2016年9月の地平線通信

9月の地平線通信・449号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

9月14日。秋雨前線が居座っているらしい。10時になっても都心は23度、心持ちひんやりしていて、麦丸の散歩にはありがたい。8.11の「山の日」、広島で講演をした際、3.11の話から始めた。自然の凄まじい力を私たちに見せつけた3.11の東日本大震災は「山の日」が本来持つ思想と根源的につながっている、と私は考えている。5年半前、東北で起きたことを忘れはじめているかもしれない広島の皆さんにあらためて大津波の動画、汚染土のフレコンバッグが積み上げられている福島の風景を見てもらった。どうして「山の日」と3.11が結びつくのか、それはいのちの大切さを私たちに語りかけるからだ。

◆児童74人を失った石巻市大川小学校の校舎の保存が決まったことに絡んで「遺す」という問題についても話をした。いまや世界に知られ、今年はオバマ大統領も訪れた原爆ドーム。かっての「産業奨励館」がいまに残されたのは、楮山(かじやま)ヒロ子さんという中学生の日記がきっかけだった。家族をなくした多くの市民が原爆の焼け跡だけは見たくない、と被災建物の全撤去を希望したなかで、1才の時に被爆し、15年後の1960年4月5日に白血病で亡くなったヒロ子さんはこう書いた。世を去る1年前、1959年8月6日の広島原爆記念日当日である。

◆「八時十五分、平和の鐘が鳴り外国代表のメッセージを読み終わり、十四年前のこの日この時に広島市民の胸に今もまざまざと、記憶されている恐るべき原爆が十四年たった今でも、いや一生涯焼き残るだろう。(中略)あの痛々しい産業奨励館だけが、いつまでも、恐るべき原爆げんばくを世に訴えてくれるのだろうか」。この日記がもとになって1966年、広島市議会は原爆ドームの保存を要望する決議をしたのだった。30年、50年経って「遺しておいて良かった」と思うものは、ある。資料館に寄って、オバマさんの折ったという折り鶴を見て東京に戻った。

◆先月も書いたように、この夏はリオ五輪で盛り上がった。私はパソコンに向かって原稿をあれこれいじりながら、毎日深夜まで、好奇心からさまざまな競技を見続けた。そして、いま振り返ってみて何としても圧巻は、8月19日、男子400メートルリレーで日本の4人が銀メダルを獲得したことだった、と思う。これは、私が長いこと後生大事にしていた「先入観」を根底から覆すものだった。長距離はともかく、短距離だけは「よくて決勝進出。万年8位」というパターンがこれからも永遠に続く、そう思い込んでいた私は深く反省した。

◆記録は、37秒06。10秒を切るランナーが一人もいないのに日本人があれほどのスピードで走れたんだ、という事実に今なお驚愕する。このことから私たちは何を学べるだろうか。反対に、マラソンはひどかった。日本のお家芸(陳腐な表現ですね)だったはずなのに、見ていて全然ときめきが感じられなかった。冬の風物詩となった「駅伝」にいつの間にかエネルギーを搾り取られてしまったのかもしれない、と思う。

◆8月27日の日曜日、長野県小川村に行った。ここで「山の日と信州の山文化を考える」というシンポジウムに参加したのだ。梅棹忠夫さんの縁で千里文化財団(大阪府吹田市)が刊行している『季刊 民族学 157号』の信州の山特集で「ジャンジャンの思想」という文章を書いていて、その縁で引っ張り出されたのである。小川村は、長野県の北部、長野市と白馬村のほぼ中間に位置し、雄大な北アルプス連峰を眺めることができることから、その景観は「日本の里100選」、「信州サンセットポイント百選」にも選ばれている。しかし、初めての魅力的な地なのに、新幹線と村の車で往復しただけだったことは大いに反省だ。実は、行き帰りの新幹線の中でもこの夏の課題だった「論考・『日本人の山・マナスルをもう一度考える』」の最終校正に追いまくられていた。日本山岳会の年報『山岳』用のもので間もなく刊行されるはずだが、残念ながら市販はされない。

