2014年7月の地平線通信

7月の地平線通信・423号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

7月9日。目が覚めたら、外はすでに薄明るい。あれ? 5時にセットしたはずの目覚まし時計、鳴らなかった? なんと6時2分前。大慌てでテレビをつける。猛烈な「台風8号」の現在地点の様子が実況中継されている。すみません……、とつぶやきつつチャンネルを変えるが、民放含めてどこもやっていない。最後に2チャンネル、NHKEテレ、でお目当ての現場が出て来た。えっ? ええっ? まさか、まさか……。

◆日本時間の今日午前5時に開始したはずのW杯サッカー準決勝、ブラジル・ドイツ戦。すでに後半戦に入り、なんと「5-0」でドイツが圧倒しているではないか。もちろんドイツは強いが、いくらエースを欠いたからと言って、5回の優勝を誇り、今回、国をあげて「悲願の開催国優勝」を目指して来たブラジルが前半だけでこんなにこてんぱん、にやられているとは。

◆サッカーはど素人だが、見始めるとスピード感溢れる展開が面白く(とくに、攻めこんでいた側が一瞬にして守りに追い込まれる、いわゆるカウンター攻撃の迫力!)、日本があっさり予選で敗退した後も、むしろ熱心にテレビ観戦を続けている。だから、決勝リーグの顔ぶれが決まって「どことどこの決勝になると思いますか?」と聞かれた時、「ネイマールのいるブラジルと、ロッベン擁するオランダ」と即答できたほどだ。

◆そのネイマールが準々決勝のコロンビア戦で脊椎骨折の重傷を負い、出場不可能になっての準決勝。「スター不在でむしろチームの結束は高まった」と伝えられたが、とんでもなかった。あまりに想定外の展開にスタジアムは呆然。サポーターたちは泣きながら観戦していた。後半戦も、6点目、7点目、といいようにドイツにしてやられ、ドイツのキーパー、ノイアーの鉄壁ぶりもあって、結局「7-1」でドイツの圧勝。「『マラカナンの悲劇』以上の惨劇」とメディアは伝えた。(9ページ「今月の窓」参照)

◆決勝は、ドイツvs明日のオランダ・アルゼンチン戦の勝者となるが、どこが優勝するか、にそれほど関心はない。ただ、今回のW杯を通してサッカーはやはり欧州と中南米のものなのかも、という今更ながらの感慨が私にはある。遊びと言えばサッカーしかなかった、多くの国々。日本はそんなに焦らなくてもいいのでは。

◆それよりも何よりも、今回断然気になったのは、選手たちの豪華な(?)刺青である。もともとスポーツでは禁止されていたはずだが、選手たちは、どうしてあれほど念入りに、腕や足、全身にタトゥーを入れるようになったのだろうか。イングランドのあのハンサム男、ベッカムが火をつけた、とも聞くが、要は、スポーツマンの新たなおしゃれなのだろう。東京五輪を控え、日本のスポーツ界もタトゥー全面解禁になるのであろうか。

◆台風8号で、沖縄行きのかなりの航空便がストップしている。飛び立って着陸できない事態を想定すれば、賢明な決定だ、と考えるのは、先週土曜日の経験があるからだ。先月に続き、またも兵庫県豊岡市に向ったのである。羽田から伊丹空港経由の飛行機で、こうのとり但馬空港までの予定だったが、霧が深くてしばし上空を旋回しながら、30分も待つことに。結局、着陸できず、伊丹空港に引き返した。

◆ここからバスで大阪駅に行き、列車に乗り継ぐのだが、「城崎行き特急こうのとり」はほぼ満席。最後の1席を何とか入手して飛び乗った。なんでもあの「号泣会見」で世界的に有名になった県議のおかげで、城崎はすっかり有名な観光地になってしまったそうだ。そう言えば、テレビのワイドショーでは繰り返し県議が「出張した」城崎温泉の風景を見せていたな。

◆植村直己冒険館で先月運ばれたばかりの、シートで保護された「縄文号」「パクール号」と再会した。ムサビ、国立科学博物館でさんざんお馴染みの2隻のカヌー、多分、冒険館20周年の式典が開かれる11月には帆をかけた、美しい姿で生き返るのだと思う。関西方面の方は、今から楽しみにしていてほしい。」

◆女性支援活動のために発足した特定非営利活動法人「WE(ウィメンズアイ)」が1周年となったのを記念する集いが6月21日、都内で開かれた。乾杯の言葉を述べた人の名に心当たりがあるが、だいぶ以前のことなので顔が一致しない。のちほど挨拶した。「江本さん、もちろん覚えてますよ!」

◆田島誠さん。6月いっぱいまでは、「国際協力NGOセンター (JANIC) 震災タスクフォース チーフコーディネーター」の肩書き。私にとっては、1982年4月30日、第30回地平線報告会で「国境、難民村からの報告」のテーマで話してもらった青年だ。

◆あの後、アメリカに渡って学んでいたことは、後に『地平線の旅人たち』(窓社)という本を出した際のアンケートで知っていたが……。長く続けていると、こうした再会があるのですね。いずれ、ゆっくり話をお聞きしたい、と思っている。(江本嘉伸


先月の報告会から

ATK(アタック)48・北極ヘビー・ローテーション

荻田泰永

2013年6月27日  榎町地域センター

■6月の報告者は北極冒険家の荻田泰永さん。荻田さんは、たくさんの貴重な映像を見せながら、現在の北極圏の様子と北極点を目指した今年の挑戦について話してくれた。

◆まずは自己紹介から。荻田さんは1977年生まれ。2000年から北極圏に通い始め、今年で13回目になる。きっかけは大学を中退してアルバイト生活をしていた1999年夏に、極地冒険家の大場満郎さんを偶然テレビで見て知ったことだった。「それまで北極に行きたいと思ったことなどなかった」という荻田さんだが、大場さんの姿に心が大きく動いた。「テレビの前の自分は、何かできるはずだという根拠のない自信と行き場のないエネルギーを持て余していた。だけどテレビの中の大場さんは明らかにエネルギーを使い切って生きているように見えた。そんな姿がうらやましく、かっこよく見えてしまったのだと思う」。翌年、レゾリュートから北磁極まで700キロを35日かけて歩く大場さんの遠征隊に参加。荻田さんにとって初めての海外旅行であり、初めての本格的なアウトドア体験だった。

