2012年12月の地平線通信

■12月の地平線通信・404号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

12月5日。昼前、散歩に連れて行こう、と麦丸がぎょっ、とした顔で私をじっと見つめている。大きなマスクをつけたあるじを初めて見たからだ。6才半になった麦は、本来人懐っこいが、「大きな音」「異形のもの」には大げさに反応する。雷が嫌いなのは当然として、「がなりたてる声」は、きのう公示された衆院選の選挙カーのけたたましいマイク音を筆頭に最大の苦手だ。

◆和装も苦手だ。かって花街だった荒木町には着物姿のお姐さんが少なくないが、すれ違う時、着物のゆらゆら揺れるのが怖いのだろう、「かわいい子!」と声かけられても、緊張しているのがわかってこちらは引き綱をしっかり握りしめる。子どもの頃、親の不在時に白無垢の花嫁さんが親御さんと挨拶に来た時、怖くて裏庭に駆け込んでしまった自分を思い出す。

◆3日前からのどがいがらっぽいぞ、と気になってきのう近くの医院に行ったら「のどにかなりの発赤がありますね。もう少し早く来ればよかった」と言われ、いろいろな薬をもらった。一気に直したいのでしっかり飲み、熟睡してこの通信制作の最後のステージにとりかかっている。

◆きょう5日未明、歌舞伎役者の中村勘三郎が亡くなったことをメディアは繰り返しトップニュースで伝えている。先日の森光子の死は過剰な報道だったと思うが、勘三郎の場合、まだ57才という人としての盛りの中での死だ。単に有名人としての死だけではなく、「盛りの死」を悼む、という点で、森光子の大往生とは違う切実な惜別感がある気がする。

◆2日に起きた中央自動車道笹子トンネルの天井板崩落事故、実はかなり身近に感じている。皆さんはあまり知らないが、私は運転免許を一応は持っている。犬たちを連れて動くことが多い人生なので、月1度か2度でも車は必要なのだ。ただし、運転にはあまり自信がない。車庫入れなんて、何度もやり返す。3.11で被災地に行くのも結局、終始新幹線か他人の車に便乗させてもらってのことだった。

◆そんな永久初心者ドライバーである私だが、「笹子トンネル」は比較的よく通るトンネルだった。4.7キロの長さは結構おっかないので、つい慎重な運転になる。だから、今回の事故で、たまたま通りかかったというNHK甲府支局の記者の「脱出レポート」には衝撃を受けた。崩れ落ちる天井板をスピードを上げて突破した、というのである。危機の一瞬、いかにスピードが大事か、ということをこの記者は教えてくれた。

◆同時に、笹子の事故は、日本の経済発展の代償なのだ、という思いもある。古くなりはじめた「発展の残像」。高速道路、橋、トンネル、さまざまな栄光の構築物が、今後日本の各地で朽ち果てようとしている。いろいろな種類の「崩落」がこれから起きるのかもしれない。原発を含め、今回の衆院選はそうした日本のこれからを問うてもいる、と思う。

◆トンネル事故で騒然としていた2日夜、メールが入った。「江本さんへご報告です。(facebookでも報告させていただきましたが)術後初のPET(癌)検査で、癌は、見つかりませんでした!! 信じられません。あきらめてはいませんでしたが、(あきらめたくはなかった、が本音)12年間闘って(戦って)きて、現実、こんな日がくるなんて本当に信じられない思いです。応援してくださったみなさんのおかげで私、頑張れました。今後も気を引きしめ完全回復を目指したいと思います。とりいそぎ、ご連絡まで。エミコ♪」

◆オーストラリアにいるシール・エミコさんからだった。なんという、幸せ感に溢れた嬉しいメールだろう! 私も信じられない気持ちだ。日々の生活は新たな厄介を負いながら楽ではないだろうが、12年前の発病以来、いろいろな場所でスティーブとともに会った彼女の姿を今思い出す。また、できるなら地平線報告会に来てもらいたい。いや、お呼びしたい。

◆11月の森田靖郎報告会で「地平線話法」のことが話題になった。「立場」を盾にものを言う「東大話法」に代わるものとして、森田君がこの通信に何度か書いてくれているあれ、だ。3.11を越えて、地平線報告会を400何回かやり、この地平線通信を400何号か出して、つくづくそのことの大事さを考える。私たちはごく自然に自分たちが見聞し、考えたことを地平線報告会というこの「場」で、話し続けてきた。そのことを通信というメディアでしっかり記録し続けてもいる。その話法がいかに大事か、3.11以降の日本のありようを目のあたりにして痛切に思う。(江本嘉伸


先月の報告会から

森に学ぶ“終わり方”の哲学

森田靖郎

2012年11月23日  新宿区スポーツセンター

■これが本年3度目となる森田さん。進行役の丸山さんでさえ、「ドイツに中国人の組織があって、それを追いかけたのかな」と一瞬勘違いしたという、今回はちょっと意外なタイトルだ。その本題に入る前に軽く触れたのが、最近話題になっている『東大話法』 政治家や官僚たちが使う話し方で、命名者によれば、「一も二もなく立場でモノを云い、どんなに辻褄が合わなくとも自信満々で話す」アレである。それに対して森田さんが、「地平線の400回を超す現場の報告は、もはや『地平線話法』と言っていい。これは、日本のどの社会へ持って行っても通用する」と前置きし、「今日はぼくも地平線話法で話を進めていきます」の宣言?でスタートした。

◆毎週金曜日、今夜も国会周辺ではデモや集会が行われている。この『アジサイ革命』に、森田さんは注目しているという。中身もさることながら、警官の対応が面白いらしい。本来は重要施設への接近を鎮圧・阻止する立場でありながら、「はい、これから国会の方へ進んでください」と誘導したりする。「ちょっとつかまえて訊いてみると、『自分は3.11のあと、福島の方へ支援活動に行きました』とか『デモの皆さんの言われていることも、良く理解できるんです』といった返事が警官から返ってきます」

◆その現象に、ある種の『都市伝説』を感じながらも、森田さん自身は「脱原発でぼくらの安全が保障される訳では全くない」と、あくまで現実的である。日進月歩の原発機器や安全管理のハイテク化に較べ、放射性廃棄物の最終処分は全く進んでいない。その問題を置き去りにしてスタートした原発自体が間違いだし、そもそも放射能をゼロにすることなど不可能なのだ。

◆日本政府の新エネルギー戦略を見ると、「2030年代に原発をゼロにする方向で考える」と言いながら、核燃料サイクルについては「来年から再開する」と言っている。つまり、「核燃料サイクルを維持する限り、原発は止められない」という論法で、これは本末転倒も甚だしいと森田さん。プルトニウムを使う『もんじゅ』の方が遥かに危険だからだ。

◆では、なぜ日本は核燃料サイクルを諦めないのか。一つはエネルギー、もう一つはプルトニウムの保有による、潜在的な核抑止力にある。しかし、持つべき国が持ってしまった現在、その意味はない。「それでも核燃料サイクルに拘るのか、ぼくには理解できない。3.11の後、ドイツは2022年までに国内の原発17基すべてを閉鎖すると、早々に決めた。日本とどこが違うのか。それを見にドイツへ行ってみようと思ったんです」

◆東西ドイツの時代から取材などで通い詰めたベルリンに、森田さんは格別の思い入れを持っている。いつも足場に使うのは、旧東ベルリンのゾフィーフェン通りにある、昔の東ドイツ風アパートの一室だ。けれど、今年行くと、ちょっと様子が変わっていた。1階は全てカフェになり、アパートの中も改造してお洒落なブティックが並び、ちょうど南青山のような感じになっている。朝はそのカフェで、夕方は屋上のビアパーティーで他の住人たちとビールを飲んだ。

◆その中の1人で、森田さんも世話になった隣人が、元グリーンピースの幹部だった。話し好きの彼によると、東西ドイツが統一されたとき、みんなこのアパートから古い物を捨てたという。が、彼の部屋は、写真も食器も家具も、すべて古い物ばかり。それを訊ねると、「過去と現在は繋がっているものだ。これを断ち切ると未来はなくなるから、自分は捨てなかったんだ」という。

◆さらに「大切なのは過去なんだ。積み重ねてきた時間、生き抜いてきた時間、これが我々の未来を開いてくれるんだ」と、まるで人生を砂時計に例えるような話になった。「砂時計は、一回、溜まります。溜まったものをひっくり返すと、また新しい時間が始まる。『人生とはそういうもんだ』って言うんですね。脱原発より、そっちの話の方が面白いな、とぼくはどんどん引き込まれていったんです」

◆すると次に彼は、「人はいつも人生に問いかけられているんだ」と言い、その言葉にハッとした森田さんに、もう一言、畳み掛けた。「幸福な人ほど不幸なんだ。不幸な人ほど幸福なんだ」「まるで禅問答で、さっぱり判らなかったんですが、どうやら東西ベルリンの人のことを言っているのだな、と判りました。彼が出してきた10年ほど前のWHOの資料では、旧西ベルリンが自殺率のトップになっている。この数字を見て、彼の言っていることがなんとなく判る気がしてきたんです」と森田さん。

◆「豊かさの陰にある虚脱感。モノは溢れていても精神は貧しい。ドイツの人たちはそう感じ、これが脱原発へと繋がったのかも知れない」そんなことを考えながら彼の話に耳を傾けるうちに、フッと若い頃の記憶が蘇った。

◆森田さんの学生時代は70年安保と重なっている。デラシネ(根無し草)という言葉が流行り、大学も閉鎖されていた。それをいいことに、貨物船に乗って地球の果てを訪ねるような旅ばかりした。人の倍かけて卒業した時、仲間は既に立派な社会人になっていた。いまさら就職のアテもない。仕方なく東京に出ようと決めた森田さんに、父が次のような言葉を授けたという。

◆「男には、3つ、自分で決断しなきゃならんことがある。『一生、これで食って行く』という仕事を自分で見つけろ。一生、この人だと思う伴侶を自分で見つけろ。そして、自分の死に方は自分で決めろ」 最初の2つは早々に見つかったが、『死に方』は意味が良く判らない。父もそのことを語らないまま亡くなり、その後はすっかり忘れていた。それをドイツで思い出したのだ。

◆「どんな物事にも始まりと終わりがあります。それは人生も社会も同じ。始め良ければ終わり良し、と行けばよいが、なかなかそうはならない。産まれる時は勝手に産まれても、死ぬ時は『勝手に』とはいきません。せーので会社を興しても、畳む時は周りの人のことや社会的責任があります。これは原発でも同じじゃないか。時代の勢いや高度経済成長に乗って始めた原発が、止める時にこれほど色々な問題があるとは誰も考えていなかったに違いない。原発も人生も、終わる時にその真価を問われる、価値が決まるんじゃないか」と考えた。

◆そして、「『死に方』は『生き様』です。父が言いたかったのも、そのことではないか」と気付いたのだった。哲学者ハイデッガーに、『人間は科学や技術の主人になってはならないし、奴隷になってもいけない』との言葉があるという。「ドイツの人たちは、科学が神の領域まで行ってしまっていいんだろうか、と疑問を持ち、脱原発に向かったんじゃないか。そう考えると、ドイツで脱原発の現場を見ることも大切だが、ここで原発の生きざま、死にざまを見てやろう」と、そんな気になった。すると、それを聞いた彼が言った。「森へ行け」

