2013年2月の地平線通信

■2月の地平線通信・406号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

2月6日。心配されていた「かなりの雪」とはならず、都心はみぞれから小雨。うっすら屋根に雪はついたものの、路面におちた雪はすぐ溶けてしまった。23区の積雪予想は2センチとわずかだったが、それでも中央線の特別快速は午前中運休、青梅線は50%、山手線は70%の運行となった。

◆起きると、深夜3時前に丸山純君からメールが入っていた。原健次さんのことを書いた私の原稿が見事にレイアウトされて添付されている。そう、2月17日が鉄人ランナーであり、ビオラ奏者であり、数々の業績を残した化学者でもある原健次さんの三回忌なのだ。2年前、3.11の直前に出した2011年3月号の通信のフロントは、突然の訃報を伝えつつ原さんの思い出を書いた。典子夫人はじめご家族の意志で原健次さん自身が書き残した数々の原稿を中心に、丸山君が中核となって原さんの遺稿集作りが進行している。

◆9時02分、待っていた山田淳君から「原稿です」。おいおい、きょう出すんだよ、地平線通信は。と嫌みを書こうとしたら、何やら添付されている。「先日3番目の子が生まれました。今から病院へ」というのだ。可愛い女の子の生まれたての写真。わぁ、そんな時に。ともかくおめでとう!

◆10時59分、「ども。服部です」と狩人からメール。原稿を仕事先のパソコンで書いてあったが、後で手直ししようと送信せず、シカ撃ちに行ってしまった。昨夜ようやく自宅でつかまえたが、会社に行って一番に送ります、と。雪で電車が動かなくなるのを、服部文祥の原稿のためにも心配していたのだ。

◆実は、私は彼の800メートル走の走力に注目している。試しにやってみたらわかるが、長距離に較べ、800メートルや1500メートルの中距離というのは、本気で取り組んだらめちゃきついのだ。耐乳酸トレーニング、筋力、持久力の3つが必要、と本人は言うが、そもそも全力で走りきる訓練を私はしたことがない。

◆1928年、アムステルダム・オリンピックで日本女性として初めてメダルを取った人見絹枝という人がいる。当時21才、毎日新聞の記者でもあった。800メートルに出た人見はドイツのリナ・ラトケと大接戦の末、2分17秒6で2着に食い込んだ。このレースでゴールインしたランナーたちが疲労困憊してそろって倒れ込んだことから「女性には過酷すぎるのでは」と一部で800メートル禁止論が出たのは有名な話だ。実際、これが影響して女子800メートルは次のロサンゼルスオリンピック(1932年)からメルボルンオリンピック(1956年)まで女子800メートル種目から除外されることになった。

◆80年以上も昔の女性の記録と較べるのはおかしいが、去年服部がはじめてのマスターズ40代で優勝した時のタイムは「2分05秒09」。人見より10秒以上も速い(人見は残念なことにその後24才で病死した)。

◆フルマラソン大会の中継でよく1キロごとの表示が出る。男の場合「キロ3分」が目安で、だんだん落ちて来る。しろうとなら「キロ4分」で走り続けられればかなり快速と言えるだろう。そういう走りをしていると服部文祥の800メートルがとんでもない速さであることがわかるのだ。

◆先月の報告会では「そもそもの話から頼むよ」とお願いしたため、800メートルのことは最後になってしまった。それでも42才になった登山家の新たな挑戦は、私には新鮮だった。あのスピードを維持できるとしたら、並みのクライマーや狩人には及びもつかない行動が当分はできることだろう。

◆午後2時40分過ぎ、気象庁は太平洋岸のほぼ日本列島全域に「津波注意報」を出した。南太平洋のソロモン諸島沖で日本時間午前10時過ぎ、マグニチュード8.0の地震が発生し、日本では16時30分以降、50センチ程度の津波が予想されるという。NHKの画面は繰り返しこの注意報の内容を伝え続けている。この通信が印刷される頃にはどのぐらいの津波が押し寄せはじめたか、わかっているだろう

◆1月30日は「水仙忌」だった。宮本常一さんの33回忌。いつものように西国分寺の東福寺に集まり、島根県の日傘寺の和尚、山崎禅雄さん(観文研発行「あるくみるきく」の元編集長)の読経を聞きに、長男の宮本千晴はじめ、観光文化研究所の面々、賀曽利隆、三輪主彦、伊藤幸司、丸山純といった地平線の古顔も顔をそろえた。1980年の告別式の日がついきのうのように思われるが、あの寒い日からもう33年。有志ではじめて「地平線会議」の花輪を手向けたのだったな。

◆集まる人の中には常一さんの年齢を超えた人もそろそろいる。来年以後はどうする?という話になって、50年までやればまつりになるようだよ、と誰かが言い、そうか、まつりにするまでやるか、と皆納得した。(江本嘉伸


先月の報告会から

00810(ゼロゼロハットリ)殺しのライセンス
 ━━死ぬのは奴等か??━━

服部文祥

2013年1月25日  新宿区スポーツセンター

■獣を殺して、命について考える。新年初っぱなの地平線会議はどこか物騒で、重たく厳しいテーマだ。まず、サバイバル登山とは何か?という説明から入った。定義として、時計、ヘッドランプ、ストーブ、燃料、テントを持って行かず、食料調達などを、現場で自給自足しながら山に登るスタイルのこと。服部さんは、そのサバイバル登山を実践している。

◆服部さんの人生にはいくつかの転機があった。生い立ちを振り返りながら、人生に訪れた大きな転機を説明した。第一の転機は都立大学に入学したこと。現役と一浪の2年間の受験生活を通じて、14校受けて受かったのは都立大学1校だけだった。都立大学ではワンダーフォーゲル部と山岳部の両方に入部したが、当時の山岳部はしごき問題で部活動が停滞気味だったため、比較的活動していたワンゲルのほうで山の技術を磨くこととなった。

◆ワンゲルでは年間60〜70日ほど山に入る生活で、交通費を頻繁に出す余裕もなかったため、一回で長く、山に入ることが多かった。藪漕ぎと冬山をメインの活動にしていた。大学4年の時には単独で知床半島を海別から知床岬まで全山縦走した。爆弾低気圧にぶつかり、雪洞が潰されるほどの大雪で、無事下山できたら登山をやめようかと思うほどの恐怖体験だった。

◆5年生の時にインドで自転車旅行をする。山にも行かずに、就職活動をしたのに全てダメだったことで、ある意味、「傷心旅行のような気分」だった。面接を受けた会社の人事部の人には「企業に頼って生きようとしていたのがばれていたのかもしれない」

◆インドに行くと、みんないろいろ考えるというが、服部さんもいろいろ考えたという。インド人はみんな目がギラギラしていて、その瞬間を生きている。「我々、日本人とは生き方の基準が違うんだな」と思った。就活の時、周りにいた学生に比べて、インド人の生き方の方が幸せそうに見えた。

◆結局、白山書房という山岳関係の出版社に就職することになった。卒業後、会社に勤めつつ、「山野井泰史になりたい」そんな思いを胸に、くすぶりながらも「手っ取り早く実績になる様な登山」を続けていた。そんな自分を見かねた知人の紹介で日本山岳会青年部のK2登山隊に参加することができた。

◆そしてK2の頂を踏んだことが人生第二の転機となる。登山家にとってK2登頂は決してマイナスの肩書きではない。むしろ、水戸黄門の印籠のように使える、都合の良いものだった。しかし、遠征隊の登山には疑問を抱くことも多かった。酸素を吸い、360人にも及ぶ大量のポーターに荷物を運んでもらい、サポートを受けながら登頂する。それが山と真正面から向き合ったフェアな登山と言えるのか。自分に替わって、彼らポーターが登頂することもできるのではないか。K2登頂によって、日本登山界のヒエラルキーから解放され、自分にとっての、「美しい登山とは何か?」と言う命題に取り組むことができるようになった。

◆K2登頂後、登山の報告等で繋がりのあった山岳雑誌の「岳人」編集部に移籍することになる。初めての編集会議で「村田君(服部さんの旧姓)何がしたい?」と聞かれ、「和田城志にインタビューをしたいです」と企画を提案した。岳人編集者の立場を活用して、個人的な興味へと繋げる、半ば確信犯的な企画だった。和田城志は冬の劔岳、黒部の山行を数多く行ったことで有名な人。これをきっかけにして、冬の劔岳や黒部に一緒に山行することになった。

◆スクリーンには雪に覆われた劔岳の東面、八ッ峰の写真が映し出される。冬の劔岳は、夏に見せる刃物のような鋭い岩稜を、白く滑らかな雪が覆い尽くし、山小屋や登山道など人工的なものを全て消し去った完璧な自然の世界。山入すると全てを自分の力で乗り越えるしかないフェアで美しい山の世界だ。

◆マダガスカル島をバスと自転車を併用して旅した時のカメレオンの写真、ロッキー山脈スキー旅など、これまで服部さんが取り組んできたスタイル多様な旅の写真が次々と映し出された。そして、服部さんの背骨ともなっているフリークライミングの話に。

◆「フリークライミングは自分の思想の中心にある」と服部さんは言う。このフリークライミング思想について「すでに聞いている人も多いと思いますが、僕は何度でも説明したい」。クライミングでは人工登攀とフリークライミングという2つの登り方が対比される。人工登攀は岩壁にボルトやハーケンなどを打ち込んで、人工的な支点を作り、掴んだり、アブミを使ったり、直接利用しながら登る方法。

◆一方、フリークライミングは落下に備えた確保用具のみを使い、そこにある自然の岩の形状だけを、手がかり、足場にして登る方法だ。人工登攀は「登る」という行為よりも、岩壁に登るためのルートを「工事」しているのに近いのではないか。本来の「登る」と言う行為を、より純粋に突き詰めた登り方がフリークライミングの思想だ。このフリークライミングの思想を、日本の山にあてはめたのがサバイバル登山だと言う。

◆日本の山は、たくさんの積雪と、冬以外でも多くの雨が降る。独自の気候と地形から、日本の山には多くの沢があり、そこには沢山の生き物や山菜が生息している。今のような登山道が発達する以前、昔の猟師や木こりは山を沢伝いに移動してきた。また、彼らは沢に岩魚を放し、山の中での食料源としてきた。昔の山の民の生活様式のように、山の恵みによって自給自足をしながら、山頂を目指すのがサバイバル登山だ。

