2016年3月の地平線通信

3月の地平線通信・443号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

3月9日。雨が降り出した。4年ぶりの部分日食というのに、東京では何も見えない。釧路からの中継映像は素晴らしかったが。

◆5、6日の週末、福島に行ってきた。自分が生きている時代に起きた「3.11」という出来事を、折につけ見守り続けたい。そこから見えることの中に、私たちの現在、そして明日にとって大事なことがある、と思うからだ。いわき在住の渡辺哲君に協力を頼み、彼の車でまず太平洋沿岸の被災地をたどった。豊間の中学校まで行って驚いた。あの「奇跡のピアノ」があった中学校は、跡形もなく消えていたのだ。中学そのものがどこにあったのか、わからなくなっている。こうして、新しい街づくりがどんどん進むのだろう。

◆楢葉町役場の隣に、小さな仮設商店街がある。そこの食堂で昼飯を、と寄ってみたら、駐車場で見覚えのある顔に。NHKの夜の看板番組「ニュースウォッチ9」のキャスター、鈴木奈穂子さん。隣にマイクロバスが停まったと思ったら、これまたどこかで見た男性が。「情報ライブミヤネ屋」という午後の情報番組のキャスター、宮根誠司氏だった。3.11から5年。メディアは東北各地の現場に出撃して「被災地のいま」を全国に届けようとしている。

◆国道6号線に沿って北上する。2014年9月、この国道が通れるようになってどんなにアクセスが楽になったことか。広野町、楢葉、富岡、大熊と原発に近づくにつれ、線量は高い数値を示した。国道の両サイドはしっかり封鎖され、いまも入れない。双葉町の有名な広報看板「原子力明るい未来のエネルギー」は、ちょうど撤去されたところだった。1988年に公募で決定したこの標語、議論の末、とうとう外されたらしい。代わりに「看板撤去絶対反対!!負の遺産として現場保存を」という看板が近くの建物に大きく掲げられていた。

◆新聞を買おう、と浪江町のコンビニに寄ると、休日で店は休み、この時間を利用して除染作業の真っ最中だった。南相馬市の除染がほぼ終わり、いま隣の浪江町の除染が集中的に進んでいる。畑や広場に積み上げられたフレコンバッグ、2015年9月末現在でなんと915万袋にもなった、というから驚く。一体どうするのか。

◆福島県に行くたびに主力地方紙の「福島民報」と「福島民友新聞」の二紙を買う。原発関係の記事が多く、たとえ2、3日の滞在でもいま、福島に起きている問題がかなり広範囲に把握できるから。「民友」は3月4日の一面トップで「避難者に向かう視線」との大きな見出しとともに「復興の不条理」という連載を開始した。

◆避難者が集中するいわき市で、初対面の保護者に会うたび、その人が原発事故の避難者かどうか、心の中で探っているいわき市生まれの母親の述懐から記事は始まる。「原発事故前はなかった感情だ。言葉に出さなくても、いじめと同じことをしているのではないか」。

◆避難住民はこの5年、1人について月10万円の賠償金を東京電力から受け取っている(渡辺君もその1人だ)。夫婦、子供2人の家族なら毎月40万円が入る計算だ。原発の爆発で理不尽な強制移動を強いられた福島の被災者なのだが、病院の診療は無料、高速道路の通行も証明があれば無料、という恩恵が、もとから住んでいる市民にとっては時に不満の材料ともなる。病院待合室の満員状態に「賠償金で潤った被災者たちのためにどうして我慢しなければならないのか」というクレームは今もある。市庁舎の壁にある日「被災者出て行け」という心ないスプレー文字が書きなぐられたこともあるそうだ。

◆東京周辺の安全地帯にいる私たちは、原発で住めなくなった福島の人々のことを気の毒な、助けなければならない人たち、と思いたい。しかし、現実を知ってしまった福島県内の人たちの思いは、もっとリアルで、複雑だ。

◆2月29日、明治大学紫紺館3階の記者会見場の主役は、地平線会議の面々にとっては、なんとも懐かしい顔だった。マッシャー、カナダに住む本多有香さんが「2015植村直己冒険賞」の受賞者として現れたのだ。2週間前、2度目のユーコン・クエスト1600キロを走りきり、見事ベストテンに食い込んだばかり。母上の納骨で一時帰国することが決まっていたので、受賞の発表の席に居合わせることができた。詳しくは6ページ以降に。

◆前号のこのページで有香さんを追ったドキュメンタリーのことをお知らせし、「今回はテレビ・クルーがつきっきりらしいのが、少し気がかりだ」と、書いた。懸念した通り、撮影クルーとの折り合いは良くなかったようだ。本多有香という人間をまったく理解しようとせずに現地入りしたためだ、と私は思う。ドキュメンタリー「犬と私の1600キロ 〜アラスカ・ユーコン 極寒の大地をゆく〜」は、NHK BS1で、3月27日(日)(先月は26日の土曜日としたが、日曜日に変更になった)22時〜24時「BS1スペシャル」として放映される予定だ。多分、笑顔の少ない本多有香を見ることになるだろう。(江本嘉伸


先月の報告会から

終わりの始まり

森田靖郎

2016年2月26日 新宿コズミックセンター

■「えっ」と驚くような内容でも、淡々と語る森田さん。この日も、長野画伯の紹介を受け、いつもの穏やかな口調でスタートした。「自分の仕事の中で、一つだけ決めていることがあります。それは、ひとところに視点を決めてものの流れや時代の流れを見る、定点観測です。あちこちの現場に行くので『現場観察』のつもりですが……」。

◆その現場で、この数年、「何か大きなモノが世の中を支配している」と感じていたものの正体を、3.11後に、「それは『文明』ではないか」と直感した森田さんは、ドイツへ飛んだ。そして、フクシマの事故でいち早く脱原発を決めた彼らに理由を問うたところ、返ってきたのは「森へ行けば判る」の一言だった。その謎掛けのようなアドバイスに従って森を歩き、さらには、半年かけてヨーロッパを巡った。と、そこまでの話は、私たちも前回の報告会で聞いている。

◆昨年、森田さんは現場観測をアメリカに移し、約1年を過ごした。「いま世界を支配しているアメリカ文明は、すでに賞味期限が迫っているのではないか」 そんな思いからだった。訪れた北カリフォルニアのソノマは、気候や食べ物にも恵まれたヒッピー文化発祥の地で、文化レベルの高い、大らかでフレンドリーな人の多い場所だった。

◆夕方になると、彼らはちょっとお洒落をしてダウンタウン といってもお店が10軒ほど のカフェに出かける。そして、老バンドの演奏するスローなメロディーに合わせて踊る。それは、古いアメリカ映画のワンシーンそのままの光景だった。(が、そんなソノマは当初の目的地ではなく、報告会後半のQ&Aによると、森田さんの第一希望は意外にもシリコンバレーだったという)

◆この町の近くにも、樹齢2000年、3000年のレッドウッドやセコイアの林立する、神秘的な森があった。そこを『聖なる老樹林』と名付けた森田さんは、たびたび足を運んでは「ぼくら人間はちっぽけだなぁ」「地球は誕生して46億年。それを24時間にすると、人間は登場して1分にもならない。まだヒヨっ子なのに大きな顔をし過ぎじゃないか」などと物思いに耽った。

◆その思いは自分の人生にも向かう。「モノ書きとしての人生を振り返った時、未だに心に引っ掛かっているのが、1989年に起きた天安門事件です」と森田さん。「事件が起きたのは、筆1本でやっていこう、と決めて10年目くらいの生意気盛り。仕事に慣れる一方で、書くことの社会的責任や使命感に、ちょっと怖くなり始めた頃でした。それまでは現場に這いつくばり、思いつくまま、感じるまま、ガムシャラに書いてきましたが、天安門事件に出くわして、自分には何かが足りない。いまのぼくには書けない、と感じました」

◆では、『足りないもの』とは何か。それはフレームだという。絵描きやカメラマンが指で「L」の字を作って構図を決める、あれだ。「フレームは、ものを見る時の物差しです。あれで自分で構図を決めるんですが、ぼくにはそれがない、と思いました」。いうまでもなく、その後の森田さんは中国に関する本を数多く書いている。その根底にあったのは、「書くことが無くなった時が、筆を置く時。書き尽くしてこそ、初めて本物になる」の思いだった。

◆「天安門事件についても、さんざん書いてきました。けれど、自分は本当に『書き尽くした』といえるのか」「構図を決めるフレームも、絶対的なものではありません。歪んだり曇ったりします。だから永遠に微調整が必要で、その意味でも天安門事件に関して、もう一度、『いま』という視点で調整し直して書かねばならないのではないか」

◆そう気付いた森田さんは、早速、連絡を取った。当時学生だった人たちや政府の関係者など、あの事件に関係した人たちがアメリカには沢山住んでいた。「彼らの多くが再会を喜んでくれました。その中の何人かはぼくの頼みを聞き、当時語れなかった話や資料、いまだから判ることを明かしてくれました。そして、みんなが最後に口にしたのは、祖国に対する愛でした。それは愛国心とは違う。国を捨て、あるいは国に追われた人もいるのに、『天安門事件を通して祖国愛を知った』というのです」

◆彼ら文革世代は、都市と田舎の若者を強制的に入れ替えた『下放』を経験したが、それによって初めて、田舎の暮らし、ひいては自分の国の現実を知ったのだ。「その体験を通して彼らは自己覚醒し、人格が形作られ、後々の活動にも大きな影響を受けました。いまはフランスにいる高行健も、雲南省で少数民族と暮らした経験を元にした『霊山』で、中国人初のノーベル文学賞を受賞しました。『中国のヌーベルバーグ』と呼ばれた第5世代の映画監督たちの作品は、世界的にも評価されていますが、すべて下放をテーマにしています」