◆アウトバーンを走って目に付くのは、太陽光パネルと風力発電機。海にも洋上風力発電が回っている。その再生可能エネルギーはキロワットアワーで15円くらい。日本の26円に較べても低いが、もっと安くなると云う。一方、南部では家畜の糞などを使ったバイオマス発電が盛んに行われている。森田さんが訪れたところは自給率が250%を超え、余剰分を水素エネルギーに変えて水素自動車を走らせていた。

◆その水素スタンドは、まだベルリンでも15、6か所に過ぎないが、近い将来、1000か所になるという。風力発電をやっているシーメンスは、かつてはドイツ最大の原発メーカーだった。脱原発の動きと共に風力発電に方針転換し、そのインフラの輸出で、事業は年間3兆円規模に発展した。

◆チェルノブイリの事故後から、ドイツは脱原発を念頭に、30年近くやってきた。この10年で再生可能エネルギーは3倍に増えている。しかも、簡単に新規事業へ参加できる仕組みが整っているという。「州が自治権を持っており、門戸を開いていて、モデルケースやシミュレーションも沢山あり、極端に言えば、ぼくが『明日からやりたい』と云っても、すぐに出来ます。日本のように、まず大手の企業が受注し、そこから下請けに廻すという形をとる必要がないんです」という充実ぶりだ。

◆「しかし、ドイツでも3.11がキッカケとはいえ、それ相応の目標や説得力がなければ、国民の総意による脱原発の決定など有り得ません」 では、それは何だったのか。「脱原発に当たって各方面にデータ提出を求めたメルケル首相は、それらをドーンと積み上げ、最後にポンと一言付け加えました。それはぼくの予想外の言葉でした。

◆『科学技術や経済よりも、倫理が優先する』 でも、その一言で国民は納得したんです」「『倫理』なんて、日本では日常的に殆ど使われません。ドイツではそれが国の大きな過渡期=脱原発を決めている」 倫理って何だ? それを訊ねると、その答えも『森へ行け』だった。

◆ドイツに大都市はないと云う。街はすべて中都市どまり。人口を増やしたり大規模な施設を作るのは愚かなこととして、あえて大きくはしない。「ドイツには現代史がありません。日本の街は昭和まで戻れば間に合いますが、ドイツは中世の建物が普通にあり、200年、300年前はまだ若い方。500年、600年前のものもあります。

◆市庁舎に入ると、当時の物がそのまま使われており、地下の居酒屋のケラーでも、ドアや取っ手、テーブル、椅子、どれをとっても100年や200年では利かないようなものばかりです。ぼくが使ったナイフやフォークには、昔の王族の家紋らしきものが入っていました。日本でなら『触らないで下さい』という展示品になるようなものが、ここでは平気で出て来ます。歴史は博物館のものじゃなく、ここでは生きている。そのドイツの凄さ、歴史観、時代感、時間感覚にぼくは、まず圧倒されました」

◆土日を完全に休む国だから、お店は開いていないし、電車やバスも半分くらいしか走らない。では、人々は何をしているのか、と訊ねたら、「森に行っている」との返事。そこでドイツ人について小さな森に行くと、なるほど小さな家や畑があり、そこを耕したり日曜大工をしたり、終わるとビールを飲んで過ごしている。そして月曜日の朝8時には、リフレッシュして仕事に戻る。ただ、その光景は、森田さん的には「ちょっと頭を冷やしただけではないか」というレベル。「森は哲学だ」の言葉には程遠い。ドイツといえば、やはり『黒い森』か……。

◆飛行機などから見ると、森は深く真っ黒だ。ところが『黒い森』を訪れてみると、意外に整然と整理されていた。「文明の前に森があり、文明の後に砂漠がある」と言われるが、ドイツも例外ではなかった。第二次世界大戦後、酸性雨や色々な環境破壊によって『黒い森』も全部枯死したのだ。整然としているのは、そこにドイツ人がブナやモミを懸命に植林した結果だった。

◆70年代から台頭してきたドイツの『緑の党』も、森の復活とほぼ歩調を合わせているという。黒い森の中心地バーデンバーデンから少し行ったところには、ヘルマン・ヘッセの生家があった。森の手掛かりを求め、そこまで足を伸ばした森田さんは、ギリシャ・ローマの文明によって築かれた初期のヨーロッパは、その後、北のゲルマンと遭遇し、両者のせめぎ合いの中で形成されていったことを知る。

◆生家で説明してもらった『ローマ軍記』にも、「北方のゲルマンを攻めに森へ入った古代ローマ軍は、60日間行軍しても森の端に行き着いたものはいなかった」との一節があった。「このとき森に立て篭もっていたのがゲルマン=ドイツ人です。彼らは、『パースペクティブ』という独特の考え方、思考法を生み出しました。建築で『パース』と言いますが、平面だけではなく、立体的にあらゆる角度から捉える、現実的な見方です。

◆ギリシャ・ローマの地中海文明はロマンチックでしたが、森の中では現実的でなければ生きてゆけなかったのです」 そのドイツ人は、「我が胸に2つの魂が同居している」と胸を張る。一つは、ギリシャとかローマから貰った地中海の情熱。もう一つは、森から得た理性だ。この『理性』という言葉で初めて、「ああ、倫理に近いな、ようやく行き着いたな」と森田さんは実感した。

◆でも、まだ『倫理』そのものではない。では、倫理はどこにあるんだ。そう訊ねると、「もっと北の森へ行け。原生林の森へ行け」との答えが返ってきた。その言葉に、「ぼくは極端な人間なんです」という森田さんは、ドイツを突き抜け、最北端のバルト海へと出てしまう。

◆その海には沢山の小島が浮かび、かつてのハンザ同盟で栄えた港町が島影に残っていた。そこから森の中へ道が続いていた。それは、13世紀に修道院を建てようとしたものの、バルト海の荒波と厳しい気候のため、そのまま手付かずで何世紀も放置された道だという。しかし、そこに踏み込んだ森田さんは、あまりの薄気味悪さにウンザリし、僅か1日目で後悔し始めた。この中では、なかなか倫理を見つけるまでは行かないな。そんな思いにも付き纏われた。

◆アマゴ釣りを趣味とする森田さんは、日本でも、しばしば人里離れた森に入る。アマゴは神経質な性格ゆえ、なかなか姿を見せない。魚を求めて何日も森の中で過ごしていると、どんどん内向き、内省的になってゆく。そして、「道に迷った時はこうする」など、いつしか森の中でのサバイバルルールを、自分で作るようになると云う。

◆突き詰めると、それは自分と森と、そして全ての生き物のためのルールでもある。そこまで考えて、森田さんはハッとした。それが、実は倫理に繋がってゆくのではないか。倫理とは、万物の生命を守るためのものではないか。ドイツ人もそう判断して脱原発を決めたのではないか。もちろん、その解釈が正しいかどうかは判らない。でも、それに気付いた以上、もうここに居る必要はない。そう思って、森を飛び出した。

◆その後、バルト海の小さな町で、週末、深い森の中の教会で開かれる音楽会に立ち寄った。そこで身震いするほど感動的なアルトを歌う日本人女性から、「音楽は神様がくれた最大の贈り物。ここで歌うのも、森の精霊たちに聴かせて会話するため」と聞かされる。

◆その場では理解できなかったが、帰国後に白神山地のブナ林でケーナやサンポーニャを演奏した折り、林に反射して駆け巡る音に、森の精霊との一体感を覚えたという。最後の疑問にも答えが見つかり、各地を訪ねた森巡礼は完結した。森田さんにとっては、恐らく至福のひと時だったに違いない。

◆ここから話題は、ドイツの大皿食文化、レヴィ・ストロースの調理法考察などをぐるりと一回り。脱原発に戻って、独中の比較に移った。「ドイツの脱原発には、ドイツ人気質が非常に関係しています。ドイツ人は父と子と精霊の『三位一体』の考え方ですが、その強固な三角形で理性をしっかり守る人たちだと思います。これに対して、『二極』の人たちが中国人です」

◆陰に対して陽がある。孔子がいれば老子がいる。儒教があれば道教がある。間に支点のあるシーソーのようにバランスを取り、あるいは時計の振り子のように行ったり来たりを繰り返す。それが中国人だという。

◆森田さんによると、『二極』は彼らの言葉の中にも現れている。たとえば進退は、日本人にとっては「進むか退くか」の相反する2つの意味を持っている。が、中国語では「退く」のニュアンスを含んだ「進む」だという。「売買」も売り買いではなく、「交渉する」という意味になる。「売ることもあれば買うこともあり、そのバランスを取ることで交渉が成り立つ」からだ。

◆アヘン戦争に始まり、日清戦争、日中戦争へと続く流れは、中国にとっては屈辱の歴史である。これを乗り越えるのが現代化の一番大きな目標となり、北京オリンピックや上海万博を開き、GDPでも日本を追い抜いて世界2位になった。しかし、実態は、GDPも1人当たりに換算すると日本の8分の1、「しあわせ級数」では僅か6%で世界で最下位だという。

◆そのジレンマが国民を反日に向かわせた。「日本は敗戦国だ。肩を並べられて堪るか」と、2005年には日本の国連常任理事国入りを阻止した。「このとき反日運動を仕掛けたのが『黒道』です。一人っ子政策により戸籍を持てない子供たちの結社組織で、以前お話した毒入り餃子事件の真犯人もそうです。彼らが、ショートメールメッセージを使って、さまざまな攻撃を仕掛けました。ここで、反日とネットが結びつきました」

◆5億人とも言われる中国のネット人口の大半が、80年以降に生まれた『80后』(パーリンフォー)と呼ばれる人たち。天安門事件後の愛国教育、つまりは反日思想で育ったが、ネットは中国政府にとっても諸刃の剣だ。都合の悪い情報はフィルタリングでカットし、外国人がホテルのネットルームを使用する際も、ネットポリスが内容を監視する。

◆「それを掻い潜って出されたのが、『零八(リンバー)憲章』でした。中国の事実上の人権宣言で、『ネット天安門事件』とも言われています。天安門事件以来のぼくの友人でもある劉暁波が草案し、これにより彼はノーベル平和賞を受賞しましたが、いまも身柄を拘束されたままです」 その憲章には、森田さんもすぐに署名したそうだ。

◆「中国では、ネットを見ることを『囲観』(ウェイカン)といいます。これは『囲碁を見る』の意味で、俯瞰するということです。ぼくは鳥瞰だと思います。なぜなら、彼らはネット上で標的となる獲物を探すんです」去年の中国版新幹線の事故でも、当局はさっさと幕引きに掛かった。が、ネットに出て民衆が立ち上がり、調査に乗り出さざるを得なかった。何かを決める、判断するに当たって、いまはネット世論の力が大きくなっているという。

◆新聞報道などとは違い、途中で様々な意見が書き込まれるネットは、真意と違うものが伝わる恐れがある。こういう時代、政府の要人や文化人も、反日を煽る言動は避けるべきだろう、と森田さんは戒める。

◆「中国はいま、先進国になれないまま高齢化が進み、国が衰退してゆく『中進国のワナ』に陥っている」と森田さんはいう。先進国になれるか否か。それは、先日の党大会で決まった新体制の今後の10年にかかっている。その大会で、「中国人の個人所得を倍に」と胡錦涛は訴えたが、それは政治改革抜きにしては有り得ない。森田さんは、あのメッセージで次の習近平に政治改革を託したんだ、という。

