2011年8月の地平線通信

■8月の地平線通信・382号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

8月17日午前8時過ぎ、メール着信。「地平線お誕生日、おめでとうございます! みなさんによろしくお伝えください。いま中瀬町に向かう車の中です」宮城県登米市の「RQ市民災害救援センター」現地本部の総務として頑張る新垣亜美さんからだ。3月末、高校の先生の仕事を延ばして現地に向かってもう5か月になろうとしている。

◆7月末、訪れた時は広い体育館にボランティアの人たちが寝泊りし、新垣さんたち総務チームの皆さんは、相変わらず狭い器具庫の中で仕事していた。寝るのも椅子の上だ。今月はじめ、教室部分に避難所暮らしを強いられていた南三陸町中瀬の人たちが仮設住宅に引越した。中瀬地区を担当する新垣さんは超多忙だったろう。北海道の田中雄次郎君から電話をもらったのは、まさに中瀬の皆さんが引っ越しするちょうどその日、8月4日のことだった。

◆田中雄次郎。懐かしい名だ。三輪主彦さんの清瀬高校時代の教え子(といっても間もなく54才になるそうだ。武田力君と同期)。酪農家を目指して23才で北海道に渡った。保育の仕事をしていた同級生の典子さんと結婚、北の大地での、バブルがはじけた直後の借金苦など一時は表現できない苦労もしつつ、二女四男を立派に育て上げた。現在は豊富に土地を持ち、50頭の乳牛を飼っている。牧場を、長女のあおさん、次女のそらさんの名をとって「あおそら牧場」と命名した。

◆長男の雄馬(ゆうま)、次男の真生(さねいき)君は、ふたりともフィリピンの別な島でサトウキビ栽培と農業指導の仕事にあたっている。今は、三男の寛大(かんた)君、四男の晴大(はるた)君が夫妻を助けている。この春、東日本大震災の被災地の惨状を知って晴大が「何かできることをしたい」と、言い出した。ジャガイモの植え付けをいつもより多めにしよう、少しでもおいしい新ジャガを食べてもらおう、と決めた。

◆ジャガイモの生育には「土寄せ」が重要だ。すくすく伸びた芋は太陽の光を受けるとメラニンが増えて緑色になり、食べても苦くなってしまう。それを防ぐため、2日に1度くらい、土をかぶせてやるのだ。お兄ちゃんの寛大君がその仕事を丹念にやった。8月、いよいよ収穫できる、となったが、さて、どこへ送ろう?と思案して私に電話してきたわけだった。それが8月4日。中瀬町の皆さんの、まさに引越しの日だった。その後の顛末は新垣亜美さんのレポートに譲る。

◆で、8月17日だ。すでにご存知の方も多いと思うが、1979年のきょう、四谷荒木町で地平線会議の誕生が決まった。その経緯は何度か書いているので、きょうはその1年後の話。「地平線 80年頃」とマジックで書きなぐったノートがある。中には「9・11 19:00 at OHARAII」との書き込んだページが。今ではなくなってしまったが、四谷一丁目にあった「OHARAII」は、地平線にとって懐かしい溜まり場だ。

◆総合ディレクター・江本、運営事務局長・宮本、サークルの場チーフディレクター・岡村、行動論チーフ・三輪 歩き方見方講座・伊藤、地球体験レポート・森田、丸山、パーティー賀曽利、河田真智子などと書かれているのが懐かしい。探検・冒険年報『地平線から』の発刊と地平線会議が発足して1年になるのを記念してフォーラムをやろう、というこれが最初の打ち合わせだった。

◆何度かミーティングを重ね、総合タイトルを「いま、地平線に旅立つ」とし、実施期日は1980年11月23、25日の2日間。場所は池袋西武百貨店にあった「池袋コミュニティー・カレッジ」と決めた。第1日の第1部は「地平線を見た男たち」として「グリーンランド横断から犬ぞりによる北極点到達を指揮した」池田錦重、「アマゾン源流に通うこと10年、ついにインカ遺跡を発見した関野吉晴」「世界ではじめてエベレスト(チョモランマ)の南北両ルート登頂を果たした」加藤保男の3人が登場した。

◆2日目の第4部は「より自由な行動のために?私的探検の技術」をテーマとした。カヌー、熱気球、自転車、山スキー、オートバイなどさまざまな移動手段で旅を実践してきた冒険者たちが次々に体験を語った。そこに最年少の行動者として紹介されたのが「徒歩で20キロの荷を背に67日間で日本を縦断した」田中雄次郎である。

◆若き日の彼の旅は日本観光文化研究所で出していた「あるく みる きく 138号(1978年8月)」に一冊まるまるの特集として記録されている。「歩行距離2751キロ。使用金40001円。拾金1105円」など、青春の旅の記録として今読み返しても刺激に溢れている。東日本大震災から5か月経った2011年8月、北の大地に根を張る素晴らしい家族から東北に届いたジャガイモのメッセージが東京の私にも嬉しかった。(江本嘉伸


先月の報告会から

探検ゴゴロは眠らない

丸山純

2011年7月22日 18:30〜21:00 新宿区スポーツセンター

■「報告会レポートじゃなくて、丸山純という人間を書いてほしい」。江本さんより壮大なテーマを与えられた。さてどうしよう? 丸山さんの話は今まで何度か聞いている。昨年の8月の報告会では、三輪主彦さん、中山嘉太郎さん、埜口保男さんと一緒に丸山さんとも話させてもらった。「正統派」「論理的」「知性的」「スマート」。どうしてもそのイメージに囚われてしまうので、一度、心を無にしてインターネットで検索をかけてみた。丸山純、W88、W59、H86、んんっ?、レースクイーン丸山純だった。やはり情報に逃げてはダメだ。

◆「申し訳ない気持ちです」。丸山さんの報告会の第一声は意表をついていた。何が?と思ったら、4月以来今まで3回震災関連の質の高い話が続いたあとに、それを打ち切る役目が自分である、ということが聞き手に申し訳ないということだった。それでも話し手を引き受けたのは、この6月に立命館大学でキャリア形成論と国際理解教育論という二つの授業を大学生にしたのに、地平線の若手には話していないのも悪い。しかも話し足りないことがあったからだと続く。

◆そこから話は核心に迫る。探検家になりたかった丸山さんは、地平線会議第5回!(1980年1月)の報告会で「非探検人間の探検行」というテーマで語っている。探検という言葉にこだわる丸山さんからすると、自分は探検家ではない。それでも探検ゴコロは眠らずに持ち合わせている、という思いがある。ここで裏のテーマ「なんで、梅棹忠夫になれなかったのか?を、ちょこっと考えてみた」の文字がスクリーンにドーンと落ちてくる。その鮮やかさにプログラマー丸山純としての顔がのぞく。

◆昨年亡くなられた梅棹忠夫に憧れ続けた丸山さん。当然、大阪の国立民族学博物館で開かれたウメサオタダオ展を訪れる。完成度の高い展示を見ながら感じたことは、12、3歳ごろの梅棹さんは「なんだ俺とかわらない」。普段の丸山さんが言いそうにない強気の発言に、会場にドキリとした空気が走る。そこから、子ども時代の話が始まる。

◆東京出身で、お父さんが映画関係の仕事で忙しかった丸山さんは、アウトドアの体験をする場がなく、心配した両親に小学校2年生のときにボーイスカウトに入れられる。春夏秋とキャンプをするボーイスカウトの野外生活は丸山さんの性にあい、中学2年生まで続けることになる。その組織の中で認められた丸山さんは東京のトップになり、富士裾野で行われた全国大会では何百人も人間に号令をかけ、国旗に敬礼をさせた。そのことに丸山さんはひるんだらしい。もともと軍隊的な組織が嫌いだった丸山さんはそれを機に、ボーイスカウトをやめることになる。小学生時代、探検、冒険の本が大好きだった丸山さんがのめりこんだ本が、イギリスの児童文学作家、アーサー・ランサムの『ツバメ号とアマゾン号』12冊。ボーイスカウト上がりの主人公と自分を重ね合わせて、翻訳された次の号が出るのが待ち遠しくて仕方なかったと本当に嬉しそうに話した。

◆中学になってもっとも影響を受けた本は向後元彦さんの『一人ぼっちのヒマラヤ』。ヒマラヤ登山は大名行列のようなキャラバンでしかできない、と、思い込んでいた丸山さんは、キスリングザックひとつで自由に動く向後元彦さんに驚き、本をなめるように読んだ。

◆そんな丸山さんに転機が訪れる。ボーイスカウトで訪れた武蔵五日市の大岳鍾乳洞に入ったとき、洞窟調査という大義名分を口実にすれば、堂々とキャンプができるのではないか?と閃いたのだ。結果は思ったとおりで、中学の科学部の仲間とともに忘れもしないアポロが月に直陸した日、「アームストロングなど地上の言いなりの猿みたいなもんだ」といいながら洞窟に向かった。当時の洞窟探検で竪穴に下りるにはワイヤー梯子が常識だったが、中学生の丸山さんたちには高価すぎて買えない。そこで研究に研究を重ね、縄梯子を自作する。

◆そうして洞窟探検にはまり込んでいった丸山さんは高校入学後、熊石洞などの鍾乳洞が多数ある岐阜県郡上八幡に30回も通うようになる。この頃、『現代の探検』という雑誌で地平線会議創立当初のメンバーである賀曽利隆さん、関野吉晴、惠谷治さんなどを知り、憧れ、その影響を強く受けた。丸山さんが洞窟の入り口で撮った写真のポーズは、『現代の探検』創刊号の表紙を飾った三原山の火口に潜ろうとする惠谷治さんのマネであり、伊藤幸司さんが子どもたちに探検の出前授業を行ったという話が印象に残り、今自分がやっている「子どもたちへのデジカメ教室」につながっているという。

◆ところが早稲田大学文学部に入ると状況は変わった。文学青年ばかりの環境の中で、自分も何か芸術的なことをしなければいけない、と思ってしまったのだ。お父さんが映像技師だったこともあって映画を撮り、フォークギターをひき、探検の世界からは一時遠ざかっていった。大学3年で「西洋史学科」を選択、興味をそそられ学者になろうかな、と思う。ところが現地も知らないまま卒論を書くのもなんだ、と考えるようになり、海外に行こう、と決めたときに、はっ、と思い出したのが『現代の探検』第7巻に載っていた「カフィリスタン探訪記」。

◆そういえば昔、ヒマラヤにアレキサンダー大王の子孫である紅毛碧眼の異教徒がいる、という話にショックを受けた。その関連書物を調べると憧れの向後元彦さんや本多勝一さん、梅棹忠夫さんまで出てくる。これはもうパキスタンのチトラルに行くしかないと決め、その資料のコピーをとりに日本観光文化研究所を訪れた。そこで紹介を受け、憧れ続けてきた向後元彦さんと会ったとき、丸山さんは人生で最大に緊張した。

◆「僕は後輩たちには最低でも四季は体験しなくちゃダメだよ、と言っているんだよね」と向後さんに言われた丸山さんがカメラの相談をすると、伊藤幸司さんを紹介される。その伊藤さんに「言葉は1か月もあればしゃべるようになる」と言われ、そんなはずはない、と思ったが、その言葉は心に響き、以降本格的にカラーシャ族と暮らしたいと思うようになった。

◆チトラルはパキスタンの北西端。アフガニスタンに接して広がる県。標高は1500メートルの極度に乾燥したヒンズークシ山脈の谷間には、独自の多神教を信仰し、周囲のイスラーム社会から孤立した「異教徒(カーフィル)」の村がある、はずだった。ところが1978年、秘境だと思っていたその地に丸山さんがたどり着くと、そこはすでに観光地となり、カラーシャ族は観光客にお金をせびる民族になりさがっていた。さらに疲れ果ててたどり着いた安宿で大麻をふかすイギリス人に「まさか文化人類学の調査に来たんじゃないだろーな。オマエは来るのが遅すぎたよ」とせせら笑われ、最悪の初日となった。

◆翌日、お金を払えば、調査できるようにしてやる、という男に出会い、居候してこそ深く村人を知ることができる、と考えていた丸山さんは断る。ところが一人になると、お金をせびる村人に取り囲まれどうしようもなく、もうひとつの憧れの地であるインドのラダックに行こうかな、とまで思い始める。

◆滞在して3日目。偶然、村の葬儀に出くわした。こういう時なら写真をとっても大丈夫と聞いた丸山さんはこっそり遠くから撮影する。カメラのファインダーに写ったのは、てんでバラバラに歌い、独楽のように遺体の周りを踊りながら回るカラーシャの姿。3日間その踊りは夜も途切れることなく続く。その半音の繰り返しの単調なリズムが耳からはなれず、狂ったように踊り続ける姿に「コイツラは野蛮な人たち」なんだと思った。でもその野蛮さに丸山さんは憧れ、自分も野蛮になりたいと強く感じる。

◆それだけ激しく悲しみながら、遺体を墓地に運び込み木棺に土をかけると、もう棺を振り返ることすらなく去ってしまう乾いた感性は日本人にはない。向後さんがカラーシャについて「謎だ」と何度も書いてある通りだ。「謎は解明されなければいけない」。このときカラーシャに通い続ける覚悟がきまった。この葬儀の場で知りあったブンブール・カーンの宿がそれ以降、丸山さんの第二のふるさととなる。

