。(本所稚佳江

日時:5月9日(日)、16日(日) 午後7時 (開場6時半)

 上映後トーク「プージェーの同級生に会ってきました!」 関野吉晴氏+山田和也監督

料金:1,000円

会場:なかのZERO小ホール TEL:03-5340-5000 (JR中野駅南口徒歩8分)

問合:puujee製作委員会 TEL&FAX 03-5386-6700 http://puujee.info//

勝連城修復プロジェクトについてのお知ら

■2月27日、沖縄で大きな地震が起き、世界遺産である勝連城の一部が崩壊した。「肝高の阿麻和利(きむたかのあまわり)」の城であるこの遺産を修復するため、“キムタカの若者”たちが立ち上がった。責任者は昨年11月、「地平線会議30周年記念大集会」で地平線ダンサーズが披露した「ダイナミック琉球」の踊りを指導してくれた具志堅智美さんである。以下にその志と趣旨をあげておく。賛同の方はご協力を。(E)
★       ★      ★

【〜世界遺産 勝連城跡の未来のために〜「みんなで造ろう世界の宝」かっちん城Dreamプロジェクト】(現代版組踊「肝高の阿麻和利」卒業生 代表 具志堅智美)

≪企画趣旨≫

 「2010年2月27日(土)の午前5時30分頃、沖縄地方で99年ぶりの大きな地震がありました。その際に世界遺産「勝連城跡」の城壁の一部(幅7メートル、高さ6メートル)が崩落しました。私たちは、地元勝連の英雄である最後の勝連城主『阿麻和利』の半生を描いた舞台、現代版組踊「肝高の阿麻和利」を通して地元への誇りや生まれたマチを知ることの大切さを学びました。今年で世界遺産登録10周年となる勝連城跡は、地元住民のみならず国内外の観光客が多く訪れる素晴らしい場所であり、世界の宝です。先日の地震で城壁の一部が崩落したというニュースを聞いて、とても強い衝撃を受けております。私たち現代版組踊「肝高の阿麻和利」卒業生は、次世代の子ども達の夢溢れる場所へ……という願いを込め、崩落修復だけでなく、多くの方々に安心して来ていただくため、勝連城跡周辺の活性化を目指していきたいと思っています。その取り組みの始まりとして、「みんなで造ろう世界の宝」かっちん城Dreamプロジェクト募金活動を行います。集まった浄財は、城壁の早期修復、城クリーンアップ活動、城活性化イベント等への資金に充てさせて頂きたいと思います。未来の勝連城跡のためにも、これから訪れる多くのお客様のためにも、ご支援・ご協力を賜りますよう心よりお願い申し上げます。」

≪活動主体≫

「みんなで造ろう世界の宝」かっちん城Dreamプロジェクト (肝高の阿麻和利卒業生)

≪活動内容≫

1.Dreamプロジェクト募金活動
  2010年3月8日〜5月5日 第1期集計/集計発表
  5月8日〜8月5日 第2期集計/集計発表
  8月8日〜10月5日 第3期集計/集計発表
2.城クリーンアップ活動
3.城活性化イベント
  2010年8月14日の「阿麻和利」夏(石川会館)の昼にチャリティー公演
  2010年10月10日の城跡公演の際に募金お礼感謝のセレモニーを開催する

■募金振込口座 ※沖縄銀行作成中
 ・琉球銀行   屋慶名支店  口座番号:295810
 ・ゆうちょ銀行 記号番号:17070-10316721
    口座名義:カッチングスク ドリームプロジェクト
         ダイヒョウ グシケン トモミ

■問い合わせ先
〒904-2312 沖縄県うるま市勝連平安名2925-1
あまわり浪漫の会事務所内 TEL:090-3796-7222 (担当:具志堅)
 FAX:098-978-9750


ちへいせん・あしびなー

比嘉小学校の子どもたちはなんと幸せなんでしょう。それにしても講評は、それぞれの写真から性格を実によくとらえていますね。すばらしいの一言につきます

■私は、2009年4月に比嘉小学校校長として赴任しました。初めて学校を訪れた時の感激を今も忘れません。豊かな自然に包まれた学校、花いっぱいの校庭、整然と並べられた机と椅子、清掃用具等、学校の良さが十分に伝わり、子ども達が心豊かに育っているなと感じました。前校長の下地先生より地平線会議の方々との様々な交流を通して、子どもたちが浜比嘉島を誇りに思い、自信をつけ、夢に向かって大きく羽ばたける機会に恵まれたすばらしい一年でした、というお言葉をいただきました。本当にありがとうございました。