◆8月29日、なんと南極からゾモTシャツの大量注文があった。第57次南極観測隊の隊長、樋口和生さんが越冬隊全員の注文を集めてくれたのだ。それも「57次」の数字に合わせて57着分。10月末か11月はじめまでに次期観測隊を乗せて南極に向かう船に積んでくれれば、南極の地でゾモTシャツを着て写真を撮れる、という。わー、これには、心底感動しましたね。57着なら確実にゾモ1頭分になります。

◆樋口さんには南極に向かう直前、お会いしているが、北大生だった青年時代、あやさん(チベット学者・貞兼綾子さんのこと)と知り合い、ランタン・プランの最初のスタッフとして現地で仕事をした人だ。あやさんは良き働き手のことを「針金を(ペンチがなくとも)歯で噛み切れるような若者」という表現をよくするが、実は若き日の樋口さんがそのモデルらしい。帰国したら、できれば地平線報告会で南極最新情報を話してほしい。

◆8月17日、地平線会議は38年目の活動に入った。これからも若きも老いも優れた行動者たちを受け入れ、記録し続ける場であり続けたい、と思う。(江本嘉伸


先月の報告会から

モモタロウ・アマゾンを行く

宮川竜一

2016年8月26日 新宿区スポーツセンター

■司会の丸山純さんが、竜一くんの向かって左に並んで座る。二人で進行する感じ。丸山さんの「じゃあいくか」という声で、448回目の報告会が始まる。宮川竜一くんは、2008年12月、20歳のときに報告会(356回)をしている。第18回(1981年3月)の平田オリザさんに次ぐ、年若い報告者だった。まず前回の報告会レポートを書かれた、藤木安子さんの紹介があった。ほんとうにすばらしいレポートだと思った。藤木さんの文章を再読して、ぼくも鮮明に当時の体感を思い出した。

◆今回は、2年1ヵ月におよぶアマゾン川筏旅。猿「ペッペ」、犬「ドミンゴ」、「キジ」という名前のオウムと一緒に。旅は2014年に開始し、3ヵ月前に帰ってきた。前回の報告会では、アマゾン川にいる竜一くんと日本在住の親とが常時ケータイで繋がってることに、地平線の一同はとてもショックを受けた。同時に、家族との繋がりに、感じるものがあった。

◆丸山さんからの宮川竜一説明。旅が目的ではなくて「手段」である。小学校の3〜6年生にかけて、父親の仕事の関係でアメリカ在住、日本人学校に通う。3年生のときに映画オーディションに応募、そして主演。神田沙也加との共演だった。そのアメリカ短編映画「おはぎ(Bean Cake)」が中学1年生(13歳)のときにカンヌ映画祭で「パルムドール賞」を受賞する。この映画が「宮川竜一の原点である」。「まず、とにかく全編を観てほしい」。「今の宮川くんと表情がまったく同じ」と丸山さん。

◆「おはぎ」全編上映(12分間)……会場、しずまる。会場のみんな、真剣に映画に見入ってる。ところどころ、会場、笑う。上映後、会場、なお、しずまりかえる。まだ、つかみがない感じ。作品の物語では、田舎から都会の小学校へ転校して来た主人公は、お母さんがつくったおはぎが世界でいちばん大好きだ。しかし「いちばん好きなのは天皇陛下です」と学校の先生に言わされる。「素朴」のさまを演技する竜一くんが際立つ。

◆竜一くんが心境を語る。「この映画が自分の原点」。「ここにいつも戻る」。幸せになるということは「注目を浴びること」ということを、このとき覚えた。この受賞によって「自分には才能がある」と思い始める。そのことを、追いかけ始める。今現在も追いかけてる。丸山さん「有名になりたい!ということが竜一くんの原点にある」。「そういうことは、なかなか、言えないことだと思うが、その未来について、今日は、話をしようか」と竜一くんに言う。竜一くんは、しずかにうなずく。

━━人生最悪の精神状況で登場

●そして、ここ数日間の竜一くんについて、丸山さんから説明がある。丸山さんは「地平線報告会には魔物が棲む」と言う。だから、ふつうは報告会をやった後で落ち込む。しかし、竜一くんは、報告会が始まる前に落ち込んだんだ。2日前に、丸山さんへFacebookメッセージがあって、人生始まって以来の最悪の精神状況で「何も話せない」というひどい落ち込みよう。電話しても出ない。地平線報告会始まって以来のドタキャンか……。竜一くんは、ある人から「自己愛性パーソナリティ障害だ」と、報告会の2日前に指摘されていた。本人は、かたくなにそれを信じた。