◆ブンブールの家は2階建て、その1階が丸山さんの部屋だ。カラーシャは床で眠るイスラム教徒とは違いベッドに椅子の生活をしている。主食はクレープのようなパン。牛の糞を肥料にした畑はとうもろこし、小麦、などを植えている。女神ジェシュタクの神殿は、なんと隣の部屋にあった。一緒に生活することでカラーシャの姿が少しずつ見えてくる。それでも言葉だけは、簡単には分からなかった。

◆ところが1ヵ月後、信じられないことにカラーシャ語で考え、頭の中で他の言語に置き換えなくてもカラーシャ語が口から出てくる自分がいた。その手助けをしてくれたバリベーグは本当の兄弟のようになり、以後付き合いは続いていく。

◆近年、アレキサンダーの子孫である自分たちに祖先がイスラム教徒に弾圧され、悲しい生活をしているという名目でカラーシャの村にギリシャの援助が入り、学校が作られたり神殿が改築されたりしている。しかしその派手な援助が周囲のイスラム教徒の反感をかい、さらに国境を接するアフガニスタンからタリバンが侵入。援助プロジェクトのリーダーを人質に身代金を要求する事件まで起きている。

◆なぜカラーシャに通い続けるのか? 丸山さんが挙げた理由は、向こうに田舎ができた。学びたいことがいくらでも出てくる。気候風土が好き、だった。33年間も通い続けると、カラーシャに行くときは里帰りの気分になり、親友バリベーグに早く会いたい気分になる。しかしそれらの理由よりも「浮気をしたら彼らに申し訳ない」と言った一言のほうが、心がこもっていた。

◆話し終えた後に会場に来ていた宮本千晴さんより、記録を本にすべきだと、薦められた丸山さんは、昔、村人に「オマエも俺たちのことで儲けているんだろう」と言われたときに、「カラーシャのことを書いて稼いだりしない」と心に誓ったと答えた。その答えこそが梅棹忠夫になれなかった、心優しき丸山純の素顔に見えた。(坪井伸吾


[通信費をありがとうございました]

■先月の通信でお知らせした以後、通信費(1年2000円)をお支払い頂いた方は、以下の通りです。中には10000円(野元さん、松中さん)、5000円(小山田さん、稲見さん)など数年分まとめて、あるいはカンパを含めて協力してくれた方もいます。万一記載漏れあればお知らせください。
■吉岡嶺二「緊急集会2回とも出席できず残念でした。今夏に予定していたライン川ツーリングも航空券は確保していたのですが自粛。来年の楽しみに残しました」 野元龍二 高橋千鶴子 小山田美智子「2000円以外は被災者支援カンパに役立ててくだされば」金谷眞理子「友人に紹介され通信購読希望します」 岡朝子 石原卓也 小林祐一 桜井恭比古 稲見亜矢子 後藤正


報告者の少し長いひとこと

文明論として上からきっちりと押さえながら、こうした文化変容の個々の事例を下からえがいておかねばならないとつくづくおもう

■国立民族学博物館(民博)で開催されていたウメサオタダオ展を、最終日の6月14日におとずれた。わかき日の「発見の手帳」や有名なB6カード、お宝写真なども展示されていてわくわくさせられたが、いちばん印象にのこったのは、2階の壁面をぐるりとおおった年譜だった。小さな男の子が年ごとに成長してとてつもない知の巨人となり、90歳で生涯をとじる。その軌跡がはるか一望できるのだ。

◆山あるきをしたり、手づくりの出版物を刊行したりと、中学生あたりまでの梅棹さんは、わたしとあんまり変わらない。ところが高校生になるとだんだん引きはなされはじめ、そのごは加速度的に差がひらいていくばかり。いまのわたしの年齢である50代なかばには、開館をまぢかにひかえた民博の初代館長として、政官学民のはざまを奔走していた。

◆どうしてそうなっちゃったのか? 頭のデキがちがうから? →う?ん、それはあたりまえだけど、でもそれだけじゃないだろう。やっぱり時代がちがうから? →まあ、たしかにそれもおおきいかな。じゃあ、友人や先輩にめぐまれたから? →そうか、神谷夏実(高校からのケイビングなかま。第37回報告者)が川喜田二郎で、江本嘉伸が今西錦司だったら、おれも梅棹忠夫になれた……わけはない。

◆なんども年譜のまえを行ったりきたりしているうちに、やっぱりフィールドと方法論がちがうからという答えにたどりついた。モゴール族がカラーシャ族で、そこだけにかよいつづけていたら、ひらがなタイプライターも文明の生態史観もうまれなかったし、民博もただの博物館になっていまごろはつぶれていたことだろう。ぎゃくにいえば、梅棹さんが手にできなかったものを、カラーシャたちはわたしにあたえてくれたのだ。

◆ポイントとなるのは、やはり1978年のはじめての旅だ。あの旅のもようを、なぜ梅棹忠夫になれなかったのかという切り口からかたってみると、あらたにみえてくるものがきっとあるのではないか。そんな確信がふとおもいうかんで、それまでことわりつづけてきた7月の地平線報告会の報告者をひきうけることにした。

◆ところが、ほんとうに、ほんとうにもうしわけないことに、予定していた内容の半分もみなさんにつたえることができなかった。あれでもずいぶん数をしぼりこんだつもりなのだが、スライドの説明にかなり時間をとられてしまい、旅そのものをかたる余裕がほとんどなかったし、民族衣装を着てもらうのにもけっこうてまどった。おかげで後半あせりにあせって、近代化と援助の問題を表面的になぞるだけになってしまったのは、いまおもいだしてもくやしくてしょうがない。森田靖郎さんにならって吹こうと用意していた、カラーシャのななめ笛もおきかせできなかった。

◆ほとんど自給自足だった伝統的な無文字社会が、この30年間で内側からおおきく変わっていった。雪にとじこめられる冬のあいだ、春がきて峠のジープ道がとおれるようになるのをこころ待ちにしていたのに、いまでは1時間半で川ぞいの道からチトラルの町まででていける。町にいるあいだしか通話できないのにケータイ電話をもつ若者たちが急増し、インターネットカフェにいりびたる者もいる。乳児や幼児の死亡率もぐんとさがり、おかげで人口が80年代の1.5倍ぐらいにふえて、どの家も子どもだらけだ。援助にささえられて、カラーシャという民族のパワーは最高潮にふくらんだ。

◆いま日本人がすこしずつ自省へとむかいはじめた文明の便利さを、カラーシャたちはなんの疑問もなく享受しだした。梅棹さんは、科学技術は人間の業だとどこかで書いていたが、文明論として上からきっちりと押さえながら、こうした文化変容の個々の事例を下からえがいておかねばならないとつくづくおもう。こころの奥ふかくまではいりこむこともあるので、宮本千晴さんが当日アドバイスしてくれたように、これまでとはちがった、あたらしい手法を編み出すことも必要になるだろう。ただし、文明論はニヒリズムの立場からかたってもかまわないが、辺境でまえ向きに生きようとしている相手にそれを強要することはできない。究極のニヒリストを自認する梅棹さんを意識してしまうと、とんでもなく困難な作業になりそうだ。

◆ともかく、まだ自分でもよくまとまらない話をしてしまって、当日わざわざきていただいたみなさんにはとても気の毒なことをした。でも、わたし自身はおかげでずいぶん見えてきたものがある。あの日につかんだものをかたちにしていくことが、せめてものおわびとお礼になるとおもう。

◆最後に、ちょっとただし書きというか、はなしわすれてしまった訂正を。長野画伯が地平線通信で、洞窟探検を小学生でやりはじめたように書いていたけど、はじめて洞窟に行ったのは中学2年になる直前の春休みだった。また、大学の探検部の部室に行ったのに30分で入部を断念したのは、わたしの経歴をきいて「それならおまえ、惠谷治先輩のあとをついで三原山の火孔探検をやれ」と断言され、もう穴ぐらはこりごり、せっかくひろい世界にでたくて探検部にはいろうとしているのに、これじゃ、またおなじことをやるはめになるとかんじたからだ。当時の早稲田の探検部には、ケイビングを本気でやっている人はいなかったはず。

◆河田真智子さんからは、うまれてはじめて花束なるものをいただいてしまった。穴があったらはいりたかったが、いまさら洞窟にもどることはできない。2004年からごぶさたがつづいている、カラーシャの谷におもいをはせることにしよう。[文体はとてもまねできないけど表記だけはウメサオ流で書いてみた・丸山純


2011・地平線夏だより

技術を高めこの美しい山に触れられたこと、そして、自分を追い込み体全体で向かえたこと
−「世界一美しい山」アルパマヨに登れた夏

■「年に1回は自分を追い込むことをやってみるんや。」確か、江本さんが大先輩(京大の著名な学者さんだったような)から聞いた言葉ではなかったでしょうか。夏休みに海外の山々を登るようになって十数年たちますが、登りながらこの言葉を良く思い出すんですよ。年1回とはいっても、さすがに今年はどうすべきか迷いました。3.11のこと、日本経済の先行きなどを考えると、登山などしている場合ではないんじゃないか。

◆迷ったすえ、それでもやはり自分にはその時間が必要だと思い出発したのです。登山は生産性とは対極にあり、夏休みを使った余暇の中でもごくつぶしの最たるものかもしれませんが、自分自身の命に向き合うことができる稀有な行為です。個人的には登山は余暇の範疇にはなく、それこそが「なんで生きてるんだろうね」という一生かかっても答えの出ない哲学的な究極の問いに答えるための唯一の方法にも思えます。

◆今年は、3年ぶりにペルーのコルディエラブランカに行きました。2008年の夏に初めて訪れチョピカルキ峰(6,354m)を登ったときから、次に登ってみたいと思い続けてきたアルパマヨ峰(5,947m)に登るためです。ピスコ峰(5,752m)で高所順応し、7月30日にアルパマヨ峰に登頂しました。アルパマヨは雪と氷の襞をまとった険しく美しい山で、傾斜50から80度の斜面が頂上まで続くため、アイスクライミングの技術がなくては頂上へ立つことができません。

◆ドイツの山岳雑誌が著名な登山家や冒険家65人に行ったアンケートで、世界一美しい山の1位に選ばれたことでも知られています。ペルーには他にも美しい山々が数多く存在しますが、形だけではなくそのコンディションがすばらしいのです。3年前の登山で、その雪や氷の質の良さを実感したときの、アックスがスパンっと雪に食い込む感触を今でも思い出します。ここは足で登れるところだけではなく、アックスを存分に使うような美しく困難なルートから頂上を目指す登山を楽しめる場所だなとそのとき思いました。

◆そして、次は氷雪の技術を身につけて美しいルートを登るために戻ってこようと、その後2年間をアイスクライミングの習得に時間を使ってきました。今回は3年前一緒に登ったスペインの友達と一緒でした。当時、ふもとの町ワラスのカフェに飾られたアルパマヨの写真を見ながら「次はこの美しい山に登れるようになりたいね」と話したことを思い出しました。はじめは2人だけの力で登ろうと準備をしたのですが、到着する2週間前にポーランド人のクライマーの遭難があり、ガイドをつけなければロジスティクスの手配はできないとのことで、ガイドと一緒に登りました。

◆自分たちだけで登れなかったのは少し残念ですが、高所でのテクニカルな登攀が初めての私にとって、もしも、2人で向かっていたら時間切れで敗退した可能性がありました。夜中の1時半にアタックキャンプを出発し、夜の暗いうちに登ります。日が昇り暖かくなるほど、落氷やセラックの崩壊や雪崩など外的危険が高くなり、スピードこそ重要な要素だということが良く理解できた登攀でもありました。

◆そして、同じルートを懸垂下降で下りねばならないこのようなルートは、テントに戻るまで全く気が抜けません。長く心に思い描いてきたこの山のてっぺんに立ったらきっと泣いてしまうだろうな、と想像していたのに、頂上では緊張が解けず登攀の途中といった感覚でした。危険地帯を抜けてベースキャンプに下り、帰りのキャラバンを始めて麓の町に到着してやっと、登ったんだなあという感慨にふけることができました。

◆アルパマヨ峰は思ったとおりの美しい山でした。技術を高めこの美しい山に触れられたこと、そして、自分を追い込み体全体で向かえたことで、自分自身が深く喜び活力が湧いてくるあの感覚をしばらく味わえそうです。また今回は、これからどう生きるかに思いを巡らせた登山でもありました。一緒に登ったスペインの友達は最近マドリッド近郊の農場を購入し、現在所有するIT企業を早々に売却して、絶滅危惧種の生育施設の建設と農業にシフトすると言います。大学で経済学を教えてもいる彼は、ヨーロッパの不況はおそらく改善しない、世界経済のバランスが崩れて世界中が変容を求められているのではないかと。登山のような行為ができるのは、ある意味で世の中が安定した豊かな状況であるからかもしれません。(恩田真砂美