◆今回の写真集の贈呈を写真を撮った6年生の卒業式に間に合うようにとのお心づかいにも大変心打たれました。代表の江本様から卒業式前日に、「写真集が出来上がりました。私も今初めて見るんですよ。明日の卒業式にお持ちします。」というお電話があり、これ以上にない真心の贈り物に、比嘉小学校の子どもたちはなんと幸せなんでしょうと職員室は喜びの声であふれていました。卒業式で写真集を贈呈された子どもたちは、さっそく自分の写真のページをめくって見ていました。一生の宝ものですね。

◆私は卒業式が終わって帰宅してから、その日のうちに全ページに目をとおしました。まずは子どもたちの写真展「わたしたちの宝もの」を一ページずつめくっていきました。一人一人の写真に講評がついています。一年間私が知っている子ども達とはまた違った個性を描きだしていました。「ああこの子には、こんなに優しい一面もあったのね。」「こんな明るい活発な面もあったのね。」と、子どもを深く理解していなかった自分が情けなく、申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。それにしても講評は、それぞれの写真から性格を実によくとらえていますね。すばらしいの一言につきます。

◆「あしびなー物語」については、一昨年のこの浜比嘉島での様々な企画に私も是非参加したかったという思いを強くしました。世界を舞台に活動を続けていらっしゃる方々のお話は読んでいて大変貴重で勉強になりました。充実した4日間の中で本校の子ども達が関わりを持てたのは、本当に幸福でした。

◆今回は本校だけでなく沖縄県教育委員会を訪れ、沖縄県の小・中・高校へもこの写真集を寄贈なされ、地平線会議の皆様の沖縄県への熱い思いに心より感謝申しあげます。誠にありがとうございました。今後ともよい関係づくりができたらと思います。よろしくお願い致します。(伊敷ひろみ 比嘉小学校校長)

比嘉小卒業生からの手紙

比嘉小学校の今年の卒業生8人全員が「『わたしたちの宝もの』を読んで」 というテーマで地平線通信のために文章を書いてくれた。以下、全員の文章を原文のまま掲載します。見出しは編集子がつけた。順序は、ファクスの順。

《本当に、世界中の人に、この一冊の本を見てもらいたいなぁと思いました。》

 ぼくは『わたしたちの宝もの』を読んで自分たちのとった写真が、とてもすばらしいと改めて思いました。どういう写真かというと、人物の写真、虫の写真、動物の写真、夕日の写真、ビーチの写真、です。絵になる場所がいっぱいあるところです。一枚一枚の写真から、その時の様子が伝わってくる感じがします。本当に、世界中の人に、この一冊の本を見てもらいたいなぁと思いました。ぼくの一生の宝になりました。とても感謝しています。
 地平線会議の江本嘉伸さん、地平線会議のみなさん、本当にありがとうございました。(安里雄大

《浜比嘉島てこんなにもきれいだったっけ?と思うほどきれい》

 私が思い出に残っているのは、カメラで自分達の島を自由に写しまわったことです。あらためて島のよさに気づきました。
 学んだことは、物を写すときは、カメラを半おしするときれいに取れるということがわかりました。
 あやはし館でおこなわれた写真展では、みんなの写した写真を見て、浜比嘉島てこんなにもきれいだったっけ? と思うほどきれいに島がとれていました。
 卒業式に写真集をくださったり、東京からおこしくださってありがとうございました。(山城朱羅

《5年生から有名人になれているのは、この本をつくってくれたみなさんのおかげです》

 私は、『わたしたちの宝もの』を読んだり、見たりしました。私が読んだり見たりして写真をとるときにがんばったことがうかんできました。それは……
 1 アップでとるのか ズームでとるのかをかんがえてとったこと
 などです。くろうしたことは、
 2 浜比嘉島のどこをとろうか、とかんがえてあっちこっちいったこと、
などです。
 私はこの本を見て、自分の写真がおおきくうつっていて、5年生から有名人になれているのは、この本をつくってくれたみなさんのおかげです。本当に本当にありがとうございました。感謝しています。(浜崎歌南