◆文革が終わり、78〜79年の民主化運動『北京の春』を経た10年後、天安門事件が起きた。中国政府が『六四』の一言で片付けるこの事件は、学生の民主化要求に理解を示した改革派を保守派が潰した、共産党内部の権力闘争だった。同様の争いは香港返還後にも起きた。

◆それまで香港には、ロスチャイルド系のユダヤ資本が多額の投資を行っていたが、とう小平の天才的な『一国ニ制度』の政治判断で中国に返還されると、それを機に彼らは中国本土へと進出していった。当時の中国では、趙紫陽の手で、株式制度の導入や個人資産を認める経済改革が進められていた。ユダヤ資本もこの波に乗ったのだ。しかし、経済改革は同時に政治改革へと波及し、結果的に、最高実力者のとう小平の「虎の尾」を踏むことになる。

◆そのとう小平も、ガチガチのマルクス主義者でありながら、資本主義に大きな関心を寄せていた。副首相時代に『四つの近代化』を打ち出し、アメリカ訪問時はフォードの自動車工場を視察したという。フォード家は、アメリカの外交問題に大きな影響力を持つ『外交問題評議会』に多額の寄付を行っていた。そのメンバーの1人、ジョージ・ブッシュは、後にアメリカ第41代大統領になっている。

◆「彼ら、フォード家やロックフェラーなどのアメリカのキリスト教系保守資本家は、イギリスのロスチャイルドよりも早くから中国市場に目を付けていました。80年代後半、すでに高度経済成長を終えていた資本主義先進国は、延命のためにも新たな投資先が必要でした。13億の民は、世界最大の工場であると同時に、巨大なマーケットです。天安門事件後、経済制裁を課したのも束の間、先進資本国はドッと資本進出してゆきました。そして中国は未曾有の発展を遂げ、世界第2位の経済大国になったため、『資本主義が中国を救った』といわれます。でもぼくは、『中国が資本主義を救った』のではないかと思います」

◆20世紀と21世紀、そして昭和と平成。こういう時代の変わり目の前後で、新しい時代を暗示する大きな事件が起きる、と森田さんはいう。20世紀を決めた1914年の第一次世界大戦は、人々を始めとする全てが戦争に注ぎ込まれる、人類史上初の総力戦となった。世界はその後、戦争と革命の、「総力戦の時代」へと巻き込まれてゆく。

◆「第一次世界大戦で疲弊したヨーロッパに替わって、戦場とならなかったアメリカが頭角を現し、そこから資本主義や民主主義が登場してきます。ロックフェラーは石油で莫大な財を作り、その石油にあやかったフォードが自動車王国を築き、戦争で火薬を作っていたデュポンも化学メーカーとして大きく発展しました。また、戦時の株や戦争公債でモルガン商会も大儲けしました。この4つを、アメリカでは『グレートファミリー』と呼んでいます」

◆アメリカ資本主義圏とソビエト社会主義圏の東西冷戦という形で、野望と矛盾を秘めたまま、危ういながらも20世紀後半は平和が保たれた。そして21世紀。予言は意外に早くやってきた。01年9月11日、ニューヨークのワールドトレード・センタービルへの2機の飛行機の激突だ。ロックフェラー3代目のスローガン、「自由貿易による国際平和を」(ワールド・ピース・スルー・トレード)にちなんだツインタワーへの攻撃を、森田さんは、「アメリカが狙われたというより、資本主義、建国以来の理念である民主主義が標的にされた(

※ここでいう『資本主義』は、アメリカ流の資本主義を指す。資本主義自体が悪いわけではない。そしてアメリカの愚は、自分たちの価値観を、『普遍的なもの』として世界に押し付けたことにある。by報告会後半のQ&A)」と捉え、「あれで20世紀は終わった。総力戦の時代は終わった。21世紀は国家や政治を超えた文明圏の闘い、文明戦の時代になる」と予測した。

◆元来、資本主義に格差は付きものだ。しかし、それにも想定「内」と「外」があり、今のアメリカは「外」だという。リッチ階級と、給与生活者の多くがそうである『中間層』との差が拡大し、もはや貧富の差を超えている。「資本主義社会では、働いて給与をもらい、それで家や車などを買うことで経済が成り立ちます。その給与生活者の所得がどんどん安くなり、資本主義も萎んでいる。リッチな人々はほとんど消費せず、雇用も生みません。自分の資産を増やしてくれる国や企業に投資はするだけで、そのグローバル化もアメリカ文明がもたらしたものです。ですから、アメリカ文明が、自らの首を絞めているのです」

◆そしていまの日本も、森田さんによれば、「『株が上がればいいんだろ』というのが政府の言い分ですが、それでは資産階級のお金が増えるだけ。資本主義の単なる延命策に過ぎず、永続的な成長ではない」のだそうだ。経済がゼロ成長になると、民主主義もまた追い込まれてゆく。現在行われているポスト・オバマを決める選挙では、一握りの大口寄付者によって大統領が決まる可能性もあるが、そんなことは20世紀では考えられなかったという。

◆時代は、宗教や国境を争った『プレモダン』、国家主義の『モダン』、そして国境なき世界観や価値観多元化の『ポストモダン』に分けられる。いま、世界はポストモダンに向かいながら、一方では、がちがちの国家主義である中国やロシアの台頭、あるいは宗教や国境を巡って争う中東のような、モダン、プレモダンへの逆行現象も起きている。

◆『文明1600年周期説』に触れつつ、話題はいまの日本にも及んだ。3.11で、この国に本当に未来はあるのか、とまで考えた森田さんは、昨年、立ち直りの兆しを見つけたという。それは、「政権のクーデター」と評された安保法案の閣議決定に対し、「2015年の夏」「安保の夏」と呼ばれる国会前デモを繰り広げた若者たちだ。その一方で、日の丸や君が代に愛国心を抱くプチナショナリズムの言い分も、「わかる」という。

◆「ぼくらの時代はポストモダンです。ですから、国境や領土といった話にもキチンと向き合ってこなかった。若い人たちが、戦争や歴史のことを知らないのは当然です」と森田さん。そして、「戦争を放棄した日本国憲法を礎に、西欧から取り入れた民主主義や資本主義などと日本の固有文化を重層的に重ね、独自の文化国家を築き上げてきた。これは世界に通用する。この『強兵なき富国』というスタイルを、日本は世界にプレゼンテーションしてゆくべきだ」と訴えた。

◆文明戦のもつれた糸をほぐすには、歴史的な思考が欠かせない。それがあれば、新しいものから順に紐解いてゆける。そして、原因と結果はいつも一致するので、「結果」=「いまの世界」から原因を辿れば必ず次の世界も見えてくる。その原因を振り返るのは辛いことも多い。しかし、歴史を見てゆくと、「人間は何をしてきたか」「人間は何をすべきなのか」がはっきり判るのだそうだ。

◆「アメリカ文明は、人間にとって快適な、普遍的で便利なものを沢山もたらしてくれました。でも片方で、しっぺ返しも作りました。この文明が21世紀も続くのか、もっと人間性を回復するような新たな文明が起きるのか。いま、ぼくらは分岐点、分水嶺に立っているような気がします。『人間は、いつ、どこに産まれるかで運命が決まる』といったのは、天安門事件のリーダーの1人です。ぼく自身は戦後と同時代です、戦後史は自分史だと思っています。だから、自分が生きてきた時代だけはシッカリと書き留めていきたい。それは、ぼくなりの使命感だと思っています」 最後を締め括るその言葉で、じっと聴き入っていた私たちも、森田史観が織りなす思索の世界から報告会会場へと戻ってきた。(久島弘


報告者のひとこと

「知・情・意……そして安」

 誰もいなくなった晩秋の北カリフォルニアのワイナリー、乾いた風が本のページをめくる音が、午睡(ひるね)をかき消した。旅を生業(なりわい)としている私にとって、文庫本は常備食のような存在だ。機内で観る映画も機内食より愉しみである。『リスボンに誘われて』という映画は、どの便で観たのかは思い出せないが、「人生とは、我々の現(うつつ)に生きているものではなく、生きていると想像しているものだ」という主人公のセリフに、原作を読みたいと書店を捜し歩いた。

 原作『リスボンへの夜行列車』の代わりに『怒りの葡萄(ぶどう)』を買い求めた。作者スタインベックの生家はサンフランシスコの郊外にある。『怒りの葡萄』を読みだして、野太い文章に読むほうも力味があったが、メキシコ人からカリフォルニアを奪ったアメリカ人の筋力が、この国の文明をつくりあげたのか──。『怒りの葡萄』によると、1930年代、ロッキー山脈から東で、砂嵐が吹き荒れ、農地が枯れ果て、地主たちは農民たちを追い出した。農民たちは、カリフォルニアのぶどう狩りの季節労働者を目指して、3000キロも歩いて辿り着いた。

 牧童犬と戯れるワイナリーのオーナーは、「仕事にありつけるのは、何十人に一人だ」と、ワイングラスを片手に私に話しかける。「妻の祖父が、“商品”付きで、この農場を買った」。商品とは、労働者のことである。「いま、人類はノマド(遊牧民)化している」。国家を持たず、自在に移動する現代人の生態にオーナーはイラついた。IS(イスラム国))もまた、国家を定めない戦闘集団である。国境を越える難民に、EUは二分している。