★「1年に1回……」の言葉は、故西堀栄三郎さんが語ったこと。「あのな?江本君、長生きしたかったらなあ、一年にいっぺんだけ、ぎりぎりまで自分を追い詰めることやってみるんや。フルマラソンでも断食でも何でもええ。死なんまでも相当きついことをな。そいであとは普通にしていればええのや」(『鏡の国のランニング』(江本著・窓社)から)(E)

「自分にできること」は、「いつもいる人」
━━希望者全員が一緒に故郷に帰ることができた中瀬町の人々に、北海道から採りたてのジャガイモが届きました

■こんにちは。うだる暑さが続く宮城県登米市です。いま、小学校の職員室でこの原稿を書いています。3月19日から旧鱒渕小学校の体育館を拠点にしていた私たちですが、8月6日に校舎へ引っ越しをして、総務の部屋は器具庫から職員室に、机は卓球台から事務机にと大幅にグレードアップしました。これまで体育館の玄関で作っていた食事も家庭科室で作れるようになり、衛生面でも一安心。鱒渕小学校は廃校とは思えないほど素敵な2階建ての木造の建物で、窓も大きく、はだしで歩きたくなるような気持ちのいい空間です。周辺の田園風景も、とてもきれい。RQはここをボランティアセンターとしてだけでなく、この小学校の有効利用を望んでいた地域の方々の交流の場にもできるように考えています。

◆この校舎に4月3日から二次避難されていた南三陸町志津川中瀬町行政区のみなさん95名は8月4日、故郷に建てられた仮設住宅へ移られました。南三陸町の73行政区の中で、地域単位で避難して仮設住宅に入居したのはこの中瀬町のみという話を聞いています。町は消えてしまったけれど文化や風習は継承していけるだろうし、高齢者にとっては何より安心できることでしょう。先日の初盆では中瀬町の各家庭の仏壇に6色のお札、お膳、食べ物を巻いて川に流すための大きな葉、などが並んでおり、それは都会では見られない光景でした。早朝のお墓の草刈りも、例年どおりに行なっていました。一方でバラバラに仮設住宅に入ってしまった方々はどのように地域を再建していくのか、これから大きな課題に直面することになります。

◆197世帯603名が暮らしていた中瀬町では、高台にあった7世帯のみが残り、190世帯が流されました。中瀬町の場所は、孤立した志津川病院や、24歳の女性が最後まで避難を呼びかけ続けていた防災センターの近くです。いま仮設住宅では、避難所に行かずに親せき宅などに身を寄せていた方も含めて約250名が生活しています。法律上、仮設住宅建設用地は公共地のみとされていたのですが、中瀬町の仮設住宅は国で初めて住人が提供した民有地を使用する許可を得て建てられたものです。希望者全員が一緒に故郷に帰ることができたのは、佐藤区長を中心に数々のハードルをクリアしてやっとたどり着いた結果なのです。

◆「まとまって地元に帰れるかどうか」は、法律の問題だけでなく住人1人1人の意識も大きく関わることでした。人々の気持ちをまとめる勝負は、震災直後から始まっていたように思います。震災翌日から3日間かけ、佐藤区長は避難所を歩き回り住人の安否確認をしました。瓦礫の山を越えて直接会いに来てくれた、ということで区長について行こうと思った方も多かったという声を聞いています。その時の住人の名前が書き殴られたノートは、新しい中瀬町の原点。自分のことでいっぱいいっぱいになるような状況下でこういう行動をとった方がいたことは、もっと多くの人に知ってもらいたいです。佐藤区長は当時を振り返り、「何もしなかったら、子や孫の代まで言われるからなあ。後悔はしたくなかった」と言います。それはコミュニティ再建うんぬんよりも、人が動くための本音の動機だと思いました。

◆私は5月初めに中瀬町の担当になってから毎日、避難所の班長会議や「お茶っこ(お茶飲み)」、「足湯」で中瀬町のみなさんと顔を合わせてきました。共同生活で起こる小さな問題は数え切れず、色んな立場の方の、さまざまな声を聞いてきました。偶然お隣りさん同士だったわけですが、4か月間も一緒にいれば、ボランティアとしてというより人同士のおつきあいになっていきます。私自身、中瀬町のみなさんに助けられた面もたくさんありました。RQメンバーはそういう面に理解が深いので、私としては居心地がいいです。旅先で出会う方と仲良くなる感覚に似ていて、地平線関係者にはきっとこういうボランティアが合うんじゃないかなあ。

◆いまは毎日、4?5名で中瀬町の集会所へ通っています。活動内容はお茶っこ、子どもとの遊び、引っ越しのお手伝い、集会所の整理など。支援物資の配布は、区長さんの意向で毎日小分けにして行なっています。62世帯各戸を訪問するきっかけにして、ひきこもりや体調不良者がいないか確認するためです。お盆が明けたら、お茶っこの時間に現金収入につながる手芸なども取り入れていく予定です。夏休みの子どもたちは元気いっぱいに飛び回っていて、集会所は活気にあふれています。お母さん方と日陰のベンチでお茶を飲みながら「浜風が気持ちいいねー」とか話す、そういうあたりまえの幸せが嬉しいです。

◆仮設住宅を歩いていると、お母さん方から「お茶っこしていきなさい」と誘われます。お宅にあがると麦茶とお菓子が出て、それになんといってもお手製の漬物は外せません。ちょっとしたことですが、避難所生活ではできなかったこと。みなさん自分の生活に戻りつつあるんだなと感じます。あっというまに30分、1時間と時間が経ちますが、話はどうしてもあの津波のことになります。すぐ目の前にあったはずの我が家を思い出しながら、「かなしかったよ?、何もかも流されてしまってねえ」「家には先祖代々の大事な肖像画があったんだ」「ギター出てこないなあ、もう見つからないかなあ」……。もっとディープな、生々しい話も多々あります。親しくなった人たちの悲しい話、苦しんでいる話を聞くのは、とても辛いです。みなさん笑って元気に暮らしていらっしゃいますが、さまざまな思いを胸にしまいこんでいます。

◆そんな中、最近うれしかったこと! 先日、地平線仲間で北海道で牧場を経営している田中雄次郎さんとお子さんの晴大(はるた)くん、寛大(かんた)くんから、採れたてのじゃがいも1ケースが届きました。同封のお手紙によると、震災のニュースを見た晴大、寛大くんが、東北の方に届けたいと5月に植えたものとのこと。それが江本さんを通じて、仮設住宅入居のお祝いにと届いたわけです。大人の手ほどに大きい細長いじゃがいも(メークイン?)たちは、8月13日、南三陸の花火大会のときに皮ごと「じゃがバター」にしていただきました。昼間子どもたちにいもを洗ってもらい、ちょうど来ていた私の母と妹に茹でてもらいました。味は当然、おいしかった! 3個食べた方がいたくらい。迎え盆に打ち上げられた花火は、静かな町の上でドーン、バーン、と大きく響いていました。ある若い女性は「つくづく、生きてるって感じがする」とつぶやいていました。

◆田中さんのお子さんたちが「自分にできること」を探し、それが形になったのは、とても嬉しいことです。ちなみに私の場合の「自分にできること」は、「いつもいる人」。私は看護師でも弁護士でも建築家でもないし、取り立てて特技もないので、いつもいる人になろうとして5ヶ月間東北にいます。どうしようもなく辛い時は、他人の力が必要だということを身にしみて感じているからです。3月11日の直前、2年前に父親が亡くなったあと多くの方に支えてもらっていたありがたさに気づき、人とじっくり向き合える仕事がしたくなって4月から教員として働こうとしていました(いま偶然にも職員室にいるのが不思議ですね!)。それが震災をきっかけに、地平線会議で知った広瀬さんを追いかけてRQの活動に参加しています。全国各地、海外からも集まっているボランティアはみんな、それぞれの強い思いがあって東北に来ています。

◆秋以降、ボランティアが急減しそうです。RQでは一般ボランティアを12月末まで受け付けそうなので、来れる方はぜひお越しください。また、震災前の志津川の写真をお持ちの方がいらっしゃったら、お声掛けください。その地域の方が集まる場所にお届けしたいと思っています。どれくらい枚数が集まるかわかりませんが、まずは試しに募集してみたいと思っています。(新垣亜美 8月16日朝 登米にて)


★登米の新垣亜美さん気付で田中兄弟から送られたジャガイモには以下の手書きの文章が添えられていた。

■はじめまして。ぼくは北海道豊富町田中牧場の田中晴大(はるた)です。ぼくは3月11日の大震災の被災者のニュースをきいて、本当にかなしく思います。そしてはじめのころ食べものがなくて空腹の被災者の事をきいて、うちの畑でじゃがいもをつくっておくってあげたいと思いました。そして5月の中ごろからたねいもをうえつけ、草とり、土よせ、そして今回新じゃがいものしゅうかくをしました。少しでもおなかをいっぱいにして元気になってほしいと思います。

■こんにちは。中学3年生の田中寛大です。震災当初のニュースでは被災地の食糧難をはじめ色々な問題に何か力になれないかと思い、家族で育てているジャガイモを少し送らせていただきます。1日も早い復興を祈っています。

★以下は、父親、田中雄次郎さんから地平線会議あて、届いたファクスです。

■今回の「被災地へ新じゃが」の件、いろいろ骨を折って頂き、ありがとうございました。我が家の寛大(かんた 中3)晴大(はるた 小5)の息子達は種芋植えから2か月半で実現でき、満足しています。ただ被災地、被災者の人たち、そしてそこで直接支援している人たちの心労を思うとこれからの私たちは何をしていけば良いのか、いろいろと考えさせられています。とにかく多くの人たちが健康を少しでも害さずに少しずつの歩みで前に進んで行かれるよう祈り続けたいと思います。

◆そして私の職業、酪農、農業という形で日本国民のために安全な安心な食糧生産をしていこう! という気持ちを今まで以上に強く持って励んでいこうと思います。今年の北海道北部は春先の寒冷多雨、夏に入って高温旱魃、この極端な変化に驚いています。「例年通りの気候」なんていうのはここ数年全くなく、異常気象はこれからも続くのでしょう。全国一(おそらく)人口希薄なこの土地なので今夏の旱魃は話題になりませんが、これからの地球気象はどうなるのでしょうね。異常を予想した農業を考えていかねばならない、と毎年強く思っています。やっぱり三輪先生の地学を活かした生活ということなのでしょうか? 江本さん、地平線の皆様によろしく伝えてください。(北海道 田中雄次郎

“亡くなった家族のみんなが見ていてくれている”そんな想いに会場が包まれていました
━━吉里吉里地区でお盆を迎えて

■今年のお盆を大槌町吉里吉里地区で迎えています。この場所が故郷である僕の友人一家は、震災を機に移住を決意しました。実家が流されてしまった沿岸部は未だ家を建てる許可がおり難い状況のなか、先月より畑のあった土地でのテント生活が始まっていて、僕もお盆に合わせて再訪しています。

◆神社も沿岸部近くに位置していたこともあり、多くの人が夏まつりを諦めていましたが、お寺の住職さんのご協力で今年は“鎮魂御霊まつり”として、合同葬儀の行われた吉祥寺にて開催出来ることになりました。14日には一つ一つに名前の刻まれた灯籠と共に法要が行われ、遺族の方々のメッセージが書かれた供養幡を乗せた200個の灯籠は、日暮れから4隻の舟によって、湾のなかへと放たれました。津波が来たとは思えない程穏やかで静かな海の波間に流れゆく様を、皆で岸から見送りました。次第に満月が昇り始め、列をなして遠のいてゆく灯火は、やがては空の星へと続いてゆくかのようでした。同時に、震災から5か月という時間は、遺族の方々の悲しみを想えば、心を整理するにも、まだまだ短すぎる時間なのだとも感じました。

◆翌日は東京から到着した約20名の飲食店チームと、地元の若者達の協力を得て、お酒や食べ物、駄菓子屋や射的など、手づくりで素晴らしい屋台の数々が、ぼんぼりに彩られたお寺の境内に立ち並び、盛大なお祭りが始まりました。お盆には欠かす事の出来ない伝統芸能の鹿子踊り。炎天下のなか、力強い笛と太鼓の音色にのせた気迫に満ちた演舞は50分にも及び観衆を沸かせました。

◆お寺での歴史上初めてとなる音楽ライブでは、保育園児たちの合唱やユーモアたっぷりのおじさんの余興に続いて、僕達も温かい声援のなか演奏させて頂きました。特別ゲストとして、友人の知人である歌手の小柳ゆきさんも登場し、会場は大盛りあがり。さらに、大神楽の獅子舞、虎舞と人々の熱気は加速し続け、最後には30年振りとなる盆踊りが復活しました。皆が手を繋ぎ、満面の表情を浮かべて、踊りに酔いしれる光景は圧巻でした。終始、“亡くなった家族のみんなが見ていてくれている”そんな想いに会場が包まれていました。震災以来、地元の皆さんが主体となってこんなにも一同に集まり、心をひとつに出来たことが夢のようでした(参加者は例年のお祭りの倍以上と聞きました)。やはり、お盆やお祭りというものは本当に、日本人にとって大切な行事なのですね。