《卒業式にまにあわせて作ってもらってもってきてくれたので、すごいなと思いました》

■僕が、『わたしたちの宝もの』という自分たちでとった写真が写っている本を読んで、僕たちのためにわざわざ東京から本をもってきてただでくれたのでうれしかったです。後、できたばかりで卒業式にまにあわせて作ってもらってもってきてくれたので、すごいなと思いました。それに自分のとった写真がのっているページがあったのでうれしかったです。それに僕がとった写真が全部のっていたのでよかったです。そして、自分のとった写真がきれいに写っていたので、うれしかったです。僕たちの写真などがのっている本を作ってくださって本当にありがとうございました。これからも、もっと写真をいっぱいとりたいなと思いました。(山根仰慈

《また浜比嘉じまにきてください》

■ぼくが、『わたしたちの宝もの』という自分たちでとった写真が写っている本を読んでぼくたちはとってもうれしかったです。
 ぼくのことを本にかいてくれたり写真をきれいに出してくれてとてもうれしかったです。ほんとうにありがとうございます。
 また浜比嘉じまにきてください。(玉城圭輔

《広く写すとあまりはくりょくがないけど、ズームするとはくりょくがでてくるのがわかりました。》

■ぼくは、『わたしたちの宝もの』の写真集を読んで、やっぱり自分の写真がのっているのがとてもうれしかったです。それと「昼間の決闘」ものっていたのでよかったです。
 また、ぼくたちは、こんなにいっぱいの写真を取ってきて、わかったことは、広く写すとあまりはくりょくがないけど、ズームするとはくりょくがでてくるのがわかりました。また、きれいに取るのもいいけど、たまにそれにボカシをいれるときれいにとるのとちがうはくりょくがあることがわかりました。 こんなに、いろんなことがわかりました。ちへい線かいぎのみなさん、これまで本当にありがとうございました。(仲村 颯)

《くろうしたことは、写真をうつすむきです》

■僕は『わたしたちの宝もの』を作ってみてとてもとてもデジカメのことがくわしくわかりました。それは、地平線会議のみなさんのおかげだなぁと思いました。
 写真集をみてみると自分のとった写真がのっていたのでうれしかったです。それと僕がうつっている、まひるのけっとうものっていたのでうれしかったです。
 僕がくろうしたことは、写真をうつすむきです。それと写真をたくさんとったことです。
 僕は大人になったらデジカメをすぐにかいたいと思います。
 地平線会議のみなさん本当にありがとうございました。(新里勇磨

《あと1枚とったら2222枚だったのになぁ》

■僕は、地平線会議の江本さんからもらった『わたしたちの宝もの』を読んで、なつかしいなぁ、と思いました。
 最初のページには、去年の僕たちと今の中学一年生がとった写真・2221枚がありました。こんなに写したんだなぁと思いました。だけど、あと1枚とったら2222枚だったのになぁと思いました。
 僕がとった写真がのっているページには、大きな赤い花の写真と、おじいちゃんと、ヤギと友達と朝日の5枚の写真がありました。一枚一枚講評を書いてあったので、うれしかったです。僕が一番気にいっていた赤い花の写真は、10回くらいとって、やっとピントもあっていて、きれいにとれていて、なっとくのいく写真がとれました。その時はうれしかったです。
 思い出の一冊なので大切にしたいです。(鶴見孝一

島の子ども達のためにこのような輝ける機会を提供して頂いた地平線会議の方々へ、改めて感謝!