 EUを目指す難民の唯一の所有物は、ケイタイ電話だそうだ。ケイタイ電話があれば、家族とも連絡が取れるし、居場所や仕事を見つける手段にもなる。天安門事件後、日本を密航列島化とした出稼ぎ目的の難民たちが手にしていたのは、「偽装パスポート」であった。ケイタイ電話とパスポート……、国境なきノマドの時代への移り変わりだ。

 風に吹かれて本のページがめくれた乾いた音がする。ヒトが活字を求めるのは、「知」「情」「意」だそうだ。知、情は「知的情熱」だ。知的好奇心が情熱を駆り立て、「意」欲がわいてくる。私なら、もう一つ「安心感」を付け加えて、「知、情、意……そして安」としたい。

 いまの世の中、異常気象、テロ、内戦、疫病……、文明末の不安の種が尽きない。不安を煽る本は売れる。健康の不安からヒトはサプリメントに群がる。テレビも新聞も……。こんな世情で、ヒトが知的情熱を駆り立てるのは「安心感」を得るためだ。「安心感」とは、つきつめれば、「敵」を知ることだ。敵とは、こわい周辺国、流れ込む難民、経済不安、疫病、異常気象……、そんなものだけではない。隣人、愛犬、家族も時として敵になるかもしれない。そう考えると、「自分以外は、すべて敵」なのだ。敵を知ることとは、「己を知ること」だ。自分を知るためにヒトは知的情熱を駆り、自己認識すると安心感に包まれる。

 さて、今回の報告会のテーマとなった「文明戦」、次なる文明とは……。超大国の覇権主義が転換期を迎えている無極化の「いま」は、文明周期説の出発点としている「ローマ帝国の崩壊」と同じ様相だ。ローマ帝国が崩壊後、帝国に変わるリーダーが、ルネサンスまで現れなかった。ルネサンス(復興という意味)の復興をいま一度求めるとは、歴史は気まぐれで手を焼かせる生き物だが、人生の道しるべには非常食としてちょうどいい。(森田靖郎


チョコレートバーを持って最北の村へ

航空会社の事情でカナダ側からの北極点行を断念した北極男、荻田泰永さんが明日10日、1000キロ歩行を目指して日本を出発する。暮れからの北極点行に備えてのトレーニング。以下、出発直前の本人のメールから抜粋。(E)

■2016年春は、カナダ最北の村グリスフィヨルドから、グリーンランド最北の村シオラパルクまでの1000km無補給単独徒歩行です。日程は、3月10日日本出発、3月24日グリスフィヨルドをスタート、5月7日ごろシオラパルク到着 5月13日ごろ日本帰国です。

◆今回の遠征の目的は、[1]今年末からの北極点への無補給単独徒歩による到達を見据えての、トレーニングや各種装備テスト。[2]北極圏の中でもこれまでほとんど紹介されていない地域であるため、氷河地帯や多くの野生動物等、美しい北極の姿を高画質のカメラ機器で記録に残し、日本に紹介する。[3]現地に行かなければ採取できない地球環境を探るための研究試料や、自分の体の変化のデータを採取するなどが主な目的。まずは安全に、そして目的を確実に果たせるように気を抜かずに準備します。

◆先日は、北海道の銘菓「白い恋人」の石屋製菓様より、白い恋人に使われているホワイトチョコレートとミルクチョコレートを提供していただき、私が北極で行動食として食べるチョコレートバーを作りました。チョコレートに食用油を混ぜカロリーを高めつつ寒冷地でも柔らかさを保つようにし、さらにすりゴマやきな粉を混ぜます。「白い恋人チョコレートバー」で北極を歩きます。明日以降、またお知らせをさせていただきます。(荻田泰永


先月号の発送請負人

■地平線通信442号(2016年2月号)は、2月11日の水曜日に印刷、封入作業をし、翌12日の木曜日、郵便局に渡しました。今月はビニール封筒を新たに購入して封入したのですが、手違いでA4版を注文してしまい、ダブダブの包装になってしまったこと、お詫びします。慌てていつものB5版の袋と交換したので、3月は大丈夫のはずです。発送作業に参加してくれたのは、以下の皆さんです。
  森井祐介 車谷建太 伊藤里香 前田庄司 福田晴子 江本嘉伸 松澤亮 石原玲 杉山貴章
作業を終えた後は、いつものように「北京」でいろいろなことを語り合いながら、ラーメン、餃子、豆腐料理、野菜炒め、その他を楽しみました。私には、理系の知識のある松澤、たかしょー君の語る「リニア中央新幹線」の問題点が興味深かった。(E)


本多有香 奔る!

なんと……難所は川の乱氷
━━ベスト10入りを果たした2度目のユーコン・クエスト

 (1)この冬は暖冬かつ雪不足で、いつもより1ヶ月遅れの12月になんとかソリを使えるようになりました。でもやはり積雪不足のため、8頭くらいの少ないチームでの訓練、または雪の多い場所まで車で3時間ほど移動しなければなりませんでした。

 (2)永住権の書き換えに半年以上も掛ける怠慢なカナダ政府のせいで、私は10月24日にすい臓がんで亡くなった母の葬儀にさえ出席できませんでした。11月にようやく日本へ行くことができましたが、ほとんどの事が終わってしまっていて、おいてけぼりにされた気分でした。日本から帰国して12月に入ってから本格的に訓練をなんとか開始しました。母が亡くなる前に電話で「クエストに出て頑張る」と約束したというのに、心が弱くてどうにも訓練が進みませんでした。

 以上2点、言い訳です。

 出場辞退を前提にしながら行った辛い訓練でしたが、それでも1月に入ると犬たちの調子が上がってきたので、母との約束を守るためにもベストを尽くそうと思いました。ここまでくるのに、たくさんの人たちに助けてもらいました。

 今回のレースは、アラスカ州フェアバンクスから14匹で6番目のスタートでした。前半最初の山場であるローズバッドというキツイ登り坂で、ほかのチームを追い越して登りきった時に初めて、訓練中に感じていた自分のチームへの自信が、上位も狙えるという強い自信に変わりました。もちろん、これが初めてのレースである2歳の3匹が最後まで走りきれるのかは疑問でしたが。実際3匹ともドロップすることになってしまいましたが、みんな頑張ってくれる本当に良いチームでした。

 クエストといえばイーグルサミットという山が大変だと一般的に知られているのですが、今年の難所は川の乱氷でした。いつもは強風で雪が吹き飛んでしまい石だらけのイーグルサミットに何故か今年は積雪があり、ブレーキが少しは効き、急勾配の下りでしたがそれほど酷い目にあうことなく滑り降りることができました。その代わり、スレイバンズまでのトレイルでずっと続いていた乱氷に、どのマッシャーも苦労させられました。聞いただけでも7人のマッシャーのソリになんらかの被害が出たそうです。私のソリは無事でしたが、スレッドバッグが破けてしまいました。今年ルーキーのアンディーは氷に腰をぶつけて本当に危なかったと言っていました。乱氷の上ではブレーキもそれほど効かず、ガタガタですごいジグザグで、手が痛くてたまらなくなりました。

 イーグルを出てから吹雪が始まり、ドーソンに着く前のテイラーハイウェイ(酷い乱氷のためコースが変わりました)では、強風の為雪が吹き溜まりトレイルが完全に消えていました。犬たちは私の膝の高さまである雪を割って、登り坂ばかりの道を走らなければなりません。マイクというマッシャーと協力し合って登りましたが、最後には私の犬たちは止まって動きたがらなくなりました。3匹いるメインリーダーのうちでも一番頼りにしていたマイキが足の裏を切ってしまい、ジョーカーとスパイダーが頼りでした。他のチームに追い越されてから何とか動き出しました。

 ドーソンに着いた頃にメインリーダーのスパイダーの発情が始まり、もう本当にがっかりでした。スパイダーは発情すると見境無く誘うタイプの子で、本格的に発情したらどうしようもないからです。そして、どんなときでもチームを引っ張ってくれるヒョロリが酷い下痢で食欲も無く、元気が無くなっていました。あまり良い獣医が居なかったので、薬もなかなか出してもらえず口論になりました。ダメな獣医に当たると、取り返しのつかないことが起こってしまう場合があります。だからマッシャーにもある程度の知識がないといけません。36時間の休憩で少し食べられるようになったヒョロリを連れてドーソンを出発しましたが、しばらく行くとヒョロリがふらつき出しました。ここから210マイルもの距離を行けるかどうか?戻るべきかもしれません。

 ちょうど撮影していたNHKの人(編注:NHK社員ではなく「千代田ラフト」というプロダクションの撮影チーム)に何マイルかと聞きました。が、彼は無視してただ私を撮り続けるのです。次のカメラマンにも無視されて、3人目のカナダ人のドライバーに聞くと20マイルくらいだと答えてくれました。日本人のNHKスタッフには準備中もトレーニング中も邪魔ばかりされて言いたい事はたくさんありますが、もう二度とテレビ出演は受けないと決心しました。

 ヒョロリには雪を口の中に含んで作った水を手から何とか飲ませると飲んでくれて、それから少し持ち直してくれました。スナックを食べてくれた時は本当に嬉しかったです。ペリーを出発する頃にはスパイダーは発情真っ盛りで、それでも先頭のほうに置いておくと若いエイティーたちが張り切って走るので、あえてドロップせずに使いました。が、そのうちスパイダーは止まってはオスを誘う行動をしだしました。

 カーマックスで長めに休んでマイキの体力回復に努め、なんとかマイキとジョーカー、そして他のチームがいなければ頑張ってくれるスノーボールのリーダー達で頑張って進みました。あんなに差がついていたマイクのチームがもう私のすぐ後ろに居ます。チームを止める度にスパイダーが尻尾を上げて誘い出します。

 最後のチェックポイントのブレイバーンで、10歳のダストをドロップしました。彼女にはこれが多分最後のレースだったので完走して欲しかったけれど、氷で滑って胸を打ったようで、それ程酷くはないけれど悲しそうな顔をするのでドロップしました。このドロップに感謝しているのが表情から分かりました。

 オーロラの踊る中9位でフィニッシュしたのは朝の4時40分でした。何人かの日本人やカナダ人が待っていてくれました。私は良い人たちに囲まれているラッキーな人間です。そして、うちの犬たちはみんな本当に良い子です。

 うちの子達がこんなに良い犬なんだということを母に見せることができました。

 またレースに挑戦できるように、なんとか頑張りたいです。(カナダ・ホワイトホース 本多有香

会場から緊急速報!
本多有香さんに「2015植村直己冒険賞」!!