◆2001年からは一人でも通い続け、レゾリュートからグリスフィヨルドまで500キロを単独で歩いたり、犬ぞり冒険家の小嶋一男さんとグリーンランドの2000キロを走破したり、ノンフィクション作家の角幡唯介さんと英国のフランクリン隊の足跡を辿る1600キロの二人旅をしたりと、毎年のように北極圏行きを繰り返し、12年に続いて2度目となるのが「無補給・単独・徒歩」で北極点を目指す挑戦だ。

◆出発点はカナダ・エルズミア島の最北端にあるディスカバリー岬。日本を発つとまず、バンクーバーに降りて食料や装備を調達し、オタワを経由してイカルイットへ。ここで10日間ほどのトレーニングを積んで、定期便でレゾリュート。最後は飛行機をチャーターして北緯83度のディスカバリー岬まで飛び、北緯90度の北極点まで800キロを50〜60日かけて人力で踏破する。途中で食料の補給は一切受けない無補給の単独行だ。

◆成功すればノルウェーのボルゲ・オズランド(1994年)、イギリスのペン・ハドウ(2003年、でも本当に無補給だったか疑わしいとか)に続き、史上三人目の快挙という。素人としては意外に少ない印象を受けたが、“納得”の理由が荻田さんの口から次々に語られる。

◆例えば地理的、環境的な問題。ご存知の通り、南極点と違って北極点は海氷上にあり、北極点のあたりは水深4000メートルの海の上に厚さ2〜3メートルの薄い氷が浮いているイメージだとか。しかも温暖化の影響で年々薄くなった氷は、付近を西から流れる極横断流の影響を受けてどんどん東に流される。植村直己さんの時代に多くの冒険家が出発点にしたコロンビア岬でなくディスカバリー岬が選ばれるようになったのも、できるだけ西からスタートしたいという理由からだ。薄氷には割れ目(リード)もできやすく、「いちいち迂回していたらキリがない。いかに海を通過していくかが重要」と荻田さん。そこで、最近の北極冒険で欠かせないアイテムになっているのが「ドライスーツ」なのだ。

◆ドライスーツはボルゲ・オズランドが海洋作業着などを扱うノルウェーのメーカーに作らせたものだといい、目的はズバリ「北極徒歩冒険で氷の割れ目を効率的に通過するため」。防寒着の上から着脱でき、1.6kg程度。空気を一緒に着込むので水面に浮き、軽く泳ぐこともできる。荻田さんがドライスーツで水に入っている写真を見ると、膝下と胸より上が水上に出て腰の辺りが沈み、ちょうど大きめの浮き輪の上に寝そべっているような格好だ。カヤックを使うほど大きくはないが、飛び越えることもできないリードに出会ったときに活躍するという。

◆他の装備は、ガソリンのストーブや鍋、ヘッドランプ、熊よけの火薬やスプレー、GPSやコンパス、温度計、アイススクリュー、マット、化繊とダウンの2種類の寝袋とライナーなど。必要不可欠なものを最小限に抑えるが、50日分の食料を合わせると計120キロ。ソリ2台に積み込み、平らな所では2台を連結させて引っ張り、乱氷帯など凹凸の激しいところでは1台ずつ引き上げて運ぶ。この50日分の食料というところで今回は涙をのむことになるのだが、多めに用意すればいいかというと、それはそれで荷物が重くなって進まなくなるという難点がある。

◆特にスタート直後の沿岸部付近は、陸地に向かって流れるボーフォート循環流の影響で氷の乱立が激しい。報告会で流されたビデオには、重い荷物を引きずって何メートルもの氷のブロックをひとつひとつ苦労して越えていく過程が記録されていた。壁のような氷の上に立ち、なかなか上がらないソリを引っ張り上げる様子は見るからにしんどい。……などとぼんやり映像を見ていたら突然、画面の向こうの荻田さんが話しかけてきた。

◆「キツイ!誰か押してくれ、後ろから。そこで見ていないで!」。会場の様子を見透かしたようなサービス精神溢れるコメントに笑い声が上がった。「誰もいねえんだけど。大変そうだねって見ているね、向こうで。大変だよ!やってみろよ!」。いま北極にいる冒険家とテレビ電話でつながったような不思議な感覚になり、「いやいや無理だわ!」と思わず口元まで出かけた。そもそも何十キロもの荷物が私には持ち上がらないし、それを一日に何十回も、そして何日も繰り返すなんて想像するだけで発狂しそうだ。「ホント自制心との闘いです。イライラすると行動が雑になって装備を壊したり、自分が怪我をしたりするので、その辺に当たり散らしてスッキリします」。体力と、それ以上にものすごくタフな精神力が必要なんだと改めて感じさせる映像だった。

◆報告会では、そんな北極の風景を写した貴重な映像が次々に流された。しかも、荻田さんの喜怒哀楽もバッチリ映し込まれているのが印象的。例えば、氷のリードに直面した場面では、リードを挟んで向こう側の氷とこっち側の氷がキューキュー音を立てながら前後にずれて動いているのがハッキリ写る。これを前に荻田さんは、「いまここを通ってきました。危ないから回避。怖かったー! 恐ろしいわ!あり得ないわ!」と驚きと恐怖心を露わにし、またある日の行動風景では「もう嫌になってきた……」と漏らしている。

◆いまにも割れそうな20センチくらいの薄い氷を進んでいくシーンもあった。いずれ水に落ちるのは本人も分かっていて予めドライスーツを着込み、ソリにカメラをセットして(そう、画面に自分の姿がきちんと映り込むようにセットして)、四つん這いになってそうっと進む。そのうち、まず左膝が抜けて水に落ち、「ヤバいと思って」今度は腹這いになって進んでいくのだけど……、(ひゃ〜危ない!)とヒヤヒヤする観客を前に、北極の荻田さんの体は静かに水の中に沈んだ。この一連の映像は、北極の海氷上を歩く心許なさを充分に見せつけてくれた。