■江本さんが卒業式の朝に学校にいらして報告書を手にしました。中を見てびっくり! これは本屋さんに飾られている本じゃないのか、と思う程の出来栄え。丸山さんが心血を注いで作り上げた報告書だと思うと(何回かのメールのやりとりの度に報告書が未だ仕上がりません、と話していたあの報告書なんだ)……。手にして中を見た時はとても驚かされました。

◆子ども達は幸せ者です。地平線会議が浜比嘉島で行われていなければ、このような機会に巡り会うことはできなかったわけで、そのおかげで、こんなすばらしい経験をさせて頂いた上に、本にも載せて頂いて。子ども達の作品ですが、私も同じようにうれしかったです。写真展を開催して頂いただけでも幸せなのに、さらにこのようなすばらしい一生の宝物まで頂き、きっと、子ども達の人生にとって大きな自信となることだと思います。将来、この中の誰かが世界に羽ばたくような人に成長してくれれば……これは教師の勝手な思いではありますが、そうなってくれるとうれしいかな……。

◆子ども達のいいところを伸ばしてやり、可能性を伸ばすという教師の役目があるのですが、果たして私はどこまでできているのか……。島の子ども達のためにこのような輝ける機会を提供して頂いた江本さんはじめ地平線会議の方々へ、改めて感謝(何度感謝してもしたりないのですが)すると共に、地平線会議のますますのご発展と、皆さんの健康と旅のご無事を祈念します。

◆一教師として、これから子ども達の目を世界へ向けるために、一つ紹介できる情報ができたこと、江本さん、丸山さんと出会えたことが何よりもうれしかったです。ありがとうございました。(金城睦男 比嘉小教諭)

子どもたちにとっては勿論、比嘉小学校、浜比嘉島の方々にとってはこの記録集はまさに「宝物」になりました。わたしたち大人が子どもたちに何を伝えるか。どのように子どもたちを育んでいくか。これからの時代の大きなテーマなような気がします

■待望の「あしびなー物語×わたしたちの宝物」の完成、誠におめでとうございます。「伝承、そして記録し続けること」をテーマに浜比嘉島で開催された「ちへいせん・あしびなー 地平線会議 in 浜比嘉島 2008」の記録としてのこの一冊に大きな感動を覚えました。その完成度の高さは、わたしの予想を遙かに超えたものでした。しかも比嘉小学校の子どもたち12人の撮った写真(「わたしたちの宝もの」)がその半分を占める構成など、江本嘉伸代表世話人はじめ多くのスタッフの子ども達に対する熱い思いをひしひしと感じずにはおれませんでした。

◆ここまで子ども達の作品一つ一つに解説を加え光輝かせて下さったことに心から感謝します。子ども達一人一人があらためて大きな自信を得たものと思います。しかしながらここまで入念に仕上げて下さった御苦労は並大抵ではなかったはずです。そのこだわりとやり遂げる情熱に頭が下がる思いがします。そのお陰で子どもたちにとっては勿論、比嘉小学校、浜比嘉島の方々にとってはこの記録集はまさに「宝物」になりました。

◆今回の一冊は、次の世代を担う子どもたちを育むという視点と真実を求め続け命を燃やす大人のメッセージを融合させたところに、大きな価値があると私なりに感じます。地平線会議は30周年を迎え、これまで行われた報告会が371回だと聞きます。しかも毎月欠かさず開催されたというからそのエネルギーはすごいの一言です。そしてその中の一つの形が今回の子ども達につなぐこと(継承すること)なのではないかと察します。

◆思い出せば地平線会議とのお付き合いは2008年10月、浜比嘉島で開催された「あしびなーin 浜比嘉」から始まりました。比嘉小学校で子どもたちに夢と誇りと自信を与えたいという私の思いと山田高司さんの「命のアンテナを磨いて欲しい」という講演のコンセプトがピタッと一致し、大成功を収めることができました。

◆恐らく山田高司さんに講演をして頂く段階ではこのような記録集を作ろうという構想まで至ってなかったと思います。「あしびなー in 浜比嘉」で起こった一連の流れの中で、丸山純さんのデジカメ教室が開催され、エイサーの披露があり、地平線会議のメンバーの報告会があり、地域の方との交流が実現し、平田大一さんが、生まれ島を知り根を張る意義を熱く語り、前田一舟さんの協力もあり、海の文化資料館での写真展に発展し、そこに何を問うかという真摯な問いかけがあり、今回の記録集の完成に行き着いたのでしょう。

◆命を燃やし世界を股にかけた大人達がそのたくましい手で子どもたちに夢と自信と誇りをプレゼントしてくれたことは実に感慨深いことです。きっと子どもたちは自分の育った島に誇りを感じながらも世界に目を向け、真実を求め命をしっかり燃やしてくれるだろうと思います。