◆一夜明けて、いまはまたテントのなかで「昨日は、全てが良かったなぁ」と祭りの余韻に浸っていますが、友人一家のこれからの生活はまだ始まったばかりです(未だ水道を引けていません)。友人の移住の背景には、若者をはじめとするこの土地の人が、震災以降、離れてしまっている現実もあります。いずれは地元をはじめ、いろいろな人々が交流し、新しい活動を発進してゆけるカフェをオープンする予定です。僕もご縁が出来た以上、今後のこの土地の新たな日常への道のりを、時折通いながら見届けてゆきたいと思っています。カフェがオープンした暁には、是非とも皆さん遊びに足を運んでくださいね。(8月16日 大槌町のテントで 車谷建太

陸前高田のおじいさんにかかってきた電話

■昼ごはんを食べていたら、こちらをじっと見ているおじいさんと目が合った。2011年6月17日、陸前高田市米崎町に再建した仮設の食堂でのことだ。

◆3.11以降、私は4月、5月、6月と、これまで3回にわたって陸前高田市を訪れている。一度目は関野吉晴さんと、その後は自分が集めた仲間と一緒に、市内3か所の保育園で子ども向けのワークショップを開催していた。6月は、普段とは違うことをやらせてあげたいという先生からの要望で、模造紙を貼りあわせた紙に、水性の絵の具を使って、みんなで大きな絵を描くことにした。子どもたちが知っていて、わくわくするようなテーマがいいなと思い、「花火」を題材に選んだ。絵を描き始める前に、色とりどりの風船を使ったリズム体操や絵本の読みきかせをして、イメージを膨らませていく。子どもたちは自分の身体の何倍もの大きさの紙を前に興奮し、慣れない絵の具の感触に夢中になって、時間はあっという間に過ぎていった。

◆おじいさんと会ったのは、保育園で予定していた6月の活動が、すべて終わった日の午後だった。実はそのおじいさんとは、5月にも一度会っている。なぜ覚えていたかというと、世間話をしていた際、仕事で高田の中心部に来ていた奥さんが行方不明だということを語り始めると、とつぜん号泣し、「男はこんな姿は見せられない」と言いながら去っていった姿が、強く心に刻みこまれていたからだ。私たちが再会したその日は、食堂の隣にある病院に行った帰りだったそうだ。聞くと、奥さんはまだ見つかっていないという。

◆翌日、おじいさんのお宅を訪ねた。百か日法要で親戚が集まる前に、家の掃除を手伝ってほしいというのだ。市内を離れ、深い山の中にある集落は、のんびりとした田舎の佇まいを見せていて、津波の被害がはるか遠いもののように感じられた。けれどその考えは、玄関にたどり付くまでの短いあいだに、すぐに消えてしまった。綺麗に手入れされた庭の片隅に、ねじれた鉄のかたまりを見付けたからだ。それは、車だった。

◆その日は結局、ほとんどの時間をおじいさんとおしゃべりをして過ごしていた。途中、盛岡に住む息子のタケシさんが帰ってきて、話に加わった。おじいさんは、震災以降毎日、奥さんが津波と出会ったであろう場所と市内にいくつかある遺体安置所を訪れるという生活を続けている。タケシさんは、そんなおじいさんの精神状態を、とても心配していた。そして「遺体が見つかってからと思っていたんですけど、墓を建てたんです。もう百日になるし、帰ってくる場所があったほうが帰ってきやすいのかなとも思って」と語った。

◆早く見付かってくれることを何よりも願っていると、私たちはそんな話をしていた。携帯電話が鳴ったのは、その時だ。電話に出たおじいさんの顔がみるみるうちに赤くなり、受け答えの言葉が乱れた。途中で、声に詰まって、電話をタケシさんに投げ出したけれど、じっとしてもいられずに、その場でぴょんぴょん飛び跳ねている。奥さんが見付かったのだ。二人はそれから、戸締まりもせずに大慌てで家を出ていった。震災から99日目のことだった。

◆私が陸前高田市に足を運ぶ理由??それは旅に出る理由とも似ているけれど、行くたびに、そこで生まれる人間関係があるからだ。この関係を長く続けていければいいなと思いながら、親戚に、友達に会いに行くようにして、出かけていく。後日、おじいさんより、無事に納骨を済ませたという連絡があった。(木田沙都紀 ムサビOG)

娘が一番気に入った山車は「お?い、お茶」のペットボトル型ミニ山車。なんでそれやねん。

■オタクな人が好きである。なぜってその人は絶対僕なんかが知らない深い世界を知っているからだ。そしてここ(地平線会議)はオタクだらけだ。ねぶたオタクである杉山貴章(たかしょー)が熱く語る「ねぶた」も前々から気になっていた。 「ねぶたの開催期間中には、日本中からライダーとチャリダーがキャンプ場に集結するんです。バイクは500台集まったこともあります」「ねぶたは衣装さえ着れば、誰でも参加できるんです。衣装はキャンプ場の隣にあるマエダストアで3000円で買えます。祭りの開催期間中は跳ねすぎて筋肉痛の人がキャンプ場にあふれています」

◆どうも、その状況は想像しにくいが、たかしょー&野宿党という灯台があれば、いきなり行ってもなんとかなるだろう。たかしょー先生に裏口を空けてもらって一気に核心へ潜入だ!「僕、ねぶた祭りが見たい。付き合ってくれない」と小6の子どもに頼む。「うん、いいよ」とあっさりOKがでる。さすがに夜行バスでとは言えないので、新幹線で。百聞は一見にしかず、巨大山車を見せてしまえばコイツも、こんな世界もあるのか、と理解するはず。

◆まあある程度予想はしていたが、キャンプ場には強面の癖のありそうな連中がいる。とまっているバイクも一台一台が、持ち主の性格が透けてみえる、なかなかのもの。隣のスーパーで売っていた衣装は毎年値上げしているらしく、親子で一式そろえると14000円とかなり痛い。

◆夕方、キャンプ場でのミーティングがあり、ゾロゾロと刺青の兄ちゃんたちが集まってくる。よく見ると鈴(跳人は衣装に鈴をつける)を塊で付けてパンク野郎みたいになっているヤツ。正装なのに、なぜかミニスカートの秋葉系。長い付け睫毛に金髪のお姉さん。あちこちにヘンな自己主張が見えて、実に愉快。

◆リーダーの「行くぜ、野郎ども!」「おう」の野太い掛け声とともに、跳人衣装のライダー、チャリダーが一斉にキャンプ場から出撃。すげー、すげーと見ているうちに、キャンプ場に親子二人だけで取り残される。あれっ?「お父さん、会場ってどこ?」「バイクが走っていったほう」「どうやっていくの?」「えーーと、歩いて」「何分かかるの?」「分からん」

◆それから海沿いにとぼとぼ二人で歩くこと50分。陸橋を越えたあたりで山車が倉庫から出てくるところにぶつかる。思っていた通り、こどもは目をキラキラ。「写真とってよ」とカメラを渡すと一台一台じっくり観察しながら撮っている。「あの鬼すごいね」「馬もすごいよ」と二人で盛り上がるが、子どもが一番気に入ったのは「お?い、お茶」のペットボトル型ミニ山車。なんでそれやねん。

◆日が暮れて、山車に灯りがともる。鮮やかな色を出すために電球に配慮している、とたかしょー先生から教わる。跳ねるのは見よう見まね。どうしても参加したかったのだろう。乳母車の若いお母さんが隣にいる。赤ん坊は騒音の中でもすやすや。こうして祭り遺伝子は引き継がれていくのだろう。「あー、白熊くんだー」。ちがうってオマエは。日立の山車は「大阪夏の陣、真田幸村VS伊達政宗!」。白熊君はおまけのミニ山車なの! まっいいか、楽しんでるなら。(坪井伸吾

「地震だ何だって大変だけどもよ、ねぶたで跳ねなきゃ始まらねもの」
−青森通い9年目のねぶた祭り、じゃわめぐ体と心

■ねぶた祭りの魅力に取り憑かれ、青森に通うようになって今年で9年目になりました。人にはよく「何がそんなに楽しいのか」と聞かれますが、それを言葉で説明するのは実に難しいことです。ねぶたの囃子を聞くと心が騒ぎ、体中の血が沸き立ち、自然と声が出て、足が跳ねる。この現象を津軽弁では「じゃわめぐ」と言います。理屈ではなく、ただただ体が、心が反応するんです。外部の人間である私ですらこうなのですから、生粋の津軽人のじゃわめぐ心はいかほどのものかと思います。

◆今年、私にとっての"初陣"は靖国神社の御霊まつりで行われた「ねぶた奉納」でした。参道の何百という提灯に囲まれて跳ねながら、頭に浮かんでくるのは津波の被害を受けた地域の、あの光景でした。後ろのねぶたや周囲に浮かぶ提灯の明かりと、頭に浮かんだ瓦礫だらけの殺風景な光景が対照的で、大勢の観客を前にしながら涙がこらえきれませんでした。そしてすべてを振り払うようにして必死で声を出し、高く高く跳ねました。

◆本番である青森ではその感覚が数倍になって襲ってきました。本場青森は、ねぶたの大きさも、囃子の迫力も、跳人の数もすべてが段違いです。頭では被災地を想いながら、声を出し、高く跳ね、笑顔を作って周りを鼓舞する。津波で流された家々を目にしたときに感じた強烈な悲しみや悔しさ。いくら言葉にしても吐き出すことができなかった想い。今この場にならば、それを全てぶつけることができる。全て吐き出して跳ねることができる。そんな気持ちでした。

◆顔なじみとなった地元の跳人と話をしたとき、彼からこんな台詞がでてきました。「地震だ何だって大変だけどもよ、ねぶたで跳ねなきゃ始まらねもの。跳ねて全部出し切ってよ、明日からまだやってがねぇと。昔っからそうしてきたんだもの」。それを聞いたとき、津軽の人のじゃわめぐ心の一端が少し理解できたように思えました。

◆青森ねぶたも、今年は他に漏れず「がんばろう東北」というメッセージを掲げての開催でした。観光客も例年より多かったそうで、その影響があるのかは分かりませんが、跳人をしていてもお客のノリがいつも以上にいいことを感じました。それでも特別に何か変わった雰囲気があるということもなく、例年どおりの青森ねぶた祭りでした。みんなが心に様々な想いを持って、全身でそれをぶつけ合った、いつもどおりのねぶた祭りだったと思います。(ねぶたバカ 杉山貴章

「歌津ワンパクドリームプロジェクト」南三陸町と気仙沼市の子どもと大人15人が富士山麓MTBサマーキャンプ8時間レースに参加した!

■8月5日。雨上がりの夜。富士山麓の静岡県小山町の野原で初めてのキャンプに緊張してなかなか寝付かない子供たち。そして「明日はがんばりましょう!」と気勢を上げてビールを空け続ける大人たちは、3月の震災で津波被災地となった宮城県南三陸町と気仙沼市からやってきた。総勢15人。朝5時半に出発して、マイクロバスで11時間かかったという。翌日ここで開かれる「富士MTBサマーキャンプ8時間エンデューロin小山」に出場するために、前夜から泊まり込むのだ。

◆私はその前の週に南三陸を訪れ、バスに積めない自転車などを静岡の会場に運んで来た。なぜこんなことをしているのかと言えば、地平線でもたびたび話題になっている「RQ市民災害救援センター」がきっかけだ。震災直後、RQが送り出した現地ボランティアには厳しい環境を楽しんでしまえる強者が多かった。その中にアドベンチャーレーサーのワッキー(和木香織利)とカメラマンのよっちゃん(佐藤佳幸)がいた。

◆彼らは現地で支援物資の配達に奔走し、1週間後に東京に戻って来るやいなや「長靴プロジェクト」を始めた。漁業者が片付けに不可欠なゴム長靴。メーカーとかけあって、在庫品を安価で譲り受ける約束をし、その購入費を募って、242足をRQの登米本部で受け取り。翌週には彼らも再度現地ボランティアとしてRQに参加し、長靴は被災者に直接届けられた。私も現地でその配達を手伝った。

◆そして4月に入ってから彼らが始めたのが、MTBプロライダーのマミ犬(間宮邦彦)発案の「歌津ワンパクドリームプロジェクト」。RQでデリバリーチームにいたマミ犬は、MTBを被災地の児童生徒の足として使ってもらうため、懇意のメーカーと話を進めていた。RQのよき協力者でもある南三陸町立伊里前小学校の「阿部パパ」阿部正人先生に提案したところ、すぐに校長にも話してみる、震災までは毎年町内の歌津でMTBレースも開催されていたのでうってつけ、と快諾していただいた。

◆5月には歌津中学校の協力が得られることになり、6月にはMTBとBMXあわせて112台が歌津に勢揃いした。プロジェクトではこれら自転車のメンテナンスを町内の3軒の自転車屋さんに依頼。寄付金は自転車整備費として3軒に支払われ、復興に役立てられる。目下、17台の自転車が中学生の通学用に貸し出されている。マミ犬の目標は「MTBを通じて子供達に笑顔を!」。被災地ボランティアとは無関係だったメッセンジャー仲間や都内の自転車屋さんなども彼に協力して、歌津や気仙沼市小泉地区にMTBで遊ぶためのジャンプ台やコースを作ろうとしている。