◆釣りや山菜の知識などのサバイバル技術を磨き、挑んだのが日高全山縦走だった。一か月近い日数を使い、日勝峠から襟裳岬まで、大きな山塊を一回の山行で挑んだ。その思想に基づいた山行と、思索の過程を綴ったのが、2006年に出版された『サバイバル登山家』だ。その表紙の写真、実はダ・ヴィンチの「聖礼者ヨハネ」の構図を引用したものだと言う。服部さんの美意識の頂点にはルネッサンス期の芸術家があるそうだ。

◆服部さんにとって、ミケランジェロと運慶がスーパーヒーローだと言う。音楽ではバッハとベートーベン。ある意味で芸術の王道的作家。しかし同時に現代美術家の会田誠の作品(現在、森美術館で展示中)がすごかったともいう。「尊敬する作家のミケランジェロ、運慶、その次に会田誠を加えちゃおうかと思うくらい」

◆私は音楽に関してずぶの素人だが、バッハやベートーベンの旋律には、強い意志と理性を感じる。二人の音楽家からは、自己を律し哲学や理性を楽譜に刻み込んだ、強い意志が伝わってくる。バッハは音楽表現の技術的基礎を築き上げた人、ベートーベンも音楽表現の中に厳格な哲学思想を刻み込んだ音楽家という印象だ。また、ミケランジェロや運慶も同様だ。彫像やデッサンなど、基本となる表現技術が圧倒的に高く、それに支えられて哲学や思想が造形として彫り込まれている。会田誠の作品も、物議を醸すテーマの裏側にあるのは、絵画の抜群の基本的技術だ。

◆尊敬する芸術家と、そこから吸収した美意識をもとに繰り広げられるサバイバル登山。服部さんが登山や文筆の表現者として追い求める先には、偉大な芸術家の姿があるのかなと感じた。服部さんが尊敬する芸術家や仏師と、ご自身の美意識や行動、姿勢について伺うと「すごい芸術家、表現者、仏師たちと同列で語られるほど才能ないです。そうなりたいという思いはありますが」。服部さんが考える「美しい登山」とは何か? その基準が少し見えそうな気がした。

◆ここで、話はサバイバル登山での食事の説明に入る。首から下を落とされた、シマヘビの頭の写真。まるで洗濯バサミのように、頭だけになったシマヘビだが、その生命力は強い。頭だけになっても、人が近づくと口を広げて威嚇する。そうやって5分以上は生きているそうだ。威嚇するシマヘビの頭をスクリーンに映しながら「これを見ると、生きることを考えさせられますよね」。

◆サバイバル登山では現場の様々な生き物が食料となる。蛇の味も種類によっていろいろで、シマヘビ、マムシは美味しいが、ヤマカガシは苦く、アオダイショウはくさい。またマムシの卵はちゃんと卵の味がしておいしかったが、ヤマカガシの卵は苦く、「うぇー」と言うくらいに不味かったそうだ。

◆服部さんの推測によると、「ヤマカガシはヒキガエルを食べる。ヒキガエルは皮膚の腺に苦い毒を持っているが、ヤマカガシはその毒を体内に蓄えることができる。卵にもうまく蓄えられるのではないか」。ヒキガエルを捕らえ、皮を剥ぎ、きれいにその毒を洗って薫製にして食べている人、ならではの推測だ。ヒキガエルにも赤褐色と黒褐色の個体があり、皮を剥いでもその色は異なる。これにも味の違いがあり、赤褐色の個体の方が美味しいそうだ。

◆また、昆虫類も食料になる。カミキリムシの幼虫、通称テッポウ虫も「クリーミーで美味しい」そうだ。このテッポウ虫も、入っている木の種類で味が違い、「栗やナラの木に入っているものは美味しく、針葉樹系に入っているものはそうでもない」「竹にも入っていて、孟宗竹は美味いが黒竹はまずい」という。

◆そして渓流の岩魚も美味しい食料だ。服部さんが主にやるのはテンカラ釣りという日本古来の毛針による釣り方。尺を超える大きな岩魚は刺身が美味く、それ以下のものは薫製にする。また、捌いた時の内臓は汁にして無駄にしない。刺身を作るときの刃物は包丁だ。釣った岩魚はビクに入れて生かしたまま運び、食べる直前に殺す。そして良く切れる刃物と岩魚の内臓を抜いて、皮を剥いだら、水には浸けない。刃物と砥石はセットで、美味しい刺身を作るのに良く切れる刃物は必要な道具だと言う。

◆サバイバル登山を始めた頃は、山で食料を調達するために、最小限の炭水化物しか持って行かなかった。最初、持って行く米の量は一日0.5合(10日で1kg)で計算した。サバイバル登山というよりも、断食登山の様相で、山から下りてきたら食いまくる生活になってしまった。10日間山に入ると、下りてきて10日食いまくる。しかし、昔の猟師などの記録を読むと、米の量はかなり持ち歩いていたことがわかった。以降、徐々に増やして、現在では五分付きや七分付きの玄米を一日400gで計算しているそうだ。食料の味や工夫など、現場のリアルなディテールが次々と話から伝わってくる。

◆そして数年のサバイバル登山を経て、食料調達は釣りから鉄砲を使った狩猟へと領域を広げて発展していった。鉄砲による狩猟の免許と鉄砲の所持免許を取得し、山梨県の小菅村で狩猟をスタートさせた。最初のシーズンは獲れず、2シーズン目でようやく1頭獲れた。そして昨年は7頭、今年は10頭を目標に猟を行っているそうだ。今のところ4頭しか獲れておらず、若干焦り気味だと言う。

◆狩猟では憎くて鹿を殺すわけではない。どちらかと言うと「好きな女性を想うような感覚に近い」。鹿の気持ちを想像し、鹿について考え、自分と鹿の距離を近づける。自分と鹿の差が曖昧になるほど、何をしているのか、何を食べて、何を考えているのか、を考える。狩猟とは常に獲物のことを考える行為なのだ。しかし「恋愛と違って最終的には殺すわけですけど」。獲物を殺したとき思うことは、「どうして俺は鹿を殺してよくて、反対は有り得ないのか?」ということ。一方的に殺すことへの不思議。「獣を殺したら、きっと誰もが思うことだと思います」

◆鹿はメスと子どもが美味しい。また、犬に追われた鹿はストレス物質が体内に分泌されて、肉に血が入るため臭くなるという。そう言う状況は滅多に無いが、一時に複数の鹿と遭遇した時、まず狙うのは、味が良く、狙いやすい子鹿だという。以前、狩猟の対象はオスに限られていた。しかし最近は有害獣駆除の観点から、メスや子鹿も撃ってもよくなった。

◆メスや子どもを殺すこと。人間の社会にあてはめたとしたら、通り魔が平和に暮らしている女性や子どもを狙って殺すような、凶悪な事件だ。なのに、狩猟だと許されるのはなぜなのか。子鹿を撃ち、少しセンシティブな気持ちになりながらも、狩猟で獲れた子鹿の肉を自宅に持ち帰る。家で背ロースを薄く切って、刺身で食べる時、それまで抱いていた悩みはすぐに吹っ飛んでしまい、「美味いから、まあいいや」と思う。「味が行為の正しさを証明している」と。人間としての理性を通り過ぎ、動物として本能のレベルで、狩猟を正しいと思える様な感覚なのかなと思った。

◆一人で狩猟を行えるようになると、冬期に鹿を撃ちながら登山しようと思うようになった。冬期の狩猟サバイバル登山では、鉄砲一丁が3キロ以上あり、一頭鹿を撃つと10キロ以上の肉が採れる。一人で10日間の登山をするためなら、最初から4キロの肉を持って行った方が合理的という考え方もある。5人ほどのチームで一丁鉄砲がある位が丁度良いのかなという感じで、まだまだ考える余地のある行為だという。

◆また、冬のサバイバル登山は「寒くて、辛いんですよね」。冬はマットを持って行き、焚き火も切らさないようにするが、それでも寒い。タープをテントに変えて、シュラフをもう少し暖かいものにすれば辛さも改善されるかもと考えてみた。でも「テントを使うのはちょっとどうなの〜」と。ここでも、自然に対しフェアでありたいという美意識が伺えた。

◆突然、給与明細の写真がスクリーンに映されたのでびっくりした。自分の立ち位置を示すためにそういう現実を隠さない。手取りで月給30万円の収入。「自分としては生活できているから充分だ。でも40代サラリーマンの給料としては少ないのかな」

◆次に服部さん一家5人の写真が映し出された。家族の中に一人、肌の白い男の子がいた。小児喘息で3度入院したという次男ゲンジロウ君だ。命は、その人間の周りの感情と切っても切り離せない。人間の社会では命の重さに差があると服部さんは言う。

◆「喘息にあえぐゲンジロウを見ていろいろ考えた。命の効率を考えたら、ゲンジロウ一人の治療費でより多くのもっと健康なアフリカの子ども達を助けられる。でも人は(自分は)そこまでドライじゃない。結局、人の命が同じ価値という言辞は嘘である。存在は比較できない。『救命』や『医療』が善のように語られるが、立場をいろいろ取り替えてみたら、そこに『アンフェア』や『お節介』という要素が少なからず、含まれているのがわかる。

◆『災害や病気で自分の子どもが死ぬかもしれない。それを体験する覚悟がありますか?』という問いに対して、人間社会での命の重さと理不尽に終わる獣の命、狩猟を通じて命を見つめた時『う〜ん、あります』と答えるしかないのかなと考えている。」

◆情熱大陸の取材を含め、南アルプスに3シーズン連続で行った。南アルプスで仕掛け一式を途中の天場に置き忘れ、岩魚が沢山いるのを発見したのに悔しい思いをした。情熱大陸の取材では、その時の岩魚を釣ろうと再び南アルプスに入った。それでまさかの滑落事故。肋骨複数箇所の骨折と肺が破けて血が溜まっているような大怪我を負った。怪我を治し、再び事故現場を確かめに南アルプスに入ったことで、ようやく南アルプスの呪縛から離れた。昨年は南会津の丸山岳に行ってアブがすごかったこと。北海道での狩猟サバイバル登山のことなど、昨年の山行のことにも駆け足で触れた。