◆ところで平成22年4月3日、第82回春の選抜高等学校野球大会で沖縄の興南高校が優勝しました。若い命をしっかり燃やしたその生の姿を現地で見ることができ、指笛と歓喜の渦の中、感動の涙が自然と湧き出ました。延長戦を制したナインからは以前の沖縄の子どもたちの弱さはみじんも感じられませんでした。悲願の本土復帰から38年。確かに時代は変わりつつあります。しかし真に力強く生きることの必要性はますます高まっているような気がします。

◆わたしたち大人が子どもたちに何を伝えるか。どのように子どもたちを育んでいくか。これからの時代の大きなテーマなような気がします。地平線会議のますますの発展を祈念し、お礼とします。(比嘉小学校元校長 下地邦敏

地平線会議と浜比嘉島を残す宝もの−母のような編集者の丸山純さんと地平線会議のみなさんに感謝

 いま、沖縄本島の東海には人間の欲に飢えたふたつの嵐が吹き、島民をこまらせています。ひとつは子どもの環境、もうひとつは自然そのものです。その嵐を吹きとばす勢いで登場した『あしびなー物語×わたしたちの宝もの』は春風の東風の如く、浜比嘉島に心地よい恵みの風をもたらしてくれました。

 私は、その本で大好きな構成があります。それは地平線会議のみなさんが外の視点からみた浜比嘉島と島民の内の視点からみた浜比嘉島が顕著に表れているところです。その編集者の発案はまさしく旅の眼をもって表現し、次世代の子どもたちへつなげた宝ものだと感じました。その形を残すには、わが子を産むように相当な時間と労力を費やしたと思います。私は、そんな母のような編集者の丸山純さんと地平線会議のみなさんに感謝しています。

 旅の眼をもつ母から生まれた本は、その本から元気をもらった人たちによって、ふたつの嵐のなかにいる浜比嘉島、沖縄という社会をきっと大きな展望で示してくれることでしょう。丸山さん、子どもたちの想いを汲みとってくださいまして本当にありがとうございました。(うるま市立海の文化資料館学芸員・前田一舟

流れる水のごとく、この伝承活動は、沖縄県民に広報されました−「あしびなー物語×わたしたちの宝もの」記録本の伝承活動の現地報告

■地平線会議30周年を記念して、沖縄の不思議な島(メンバーの1人、はるみ様が島へお嫁入り)、浜比嘉島で遊ぼうよ、との問いかけから、始まったと聞いている地平線報告会「ちへいせん・あしびなー」、島の子供たちと遊ぼうよ、と写真展開催「わたしたちの宝もの」、その遊び心を残そうよと記録本「あしびなー物語×わたしたちの宝もの」の発行、さらにその遊び心を支える愛「コラボ愛の奇跡?」を伝承しようよ、と記録本無償贈呈式「島の子供たちと沖縄県の全小中校に記録本を贈る活動」と、足かけ4年の「遊びと愛」のドラマを見る機会に逢えました。

◆とくに今回(3月19日〜3月25日)は、代表世話人江本様の浜比嘉&那覇での伝承活動7日間に、案内人として付き添いました。ついでにこの現地活動について「なんでもいいから書いて」と江本様に口説かれて、「はい、了解しました」で、私は、書く破目になったのでございます。

◆「遊ぼうよ」から始まり、この記録本の「島の子供たちへの贈呈式」から「沖縄県教育委員長 比嘉梨香氏への贈呈式」、そして、沖縄県内の各メディア(21社)への取材依頼・取材・放送・掲載へと、流れる水のごとく、この伝承活動は、沖縄県民に広報されました。私は、沖縄県民、いや、うるま市与那城屋慶名(浜比嘉のとなりむら)出身者として、『本当にありがとう、地平線会議のメンバーたち(とくに丸山様・長野様)』と感謝に堪えないおもいです。合掌。

◆この一連の行動を、何が、だれが、背中を押したのだろうと思いを巡らせた時、私には、信じられない光景が幾重にも脳裏を駆け巡っていました。参加メンバーたちの島との出会い、人々との出会い、自然との出会い、思いとの出会い……。それらの中から湧き出づる「お遊びの喜び」、それぞれの「思い」の「コラボ」が、背中を押したのではないかと……?。コラボ愛の伝承か……?