◆時間のある時はRQ歌津センターの活動も手伝う。目指しているのは「たつがね山MTBレース」の復活。レースは毎年5月に行われ、今年17回を迎えるはずだったが、震災で大会関係者の多くが避難所暮らしを余儀なくされ、とてもそれどころではなくなった。こんな時に自転車遊びと言うなかれ。地元の人たちによる地元の人たちが楽しむためのイベントが復活すれば、この地域の復興が加速するのではないかと、私たちは目論んでいるのだ。そして、この大会関係者を元気づけ、夏休み中の子供たちを楽しませようと、「富士MTBサマーキャンプ」への招待が実現した。

◆話せば長いことながら、そんなわけで私たちは大会主催者やスポンサーに感謝しつつ、この野原でビールを飲んでいる。がれきの片付けもまだ必要とされているが、一方でこんな支援があってもよいと思うのだ(宮城からの小学生+大人混成チームは参加318チーム中、惜しくも3位を逃し、4位の健闘ぶりだったという)。(MTB親子旅人・落合大祐

祭とイベントの本質的な違い。たぶん、優れた造形は、慎重に用心深く「そこ」を超えようとはしないのだろう

■ぼくは、今年も行かないつもりだったのです。毎年、いろいろな方々が誘ってくれていましたが、お金が無いだとかいろいろ口実付けて行きませんでした。だけど、今夏は、安東さんから「今年行かないで、どうするんだ!」という言葉を聞いて。なぜだかなんだか、ぼくも「そうだ。今年、行かなかったら、ぼくは、一生行かない」と思いました。ぼくは、東北のことを何も知りません。ですが、災害の現場へ少しだけ行けて、ほんの少しだけわかったことがありました。ねぶたのことは、人から聞くこととかネットでしか知らないし。もしかしたら、映像や言葉では知ることのできない、行って風景に参加して体感でしか知れない何かがあるかもしれない。すぐに夜行バスの予約も取れて。気がついたら青森に来ていました。

◆フェリー埠頭近くのテント場は、色とりどりで、ぼくはバイクのことは何もわからないのだけど、岩手、宮城、福島…北海道、四国、九州、ほんと全国から集まっているという感じでした。これだけたくさんの人たちが、同じ目的で毎年集まるっていうことにビックリしました。チベット自転車旅の途中で「ねぶた」のために帰国した人もいて。みんな、熱くて親切で…なんだろうか、ここは。昼間は、三内丸山遺跡へ行ったり、市内を歩いたり。午後4時くらいから着替えて準備して、7時から9時くらいまで「ねぶた」運行。跳ねる。テント場への帰路温泉へ寄って、11時くらいから酒宴が始まる。ということが1週間ほど続く。

◆杉山貴章さんが、青森市内を自転車で案内してくれて「ねぶた半日講師」をしてくれました。特にねぶた師の北村隆さんと竹浪比呂央さんの原画展示や製作工程をみることができて、とても良かったです。ネットや写真とは、ぜんぜん発色や質感が違う。そして、ねぶた師という人が居なければねぶた祭も無いみたいな、ぜったい居てもらわなくては困る、みたいな「存在感」と職人の想いを感じました。

◆だれもが「ああ、この人が創ったのだ」と辿り着く仕事。ねぶたは、灯が入ってこそ映える造形。運行と逆に歩きながらそれぞれをみることができました。和紙で創られているので強固ではないのだけど、鋳造彫刻よりもずっと強い「何か」が居るような感じ。かつ身軽で。まさに、あるのに触れない「何か」をみんなが見てるような。

◆長い歴史の中で、ずーっと同じコンセプト、同じテーマで、毎年やっているのに。なのに、いつも新しい。どうして古くならないんだろう。一度も止まらない「何か」。巷で企画される多くのイベントも現代アートも翌年には古くなることばかりのような気がする。祭とイベントの本質的な違いを見たような気がしました。いま、ぼくは、記憶に残る祭、音楽、風景や匂いやら、空の色とか、どれほど体内に持ってるだろうか。いつでも思い出せる喜びや楽しみ。一方、その人にしかわからない忘れることのならない悲しみや悼み。

◆祭と「創る」ということは、切り離して考えられない。そのように思いました。想いで繋がっている人たちにたくさんたくさん会いました。「何か」が、青森ねぶた祭に居たような気がしました。祭そのものよりも、ねぶたそのものよりも、ずっとずっと大きくて広くて深い止まらないかけがえのない触れないけどリアルなわたしたちになくてはならない「何か」。たぶん、優れた造形は、慎重に用心深く そこを超えようとはしないのだろうと思います。大切なお祭りがありました。(緒方敏明


<おめでとう>

■昨年7月に亡くなった、民族学博物館初代館長、梅棹忠夫さんの業績を記念する「第一回梅棹忠夫山と探検文学賞」が角幡唯介さんの『空白の五マイル』に決定、7月21日、民博で発表された。賞金は50万円。表彰式などは未定。これで開高健ノンフィクション大賞、大宅壮一ノンフィクション賞に次いで三つ目の受賞となった。おめでとう!


祖母の家の取り壊しが語りかけること、そしてホピ族の伝承「灰のつまったひょうたん」

■8月になりました。おとなしかった蝉もやっと鳴き始めました。一年で唯一原爆や核の話題が頻繁に出る季節のはずが、まさかこんな事態になるとは想像もしませんでした。フクシマという表記を見たときにはびっくりしました。片仮名の地名は無機質で生命感がないから、やっぱり広島だし長崎だし福島であってほしい。核はこわいです。

◆6年前は戦後60周年の節目で、夏をピークに世間の注目が戦争や原爆にかなり集まりました。語り継ぐことに信念を持っている被爆者の方たちからは、ものすごいエネルギッシュさを感じました。私は『原爆写真ノーモア ヒロシマ・ナガサキ』という本の出版に担当編集者として関わったことをきっかけに、後世にバトンをつなぐまでは死にきれないと言う彼らのじりじりした思いと、次の世代として頑張ってほしいという期待を受け、興奮とプレッシャーの中にいました。ライフワークとして核を追い続け社会に訴えかけてきたジャーナリストたちの、簡単には報われない使命感も目の当たりにしました。核や原爆の話題で、人々、特に若い世代の興味をひくことの難しさが身にしみました。

◆たましいの底からわきあがるような衝動に突き動かされていましたが、純粋な思いだけではかなわないこともありました。核ってなんでこんなにデリケートで難しいんだろう。なんで楽しい話じゃないんだろう。原爆のこと、一丸になって世界に発信すべき日本がなんで複数に分裂していたりするんだろう、とか。なんで、なんで?

◆以前も地平線通信に書かせていただきましたが、トロントに遊学していたときに世界各国の友人にふと原爆の話をしたことが、真剣に興味を持ち始めた原点です。あまり知られていないことに驚いたのと同時に、詳しく説明できない恥ずかしさで、広島の祖母に国際電話をかけて初めて体験談を聞きました。祖父は徴兵で長崎に派遣されていたため長崎と広島で二重に入市被爆したことも知りました。娘である私の母でさえ一度も聞いたことがなかった話です。街の図書館には関連の資料がなかったので、ここに本を置きたいと夢みました。そして帰国後に入社した出版社で、世界と後世へ原爆の記憶を伝えるというコンセプトの本作りに携わるチャンスをいただき、叫びたいほど嬉しかった。

◆このテーマを通じて素晴らしい出会いがたくさんありました。祖母との関わり方も一変しました。6年前にNHKの取材があり、祖母と面と向かって原爆の話をする日が来てしまいました。テレビカメラの前で、刊行したばかりの本を手に広島を訪れ、祖母が見たくなくてずっと見ないようにしてきた記録写真を見てもらい感想を聞く、という私にとっては心臓が爆発しそうな筋書きが決まっていました。

◆逃げ出したい気持ちと、本を広めるためパブリシティを成功させたい気持ちが入り交じり、すっきりしませんでした。祖母はページをめくりながら、「やっぱり忘れてはいけないことだと思いますよねえ」と、無理して言ってくれたと思います。その後は二度と本を開いてはいないようです。思いは人それぞれなのだと思いました。

◆そのときを境に、どこかで罪ほろぼしの意識もあって、時間がある限り祖母に会いに広島へ行くようになりました。中国新聞の記者で、宮本常一さんの軌跡を取材し続けている佐田尾信作さんからは、「珍しいけえおばあちゃんの体験談を聞き書きしておいたほうがええよ。必要なら手伝うけん」と言っていただきましたが、実際のところ聞き書きどころか話題にも出せていません。二人きりで記憶を掘りおこす勇気が私にないからです。ふつうの祖母と孫の交流だけをしています。それでいいんだと思いながら、まだ自分の中では迷いもあります。

◆いつかはとわかっていましたが、ついにこの年末広島の家を取り壊すことが決まりました。89歳の祖母が一人で住むには大きすぎるためで、もし経済的に可能なら私が買い取りたかったです。爆風で飛び散ったガラスであちこち窪みがある柱も、爆心地からさまよい逃げてきた人たちが水を飲んで次々息を引きとったという庭の井戸も、もうすぐなくなっちゃいます。私にとっては帰る場所であり、アイデンティティの一部のようで、大切なのに残せないことが悔しくて寂しいです。

◆過去のことと思っていた核のこと、こんなにあっという間に、私たちの世代で目の前に迫りました。被害を受けている土地とそこに暮らしている人たちのことが心配です。子供たち、心配です。野菜も魚も肉も、育ててきた人が情熱を傾けてきた宝物なのに。チェルノブイリのこと、六ヶ所村のこと、マーシャル諸島のこと、色んなことがありますが、もう地域で区切れることじゃないと感じています。被爆者というくくりもなくなるかもしれません。とはいえ、地域の中と外ではるかな温度差があるのも事実です。

◆ホピ族の伝承に「灰のつまったひょうたん」という言葉があります。「大地の下に眠る大切なものを守らねばならない。もし将来、灰のびっしりつまったひょうたんが空から降る日が来たら、世界に広くホピの言い伝えを広めるように」というものです。彼らの居住地からウランが発掘され人の手で利用されるようになり、ひょうたんとは2つの原爆のことだと言われてきましたが、今回の原子炉格納容器の形は、まるでひょうたんのようです。人類が逃れられない宿題に向き合わなくてはならないぎりぎりのリミットが来ていると思います。(大西夏奈子

11頭のヤギと2羽のアヒルを埋めました。そして、ウミガメの浜も……。台風9号のツメ跡。

■7月に里帰りした際は、「北京」の餃子ごちそうさまでした。その頃私がいない間に、旦那はゴンとぽにょとウミガメの卵を見つけていました。私が帰ってすぐに、接近中の台風2号の高潮を心配し、美ら海水族館に勤めるいとこに聞いてふたりで卵を掘り出し少し上に移動しました。孵化は約1か月後というので、比嘉小学校の子供たちと楽しみにしていたのですが……。今年沖縄は、5月から毎月台風が近くをかすめていて、今年は台風の当たり年とみんなが言ってました。

◆しかし、先日の9号は半端ではありませんでした。沖縄はまる2日間風速40mの暴風にさらされ続けました。雨戸を閉め釘で打ち付け、真っ暗な家の中でごうごうという風の音に怯えながら2日間過ごし、ようやく外に出られるくらいになった3日目の昼過ぎに牧場に行ってみたら、休憩小屋も物置小屋もつぶれていました。そしてヤギ小屋のトタン屋根は無惨にも吹き飛び、中で小さなヤギが何頭か、びしょ濡れになって折り重なるように横たわっていました。

◆かわいそうなことをしました。強風でトタンがはがれパニックになったヤギたちは雨のあたらない小さな隙間に殺到し、小さなヤギは圧死してしまったのです。リーダー格で、いつも私のそばに来るメスヤギのきんちゃんも瀕死状態で見つかりましたが、翌日死にました。昨日までに11頭のヤギと2羽のあひるを埋めました。あひるは卵を抱いていたやつが最後まで卵を守り死んだようでした。

◆口蹄疫や津波や原発事故の被災者に比べたらこれぐらいなんでもないさぁ?と、ぼちぼち後片付けを始めています。ほんとにあらためて被災者の方々の大変さがわかりました。生き残ったヤギたちはなんだかさびしそうですが今日も元気に草を食べています。ヤギたちを見ていると本当癒されます。島はあちこち被害が出ていて、トタンが飛んだり瓦が落ちたり木が倒れたりしています。街灯も掲示板もカーブミラーもぶっ飛びました。農作物はまたまた壊滅です。

◆でも沖縄の人は、諦めが早いというかあまりくよくよしないんです。で立ち直りも早い。ほんと、台風が毎月来るようなところでいちいちくよくよしてたらやってらんないですよね。電気は3日目につきました。やっぱり電気や水道はありがたいなあとつくづく思います。このくらいでへこんでたら被災地の人に笑われますよ。