◆話はゴールに近づき、陸上競技場のトラックを疾走する服部さんとライバルの写真が。実は今、服部さんは40代800m走で日本一速い男だという。それに関して、ユリイカで石川直樹さんと対談した時の記事を紹介してくれた。石川さん「別にオリンピックに出るわけでもないのに、なんでそんなに走りを突き詰めているんですか?」服部さん「だから自分という装置の機能を十全に発揮するため」

◆「登山は身体行為だ」と服部さんは言う。身体レベルが高くなければ、高いレベルの登山はできない。精神は肉体に宿っているのだから、精神と肉体を切り離して考えることはできない。したがって「自己を鍛えることの一番の方法は、肉体を鍛えることなのではないか」と思っている。これまでは自分の身体レベルが一体どの程度のものなのか、客観的に分らなかった。

◆サバイバル登山という、他人との比較ができないこともある。K2に登っても、沢で落ちて死にかけても、それが自分の能力によるものなのか、現場の条件によるものなのか、モヤモヤした気持ちが拭えなかった。しかし、「40代800m走」というカテゴリーにせよ、 愛好家が集まる陸上競技の中で、日本一速く走ることができた。これまでの登山活動に加え、厳しいトレーニングに取り組んだ結果だ。

◆服部さんはこう分析する。「800m走は辛いから取り組む人口が少ないため、全体のレベルが低い。また、フリークライミングに打ち込んでいたことと登山によって体幹が鍛えられていたこと。そして、これまで怪我無くやってこれたことではないか」。自分の身体能力がある程度高いことがわかって、身が軽くなった。この手応えを、都立大学入学、K2登頂に続く大きな転機だと感じているそうだ。

◆山での数々のピンチを切り抜けてきた服部さんに、その時の心境を聞いてみた。自然の中で危機に陥った時、現場では死にたくないから「そのとき考えられる最善を尽くす」という。服部さんは3人の子供の父親だが、危機的状況の中で「子供の顔を思い出して、力を発揮するとかは大嘘だと思います」。だが、「死にたくない」という要素の中には「せっかくだから子供の成長は見たい」という、お父さんとしての側面も覗かせる。本当にやばいときには、感情的になってしまうと、判断を誤って、生き残れないのかもしれない。あくまでも冷静に、その瞬間瞬間で、現場の状況に対応していくことが、生存の可能性を高める「サバイバル」なのかもしれないと思った。

◆そして自身の命についても、「死ななかったのは、たまたまです」。山では、自分よりも総合的に優れているかもしれない仲間が「コロッと死んでいった」という。偶然だと考えないと、うまく納得できないという。狩猟を通じて、生き物の死を考えたとき、「感情的には命は理不尽に終わる」ものだという。しかし一方で、「人間社会の安定した治安」もすばらしいと思う。行動の中から生まれてくる考察を、自身の美意識で次の課題に繋げていく。「美しい登山とは何か?」という美意識と実践を更新し続ける。そして 身体的能力の鍛錬と文章表現の探求、これらが対となってどんな進化をしていくのだろうか。

◆「遭難を否定して、それを煮詰めていくと、最終的に登山を否定することになる。だから、山で死んだ人も否定しません。死を否定すると、生を否定することになるのと、同じ構図です。ま、命の秘密(起源)はいまだに人間には理解できていないですけど」命について考えると、死を見つめることになる。「死ぬのはもったいないけど、命を使わない方がもっともったいない」という服部さんの人生観。山に登りながら、物事の本質を追求する哲学者のようで、話を聞くこちら側の背筋がぴんと伸びるようでした。(山本豊人


報告者のひとこと

「フェアにやる」という私が好んで使う表現は正確ではなく「深みに達するためには」といった方が正しいのかもしません

■つっこみどころ満載とされている私の行為と思想ですが、サン=テグジュペリが『人間の土地』の中でいいことを言っています。「最初は、彼を自然界の大問題から遠ざけそうに思われた機械の利用が、反対に彼をいっそうきびしく、それらの問題に直面させることになる。」

◆発展途上にあった飛行機の話です。私の釣りバリ、鉄砲、ライターにそのまま当てはめるのはやや強引ですが、なんでも原始的な方法でやればいいということではない、という言い訳にはなりそうです。

◆正直に白状すると「フェアにやる」という私が好んで使う表現は正確ではなく「深みに達するためには」といった方が正しいのかもしません。金属製品をまったく持たず、毎日きりもみ火起こしでは、その部分が大きなネック(限界)になってしまい、登山行為が成り立たず、少なくとも私が知りたいと望むことには届かない可能性が高くなるということです。

◆今回の報告では、命とリスクというのがいちおう、裏テーマになっていました。ずっと山登りをしてきたので、リスクとは何かを考えてきたつもりです。遭難とは登山の要素なのか、それとも別のことなのか。死が生命に含まれているように、遭難も登山に含まれているというのが、現在の結論です。

◆当たり前のことがわからずに悩んでいた理由の一つは、登山者の中に遭難者の捜索で自己表現をしようとする輩がいたからです。いますよね、窮地に陥った人を救い出すことに情熱をかける人。優しい人と評価されることもあるようですが、他人の窮地というのを前提にしている時点でなんだか卑怯な感じがします。

◆自然を舞台に自己表現することが登山であるなら、そこでミスしたときに死ぬのは当たり前です。助けてもらうことを前提にした挑戦は果たして挑戦なのか。そういう挑戦があってもいいですが、それは、自分の力といえるのか。

◆車の安全性能が上がっても、事故後の死傷率は下がらないという調査があります(文献は忘れました)。車の安全性能が上がっただけ、人がアクセルを踏んでしまうためです。無意識のうちにリスクの許容範囲を誰もが見積もっているわけです。登山者にも同じことが言えます。山は危険だとわかっているのに、その危険を試したくて山に行く。装備が良くなろうと、ビーコンのような装置が生まれようと、そのぶんリスクも上積みしていれば結果は同じです(装備が良くなった分、出来高は上がることになります)。何を言いたいかというと、一見いろいろなことが改善されて良くなっているようで、それぞれがリスクを背負って、生きていることは変わらないし、ついつい背伸びして挑戦してしまう行動者の性根を治すことはできないってことです。

◆麻生さんが「終期高齢者はとっとと死んでくれ」みたいな発言をして問題になっていましたね。国益や経済の立場からなら、何も生産しないで医療費がかかる老人に死んでもらいたいというのは筋が通っています。そこに「我が家のおじいちゃんに死ねってのか」と個人の感情をぶつければ、すれ違いになるでしょう。

◆私が撃ち殺すケモノたちによぼよぼの老獣はいません。病獣もいません(流行の疥癬病はときどきいます)。彼らは若く健康で美しい。一方、我々はどうですか。数日前の新聞に象の長寿記録更新の話が出ていました。野生状態にない象の長寿を象全体の記録とするのは私流にいうなら「フェア」ではない。一方でついこの間まで延び続けて来た日本人の平均寿命。控えめに見積もっても、我々も野生状態から飼い慣らされた存在になっている一つの証拠の気がします。

◆長寿は、自己保存本能とベクトルがぴったり重なるので、疑問なく「善」とされていますが、不健康不健全(不自由も?)で長寿は善なのか、考えなくてはならない時代かもしれません。そもそも病死というは不自然な死なんですかね。災害で死ぬのも、事故で死ぬのも、病気で死ぬのも、私には自然死の一つに思われます。自然界の鹿がそうやって死んでいるはずだからです。みんな長寿で大往生って方がよっぽど不自然なんじゃないでしょうか。

◆アルジェリアの件以来、テロの暴力性ばかりが取りざたされていますが、現地でのプラント建設は、商売(金儲け)であり、政治的な暴力にさらされる危険を含んだ仕事であることは承知されていたはずです。ならば、今回の事態は充分想定内だったんじゃないんですかね。殺された方々も自分の人生(職業)を自分で選んだのだし、報酬にもそれなりの色が付いていたはずだというのは、人情に欠けるのでしょうか(私も登山を食い物にして生きているんだから、そのうち登山からしっぺ返しを受けるのだろうなあ、と思ったりします)。

◆さらにはアルジェリアの発展に貢献していた外国人という表現も、「発展」と「貢献」という言葉は、商売や経済的な発展、天然資源の消費が善だという、我々の立場や価値観であり、それを押しつけようとしているということでは、テロリストと同じかもしれません。暴力的ではないのが大きな違いなのでしょうか。静かにゆっくり文化汚染するという意味では、暴力より悪いということだってできます。

◆こういう意見発表の場があると、ついつい自分の在り方や、社会の在り方に関して、えらそうな意見を言っています。でもそれは結局、自分がそこそこ健康な月給取りとして上手いことやれているからかもしれません。立場が変わったときに同じことが言えるのかということを、念頭に置いてもう一度考えてみる必要がありそうです。なんにせよ、いま我々が抱え込んでいる問題には、短期的にすべてが解決するような、画期的な方法はなく(ハイパーウィルスの爆発感染くらいしか)、私はぼちぼちフェアに生きていこうというくらいしかないのかな、といった感じです。

◆「報告者からのひとこと」には中距離走の話をリクエストされていたのですが、それは「岳人」の連載の5月号で書く予定です。(服部文祥


地平線ポストから

四万十の川オヤジ(元川ガキ)は元気です!!