◆伝え聞く30年余の地平線会議の活動報告会、冒険家・探検家・世界の旅人等、延べ数万人ともいわれるメンバーたちの報告は、「遊びの達人たち」への仲間入りの道案内人として、大いなる力を発揮しているものと思います。

◆この「あしびなー物語×わたしたちの宝もの」の地域活動は、開催地にとりまして、ある一種の刺激といいますか、あるきっかけ造りといいますか、ある才能の扉開きといいますか。そのような働きがあるものと思います。とても素晴らしいこと、素敵なことだなーと感動いたしました。このような思いも含めて、地平線会議が、50年、100年と永く伝承されることが、最も大切なもののひとつであると信じる者であります。

◆それには、ボランティア&寄付金はさることながら、より多くの予算が、要るかと思いますから、永年伝承していくには、何か対策を考える必要があるのではないでしょうかと思い至りました。終わりに、私見、「地平線会議○○○○基金造り」として、活用できるアイデアを提案させていただいて、報告とします。詳細は、awamori-kosyu-barter.jimdo.com/(一部工事中)で検索・ご検討ください。(長濱靜之 薬膳・島野菜・家庭料理「拓洋」)

目先の欲にとらわれず、無意味に群れず、自らの信念に基づいて行動し、自分に一銭にもならないことに一生懸命になるアホな人たち。その仲間であることに誇りを持っています

■先日はいろいろありがとうございました。「あしびなー物語×私たちの宝もの」すばらしい大作ですね!学校の卒業式に間に合わせるためにできたての本をかばんに詰め飛行機に飛び乗りわざわざ浜比嘉まで来てくれた江本さん(浜比嘉ではムツゴロウさんでとおっている)、丸山さん以下編集に携わった方々、特に丸山さんは大変なご苦労をされたようで、本当に感謝です。

◆比嘉小の六年生八人には卒業式に江本さんから手渡しをされ、他の比嘉小と浜中の子ども達は先生を通して渡されました。またイベントに協力してくれた出演者や関係者には私と区長が配りました。その他区民には張り紙をして公民館に取りにきてもらいました。

◆みんなまず一様に感心していました。あらためて地平線会議の底力を感じたことでしょう。目先の欲にとらわれず、無意味に群れず、自らの信念に基づいて行動し、自分に一銭にもならないことに一生懸命になるアホな人たち。私もその仲間であることに誇りを持っています。これからもよろしくお付き合い下さい。

◆話は変わりますが、この与勝の美しい海を埋め立てて新たな基地を作るなんて案が出てきてるらしく、浜比嘉島もマスコミの取材が来たりして騒がしくなっています。島はモズク漁が収穫の最盛期に入っているというのに。先日きむたかホールで行われた反対集会では約700人が集まりました。もう沖縄にあたらしく基地を作るのはいい加減にやめて欲しい!と切に思います。

◆この間牧場に遊びに来た本島に住むかわいい小二の男の子、普段何して遊ぶのか聞いたら「戦争ごっこ。軍を作って戦うんだよ。」絶句しました。これが沖縄の現実だ。4月25日に読谷村運動広場で普天間基地の県内移設に反対する大規模な集会が計画されています。私は行けないかもしれないけどなるべく多くの人が集まったらいいなと思います。(外間晴美

2冊の本を1冊に合体させるという発想がすごくいい。「丸山クン、よくやった!」と絶賛したいです

■江本さん、『あしびなー物語×わたしたちの宝もの』(地平線会議)を送っていただきありがとうございます。いやー、この2冊の本を1冊に合体させるという発想がすごくいいですね。それも58ページずつというのが、心にくいばかりではないですか。

◆さっそく全ページに目を通してみたのですが、『わたしたちの宝もの』には目を奪われました。「丸山クン、よくやった!」と絶賛したいですね。よくぞここまでうまくまとめました。