◆密航問題を追っていた頃、森田さんは東京やニューヨークで集めた情報を持参し、根拠地である福建省で、当時の副省長だった習近平に会っている。その印象は「赤より赤」、つまり共産党よりもガチガチの共産主義者だった。若い頃に文革で下放された彼は、徹底的に共産主義を学び、それが現在の政治手腕に生かされているのだそうだ。

◆習近平が、どのように政治改革をやるのか。森田さんによると、それはたった1つ。既得権者にメスを入れること。それだけだ。これに手を着けない限り、所得倍増は有り得ない。富裕層は中国全体の1%いるかどうか。その殆どは既得権者、つまり共産党幹部と家族、その周囲に群がる人々だという。

◆今回の党大会の直前に、「温家宝の一族が海外に27億ドル蓄財している」とニューヨークタイムスがリークした。「真偽はともかく、今の幹部たちが海外に多額の金を不正送金して貯め込んでいることは、みんなが知っています。その不正蓄財を吐き出させ、きちんと税金を払わせて、平等に分配することで一般の人たちの所得倍増への道が切り開かれます。それ以外に方法はありません。自らも二世議員の『太子党』である習近平さんが、自分の身や骨を切ることができるか。それは彼の手腕にかかっていると思います」

◆この格差是正を行うには、相互に繋がっている『三黒問題』を解決しなければならない、と森田さんは断言する。「その3つとは、利権に繋がる経済マフィアにして地域のボスの『黒社会』、戸籍のない子供たちが作っている結社の『黒道』、そしてハッカーの『黒客』です。軍の中にも強力なサイバー部隊を持ち、アメリカの国家機密や軍事機密を盗み取り、日本の企業に対してもスパイ活動を行っていますが、これを何とかしないと、国際世論に叩かれ、先進国にもなれません」

◆そして森田さんが早く手をつけて貰いたい、と願っているのが、黒道だ。これがために、中国では子供の誘拐が後を絶たず、売買され、強制労働させられ、臓器売買や偽装結婚の犠牲になっているという。また、毒入り事件に見られるように、これらの殆どが日本にも関係しているからだ。

◆『未来のルーツ』を、歴史観を探す自分自身のキーワードにしているという森田さん。日頃は何に使ったか判らなくとも、たまに通帳記入するとドキュメントが残るキャッシュカードになぞらえて、「その程度でよいから、時々は歴史認識と領土問題を考えた方がよい」と語る。

◆そして、「これからの未来を拓くために、どういうところに原点を辿ればよいのか。旅をしたり取材をする度に、ぼくはいつもそこに立ち返ります。いまは森の中を彷徨いながら出口を求めている、とそんな感じだと思うんですが。その出口が見えれば、ぼくの生きざまかなぁ。そんな感想を持っています」と、最後を自身のルーツの一つ、父の教えの言葉に絡めて話を終えた。

◆倫理探索のドイツの森逍遥、そして中国事情圧縮版。「一言も聞き漏らすまい」と森田トークに集中した後の休憩時間、配られた原典子さん(ウルトラランナー原健次さんの奥様)手作りのケーキが有り難かった。多分、この2時間弱で脳が糖分を使い切ったのだろう。小腹を満たしての後半は、森田報告会恒例、ケーナの演奏で再開した。のどかで心地よい音色に全身を包まれて、先程までの緊張感が融けて行く。アンコール的1曲も含めて、計3曲を楽しんだ。が、実は森田さん、趣味の武道大会で誤って鼻を打たれ、昨日、緊急手術を受けたばかりの大変な状態だったのだ。

◆質疑応答の部の一番手は江本さん。その「地平線話法に関してもう少し具体的に補足できる?」を受けて、「たとえ現場で感じたことでも、活字にしようとすると必ず罠に嵌る」と森田さん。驚いたことに、今朝になって満足に声が出ず、話す予定の中身を慌ててパソコンで打ち、誰かに代読してもらうことまで考えた。

◆しかし、やってみると話し言葉の活字化は難しく、全然違う原稿になってしまう。「意識して話す、書くのではなく、素のままで喋ると本当にいい言葉が出てくる。ぼくがメモも用意せずに話すのは、次に出てくる言葉を自分で期待しているからです」のコメントに、会場からも「う〜ん」という感嘆が……。

◆3人の子供の父親でもある渡辺久樹さんは、『父からの3つの教え』に関連して、「子供に人生の指針になるようなアドバイスは、なかなか出来るものではないが……」と問い掛けた。森田さんも、娘を送り出す時、気の利いた言葉を掛けられなかったそうで、「言葉は、その時は大したことなくても、後から重みが出てくるんです」と返した。

◆「そうだね〜」の空気が会場に広がる刹那、「親、特に母親は凄く言ってるじゃない。聴く耳を持ってるかどうかだよ」と、宮本千晴さんが鋭い一言。皆さん身に覚えがあるとみえ、ドッと湧く。千晴さんからは、「日本中が東大話法でしか考えられなくなっている。その不完全なパーツの立場でのみ発想している。現場からの初歩的ながらトータルな発想の仕方とのギャップが大きく、どうすれば皆がシステムとして考えることが出来るのか、それが一番気になっている」と憂う声も出た。

◆森田さんも、「まずワクを造り、それから中を埋めてゆく。現場で設計図を作るより、まず外形があって先に規律的なモノを作る。言葉だけではなく、いまの社会は発想自体もそうなってきている」と応じ、ドイツでは、統一したことで様々な問題が表に出た。そのために一度ワクが壊れ、それが脱原発にも影響している。もし旧西ドイツのままだったら、ワクの中で「将来的にも原子力産業は残しておいた方が良い」と考えたかも知れない、との興味深いエピソードを紹介した。

◆各人各様の質問が続き、最後に「話そうかどうか、迷っていたんですが……」と静かに切り出したのは中嶋敦子さん。一昨年亡くなった父君は原子力の研究の草分けで、彼女も東海村で育ったという。その父は、原発は『無理だ』とのスタンスだった。非常に早い時期から論文などで訴えたが、その結果、周囲から叩かれて壮絶な扱いを受けた。

◆「2004年の中越地震の時、父は、柏崎の原発が今の福島第一のような事故を起す寸前ではないかと心配して、オロオロして知り合いの研究者に電話を掛けました。私にも『ニュースで何か言ってないか? 何か兆しはないか?』と聞き、『何も言ってないわよ』と答えた時の、『冗談じゃないよ!』と言った声が忘れられません」「亡くなる3週間くらい前に、六ヶ所村が火事でゴウゴウ燃えている夢を見て、『ああ、怖かった』と言いました。その時は、あと何週間しか持たないと分っていたので、もっと楽しい夢を見て欲しいと思って声を掛けた覚えがあります。それが2010年の3月の中旬でした。1年後に、それが本当になってしまいました。父の夢は六ヶ所村でしたが、それはプルサーマルをもの凄く心配してのことなんです」

◆そして、まだフクイチ倒壊の不安が残っているにも拘らず、ノド元過ぎて忘れてしまったような世間の風潮に、「『凄く難しい原子力村』ではあるけれど、森田さんの独自の切り口でお書き下されば意味があると思います」と訴えた。3時間近い報告会は、敦子さんの口を借り、まるで天上の父君が語りかけているような言葉で締め括られた。[(新婚直後から別居状態の)ナゾの記録係:ミスターX]


<訂 正>
■先月号「街道の話を聞いて思う」に記憶違いがあったので訂正します。貴重な紙面を奪って申し訳ありません。(宮本千晴)。

[1]街道君と西君がマッケンジー河河口域に行った一番の理由は彼らが氷結したこの河のスキー遡行を考えていたことです。氷結の進む早春まで滞在する旅費がなく断念。

[2]その後の西君の滞在地はデルタ北東部のタクトヤクタクではなく、イヌービック対岸のイヌイットの町アクラビックでした。

[3]使える金は1日2ドルではなく1ドル半。

[4]磯野君の厳冬期犬ソリ旅行での遭難は旅に出て6日目、屋根なしイグルーをキャンバスで覆ったキャンプを出て1時間半走ったところでした。旅前の傷と捻挫をかばいながら走りつづけたためのひどい痙攣で30分ほど倒れていたことが直接の原因でした。彼は闇の中を8時間かけてもどり、キャンプを見つけた。ここまでは星明りの零下45〜50度の世界。荷を軽くするために二重シュラフの片方とスノーナイフまで残してあったのが命を救ったそうです。夜半からは気温が上がって猛烈なブリザードがつづき、半イグルーも3度壊された。救出されたのは事故から5日目のことでした。

[5]磯野君は春になってその逆コース(230km)を自作のソリを曳いて一人で歩きました。


地平線ポストから

「原子力村」の人々から日本一敵愾心を燃やされ、干され続けた父のこと

■森田靖郎さんの報告会で発言させてもらった中嶋です。地平線会議とは長いおつきあいですが、ここ数年両親の介護でなかなか時間がとれませんでした。でも、今回の森田靖郎さんの報告会には必ず行こう、と決めていました。私の父が関わっていた原子力のことであり、常に自前で丹念な取材を重ね、成果を発表される森田さんの姿勢に学ぶことは大きい、と日頃感じていましたから。

◆実は、私の父は福島の原発事故以来明るみに出た「原子力村」の人々から日本一敵愾心を燃やされ、干され続けた人でした。50年近くそのような立場から、原子力の研究・開発に関わってきた人は、もう何人もいないのではないかと思います。父は2010年に他界、3.11の事故を経験する事はありませんでしたが、元気でいたらどんな発言をしただろうと思う毎日です。

◆父のかつての仲間の中には、原子力に関わってきた者としての忸怩たる思いに苦しんでおられる方がいる一方、メディアの前で言い訳タラタラの背筋が寒くなる人物も多数います。(このような人物が私にとってはかつてのご近所の○○ちゃんのパパだったりするのです。)

◆父は、祖父の転勤先であった上海で生まれました。純粋に中国への思いを温めていたのか、当初は中国史を勉強したかったようです。しかし息子を戦争に取られたくない祖父の必死の思いで、予想外の理科へ転向したそうです。これがよかったのか、不幸だったのかは今となっては何ともわかりません。

◆東京大学の理学部で化学を専攻しました。大雑把で恐ろしく不器用だったので、有機化学の世界とはご縁がなかったらしいです。指導教授が仁科博士の共同研究者だったそうで、そういう環境がもしかしたら原子力に関わることにつながったのではと、私は考えています。

◆祖父は商社勤めだったので、戦後は財閥解体などの関係で食うや食わずだったそうです。そのため父は大学院には行かず(行けず)就職しました。今、新国立劇場がある場所が父の勤め先でした。結構興味深い研究をやっていたようです。

◆月日は流れ、1956年に政府の原子力委員が発足(初代委員長は正力松太郎氏)、次いで原子力産業会議・科学技術庁が発足。そして父が勤務する事となった日本原子力研究所が1957年に発足、私もそれに伴い物心つくまえに、東海村の住人となりました。

◆父の所属は原子炉化学部という部署でしたが、どんな研究をしていたかはさっぱりわかりません。ただ労働組合の委員長として張り切っていた事は確かです。自宅で夜明けまで執行委員会を開いていたようです。父は安全を担保しないで原子力政策が進行してしまうことに非常に危機感を抱いていました。せめて組合がしっかりしないと、原子力政策に歯止めをかける事が出来ないと考えていたのでしょう。

◆1972年から1985年まで、父は日本学術会議の会員を務めました。3期か4期だった、と思います。少しでも発言の場を広げなければならないと思わせる情勢があったからでしょうか。地平線で森田さんが触れられたように、学術会議の勧告・声明は権威のあるものでした。

◆父は原子力平和問題特別委員会の幹事として東奔西走の日々でした。この頃、父が研究所から処分を受ける事件が起こりました。学術会議は学者の国会と呼ばれており、会期には当然出席が求められる訳ですが、ヒラの研究員である父が(父の肩書は「副主任研究員」)職場を空けて、学術会議の総会に行く事はまかりなりませんと研究所が言い出したのです。当時原子力研究所を管轄していた科学技術庁と、学術会議を主幹していた総理府の喧嘩になったらしい。

◆これは新聞記事にもなりました。この一件を収めたのは、科学技術庁長官だった宇野宗佑氏(その後指3本で失脚)だったと父から聞いた記憶があります。「学問思想の自由委員会」という格調高い名前の委員会にも父は所属しており、そこで奇しくも自分の事を論議して頂いたそうです。「恥ずかしかった」と言っておりました。

◆学術会議といえば、父のような煙たい人物が多数おられたからでしょうか、いつからか「今回の旅費・宿泊費は都合により支給されません」という公文書が届くようになりました。母が怒ったのは言うまでもありませんが、見るも無残な我が家の財政状況が続く事となりました。そこまでしてでも父を骨抜きにしたかったのでしょうか。今からでもお金払ってちょうだいと言いたい!