 2月29日14時、御茶ノ水の明治大学紫紺館で第20回「植村直己冒険賞」の記者発表があった。メディア関係者など約60人が待機するなか、開始直前ふと会場の外に出たら、扉の前でエビスビール500ml缶を片手に冒険館館長と談笑する本多有香さんを発見……! 昼食時に大ジョッキ3杯を飲み干していたものの、もちろん足りなかったらしいです。

 会場に戻ると、豊岡市長の挨拶が始まっていた。「彼女の人生に対する態度、冒険をしようとする態度そのものこそが、受賞にふさわしいと思われた。こんな痛快な方は見たことがない」と紹介されると、扉が開いて、黄色いTシャツにニット帽をかぶった本多さんが拍手で迎えられた。選考委員の西木正明さんは、「生活の一部で冒険するのではなく、生活そのものを冒険にしてしまった。世界初の記録を競うのでなく人生を賭けて続けるという、これからの冒険の一つのありかたを示したユニークな方」と選評をのべた。

 続いて受賞者のスピーチ。立ち上がった本多さんは「しゃべるのが苦手なので書いてきました」と机の上のメモを見おろし、はああ、と一つ息を吐き出して、「小さい頃、テレビで見ていた植村さんという大ヒーローの賞をいただけることになり、とても光栄です」。オーロラも見られるユーコン準州のこと、犬たちとの暮らしのこと、そりをひいて走るのが大好きな犬たちと一緒にトレーニングへ行けばどんな疲れも吹き飛んでしまうこと……。「これからもうちの可愛い犬たちと幸せに犬ぞりを楽しんでいきたいと思います。どうもありがとうございました」と話した。

 「受賞を誰に一番伝えたいですか?」という記者の質問には、「亡き母にと思って、ありがたくいただきました」。受賞の知らせを聞いたときは、「私は冒険をしているわけではないので、この賞は私でいいのかなという気がして、断ろうかとさえ思っていたほどです」。最後に、テレビ電話中継で会見を見守っていた、植村さんの母校である豊岡市立府中小学校の生徒さんたちから元気な祝福の声が届いた。対して本多さんからは、「6月に行くので、待っててください!」

 この日の会場の左中央には、本多さんの面影がある女性と、顔もシャイなところも本多さんにそっくりな男の子の姿が。一番の理解者であるお姉さんのユキさんと甥っ子の希弥(のぞや)くんで、お姉さんがハンディカメラ片手に会見を撮影するのを、希弥くんがときどき身を乗り出して熱心に画面をのぞきこんでいたのが微笑ましかった。

 この半月前、本多さんはユーコン・クエストに5度目の参戦中だった。2月6日11時15分(現地時間)に14匹の犬たちとスタートし、2月17日4時49分に9匹とフィニッシュ。夜明け前の暗闇に「Yuka! Yuka!」と観衆からの熱いコールがわいた瞬間だった。今年のクエスト公式サイトでは、肩書きが過去4回のように「ルーキー」ではなく、完走経験がある「ベテラン」に。泣きながら、笑いながら、15年間すべてを犬ぞりに賭けてきた重みを感じずにいられなかった。本多さん、本当におめでとうございます。

 去年はとてつもなくハードな1年だったのだと思う。土地の買取問題、回答をただ待つしかできなかった永住権の書き換え、海の向こうで病気と闘い続けていらっしゃったお母様の訃報。金銭的に無理なので次のレースは出ないと断言していたのが、一転。お母様との電話がきっかけで、無茶してでも出ると決めたという。今回の来日中に、本多さんから「レース中は母の存在をそばに感じていた」と聞いた。例年なら冒険賞受賞者は植村さんの誕生日である2月12日に発表されるが、海外暮らしの本多さんがお母様の納骨で帰郷するのに合わせ、今年は29日になった。

 発表日の夕方から翌日にかけて、NHK、全国紙と地方紙やスポーツ紙で受賞のニュースが続々掲載され、3日朝8時には新潟からFMラジオに電話出演。早朝なのでさすがにビールを飲む時間がなかったのではと思いきや、朝まで飲んでいたとのこと……。留守番中の27匹のことがとにかく気がかりだそうで、「帰ったら思いきり褒めてあげたい、本当にいい子なので」と会見で話していたわんこたちも、母さんの帰りを早く早くと待ちわびているはず!(大西夏奈子

有香さんに出会った、佐渡のあの夏……

 3月1日、この日も北西の風が吹き、雪が激しく降る荒れた天気。遅れて届いた新聞を夕刻になって初めて開き、朝日新聞新潟版のトップ記事の見出しに釘付けになった。「犬たちを褒めたい」「植村直己冒険賞 新潟市出身の本多さん」「カナダ在住、犬ぞりレースで活躍」。スポーツ面にも全国版用の本記が載っており、新潟版の読者は日本で一番詳しく有香さんの活躍を知っただろう。

 本多有香さんとの出会いは10年前に遡る。レースの資金作りのため佐渡でアルバイトをしていた本多さんを応援すべく(好きなビールを存分に飲ませるべく)、江本さん、中島ねこさん、大西夏奈子さんがやってきたのは2006年8月のこと。我が家で本多さんの激励会が始まった。食事をしてはアルバイトに向かう有香さんに、江本シェフは腕をふるった。エモカレー、サンドイッチ、チャーハンをメインに佐渡の野菜、海の幸をつまみに、ビールを飲むこと飲むこと……。有香さんは大のビール好き。3日間の空き缶の量は大袋いっぱいになったのだ。

 ところが有香さん、普段は全く違う生活を送っていた。「犬ぞりレースにスポンサーをという声もあるけれど、私は自分の力でやり遂げたい!」と自力で1円のお金も無駄にしないよう頑張っていた。佐渡でのアルバイトは、携帯電話のラバー部分を機械で印刷する仕事。24時間シフトの中、年代物のカブで会社と寮を往復し、資金をプールできるように努めていた。ビールを口にするどころか、食費を浮かせるために釣りをし、海水をも(塩味として)利用する。節約に節約を重ねていたのだ。それを知った同僚がお弁当をそっと差し入れてくれることもあったそうな……。

 江本さん達が帰京し、佐渡での生活も残すところ10日あまり。すっかり我が家に馴染んだ有香さん。寮より近いとやってきては、食べて、おしゃべりして過ごしていた。そして、有香さんの訪問を何より心待ちにしていたのは父だった。

 当時、父は病気による睡眠障害に苦しんでいた。父にとって有香さんとの語らいは唯一の楽しみだった。佐渡を離れる日、コスモスの咲く庭でVサインの父と、とびっきりの笑顔の有香さんとのツーショットは、父の想い出の一コマだ。そして、有香さんの本は常に枕元に置かれている。今回の受賞の知らせに「イヌが……」(有香さんイコールイヌ……)と目を細めたのは言うまでもない。86才になった父にとって、有香さんとの出会いは、宝物なのだ。

 佐渡を離れる日、我が家でお別れ会を、とお招きしたが、本人が知らないうちにアルバイト先の同僚たちが送別会を企画してくれていた。涙で別れたアルバイト先の同僚、有香さんの生き方を知り、手厚くバイクを修理してくれたバイク屋のおじさん、そして父……。あの夏、有香さんの姿にひき込まれた人は多い。有香さんのニュースに触れるたび、きっと想い出し、応援していることだろう。

 自分の想いに忠実にここまで進んでこられた有香さん、そして頑張った愛犬たちに心からエールをおくります。(佐渡島 高野久恵


地平線の森

夢は、叶う。それを強く願い、動き続けることができるなら

『犬と、走る』文庫版

  本多有香著 集英社文庫 600円+税

■本多有香さん著『犬と、走る』の文庫本が2月末に出たので、改めて紹介する! この本は、有香さんが岩手大学在学中に出かけたカナダ旅行で犬ぞりに出会い、「もし自分で育てた犬たちが自分をそりに乗せて、ずーっと遠くまで連れて行ってくれるのなら、いったいどんな気分になるのだろうか? 犬たちと一緒にどこまでも行けたら……」と心ときめかせてから、その夢を叶えるまでの、16章からなるノンフィクションだ。

◆1998年、「何かに囚われているように感じていた」人生から飛び出し、25歳でカナダへ。マッシャー(犬ぞり師)の助っ人であるハンドラーとなり、充実した日々を送ったが、約1600kmのレース『アイディタロッド』を見て、長距離レースに取り組むことを決意。スプリンターマッシャーのもとを離れ、もう一つの長距離レース『ユーコンクエスト』のボランティア活動にありつき、ハンドラーをさせてくれるマッシャーを探した。