◆ところでウミガメ産卵の浜ですが、せっかく上に埋め直したにもかかわらず、砂浜はガラリと様子を変え、たぶん卵もあとかたもなくなっているようです。ああ残念。まもなく旧盆。比嘉では毎晩エイサー練習しています。みんな屋根が飛んだとか木が倒れたとかいいながら集まってきています。今年も私たち夫婦は地謡(三線引き)。大きな声張り上げてストレス発散です。あ、つぶれた小屋はどうせ廃材など貰い物だし、大丈夫ですから、心配しないでくださいね。さあ次の台風に備えなければ。(浜比嘉島 外間晴美


七月詠
滝行

金井 重

滝のごと 汗しぼり出し のぼり来て
  法螺貝ひびく 社殿を拝す

正座して 拍手を打つ 神の前
  法螺貝と笛のデュエット響く

あえぎつつ 山道に聞く 滝の音
  みどりの中の 神のしわぶき

打つおちる ごうごうとなる 滝に問う
  頭を上げて 一歩ずつ前へ

白刃の滝 肩に身に 激しかり
  ひとすじに念ず 水神様を

滝行の かなしみ深し 下山かな
  町並はるかに 一気にかげる

どこの誰れ 毎日よみきく シーベルト
  古びし地図拡げ スウェーデンみる

一時帰宅の 息子と母の 七○代
  突き出すマイクに 「掃除します」と

今朝生れしか 赤子を胸に 母猿も
  数百頭の 寄せ場の饗宴

群れふたつ 住み分け上々 午後三時
  かけ下り集まる 寄せ場の大郡

山肌を 数百の野猿 流れくる
  ざわざわどよめき 寄せ場めざして
      高崎山にて


[先月の発送請負人]
■地平線通信7月号(通算381号)の印刷、発送に頑張ってくださったのは、以下の方々です。ご協力ありがとうございました。
  森井祐介 関根皓博 村田忠彦 江本嘉伸 久島弘 杉山貴章 滝野澤優子 八木和美


5人で鰹一匹をさばき、わらで炙り、食べ、四万十の沢登りで生き返った、社会人1年生の夏

■8月5日(金)始発の電車に乗って西日本へ向かいました。家を出てから5時間後、ようやく第二の故郷である香川県高松市に到着! 駅前で迎えてくれた友人達と挨拶をするやいなや高知へ出発。今回の旅の目的は毎年恒例の四万十でのカヤッキング。今年は香川大学のH教授が一年間四万十楽舎に入り、楽舎を盛り上げる取り組みをしている。

◆今回この旅行のプランニングをしてくれたのは、学生時代からの友人でH教授の教え子。大学の卒論で高知・幡多地域について調査していたため、その辺の地域には詳しい。以前その友人の調査の協力もかねてH教授、相方のくえ(注:水口郁枝)と高知県黒潮町佐賀にある黒潮一番館で「鰹のたたき体験」&漁家民宿で宿泊をした。この地域は漁師さんが多く、旦那たちは数か月も海へ出る。その間家を守る奥様方が、地域を活性化するために「漁家民宿」を経営し、黒潮一番館で漁師をリタイアされたおじいちゃんや町の人々で「鰹のたたき体験」を行っている。

◆ここのおばちゃんたちのパワーがすごくて、沢山の人たちを巻き込んで活動していった末、黒潮一番館が建てられた。この施設のすごいところは少人数から修学旅行生の大口まで受け入れ可能な点。小さな漁港をここまで素晴らしい施設を兼ね備えた場所にされた漁村の皆様は本当に素晴らしい!

◆今回の四万十旅行にもこのプランを組み込み、前回お世話になったおばちゃんとの再会を喜びながら鰹のたたきを作った。5人で鰹一匹をさばき、わらで炙り、食べる! 浜からの潮風を感じながらできるこの体験に大満足。しかし、旅はここで終わりではない。次はいよいよお目当ての楽舎へ向けて出発!……となったのもつかの間。大雨に見舞われた。雨の中楽舎についたが雨足はおさまらない。

◆不安な翌朝、川の水が1.9m増水。楽舎スタッフみっちゃんからカヤッキングのストップ命令。今年しか聞けないH先生のガイドを楽しみにしていたが、沢登りに予定変更。しかし、沢登りといえど雨で通常よりも20cmも増水した沢は前へ進むのも難しい激流。気を許せば一気に流されてしまう中、みんな連なって上流を目指して歩いた。このスリリングな沢登りが私にはツボで、新しい遊びを見つける事ができた。

◆関東に上京して4か月。大きな山も大きな川も無い都会。四万十の大きな山と川と人の優しさに心が洗われた。都会にも田舎にも良いところが沢山あるが、私が四万十や自然が好きなのはそこに人との繋がりがあるからなのだと思う。そんな繋がりを都会でも田舎でも作っていきたいと思う今日この頃です。(四万十がすごく遠くなってしまった……うめ、こと山畑梓 香川大学OG)

「な・ま・え・は、ホ・ン・ダ・ユ・カ、ですか?」──2011夏・日本反省旅行顛末

■7月末から8月11日まで、帰国しました。ソウル経由の新潟発着という安いチケットだったので、行きは名古屋で11時間待ちでした。国際空港なんだし寝てればいいやと気楽に考えていました。でも、そういえば入国検査とかここでやらなくちゃなわけで、一度空港を出なくちゃならない、ということをすっかり忘れていました。で、夜中に着いたのでチェックインカウンターは閉まっているから中に入れず、そうこうするうちに空港からも追い出されてしまいました。

◆日本専用のソフトバンクプリペイド携帯の存在を思い出し、電源を借りて充電を始めて、空港と駐車場の間の広場のベンチでごろりとなっていたら、4人の警官に囲まれてしまいました。警官の一人が「ID Please」と聞いてくるので、慌てて日本のパスポートと流暢な(?)日本語で日本人をアピールしました。それなのに、「な・ま・え・は、ホ・ン・ダ・ユ・カ、ですか?」と外人扱い。2週間もシャワーを浴びていなかったから、体臭が外人並みに臭かったのかも。

◆そういえば足も臭かった。髪の毛も重力に逆らって伸びていたし。反省しても後の祭り。職質を終えて、暑い日本の気候のせいだけではない、ひやりとした汗が私の体中を通過していくのを感じました。新潟についてから、その足ですぐに美容室に駆け込み、髪を切ってもらいました。「あぁ、、、もう一度シャンプーしてもいいですか?」と2回シャンプーされて、なんで洗ってから行かなかったんだ!と顔を赤くしながら大反省。

◆すぐに上京して、我らがE氏宅で麦ちゃんからの大歓迎を受けました。相変わらずお忙しいEさんの家をビール片手に片付けながら、エモ煮しめを食べました(絶品)。駆けつけてくれた大西夏奈子さんをまじえビールで乾杯。話が弾んで大西さんの写真を撮るのをすっかり忘れていました。これまた反省。翌日も今度はカレーを食べにかわいい大西さんはやってきたのに、加藤茶の再婚話でEさんもこれからだ(北村さん、すみません)、なんてことばかり話して、かわいい大西さんの写真を撮り損ねました。自分にがっかりです。そしてそのうちEさんの家で、麦ちゃんとEさんの「言葉なしで分かり合える関係」を見て、うちの犬は元気かなぁ……と恋しくなってきたものでした。

◆福島の親友に電話をかけて、どんなにひどい状況かを聞いたときは悲しくなりましたが、それでももうそれが普通という感じでちゃんと日常を生活しているようだったので、少し安心しました。そして、その強さをかっこいいとは思わずにいられませんでした。「いまだに揺れているよ。でも、これってどうしようもないよね」。

◆東京ではいろいろな方にお世話になりました。一緒にご飯を食べるときに感じたのですが、原発の問題をどうとるかは本当に人それぞれでした。食べ物などに本当に気を使っている人もいれば、全くかまわずにいる人もいるのです。カナダではもうあまり流れてこなくなった日本のニュースですが(電気のない生活のためなかなか情報が入ってこないということもありますが)、中に入って話を聞くと全然違う雰囲気です。省エネだとか、節電だとか、薄暗い満員電車で誰もが無言だったこととか、身投げの事故が多いこととか。地震、津波、原発、いろいろな影響の規模がどんどん拡大しているんだと痛感しました。

◆電気のない、ろうそくで暮らす私が、究極の節電方法を伝授しようか?とえらそうに考えた後で、「いや、この暑さでクーラーなしでは、私は生きていけない」と、あっさりと負けを認めた大反省の帰国でした。(本多有香 カナダ・ホワイトホース住人)

八丈島で傘寿のダイビング 通算235本目

■江本嘉伸君と同じ新聞社の社会部にいた因縁で、今年初めから地平線通信の読者になった。皆さんの文章を読むと、日本にはまだまだ探検や冒険に心を燃やす若い人が多いことがわかる。たいへん心強い。自己紹介をすると、新聞社の後は大学の非常勤講師をし、今は雑文書きや「雑学倶楽部」という会の運営委員、「学士会裁錦会」という漢詩の会の代表幹事などをしている。声をかけてもらったので、最近海に潜ったことを書かせてもらう。

◆台風6号直後の7月23、24両日、仲間と八丈島にスキューバダイビングに出かけ、3本潜ってきた。この11月に満80歳になるので、気の早い仲間が「祝傘寿」というフラグを作り、私に持たせて海岸と海中で写真を撮ってくれ、拍手してくれた。潜水回数は25年前に潜り始めて以来、235本になる。若干の感慨無きにしもあらずである。

◆25年前は、まだ、会社勤めをしていたころだ。あと何か月かで55歳、以前なら定年年齡になるのに気が付いて、何かスポーツをしようと考えた。何をするか。皆がやっているゴルフか、それともスキューバでもやってみるか。ゴルフは多分、定年の60歳になっても始められるだろう。ダイビングは恐らく60歳になればできなくなるだろう。それならまず海に潜って、5年したらゴルフに転向すればいいと考えた。取りあえず、自宅近くのプールに通って水に慣れることにし、同じ職場にいた中学以来の親友F君に「潜らないか」と声をかけたら、二つ返事で賛成してくれた。

◆当時新宿にあったダイビングスクール「Do Diving」に講習を申し込んだ。1月足らずで実技や学科をこなすコースもあるが、まだ宮仕えの身では無理なので、1週間に1課程ずつ進むコースにし、8月の末ごろ通い始めた。実技は自動車の免許コースと似ていて、ある課程が不十分だと判定されれば落第で、もう一度やり直さなければならない。F君と私は仲良く1度ずつ落第した。無事及第したときも、講習の後は疲れ果て、帰途、新宿駅近くの居酒屋で「くたびれたなあ」と杯を交わした。

◆通い始めてから約3か月後の11月22、23両日、伊東の海洋公園で仕上げの海洋実習をした。関係ない話だが、22日は私の55歳の誕生日だ。ちょうどそのころ、爆発、噴煙を上げていた大島の三原山を見ながら初日はスキンダイビングとスキューバダイビング各1回、2日目はスキューバ2回で、実習を終え、Cカードを手に入れた。ちなみに当日の気温は16度、水温19度で、やはり寒かった。講習にもう少し手間取っていれば、次の年に持ち越しになるところだった。

◆度付きのマスク、シュノーケルなどは実習でそろえたが、このあと、レギュレーター、BCD、ウエットスーツを用意しなければならない。水道橋近くのショップは割安ではあったが、かなりの出費は痛かった。冬の真っ最中で、ファンダイビングの始動は、次の年の2月、沖縄だった。休暇を取り、F君と一緒に緋寒桜満開の本島北部の本部半島に向かった。

◆以来25年。F君と、あるいは会社の潜水クラブの人たちと、あるいは単独で、あちらこちらに出かけた。国内は伊豆半島、八丈島、小笠原、沖繩本島、慶良間諸島、宮古島、石垣島、与那国島、海外はパラオ、グアム、サイパン、ロタ、ポンペイ、バリ島、モルディブ、プーケットなどで潜った。このうちかなりの海は、ダイビングをやっていなければ、恐らく一生訪れることはなかっただろう。それぞれの海中は本当に別世界だった。色彩も鮮やかな熱帯魚の群れ、巨大なマンタ(オニイトマキエイ)、シュモクザメ、ツバメウオ、連なるサンゴなど、豊かな自然に息をのむ日々だった。

◆さて、先日の「祝傘寿」ダイビング。台風6号が八丈島の周囲を回る変なコースをたどったため、羽田からの飛行機は「着陸できず、戻ってくることもある」という条件付きで、着陸するまで、実際に八丈島に着けるかどうか分からない状態だった。余裕を見て早めに送った器材は、船も飛行機もその前3日間は欠航だったため、民宿には到着していない。当日のダイビングは諦め、温泉に行く。2日目からの器材はショップですべてレンタルすることにした。

◆台風がまだ島の東側を進行中で、潜水ポイントは島の西側、八丈小島周辺だ。遊漁船、Y丸に乗り、まず一之根で潜水、辺りはスズメダイ、チョウチョウウオの群れ、それに八丈固有種のユウゼン、さらにイシガキダイ、アジアコショウダイ、ミノカサゴ、砂の中に身を隠したエイ、カノコイセエビ、各種のサンゴなど、懐かしい海中風景が広がる。小島に上がって暫時休憩後、2度目の潜水。ポイントはトモオジ。シラコダイ、ヤッコエイ、カンパチ、ゾウリエビ、それにアカウミガメなどが迎えてくれた。