◆父はあの世に行ってしまいましたが、当時の学術会議の関係者もたぶんあの世の方でしょう。証拠は何も残っていないのです。ただ、お金の恨みだけはしっかり家族が引き継いでいますよ。

◆父が定年になるまで、毎年のように海外転勤の話がしつこくしつこくあったそうです。これは母から聞いた事ですが、父を遠心分離器にかけて出来るだけ遠くに飛ばそうという企みだったのでしょう。もし父が留学などしたら定年になっても日本に帰ってこられなかったかもしれません。

◆父や労働組合の人たちの身元調査が密かに行われたり、父に届く手紙を勝手に開封しようとしたり、この様な話はもっともっとあったのだと思います。呆れた話ですが、ある時父が研究所の将棋大会で(うっかり)優勝してしまったのです。その後いくら父が督促しても賞状が届かなかったようです。このような体質の中で原子力の研究・開発が進められ、ついにパンドラの箱を空けてしまったのが福島の事故だと、私は慟哭しました。親戚には「敦チャンの言うとおり、起こるべくして起こったね」といわれました。

◆父がいたら確認したかったことがあります。原研ではどんな研究をしていたの? 基礎研究とはいえ(結果として)お先棒をかついだ事はなかったの?もしそのような事があったとしたら、わたしはB級戦犯の家族ですか? 福島は未だ燃料棒剥きだしのままです、一日も早く英知を結集して建屋に覆いを! お願いだから今しばらく地震よ起こらないでと祈るばかりです。

◆父は晩年、血液の病を患いました。高齢のため発症したのか、それともどこかで放射線を暴露したのかは今となってはわかりませんが、因縁めいたものを感じ、切なくなります。父は二度ほどチェルノブイリを訪れ、途上ミンスクの小児病院も訪問しましたので自分の病の事はよく分かっていたと思います。母の介護のため、通院に付き添ってあげられなかった事が悔やまれます(母は昨年亡くなりました)。父の事もあり、血液内科の医者の養成を急ぐよう、造血幹細胞の保存を国の責任で今すぐ始めるようお願いしたい。この事は待ったなしですよ。

◆先月の地平線通信で伊藤幸司さんが原稿書いて、という江本さんの頼みに思わずはい、と言ってしまった、というくだり、共感しています。私も思わず「はい」と言っていました。江本さん、迫力です。身内の事を書くのは躊躇されましたが、科学者としてぶれる事なく父は生きてきたと思いたいし、またささやかに家族も其のことに協力してきたと思いたいのです。(中嶋敦子

地平線は忘れない

■三連休の初日、久々に報告会に出かけた。社会の裏側のロジックを教えてくれる森田靖郎さんが、ドイツの森で人生観が変わったというのだから、これは何としてでも聞きたい!とワクワクしながら席についた。

◆ヨーロッパはチェルノブイリで被害を被っているので、その頃から脱原発という土台があったのだろうけれども、それにしてもなぜドイツという国は脱原発できたのだろう? メルケル首相の「科学技術や利益よりも倫理が優先するのです」という言葉に国民が賛同し、脱原発をはたしたドイツ。「倫理」って何だ? 学校でしか聞いたことないぞ。と、森田さんは思ったそうだ。

◆ドイツ人に「森へ行け」といわれて、とにかくとにかく、森へ森へ。深い森の中で「森と森の中の生物を守るルール=倫理」なのではないかと感じたのだそうだ。私はドイツといえば、哲学者の国。「倫理」などという言葉さえ、身近なものなのだわ!とぼーっと考えていたけれども、感心している場合ではない。これは、ものすごく基本的で普遍的であるべきことなんじゃないか!と目が覚めた。

◆報告会の最後に江本さんが言った。「来月の報告会は被災地のこと。またか……と思うかもしれないけれど、いつまででも、何度でもやりたいんだよね」うわっ〜!と思った。廃校になってしまった南の島の小学校、二十世紀の初めに秘境チベットに向かった冒険家やサハラ砂漠に行ったきりの若者、そして東日本大震災の被災者…。

◆その時々では大事なことだったはずなのに、メディアが取り上げなくなった途端、押し寄せてくる新たな情報に上書きされてしまう。でも、人々の記憶から消されそうになっても、地平線は忘れない。

◆1979年にスタートした地平線会議はことし8月に400回を迎えた。延べ400組もの報告者が、そして参加者が励まされてきた。地平線は忘れない。そのことが人に希望と一歩踏み出す勇気を与えてくれる。関わった延べ人数を想像すると頭がクラクラするが「おいでよ。良い話だよ。」と気さくに声をかけてくれる江本さんの声に誘われて、地平線ワールドに足を踏み入れた人も少なくないだろう。

◆そして、報告会に参加したら、地平線話法の虜に……。傍観者的な東話法とは対極にある地平線話法。それによって聞く者は他者の想いを自分と重ねて考えることができるのかも知れない。今回も「迷いましたが……」と、原子力関連のお仕事をされていたお父様のことを話してくれた参加者がいた。ありがとう。と心の中でつぶやいた。

◆休憩時間には故原健次さんの奥さまが焼いてくれた何種類ものケーキが振る舞われ、プロ並みの美味しいケーキに舌鼓をうった。今日そこにいない人も参加している地平線。地平線は忘れない。報告とケーキを堪能して「うっしっし!」とスキップしながら帰路についた。雨があがって冬空に月が綺麗な夜だった。(田中明美


[通信費をありがとうございました]

■地平線通信402号で報告した以後、通信費(年2000円です)をお支払い頂いた方は、以下の通りです。中には、数年分まとめて、あるいはカンパの気持ちをこめて、振り込んでくれた方もいます。ありがとうございました。通信費は地平線報告会の会場で受け付けているほか、この通信の最終ページに表示している郵便振替でお願いします。
★寄付金
深瀬清治(10000円「白内障の手術の成功とお世話になっている地平線会議」の発展を祈り)
★通信費
飯野昭司(10000円「通信費5年分です」)/山本美穂子 /長塚進吉/三上喜生/剣持愛子/長野昭一郎 /北村操(5000円「2年分+カンパ」)/掛須美奈子(5000円「2年分+カンパ)/


勉強やスポーツ出来たって、友達がいたって、本人が生きづらさを感じているならなんとかしてやりたい━━1500日をドップリ子どもたちに付き合うぞ、宣言

■こんにちは青木明美です。すっかりご無沙汰している間に息子が小学校2年生になり娘が保育園の年長になった。私は子供を産み育てるというミッションにトライしたくて、コウノトリを待ちきれず半ば無理やりに……今流に言えばTGP(Trying to Get Pregnant 妊娠しようと頑張ってる事……不妊治療)で神様の所へ自分で子供達を迎えに行っちゃったおしかけ母さんなのは通信にも書いた。子育てのゴールは子供の自立。とりあえず息子が中学生になるまでの残り1500日(中学生で自立するわけはないが)を目標に……地平線とは、しばらく決別し(笑)……ドップリと私なりに子供達と付き合おうと思っている。

◆そんなわけでミッション完遂のため、子育て&仕事に励んでいたが……昨年、息子が小学生になり初めての個人面談で担任から「落ち着きがありません。今後ひどくなるようならカウンセリングを受けて頂くなどあるかも知れません。」と言われた。

◆時を同じくして公文の先生からもスイミングのコーチからも同じような事を言われた。実はそれまでも漠然とした育てづらさを感じてはいた。初めての子供なので子育てってこんなものかなと自分を納得させていた。二つ下の娘にはそういう感じがなかったので、単なる男女差かなと思うようにしていた私は、この時、直感的に息子には「何かある」と思った。

◆私が感じた育てづらさを具体的に2、3挙げると「保育園までの送迎ルートにこだわりがあり信号の関係などで手前を曲がったりすると大泣き大騒ぎ……」「1日のスケジュールが大まかに本人の中で決まっていて予定変更すると大泣き大騒ぎ」「同じものを飽きる(約3か月)までは朝晩食べ続ける。それも同じメーカーの同じものじゃないとダメ」

◆衣食住、生活全般にこだわりがあり、ルーティーン好きだった。風呂がまだ湧いてないから先にご飯食べちゃおうみたい事になると泣きわめいてパニックになるので、その都度「バッカじゃないの」とイライラしていた。お気に入りのふりかけを買い忘れて他のふりかけを出すと、ふてくされて「ご飯食べない!」とか言い出すので、そのたびにご飯を食べられない子も世界には沢山いるのに……食わなくて結構だ!とバトルになった。

◆息子自身も感情をコントロール出来ずにいることを持て余している感じがあってパニックがおさまるとへこんでいた。夫には怒りすぎの私が悪いと言われ、息子に何かあるとは微塵も思わず、私が親として人間として未熟なんだと思っていた。

◆市の療育センターに相談に行って診察と検査を受けた。ことここに至って夫に検査を受けた事を報告。あたりまえのことだけど子供って外見同様、内面的にも親によく似ている所(遺伝)があって、夫には息子が何かあると言う事は受け入れがたかった。

◆勉強もできるし、スポーツもできる、友達もたくさんいる……何か問題があるものか、勝手に病気に仕立て上げないでくれと責められた。検査結果は一緒に聞きに行ってくれたけど、医師から息子の発達の凸凹についての説明にも終始喧嘩ごしで全く認めようとせず「そんな人ってよくいますよね。私も似たようなとこあるけど、普通に生きてこられたし、勤務先にも、もっとひどい人が、ちゃんと会社員できているし……」医師の一言一言にかぶせるように反論している夫の姿は哀れだった。

◆たとえば癌になって同じ癌の人が100人いるから安心なのか?……私は息子と同じような人が世の中に○○万人いるから大丈夫だというロジックは違うと思った。勉強やスポーツ出来たって、友達がいたって、本人が生きづらさを感じているならなんとかしてやりたいと思った。不機嫌な夫を連れて、これから息子が受けるOT(作業療法)ルームに移動した。

◆チューブトンネルや平均台、ラダー、ボールプール、トランポリン、はしご状の登り棒やバナナボートみたいなブランコがぐるっと置いてあってサーキットのように周回して訓練するようになっていた。息子が取り組んでいる姿を見て「コーディネーション(体幹)トレーニング」をしているというのがわかった。