━━山田高司第2弾レポート

■本日2月3日は節分の日。南国土佐とはいえ、この時期は一番寒い時期で、例年なら山間部では雪のちらつくこともあるのに、昨日から4月中旬の陽気。日の最低気温が10度以上、最高気温は25度まであがりました。「やっぱり、温暖化かねえ。」というのは日常会話になってもう久しいですが、太陽活動が落ちて寒冷期に入るとの情報もあるし、先の事は分かりません。

◆さて、通信2回連続の寄稿です。実は新年号への江本さんのリクエストは「四万十の川ガキ」だったのですが、報告会400回越えを聞き、地平線創成期を思いだし「始末に困る者」の噴火する熱を書きたいと話題を変えさせてもらったので、今回は、その「川ガキ」について書きます。

◆十数年前、絶滅危惧種として「川ガキ」をまじめに調べている学者がいると知って、苦笑したものですが、今では「川ガキ」で検索すると、たくさんの情報がありますので、ここでは省きます。私の少年時代の昭和30から40年代の高知県の青南端土佐清水市では、川ガキのみならず、山ガキ、海ガキの野生児(自然ガキ)だらけで、ガキたちは狩猟採集盗賊民でした。

◆冬の今の季節は山ガキが山さおぎ(さわぐの高知弁)して鳥獣虫や木の実、山芋、山菜をとって跳梁跋扈しておりまして、川ガキ、海ガキになるのは、5月の連休から10月10日の体育の日までと決まっていました。体育の日は住民運動会があるので、それまでは黒く日焼けした足をしておくことがTPOだったのです。毎日、川に海に行き泳ぎ漁をしていたので、「いずれ、カッパになるぞ。」と脅かすされたものです。

◆川ガキ、カッパ、エンコウ(高知県の河童に似た伝承の架空生物)、カワウソは、この順に連想される川のいたずら好きの元気者です。昨年8月28日、環境大臣がニホンカワウソの絶滅宣言をしました。地平線会議が誕生した1979年に四万十川の隣の新荘川で生息が記録されて以後、目撃談はあっても記録がないのがその理由だそうです。

◆絶滅危惧種「川ガキ」は、四万十川や近くの小河川では元気に生息しています。2001年から10年勤めた自然体験宿泊施設、四万十楽舎では川ガキコースを体験メニューにして、都会の親と子供たちを川ガキ再生していましたが、疑問もありました。

◆私たちの少年時代、子供は中学生から小学生まで集落ごとに一緒に遊ぶのが普通で、自然遊びは先輩たちから習い伝承されており、大人の知らない子供たちの世界がありました。上級生になると、後輩たちの尊敬と羨望を受けたいため、何より小さい子の安全を見守るために、こっそりそれぞれが努力したものです。

◆この頃、子供は一気に大人の目の厳しさ優しさを宿していきます。ナイフ(肥後の守)と釣り糸とマッチがあれば、自然の中で生きていく技と知恵は、かなりの自然ガキが持っていました。今は田舎といえども、ゲーム機はあり、移動は親の車、遊ぶのは同級生同士が多く、年かさの者から習う事が減っています。教える事は、習う事よりはるかに難しく、隠れた努力も必要で、人間を成長させます。

◆この現象は世界中の辺境の子供たちに共通するものでした。カッパのモデルと言われるカワウソは、八十歳の父の少年時代(太平洋戦争中)には、どこにでもよくいたそうです。高知県の辺境の土佐清水市のさらにまた辺境の祖父母のふるさとの山川海狩猟名人のマスオンチャン(オンチャン=おじさん)は「カワウソはおる。けんど、言うたらマスコミや学者がうるさいけん、だまっちょる。」と決めているらしい。

◆カワウソも川ガキも、小手先の事ではどうにもならん。これらが生きる自然環境は当然、文化、思想、価値観で、共生風景を創ることが大切だと思います。機械化と化学物質が導入される前の暮らしを知る八十歳代以上の日本の辺境のご老人は共生の技と知恵の宝庫。継承するに残された時間は少ない。

◆四万十の源流から海まで、そんな技と知恵、新しい楽しみ方をしている人たちに教わりながらの四万十ドラゴンランの第2、3回目に参加してくれたウルトラジージこと、原健次さんの三回忌が近いそうです。地元参加の元川ガキの若者たち(今は川オンチャン(オヤジ)、川ハチキン(元気なオバチャン))を誘って創った四万十ガイア自然学校の一員として、博識多才にして、無限体力だった原健次さんのご冥福を心よりお祈りします。(土佐系在日地球人、四万十在住、山田高司


[通信費をありがとうございました]

■先月の通信でお知らせした以後、通信費(1年2000円です)を払ってくださった方々は、次の皆さん方です。ありがとうございました。ただ、時に記載ミスも生じます。万一、漏れがありましたら必ず、江本あてにお知らせください。アドレスは最終ページにあります。
新堂睦子(10000円 カンパ含めて 記載遅れました)/北川文夫/福原安栄/竹澤廣介(6000円 3年分)/岡朝子/荒川紀子/木下聡/石原玲/渡辺泰栄/後藤正/塚下健太郎(10,000円)


毎月1日は石巻女子会の日 「日和キッチン」4月1日開店!!

■2月1日。三ヶ月ぶりに石巻にきています。今年の冬は降雪が多いそうで、街中には溶け残った雪の塊を所々に見ることができます。被災地でのニュースが少なくなってきた昨今、特に福島や原発関係の話以外は、あまり取り上げられなくなっているような気もします。

◆今回の石巻の滞在は、「今の石巻の動きを知りたい」というところから始まりました。石巻駅から東へ続く立町商店街を電動工具や、バール、ノコギリを持って歩く「女子」がいました。東京でリノベーションの設計の仕事をしている天野美紀さんです。彼女は、震災のあと、石巻で人の縁ができた事がきっかけで、石巻に飲食店を開くことになりました。

◆商店街から入った路地にある築100年の木造の建物をリノベーションしてカフェを開く予定です。それが日和キッチン。今日は、お店になる建物の解体作業の初日でした。解体を一緒にやるのは、武蔵野美術大学を卒業予定で4月からお店を切り盛りする山崎百香さん。「女子」二人。息の合った様子で、壁や床を次々はぎました。東北電力の人もきて電気も開通しました。これから4月1日のオープンに向けてお店の準備が始まります。

◆なんでこんなに「女子」なんて言っているかというと、天野さんが「石巻女子会」というのをはじめたからです。今の石巻には、全国各地から長期でボランティアに来てそのまま定住する人がたくさんいます。そんな人たちと地元の商店街の女将さんたちの付き合いがありました。

◆天野さんは、そんな様子を見てイベントにしたら面白いんじゃないかと思ったそうです。地元の女性は、息を抜く場所がなかなかない。震災のあと、「頑張らないといけない」と気持ちを張って生きてきたが、そんな「頑張る」もだんだんストレスになってきたようで、家族に言えないような悩みを気軽に言える場所を欲していたのです。そんな声を聞いた天野さんは、さっそく女子だけの会を開くことにしました。

◆年配の人は、若い人と交流できてうれしい。石巻以外からきている人も地元の人に優しくされてうれしい。両方にお得です。女子会では、地元のお母さんたちが石巻の家庭料理を持ち寄ることになりました。それを新しくはじめる店のレシピに応用するそうです。

◆その会にむさくるしい「男子」が一名潜入できることになりました。僕のことです。取材という名目です(男ということで少し居心地も悪いのですが……)。その会で聞こえてきたのは、「もうボランティアとかじゃない、友達としてつきあっていく」とか「今まで(震災前)とは違う楽しみを見つけていく」という意識でした。目に見える復興はゆっくりでも、人と人のあいだには、いろんなことが起きている。そんなことを感じる石巻です。

◆また日和キッチンでは石巻の牡鹿半島で捕れる鹿肉を使ったレシピを出すことが決まっています。日本各地であることですが牡鹿半島でも鹿が増えすぎで困っていました。石巻では鹿肉を食べる文化は無く、持て余していたのですが、地元の猟友会の人が食肉の流通ルートにのせることを始めました。そんな石巻の食材を使うことで、よそ者目線で「新たな石巻の食文化」を開拓しようとしているのです。女子会で食べた鹿肉のハムは絶品でした。

◆今回の女子会が好評だったので、毎月1日は石巻女子会の日になりました。また3月になれば、天野さんが牡鹿半島に行くというので、僕も同行して鹿猟に連れて行ってもらいたいなあ、なんて思っているところです。(藤川佳三 映画監督)


「石巻市立湊小学校避難所」が本になります

■二つのお知らせがあります。まず映画「石巻市立湊小学校避難所」が本になります。タイトルは映画と同じです。映画では盛り込めなかった避難所のしくみや登場人物の背景、そして撮影中の苦労話も入った内容満載の本になっています。3月に竹書房から刊行されます。

◆それと映画の上映会のお知らせです。中野区医師会と共催という形で行います。映画に出演してくれた方がゲストに来ます。石巻から愛ちゃんこと村上愛子さん、そして石巻から横浜に移住した工藤弘子さんが話をしてくれます。詳細は以下です。

震災から2年―あの日を忘れない

〜映画『石巻市立湊小学校避難所』上映会

3月20日(水・祝日)
なかのZERO小ホール JR中野駅南口から7分
開演13時40分〜 開場13時20分/終映16時30分
当日:大人1000円/中学生以下800円
団体割引(20名以上):大人800円/中学生以下600円


■地平線会議からのお知らせ■

★3月の地平線報告会は22日の金曜日です。東日本大震災から2年を経て東北はどのようになっているか、あらためて考える場とするつもりです。現地から特別ゲストをお迎えして話し合いたい、と計画しています。


中島みゆきを100人くらい呼んできて「地上の星」を合唱したいような現場でした

━━テロ事件のむごい犠牲の報に20年前、アルジェリアで

■10人の方々が亡くなったアルジェリアのテロ事件。今回の事件が伝えられた時、20年前に女性5人でサハラをバイクで走っていた時に私が高熱を出し、日揮の天然ガスプラントに助けてもらったことが思い出され、当時の仲間に「20年前と何も変わってないんだね、人質の人達の無事を祈ろう」とメールしていました。

◆私が助けてもらったプラントは今回の事件のあったプラントとは違いましたが、現地の状況や日揮のエンジニアの様子がだいたいわかっていたので、報道ビザがおりないからカイロとパリとロンドンからの中継ばかりのTVを見ていて……マスコミも誰も想像もつかないだろうと思ったら書かずにいられませんでした。

◆何もない砂漠の真ん中に道路を敷き、キャンプ(居住棟)を作り、1からプラントを建設する……360度、砂だけ。町もない、酒もない。キャンプとプラントの往復だけ。修行僧のような暮らし。NHKのプロジェクトXどころじゃないです。中島みゆきを100人くらい呼んできて「地上の星」を合唱したいような現場でした。

◆ 私が旅していた20年前もイスラム原理主義のテロが頻発している時期でした。アルジェリアの人達はみんな親切で、道案内をしてくれたり、砂漠で水をわけてくれようとしたり、ホテルで盗難から守るためにバイクをホテルの建物に入れてくれたりしました。でもホテルの部屋にポリスが訪ねて来て、夜間は絶対に部屋から出るなと言われたり、食事をしたレストランで「先週、ここで外国人教師が撃たれて亡くなった」と聞かされたり、オアシスに入って出るまで、無言でポリスが警護(監視か)してくれたりもありました。