◆民宿に戻ると、器材を入れたゆうパックが配達されていた。翌日はビーチダイビングにし、八重根新港から海に入った。器材と一緒に届いたフラグを持って、陸上と海中で記念撮影をした。235本目の潜水で、アオウミガメやアカカマス、ゴンズイの幼魚のそれぞれの群れ、ヨコシマクロダイ、シズミイソコケギンポ、カンパチの子、ミギマキなど、この日も魚影は濃かった。

◆この235本目の潜水。写真では一見元気そうに写っている。しかし、実際は、海に入るときも出るときも重い器材は仲間に持ってもらう「大名ダイビング」で、上がった後は息が切れ、ふうふう、ヘトヘト、よろよろの状態だった。その次の潜水はパスした。もともとダイビングには「怠け者のスポーツ」という別称があるが、今回はフィンが重く、前になかなか進めない局面が何度もあった。いくら怠け者のスポーツでも、筋肉の力がなければ楽しめないのだ。これからは体力の涵養に努めようと心に決めた。

◆長々と駄文を弄したが、もし若い人が読んでくれたとしたら、もう1点だけ付け加えたい。「(やれるうちに)やりたいことをやれ」ということだ。あのノルウエーの極右青年のような愚行は困るが、他人に大きく迷惑をかけないようなことなら、ぜひやってください。やればよかったという後悔だけはしないことだ。(森脇逸男

★なお、雑学倶楽部は9月20日夕、関野吉晴さんを招いて東京・青山のNHK青山荘で例会を開く。会費6000円(会食代を含む)。参加を希望される方は、森脇(T&F 03-3407-9005、hhc01045@nifty.com)まで。

[特別寄稿]

「縄文号」「パクール 号」石垣島にゴール
関野吉晴

(前号からの続き)

出航

 成功港から目的地の西表島最西部まで直線で280kmある。方角は北が0度だとすると、東に60度になる。私たちのカヌーは黒潮によって北に流されるので、真東に向かって行けば目的地近くに着けると、計算した。

 台湾からゴールに向かう航海では、私は縄文号に乗った。東に向かうということは、風速10m以上の強い南風が起こす3メートルをこえる波に平行に進むことになる。南風が吹き続け、波の方向も変わらない。帆は常にカヌーの左側で風を受ける。船体は常に左側に大きく傾いていた。一回だけ、左側に倒れるのではないかと思うほど傾いた時はハッとした。慌てて、キャプテン以外は皆反対側に立ってバランスをとった。転覆はのがれて、皆で目を合わせて{驚いたな}という表情をした。その後も左側のバチャバチャ(カヌーの横に広がる竹の桟敷の部分で寝たり、座ったり、オールを漕いだりする)はほとんど沈んでいた。風が強い時に問題になるのはマストだ。帆にかかる風圧によってマストが倒れることがある。通常マストが倒れると悲惨だ。船底まで伸びているマストの基部が船腹を破壊して浸水し、沈没するだろう。それを避けるために出来ることは、マストにロープを懸けて、マストが倒れそうになっている方向と反対側に引いて乗員が引っぱり続ける。あるいは後部の腕木に固定する。パクールの場合は最初から太い籐4本で固定している、強風が吹いている時はさらにロープを懸けて引っ張る。

 真横から風を受けての帆走はスピードが出ない。北側に少し振ると、やや後方から風を受けるので、スピードが上がる。パクール号はまっすぐ東に向かっているので、徐々に離れていく。やがてパクール号が近寄ってきて、渡部純一郎から「そっちに向かうと、西表島に着けませんよ」と大声でアドバイスしてくる。また縄文も東に向きを変えるが、また北に船首を少し振る。その繰り返しだ。時々やや北寄りに船首を振ったのは、そのほうが目的地に最短距離で行けると思ったからだ。

 縄文号に乗るといつもキャプテン席の後方、サンギランの後ろに立った。そこは舵を取り付ける溝のついた部位がある。そこに舵を縛り付ける、重要なところだ。進水式の時にカヌーの重要な部位に生きた鶏の鶏冠からとった血を塗る。サンギランにもその血を塗った。またパンブス湾に住むイスラム教の賢者から貰った、鍋の欠片を埋めた。マンダール人クルーはイスラム教徒だが、船に関してはそれとは相いれないアニミズム的な儀式が多い。彼らにとっては家と共に重要である船の、いにしえから続く儀式まで禁じたらイスラム教は入って来れなかっただろう。

 そこに立つと様々なメリットがあった。キャプテンが進路が分からない時、直に説明できる。ナビゲーターには最もいい場所だ。キャプテンが疲れたり、食事の時に誰かが舵を握る。さっと私がキャプテン席に座って舵を握ることもできる。いつもは島伝いに航海しているので、丘とか岬とか動かない目標めがけて行ける。台湾が遠のいてくると、陸地を目標物にできない。積雲など動きの遅いものを一時的な目標にする。しかしいつかは雲は霧消してしまう。そうすると、また目標を変える。

 キャプテンの後方のメリットの一つは一番濡れにくい場所であるということだ。成功港で今は旬のライチをたくさん買った。たまにカヌーの右側の桟敷に座り、ライチを食べるが、海が荒れているので、波しぶきが果てしなくかかってきて、びしょ濡れになってしまう。また揺れて滑るデッキを這うようにしてキャプテン席の後ろに戻った。

 晴れている時はいつも夕陽を楽しみにしている。晴れている日でも、水平線に厚い雲がかかっていてがっかりすることが多い。今日もいつの間にか太陽が隠れてしまい、中途半端な夕焼けが現れた。しばらくして星が出てくる。すでに月は高く昇っていて。明るいが、人工的な光がないので、星の数と明るさに目を見張る。降ってくるのではないかと思うほどだ。

 快晴だったので、ナビゲーションは容易だった。東京では見られないことだが、北極星と南十字星が、どちらも水平線近くに見えた。私たちは東へ向かうので、左手に北極星を、右手に南十字星を見ながら進めばいい。月の昇った方角と南十字星の間に、サソリ座が見えた。天の川に他に名前のつけられないような姿で鎮座している。その中のアンタレスは火星や金星のようにまばゆく光っている。太古の人たちもこれらの星を自分の位置を確認するために使ったはずだ。南十字星はインドネシアにいた時は高いところにあった。今は水平線に近い。一番下の星は赤道では27度の高さで見える。北緯27度、奄美と沖縄の境あたりで見えなくなる。今はだいぶ低い位置にあるので、北緯24度の石垣島にとても近いことが分かる。

 星の高さで時間も分かる。月は前の日より50分遅れて出てくるが、星も出る位置は毎日同じだが、4分違いで出てくる。

 夜になると舵はイルサンが握った。時々うつ状態になり、精神的に不安定だが、一番力が強く頼りがいのある男だ。一年目、スラウェシ島からボルネオ島に渡った直後、荒れた海の中で、パクール号のアウトリガーの竹が外れた。波の衝撃で結んでいたラタン(籐)が緩んだのだ。すぐにカヌーを止めると、イルサンはロープをもって荒れる海に飛び込んだ。冷静にフロートの竹を縛り、再び走れるようにして、難を切り抜けた。応急処置とはいえその時の彼の活躍は目に焼き付いていた。

 私たちはナビゲーションにGPSもコンパス、六分儀も使っていなかった。島影と月と太陽を含めた星、波をたよりにカヌーを進めていた。私たちの頼りは主に島影だった。主に大きな島では岸から5-10km離れた所を走った。荒れた時もすぐに岸に寄れる。大きな島なら5、60km離れていても、見える。ところが小さな島に渡る時は難しい。20kmほど近寄らなければ見えないからだ。その時は星を利用する。昼間は太陽、夜は恒星、惑星、月を利用する。

 だが、緯度の高い地域と違った、熱帯での航海に太陽は使いにくい。東京ではいつでも正午に太陽は南にある。ところが、熱帯では真上にある。日中に、方角を決めるにはふさわしくない。但し、朝、夕は東から出て、西に沈むので、午前の早い時間や午後の遅い時間には役立った。小さな島を目指すような時に島影が見えない時には、正午近くには一時的に自分の位置を見失う。それだけに島影が見えた時にはほっとする。

 最初はマンダール人クルーから不満はあった。「おれたちはいつもコンパスを使ってきた。いつものように航海したいので、コンパスは使いたい」とキャプテンの一人は主張した。彼らはナビゲーション以外の目的でコンパスを必要としていた。航海中も礼拝をするのでメッカの方角を正確に知りたいからだ。そのコンパスを使わない手はないだろうと言うのだが、説得したら納得してくれた。

 私たちは400万分の1の簡単な地図を使っていて、より正確な海図を使っていなかった。一時使ったのだがすぐに使わないことにした。GPSを使わなくても海図を使うと、詳細な地図だけに、自分の位置さえも分かってしまうからだ。海の深さも正確に分かる。

 太古の人たちはもっと五感を使って自然を読んだはずだ。海のおおよその深さは海の色で判断できる。大海の深いところは濃紺だ。浅くなるにつれて、コバルトブルーになる。深いところは暗く、浅いところは明るいコバルトブルーだ。さらに浅くなるとエメラルドグリーンになる。さらに透明に近くなり、海底の岩が見えるようになる。海底の岩が見え出すと、岩に当たる危険があるので、ぶつけないように気をつける。風の吹いてくる方角、自分の位置、これからの天候を五感で判断して航海を続けた。

 医学の世界でもかつては視診、触診、聴診、打診や嗅覚、味覚などをフルに使って診察し、診断した。今は医療機器にとって替られ、若い医師たちは五感を使って診察することはなくなった。極端な場合患者の身体をまともに見ずに診察するようになり、大切なスキンシップもなくなった。

 私は太古の人たちに思いを馳せて航海をするには五感をフルに使って、失ってしまった感覚を取り戻そうと、島影と星に頼った。しかし困るのは島影が見えない時に、夜間航海しなければいけない場合だ。晴れていれば問題ないが、厚い雲がかかっている時は満月の時でさえも方角を失う。頼りは風向きと波の方向だ。今夜は快晴なので、晴れ晴れとした気分と共にしっかりと進む方角が読めて爽快だった。

 しかし、昨夜一睡もしていないので、睡魔が襲ってきた。舵を握るイルサンが時々私に尋ねてくる。「この方向でいいのか」

 今夜、縄文号に乗っている日本人は私1人なので、眠るわけにはいかない。ナビゲーターが私一人ということだからだ。南半球に住んでいるマンダール人は北斗七星の一部は見たことがあるが、北極星を初めて見る。北斗七星から北極星の導き方を教えても、自信がなく、すぐに「このまま進んでいいのか」と聞いてくる。彼らにも星座があるが私たちが知っている星座とは違う。

 たとえば、南十字星は「失敗した家」という。大工が家を作ろうとしたが、隣で美しく輝く星に見とれてしまった。そのために南十字星は形が少し崩れていると言うのだ。確かに少し歪んでいる。しかし彼らにとっても南を示す星座として重要だ。

 小さな航海燈をつけたパクール号が近くを走っている。第10夜の月は航海燈がなくてもパクール号が見えるほど十分明るい。パクール号はまっすぐ東に向かっていた。普通に走ると、パクール号は縄文号の倍以上のスピードが出る。しかし縄文号に合わせるために、帆を広げて風を逃し、縄文号に合わせている。

 昼間よりは風は弱まったが、それでも強い南風が吹いている。3人のマンダール人クルーは昼間から、最後部に立ち続けている私に、「少し休んで、寝たほうがいいんじゃないか」と言う。確かに睡魔が襲ってきた。こくりこくりしている私を見て、マンダール人たちも心配している。しかし、パクール号と離れてしまった場合、ナビゲートする人間がいない。とはいえ、私はカヌーの後ろ端に立っていて、握っているサンギランの手すりを離せば海に落ちる。夜の落水は死を意味する。ヨットでの死亡事故で一番多いのは落水だ。歌を歌ったり、スクワットをしたりして、睡魔から逃れようとしたが、とうとう夢を見始めた。

石垣港へ

 私は食いしん坊で、食べる夢を見ることが多い。自分では気がつかないのだが、寝ている時に、たびたび口をもぐもぐしているらしい。寝起きにたらっとよだれが垂れていて、恥ずかしい思いをする。成功港を出た日の夜は、食べ物をあさる夢を見ていたらしく、私の目の前で舵を握るイルサンの頭や首筋、肩をまさぐっていた。イルサンも「なんだなんだ」と言って後ろを振り向く。「ちょっと寝たほうがいいんじゃないか」と言いながらも、私の奇妙な行動にニヤニヤしている。私も完全に寝ているわけではない。朦朧としているだけで、食べ物を探しているらしいと言う自覚はある。「このまま寝てしまったらまずい」とも思っている。しかし瞼が垂れてくる。がくんと膝が折れて、我に帰る。夜の落水は死を意味する。これはまずいと思って、一旦、桟敷に置いてあるライチをとりに行き、再び最後尾の定位置に戻った。グスマンとダニエルはシートに被って寝てしまっている。やはり、私はナビゲートをするため、寝るわけにはいかない。