◆それと座学のビジョントレーニング(眼球の運動)などを組み合わせたトレーニングを半年とりあえずやることになった。心理や発達について全くの素人だったので、フィジカルから働きかけるというのは、ものすごく意外だった。療育と聞いて何かつらいことを強いられると思い込んでいた夫は体操教室のようなOTを見て安堵したようだった。結局は半年で療育卒業となったが、専門家の意見を聴けて、息子の個性を発達という観点から知ることが出来ただけでも療育に行った甲斐があった。

◆息子もどんどん成長しているので、こだわりも少しづつ自分で折り合いをつけられたりできるようになっているし、親の方も対応の仕方がわかっているのは随分と助かっている。相変わらず食べ物には保守的だし、生活にこだわりもあるけれど。最近はサッカーに打ち込んでいて、おにぎりと水筒を持たせて送り出し、ドロドロのユニフォームを洗濯するサッカーかあちゃんをやらせてもらっている。地平線に顔出せなくても忘れないでね〜心はいつも地平線!(青木明美

玉城のおじいの事━━外間家・朝コーヒーの素晴らしき先達」

■ある朝、沖縄県うるま市浜比嘉島に住む外間晴美さんからメール。件名は「おじいが……」だった。社会の一線を退いた老人を、沖縄では敬意と愛情を込めて一般的に「おじい」と呼ぶ。おじいは地域共同体の潤滑油のような役割を自然に担っている。浜比嘉にも個性的な「おじい」がたくさんいるが、メール件名の「おじい」は、「玉城(たましろ)のおじい」と言って、外間家に取って特別なおじいだ。

◆外間家の庭にはテーブルと椅子があり、お客さんは誰でも自由にこのテーブルで居心地の良い時間を過ごす。応接間であり、サロンでもある、本土で言えば昔の農家の縁側のような場所だ。玉城のおじいは毎朝このテーブルにやって来た。朝9時から10時頃、ひょっと現れては、昇さん(晴美さんの旦那)がいれる珈琲を飲んでポツポツと話す。

◆ニュース番組が大好きなおじいの話題は、たいていはその日の政治や社会のニュース。忙しい外間家の二人よりも時事的な話題に明るかった。そして僕のような居候がいれば、気を遣って興味深い昔話などもしてくれる。

◆若い頃アルゼンチンに移民して、洗濯業で身を立てていたおじいは、引退後に故郷の島に帰って来た。彼の国で見た映画の話や、アルゼンチンの大統領夫人だったエビータの話、スペイン語の言い回しなど、内地の人間にも分かるように言葉を選んで話してくれた。と言っても方言や沖縄なまりのスペイン語が混じって分からない事も多かったが。

◆耳が遠いので、こちらの質問に見当違いの返事をくれるのも楽しかった。一度おじいの若い頃の写真を見たことがある。異国の地で恰幅の良い体に真っ白のスーツをつけ、胸を張った姿は格好良く、プライドと希望に満ちた当時のモダンボーイがそこにいた。それから幾星霜。浜比嘉で会うおじいは真っ白いひげを蓄え、分厚いメガネを掛けていたけど、レンズの向こうにはいたずらっ子のような目が笑っていた。

◆僕がしょっちゅう外間家に行くので、そのうち僕の顔を覚えてくれたが、名前は知らなかったと思う。僕も「玉城のおじい」としか知らない。晴美さんのメールはそのおじいの訃報を知らせる短い文章だった。94歳とは思えない程の健康的なおじいだったから、病床に伏せる事も無く、大樹が朽ちて倒れるように眠りについたのだろう。もう会えないのは寂しいけど、生まれ島の大地に抱かれて眠るおじいに感謝して合掌。(長野亮之介

     ★     ★     ★

★以下、外間晴美さんが12月2日、フェイスブックに書いたもの、と江本あてに送ってくれた内容。

《「毎朝、かかさずうちにコーヒーを飲みに来てた、94歳の玉城のおじい。若いころアルゼンチンに渡り、ランドリー業を成功させ、老後は生まれ島で暮らそうと帰国し家を建てた。国会中継はかかさず見るおじい。政治の話や昔の島のこと、アルゼンチンでのこと、いろんな話を聞かせてくれた、ゆんたく好きのおじい。毎日移動惣菜屋で唐揚げやバナナをうちの分まで買って持ってきた優しいおじい。耳は遠いけど94歳になってもばりばり元気だったおじい。この間ちょっと息苦しいと言って入院したら、5日もたたずに、「危篤」……うそでしょ? そしてきのう、お葬式になった。まだ私も昇も信じられなくて、涙も出ない。「のーぼるー、はるみ〜、おはよーございますー」って、今朝もコーヒー飲みに来るんじゃないかって、いつもと同じように、昇は少し余分にコーヒーを入れて待っている」(外間晴美

ついに大隅半島へ! 甲冑旅人べっちの城めぐり歩き旅最新ニュース

■江本さん、こんにちは。山辺です。大阪城を出陣して7か月。歩き続けて、城を落とし続けて、鹿児島県の大隅半島まで来ました。やっと薩摩。島津領です。島津はよくこんな遠くから、関ヶ原に出陣したなと思います。道中いろいろありましたが、宮崎、鹿児島の南九州は、他県とは別世界のように、人が優しく親切です。

◆歩いていると気軽に声をかけられますし、差し入れも数多くいただきました。さらに、甲冑姿で城に行くと、職員の方に大歓迎を受け、静かな城下町が沸きます。道の駅や、テントを張れる場所も多く、旅しやすいです。その反面、道は荒れ、アップダウンが多く険しいので、ペースが上がらず疲労が蓄積されます。

◆夏の台風の影響で道が崩れ、迂回、山越え。迂回、山越えの連続。週に2日は雨が降り、最近は寒さも増し、だんだん厳しくなってきました。ここまで歩いて思ったのは、人はドコにも住んでいる、ということ。山奥や谷底、崖の上にも家が立ち、斜面すら棚田を作り、立派な家が建ち並んでいます。

◆ここに住んでる人が、進学や就職で上京すると、そらビックリだわ!と納得しました。これから佐多岬や桜島、霧島をめぐり、冬は沖縄で越そうと思います。まだまだ先は長いですが、ケガしないよう、ガンバります!(山辺剣


[先月の発送請負人]

 地平線通信403号(2012年11月号)は、総計18ページになりました。いつもながら、レイアウト、印刷の森井さん、ありがとうございました。それから印刷で頑張ってくれた車谷君もありがとう。駆けつけてくれた方々は以下の皆さんでした。ご苦労様でした。
森井祐介 車谷建太 満州 関根皓博 村田忠彦 石原(米満改姓)玲 埜口保男 江本嘉伸 杉山貴章


木のおもちゃ作家+エアフォトグラファー・近況報告

<その1>
徒歩10歩の通勤環境で激しく「残業」する

■この秋、何年かぶりに「残業」をするほど、時間に追われる日々を過ごしました。通勤が徒歩10歩という環境では正確には残業とは言わないのかも知れません。夕方一旦仕事を切り上げて自宅へ戻り、ムスメが寝てから再びアトリエへ。普通なら朝も起きられないほどぐったり疲れる日々なのですが、カレンダーには納期までの日々にその日にやるべき作業がぎっしりと書き込まれ、遅れは許されまじ。

◆アドレナリンが出まくっていたらしく、朝もシャキーンと起きてまたもアトリエへ。今までにもこんなグロッキーな制作な日々を過ごした事はありましたが、そんな時はもうイヤでイヤで、テスト期間の最終日を待ち望む中学生の様な心境で制作にあたっているのが常です。しかし今回、アドレナリンを感じるぐらいやる気で制作に臨めたのは、ただ単に「楽しかったから」なんだと思います。基本中の基本、楽しかったと言える仕事に携わる事ができたのは幸せなことです。

◆ところで何がと申しますと、今までで一番巨大な制作物に取り組んでおりました。11月にグランドオープンした阪急うめだ本店のキッズフロアにあるプレイスペースを作っていました。プレイスペースとは、子どもを野放しにして遊ばせる空間の事です。この空間の柱や壁を利用して遊べる仕掛けをデザインしたところ、採用され、仲の良いおもちゃ作家仲間4人で制作することになりました。構想から納品までたったの6か月! 実際の制作期間はきっと2〜3週間ぐらい! 4人だから何とかなったというような、最後は他力本願な日々でした。

◆というのも、実は来年3月に第二子出産予定で、徐々に出つつある太っ腹を抱えての制作でした。もう自分で作った物さえ運べない。他の3人が男性だったからこそ(私は)乗り切れたようなもんです。この場は全然関係ないけど、本当にありがとうと言いたいです。そして頑張ったよねと。

◆施工前日は我がアトリエで、合宿と銘打って泊まりがけで深夜まで最終調整に励みました。たまに仲間とやる仕事は学ぶべき物があれこれと見つけられるし、マイナー情報の交換なんかもできるし、こっそり技術を盗む事もできて、かなり楽しいと言えました。おそらく、チラッと見に来たたごっちには意味不明な話題満載だったことと思います。

◆今年の始めの方にも書いた気がしますが、今回も「現場」ではシコタマやられてきました。勇んで乗り込んだ施工当日は、思いもよらぬハプニングでほとんど何も出来ずに出直すハメに。その日は皆で達成感に酔いしれるはずたっだのですが、えも言われぬ敗北感に打ちひしがれました。

◆2日後に出直しましたが(しかもこの日は2人のみ)、現場では時間があっという間に過ぎ、太っ腹を言い訳にしたくはないけど、やはり集中力や体力が続かず、たくさんフォローをうけながら、よれよれになって完成までたどり着きました。遅い夕飯にありついたときの、ノンアルコールビールでの乾杯は言葉無し! 駐車場での別れ際はがっちり握手して、良い仕事したよなっ!!とお互い大変満足して帰途につきました。なんともなんとも、気持ちの良い大仕事でした。めでたしめでたし。(多胡歩未

<その2>
読書の秋 角幡唯介、街道憲久さんの本を一気読みする

■ベイカーレイク……通信に出てきた単語だが、しばらくその場所がどこだか分からないまま読み進めた。そしてその場所は2001年に先輩と共にカヌーで旅したツンドラを流れるセロン川(カナダ)のゴール地点だったことに気づき、唖然とした。現在、北の大地の活動は封印しているつもりが、本人意識とは別に、当地はもはやスイッチの入らない頭になってしまったのか。いずれにせよ、かなりショックだった。どうしてくれるこの始末。

◆通信寄稿者角幡唯介くんの著書を立て続けに2冊購入し夫婦で読んだ。新著の「アグルーカの行方」と「空白の五マイル」。共に一気読み。前書の方が土地勘があり、好感が持てた。フランクリンの探検を「北極の自然に囚われていた」と氏の旅を通じ言い切るところに、同じく北の自然に魅せられる一人として射貫かれた感を受けた。

◆後書においては、空白の五マイルへの旅を「どうせいつかはやらなければならないことなのだ」と決着をつけに行く段は快活で「覚悟の問題だ」と自分の滞っている北の活動と照らし合わせ思わず頷けた。そんな最中、街道憲久さんの「ひもじい北極圏」の報告会が重なり、またもや北極話。俺はどこをほっつき飛んでるんだ、と最高潮に気分はかき乱され、街道さん著「北極圏の居候」も購入し読んだ。