◆ドタキャンはなんとか避けたい丸山さんは、前日に竜一くんと会った。「きみがそう思ってるだけじゃないのか。気にするな」と丸山さんが説得したが、まったく効き目がない。強く深く滅入っていて、「昨夜はゾンビの顔をしていた」。茫然自失の体調のままで会場に来た。だから今日、彼はまだ「患者」のままです。竜一くんは一歩も進めないままだ。

◆「自己愛性パーソナリティ障害」について、丸山さんから説明がある。☆自分を特別視し、周囲に尊大な態度をとる/

☆自身の成功や自分の魅力、理想的な愛への空想を巡らせる/☆過剰な称賛や特別扱いを求める/☆他者と協調することが困難/☆嫉妬深い/☆自身の目的達成のために他者を利用する。丸山さん自身は、これらの精神医療的診断に疑問をもっているが。「ということで今回の報告会は、人生最悪の状態の患者と、大勢の心理カウンセラーという構図で進めます」という進行提案が丸山さんからなされる。異例の設定の地平線報告会だ。

◆「宮川くんはパフォーマーであり、表現者ということは外せない」と丸山さん。丸山さんからの、インタビューという施術が開始される。宮川くんの人生を振り返る。前回の報告以降、今回のアマゾンに至るまでどんな人生だったのかということを、竜一くんが説明を始める。「ぼくは日大芸術学部で、演劇科の学生してました」と自身のことを語りながら、ときおり遠くを見つめるような、ぼんやりした眼差しの竜一くん。だいじょうぶか。

◆会場は、あいかわらず静かだ。そこで、竜一くん、自己愛性パーソナリティ障害とその自分史について語りはじめる。先の症例条件8つの全部にカッチリ当てはまる。自分はもう絶対に「これだ」。「障害だ」。「親の教育に、育て方に問題がある」。病んでる家庭に育ったんだ。それに気がつかなかった。「おやじに、いっぱい殴られていた」。「母親は、外に熱中することがあったし」。好きな人に愛を求めるが、ぼくは愛を与えられない。そして、ぼくは他者に嫉妬する。そのような「自分」に、とても落ち込んでる。「絶望ってこれだな」と気づいた。「悪魔ってこれだな」と。

◆「この悪魔的な脳から抜けられない」。「変えたい」。でも「(絶対に生涯)治らない」って書いてあって。絶対に幸せになれないことがすでに決定してるのに、「幸せを手に入れようとする」自分がつらい。「ぼくは、ネガティブ思考なので」と加える。「そういう人間が『こういう旅をしなければならなかった』という話を今日はします。この報告会で、ほんの砂粒一つでも、希望が見えたら、それでいいと思ってる」。

◆丸山さんは、みなさんにも幸せを見いだしてほしいというその「サービス精神」が、希望を持ち帰ってもらわなくてはダメだというその「義務感・使命感」がわからないと言う。それに対して竜一くんは、ウソをついてでも「人に喜んでもらわなくてはならない」という使命感がある、と応える。自分はエンターテイナーなので、演技します。自分は演技性パーソナリティ障害でもありますから。(あらゆる要素を「なりきる」力としながら)演技しまくる人生なんです。妬んでるのに、ハッピーだと演技する日々です。「実際は、他者を妬み恨んでる」と言う。

◆そして「ぼくは患者なので、今日はよろしく」と、竜一くんはお願いをする。ここで「宮川竜一報告会」の離陸準備はようやく整った感じ。いよいよ開演。

━━ピエロの格好で南米横断を

■「『ダンシング・アクロス・ザ・アマゾン』はピエロの格好をした自分が踊る旅で、2年間やってきましたが『ほんとうに自分がやりたかったことなのか??』と今は考えてしまう。なんとか自分は愛されてるなっていう実感が必要だから、自分は演技するんだけど……。丸山さんが、すかさずフォローする。「地平線会議に来てる人は、みんな病気」。「思いあたるでしょう?」と会場にうながす。「今の日本社会に適応できるヤツのほうが、病気」「迷惑かけてる人は、ふつうにいっぱいいる」。病名のない「メイワク」もたくさんたくさん。「某E本さんの疾患である地平線偏愛症候群。延々と続く地平線自慢は病気」以外のなにものでもない。