◆オアシスや町から離れても道路には軍の検問が結構あり、その都度パスポートをチェックされました。でも兵士達もとてもフレンドリーでパンク修理を手伝ってくれたりして、お礼にマルボロのタバコを渡そうとすると「そんなつもりはない。アルジェリアはいいところだろ? 気をつけて行くんだよ。いい旅を!」と言ってくれました。

◆そんな旅の途中、サハラの国道で夕方になってしまい、次のオアシスまで50キロ、熱40度で動けなくなり……野宿の支度をしていたらどこからともなく湧いて来た現地人が「ここで野宿は危険すぎる、そこの脇道を15キロ行ったらジャパニーズカンパニーがあるから助けてもらいなよ。お嬢ちゃん日本人なんだろ」と言いに来ました。

◆アルジェリアはアラビア語、旧宗主国 のフランス語を話す人はいたけど、ほとんどいない「英語使い」は泥棒かテロリストと思っていたので、まったく信用できません。何言ってんのこのオヤジ、こんな地図にも載ってないサハラ砂漠の真ん中、見渡す限り360度地平線まで砂漠なのにジャパニーズカンパニー? 私もう熱で頭狂った? と思いました。

◆そんな寝言をとりあう気もありませんでしたが、野宿は強硬に阻止してきます。50キロ先のオアシスまでがんばれと言います。でもそんな体力は残っていませんでした。熱で震えが止まりません。とにかく横になりたかった。「だったら案内するから15キロ先のジャパニーズカンパニーに行こう」と譲りません。

◆15キロならなんとかがんばれる……ええいままよ!とそのオヤジの車について行くことに。国道から脇道に入って13キロくらい行っても地平線のかなたにも何もありません。15キロを過ぎ20キロを過ぎ……だんだんと先導するオヤジの車と車間が広がります。

◆「無いじゃん日本の会社なんて(苦笑)やっぱり誘拐? おいはぎ? どこに連れて行かれる?」ネガティブな事が頭の中をグルグル……荷物満載のバイク5台……みんなあんまりバイクのとりまわしが上手ではない……急なUターン(逃げる算段)なんて出来るかな……熱で朦朧とした頭で「私がオヤジを引きつけてみんなを逃がすには……それをバイクで走りながらどう伝えるか……」等々考えながら走り続けていると、蜃気楼みたいなものが見えてきました。そして……フレアスタック(煙突からガスがメラメラ燃えているやつ)が見えました。

◆「あーなんか油田?本当だったの?(まだ半信半疑)」……そのうち塀に囲まれた建造物のところまで来ました。そこに日本の工事現場にある日本語の看板「ご迷惑をおかけしております(ヘルメットかぶった人がペコリンしてるイラスト付き)」が掛かっていました。「あったよ! ほんとにジャパニーズカンパニーが! 助かった!!」 

◆涙が出ました。正門まで送ってくれたオヤジに沢山お礼を言って、施錠してある門から大声で叫びます。でもだれも応答はありません。門番もいません。塀の上には十字鉄線が張り巡らされていました。しかし(当時は)門と塀のわずかな隙間の部分だけ十字鉄線が途切れている所がありました。そこから一番小柄な仲間が1人、敷地内に侵入成功し、助けを求めました。

◆エンジニア(日本人)の方が最初に彼女を見つけ「なんだこの中国人は?」と思ったそうですが、いきなり日本語でそれも女で超びっくりしたそうです。(その時も思いましたが撃たれたりしなくて本当に良かった。) それが日揮の天然ガスプラントのキャンプでした。丁度、夕食時でみんな食堂棟にいて、叫んでもだれも気がつかなかったようです。

◆そして私たちに温かいシャワーとベッド、高熱を出していた私に日本の風邪薬に日本のカレー、ぎゅうひの入ったあんみつをふるまって下さいました。キャンプで体調を整えている間に、20年ぶりという豪雨が降り「サハラに嵐を呼ぶ女」と言われました。密造自家製ビールも沢山飲ませてくれました。

◆その後、快復した私は、所長(代理だったかも)に「アルジェの領事館に連絡する」と告げられました。旅が続けられなくなる……お願いだから見逃してほしい……1週間以内にどんなことをしても必ずモロッコに抜けるからと懇願しましたが「企業には邦人保護の義務があり、企業は領事館のバックアップがなければ、異国の地で仕事が立ち行かない……個人的には行かせてあげたいし、行かせてやれというエンジニアも沢山いるけど、事情をくんでほしい」と言われました。

◆実は「逃げちゃう?」なんて相談もしましたが、いきなり降ってわいた私たちにこれ以上ないくらい親切にして下さった恩をあだで返すわけにはいかないと、領事館の指示に従うことにしました。そして日揮は最善の安全策を講じてアルジェまで飛行機に乗せてくれ、バイクをトラックの手配をして陸送までしてくれました。

◆アルジェでは、マルセイユ行きの船に乗れるまで面倒を見て下さいました。アルジェでは領事に「テロが頻発していて本当に危険なので、奥さんやお子さんがみんな帰国したのに常識が無さ過ぎる、あんたがたの死体を拾いに行きたくない」とこっぴどく叱られ、大使には「こんな危ない国に来ちゃいけないよ、早く帰んなさいね」と諭されました。

◆もちろんあの時、お世話になった日揮の方々は20年たっていますからほとんどがリタイヤされているとは思いますが、日本からはるか遠い砂漠の真ん中で、エンジニアたちの粛々と仕事に従事されていた姿を思いますと、今回の事件は本当にショックでつらい結果でした。

◆以前は一生懸命働いて、還暦過ぎたらまたゆっくりサハラに行こうと仲間と話していましたが、20年たっても変わらない……15年後に変わっているでしょうか。

◆犠牲者の方々のご冥福をお祈りします。(青木明美

今の世の中で商業的なことを一切抜きで、こういう活動を綿綿と続けているということは本当に驚きです

■「えっ! まだやっているんだ……」ネット上でたまたま地平線会議という文字を見つけそのサイトを覘いてびっくりしました。私が地平線会議を知ったのは、もう30年程前のことです。アフリカと山が好きで加藤大幸さんが主宰する「よいこ山学会」に入会し、大幸さんの報告会に行ったのが最初だったと思います。当時会場だった青山のアジア会館に集まっていた人々からは、何か独特なエネルギーを感じました。

◆元来、旅や冒険に興味があったので報告会で見聞きすることはとても刺激的なことでした。今でこそ個人レベルの旅の記録や写真などもネットでいくらでも見ることができますが、当時は出版物にでもならなければ目にすることさえできなかったものです。そんな時代にスライド写真や8ミリフィルムの映像を見ながら本人がナマで語る報告会は本当に貴重なものだったと思います。そんな貴重な話を聴いて、いつか自分もと想いを強くしたものでした。

◆その地平線会議が今でもまだ続いているということを知り、これは是非行ってみなければと思いながら都合があわずにやっと参加できたのが今回の報告会。最後に報告会に行ったのは20数年前のこと。現在はどのようなものになっているのだろう……。

◆行ってみてまた驚きました。報告会の雰囲気は全く変わっていませんでした。変わったのは会場が青山のアジア会館より広くなりテーブル付きでゆったり座れるようになっていたことと写真がスライドではなくデジタルになっていたことくらいでしょうか。あっ、あと江本さん(当時かなりの長髪だった)の髪が短くなっていたことと白根全さんが大きくなっていたこと(笑)。長野さんはほとんど変わっていない気がしました。

◆1979年から今まで毎月欠かすことなく続けられていた地平線会議。今の世の中で商業的なことを一切抜きで、こういう活動を綿綿と続けているということは本当に驚きです。江本さんをはじめとする世話人の方々のご尽力のおかげだと思います。ネットがなかった時代に貴重に感じたナマの報告会は、ネット社会の今だからこそより一層貴重なものに感じました。

◆私も地平線会議の報告者のような冒険はできませんでしたが、30年前にツアーでケニア・タンザニアに出かけてから、その5年後には約半年のアフリカ縦断トラックツアーの後、ケニアに1年ほど滞在していました。本当はそれから陸路で日本に帰ろうと思っていたのですが、日本への航空券を安く手に入れたこともあり、まっすぐ帰国してしまいました。

◆子育てが一段落したここ数年で山歩きを再開、国内の山々、キナバル山、アグン山、リンジャニ山などに登ったりしています。今年はまたネパールあたりにトレッキングに行きたいと思っています。実は諸事情が許せば中南米を長期で放浪したいと密かに想っているのです……。

◆ともかく、こんな素晴らしい活動を続けていて下さってありがとうございます。これからも地平線会議が末永く続くことを願います。(山下エリナ


特別レポート

 光のパイプオルガン

神尾重則(医師)

■昨年の夏、イランの最高峰ダマバンド山(5671m)に登頂した。雪しまく山頂からはカスピ海を望むことはできなかったが、BC近くの山の斜面には、宮沢賢治が「光のパイプオルガン」と表現した光芒が立った。天と地を結ぶ光の柱。雲の切れ端から放射状に降り注ぐ薄明光線は荘厳であった。

◆標高の高いところには、宇宙からの小さなメッセンジャーが存在する。宇宙を飛び交う放射線。それが大気中に入射するときに発生する2次宇宙線である。この宇宙線量は1500mきざみで倍に増える。ダマバンド山頂では、富士山頂(空間線量120ナノシーベルト/時)の2倍以上の放射線を受けることになる。

◆放射線の波長は、可視光線の波長(360nm〜830nm )より短いことから、目で捉えることはできない。日本は今、この目に見えない放射線に苛まれている。昨年の南相馬地平線報告の中には、「線量計で何が見えたか」というレポートがあった。被ばく線量を厳密に知るためには、個人積算線量計を装着しなければならないが、空間線量に滞在した時間を乗じて推計することはできる。

◆空間線量3.8マイクロシーベルト/時という数字を考えてみよう。レポートの中にも記載されていた赤いランプの点滅する値に相当する線量だ。1日の屋外滞在(8時間)、屋内滞在(16時間)、建物の遮蔽効果(0.4)として推計すると20ミリシーベルト/年になる。これは、政府が計画的避難区域や居住制限区域の指定への目安としている放射線防護上の基準値である。