◆本は当時を語り、報告会は現在を知らせてくれた。活動を続けることで見えてくる世界が確実にある、そのことを感じさせてくれた。久しぶりに僕の机の上に北極圏の地図が広げられた。そして思った。やるかやらないかだけの問題だなと。

娘の天俐(三歳)はめざとく地図を見つけると「これなぁーに」が始まった。「父ちゃんの大事」と言い聞かせると「これ、父ちゃんの大事やからな、触ったらあかんで」と縫いぐるみのワンワンに言い聞かせている。確かに凄く大事な地図に違いないが、繰り返し言われると「父ちゃんの大事」だけが耳に残り、意味合いが核心を突いているようで、三歳にしては侮れない奴に思えた。三月にはもう一人増える予定だ。さぁてさて、どうする、どう飛ぼうか。読書の秋であり思案の秋だった。(多胡光純

P.S 放送案内です。1月12日(土)19時〜(2時間)。BS朝日にてマダガスカルの番組をやります。旅した大地を空から望む。今までは日本の紅葉や桜が対象でしたが旅先が世界になりました。2時間出ずっぱです、お手すきでしたらどうぞ。

気になる福島 海沿いも山沿いも

■太平洋岸を自転車で巡る旅をしている。宮城の石巻から南へ、福島のいわきまでを走ったのは2009年8月のこと。道を間違えて福島第一原発の敷地内に入ってしまい、あわてて退散したのが、いまでは何年も前のことのように思える。

◆あのとき訪れた海岸や海辺の暮らしが震災後どうなったのか、どうしても人ごとに思えず、7月に南相馬市で行われた報告会のおりも、海岸沿いばかりを気にしていた。8月には楢葉町も警戒区域が解除されると渡辺哲さんからその時聞いていたのに、あれから時間がなくて、ようやく11月に入ってから訪ねることができた。

◆またMTBで再訪したかったが残念ながら雨。2009年に南下した県道391を逆に北上して福島第二原発(F2)へ。途中の丘の上からF2が見えて来た。そのあいだの小さな谷は津波にやられたまま、哀れな家屋が解体されずにそのままになっている。田畑も草ぼうぼう。F2に隣接するこの波倉には放射性廃棄物の中間貯蔵施設の立地が検討されている。4年前には美しい農家が点在する里だったのたが。

◆谷間では刈った草を例の黒いビニール袋にまとめる除染作業が行われていた。F2へはひっきりなしにバンが出入りしていた。入口で引き返して県道391を南下する。井出川の小さな谷におりていくと、川の中にガードレールが光っていた。もしやと思ったが、橋が落ちて流されているのだった。橋のたもとに小さなカフェがあったのだか、津波にやられて跡形もない。

◆海辺に行くと子供のサンダルが流れ着いていた。海は怖い。3年前と比べると河口近くの川の堰堤が見えなくなっている。地盤が下がったからだろうか。山だけは以前と変わらない。昨年11月に賀曽利隆さん、渡辺哲さんの案内でいわきを訪ねたときにはほとんど無人だった広野に人が戻って来ているのが嬉しかった。セブンイレブンも再開していた。楢葉にもいずれ人が戻るのだろう。

◆雪が降る前に、と11月下旬にはもうひとつの福島、会津をMTBで走った。会津高原駅から峠を越えると、舘岩川から始まるいくつもの川沿いに日本海まで下ることができる。こんなラクチンなサイクリングルートはない。伊南に住む酒井富美さんに急に電話して行ったら、同僚の実家だという只見の旅館を紹介してくれた。途中、富美さんと久々に再会。晴天一下、清々しい伊南川に沿って只見に着いたのはちょうど日が暮れた後だった。

◆翌朝は打って変わって雨で、それでもときどき雨宿りしながらペダルを漕ぐ。福島は昨年、3月の震災だけではなく、7月にも新潟福島豪雨に襲われている。ここも昨年の「被災地」なのだ。伊南川沿いでは崩れた斜面の復旧工事があちこちで行われていたが、伊南川下流から只見川にかけては増水で流された橋の通行止めが目立つ。

◆JR只見線はこの10月にようやく新潟側と只見駅のあいだが復旧したばかり。いまから列車に乗れば、きょうの報告会に間に合うなと誘惑にかられるが、それを振り切りまた雨の中を走り出す。南相馬の上條大輔さんからは、そのまま南相馬までおいで、と誘われるが、さすがに遠い。

◆豪雨で土砂災害が起きた集落で、町長選候補者が国道に選挙カーを停めて演説していた。電源開発から災害復旧のための交付金をいくら出させたとか、そんな自慢話を家々から傘を差して出て来た人たちが聴いている。

◆政治家頼り、交付金頼り、電力会社頼りは、浜通りだけでなく福島の西端にもあったのだ。現職と新人の一騎打ちになったこの町長選、前回の投票率が93.88%というので驚いたが、後で聞けば今回も大接戦、25票差で現職が逃げ切った。

◆工事しているのは道路だけでなかった。金山町に入り長い長いロックシェッドの途中にある滝ダムは、豪雨で流れ込んだ土砂で発電所が故障して、まだ運転再開できていないという。狭い谷間の川べりを運転休止中の線路と国道が並走する。たった1年ちょっとなのに、列車が走らない線路は草ぼうぼうで自然に還りつつあるように見える。

◆本名ダムの上からは豪雨時のダムの放水で流されてしまった只見線の鉄橋が見えた。豪雨の前に各ダムの水位をあらかじめ減らしておけば、国道にも線路にもこれほどの被害は出なかった、これは人災だとの意見も地元にはあるようだ。補助金、交付金頼みの山村を抱えるのは何も福島だけではないし、天災は全国一律にやってくる。

◆高度成長の頃に無理に建設して保全してきたダムや林道をこのまま維持するのか、乗客の少ない列車を走らせておくことができるのか、人口減時代の日本の私たちには、災害からの復旧、復興を唱える前に、そうしたことを判断する覚悟が求められているような気がする。そのとき捨てねばならないかもしれない郷愁を、私はせめて胸に仕舞っておきたいと思う。(落合大祐

淡々と話す森田さんの話をメモする方が多かったことが印象的でした。地平線会議は人が出入りしながら月いち報告会を欠かさず長く続けている珍しい集まりだなあ

■おはようございます。こちらは11月半ばの初雪以降、雨が降っても雪は消えず、今年は珍しくこのまま根雪になりそうな勢いです。日曜日の今日は天気も良くて、鉢植えの室内取り込み、およそひと冬分の野菜買い出しなど、冬仕度が進んだ一日でした。

◆先日は久しぶりに報告会へおじゃましました。1時間ほど遅れて会場に入ったとき、淡々と話す森田さんの話をメモする方が多かったことが印象的でした。席に着くとすぐ話に引き込まれ、私もメモ帳を取り出すことに……。質疑応答も含め内容が濃く、いろいろと刺激を受けました。

◆日常的な自分の思考の範囲が偏っていることを認識し、「政権が代わっても変わらない国民の総意」にも考えさせられました。飛行機の都合とはいえ前半部分を聞きそびれたのはもったいなかったです(北京の2次会ではテーブルに同席させてもらったので、食べるのも聞くのも充実でした)。

◆休憩時間には、お腹がすいたなあと思ったところにケーキがふるまわれ、大喜びしてしまいました♪ 原典子さんのハンドメイドとのこと。種類も豊富でどれもおいしかったです。ごちそうさまでした! また、江本さんには私たちの結婚を紹介して頂き、ありがとうございました。照れてしまってまともに挨拶できず失礼しました。

◆地平線会議は人が出入りしながら月いち報告会を欠かさず長く続けている珍しい集まりだなあと思っていますが、ここがなければ、そしてかつて「市大探検40年の歩み」の宣伝及び販売という不純な動機をもって植村直己冒険館に出かけて行かなければ、パートナーと出会うこともなかったでしょうから、私にとってはうふふな場ですね(今回、まさかの20年ぶりの再会もありました)。

◆また機会を見つけて報告会に行きたいと思います。これからもよろしくお願いします。(掛須(久島)美奈子@北海道千歳市)

冒険野郎、南海の楽園・パラオでダウン
━━アフリカ睡眠病とびっくりクラゲの話

■自転車野郎の安東です。ツエツエ蝿って地平線のみなさんならご存知ですね。刺されると眠ってしまってお亡くなりになるというあれです。アフリカの風土病でこれまでぼくは刺される機会が多々ありました。アフリカでもどこにでもいるわけではないけど、キリマンジャロ近くのタランギレ国立公園にサファリにいくと、こやつに毎回刺される。

◆手首にチクっと感じて目をやった時はもう手遅れ。だけどたいして気にしない。これまでの冒険人生、いろいろあっても生きのびてきた。蝿ごときにやられるはずがなかろうと。チベットで野犬に2回噛まれた時も、狂犬病なんて気にしなかった。ぼくは普段からすべてを鍛えてある。胃袋だって家で賞味期限切れがあればぼくが処分するし、そのほうがコクがあってよい。ウィルスなんてへっちゃらさ。

◆けれど今回は一週間経っても蝿に刺された箇所が膨れている。こんなことは初めてだ。気になってネットで調べると、睡眠病は致死率が高く年間4万人が死亡し、原因はトリパノソーマという寄生虫らしい。ウィルスは強靭な体で撃退できる。しかし寄生虫は健康な体ほど住みやすいのだ。

◆ぼくのお腹の中には他にもいろんな虫がいるかもしれない。世界中でゲテモノを食べてきたからね。仲良くそいつらが共存してくれればいいが、こいつはそうでないらしい。なんだか手首の腫れの下で虫がうごめく気がした。そういえば心持ち、なんだか眠くなってきたような‥。一抹の不安を感じ成田空港の検疫に電話して尋ね、国立国際医療研究センターを紹介してもらう。新宿スポーツセンターの近くだ。

◆お医者さんは戸惑っていた。左手首の腫れを出し、ここにトリパノソーマ原虫がいるんだ、と主張するぼく。問診を終えても策がないという風だ。血液検査したらどうです? と提案すると、その手があったかと言わんばかりに採血する。そして血液成分結果で「異常はありません。日本で発症した例はないから大丈夫です」なのだった。それだけ? 顕微鏡で血中の原虫を探さないの? どうやら日本に睡眠病を診察できる医者はいないようだ。ぼくは診察代1万円を悔やみ、もう悪あがきはやめることにした。そうだ、蝿ごときでぼくが死ぬはずないじゃないか。

◆次の南米の仕事まで時間があったぼくは、気を取り直して翌日のパラオ行き航空券を予約した。パラオ? 自分で決めておいてなんだが、パラオがどこにあるかわからなかった。貯まったマイレージでゲットできる無料航空券で、空席があったのがそこだったからだ。自転車で成田空港まで走り、分解し輪行し飛行機に乗り込む。なあに自転車さえあればどうにでもなる。なんだかミステリープレーンみたいでわくわくした。睡眠病のことは完全に脳裏から消えていた。

◆幼稚園時にサイクリングを始めて以来、最大の危機だった。痺れた体が動かせない。地べたに這いつくばった体勢で30分は経っただろうか。これまでシベリアで零下52度の中を走り、酸素が半分の標高5千mのヒマラヤの峠を幾つも越えてきた。なのにこんなリゾートで危機に瀕していた!