◆比嘉小学校6年生12名の写真には、正直驚かされました。子供たちを撮った写真や「浜比嘉島」の砂文字の写真、海だけを撮った写真など、見事な出来栄えですよね。1人1人が同じように一見開きで、一番大きくした写真を本人に選ばせるというのも、12名の生徒たちにはきっと大きな自信になったことでしょう。ご両親たちの喜ぶ顔、姿が目に浮かぶようです。それに何よりも、丸山君の講評がいい。子供たちの良さを見つけ出し、「こうすると、もっと良くなるよ」的なアドバイスがすごく効いています。思わず「う〜ん、なるほど」と声を出して講評を読んでしまいました。これら12名の生徒の撮った写真のサブタイトルは「浜比嘉島のいま」。2008年に撮った2221枚の写真は将来、きっと貴重な資料になることでしょう。

◆さて「地平線会議in浜比嘉島」の『あしびなー物語』の方ですが、ページをめくるごとに、あのときの熱気が蘇ってきます。それぞれの発表者の熱気が伝わってきます。沖縄国際大学生のみなさんの目線には何ともいえない新鮮さを感じたし、島人の座談会では地元民ならではの話が聞けたし、平田大一さんのページでは故郷の小浜島、さらには沖縄への熱い想いがひしひしと伝わってきました。

◆ぼくは「一枚の写真から」の部に参加させてもらったのですが、これは日本観光文化研究所(観文研)の『あるくみるきく』に毎回連載されていた宮本常一先生のコラムからとったものです。司会の三輪主彦さんや参加者の向後元彦さん、そしてぼくは観文研のメンバーであり、上江洲均さんもメンバー同然の人でした。それだけに観文研の同窓会的な楽しさがあました。仲間内ではおおいに盛り上がったのですが、もう1人の参加者、金井重さんにはちょっと申し訳なかったかな。

◆それにしても「一枚の写真から」のトークは時間が足りませんでした。「さー、これから本題」というときにはもう時間…。宮本常一先生の何気ない1枚の写真から風土、物事を読み解く力は大変なものでした。ぜひとも再度、このテーマでもっと、もっと語りあってみたいものだと思いました。この「1枚の写真から」のページの下段には『あるくみるきく』の各号の表紙がズラズラッと並んでいますが、よくぞこれだけ集めたものだと感心しています。その中にはカソリの「アフリカ一周」や「下関」、「西原(山梨)」、「韓国食べ歩き」の号もあり、あらためて20年近くも属した自分の観文研時代を思い出すのでした。

◆今回の『あしびなー物語×わたしたちの宝もの』を出した(出せた)ことによって、地平線会議はまた一段と大きな力を得たように思います。我々の可能性は間違いなく広がりました。江本さんが冒頭で書かれているように、これぞまさしく「記録すること・継承すること」そのものだと思うし、これがステップになって、次の「地平線会議 in 浜比嘉島」的な特別報告会を開催しやすくなったと思っています。(賀曽利隆

『あしびなー物語×わたしたちの宝もの』沖縄県教委贈呈式顛末
―フロント記事の補足として

■『あしびなー物語×わたしたちの宝もの』を沖縄の小中学校に贈りたい。だが、いきなり学校に送るのでは、趣旨が伝わらないかもしれない。3月20日の比嘉小卒業式を終え、那覇に戻って4日間、メディアの人達と会い、本を贈ることについて相談した(県庁記者クラブの加盟社21社にこの本をお渡しした)。その中で沖縄テレビの報道制作局長さんから県教育委員長の比嘉梨香さんを紹介してもらい、24日昼食をともにすることに。話を聞いた委員長は、「素晴らしいことです。帰る前に贈呈式をやりましょう」と言って、その場で関係方面に電話、翌25日私が空港へ行く前にセレモニーをやることになった。

 3月25日午前9時30分、沖縄県庁13階にある教育庁の部屋で『あしびなー物語×わたしたちの宝もの』の贈呈式が行われた。比嘉委員長と大城浩・県教育庁教育指導統括官に地平線会議を代表して江本がこの本が出来上がった経緯を説明し、「全県の小中校の図書室に」と本の一部を贈呈した。比嘉委員長は「素晴らしい本をありがとうございます。県教委から全県の学校に贈ることに協力します」と、その場で担当者を紹介してくれた。贈呈式には沖縄タイムス、琉球新報、沖縄テレビのカメラと記者が立会い、その模様がその日夕方のテレビ、翌日の新聞などで紹介された。

 県教委の担当者は3月末、各市町村教委あてに「『わたしたちの宝もの』の贈呈について」との通達を出し、地平線会議について、またこの本を贈る趣旨を説明、「学校においては、本写真集のご活用をお願いいたします」と申し添えた。