◆そして、北緯86度22分まで進んだ44日目(行動日数で38日目)、荻田さんは今年のエクスペディションの撤退を決めた。大きな理由は食料不足だ。当初の計画で1日4200〜5000kcalの食料を50日分用意したが、行動14〜15日で通過する予定の最初の1度(約110キロ)に17日を消費。スタート直後は荷物も重く、乱氷帯も激しいためペースが上がらないのは想定していたが、それを上回る遅れが生じていたのだ。そこで荻田さんは、その時点から行動計画を55日に修正し、1日1割程度の食料をセーブして進んできていた。だが……。「そもそも1日7000kcalくらい消費している北極で、規程より少ない食料にさらに制限をかけたので、とにかく腹が減る。日に日に脂肪は減って、頭まで痩せて帽子がゆるくなった。正直キツイわけです。キツいとメンタルも削れて来るし、集中力が落ちているのも分かる」。そしてその日、日本の事務局と毎日欠かさない衛星電話で、「これから3日ほどブリザードがくる」という予報が伝えられた。

◆「ここで3日間吹くのかよ……」。すぐに様々な計算が荻田さんの頭の中をかけめぐった。ブリザードで3日間動けなくても、この飢餓状態では少なくとも1日分の食料は消費せざるを得ない。そうすると1日分の行動時間が削られる。風で氷が動いてまた乱氷が増えるし、自分もどれだけ流されるか分からない。それでも行けるのか……。荻田さんは「ものすごく悩んだ」と言う。多分あと17、18日で北極点まで到達できる。セーブしていけば計算上はそれだけの食料も確保できる。体の状態はどうだろうか……。そこで荻田さんはハタと気がつくのだった。「計算上は捻出できると考えているが、これは行くための計算だった。必要な55日に手持ちの食料を当てはめて算出している。『いまヤバいぞ、俺』と思って過去を振り返った。角幡と動いたときの飢餓感、あのときどれだけ体が動いたか。あれ以上に乱氷が厳しいという予測。いろんなシチュエーションを考えるとあまりにリスキーだった。もしかしたらエイヤーでいけるかもしれないが、リスクはどんどん高まっていく。カツカツの状態で北極点を目指すのは得策ではないなと思った」。

◆再び日本と連絡をとってピックアップを要請した。それから迎えが来るまで3日半ブリザードに閉じ込められたが、多いときは1日22.8キロ東に流されたという。「正直、悔しい。自分の力が及ばなかったという気は全然しない。大きな装備のトラブルも怪我や凍傷もなく無事にきていた。ただ食料が足りなかった。なんで俺はあと5日分の食料を持っていかなかったんだと、そればかりだった」。荻田さんは「惜しかったなあ」と繰り返し、「来年またチャレンジしたい」と話した。

◆さて、荻田さんの語る“北極”はもう少し続く。過酷な環境から街に帰ってきて、やっと温かなホテルのベッドで休める至福のひとときを迎えたのかと思ったら、実はそうでもなかったというエピソードだ。「前回はピックアップされてレゾリュートの宿で休んだ夜、寝返りをうって手がベッドから落ちた拍子に『ヤバい!氷が割れている!』と飛び起きた。床に這いつくばって『氷が、氷が』と5分くらい混乱して『あ、終わったんだ』と分かってまた寝るが、それを一晩に2、3回、一週間も続けた。今回は引き上げた後も神経が高ぶって3日間で2時間くらいしか眠れず、4日目のオタワのホテルでやはり飛び起きて窓際に行って、『氷の状態は、乱氷は……』と確認していた。氷上のキャンプで寝ぼけることは絶対なく、ずっと神経を集中させていて何かあれば即スイッチが入る状態でいるが、安全なところにきたらそれまで抑えていた恐怖感が出て来たのではないかと思う」

◆北極では身を守るために五感を研ぎ澄ませているせいか、200メートルも先にいるシロクマの気配を感じたこともあるという。まるで野生動物のようだ。だが、逆に都会で同じように神経を働かせても参ってしまう。街の宿に引き上げてからの1週間は、荻田さんが人間社会に適応するためのリハビリ期間のようなものなのだろうか。極限の環境下で本来の力をフルに発揮させるのと、ギラギラとネオンの光る都会で感覚を閉ざして暮らすのと。話を聞くうちに、どちらが正常なのか分からなくなってしまった。(菊地由美子


報告者のひとこと

北極点への挑戦は「究極の障害物競走」

■前回の地平線報告会で話させてもらってから、早いもので4年が経ちました。まさかそんな年月が経っているとは驚きでした。この4年間の間に、角幡唯介との1600km二人旅と、北極点への挑戦を二度経験することになりました。今回お話しした「北極点無補給単独徒歩」は、2012年に続いての2度目の挑戦でした。

◆現在の北極点を目指す冒険のスタイルや、植村さんの時代との相違点や今でも変わらない点など、私の挑戦の手法を通して理解してもらえればいいなと思いながら話させてもらいましたが、果たしてどこまで伝わったかは分かりません。北極点を目指すにあたっての障害となる乱氷帯やリードは今に始まったものではなく、はるか昔の極地探検の時代から同じように存在していたものであって、それを越えていく手法が変化しているだけです。

◆乱氷を越える手法は一生懸命ただただ氷の山を越えていく、という事に尽きるのは今も昔も変わりませんが、10年ほど前から小さなリードは専用のドライスーツを着て泳いで渡る手法が定番となっています。ただ、ドライスーツは巨大なリードは渡りきれません。2012年の北極点挑戦時には幅が10kmほどにもなる巨大なリードの出現もあって撤退を決めたこともあり、今回は特注のフォールディングカヤックを用意しました。しかし、今回はカヤックが必要なほどの巨大リードの出現はなく、逆にカヤックの重量で食料の余剰が少なくなり、結果的に日数不足で撤退を余儀なくされました。

◆北極海の最大の難しさは「不確定さ」にあると思っています。足下が流れ動く海氷であると言うのが、不確定さの最たる要素です。ルートの状況は毎日変化します。ずっと氷のない海であれば、海の対処だけすれば良い。ずっと凍っていれば、氷の対処だけすれば良い。しかし、北極海では海氷が流れ動く事で、氷の箇所もあれば割れて海の箇所もあり、海が2〜3日経ってうっすら凍りはじめた中間の状況にもなり、巨大な乱氷もある、しかも気温が前回挑戦時にはマイナス56度まで下がるという、人間の活動が極めて困難な、言わば「究極の障害物競走」なのです。

◆考え得るあらゆる状況に等しく対処できる手法を、自分が引いて進めるだけの最低限の物資重量内に収めながら、全ての効率を最大限に高めていく事で成し遂げられるのが「北極点無補給単独徒歩」であると思います。その難しさが面白さの裏返しでもあるのですが、できればあんな恐ろしいところには戻りたくないという思いもあります。それでも、これまで14年間自分が積み重ねてきた経験や知識を使えば、自分にはできるという自信もあるので、それを確認するためにもまた来年の再挑戦をしたいと思っています。