◆ようやくOKをもらえたマッシャーがアラスカ在住だったため、気温マイナス10度前後の中、約1200kmの道のりを鼻血と鼻水出しつつキャンプしながらおんぼろ自転車で進んだ。睡眠時間2時間で激務をこなした過酷なハンドラー生活で力をつけ、チェーンソウも自在に扱えるようになった。2005年に初めて約1200kmのイベント『セーラムラン』に参加し、ゴールの瞬間には「自分が真っ青な空に溶け込んでいくような幸せな気持ちになり、ぱぁーっと景色が明るく輝いて見えた」(同年7月『犬に引かれて北極圏』で地平線報告会に初登場)。

◆日本で稼ぎ、アラスカで修行する“寅さん生活”を続け、2006年、ついに臨んだユーコンクエストは猛吹雪で強制棄権、翌年の再挑戦は未だ読むのが辛いほどの展開となった。残ったのは犬を借りたことによる借金。犬ぞりをやめようと考える暗闇の中、オーストラリア出稼ぎの旅へ。その借金に救われた。

◆さまざまな出来事や人々と遭遇している有香さんだが、綴られている心持ちが興味深い。事象や相手を客観的に観察するものの、その印象がどうであれ、最終的には良い面に意識を向け、信じ、前に進む。端から勝手に言わせてもらえば、ちょっと歯がゆい時もあるけれど、それが有香さんの生き方なのかもしれない。オーストラリアで人の優しさに触れた有香さんは「彼らのように私も優しい人間になりたいと、優しくなれる強さが欲しいと心から思った」と書いている。そんな有香さんの周りは彼女を応援したいと思う人たちであふれている。

◆借金を返済し終え、ユーコンクエストへの復帰を決意し、2009年、3度目の出場を果たす。「そりのきしむ音が心地よく響く」レースを味わい、リーダー犬不足に悩みつつ、ついには自分がリーダーとなり難所『イーグルサミット』を越えた。最終的には棄権するも、「ユーコンクエストじゃなくてユカ・クエスト」と言われるほど、周囲を感動させもした(同年4月『14+1の三度の挑戦!』で地平線報告会報告)。

◆第15章は『念願のカナダ永住権取得と犬舎』。復帰を果たした有香さんは、カナダの知人から永住権取得プログラムの情報をもらう。思い出だらけのアラスカ暮らしに別れを告げ、カナダへ移住。働き口を探し、永住権を得た。知り合いを当たり、月100ドルで土地も借りた。シャベルとチェーンソウで開拓していくくだりでは「一本ずつの木と一対一で向き合って切っていくことで、時間はかかるがその木と私の間に共通の思い出ができる。(中略)苦労した分、どこにどの木があったのか、私はずっと覚えていられる」とある。随所に散りばめられた有香さん独自の考え方や自然との接し方も、この本の魅力だ。

◆そして最終章は『ついにクエスト1600キロを完走する』。2012年、初めて自分の犬舎を持ち、絆を深めた”有香さんにとって世界一の犬たち”と出場したレースで、満を持してゴールした(同年5月、『ユーコンの長いお散歩』で地平線報告会凱旋報告)。有香さんを見ていると、とりまく全てが学び場と言える日々で身につけた力を総動員し、レースに臨んでいるように思える。犬舎『銀河エクスプレスケンネル(宮沢賢治に因む)』はこれから更なる進化を遂げるはずだ。

◆その後を文庫版あとがきでたどると、2015年、念願のアイディタロッドにエントリーした有香さんは、故郷新潟に住むお母さんが癌であることを知らされるが、お姉さんの説得により、お母さんを勇気付けるべく出場を決める。不安定な精神状態や訓練不足、前日に食べた生牡蠣(なんで?!)の影響などなどの苦難を犬たちと乗り越え、ゴールした。そして、お母さんとの最後の約束を果たすため、次のユーコンクエストに出場し、「うちの犬たちのすごいところを母に見せるつもりです」と結んだ。

◆人は、夢見る。でも大人になるにつれ、夢は往々にして叶わないと知る。けれども、やはり言いたい。夢は、叶う。それを強く願い、動き続けることができるなら。そんな気持ちにさせてくれるから、この本を読むと元気がもらえるのかもしれない。だから思う。娘の活躍を見守っていらっしゃったお母さんも、きっと励まされたに違いない、と。『犬と、走る』の文庫本、どっぷり浸かった日常のかばんにしのばせたい。(中島ねこ


本多有香さんの受賞お祝いビールパーティーを是非!!

■4年に一度の閏日に、2015年植村直己冒険賞の受賞者が本多有香さんに決まった!とのうれしいニュースが届きました。ネットでみた記者会見には本多さん本人が登場していたので、いま日本にいるの?と驚きましたが、家庭の事情でタイミングよく?帰国していたようですね。

◆4年ぶりに出場した今年のユーコンクエストでは23(完走19)チーム中9位で、初完走した2012年より34時間近くタイムを縮めてのみごとなゴールでした。スタート前から「yukonquest.com」で毎日レースの状況を追っていましたが、今回は序盤から上位をキープし速度も安定していたので安心してみていられました。それでもゴール直前はパソコンの画面に釘付けになり「残り5マイル、あと1マイルノ」とはらはらドキドキしながら秒読み。無事にゴールした後はビールでひとり祝杯をあげました。

◆ゴールした二日後に『犬と、走る』の文庫本が発売されたのですかさず購入。もちろん単行本は読んでいますが、再読して自分がやりたい夢に向かって突き進んできた本多さんの一途な生き方にあらためて惹かれました。歳のせいかやけに涙もろくなっているので、「文庫版あとがき」では涙が止まらず。詳しくは書きませんが、この精神状態で昨年のアイディタロッド、そして今回のユーコンクエストを完走したとは……。

◆はじめて犬ぞりレースを見たのは20年ほど前。秋田県金浦町(現にかほ市)で開催された「白瀬カップ全国犬ぞりレース」で、ゲストはアラスカに旅立つ直前の舟津圭三さんでした。その当時持っていた犬ぞりのイメージは、そりに乗ったマッシャーが犬に鞭うって引かせるものでしたが、坂道ではマッシャーがそりを降りて押す姿をみてそれまでの印象が一変。犬ぞりレースはまさに「犬と走る」ものだと認識を改めました。

◆本多さんの植村直己冒険賞受賞のニュースは地方紙にも掲載されましたが、ユーコンクエストやアイディタロッドのような世界的な犬ぞりレースでさえ世間ではほとんど注目されないのが残念。3月末にはNHK-BSで今回のレースの模様が放映されるそうなので、この機会にファンと収入(!)が増えることを期待しています。冒険賞の授賞式がある6月はとりわけビールがおいしい季節。ぜひ「受賞お祝いビールパーティー」を企画してください。

◆啓蟄の今日(3月6日)は朝から快晴で春の訪れを感じましたが、一週間前は積雪深242cmの肘折で開催された「地面出し競争」に参加していました。今回は過去最多の41チーム・258名(海外からの留学生も多数)が出場し、わずか4分55秒で“春”を掘り出した地元の「Love Snow」が3連覇。全体的にレベルアップしたため、あわよくば入賞を狙っていた我が「ほっづこっつで雪ちょし隊」は6位(3位との差は36秒)に終わり、帰り道は来年に向けた作戦話に花が咲きました。(飯野昭司@山形県酒田市)


■報告会場について、地平線会議からのお知らせ■

 毎月の地平線報告会、最近はずっと高田馬場に近い新宿区スポーツセンターを会場としてきましたが、3月いっぱいは耐震工事でセンターが閉鎖されたため、臨時に近くの新宿コズミックセンター大会議室を利用させてもらっています。

 しかし、4月からは以前に戻って新宿区スポーツセンター2階大会議室を報告会場とします。ちなみに4月は22日の金曜日です。


もうすぐカンボジアから帰国します!

■ご無沙汰しております。カンボジアのクエです。しばらく連絡をしておらず申し訳ありませんでした。地平線通信は、ネットで読ませていただいております。何度か掲載していただき、ありがとうございました! 私は最後の活動報告会を終え、カンボジアでの任期を無事に終えられそうです。日本に帰る準備をしながら最後の旅行を楽しんでおります。皆既日食を見るために、インドネシアに向かっています。今日はクアラルンプールに1泊するのですが、たまたま近くにいたバングラデシュ人の家族と楽しく会話をしました。2年前の私だったらできなかったことだろうなー。英語が上達したのではなく、外国人との壁が低くなりました。それだけでも協力隊にきて良かったとおもうところです。今月の20日に帰国するのですが、えもーんに帰国のご挨拶に伺いたいと思っております。(水口郁枝


特別レポート

登山者も目を向け始めたリニア中央新幹線の怖さ

■リニア中央新幹線。完成すれば、時速500キロで東京から大阪まで67分で結ぶ、いわゆる「夢の超特急」。だが、取材すれども取材すれども、この9兆円という史上最大の鉄道事業がもたらすであろう様々な問題については、JR東海という大スポンサーに縛られているメディアのほとんどが掲載してくれない。私の財布はまじにすっからかんだ。

◆ところが、久しぶりにリニアのネタを今月中に二つの週刊誌に掲載できそうだ。そのお知らせも兼ねて、私のブログにそのネタを書いたところ、いつもの20倍の2000人以上が一日で訪れた! なにせ放射線ネタであるからだ。リニアの走行ルート上で毎時0.341マイクロシーベルトという高い放射線値が出たからだ。地下に、「何かがある」。リニアは地下トンネル工事でその「何か」を掘り出すかもしれない。