◆ところが、個人の被ばく線量は、住居の種類(木造・コンクリート)や生活パターンによって大きく変動することから、実際には空間線量の約3分の1から10分の1に低減されるという。すなわち、20ミリシーベルト/年と推計された個人線量は、実は2〜7ミリシーベルト/年になると推定されるのである。放射性物質の汚染対処とリスク管理を考える上で、この「低減率」をどう設定するかは重要な問題であり、住民の健康不安の軽減にも繋がろう。

◆生体に放射線が当たったとき、細胞内では何が起こっているのだろうか? 外部、内部、人工、自然の被ばくを問わず、シーベルト単位の線量が同じであれば、人体への影響は変わらない。放射線の種類の違いや臓器の感受性を考慮したシーベルト単位で比較すれば、同じフィールドで被ばくの影響を評定することができる。

◆高いエネルギーの流れである放射線は、原子を構成している電子を弾き飛ばし(電離・イオン化)、分子を切断する作用を持っている。この作用により、生命の設計図であるDNAは直接的に傷害される。また、放射線によって細胞内の水分子から生じた活性酸素は、間接的にDNAを損傷することになる。

◆放射線による細胞障害は、サッカーになぞらえると、ゴールを脅かす敵のシュート。生体内には、これを阻むシステムが、幾重にも張り巡らされている。すなわち、DNA の傷を治す修復タンパク、活性酸素を消去する抗酸化酵素、免疫による異常細胞の排除、自発的な細胞死(アポトーシス)などの存在である。こうした守備的プレーヤーの活躍がなければ、生体は致命的な失点=がんの発生に晒されることになる。

◆活性酸素によるDNAの損傷は、普通の生活では1日数万から数十万に及ぶ。それでもDNAはすぐに修復されている。100ミリシーベルト以下の低線量被ばくであれば、DNA損傷の数は数百に過ぎないといわれ、むやみに危険視するほどではなさそうだ。とはいえ、発がんのリスクが重複すると防御能力を超えることもある。

◆喫煙は1000〜2000ミリシーベルト、肥満は200〜500ミリシーベルトと同等の発がんリスクがあるという。排除可能なリスクを潰しておくことは、サッカーと生体の何れにおいても共通の戦術となる。

◆100ミリシーベルト/年(=0.11ミリシーベルト/時)の低線量被ばくでは、生体防御機能が充分に機能して、発がんに至るリスクはほとんど増加しない。広島・長崎の原爆被ばく者に関する調査では、長期間にわたる100ミリシーベルトの被ばくで、生涯のがん死亡のリスクは約0.5%増加すると試算されている。

◆ここに100ミリシーベルトの放射性物質が含まれた八海山の一升瓶があると仮定しよう。このお酒を1時間で飲み干すときと、1年間をかけてちびちび飲む場合を比較する。最終的には同じ100ミリシーベルトの被ばくではあるが、人体への影響は大きく異なるだろう。慢性被ばくのリスクは、急性被ばくの2分の1から10分の1になるといわれ、線量率効果と呼ばれている。

◆ダマバンド山の北西、カスピ海の沿岸にラムサールという美しい都市がある。湿地の保存に関する国際条約でその名は知られている。ここの自然放射線量は29.7マイクロシーベルト/時、260ミリシーベルト/年にも及び、世界でも有数の高自然放射線地域にあたる。温泉の噴出によるラジウムが原因とされる。訪れることは叶わなかったが、がんの発生率は対照地区と大きな変わりはなく、人々は普通に暮していると聞いた。

◆科学的なエビデンスから、低線量被ばくのリスクは限られていることを説明しても、人々が心に抱く大きなリスクを消し去ることはできない。リスクを認識するときの基準となる恐ろしさ(制御困難な惨事をもたらす)や未知(将来にどのような影響が出るか感知できない)やリスク管理者・リスク発信者への信頼度(正しい選択と価値の共有)などの因子が影響するからだろう。

◆さらに、人類10万年の歴史を振り返ると、理論に基づく判断よりも、感情や直観のほうが生き延びる上では重要であった。低線量被ばくは不条理以外の何ものでもない。リスクと利益をトレードオフする余地がないことも要因となろう。一刻も早く福島の空に「光のパイプオルガン」が奏でられることを祈りたい。


ドキュメンタリー映画『福島 汚染された生きものの記録』について

━━400回記念報告会で、アフガニスタン潜入について話をしてもらったカメラマンの明石太郎さんから━━

■現在も高濃度放射能を大量に放出し続けている復元不可能な東電福島第一原発、そのまわりに広がる無人地帯。人間の立ち入りが制限されている地域でいま野生動物たちはどのように生きているのだろうか。見てみたいと思い、2012年4月下旬、警戒区域解除となった福島県南相馬市小高地区へ入った。

◆南相馬市街から6号線を南下して小高区に入ると津波で流された車がいっぱい路肩や畑にひっくり返っている。アスファルトは波を打っていたり亀裂が走っていて徐行して車を走らせる。震災から1年ちょっと経ているのに震災直後の光景が目の前にあった。

◆相馬野馬追いの神事が行われる小高神社は石の鳥居が崩壊していた。駅前の商店街に人影はなく道路はがれきで通れない。海岸に近い田畑は陥没して破壊された堤防から海水が逆流して大きな池になっている。地震、津波、放射能と三重苦に見舞われた大地は、人も生きものも拒絶する凄みがあった。それでも無人の民家の庭先では梅の花が咲き、土手の桜並木は花が満開で自然のサイクルは確実に回っているのだと少しホッとする。

◆5月に再度訪問すると、無人の家にツバメが巣作りをしていた。汚染された泥を運んでの巣作りなんだろう。カエル、蝶、モリアオガエル、サンショウウオなどの野性も見える。楢葉町では木戸川河口ではシャケが遡上し、地元漁協の人が網で獲って放射線量を調べている。目下、ひどい汚染はないらしい。

◆地元の人の話だと震災の年はほとんどの果物が豊作だったという。放射能の影響だろうか? 誰にもわからない。そのまま放置された果物は野生動物のまたとないごちそうになったのに違いない。今年は平年並みだそうだが、秋にはカキが実りそれを食べにニホンザルの群れが人家の庭のカキを食い散らかしていた。

◆放射性物質に汚染された大地、人間が放射能によって追われた土地はいまや野生動物にとって別天地となっている。イノシシの家族が好物のミミズを求めて牧草地を掘り返す。車で近寄ってもすぐには逃げない。逃げた豚とイノシシの交配種イノブタが警戒区域で増えているという。

◆しかし、被爆し、汚染された食べ物を日々食するこれらの生きものたちに、これから何が起ころうとしているのか。今のところ、それは誰にも予測がつかない。ただ悲劇の予感はすごく感じる。1992年チェルノブイリに取材に行ったとき目にしたチェルノブイリ原発から4km離れた街・プリピャチ市は死の街だった。真っ赤に枯れた広大な松林。野生動物の気配もなかったことを思い出す。

◆地味で大変な取材になるとおもうが腰を据えて取り組んでいきたいとおもいます。ご協力お願いします。(明石太郎 動物カメラマン) 

★福島・生きものの記録(岩崎雅典監督)シリーズ(1)は、2月に撮影を終え、編集作業の後、公開される予定。支援プロジェクト協力金を募っています。1口2000円。
 郵便振替口座 00140-3-330658
 加入者名「福島・生きものの記録」支援プロジェクト
何口でも可。5口以上の方には映画のチケット2枚、またはDVDを送ります。

【先月の発送請負人】

■地平線通信405号の発送は1月16日に行いました。久々に海宝道義さんのうどんが豪華登場しました。以下、この日のメニューです。
 ほにゃらかうどん きのこたっぷりのブータン汁 海宝流特製の薫製 くきわかめのブルーベリー酢漬け コーヒーゼリー ビーフジャーキー
★駆けつけてくれた皆さんは、以下の通りです。千晶さんは、「みずすまし号」の首謀者として印刷、折をひとりでやってのけました。海宝さん、皆さん、ありがとうございました。
加藤千晶 森井祐介 車谷建太 海宝道義 関根皓博 関根五千子 尾方康子 坪井伸吾 江本嘉伸 石原玲 杉山貴章


2000部でスタートしたフリーペーパー「山歩みち」は10万部に!

 ──起業3年の最新報告です

■皆さま、お久しぶりです。「フィールド&マウンテン」を起業して3年が経ちました。「登山人口の増加」と「安全登山の推進」をミッションに大きく3つの事業をしています。

◆1つ目は「装備」。装備の充実のために、登山道具のレンタル事業の「やまどうぐレンタル屋」、登山道具の中古・新品販売の「やまっ子」を展開しています。やまどうぐレンタル屋は、事業が立ち上がって昨年が3期目でしたが、3万人近くのお客様にご利用いただきました。1期目が2千人でしたので、2年で10倍以上になったわけです。登山道具のレンタルは、登山を始める方が最初に感じる、装備を揃える際のハードルを下げることを目的にしています。そして、うれしいことに、登山道具のレンタルを利用した方の8割程度の方が、アンケートで、「登山を続けたい」とおっしゃっています。山があくまでメインコンテンツ。下手な装備でむやみに寒い思いやきつい思いをしなければ、山自体の魅力で人は惹きつけられるといういい例だと思います。

◆2つ目は「情報」。山への一歩を踏みだす小冊子「山歩みち」をフリーペーパーとして展開しています。こちらも、1年目は私が編集、私がライター、私がカメラマンで、2千部でスタートしたのですが、昨年は10万部、もちろんプロの編集、ライター、カメラマンの方々にお願いしています。そして、別冊としてムック本も伊豆七島、涸沢・穂高で刊行することができました。

◆読者の方にフリーで質の高いコンテンツを送り届ければ、自然と山に行きたくなる、という思いでやっています。1年目、自分の作ったフリーペーパー片手に、置いてもらうために登山道具店をまわり、断られ続けて泣きそうになっていたのが数年前とは思えません。今は、ありがたいことにどこの店舗でも「もっと欲しい」と言ってもらえるようになりました。

◆3つ目は「きっかけ」。「山から日本を見てみよう」というタイトルで、毎月無料での日帰り登山イベントを行っていて、高尾山、鋸山、大山、筑波山など関東近郊の山にみんなで行き、お昼を食べて帰ってくる、雨が降ったら中止、というゆるーいイベントを続けています。また、旅行会社と提携して、登山ガイドとしての活動も続けていて、富士山、屋久島、キナバル、キリマンジャロの4山を私がガイドしています。