◆当面の問題は、今年もそうでしたが2000万円の必要資金の工面です。今年の挑戦でお金はなくなってしまったので、来年までの半年でまた2000万円頑張って作ります。どうしよう……。(荻田泰永

サポートする大木さんもまた、北極冒険家に負けないくらいのチャレンジャーだ

■巨大な氷と格闘しながら前進する荻田さん。ご自身の撮影による動画や写真の数々は驚きの連続だった。北極圏、見渡す限り氷の世界では、そこで活動する生命が一段と際立つようだった。氷点下40度を下回る世界で、そこにいる、ほとんど唯一の生命が発する温もりと動き、を想像した。

◆北極圏は一見無彩色の世界だが、撮影する時間帯や気象状況で、氷は青みがかっていたり、わずかに緋色を帯びていたり、多彩な表情があった。そりを引いて歩いてきたばかりの、氷の大地。それがキュウキュウと音を立てながら、ゆっくりと割れて、移動していく様子は、動画から伝わる、自然のスケールに圧倒された。厚い氷の下は、深い北極海なのだ。

◆動画と写真を交えながら話す荻田さんは、2010年の報告会の時とくらべて、話がとてもスムーズな印象をうけた。北極点単独無補給は莫大な費用がかかる冒険活動。遠征を実現していく中で、支援者に自分の行動をプレゼンする機会が多々あったのだろう、と勝手に想像しながら聞いていた。

◆報告会の終盤では、今回の遠征で日本の事務局を務めた大木ハカセさんのエピソードも面白かった。大木さんは、ツイッターで荻田さんにコンタクトをとったと言う。経営者として3つの会社社長を務めていたが、「荻田さんが北極での行動に専念しているのに、片手間でサポートするなんてフェアじゃない」と、会社を他の人に譲り、ご自身は事務局を法人化して運営に専念。サポートする大木さんもまた、北極冒険家に負けないくらいチャレンジャーだと思った。

◆荻田さんには1歳半になるお子さんがいるそうで、「子の誕生によって,極地冒険への考え方に変化はありましたか?」ということを、次回は伺ってみたい。(山本豊人 1才の子の父)


地平線ポストから

 シオラパルクへの7年ぶりの帰郷

■7か月続いた今シーズンの北極滞在を終えて、6月上旬に帰国した。ここ6シーズンほどは、カナダ極北域での犬ぞり活動が続いていたが、この冬は僕のホームグラウンドである、グリーンランド北西部の“地球最北の村”シオラパルクに7年ぶりに帰郷しての活動だった。ホームグラウンドに戻ったのには理由があった。昨シーズン僕のドッグチームの犬たちは、老衰、狂犬病、その他病気などによる死が相次いで、チームが崩壊状態に陥ってしまったのだ。

◆30歳を過ぎてからの僕の北極活動の中心は、犬ぞりという移動手段を利用しての観測調査だ。研究者の方たちがなかなか足を延ばせない冬期の北極圏でのデータ収集をするのだが、その際、大事なのは犬たち。重量が嵩む物資を積載したソリを曵いてもらうには、牽引力があり、寒冷下での体力がずば抜けた純粋なエスキモー犬が欠かせない。しかし、現在のカナダ北極圏ではそのエスキモー犬チームの維持が難しいのだ。

◆調査の継続のためにはどうしても犬ぞりチームを再編成したい。そこでエスキモー民族の犬ぞり文化が唯一生活の中に残されている、グリーンランド北西部のシオラパルク村に帰郷したのだった。吟味して、1〜3歳の若い犬を中心にオス犬9頭、メス犬1頭を集めてチームの母体を作った。チームとしてまとめ上げて行く作業と並行して、観測データ収集活動も行った。

◆今シーズンは研究者の友人2人が厳冬期にシオラパルクを訪れ、観測活動を共にする機会もあった。Newドッグチーム紅一点のメス犬は、今年に入って、5匹の仔犬を産んでくれ、順調に成長している。来シーズンはその仔犬たちも加わり、大所帯のチームを組めそうだ。

◆最北の村シオラパルクには、45年に亘り「エスキモーになった日本人」大島育雄さんが住んでいる。大島さんは僕にとって22歳の時から犬ぞり技術や生活術を教えてもらった師匠。一緒に大島さんの操る犬ぞりで狩猟に行ったことはこれまで何度もあったが、僕自身が操る犬ぞりで、大島さんに同行させてもらったのは今回が初めて。10日間ほどの犬ぞり旅だった。師匠は年をとったとはいえ、いまだ現役の猟師で、叱咤されながらの旅に感動した。

◆気になったのは、この数年、村周辺海域でアザラシが激減したという事実。聞くところによると、動物保護という観点で、数年前からセイウチの保護対策が布かれており、どうやらその過保護によるものらしい。セイウチが激増し、食糧の一つとしているアザラシを追いかけ回すので、その周辺海域からアザラシが姿を消したというのだ。棲息場所を変えたと思われる。

◆地域住民によるアザラシ乱獲によるものではない。そもそも乱獲というのは、その地に住んでいる民族が起こすものではないと思う。これまで25年ほどに亘ってこのシオラパルク村を見てきた限りでは、自然界(生物界も合わせて)と人間界(エスキモー民族)との関係が上手く回り、非常に調和がとれていた地域だった。良かれと外界の人間が手を下すことによって崩れる自然のバランスもある。

◆上手くいっていたこれらの調和にしても、また一方で近年騒がれている白熊絶滅の危機説にしても(実際に現地に住んでる人々や僕みたいな北極活動を続けている者の視点では、白熊は増え過ぎている)、実際に現場に足を運び、自分の眼で確かめた上でこういった保護の判断を下しているのだろうか? これまでにそういった調査員に現地で出会ったことがない。人間が主導しないといけない保護活動も当然あるだろうが、何もかも保護に走る動物保護運動に対しては、(捕鯨も含めて)僕は懐疑的だ。今後のグリーンランド北西部地域の推移を観察していたい。

◆話は変わる。以前、地平線通信で福島県浪江町から我が家にやってきた被災犬、ゴールデンレトリバーの「ホープ」君のことを書かせて頂いた。実はホープは昨年6月に老衰のため亡くなってしまった。13歳だった。僕が北極に出かけている留守中の出来事だったが、私同様犬好きのカミサンが、亡くなる1か月ほど前から弱っていたホープの世話を根気よくしてくれた。