◆2月16日。愛知県の市民団体が企画した「東濃ウラン鉱床現地調査」に参加した。東濃とは岐阜県東部のことで、日本最大のウラン鉱床地帯。かつては原発の原料にしようとウラン採掘も行っていた。ここをリニアは地下走行する予定だ。地元の住民が恐れるのは、「そのトンネル工事でウラン鉱床やウランが凝縮した地層にぶつかったら、その建設残土をどうするのか」ということだ。

◆ウランを地下から掘り出せば、「ラドン」という肺がんを誘発する気体の放射性物質が放出される。これで、鳥取県と岡山県とにまたがる人形峠のウラン鉱山では過去に多くの鉱山労働者が肺がんでなくなった。また約50万立方メートル(東京ドームの約半分の容量)ものウラン残土が排出され、半世紀がたった今も放射線を発するため、覆土されて野積みされたままだ。

◆もしリニアでウラン残土が出てきたらどうするのか? この疑問に、事業者たるJR東海は岐阜県には「ウラン残土が出てくることは前提にしていない」と回答している。その根拠は、かつての動燃(現在の日本原子力研究開発機構)がまとめた文献だけだ。自らはたった一本のボーリング調査も行っていない。本当にウランが出てきたらどうするのか。労働者は被爆し、ウラン残土はどこかに積まねばならない。そこで、ボーリング調査は無理でも、地上での放射線を測定しようと市民が動いた。

◆計測地点は6カ所。最初の地点は、リニアの起点となる品川駅から245キロ地点。JR東海が測量で打った赤い杭がある。すると、いきなり0.341マイクロシーベルトが出た。さらに驚いたのが、このルートは南に一カ所と北に一カ所のウラン鉱床に挟まれているのだが、その南のウラン鉱床の4カ所で計測した値は最高で0.275とこれを下回ったことだ。実際にウランが眠る場所よりも高い値。これは何を意味するのか。

◆私は、日本原子力研究開発機構に電話で尋ねた。「JR東海はそちらの文献を基に、『リニアのルートはウラン鉱床を避けている』と言っていますが?」。回答は「その文献は東濃で1400本のボーリングをしたことをまとめたものなので、あらかたの地層は把握しています。しかし、実際にどういう地層が出てくるかは、掘ってみなければ判らないんです」。この区間の着工はまだまだ先の話だが、なかなか恐ろしい話だ……。

◆さて、もう一つのリニアネタは駐車場だ。正確には登山者用の駐車場だ。昨年末、いよいよ史上初めて南アルプスをトンネルが貫通するための起工式が山梨県早川町で執り行われ、今年の夏にはトンネルが掘られるかもしれない。すると、早川町からは今後10年間で326万立方メートルという、東京ドーム3倍分の残土が排出される。このうちの160万立方メートルは早川町と隣の南アルプス市を結ぶ5キロの「連絡道路」の建設に使われ、100万立方メートルが、その連絡道路の南アルプス市側にある「芦安」地区で登山者用の駐車場の造成に使われる。南アルプスにトンネルが開くことの代償の一つとしての、「山を愛する人たち」のための駐車場ということだ。

◆もう一つある。それら建設のためには、早川町にたった一本しかない県道37号線をダンプカーがピストン輸送して残土を運ぶのだが、この37号線が狭い。軽自動車ですら、道が膨らんだ待機所で譲り合う。そこを、リニア工事で一日最大930台のダンプなどが走る。1分間に2台弱の計算だ。狭い道を朝から晩まで、10年間ダンプは走る。泥はね、土ぼこり、振動、騒音、排気ガス、そして、交通阻害。もっとも被害をこうむるのは、秘境のたたずまいを残す奈良田温泉などへの観光客が激減することだ。つまり、潰れる。

◆ある温泉宿の主人は「静けさを売り物にしているから、私は団体客は受け付けない。それでリピーターを増やしてきた。それが一日に930台のダンプとは……」と、この計画を易々と受け入れた町長を批判した。今年の町の年頭の商工会の新年会。酔った勢いの住民が町長に、「このままじゃ生活が壊れ、村の温泉施設も潰れるぞ!」とぶちまけた。すると町長は「大丈夫だ。俺に任せておけ!」「お前なんかに任せておけるか! 1日に930台もダンプが走ったら観光客の車が来れないぞ。1年くらいならまだしも10年も続く。どう思うんだ!」「もし潰れたら俺が補償する。ここにいる全員が証人だ!」と双方感情的になった。このとき、住民は「ああ、町長は事業者の味方なんだ」と思ったようだ。住民が望むのは補償ではなく今の生活の維持なのだ。

◆「山を愛する人たち」は南アルプスの北岳などに登るために、将来、その駐車場を使う。だが、それは、南アルプスに穴をあけ、大井川の水を激減させ(JR東海の予測)、温泉宿を潰した代償だ。登山者のみなさんはこの現状をどう思うだろうか。昨年は、「リニア新幹線を考える登山者の会」という団体もできた。ツイッターもあるので是非覗いてほしい。(樫田秀樹 ジャーナリスト)

★2つの週刊誌とは『週刊金曜日』『週刊プレイボーイ』らしい。注目!(E)

あの日から5年

楢葉町からの報告━━
震災から5年 震災時を振返り そしてこれから

 東北の太平洋岸に甚大な被害をもたらした東日本大震災から早くも5年という時間が経過しました。津波、地震の被害の大きかった沿岸部では復旧作業が進み、土盛りによる新たな町が進みつつありますが、福島では東京電力福島第一原発の事故で未だに町全域の避難が継続している地域があります。我が故郷の「楢葉町」は昨年9月に避難指示解除となりましたが、住民の多くはまだ帰還してはいません。震災から5年という一つの節目となる時期を迎えるにあたり、あらためて震災当時の状況を振り返ってみました。(渡辺哲

■[3.11当日]

 2011年3月11日の震災当日はいわき市の職場にいた。最大震度6弱という激しい揺れで、社屋内の天井板、防煙壁が所々落下したが、怪我人はなかった。直ぐに帰宅。道路の至る所が陥没したり、橋に段差ができ走行出来ない箇所があり、自宅に戻る直前、海の様子を見にJビレッジから海沿いの坂道を下った瞬間、水浸しの田んぼ、流された家屋、車の数々だった。まさか津波が、もしや自宅も……」と半分覚悟した。

 通常の倍の時間をかけ17時前に自宅に到着。幸い自宅と両親は無事だった。室内は食器棚やタンス等が倒れ、あらゆる物が散乱していた。夜は強い余震が頻繁にあったため、直ぐに避難出るよう、リビングで靴や簡単な荷物を準備しシュラフにくるまって寝た。

■[1F2号機水素爆発]

3月12日午前9時過ぎ、室内の片付けを始めようとしていた時、町の防災無線が「第二原発が危険な状態のため、南(原発とは逆方向)に避難して下さい」と。場所について具体的な指示はなかったため、その日は隣の広野町の親戚宅に避難した。テレビで原発の状況を見ていた15時頃、物凄い振動と衝撃音。近くでトラック同士が正面衝突したような物凄い響きだった。近くの「広野火力発電所」で何かあったらしいと家族で話していたところ、第一原発(1F)2号機が水素爆発したことをテレビで知った。「これは危ない……」と一旦自宅に戻り、簡単な荷物を纏め、その夜は原発から約40km南のいわき市内の公園の駐車場に車を止め、車内で寝た。

■[体育館への避難]

 翌13日、いわき市内の小学校の体育館へ避難した。既に多くの人が避難しており、グランドは満車状態、体育館はすし詰め状態だった。避難した際、普段長距離走の際に使っていたDパックを携行した。LEDライト、携帯ラジオ、洗面具、タイル、下着類、筆記具、文庫本、フィルムケースに入れた塩などが入っいて、非常に役立った。特に塩は支給されたおにぎりや惣菜等にふりかけて食べるのにすごく重宝した。また、キャンプで使うシュラフ三つも持って行き、当初は毛布等も無かったため、とても役に立った。キャンプ道具は非常時に威力を発揮する、と知った。

■[来週には帰宅できるだろう、と東電の説明]

 体育館は、比較的恵まれており、日に3度おにぎりやパン等の簡単な食事が支給された。

 初日の夕方近くになると、東京電力の人が状況の説明に来た。「いつまで我々は避難していなければいけないのか!」「残してきた牛に餌をやりに戻らせてくれ!」など怒号に近い質問が集中したが、東電の担当者は「来週にはご自宅に戻れるかと……」と苦し紛れに答えていた。当時は我々自身も「10日から2週間程度で戻れるだろう……」という程度の認識しかなかった。

■[3号機の水素爆発とヨウ素の配布。体育館は異様な雰囲気に]

 3月14日、3号機で水素爆発。一時は体育館から屋外へ出ることも禁止され、完全に監禁状態に。「ヨウ素」が39才以下を対象として配布され始め、子供だけを別な場所へ避難させよう、という声も強くなった。そして、徐々に体育館から人が居なくなっていった。残った人の間で「本当にここも危ないのでは」と焦りも出始め、次第に異様な雰囲気に。

■[神奈川県逗子への避難]