 本の発送は、新学期の多忙な時間を避けて4月なかば以降となる見込みです。(江本嘉伸

【急告!!】
『あしびなー物語×わたしたちの宝もの』

■どんな本になったのか。是非手に入れてください。頒布価格は1000円です。
★ご希望の方は、地平線会議のウェブサイトにある申込書を使って申し込みするか、この通信の最後のページにある江本宛てファクスで申し込んでください。
 支払いは、郵便振替で本の到着後に。「郵便振替:00120-1-730508」「加入者名:地平線会議・プロダクトハウス」。お手数ですが、通信欄に『あしびなー物語』代金(または『わたしたちの宝もの』代金とご記入ください。


[通信費をありがとうございました]

先月の通信以後、通信費(1年2000円)を払って下さった方々は以下の通りです。手違いで記録が遅れた方すみませんでした。今後も万一通知漏れがあった場合はご指摘ください。地平線会議は会費は不要ですが、通信費は頂いています。
小河原章行 藤原謙二 渡辺悌二 堀井昌子 萩原浩司 山川陽一 成川隆顕 藤本慶光 石田昭子 野々山富雄 長田幸康・田中明美 南澤久実 朝賀正人 和田美津子 小長谷由之・雅子 三好直子


[あとがき]

■この通信をつくっている7日午前、ファクスが届いた。沖縄の上原美智子さんから。「写真展の記録本が沖縄県の全学校に贈呈された事を新聞記事で知り、早速(個人でも欲しい方は、1000円で購入可能を知り)世話人江本嘉伸氏を通して届けてもらいました。心からお礼申し上げます。12名の児童が撮った写真一枚一枚にコメント(講評)が丁寧に施され、子どもたちに自信と誇りを与え、我がふる里を愛する心、浜比嘉の自然、文化の素晴らしさを再発見するチャンスが与えられた事は、大きな成果であり……」と、高く評価してくださった。

◆沖縄県教育委員長の比嘉梨香さんは、現在の要職のかたわら島おこし活動をずっと支援してこられた方と聞いた。発刊直後、そういう人の目にふれ、沖縄の教育の現場に送り込まれることとなったのは、この本の持つ力なのであろう。丸山純君の仕事、とにかく沖縄で大評価を受けている。

◆私は100年後、この本が1冊でも残っていたらどのように見られるだろうか、と興味を持っている。30年前に出した年報『地平線から』ですら、今やレアものであり、あの時代のことを知る貴重な資料となっているのだ。皆さん、今のうちに一冊是非確保されたし。

◆待っていた黒潮カヌープロジェクトの佐藤洋平君の原稿、関野氏のものと本日届いたが、残念、時間切れ。来月にします。(江本嘉伸


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

糞土師は地球を救う!?

  • 4月23日(金) 18:30〜21:00
  • ¥500
  • 於:新宿区立新宿スポーツセンター(03-3232-0171)

インターネット事典ウィキペディアにも載っている「糞土師(ふんどし)」という言葉を知っていますか? ウンコやオシッコを野外でしよう、と提唱する伊沢正名(まさな)さんの肩書きです。「し尿処理施設建設反対の住民運動をしているとき、自分の排泄物がどうなるのか知らないって気づいたんだよね。口に入るモノについては神経質な世の中だけど、出したもモノについては皆、無頓着。まるでウンコなんて存在しないかのように無視するのはおかしいでしょ。入れたら出して、はじめて物質が循環するのに」。

以来、伊沢さんは野グソの科学にひかれていきます。ウンコの分解過程を追跡調査し、お尻を拭くのに良い植物を探究。ウンコの世界は未知の探検です。21世紀になってからは一切トイレを使わず、この5月で連続ノグソ記録は10年に達する予定。

今月は伊沢さんにノグソのすばらしさ、楽しさを驚異のスライドを混じえてたっぷり語って頂きます。


通信費(2000円)払い込みは郵便振替または報告会の受付でどうぞ
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議(手数料が120円かかります)

地平線通信365号/2010年4月7日/制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井祐介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶/印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト http://www.chiheisen.net/
発行 地平線会議 〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-303 江本嘉伸方


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