◆ホープが亡くなる直前には、判明していた元の飼い主の家族の皆さんも大阪まで駆けつけてくれ、最期は看取られて去っていきました。我が家にやってきてからのホープが、幸せだったことを信じています。(山崎哲秀 2009年8月「アバンナット(イヌイット語で「ブリザード」の意)を駆け抜けろ!」報告者)


【通信費とカンパをありがとうございました】

■先月の通信でお知らせした以後、通信費(1年2000円です)を払ってくださった方々は、以下の皆さんです。数年分をまとめてくださった方もいます。万一、記載漏れがありましたら、必ず江本宛てにお知らせください。アドレスは、最終ページにあります。振込の際、通信の感想など書いてくださるのは大歓迎です。

吉岡嶺二(3000円 本年度通信費 よろしくお願いします。今年の夏はミシシッピー、トムソーヤの遊び場を訪ねて漕いでくる計画でしたが、家族の都合で来年に延期しました。楽しみにしています)/林与志弘/川島好子(6000円)/水口郁枝(15000円 7月1日、青年海外協力隊員としてプノンペンに着任しました。これまでの5年分とカンボジア滞在中の2年分、プラスカンパです)


蜘瀧仙人の「山がっこ」を忘れない

■「朝日小学生新聞」の記者として、震災以降、時々東北の沿岸被災地にお邪魔して取材をさせていただいている。子どもたちが仮設住宅から学校へスクールバスで通う今、長い時間をかけて築いてきた街の文化や、すぐそばにあるはずの豊かな自然を肌で感じる機会が激減している。故郷の暮らしや文化を伝えようと、多くの大人たちが動き出した。南三陸町歌津地区に住む蜘瀧仙人(くもたきのりと)こと、八幡明彦さんに今年1月にお会いしたのは、そのことを聞かせてもらうためだった。

◆南三陸町歌津(うたつ)地区の海から車で15分ほど。山道を登っていくと、宮崎駿の映画「となりのトトロ」に出てくる猫バスそっくりなワゴン車があり、その下の古い民家に、作務衣を着て、丸メガネをかけた八幡さんが待っていた。まさにその姿は「仙人」だ。 プロパンガスのボンベを改造してつくった薪ストーブに薪を足し、炭火のこたつにあたりながらこれまでの話を聞いた。

◆震災直後、東日本大震災後にできたボランティア団体「RQ市民災害救援センター」のメンバーとして、がれき撤去や写真のクリーニングなどをしていた八幡さんは、その夏、地元の人の要請を受けて子どものためのキャンプを開いた。 「まだ深刻な状況の中、子どものキャンプとは何事だ」という声も出た一方で、一部の母親らからは「またいつ災害が来るか分からない。そんなときに役立つ技術を教えてほしい」と言われたという。

◆人目につかない休耕田に「さえずりの谷」という名前をつけてキャンプをした。薪でごはんを炊き、バッタを捕って佃煮にした。夜には蜘蛛仙人や天狗などが登場する芝居をした。 参加した子どもたちは、新学期、学校の作文に「スパイダー」のことを夢中になって書いた。子どもたちからは「またやらないの?」という声をかけられた。

◆震災から半年がたち、被災地に押し寄せていた支援者が徐々に減り始めていった。子どもたちから「スパイダーは(東京へ)帰らないんだよね」と言われた。あるお母さんから「震災直後には雪が降った。雪が降った時に私たちの気持ちが分かるんだよ」と言われ、「じゃあ、それまではいます」と啖呵を切り、さえずりの谷でテント小屋で冬を越すことにした。

◆日が当たらない谷はマイナス15度くらいに冷える。火鉢だけで、寝袋に入っての生活。テント内でもマイナス8度ほど。「限界試しみたいだった」という。 冬の間も、子どもたちは遊びに来た。凍った田んぼで長靴と竹の棒でアイスホッケーをした。ヘルメットがなくても発泡スチロールを巻いて防具をつくる。マタギにもらった熊の毛皮から熊の脂をとって火をともした。タヌキや蛇を食べた。そんな生活をしているうちに、南三陸の子どもたちの中に「あの人はそうやって生きている人だ」と認識されていった。

◆南三陸には「山がっこする」という言葉がある。学校帰りに山に立ち寄り、遊んで道草をして帰ってくることを指す言葉だそうだ。あまりポジティブな意味ではなく、「なに、山がっこさ、してるだ!」と怒られる種類のものだったようだ。大人が子供に、上級生が下級生に、自然の中での遊び方を教える秘密の伝統が長い間、ここにはあった。「これはおもしろい」と八幡さんは震災後、「山がっこ」を自然学習のプログラムとして復活させた。

◆「山がっこ」をするというと、地元の人が縄のない方、燻製の作り方、道具の使い方や直し方、ありとあらゆる知識や技術を教えてくれるようになったそうだ。八幡さんはこれまで、50回以上の「山がっこ」を開催し、子どもたちと一つひとつ共有していった。子どもたちは、八幡さんの山がっこを通して、かけがえのないものを学んでいったようだ。

◆「ここは海と山が接しているので、自然と付き合う技術に関しては学ぶことがものすごくたくさんあった」という。「僕の行動が復興の何に役立つか。それは人によって評価は様々。でも、少なくとも大災害の直後はそうして生きて行かなければならなかった。それは語り継いでいかなければならない。いざというときの応用力。人間のプリミティブな感覚を養っておくことは必要」と八幡さんは続けた。

◆「子どもたちが将来ここに住むにせよ、離れるにせよ、自然は津波で流されないものだということを知ってもらいたい」という言葉は、被災地をこえて全国に通じる。次は八幡さんのもとを訪れる子どもたちを取材したい。そう考えていた矢先、八幡明彦さんの訃報を知った。

◆あの日、八幡さんの運転する猫バスで八幡さんが子どもたちとキャンプをしたという「さえずりの谷」へ案内してもらった。谷にはまだ仙人のテントが残っていたが、ちょうどそこに復興住宅を請け負う業者が現れ、立ち退きのスケジュールを確認された。復興へと向かう高台造成のための工事なので仕方のないことだが、サンショウウオの暮らす沢や、子どもたちとすごした「さえずりの谷」がなくなってしまうことに、仙人は少し残念そうな顔をしていた。