◆なぜこの3つかと言えば、「登山が気になっているけどちょっと尻込みしている人」が「登山が好き!」に変わるために、「装備」「情報」「きっかけ」の3つが必要、と考えているから、です。そして、それが「登山人口の増加」と「安全登山の推進」につながると考えているからです

◆ひとつ、「環境」に関することだけ、付け加えておきます。よく、「登山人口の増加」というと人が増えすぎて環境によくない、という話を頂くので。私は、「環境」を守るためには、コストがかかることだと思っています。人が入らなければ環境が守られる、と言うのは、富士山の五合目以下を見ればウソだということが分かると思います。

◆五合目までのスバルラインができるまでは五合目以下もメイン登山道で、小屋がたくさんありました。しかし、今は五合目までバスで上がれるため、ほとんど人が通りません。どうなったか。小屋が潰れたまま残り、道は荒廃しています。言い方を変えれば、自然は守られている状態、と言えるかもしれませんが、これは望んでいる状況ではないと思うのです。

◆日本の自然は、熱帯雨林のジャングルと違い、これまで人間と共存してきました。そして、そのためには人の手が入ることが必要、と言うのは林業を見ても農業を見ても自明だと思うのです。だから、「登山人口の増加」を訴えていますが、入山制限等での自然保護は賛成です。そうすることによって、入山料やその他の経済効果の形でも、自然保護のコストが出てくればいいと思っています。そして、そのコストをできるだけ高く得るには、山の訴求価値を上げること、つまり「登山人口の増加」による需要の増大がマストだと思っています。

◆今年やりたいこと、レンタル事業では、「学校登山」をできる限り推進したいと思っています。学校登山はこれまで「体育教育」の延長としての登山でした。根性論で登らなければならなくて、達成感を目的とするものでした。しかし、山は自然科学の種の宝庫です。植生、昆虫など、自然の宝庫なのです。そして、それぞれの山は歴史を持っています。そうすると、「理科教育」の延長、「社会科教育」の延長としての山の活用ができると思っています。あと、山歩みちは谷川岳や八ヶ岳を取り上げられればと思っています。都心から近く、レンタルした方が次に行く山として最適だと思っています。

◆最後に、仕事のことだけではなく、ご報告。2月1日に3人目の子供が産まれました! 元気な女の子です。病院について15分のスピード出産で立ち会えませんでしたが、妻も子供も元気にしています。と、言うわけで、今日はこの後退院。病院に行かなければいけませんのでこの辺で。ぜひこれからもよろしくお願いいたします!(山田淳

地平線の皆さん! 二つの被災地をめぐる旅に行きましょう!!

■「日本人は詰め込みすぎるのよ」どうしたら参加者の深い学びや気づきの多い旅にできるか、とある人に相談したときにいわれました。そうだよなぁと当日の進行表を練り直し、振り向くと西日暮里の事務所の時計は、この原稿を入稿すると約束した時間に迫っています。「立って書きなさい。僕はいつもそうです」って、そりゃ無理やで、えも〜ん。

◆この通信を読んでいるみなさん、2013年2月15日から17日までの2泊3日、東北の被災地をめぐる旅にご一緒しませんか? 沿岸部と内陸、東日本大震災と2008年に発生した岩手・宮城内陸地震の2つの被災地をめぐり、災害の現場や参加者同士から、共に学び共に語る3日間です。5年前の岩手・宮城内陸地震では、山体崩壊の跡に希少な地形が現れ「荒砥沢ダムの上流崩壊地」は日本の地質百選に選定されました。

◆その後、この貴重な地域資源は復興のためにコンクリートに覆われてしまいました。今、世界有数の漁場であり、たぐいまれな景観を持つ東北沿岸部では、海が見えなくなるほどの巨大な防潮堤建設計画が立てられ、陸と海が分断されようとしています。東日本大震災を機に、私たちは経済効率を優先して短絡的に無用なものを排除してきたことが、原発事故などさらなる被害につながったことを学んだんじゃなかったのでしょうか。

◆沿岸部の復興は、そんな古くて新しい価値観が活かされた希望のまちづくりが進められる、決してそこに住む人の未来がないがしろにされるまちじゃない、と信じて疑わなかった私が、いいトシをしたオロカモノなんでしょうか。

◆この旅の主催者側の意図のひとつは、「行き過ぎた復興を見直し、荒ぶる自然も含めて、どのように折り合いをつけて共に生きていくかを考える」ことです。ですが、ご参加のみなさんには、「防潮堤建設ハンタ〜イ!」というツアーに参加するのではなく、大きな声も小さな声も「現場で」聞いて、そこから何を「感じた」のかをちゃんと自分の肚に落としてほしいのです。そこで、そこから、何が起こるのかわかりません。何も起こらないかもしれません。あなたがいるから起こるべきことが起こるはずです。そんな時間に立ち会いたいのです。(八木和美 一般社団法人RQ災害教育センター事務局長 2月5日20時24分)

  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

★見る、感じる、対話する。東北、2つの被災地から、未来を見つめる旅★

日 程:2013年2月15日(金)〜17日(日)2泊3日
参加費:2万円(現地までの交通費、初日の昼食代、飲み物代別途)
主 催:一般社団法人RQ災害教育センター
協 力:くりこま高原自然学校、日本エコツーリズムセンター

<初日>11時集合(石巻駅)
 IRORI石巻にて、石巻2.0の方に活動のご紹介をいただきます。
 :雄勝・名振マザーミサンガづくり(名振の仮設住宅でお母さんたちから教えていただきます)
 :南三陸町歌津(夜)地元の方より、歌津の自然、防潮堤建設の進捗など、歌津の現状をご紹介いただく予定。
<2日目>
 :歌津の町を地元の方と歩きます。
 :手のひらに太陽の家 佐々木さんから設立の趣旨などを伺います。
 :さくらの湯(夜) 5年前の内陸地震の被災者で、ジオツアーに奮闘された方から、当時の貴重なスライドを見せていただきます。
<3日目>
 :荒砥沢ダム周辺を見学し、昼食
 :14時ごろ解散(くりこま高原駅予定)

 このほか、さくらの湯で、京大防災研究所で研究されている松波先生より、地震のメカニズムなどをレクチャーいただきます。
<詳細/申込み>
 RQ災害教育センターの以下のページからお申し込みください。追って詳細をご連絡いたします。
 http://www.rq-center.jp/news/857

岩野祥子さん企画の東北への旅

■福島と宮城へ。今の日本をちゃんと見る旅。
 第2弾 2月10日 8:30〜2月11日 17:00

 2/10(日)朝8:30、仙台駅集合。
 2/11(月)17:00、仙台駅解散です。
  参加条件:寝袋・マットが持参できて寝袋で寝られること。雑魚寝をいとわないこと。お風呂に入れなくても文句を言わないこと。
  参加費:5000〜8000円程度(マイクロバスレンタル代やガソリン代・高速代などの実費を参加人数で割り勘)
      仙台駅までの交通費や食費は各自で負担。宿泊代は不要。
【スケジュール(予定)】
 2/10(日)1日目:宮城県
  8:30 仙台駅東口(マクドナルド前)集合
   マイクロバスで移動 塩釜、石巻、女川―雄勝、志津川、歌津あたりを回る予定。    宿泊は新東名の平田さん宅に雑魚寝させてもらいます。
 2/11(月)2日目:福島県
  8:00 新東名を出発。福島へ。
   南相馬の上條さんに福島を案内してもらいます。
  17:00 JR仙台駅で解散
◆問い合わせは岩野祥子さんへ。
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特別レポート

自分の名前や住所が書けない。漢字をまったく思い出せないのだ。重篤かもしれない。ふっと不安が頭をよぎった

 異変の兆しは、2年前の12月4日の夜にあった。

 疲労が澱のようにたまって、いかにも体が重くだるい。でもゆっくり一晩眠れば明朝には回復するだろう、そう軽く考えていた。師走のせわしない時節を迎え、忘年会だ、打ち上げだと、連日飲み会のスケジュールが詰まっていた。さらに年内に書き上げなくてはならない原稿に追われ、どことなく気がせいていた。飲み過ぎと睡眠不足による疲労感に加え、締め切りというストレスもあったのかもしれない。

 変調は翌早朝に起こった。外は暗いが、明け方近くであろう。尿意に目が覚め、布団を抜け出してトイレに行こうとするが、廊下へ通じるドアの取っ手がどこか分からない。

「あれっ、どうやって開けるんだっけ……」

座り込んで数分の間、ガチャガチャやって、やっと戸が開いた。そのときはそのまま用を足して再び布団に潜り込んだが、すべてが朦朧としていた。まるで寝ぼけたようだった。

朝になって、起き出してきた妻になにかを話した。「○×△、○×△」

 自分でも何を言っているのか分からない。言葉にならない言葉を発していた。

「どうしたのよ、どっかおかしいんじゃないの」

 不審そうな彼女の声。しばらくは自ら言葉を発することもなく、朝食の時間になった。

「どうしたんだろう、自分でも分からないんだ。でももう大丈夫、だと思う」

 30分ほどで、会話できるようになった。頭はぼんやりしていたが、その日は朝から打ち合わせの予定が入っていた。妻の不安を振り切るようにして、市ヶ谷の会社に出社した。

 異変はその後も続いた。パソコンを立ち上げるが、パスワードが分からない。電話をかけようとしたが、ノートを見ても番号が覚えられない。打ち合わせの最中も、会話はしているのだが、どこかうわのそらだ。ぼんやりしていて、なんでもただ流しているといった感じだった。

 午後は一番で面会の予定が入っていた。しかもその日が初対面、はずせない大切な約束だった。それなのに駅の直前で、かばんを持ってきていないのに気がついた。当然、お金もカードも定期もない。すぐ会社に帰り、かばんの所在を確認するより先に、同僚から現金だけを借り、タクシーに飛び乗った。名刺を持ってきていない不作法を詫び、なんとかその場は繕ったが、今度は帰りの駅でキップの買い方が分からない。お金をどこに入れたらいいのか、鍵盤のどこを押せばいいのか。券売機の前でガチャガチャやっていると、やっとキップが出てきた。ほんとうにおかしかった。