 いよいよ原発が危ない、との話が広まり、3月16日の夕方に神奈川県逗子の親戚宅へ向けて「いわき」から脱出した。車のガソリンがほぼ満タンだったため、動くことができた。都心へ向かう常磐道は料金所ゲートが解放されていたが、途中のSA、PAは全て閉鎖されていた。ガソリンを抑えるためか、車はどれも時速50km〜60km程で走行。唯一空いていた茨城県の「守谷SA」で給油しようとしたが、PAに入る車で激しい渋滞。約2時間程並び、2000円分給油してもらうことが出来た。逗子の親戚宅には深夜2時過ぎに無事到着。ここに10日間程お世話になり、職場再開に伴い3月末にいわきへ戻った。

■[いわき市での仮住まいスタート]

 幸い会社の社宅を準備して頂き、そこを拠点とした生活が始まる。いわき市では4月に入ってからもガソリンの供給がまだ十分では無かったため、当時はランニングかバイクで動いていていた。趣味としていたランニングとバイクにこれほど助けられた事はない。

■[警戒区域に指定され、自宅への立ち入り禁止に]

 4月23日 楢葉町を含む原発周辺地域は「警戒区域」に指定された。この日以後は自宅への立入りが一切出来なくなるため、前日にテレビ、PC、電子レンジ、布団、コタツなど車に詰め込めるだけ荷物を詰込んで自宅を後にした。6月には初めての1次帰宅時、自宅は泥棒に荒らされていた。草茫々の庭、荒れた田畑、封鎖された駅舎、野生化した牛、猪等の足跡……。変わり果てた故郷の姿に愕然。

■[「避難指示解除準備区域」に]

 2012年8月には「警戒区域」から「避難指示解除準備区域」への再編で自宅への行き来が可能に(但し、宿泊は不可)。以後「準備宿泊」としてお盆や正月の一定時期に自宅への宿泊が許可され、つかの間の自宅での時間を過ごすことが出来るようになる。

■[避難指示解除される]

 2015年9月 避難指示が解除された。しかし、楢葉町住民約7000人の内、帰還者はまだ1割未満。 仕事や子供の学校、商業施設やまた医療施設の不備、また放射線への不安等、様々な課題と直面している。

■[今後の町の取り組み]

 第二次復興計画として「コンパクトタウン」と称し、集合住宅、商業施設、学校、病院等を一箇所に集中させた町作りを進め、住民の帰還促進に繋げる計画。「戻る意思があり、戻れる環境の人から戻ればいい」と私自身は思っている。この2月1日には「ふたば復興診療所」がオープンした。第一原発周辺には医療機関の殆どが再開していないため、帰還している住民だけでなく復旧作業に従事している方々にも大きな助けに。

 3月1日には福島第一原発内にコンビニがオープンした。今までは第一原発の周辺(浪江町に1軒、楢葉町に2軒)にしかなかったため、朝晩は凄まじい混雑だった。

3.11から5年が経って
━━南三陸町中瀬からの報告━━

■あの日から丸5年が経とうとしている。当初は遅くも3年あれば元の生活に近づけるものと思っていたのに、現実はほど遠い。先日ニュースで宮城県の復興状況を伝えていたが、県の公共工事(道路や河川等)の発注済みは65パーセント、完成済みはわずか14パーセントにすぎないという。

◆住宅の再建も遅れが著しい。ここ南三陸町志津川では、防災集団移転事業(高台移転)で東地区、中央地区、西地区の3カ所の高台を整備しており、住宅用に約350区画、集合住宅が約500戸完成する予定だ。しかし、現段階でそこへ自宅再建できたのはわずか10世帯ほど。小規模な集落や個人で再建した人をのぞけば、未だに仮設住宅での仮の暮らしが続いているのが現状だ。

◆私が住む志津川の中瀬町団地(仮設住宅)は、震災後の2011年8月に約80世帯が入居し、被災を免れた一戸建ての7世帯と共に過ごしてきた。それから数名が仙台などに移り住み、現在は72世帯が暮らしている。今後、早い人は7月から高台の住宅へ移り、秋には年配者を中心に多くの人が災害公営住宅へ入居する予定なので、その頃には世帯数は今の半分になるだろう。

◆私自身は、志津川高校の裏山を切り崩して開拓している西地区へ移転する予定だ。完成予定の48区画のうち18区画は、土地の造成が終わったので1月に引き渡されており、すでに建設中の住宅もある。私の家の区画は12月に引き渡される予定だが、工事の様子を見ていると期日に間に合うかどうか疑問だ。

◆まだ山の土を取って平にならしている状態で、このあとも3mは土地を削らなければならない。予定通りいけば来春(平成29年春)には我が家の建設をはじめ、夏が終わる頃に引っ越しできればと思っている。震災から6年半後、ということだ。

◆昨秋、自宅の建築材用に、自分の山の杉の木を切り倒した。5月には木を玉切りして乾燥させはじめたいので、それまでには家の設計は済ませたい。どこも人手不足で、まだ工務店と大工を探している最中だが、それが決まって設計が終わったらあとは時を待つだけだ。家業の農業では、この春から津波浸水地に新しいビニールハウスの建設を始めるので、仕事の方も少しずつ再建してきている。

◆震災後、避難所から仮設住宅まで地域のまとまりを持ってやってきたが、今後は住人がそれぞれの事情で選んだ地区へ移り住んで行く。この夏には仮設住宅の解散式を予定している。中瀬町という名前もいずれ無くなるだろう。新しい地域として再編されていくためにも、今後は良い意味でかたまりすぎないようにして他の地区から来る人たちに不安を与えないようにしたいと思う。(宮城県南三陸町志津川 中瀬町行政区長 佐藤徳郎、文責:新垣亜美

風の電話

■岩手県大槌町は、東日本大震災で住民の10人に1人が亡くなりました。2月末、震災以来同町の支援を続けている【鮭Tプロジェクト】の仲間と共に4年ぶりに町をたずねました。かつて海沿いの市街地だった場所は4年前、基礎だけ残った住宅跡に雑草が背の高さに生い茂り、ガレキの山がまだ目立つ風景でした。2016年の今、当時の痕跡は旧町役場の遺構と、いくつかの建物。そして地盤沈下で奇妙にズレて、現代アートのようにも見える防潮堤の一部に残るくらいでしょうか。

◆現在、旧市街地の大方は、台形の盛り土がモザイクのように連なった不思議な幾何学模様の土地になっています。どの高さまで盛り土するかは地域によって違いますが、とりあえず予定の高さより高く盛り、重さで地盤が沈んで安定したら計画の高さに削るとか。盛り土は隣接する山田町から持って来る協定ですが、3割くらいは町内の山を削るそうで、地肌をむき出している山もところどころで目に入ります。

◆大量の土を運ぶ手段は大槌町ではトラック輸送。そのための工事用道路も多く、今後どのような町の形が考えられているのか、眼前の風景からはまだ想像がつきません。街中には水が湧く土地もあります。町役場の遺構の周辺はそうした土地の一つ。遺構を残すかどうかもまだ町民の合意ができていないようです。「悲しい記憶が蘇るから見たくない人もいるし、私も本当は見たくない。でも後世の教訓のためには残した方がいい」と言う方もいれば、「遺構を残すためには水をくみ上げ続けなけりゃならない。この町にそんな金の余裕は無いはず」と言う声も聞きました。

◆町を見下ろす高台の城山からは、先祖代々のお墓を移転する事に同意できない人もいて、お墓の周辺だけ土が盛られていない一角も見えます。防潮堤の予定地にも大きな盛り土の山が出来ていました。ずいぶん高く見えたけど、これも多めに盛って落ち着くのを待っているのでしょう。住民の意向で防潮堤は震災以前と同じ6.4mで再建するそうです。大槌町内には明治29年の三陸大津波で波が到達した地点に石碑が建ってますが、今回もほぼ正確にそこまで波がきたそうです。いつかは必ず来る津波と共存せざるを得ない海辺の町で、何を備えにするかは今そこに住む人次第です。

◆鮭Tプロジェクトが支援する大槌中学校(現・大槌学園中学部)ではまだ仮設校舎での生活が続いていました。この秋には新設校舎に移れる予定です。生徒の3割はまだ仮設住宅住まいで、海に近づけない子や、フラッシュバックに悩む生徒もまだ多いそう。

◆震災当時はまだ物心がついていなかった小学部の児童が、親達の言葉から擬似的に震災体験を心の中に作り上げ、その恐怖に悩むという事態も起きているとか。「生徒をどう指導すれば良いかずっと手探り状態です」と、大槌、吉里吉里の町内2つの中学部の校長先生が異口同音に語りました。

◆今回宿泊した浪板地区の宿さんずろ屋で、震災を機に長崎から同町に移住した心療内科医の宮村通典医師と酒席を共にする機会がありました。「あれだけの体験を経たのだから、今でも気持ちが乱れるのは当然のこと。まずは自分を否定しないように伝えています」とのことでした。

◆町の裏山に当たる鯨山の中腹に居を構える佐々木格さんをたずねた際、庭に設置した「風の電話」という存在を知りました。大槌の町と海を見渡せる庭に木製の電話ボックスを設置しています。つながっていない黒電話機が置かれ、亡くなった人達に届けたい言葉を秘めた方々が訪れるそうです。傍らにおかれたノートには、不意に身近な人を失った悲しみを訴える切実な言葉が記されていました。

◆3日程の短い岩手滞在でしたが、期せずして縁のできた土地の現状を見、様々な人に会って生の声を聞くことができました。「復興」という言葉は既成事実のように用いられているけど、まだまだ始まったばかりということをあらためて実感しました。震災前から過疎だった地域も多く、まだ復興を始めるための準備すら整っていない地域も多いのではと思います。(長野亮之介