◆八幡さんの遺志を忘れることなく、いま南三陸ではじまっている、自然や文化を子どもへつなぐ挑戦をまた訪ねたいと思う。(今井尚

さあ、2018年に向って走れ! 青きサムライ達のブレークスルー

■青きサムライ達のワールドカップ(W杯 )は惨敗に終わった。梅雨空のように暗鬱とした残響がしばらく心から離れなかった。ザック・ジャパンの4年間。ホームで開催されたアジア予選にはスタジアムに足を運び、代表の試合はつぶさに眺めてきた。青きユニホームをまとい、日の丸をかざして声を枯らし、日本代表と夢を共有してきたサポーターの一人として、この結末は「ドーハの悲劇」や「カズの悲劇」に匹敵する辛いものであった。

◆鍵と鍵穴がぴたりとマッチすることで生まれる連動。本田、香川、長友らの軸はブレークスルーの予感を抱かせたが、私たちが期待した化学反応は起こらず、世界を驚かせるミラクルをブラジルの舞台で演出することはできなかった。コートジボアールの野生的パワー。ギリシャのしたたかな守備。コロンビアの圧倒的な総合力。日本代表はDグループの3国に翻弄され、あたかも経験したことのない病原体に侵されたかのように、免疫不全に陥ってしまった。

◆確かに、日本代表のW杯の歴史はたかが16年。百戦練磨の欧南米に比べれば、赤子同然の経験に過ぎない。世界基準のスピード、パワー、高さ、といった修羅場で揉まれて、はじめて生まれてくる免疫システムに未熟さがあった。そんな批評することもできよう。

◆自己の免疫システムとは、生体が外敵=非自己を撃退する仕組みである。そこには欠陥も潜んでいる。侵入した外敵を非自己と区別すると、排撃のための戦士=免疫細胞に情報が伝わるのだが、いかに優れた能力をもつ戦士であっても、今まで学習(経験)したことのない外敵=非自己であれば、手も足も出すことができないのである。

◆対戦国をがんに見立てると、その克服には、がんを制御する細胞(守備)とがんを撃墜する細胞(攻撃)の連動が欠かせない。ところが、がんのコントロールを困難にしている要因の一つにがん細胞の性質が変化することがある。免疫システムからの攻撃を免れ、アポトーシス(自己細胞死)を回避しながら、さかんに増殖するという「変幻性」を持ちあわせているのである。多様性と複雑性をもつがん細胞に立ち向かうためには、単一のシステムでは対応が困難な由縁だ。システムに潜む脆弱性。日本サッカーはこうした変化に応答できるほどに成熟してはいなかったのかもしれない。

◆試合に勝つためには選手一人ひとりが自分らしさを発揮することが重要だ。そのための要素としては5つの「C」が挙げられよう。Concentration(集中)、Control(調節)、Confidence(自信)、Communication(意思疎通)、Chance(偶然)の五角形である。今なすべきことに集中し、心と体を最善の状態に保つこと。トレーニングに裏打ちされた自信とチームの戦術を共有すること。そして偶然という不可知の力を呼び込むことである。さらにこの5つが機能すれば、芝生の上にはおのずからプラスワンのC、Charm(魅力的な笑顔)がこぼれるはずである。

◆免疫を司る細胞は、さまざまの偶然に支配されながら多様化し複雑化してゆくが、サッカーの勝敗も偶然性に左右されることが少なくない。たとえば審判のジャッジの不確実性もその一つ。何ゆえあのプレーがPKなのだろうかという場面にもしばしば遭遇する。それもまたサッカーなのである。W杯は 結果がすべての世界。勝利を手繰り寄せるのは紙一重の差でもある。たとえ強いチームであっても、短期決戦においてはサプライズがつきもの。偶然性が絡んでくるからこそ、それを凌駕する実力を持ったチームが最後に勝利するのに違いない。

◆日本vsコロンビア戦の前半。青きサムライ達が辛うじて見せてくれた躍動に、光明を見出したのは私だけではあるまい。脚を止めてうな垂れている暇はない。こうべを高く上げ、2018年のロシアにむけて走りつづけることだ。ブラジルの修羅場からは、成熟した新たなる免疫細胞が、日本代表の体内に宿ったはずである。それは進化のための一里塚。その先に約束される「戴冠」というブレークスルーに向けて、力強く脚をふりぬいてほしい。(神尾重則 医師 2005年8月「ブルーポピーの彼方へ」報告者)


【先月の発送請負人】

■地平線通信422号(6月号)は、6月11日、印刷、封入し、12日メール便で発送しました。今回も心臓バイパス手術を受けた森井祐介さんの代わりに加藤千晶さん、福田晴子さんがレイアウトを引き受けてくれ、印刷は車谷、松澤両君が奮闘してくれました。 そして、大雨が襲う天候の中、実に16人もの仲間が来てくれたのは、感激でした。そして、なんと自宅療養中の森井さんも来てくれました。これには皆、びっくり。確かに家は近いのですが、こんなに早く元気そうな森井さんを見られるとは、嬉しい驚きでした。森井さんを含め、集まってくれたのは、以下の皆さんです。美月ちゃんはじめほんとうにありがとう。
 車谷建太 松澤亮 安東浩正 福田晴子 江本嘉伸 前田庄司 久島弘 野地耕治 加藤千晶 森井祐介 杉山貴章 菊地由美子・美月 山本豊人 八木和美 石原玲


鷹取山頂の贅沢野宿!