 頭がボヤッとしたまますっきりしないので、6時前に家に帰り、病院へ行くことにした。通常は仕事で不在の妻が、そのときにかぎって早めに帰宅していたので付き添ってもらう。それほど緊迫感はなく、近くにある総合病院まで電車で一駅、歩いて数分かけて緊急外来へ行った。「診察カードを書いてください」と受付で言われたが、自分の名前や住所が書けない。漢字をまったく思い出せないのだ。重篤かもしれない。ふっと不安が頭をよぎった。

「このまま帰らせるわけにはいきませんよ」

 医者の問診や運動機能のチェックがあり、すぐに頭部MRIによる診断が下された。

「頭部・後頭葉に梗塞の所見。再発のおそれがあり、絶対安静のこと」

 ちょっと診察を受けてすぐ帰れると思っていただけに、まさに「青天の霹靂」であった。頭全体がボヤッとしていたので、どのくらい深刻に受け止めていたか疑問だが、ただならない事態であることは理解できた。すぐに寝かされ、点滴を受け、即刻入院となった。

 それからまる一昼夜、点滴を受けながら、絶対安静の状態が続いた。それでも目が覚めると、だいぶ意識がはっきりしてきた。「100-7は93」「93-7は86」といった簡単な引き算の聞き取り、運動機能のチェックなどが続く。点滴で患部の症状を散らしたのだろう、自分でもめきめき回復に向かっているのが感じられた。

 後日、一般の病棟に移って、担当医から説明を受けた。

「突発性不整脈があって、血栓、つまり血の固まりができ、それが脳へ運ばれて脳梗塞を起こしたんです」

「では、その不整脈の原因はなんですか。これまで運動もしてきたし、血圧も正常だった。肥満でもないし、もちろんタバコも吸わない。それなりに健康には十分注意してきました。どこにほんとうの原因があるんですか」

 私には理解できないことだった。ふだんから山登りはもちろん、走るのも好きで、昼休みは40年近くジョギングを続けていた。ここ何年かは泳いでいないが、よく長時間、休まずに泳ぎ続けるのも好きだった。健康や体力には自信があった。だから脳梗塞を起こしたことが、まったく腑に落ちないことだった。

「言ってしまえば加齢です。年をとったことによって、心臓の伝導系に変化が起こり不整脈となって、脳梗塞を引き起こした。ただし、その部位は小さく、しかも場所がよかった。とても幸運だったと思います」

 症状が軽くてすんだのも、まったくの偶然だという。突発性不整脈は、体力があるとかないとか、運動しているかとはまったく関係なく、だれでも等しく受け入れなくてはいけない「加齢」によって起こる病態だというのだ。病院へ行くのがちょっと遅かったら、生活習慣を根底からくつがえされたかもしれない、脳梗塞という病いの恐ろしさも少し理解できた。後遺症も残らず、ただ運がよかったというだけで、私は10日ほどで退院できた。それでも退院の日、次の3点だけは確認せずにはいられなかった。

 「山に登ってもいいですか。走ってもかまいませんか。お酒を飲んでも大丈夫ですか」

 ほんとうに幸運なことに、医者からすべてにOKが出た。条件は2か月に1回程度の診察と薬の継続的服用である。だからというわけではないが、ここ数年、マッキンリーやマッターホルンを登りにいっていた。しかし昨年、絶対に登れると思っていたマッターホルンには時間切れでわずかに届かなかった。それも「加齢」の影響であろうか。この春、4年ぶりに復活したフルマラソンも、完走はしたものの、数年前の記録とは比べようがなかった(1月27日、勝田マラソンで「4時間19分56秒」)。それもまた「加齢」のなせることなのか。

 今回の病気で、私は受け入れることを少し学んだような気がする。だれでも年をとることは致し方のないことだ。脳梗塞による薬の服用もマッターホルンの時間切れもフルマラソンの記録も「受容」しなくてはならない。病気に対してはちょっとだけ臆病になったかもしれないが、あるがままを「受容」し、しかし気持ちだけは前向きにもってきたつもりだ。要はどうやって年をとるか。この春2回目のフルマラソンを3月に走るつもりだ。(62才になった 神長幹雄

信じがたい風の猛威 ━━姥沢小屋が風で全壊しました

■江本さん、すっかりご無沙汰しておりました。私は相変わらず、山形の自宅と豪雪の金山町の実家を行ったり来たりし、月に1、2度東松島に行き、気が向くと月山に歩きに行っております。この冬は12月初めにいきなり想定外の大雪でがつんとやられ、さらにここ数年のパターンとなっているクリスマス寒波による凍結と大雪でがつんとやられ、老朽化した上に普段は無人の実家の建物ではなにが起こるかわからず、時々様子を見に行くのがスリリングです。

◆クリスマス寒波の時は最高気温がマイナス3度とかいう日が続いたため、外気温と変わらない実家の台所はほんの少し滴っていた水道の跳ね返りで見事な氷の世界になっていました。水道が凍って出ないので、タオルを巻いてお湯をかけ、しばらく放置していたら水は出るようになったけれど、濡れたタオルが既にバリバリに凍っていて笑ってしまうという、「ここはどこ」みたいな状態でした。

◆むろん、雪かきは朝、昼、晩。きれいに片付けても数時間後にまた同じくらい積もる数日でした。1月後半に仕事がらみで実家に行ったときも、台所の凍結を解決してほっとしたのも束の間、お風呂を湧かそうとしたら浴槽と釜をつなぐ管からジャバジャバ水が噴出。凍結でヒビが入ったのでしょう。来週また仕事で三日間実家泊まりの予定ですが、ここ数日の陽気で解けた雪が凍結して玄関の戸が開くかどうかがちょっと心配です。

◆月山でもちょっと事件が起こり、天気のよかった1月31日に現場を見て来ましたが、自然の力の凄まじさに唖然とするばかりでした。標高約1100mの姥沢地区にある姥沢小屋が、「風」で全壊したのです。現在積雪8mくらいありますが、雪崩ではありません。1階部分は雪に埋もれていますが、2階部分はなくなっており、あちこちに散在している状態でした。

◆当日は風もなく穏やかで青空が広がり、雪の上に点々と散らばる屋根だった部分とか、布団とか枕とかを見て、現実をこの目で見ているのに、にわかには信じがたいというあの感覚……津波被害地で感じたのと同じ気持ちになりました。1991年にもこの小屋は一度、2月中旬に点検に来たら、新館、旧館が並んで建っていたのに、旧館だけ土台から50mもずれたところにあったという驚愕の事態がありました。

◆その時も原因は風ではないかと言われていました。同じ場所で二度起こるということは、地形的になにか理由があるのでしょう。翌2月1日も好天に誘われ、志津から湯殿山直下のぶし沼をスノーシューでのんびりと歩き、運よくイヌワシの雄姿にも会うことができました。3月下旬か4月の陽気で、暑くて防寒着を全部脱いで歩いていました。

◆荒れれば立っていられないような強風、どこにいるのかまったくわからなくなるホワイトアウトにもなる山の天気ですが、頑丈な山小屋を吹っ飛ばすほどの力もあるとは……青空と真っ白な雪、動物たちの足跡しかない静かな山を歩きながら、自然はいつ突然牙をむくかわからないということを忘れてはいけないなと思ったのでした。 晴れた穏やかな日の雪原は脳みそをとかす楽園なんですが。(「月山依存症のあかねずみ」こと網谷由美子 山形)


[あとがき]

■フロントの原稿で発行当日ぎりぎりになって原稿を送ってくる例を思わず好意的に紹介してしまい、少し反省もしている。皆さん、締め切りは守ろうね。当日まで何ページになるかわからない通信なんて長続きしないのだから。と言いつつ長続きしているなあ。

◆12時半、津軽三味線弾きの車谷建太君から電話。きのうから風邪でダウンと聞いていたのでムリしないで、明日は雪らしいから、と言ったのに気をつかって「すいません。やはりムリそうです。熱が出てしまいました」と。なんと39度5分の高熱という。こんな日に電話くれるだけでもありがたいよ。お大事に。

◆地平線通信の発送作業は、何のご褒美も出るわけではない、ほんとうに地味な手作業だ。それなのに毎回10人前後の仲間が来てくれるのは、私には大きな励みだ。皆さん、今回もありがとうございます。

◆コーヒーが好きで、多分1日10杯は飲む。自分で淹れるのだが、うまい淹れ方がわからない。そろそろ改善をしよう、と考え、フラミンゴの首のように先が細くなった新しいとヤカンを入手、さきほど初めて淹れてみた。

◆うん、悪くないぞ、アドバイスを聞いてよかった。これをすすめてくれたのは、海宝道義さんの息子さんの裕太君。彼はコーヒーについて滅法詳しいのだ。詳しくはまたの機会にするが、どこにも何かを教えてくれる人がいることが嬉しい。(江本嘉伸


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

いまも知らないチベット

  • 2月22日(金) 18:30〜21:00
  • ¥500
  • 於:新宿区立新宿スポーツセンター(03-3232-0171)

チベットではこの数年、主に僧侶による焼身自殺抗議が相次いでいます。これは、近年中国政府がチベット仏教徒に対する思想弾圧を強めた結果と考えられています。ダライ・ラマ14世のインド亡命('59)以来、民族国家の自主独立を求めて中国との葛藤が続くチベット。その現代史には国際政治も絡まり、'50〜'60年代には米国CIAによるチベット解放工作なども行われました。その主な舞台となったのは現在焼身抗議が絶えない東チベット地域でした。

米国で出版されているこうした英文情報をまとめ、この2月に「チベット民族国家崩壊に至る抗争の歴史」という小冊子を上梓したのは倉知敬さん。倉知さんにこの論考執筆を依頼したのは、東チベットの無名峰現地踏査を20年に渡って今も継続し、英文で世界に発信している中村保さんです。

中村さんは昨年9〜10月に東チベットの6000m級の山塊、ガンガとカワロリの調査を行いました。続けて雲南、四川に飛び1850年代にフランスが派遣したメコン探検隊(ラグレー隊長)の足跡を追うなど精力的な旅をしました。今月は倉知さんと中村さんに、文献と言質踏査の両側面から知られざるチベットを紹介して頂きます。


地平線通信 406号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井祐介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2013年1月16日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方


地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替(料金が120円かかります)、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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