◆でも「宮川くんは、自分は世界一不幸だと思ってる」。「報告者がどん底の場合は、めずらしい」。今日は、いつもと逆に報告者が『下から目線で』報告しますと、丸山さんが一気に話す。丸山さんが会場を見渡しながら言う。「(聴衆が)おののいている」。「(今日の聴衆は)みんなうしろめたい」のだ。竜一くんが言う。みなさまのまえで『助けて』と、いま言っています。凹んだ竜一くんが一人でこの会場に行けないと言うので、今日は、丸山さんちに集合し、一緒に来た。

◆「まず大学をどうやって出たのか?」と丸山さん。大学時代は、あちこち旅をしていた。練馬の実家から仙台までの無銭歩き旅(これは、おがたがもっとも好きな彼の「作品」)。インド・ネパールも歩いた。2回目の夏休みに、親にカネを借りて、1ヵ月くらいアマゾンを下って来た。それが8年前の報告。そのあと、「人」のどん底をみたかったので、池袋のホームレス生活のルポルタージュをした。3.11災害があって、関東の自宅から東北までを自撮り語り、ネットにアップした。翌日にドイツ大手メディアの『シュピーゲル』からネットリンクを依頼され、以後継続する。半年後、シュピーゲルから「ドイツに遊びにおいで」と招待される。

◆丸山さんが、今回の旅は準備期間5年というけど、「なんで、アマゾンなの?」。竜一「いつも自己紹介のときに、夢を伝えてきた」。「やりたいことを、リベンジしたかったから」。「アマゾンへ行って映画をつくって、ドキュメンタリー映画で、みんなに希望を与えられるような人間になりたい」と、就職の面接で言い続けながら、ニートと鬱を繰り返した。

◆前回は撮影編集技術の不足でぽしゃったので、ドキュメンタリーを勉強した。ドイツの町でラジオ体操する竜一くんの映像が報告会場に流れる。「パフォーマンス人間」ということを会場が納得。ロンドンでは、路上音楽もやった。ロンドンから直接アマゾン旅へ行ってもよいと思ったが、ロンドンでは資金は貯まらなそうだったので、とりあえず日本に帰って稼いだほうがいいと思って帰国した。そして、クラウドファウンディングをした、3ヵ月で130万円集まった。いま、2000人のフェイスブックともだちが世界中にいる。

◆丸山さんが「なんで、こんなにメディアに出たがる」のかと問う。そして、なぜ「ダンシング・アクロス・ザ・アマゾン」なのか? 鬱になったり、躁になったり、激しい自分がある。とにかく表に「出たい」「注目を浴びたい」「世界中の人に自分を見てほしい」という病気なので、ユーチューブ再生100万回を目指す。「解り易さ」で、世界中に共感を呼ぶ、という計画。そのためには、世界中にフォーカスする。言葉よりも、ダンスという動的表現に有効性があると思った。そして、ピエロという「記号」的様相で、より共感を得られると思った。出発の半年前くらいから、プランがいっそう固まる。

━━リャマ、犬、牛が旅のお供

■アマゾンの旅について、映像と説明開始。実際のダンスの映像。今回の旅は「勇気と闘う」がテーマ。そのためには「恥ずかしいことをやるんだ」と言う竜一くん。そこで、飛行機の中をピエロが走りまくるパフォーマンスをすることにした。こんな「恥ずかしい」ことをやってるのは「ぼく一人しかいない」。ここまでやらないと「達成感」を感じられない自分。

◆そして、旅が始まる。まず地図が映される。アマゾン川の源流からの説明。旅のコンセプト。「海から海へ人力で」が、旅の計画。太平洋に面したカマナ海岸から、標高5600mを越えてクスコを通って、山を徐々に下りて、ルートを検討しながら(筏下りの開始地点など)ジャングルを歩いた。ブライ区チルンピアリ村から川を下りはじめた。プカルパ(植村さん出発地点)を通過。イキトス通過。そして、コアリーで「命の危険」を体感して旅を終え、日本へ帰国した。大西洋までは、がんばればあと3ヵ月くらいだったが……。というのが今回の旅の概要。