◆パラオ島一周100kmの気軽なサイクリングのはずだった。だけど南の島はとにかく暑く、水分をいくら取ってもたりない。飲み物くらい途中で買えると思ってたら、幹線道路沿いに集落がない。パラオの最高峰(海抜242m!)に登ってたらますます水分が体内からなくなり、村を探して幹線道路を外れてみた。

◆しかし行けども行けども何もなく車も走ってない。このまま先に行くのはヤバイ。引き返すことにし、半分ヤケになってペダルをこいだ。そして全身が痺れ始め、長い坂の途中で力尽きた。これはサイクリストやランナーが陥りやすいハンガーノックだ。

◆長い瀕死の状態から徐々に体が動き始めなんとか立ち上がった。水分をなんとかせねば。その時ようやく車がきた。セルフレスキューが基本の安東が初めて人に助けを請うた。トラックの運転手は水をくれ、街まで乗っけてくれた。完敗である。パラオ一周に失敗し、冒険家がリゾートに負けたのである。

◆やはりパラオは海がよい。安東は業務でも南の海によく行き、今年もニューギニア島やボルネオ島に行った。それらに比べてもパラオの海は断然きれいだ。シュノーケリングでサメを見たのは初めてだし、ウミガメもいた。内陸池での何百匹もの淡水クラゲとの遊泳は、宇宙みたいで感動だった。これは安東の今年いちおしの大自然の驚異だ。

◆今年もいろいろ出かけた。万里の長城を越え内モンゴルを走り、シベリア鉄道とバイカル湖のツアーを企画し、マチュピチュに気分はインディジョーンズ、マゼラン海峡を越えフエゴ島にパタゴンを探し、ナスカ地上絵もなかなかで、サハラ砂漠を2回訪れ、アフリカ大陸には計4回、チベット文化圏は6回訪れる。そんな中でパラオのクラゲが最高だった。この島は面白い。カヤックで島々を巡れば冒険になるだろう。

◆地平線仲間にありがちな職業だが、安東は登山ガイド兼添乗員のお仕事で、1年の半分は業務で辺境へ、残りの半分の半分を自分の旅にでる。収入も世間の半分だが、しょっちゅう海外に出られる。立ち止まってはならない冒険家に休息の時はないので最適だ。次はどんな世界が、どんな舞台が待っているであろう? 来年は南極に行くぞ!

◆余談だけど12月27日のテレビ朝日「いきなり黄金伝説」サバイバル特集に多分安東が出てます。まだ収録前でどんな番組かわからないけど、その放送日には安東はタンザニアでキリマンジャロの案内中。そして登山後はやっぱりタランギレ国立公園による。ツエツエ蝿よ、待っていろよ。キンチョールで復讐だ!(荒野のサイクリスト 安東浩正

何かが変わるが、「変わらない」ものもある。むしろ後者から何かを学べるのではないのか
━━街道憲久さんのレポートを読んで━━

■先々月の報告者、街道さんの報告会レポートを興味深く拝読した。変わりゆく極北の生活。おそらくは、住民だけではなく、人生の一部をそこに傾けていた外部の人間もまた複雑な思いを抱くのだろう。

◆私の場合は赤道直下だ。マレーシア・ボルネオ島サラワク州の熱帯林に、1989年からかれこれ23年関わっているが、ここも急激な変化にさらされている。

◆今年の春、サラワクの先住民2人が横浜の我が家に泊まった。1989年6月、当時のサラワクは、主に日本への丸太輸出のための過剰伐採が進んでいた。森に暮らす先住民がどう闘っているのかを知りたかった。当時、闘う人々は政府に弾圧されていた。

◆サラワクでは、森林伐採に抵抗する先住民は投獄や自宅軟禁されていたが、私は、サラワク州のNPO事務局長で、先住民の若きリーダーのハリソンに会いたかった。同年齢の30歳だった。だが、いつまでたっても自宅軟禁は解けず、私は「ええい、いいや。とにかく行こう」とサラワクへの飛行機に乗った。ところが、機内で配布された新聞にびっくりする。「ハリソン、本日、自宅軟禁を解かれる」。

◆その日、ハリソンがいるNPO事務所は、釈放祝いや早速の相談で廊下まで先住民で溢れかえっていた。今日は会えないかな…と、ぼんやりしていたら、「どうしたんだ」と声をかけてくれたのが、今春我が家に泊まった一人のジョクだった。当時30代後半。来訪の目的を話すと、ジョクは「じゃ、私の村に来い」と誘ってくれた。実際、彼の村、クルアンは滞在してみて大当たりだった。

◆クルアンは、政府や木材会社という権威と繋がりがちな世襲村長制度に嫌気がさした有志たちがジャングルを開墾して作った集落だ。開墾したての、壁もドアもない長屋での雑魚寝生活は面白かった。そしてその年、ジョクたち住民は、サラワク初となる様々な先住民が集う一大集会を実現し、その一枚岩のパワーにも惚れ惚れとした。

◆私が惹かれたのは、一人暮らしの高齢者であれ、障害者であれ、当たり前にそこで生きていける社会だった。それは、サラワクのどこにいってもそうだった。だが、90年代前半、サラワクの「開発」は伐採から油ヤシ・プランテーションにシフトし始める。伐採ならば、森から太い木だけを採っていく。だが、プランテーションの場合、油ヤシだけを植えるために森を丸裸にする。森を「荒らす」開発から「消す」開発へと質が変わったのだ。

◆先住民は反対の声をさらに強め、道路封鎖や裁判闘争も盛んだ。だが2006年頃にパーム油(油ヤシの実から搾油する油)の国際価格が、それまでの2倍から3倍に高騰した頃から雲行きは変わる。まず、自分の土地の一部に油ヤシを植える村々が増えてきた。だが、私は、これはアリだと思う。企業に土地を収奪されてのプランテーション化ではなく、自給用の米や野菜は育て、土地の一部に換金作物を植えるのは、昔からやってきたことだからだ。

◆ところが、昨年のサラワク訪問で、一ヶ所だけだが、ぶったまげた村がある。村長が自身のもつ広大な森や土地の全てを、ブルドーザーなどでミニ・プランテーション化していたのだ。1ヶ月の稼ぎは日本円換算で94万円(!)。ちなみに、サラワクでは、1ヶ月3万円で十分暮らせる。先住民が先住民たるアイデンティティの一つである焼畑はもうやらないから、米や野菜はもうけた金で近くの市場から買ってくるという。この稼ぎに「オレも……」と続く先住民がいつ現れてもおかしくはない。

◆ただ、先住民が植える油ヤシの面積など微々たるもので、企業により、サラワクの下流域から中流域までのほとんどは油ヤシだけになってしまった。「バラ色の生活になる」との甘い言葉に騙されたり、袖の下をつかまされたりで、村長が開発合意書に署名した結果である。この20年間でサラワクの風景は一変した。

◆私の関心事は、これら土地を売った先住民が今どこで何をしているかだ。ただ一つだけ言えるのは、先住民は案外したたかであることだ。政府のダム開発で、新居留区に移住させられた住民たちがいる。そこは、焼畑も狩猟もできない狭い土地だった。だが、生活は変わらなかった。少し離れた地域の州有林で勝手に開墾や狩猟をするのだ。理由は簡単。「奥地に警察がいるわけじゃあるまいし」。一概に断言できないが、先住民を取り巻く環境は大きく変わっている。だが、先住民の多くは変わっていない。と私は思う。

◆89年、最初のクルアン訪問で、私を養子にした男性がいた。私たちは幾度も森での行動を共にした。その義父が3年前に亡くなった。その後に訪問したクルアンでは、義父の末娘が私を見るなり駆け寄ってきて「あなたの家はここよ」といつもの居候先へと荷物を運んでくれた。17歳だったこの末娘も今40歳。小学生だった女の子たちも、4、5人の子持ちとなり、チビだったガキたちも、一人の父親として、鉄砲とナタだけで森に出かける。

◆少なくともクルアンでは、企業によるプランテーション化を硬く拒否することから森が残っている。そして、誰もが一緒に生きる生活も残っている。大切な森を守ろうと尽力してきたジョクは60歳になった。彼が今回来日したのは、まだ続いている森林伐採の現状を日本政府や業界に訴えるためだ。

◆開発の嵐はやみそうにもない。だが、私が強調したいのは、「それでも変わらないものもある」ということだ。何かが変わるが、「変わらない」ものもある。むしろ後者から何かを学べるのではないのか。サラワク通いは続きそうだ。(樫田秀樹

最後まで遅れがちだった私を、いよいよゴールというとき、「女子先頭!」と言って前に出してくれた。岸壁で島のお母さんたちが手を振って出迎えてくれるのを見たら、涙があふれてきた

■第十次瀬戸内カヤック横断隊に参加し、香川県の豊島(てしま)から山口県の祝島(いわいしま)までを漕いだ。300km弱を1週間かけて。

◆瀬戸内カヤック横断隊は、1999年から行われている「シーカヤックアカデミー」の実践版として、2003年に海洋ジャーナリストの内田正洋さんの呼びかけにより始まったものだ。日本人は本州島人も含め、全員が島人だけれど、そう自覚している日本人は少ない。海を慈しみ、海に深く感謝する文化を育んできた民族としての価値観を取り戻す手段がシーカヤックである、と内田さんは言う。

◆海のカヤック文化は数千年にわたって、主に極北の海で培われてきたが、20世紀初頭に一旦消滅し、20世紀後半に再び復興し始めた。内田さんは、近代シーカヤックを日本に普及させようとしていて、そのフィールドとして瀬戸内海こそがふさわしいと考えている。

◆「そのフィールドでカヤックのガイドをしている者のうち、いったい何人が、東西400km以上に及ぶ瀬戸内海を通して漕いだことがあるのか」。そういう挑戦状を、瀬戸内海のガイドたちに送りつけた。それが、瀬戸内カヤック横断隊の始まりだった。

◆そして今回が10回目。内田さんが隊長を務める最後の年だった。今年の3月、第九次横断隊のゴールに合わせて祝島に行った。今年の前半にやった「冒険塾」の講師を内田さんにもお願いしていたから、その打ち合わせやら、その他協力を仰ぐことになりそうな方々に挨拶する目的だった。その時点で私自身のシーカヤックの経験は知床でガイドと漕いだ1回きりしかなく、横断隊自体は他人事だった。

◆ただ、反省会に同席させてもらいながら、隊の厳しさ、真剣さ、個性あふれる隊士たちのことが、強烈な印象として残った。冒険塾の内田さんのシーカヤック講座も無事終わり、私がシーカヤックにとどまる理由は一切なかったのに、なぜかシーカヤックに対する心の火が、細々と、メラメラと燃え続けていた。

◆月1回、東北に通う傍ら、月1回、シーカヤックを漕ぎに行くことをいつの間にか目標にしていた。そのうちに、「自分は横断隊に参加したいんだ」という気持ちがはっきりしてきて、いつしかその思いは抑えがたくなった。ただ、経験や技術の問題があった。

◆横断隊は、約300kmを1週間で漕ぎ切ることを目標とする。春にシーカヤックを始めた私が参加すれば、当然足を引っ張ることになるだろう。そういう人間が、自分の思いだけで果たして参加していいものかどうか。あるとき、3月に出会った隊士のひとりに「横断隊どうするの?」と聞かれ、正直な気持ちを話した。すると、「それなら問題ない」という答えが返ってきた。

◆横断隊の目的は祝島到達ではない。祝島に行くことは目標であって、横断隊の目的は別のところにある。横断隊はアカデミーであり、学びの場なのだから、ゴールにたどり着ける、着けないは問題ではない。来ればいいのだと。カヤックも貸してもらえることになった。それなら、何人かの恨みを買うことになるかもしれないけれども、それも覚悟の上で参加しようと決めた。