 夕方には既に台湾領から出ていた。台湾国旗を外した。日本の国旗を揚げたいが、持っていなかった。台湾で知り合いに国旗を頼んだのだが、台湾の国旗は手に入れたが、日本の国旗は、方々探したが見つからなかった。しばらくは無国旗での航行になった。

 荒れる海の中で、縄文号はバウンドしながら進む。アウトリガーの前方がせりあがり、ドーンと海を叩きつけるように落ちる。まるで、しなやかに力強く走る競泳のバタフライ選手のようだ。アウトリガーが外れないかと心配だが、縄文号は4000km以上走って来て、一回も外れたことがない。船体には鉄釘は使っていない。木釘、ほぞとダマル(天然樹脂)で固定している。アウトリガーはラタン(籐)で縛っている。そのためカヌー自体が柔軟性があるのだ。常にきしみ、たわんでいる。だからこそしなやかに弾み、壊れることはない。いつ壊れるかと、ハラハラのし通しだったが、しぶとく、健気に走っている姿をいとおしく思う。

 しぶきを上げて進むアウトリガーの周囲には無数の夜光虫が騒ぎだし、光っている。星と違って緑がかっている。一つ一つは踊るように輝いてすぐに消失する。しかし無尽蔵に湧いては後方に天の川のように流れてて行って、消えていく。空と海での光の競演を堪能しながら、何とか睡魔をこらえた。そのうちに、睡魔はなくなり逆に目が冴えてきた。完徹をすると、眠いが途中で冴えてくることがある。2日間完徹でも同じことが起こる。

 フィリピンでも台湾でも日本の大型貨物船や大型タンカーとよく出会った。彼らは私たちに気付くことはないだろう。キャプテンのグスマンは、肝試しをしているのではないだろうか思うほど、かなり近くまで近寄っていく。しかし彼も長い経験でどこまでが安全かは把握している。大型船が通り過ぎた後に、大きな波が来るがそれも想定内のもので、危険はない。

 ここに到着するまでで怖かったのは、風が止まることだった。陸地から近ければ、水深の浅いところまで行って錨を下ろせばいい。しかし、今回のコースで風が止まってしまうと、深いので錨は下ろせず、漕いでもこの辺の潮には抗せず、潮に押し流されるままになる。幸い強い南風が吹き続けている。

 こんな時、自分たちのカヌーが大海を漂う木の葉のようなものだと感じる。しかしインドネシアを出て以来、私は木の葉ではなく大木に乗って、それを日本に運んでいるという感覚でいる。

 縄文号の船体は高さ54mの大木を伐って作った。ビヌワンという木は、それが倒れないように、どっしりとした分厚い板根が支えていた。2-3mの高さから、タコの足のように八方に伸びていた。その高さで大木の直径は1.8mあった。見上げると蘭や、つる性の植物など10種類以上の着生植物がびっしりとついていた。そこでひときわ目立つ大木で、恐れ多いものが宿っている雰囲気があった。地面から水や養分を吸い上げ、陽光を浴びて自分自身の身体を維持していた老木だ。その神が宿ったような大木を舟の形に変えて、大海原を北へと運んでいるんだと思うことがある。何とかして、日本までこの大木を運びたい。ある時は、大木の旅に私たちが同行しているのだと思うことがある。

 一方では、大木を切る時に宿っていた精霊たちの行方を考えることもある。伐採の前に、バナナ、ゆで卵、もち米を供えて、皆で祈った。「いいカヌーができますように。安全な航海ができますように」イスラム式のスタイルで祈った。そのあと船大工の棟梁が大木に片手を当てぶつぶつとつぶやいていた。後で、「何を言ってたんだい」と尋ねると、「この大木には様々な精霊が宿っている。これからこの木を切るので、精霊たちに他の木に移ってくれないかと頼んでいたんだ」と言う。イスラム教とは相いれないアニミズム的な民俗信仰を残しているのだ。あの精霊たちはどこに行ったんだろうかと、ふと考えたりした。

 夜は貨物船とも、タンカー、漁船とも一切出合わなかった。午前4時頃からうっすらと明るくなる。やがて空はピンクに染まって来る。まだ大きな星は消えない。快晴だが太陽の出る東の空には暑い雲が立ち込めていて、日の出は拝むことができそうにない。相変わらず強い南風が吹いていた。波も3m近くある。

 どこにいるのかさっぱり分からないが夕方までに西表島の島影が見えたらラッキーだなと思っていた。パクール号とは大分離れてしまった。パクール号はひたすら東に進んでいたが、縄文号は時々北に先首を向けて、また東に戻して進んでいた。少し違う方向に進んでいたわけだ。とはいえ、お互いに見える範囲にいたので、その動きは手にとるように分かる。

 思ったより早く島影が見えた。とはいえダニエルとグスマンが見えているだけで私には見えない。彼らの目の良さには驚く。今までの経験でも彼らが島影を発見してから1、2時間後にやっと私たち日本人が確認できた。特にキャプテン、グスマンの視力は優れていた。彼は夜、星の明かりだけで、灯台など人工的な光のない島を誰よりも早く発見した。

 明け方からイルサンに変わって、ビニールシートにくるまって寝ていたグスマンが変わって舵をとった。とはいえ彼は熟睡できたわけではない。カヌーの下からバシャンと大量の海水が跳ね上がり、前方からも海水がバシャッと踊りこんでくる。シートでくるまっていても強風のためにはだけてしまって、びしょ濡れなのだ。私は見えないが、彼が見えていると言う島影に向かうよう指示した。

 私が島影を確認できたのはやはりグスマンが見つけてから1時間以上経っていた。蜃気楼のような小さな島影だった。どこの島だろうか。八重山の一番南の島と言えば波照間島だ。だとするとしめたものだ。自分の位置がおおよそ確認できる。今後は島影を頼りに自信をもってナビゲートできる。もし与那国島だとすると、思い切り方向転換しなければならない。

 やがてその小さな島の背後にもうっすらと大きな島影が見えてきた。ということは、それは西表島で、はじめに見えた島が波照間島だと確認できた。私たちの当面の目標は西表島の最西部だったので、成功港からは東北東の方角だった。そのために、黒潮の流れを計算に入れると、真東に向かえばそこに着く計算だった。ここで進行方向を大きく変更して西北西に船首を向けた。

 一方、パクール号は西表島の東の方に向かってしまった。自分の位置を確認しているらしくて、方向転換して西の方に向かってきた。今年の航海ではなるべく離れないように航海して来たが、今回はお互い見える範囲だが、かなり離れてしまった。太陽が沈む直前になって、波照間島の西側でやっとパクール号と合流した。

 結局2日で300km近く走ってしまった。台風3号は勢力を落として、熱帯低気圧となって北上していった。

 西表島まで来ればナビゲーションに関してはもう心配はいらない。ゴールの石垣島までは島影を見ながらの航海になる。まだ一波乱、二波乱あるかもしれないが、ゴールはできるだろうという確信は得た。

 1993年、南米最南端のナバリーノ島をシーカヤックで出航し、アラスカ、シベリア経由で、アフリカまで目指すグレートジャーニーを始めてから18年経つ。南米からアフリカへの旅は40いくつかのミニ・エクスペデイションをつないでいく旅だった。パタゴニアの海をシーカヤックで渡る。アラスカ西部をイヌゾリで横断する。シベリアをトナカイゾリで横断する。サハラ砂漠の東端、スーダンのヌビア砂漠をヒトコブラクダで横断する等々。常にミニゴールまで着けるという確信を持てない旅だった。

 例えば2月に犬ぞりの旅を始める。寒すぎると犬も凍傷をおこす。脱落する犬もいる。4月半ば過ぎると、凍った川や湖が溶けはじめる。雪も深すぎると犬が埋もれて、進みづらい。逆に少ないと岩や障害物が出てくる。春先になると雪が緩くなり、重くなり、進みづらい。雪が重いと、疲労もたまる。ハラハラしながら進んでいて、ゴールを目の前にすると、ほっとする。困難さに応じた達成感に浸る。

 こうして、いつも着けるかどうか分からない旅を続けて来たのだが、いつも運よく着いていた。新グレートジャーニー「日本列島にやってきた初期人類」でも、困難な局面はあったが、シベリアーサハリンー北海道の北ルートもヒマラヤの山麓からインドシナを経て、中国、朝鮮海峡経由対馬までのルートも成功裏に終わった。

 しかし、インドネシアから沖縄に至る海のルートに関しては、「もしかしたら失敗するかもしれない」と危惧していた。シーカヤックで難関の海峡をいくつも渡ってきたが、本格的に太洋に出るのは初めてだ。大海の航海は初心者と言えるからだ。

 その上、縄文号の素材の高さ54mの大木は、老木だけに伐採した時から真ん中がズドンと洞が空いていて腐っていた。アリ、シロアリ、きのこ、コオロギなどの先住民の住処になっていた。着生植物も10種類以上張り付いていた。荒削りをしてみると、前方と左側面に大きな穴があり、2人がかりでやっと運べる埋め木をぶち込み、木釘で止め、天然樹脂で補強した。完成したカヌーも風上には進めないし、スピードも出ない。こんな船で4000km以上の航海に耐えられるのだろうか。スピードよりも安全、安定を重視してカヌーの形を決めた。スピードのためにはマストを高くして、帆を大きくしたほうがいい。縄文号のマストの高さは5mだ。マンダール人がレースに使っているサンデックはマストが18mある。帆も化繊で受けた風を完全にとらえ、反対側に逃すことはない。ところがヤシの葉を織った縄文号の帆は風をはらんだ帆の反対側でも涼むことができる。サンデックは転覆しやすいが、時速50kmで走れる。海のF1と異名をつけられるが、縄文号は転覆はしにくいが、最高時速12、3kmだ。倒れにくくても、天候の急変時など、安全なところに逃れるために迅速に動く必要があるが、動けないがための危険が伴う。

そして、ゴール

 一番海に詳しい渡部純一郎はスラウェシ島出発前、「こんなカヌーで日本まで行けるわけないじゃないですか。まったく、海の怖さを知らないんだから」と悪態をついた。

 しかし、2年で終えるつもりが4年になり、トラブルも多かったが結局失敗しなかった。多くの人は「吉晴(ラッキー・ファイン)」の名の通り「運のいい人」なのだという。周囲の人間の運まで持って行ってしまうとまでいう人もいる。何かのご加護はあったかもしれないが、成功するまで執拗に続け、失敗しそうになっても成功するまであきらめずに続けるからだと思う。その間にたくさんの人々のご加護と協力があったからであることは言うまでもない。

あとがき

■恩田真砂美さんの原稿の書き出しで西堀榮三郎さんのことを思い出した。西堀さんは、植村直己さんだけでなく、向後元彦さんのマングローブ緑化の企画など若者の話をしっかり聞いてくれる人だった。地平線会議の誕生の際にも勿論お世話になっている。同時に、科学者として「原子力エネルギー」をどうするか、真剣に向き合っておられた。とりわけ危険なウランではなく「トリウム」を燃料とする原発を日本は開発すべきだ、と。アメリカが嫌ったため、実現しなかったようだが、今回の原発事故で西堀さんの懸念は的中した。

◆太平洋漂流実験で知られる故斉藤実さん(25回地平線報告会報告者)の夫人、宏子さんから「地平線会議に贈ります」と、10万円を頂きました。最近、斉藤さんの著書『太平洋漂流実験50日』をあらためて取り上げさせてもらう機会があり、その文章をお送りしたら、喜んでくれて「200部の売り上げ分を」と寄せてくださった。思いがけない贈り物、ありがとうございました。来年計画しているいくつかの試みに役立てさせてもらいます。(江本嘉伸

■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

太古の風、光、匂い、そして‥

  • 8月27日(土) 12:30〜16:00
  • ¥500
  • 於:新宿区立新宿スポーツセンター(03-3232-0171)

「自分の腕力と脚力だけで旅をするグレートジャーニーのルールに加えて、今回は《必要な素材は自然から作り出す》という、より厳しい“しばり”を課したからこそ見えてくるものが一杯あったよ」というのは医師で探検家の関野吉晴さん。

教鞭を執る武蔵野美術大学の学生たちと共にスンダランドから古代舟で黒潮に乗って日本を目指す「黒潮カヌープロジェクト」は、かくて舟を造るのに必要な鉄器を得るために砂鉄を集めてタタラ製法で鉄を作るところから始まりました。こだわりの末にできた「縄文号」と「パクール号」は'09年4月にスラウェシ島を出航。断続的な航海の末、今年6月に石垣島に到着します。

「ヒトの五感はすごいんだ。海の深さは色でわかるし、音や匂いで陸との距離感がわかる。でも海図やコンパスがあればこういう感覚が眠ってしまう。今回のコンセプトのおかげで古代人の営みに思いを馳せられて“気づき”がたくさんあったしね」。

今月は関野さんに、4年間にわたったプロジェクトの最終報告をして頂きます。


地平線通信 382号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井祐介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2011年8月17日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方


地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替(料金が120円かかります)、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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