◆旅の最初は、開放感でいっぱいだった。毎日ダンスと記録をしていた。歩きはじめの映像を上映。音楽軽快。なんだか広大な感じだ。大きなサボテンと一緒に記念撮影したり。悠々としていて嬉しそうな竜一くん。「ぼくは『自分が主役の映画を見続けたかった』んです。だれも創ってくれないから『自分で創る』んです。カメラマン、演出家、脚本、主演、全部やります」。それを、だれかに観て欲しい。「ぼくは旅が、好きで」アマゾンだとキャッチーで注目されるだろーし。希望を与えたいというふれこみの「自分を愛されたい」という気持ち。「自分を愛されたい」と「希望と勇気を与えたい」が、体内を混沌併走する。

◆リャマと旅をすることにした。リャマは6000円。名は「はなちゃん」。5キロの荷物を持ってくれる。動物が好きで、家にダチョウやキリンを飼いたかったという小学生からの夢をかなえたかった。「はなちゃん」は生後1年経ってない。自己主張が激しい。気に食わないと怒る。腹減ると、歩かない。旅を始めて半年目くらいに、ある犬と出会う。ビスケットで釣る。名は「コミーゴ」(ぼくと一緒にという意味)。高所で寒い。寝袋の中では犬と一緒に暖をとる写真。インカ系の人たちとダンスしてる写真。楽しげだ。田舎の犬なので、車を知らなかったコミーゴ。1ヵ月くらい共に旅して、クスコで交通事故で死ぬ。

◆コミーゴと似た犬「ドミンゴ(にちようび)」を買う。生後3ヵ月くらいだ。リャマ同行は制覇したので、クスコで友だちにプレゼント。「はなちゃん」との別れで、泣いた。想い出に「はなちゃんの毛」を持つのは、長旅の負担になるので、やめた。アマゾン源流の水はぺちゃんこのペットボトルに入れて持ち歩いたけど。竜一ザックは35キロ。

◆次の同行者を考えた。常に「自分が特別に目立たないとダメ」な病気。なので、まさか牛と一緒に旅は、なかなかだれもしないだろーって思った。牛を飼うことに決める。牛乳飲みながら旅すると、おもしろいだろーな。でっかい角あると、かっこいいな。牛への理想条件が、どんどん大きくなってくる。Facebookのともだちらの「期待に応えたい」んだ、で、会場は大きく笑う。やっと理想の牛を見つける。7歳以上の牛。牛参加で、会場が一気になごむ。ここで、ようやく竜一くんペースになってくる報告会。牛の名は「カミーナ」(歩きなさい)。旅は、ほとんど野宿。人の家にも泊めてもらうが、気をつかうこともあるので、野宿が多い。

━━毎日が怖い先住民地域

■筏つくりの話。トッパという軽い木でつくった。自分で一から創りたいという強い想いがあった。自分で設計図を描いて、一ヵ月かけてつくった。牛は、筏旅の前に、売った。

◆ぼくがスタートした地点からアマゾン筏スタートした人はだれもいない。人力での横断がルールだから、もっと歩いてもよかったんだけど、1年間歩いたので、歩くのが、もういやだった。ところが、それはとても「怖い」筏旅となった。筏の動画……筏が岩にひっかかって、びくともしない。半日かけて、10メートルも進まないというときもあった。足も炎症で、痛くて、精神的に滅入ってくる。「毎日が、怖い」と言う。豹みたいな肉食動物がふつうに出てくるのだそうだ。竜一「こわすぎる」。夜、眠れることを、神に感謝するような気持ちになってくる。泣きたいけど、涙が出ない。泣き声の、夜間テント動画。

◆「人」も怖い。アシャニンカ族が怖い。アシャニンカ族と一緒に、つくり笑顔で踊るけど内心はボロボロに疲れてる。こんな大変な旅になるとは、思ってなかった。石油パイプラインを爆破するぞと、村人を脅すマフィアがいる。村ではコカインをつくることが、唯一の現金収入源。