通信費、カンパをありがとうございました

■先月の通信でお知らせした後、通信費(1年2,000円です)を払ってくださったのは、以下の方々です。数年分まとめて払ってくださった方、カンパを含めてくださった方もいます。当方のミスで万一漏れがあった場合はご面倒でも必ず江本宛てお知らせください。振り込みの際、通信で印象に残った文章への感想、ご自身の近況をハガキなどで添えてください。アドレスは(メール、住所とも)最終ページにあります。

戸高雅史・優美/堀井昌子(5000円 2016年分の通信費です。例によって3000円はカンパです)/和田美津子/藤本亘/大野説子(4000円 2年分)/石原玲/中村和晃/國見功/大槻雅弘(京都市 5000円 愛宕神社のお札とともに。大槻さんは、一等三角點研究會会長。江本と共に愛宕山に登ったことがある)/渡辺哲(福島県いわき市 20000円「いつもお世話になっています。カンパを含めて」)


今月の窓

パイオニア・ワークとは?
━━半世紀前、若者たちは南極大陸最高峰をめざした

 山岳部をやめて探検部を設立したのは大学3年生のときである。そして翌年の1962年、ヒマラヤ(ネパール)をみることになる。思えば、奇跡にちかい幸運だった。「日本をでれば8割の成功」といわれていた時代だった。いまの若い世代には想像もできないのではないか。

 1年4か月の経験、ヒマラヤ放浪、そしてトゥインズ(7,350m)登山隊への参加、6,000m峰の初登頂もした??が本になった(『一人ぼっちのヒマラヤ』1964年)。深田久彌さんの並々ならぬ後押しのおかげである。深田さんは「まえがき」でこう書いてくれた。

 ……私にはヒマラヤ病に憑かれた若い友人が多いが、彼ほどの重患も珍しい。(略) 向後君はアドヴェンチュア精神を尊重する。十分な装備と食料を持った組織的な登山隊よりも、自由な、孤独な、冒険的なヴァガボンドが性に合っているようである。

 深田さんはほめてくれた。だが、登山・探検史からみれば、ぼくのヒマラヤなんか「落穂ひろい」そのもの。地球にはもうパイオニア・ワークはないのか。

 南極大陸最高峰があった。それに気がついたのは大学6年目の冬、ボルネオのキナバル(4,095m)から帰った1964年のこと。仲間との雑談のなかでひらめいた。7大陸の最高峰でまだ登られていない山があるのだ。そのときの興奮はいまも憶えている。心底、初登頂をしたい、と考えた。

 心を同じくする若者があつまった。みんな海外登山の経験者である。宮本千晴はキーパーソンだったが、ほかにだれがいたか。梅棹忠夫『裏返しの自伝』で記憶がよみがえる。“南極大陸の最高峰”との小見出し、その一部を抜粋して紹介しよう。

 ……1965年9月はじめ、わたしは、京大山岳部の卒業生で京大学士山岳会の一員と名のる青年から一通の手紙をうけとった。南極大陸の最高峰ヴィンソン・マッシーフ(5140メートル、註:2004年のGPS測定で4,892m)をやりたいので、「山岳部の大先輩として、また探検のオーソリティーとして」助言がほしいという内容のものであった。手紙に差出人は、宮木靖雅であった。同封されていた計画書には、ヴィンソン・マッシーフについての多少のデータはしるされていたが、具体的な行動計画については、ほとんどなにも書かれていなかった。この登山計画書を作成した「南極地域登山研究会」という団体は、奇妙なあつまりであった。総勢一五、六人のメンバーだが、どの大学のOB団ということはなかった。東京都立大、北大、同志社大、東京農大、関西学院大、大阪府立大、九大、京大、東大、東海大、早稲田大、といったさまざまな大学の卒業生あるいは在校生からなっていた。韓国の慶煕大、高麗大というものもいた。従来の探検隊や登山隊のチームというのは、それぞれのひとつの大学の卒業生のつよい団結のうえにのっているのがつねであって、こういうインターユニヴァーシティーのチームというのは、いままで例がなかった。わたしは、探検の世界にも、あたらしい時代がきたなとおもった。

 ぼくらの活動がはじまる。メンバーのひとり山本恵志郎(大阪府大OB、当時日本航空パイロット)は、アメリカで航空写真と地図(ONC)をさがしてきた。これでヴィンソン・マッシーフの概要がつかめる。川合康男(同志社大OB)はアメリカの知友に日米合同の打診をした。が、芳しい返事はこなかった(結果において、ヴィンソン・マッシーフをめざすアメリカの2グループを結合させることになる)。

 自力でやろう。国産機YS-11を飛ばせないか。旧満州の厳冬を飛んだパイロットと検討した。西堀栄三郎さん(第1次南極越冬隊長)は、重要な仕事のためリーダーにはなれない、と初めからいわれていた。絶大な応援をしてくれたのは、若者たちの夢と情熱に共鳴してくれたからである。高名な南極探検家フィン・ロネ夫妻を日本に呼んでくれた。デンマークの砕氷船をチャーターできるルートがひらかれる。だが億単位の費用だ。後援予定の新聞社の予算ではとても足りない。西堀さんは某宗教団体の幹部にあってくれた。「困ったときの神頼み」ではない。寄付を頼むことばに先方も真剣に耳をかたむけてくれた。

 川井がサンチアゴにいく格安の船をさがしてきた。最後の手段はチリとのジョイントだ。結婚したての紀代美も同行するという。なんの抵抗もなく勤めて1年余のJETROを退職した。「きみたちは失うものがない」。西堀さんからよく言われた。若さを認識させる名言である。

 京大探検部の『探検10号』がとどいた。ぼくが書いた「ヴィンソン・マッシフ(5,140m)南極大陸の最高峰」が掲載されている。編集後記に本多勝一さんはこう書いた。……収録した原稿のうち、向後元彦氏の「ヴィンソン・マシフ」を受け取ってまもなく、アメリカ隊によるこの山のアタック計画が報ぜられました。長年研究を進めてきて、実行段階に移る寸前、アメリカ隊に先んぜられた向後氏らグループの心情は余りあるものがあります。アメリカ隊の失敗を祈る次第です(1967年1月、サイゴンにて)。

 そうなのだ。「夢」はおわったのだ。ニコラス・クリンチをリーダーとするアメリカ隊は大型輸送機C130でヴィンソン・マッシーフ山麓に到着、ほとんど苦労もなく初登頂をはたした。

 それから50年がすぎた。いまのヴィンソン・マッシーフを知るには、北村節子『ピッケルと口紅』を読んでほしい。南極登山の現状はダニアン・ギルデス『南極の登山』をひらいてみよう。192頁、大判の大著である。それによれば、なんとヴィンソン・マッシーフには25本ものヴァリエション・ルートが開かれている。嗚呼。(向後元彦


あとがき

■いい年齢になったので、たまには健康診断受けたら? と言われて近くの保健センターに行った。「骨密度検査」というのである。昔の仲間はよく知っているが、私がフリーになったのを記念して「独立の会」なる集まりをやっていただいた。その際、記念のTシャツと、あちこち書き綴った記事やエッセイをまとめた文集をお礼にお配りした。その時の筆者の名は、長野画伯の命名で「江本骨蜜」とされてしまった。

◆40才からのランニングの成果からか、当時私は骨密度がかなり良かった。そのことを鹿屋体育大の山本正嘉先生がこの文集の最後に書いてくれたのだった。で、今回久々に測る気になってセンターに行ったら、女性ばかりで男は1人もいないのに面食らった。骨そしょう症防止のため、女性は熱心であるらしい。

◆結果は「あなたの音響的骨評価値は、若年成人の平均値と比較すると110%、同年齢の方の平均値と比較すると125%に相当します」だった。医師から開口一番「あなたはすごいです」と言われてしまった。ふぇー、また自慢してしまったよ。

◆第5回梅棹忠夫山と探検文学賞の受賞作は2月18日、服部文祥さんの『ツンドラ・サバイバル』(みすず書房)と発表されました。いくつもの力作を書いてきた服部君、文学の賞は初受賞です。おめでとう!! 授賞式は6月、長野市で行われる予定。なお、梅棹忠夫山と探検文学賞の副賞は50万円です。

◆2月号のフロントの文章で『辺境の誇り〜アメリカ先住民と日本人〜』の著者名、出版社名が抜けていました。鎌田遵著 集英社新書です。(江本嘉伸


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

道中渡世旅明暮(みちなかわたりよたびのあけくれ)

  • 3月28日(月) 18:30〜21:00 500円
  • 於:新宿コズミックセンター

「地平線会議の歴史は、ジャーニー・ランの歴史と重なるんだぜ!」というのは三輪主彦(かずひこ)さん。ランナーの多い地平線人脈の中でも名うての走力を誇り、かつ旅の手段としてのランニングに早くから着目し、走り旅と称して長く、ゆっくり国内外どこでもランニングシューズの旅を実践してきたベテラン旅人です。

「ジャーニー・ラン」の言葉は'80年に出版されたJ.E.シャピロの著書「ウルトラマラソン」に登場しますが、「オレはその前から走り旅をしてたよー」と三輪さん。「旅は道中こそが楽しい。道中を味わうには、走るくらいのスピードと身軽さがちょうどいいんだ」。

地理と歴史への深い造詣を生かした最新作『ちょっとそこまで走り旅』を昨年末に刊行したばかりの三輪さんに、今月は走り旅の魅力を語っていただきます。地平線会議との深〜い関係も。お楽しみに〜


地平線通信 443号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2016年3月8日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方


地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


to Home
to Tsushin index
Jump to Home
Top of this Section