■6月13日(金)、豪華な野宿がありました。田中幹也さんと角幡唯介さん、お二人の「対談野宿」です。きっかけは4月、本多有香さんの報告会後の出版記念バーリーで。角幡さんが来られており、数年前のブログで、植村直己冒険賞を受賞すべき人に幹也さんの名前を挙げられていたことについて、緒方敏明、山本豊人、加藤でお話を伺っていたら、お二人はまだ会ったことがないと判明。「これはもう野宿しかない!」と、やんややんや決まったので、お酒の力ってすごい、角幡さんやさしい、そして「地平線会議の場」ってすごい!と改めて思いました。

◆野宿会場は、幹也さんが翌朝からクライミングの講習の仕事があるという、鷹取山(横須賀市)の山頂にある大きな東屋の下。豪華すぎて人が大勢来るんじゃないか、そしたらつられてお巡りさんだって来てしまう、という心配もあったので、都心からも駅からも遠い場所で、ちょうどよかったのかもしれません。だって、遠くても、軽い告知しかしなくても、参加者は20人以上。地平線つながりの人(一人で野宿はさすがに……と直前まで保留だった菊池由美子さんも、めでたく参加。親子野宿の日も近いと、楽しみにしております!)、お二人の山や出版関係の方、ほかにも恐る恐る「混ざっていいですか?」と現れたり、大阪からはるばる来られた方など、色々でした。

◆乾杯後、21時過ぎにお二人の対談開始。風が通って心地よい気候の中、あちこちから質問の声が飛び交い、アットホームな雰囲気でした。0時過ぎから好きな場所に移動して寝始める人が現れ、空が明るんできた頃、最終グループが慌てて就寝。翌朝は家へ、仕事へ、別の山へと起きた人から随時解散しました。

◆肝心なお二人の対談内容ですが、話題はクライミング、冒険、極限、表現、子ども、幹也さんの好きなサンコンさんなど、あっちへこっちへ多岐にわたり、「いいお話を聞けたなあ」と幸せに眠ったのですが、起きたら覚えているのは半分くらい、それだってたくさん過ぎて、ここにはまとめられず! そうだろうと録っておいた音声は5時間を優に超えており、テープ起しをしたいと思うものの、恐ろしくてまだ手を付けられていません……。(加藤千晶

愚息がマリノス軍から1点もぎ取りました!!

◆今日はうちの息子が横浜Fマリノス追浜プライマリーと決戦の朝です♪ うちの息子のサッカーチームはしがない地域のスポーツ少年団なので、セレクションと呼ばれる選抜テストを3次まで篩にかけられ、よりすぐられたマリノスプライマリーの子供達とは格が違いすぎますが、まぁ決勝まで駒を進めただけでも上出来です!

◆結果は、ボールポゼッションも、当たりも、気迫も……まぁ言わずもがなで……2:1で敗北を喫したのですが、精鋭マリノス軍から1点もぎ取り一矢報いたのは、誰あろう我が愚息にござりまする*\(^o^)/*親バカですいませェん(笑)そして久々の優秀選手賞のメダルを頂きました。

◆まぁ得点すると、スポットライトがあたりがちで、実際ワールドカップなどもFWの選手ばかりが目立ちますが(愚息はボランチですが)本当は、マリノス相手に2点で抑えたキーパーやDFが優秀選手をもらって然りでは?と思う所もありサッカーは11人でやるスポーツなんだなぁと改めて思った日でした。

◆そういえぱ地平線報告会300回記念の時、乳飲み子だった息子も10歳になりました!生意気の入口にさしかかり、顔立ちもこどもこどもしていたのが、だんだんと少年の それに変化していて、成長って早いなと思っています。

◆閑話休題 私……だいぶ前から、荻田泰永さんのファンでした!初めて耳にした時は北極……単独と聞いて「焦げつく青春の河野兵市さん」を思い出し……また北極点を目指す人がいるんだな〜と勝手になんだか目頭が熱くなりました(笑)。荻田さんのことが通信で読めるのは本当に嬉しいです。それに荻田さんが夏休みにやっている100miles Adventureに愚息も行かせたいとずっと思っています。東京駅から富士山頂まで歩く……。うちはまだ4年生なので参加資格ないですけどね。自分の夢に向いつつ、青少年にも夢を与える……素敵です♪ 

◆私といえば、日々に忙殺されて、地平線とは遠い所にいますが、昨年12月に、やっと転職出来て、今は老人施設の相談員として、新たなフィールドで頑張っています。超高齢化、独居老人の増加、介護保険の問題点など、とりまく環境は厳しい材料ばかりで、生きるのも死ぬのも楽じゃないな〜と思う今日この頃です。歯と足は大切にしてください!(横須賀 青木明美

灼熱のデスバレーを走ってきます!!

■こんにちは。俺は現在デスバレーの冒険へ向けて、スタート地点の街ラスベガスのホテルで準備を行っています。そしていよいよ明日、6月30日よりラスベガスを出発してデスバレーへ向かいます。ゴール予定は7月中旬です。そして俺の冒険のスタイルとして、冒険中は外部との交信を遮断するので、どんな結果になるかは分かりませんが、次連絡出来るのはデスバレーの冒険が全て終わってからです。水は18.75リットル用意しました。では頑張って走って来ます!(6月30日 関口裕樹 ホテルでパッキング中の今回の冒険の装備の写真とともに)

今月の窓

ウルグアイはヘンだっ! 1% vs 99% の闘いとしてのワールドカップ

■今年のカーニバルは「世界最長の祝祭」とされる、南米ウルグアイの首都モンテビデオのカーニバルを攻略した。45日間に渡ってカラフルな行事が街中で展開されるが、メインは「カンドンベ」というアフリカ起源の胴太ドラム軍団による大迫力パレードや、「ムルガ」というオペラのような謝肉祭劇のステージ。ブラジルに代表されるパワフルなアフロ・ラテン系とも、ボリビアなどアンデス先住民系の祝祭ともまったく異なる不思議な世界で、その本質に迫るにはさらに時間が必要だろう。

◆さて、ウルグアイといってもとりわけ思い浮かぶものがないほどの小国で、ほとんど世間の話題にのぼることもないマイナーな存在である。ようやく、ワールドカップでの噛みつきスアレスの活躍? で注目を集めたぐらいか。もともとこの国自体、ブラジルとアルゼンチンという2大国が国境を接することを避けるため、緩衝地帯としてブラジルから分離独立した歴史を持つ。独立以降、軍事政権の一時期を除いては、ヨーロッパ風の高度に整備された福祉社会をめざし「南米のスイス」と呼ばれる民主国家を実現してきたのも、超大国に挟まれて微妙な政治運営を余儀なくされてきたためといわれる。

◆現大統領のホセ・ムヒカ氏が国連総会でぶったグローバリズム批判の演説も、その伝統を受け継いだものだ。ムヒカ演説は、このまま世界が経済的な発展を追求し続ければ地球の未来は破滅に至るという警告でもあり、弱肉強食の競争原理が環境を破壊し格差を生んでいるのだから、政治がそこに介入すべきだという提言は、一部で大きな注目を集めた。