◆今夜は久々に、焚火できるぞ。雨降ってないし。野営だ。すると、アシャニンカ族に取り囲まれた。弓矢集団に囲まれる。勝手に荷物をいじくられる。竜一くんは、すごく笑顔で、おだやかに、一個ずつ、荷物を開けて説明する。好意的ではない。彼らは狩猟者で、戦士たち。つねに闘いモード。警戒される。徐々にアシャニンカ語が、トラウマになってくる。村で一番外界に通じている人物である学校の先生に、「筏で日本から来たの?」と聞かれる。

◆竜一くんが荷物を片付けてると、夜中に文明側のボートが通る。アシャニンカ族はみんなしゃがんで、岩のフリをする。文明を恐れている。アシャニンカ族と一緒に踊らなくてはならないという使命感があるが、精神的に参ってる。笑顔をつくって無理矢理ダンスする。なぜなら、自分は映画の「主役」をしなくっちゃならないから。

◆夜中に、どこから来るかわからない酔っぱらいのアシャニンカ族が、鉈とかライフルを持ってる。怖い。アシャニンカ族のことがトラウマになってるから、治安のよい村アタラヤに着いたら、安堵感がハンパじゃない。もう、ホテルから出たくない。鬱。旅を続行することなんかできない、って気持ちになる。

◆ここで、報告会前半が終わり、休憩。竜一くんが来る。竜一くん話す。「人を励ますっていうことは、できませんよね」。「ウソついてだったらできる」。江本さん、来る。今夜の江本さんは、ボクシングのセコンドのよう。「おもしろいから、結論なんてなくていいから」。「映像が活きてる」。「これで病気は治るんじゃないの?」と竜一くんを励ます。報告会レポートは「アドバイスするし」と、江本さんが、おがたのことも励ましてくださる。日本に連れ帰った犬のドミンゴは報告会場に来るはずだった。んだけど、竜一くんの状態がイマイチで不参加。

━━転覆で味わった人生の結末

■後半スタート。旅の経緯。地図を見ながら説明。アシャニンカ族はアタラヤの手前に、たくさんいた。イキトスからは、筏をつくる。24時間休みなく筏で下りたかったので。筏の構造と性能の改善改良の説明。筏が流木にひっかかった。水圧の威力。コントロール不能。「こりゃ、転覆するなー」。ひっかかった木を切ろう。じゃぁ「鉈だ!」。次の瞬間、真っ暗。こりゃ、脱出できん。筏ひっくり返ってる。自分は水の中にいて。空気吸おう。できん。水上へ。あがれん。水にもまれながら、人間の能力を考える。水中無呼吸での、意識の維持の限界を考える。次の瞬間、「茶色と白の」「何か」が脳意識に見えてくる。すごくボンヤリとした「何か」。おそらく、それは、うなだれてる自分の家族と、実家の家具の色。

◆そして、「知らなかった」って、気持ちになった。この物語の結末って、この人生の、この世界の結末って「あんがい早く訪れる」んだなって思った。ふつうに80歳まで生きれると思ってたのに、「あ、いま、終わるんだ」って思った。同時に、「あ、ここに、ロープがひっかかってる」と思った。これをなんとかすりゃ、出られると思った。白い世界に向かって入っていったら、それが水上だった。

◆ピピピという音。カメラの作動音。GoPro(小型防水動画カメラ)だった。水中で、溺れながら録画ボタンを押してた。撮影の執念が、浮上した瞬間の顔を、無意識に撮影していた。次の瞬間、「犬はどうしたんだ」って思った。溺れちゃうじゃんか。首、縄で筏と繋がれてるから。そしたら、ドミンゴは岸のほうへ向かって、自力でちゃかちゃか泳いでた。自分で縄をちぎって。

◆ぼくはボートが来てくれて、助けてもらって、筏を岸で直した。1キロ岸を走って追いかけてきたドミンゴと再会して、生きててよかったねと抱き合った。こりゃ、安全優先せねばと思って、安定するカヌーを買って旅を続けた。カヌーを使用することで、ちょっと気持に余裕できたので、鳥を飼った。オウムだ。