◆11月23日(金)、豊島(香川県)に集合。夜は甲生の片山邸(有形民俗文化財)に雑魚寝させてもらった。豊島で農民福音学校を開いた藤崎盛一さんのお孫さん(精一さん)から福音学校の話も聞けた。横断隊は、カヤックを漕ぐことだけを目的としていない。寄る島の歴史や文化、自然環境、人々の暮らしにも積極的に触れていく。

◆11月24日(土)、7時、32名31艇でいよいよ出発。豊島〜大槌島〜瀬戸大橋通過〜本島にてキャンプ体制。初日から遅れてはいけないと思って、必死について行った。結果的にはついて行けたのだけれど、スプリント的な漕ぎ方を丸一日続けていたわけで、夜になって7人くらいからそれぞれに漕ぎ方のアドバイスをもらった。その漕ぎ方だと1週間は絶対にもたないよ、というわけなのだった。カヤックの漕ぎ方は人それぞれなので自分の漕ぎを見つけるしかない。1日目にして右手の親指と人差し指の間の皮がなくなった。

◆11月25日(日)、本島〜広島〜手島〜小手島〜大島〜北木島〜大飛島〜走島にてキャンプ体制。前日にもらったアドバイスをいろいろ試す。混乱している。少なくともスプリント的漕ぎ方はやめたけれども、一切ついていけなくなる。みるみる遅れ、遅れるたびに、隊がペースを遅くしたり、私が前に出るまで止まってくれたりする。

◆30人もいるので、1年生(1列目)から6年生までの隊列を組んでいて、私は当然1年生。30人もの集団で漕いでいると、隊が作り出す波で後ろに行けば行くほどパドルが重くなる。弱い1年生が遅れると、決して這い上がれない。横断隊には、朝出発したら、その日の宿泊地までは落伍者を出さずに全員でゴールする、という不文律がある。

◆誰も、「遅いからもっと速く漕げ」とは言わなかった。でもずっと、プレッシャーを感じた。だけどこうなることは覚悟の上で来た。いつもなら泣きたくなるけど今回は違う。折れない心を持ってきたのだから、泣かないし、折れない。焦らず、漕ぐだけ。

◆11月26日(月)、3日目。走島〜仙酔島〜阿伏兎瀬戸〜田島〜横島〜弓削島〜津波島にてキャンプ体制。昨日の夕方時点で漕ぎ方に関してはさっぱりわからないままだったのに、今日になったらなぜか漕ぎ方がすっかり変わっていて、ついていけるようになった。

◆朝から雨・風・波・靄の中の海峡横断は大変だった。一日の最後、弓削島から津波島へ渡る際には、激しい向かい風で多くの隊士が苦戦していた。自分の漕ぎ方が強風にはあっているようで、私自身はじーっと漕いで、2番目に到着。カヤックの素材による違いもあるし、パドルによる違い、漕ぎ方による違いなど、いろんな要素が絡み合うことがわかる。腹筋・背筋・腰・肩がバキバキに痛い。手のひらも豆がつぶれてますます痛い。しかし今日はようやく少し余裕ができて、夜、たき火に行くことができた。

◆11月27日(火)、4日目。津波島〜伯方島〜船折瀬戸〜大三島〜大下島〜岡村島にてキャンプ体制。ふと、今日は普通の平日なんだと思い出す。漕いで、食べて、寝る生活をしていると、日にちのことも曜日のことも頭から抜けていく。

◆肉体的にはこの日がいちばんきつかった。バキバキになった腹筋・背筋が一晩寝ても一切回復していない。朝から背筋に痛みを感じながら漕ぐけれど、体にうまく力が入らない。この状態でどうして漕げるのかが不思議なくらい。今日一番の難関は船折瀬戸の通過。潮流が速すぎて、時間を見計らわないと人力では抜けられない。11時の潮止まりを狙って近くの浜で潮待ちする。

◆大潮が重なっているので潮止まりの時間は短い。大きな船もバンバン通る。狭い瀬戸なので、隊列を2列に組みなおす。船が通らないことを祈りつつ、できるだけ素早く通過するしかない。「沈脱できるようにスプレースカートのグラブループは出してあるな」と、入る直前に念押しをされる。リーダーの時間の読みが素晴らしくて、結果的には何の問題もなく通過できた。

◆11月28日(水)、5日目。岡村島〜大崎下島〜尾久比島〜上蒲刈島〜下蒲刈島〜情島にてキャンプ体制。体が痛すぎる。手の豆がどんどんつぶれて、夜になると手がパンパンに腫れる。重いものを持ったり、ペットボトルを開けたり、着替えたりといった、ひとつひとつの作業がままならない。

◆今日はもっと距離を伸ばしたかったけれど、西風が徐々に強くなり、追い潮なのに向かい風でなかなか進めなかった。今日、倉橋島に渡れなければ、祝島のゴールはなくなる。下蒲刈島の南東岸まで行き、最終判断することになる。海峡を横断するか、30人が泊まれる浜まで引き返すか、岸に沿って呉の方まで大回りして倉橋島へ向かうかの三択だ。海峡横断以外の方法を選べばその時点で祝島ゴールは消える。下蒲刈島南東岸で30分、風待ちをした。

◆この日のリーダーは、前日のたき火で、「思っていたよりペースもゆっくりで全然しんどくない」発言をした初参加の人だった。そう言ってしまった途端に、「しんどい思いをしたくて来たなら明日はお前がリーダーをやれ」と急にリーダーを振られたのだった。

◆ついていくだけの立場と、リーダーとなり、潮のこと、風のこと、通るルート、隊士たちの状況をすべて把握し、判断しながら30人の船団を率いる立場とでは全く異なる。瀬戸内横断隊の目指すところを重々理解する隊士たちは、軽はずみな言葉やうぬぼれた態度には心底厳しかった。彼は必死に謝ったけれど、結局許されることはなく、本当にリーダーをやらされたのだった。

◆そして、今、目の前の海峡を横断できなければ祝島へは届かない、差し迫った状況に置かれている。追い討ちをかけるように内田隊長が、「お前の判断にかかっとるけんのお。責任重大じゃのお」と追い込む。しかし彼はよその人間なのでこのあたりの海域のことはわからない。判断を求められるたびに不安そうに周りの人たちに助けを求めた。自信なさげにもごもご話せば、「声が小さい!」「指示ははっきり言ってください!」と中堅の隊士から檄が飛ぶ。最終的に、「行こうぜ」と言ったのは内田さんだった。すごいと思った。全員無事に海峡を横断し、祝島ゴールに、首の皮一枚でつながった。

◆11月29日 (木)、6日目。情島〜倉橋島〜鹿島〜津和地島〜周防大島地家室にてキャンプ体制。この日は50kmほど漕いだ。5日目くらいで体は楽になる、と聞いていたが、確かに4日目のピークをすぎてから、体が徐々に楽になってきた。津和地島に渡るときに潜水艦に遭遇。まだ祝島は射程範囲内。いよいよ明日が最終日だ。どこがゴールになるにせよ、明日もベストを尽くすのみ。

◆11月30日(金)、7日目。周防大島〜上関〜田ノ浦〜祝島到着。今日は予想以上にスピードが上がった。祝島に渡る最後の海峡、鼻繰瀬戸は、ちょっと風が吹くだけですぐに荒れるけれど、今日は穏やかだった。祝島に渡る前に上関町の田ノ浦に上陸。

◆ここは上関原発の建設予定地だ。この浜の目の前に、祝島が気高く存在している。横断隊の主要メンバーは、虹のカヤック隊として、上関原発建設を阻止する抗議行動にシーカヤックで参加してきた。そのうちのひとり、原康司さんは、中国電力から埋め立て工事を妨害したとして4800万円の損害賠償を求める裁判を起こされている。スラップ訴訟だ。

◆豊島からずっと漕いで、最後に田ノ浦の豊かな海にたどりついたとき、ここに原発を作ったら絶対にダメだと思った。祝島の住民が30年もの間、自分たちの海を守るために抗議行動を続けてきた気持ちが、この海を漕いでくるとよくわかる気がした。祝島から2隻の漁船が横断隊を迎えにまっすぐ走ってきた。最後の3kmを、祝島に向かってひと漕ぎひと漕ぎ、大切に漕ぐ。

◆最後まで遅れがちだった私を、いよいよゴールというとき、「女子先頭!」と言って前に出してくれた。女性ふたりが先頭になって港に入る。岸壁で島のお母さんたちが手を振って出迎えてくれるのを見たら、涙があふれてきた。ついに、漕ぎ切った。優しくて、あったかくて、大きな心の海の男たちに交じって、必死に漕ぎ続けた旅が終わった。(岩野祥子


あとがき

■2012年最後の地平線通信をお送りする。ことしも多くの人に書いてもらい、教えられた。毎月16ページ平均として200ページ前後の文章をこの通信は届けて来たことになる。

◆2004年11月、300回を記念して『大雲海 地平線通信全記録 0号〜300号』なる力作を丸山純さんが中心となってつくったことがあるが、総計1152ページになる分厚いものだった。当初の「はがき通信」も含めてのことなので、今、それをやるとしたら数年ごとに1冊出すことになるだろう。

◆自讃してはいけないが、内容も迫力が増している、と感じている。ひとりひとりが意識的に「地平線話法」を語り出しているのかもしれない。とりわけどなたかが書いてくれたように、地平線は年齢のごった煮のような面がおもしろい。世代差を越えて語り合う、って案外難しいことだと思う。

◆上記の予告イラストにある通り、12月の報告会は22日の土曜日です。いつもの金曜日ではないのでお間違いなく。3.11をあらためて考える異色の報告会となります。3.11についてはこれからもいろいろな試みをしていきたいので情報を寄せてください。何よりも私たち自身が学びたい、と考えるから。(江本嘉伸


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

約束の街の灯

  • 12月22日(土) 17:00〜20:30
  • ¥500
  • 於:新宿区立新宿スポーツセンター(03-3232-0171)

「ずっと行くって約束したから」と言うのは、復興支援ボランティアで宮城県東松島市に通い続ける岩野祥子(さちこ)さん。昨年の4月中旬頃、“アウトドア義援隊”スタッフとして現地入りしたのをきっかけに、自宅の奈良から月一度のペースで東松島市に通っています。

「阪神淡路大震災のときは、近いのに私はなーんにもしなかったんです。それをずっと負い目に感じていて」と祥子さん。支援の現場では2度の南極越冬隊員としての経験が役立ちました。「危険地域での作業だから、リスク管理は南極と同じなんです」。

まもなく一人の“おっちゃん”と出会います。「復興は10年単位のスパンがかかる。ボランティアをそういう覚悟で、忘れないできてくれって言われたんです。一見無愛想で、そんなこと言いそうにないおっちゃんなんだけど」。以来、この方との親戚のようなつきあいも含め、街は岩野さんの第二の故郷になりました。復興は端緒についたばかりとはいえ、ボランティアとして現地との距離の取り方に悩むことも。

今月は岩野さんの“約束の街”についてお話して頂きます。ゲストとして、東松島市の動脈だった仙石線野蒜(のびる)駅長だった坂本雅信さんをお迎えします。再興の市民運動にも関わる坂本さんに、現地の事情をおきかせ願います。乞期待!


地平線通信 404号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井祐介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2012年12月5日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方


地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替(料金が120円かかります)、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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