◆「世界で最も貧乏な大統領」として知られるムヒカ氏は、カストロのキューバ革命に刺激されて反軍事政権の武装闘争に参加し、全身に6箇所の銃創を刻んだ元左翼ゲリラ闘士。1970年から85年まで投獄され、16年間の獄中生活のうち15年間は独房入り、当初7年間は読書すら許されないという苛酷な日々を耐え抜いた筋金入りだ。現職に就いて以来、大統領職の月給1万2000ドルのうち90%を福祉事業などに寄付し、「それは犠牲ではなくて義務だ」と語る。上院議員である妻の農園の一隅に建つ質素な家で3本足の愛犬マヌエラと慎ましく暮らし、資産は農作業用のトラクターのみ。30年来の愛車ワーゲン・ビートルを自分で運転し、病院でもほかの患者に混じって自分の順番を待つという、まさに清貧の人である。

◆「私は貧乏なのではなくて、質素なだけだ」という彼は大統領専用機も持たず、国際会議など外遊の際はブラジルやメキシコ大統領に頼んで一緒に乗せていってもらう。あちこち派手に外遊しまくってはただアホを晒して顰蹙を買いながらそれにも気づかず、挙句の果てにはドヤ顔で戦前を始めた独裁者チックな某国総理とは大違いである。

◆そのウルグアイで彼はどのように評価されているのか、行きあう人に軽く聞いてみた。ほぼすべての反応は「あぁ、ぺぺ(ムヒカ氏の愛称)ねえ。いいんじゃない」で終了。それより何より話題はサッカーであり、今年はマラカナンの悲劇以来もしかして勝つかものワールドカップだった。

◆このところ、平均で年の半分を過ごしている南米大陸どこでも、サッカーと音楽は水や空気と一緒。あるのが当たり前で、それなくして人間は生きてはいけないものなのである。その南米では、失点を避けて勝利だけを求めるサッカーは支持されない。勝つことはもちろん、美しく勝たなくてはならないのだ。現在の極度にグローバル化し、商業化されたサッカーは美しくない。南米の若手で有望な選手は、ヨーロッパのクラブチームに高値で買われ、合理的に勝つことのみが要求される。

◆サッカー王国ブラジルでW杯に民衆から抗議の声が上がり、デモが頻発したのは、FIFAや多国籍企業に経済的に独占される現状への強烈な抵抗の表れだ。巨額の税金をつぎ込んでハコモノを建設し、福祉を切り捨ててまで商業的なイベントを提供することで、貧富の格差など社会的な問題を隠蔽するW杯への本質的な疑問を突きつけている。噛み付いてでも、脊椎をへし折ってでも勝とうとするサッカーは、本来の南米サッカーの理想とは別ものだ。ましてや、負けた試合のあとスクランブル交差点でハイタッチ、などという低民度の国が一勝でもしたら、サッカーの神様がお許しにならないであろうことは言うまでもない。(カーニバル評論家ZZZ@ペルー)

■マラカナンの悲劇 1950年7月16日にリオデジャネイロの「エスタジオ・ド・マラカナン」でのFIFAワールドカップ・ブラジル大会の決勝リーグ第3戦。ブラジルは強豪スウェーデンを7-1、スペインを6-1の大差で連勝し、最後のウルグアイ戦で勝つか引き分ければ悲願の「開催国優勝」が決まるはずだった。しかし、見事に先制はしたもののウルグアイに逆転され1-2で敗北。大会はウルグアイが2度目の頂点に立った。観客2人がショック死。2人が自殺。この敗北の衝撃は今も消えていない。(E)

あとがき

■7月2日、集英社インターナショナルから「『犬と、走る』、重版決定しました」との一報が。ああ、良かった。26頭のわんこたちの食費分として、初版4000部は少ない、と思っていたから。増刷分は1500部だが、これをきっかけに、万単位にのっけたい。まだの人は是非1部買ってあげて。

◆当の本多有香さんは「増刷よかったよかったです。近況と言われてもとりたてて話すことはないのです。毎日働いています」と相変わらず素っ気ない。「あ、そういえば画伯に描いていただいた絵をこちらに在住されている元グラフィック職人のケイコ巨匠に頼んで、ドッグボックスに描いていただく為にいろいろ準備しましたが、この前偶然通りかかったので見に行ったら、まだ手付かずの状態でした」「どうしてこう絵心のある人たちは、ノレばあっという間にものすごい質のものを作成できるくせに、なかなかそこまで行き着かないのでしょうか? またしばらくじっと我慢することになりそうです」だって。

◆森井祐介さん、今号からレイアウトの仕事に復帰してくれました。ムリしないようにお互い、気をつけながら。

◆今年の地平線カレンダー、7月の14日に祝日マークがついていますが、間違いです。21日が「海の日」の祝日。どうか訂正ください。モンタナの風景を描いたカレンダーの絵については、とても好評なのですが。

◆北関東の友人からゴーヤ、胡瓜など手作り野菜をどっさり頂き、贅沢な気分の7月である。(江本嘉伸


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

プラスチックの渚から

  • 7月18日(金) 18:30〜21:00 500円
  • 於:新宿スポーツセンター2F
  • (※今月は第3金ですョ!!)

「最初は、犬の散歩の途中で空き缶なんかを拾っていただけなんです」と語るのは、JEAN/クリーンアップ全国事務局として'90年から海洋ごみ問題に取り組んできた小島あずささんです。「でも、翌日にはまた捨てられちゃう。ただごみ拾いするだけじゃ自己満足にすぎない。もっと根本を変えないと、と思い至りました」

そんなとき新聞記事で知ったのが、アメリカの国際環境NGOによる「世界中で一斉に海岸のごみを拾おう」という呼びかけ。以後小島さんは「国際海岸クリーンアップ」の日本事務局として、全国の仲間とのネットワーク作りや情報の共有、啓蒙活動に打ちこんでいきます。「海ごみと聞くと、猟師や海遊びをする人たちが捨てたものと思われがちだけど、川伝いに内陸から流れてきたごみが8割を占める地域もあるんです」

最近では外国からの漂着ごみも多く、人目の届かない浜辺や離島に堆積していきます。「海鳥や海獣たちに絡まったり誤飲したりするだけじゃなく、目に見えないほど細かく分解されたプラスチックが海洋生物の体内に取り込まれていくと知ると、背筋が寒くなりませんか?」

今月は海の日を前に、小島さんと共に海ごみと地球環境について考えてみたいと思います(文・丸山純)


地平線通信 423号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井祐介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶 福田晴子
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2014年7月9日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方


地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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