◆映像データは、大切なので防水して、常に体に巻き付けてた。映像……「これは唯一、気の楽になる作品なので」と、上映開始。音楽、のどか。竜一くんと、同行の動物たちの、「いかにも」仲良しっ「ぽい」動画。後半、音楽が、広がりながら深く重なってくる。撮影カットなかで手前にある、さまざまな被写体が説明される。「どんだけ、大変か」と竜一くん。同行の仲間は、役者として撮影のためのキャラクターとしているわけです。すべての役者の本能を知ったうえで、撮影プランを立てます。自分は、ゆっくりと動作するシーン。理想をイメージしながら、なんども撮り直す。映像に付随する音楽を脳裏に想いながら。視られながら視ている、一体の自己、仮想しながら想定する、止まることのない連続。ドミンゴは、向こうに待たせておいて、オウムは、あっちから、ここを通って、テントの高いところへ登るということを予測したうえで、撮影を開始する。

◆あーあーあー、おおお、と、本人、けっこう、感無量、はいっている。「ここまで、一人で、計画・撮影する人は、いないと思う」という竜一くん。まったくだ、スゴいと、思う。こういう、自慢はいいなって、思った。次は。ハッピーバースデー、の映像。だれも話す人がいないけど、動物たちが一緒。

◆猿を仲間にした。イキトスの市場で買った。Facebookで、みんなが「あとは猿しかないだろ」って盛り上がってたから、やっぱりその期待に「応えたい」。「桃太郎ってすごい、リーダーシップ」。「部下を戦いに出して、一人も負傷させずに、カネもって帰る。なんてえらいんだ!」。だから「ぼくは、桃太郎にトライ!」って、竜一くんはモチベーションを自己鼓舞して、旅を、演技をつづける。

◆ということで。さて、最後の映像です。豪雨の濁流の中、カヌー漕ぐ。ばしゃばしゃだ。ドカドカ岸が崩れてゆく。土砂がカヌーを直撃したら、ひとたまりもない。どうしようもない絶望的な状況をなおも行く、という映像。カヌーの中は風呂に入ってるみたいにばしゃばしゃだ。舟は水没してゆく。それでも「撮影できて、よかったな」という、気持ちを語る。「強くなるしかない」と言葉を吐く。アマゾンの臨場を会場へつなげることば。会場に映し流れる動画は、すごくすごく大変そうな状況。ここで「成立」について、言う竜一くん。「成立させたいんだ、作品として」。カヌー筏は、どんどん、工夫して改良する。壁をつくると風圧で舟が飛ぶので、次の筏では、壁はつくらなかった。

◆これから、ブラジル国境。波が高い。浸水だ。また、沈みそうだ。でもまた、舟が助けに来てくれた。荷物だけ維持して、退去する。筏を捨てた。アマゾンの風は強力。もう、ダメ、な、筏旅。だけど、翌日、次の筏をつくりはじめた。ドラム缶四つ、その上に板を敷く。これは軽い、座礁しないし、ひっくりかえりにくい。

━━銃撃されて覚悟を決める

■報告会もクライマックスに近づく。残り15分。「筏で、楽しい旅してるんだ」って言うと、向こうの人に「いいね、おもしろいね」って、言われると、思ってた。でも、違った。だれからも「やばいぞ」「やめたほうがいい」って、言われる。治安がよくないからだ。

◆コカインの生産は、ペルーでは、ごくふつうのこと。でも。コロンビアやブラジルに入ると、違う。一般人の、あまりカネのない人らが、コカインを流してる。リスクテーキング。そして、どんどん高価になってくる。高価になると、治安が悪くなる。殺人がざら、盗難がざらだという。

◆自分は、今までの道程で死ぬようなことは、なかったから信じなかった。5年準備したし、もう2年間旅をしてきたし、ぜったいに、ゴールしたい旅だから。あきらめるわけにはいかないんだ。でも。会う人には毎度毎度、「死ぬぞ」「死ぬぞ」と言われてしまう。精神状態がギリギリになってくる。もう、こんな旅は、金輪際、一生したくないって思うようになる。日常で死を意識せねばならない。「死ぬぞ、死ぬぞ」と繰り返し繰り返し言われる。

◆夜中。ボボボ……舟のエンジン音。起きると、威圧的叫び声とともに、発砲音。散弾銃だ。足に弾があたってるから、散弾を使っていることがわかった。その瞬間。考えない。その瞬間は考えないで、筏から逃げた。寝袋ごと、水中に飛び込む自分。泳いで逃げようとしても、体が浮くのでよけいやばい。ライフルで、狙い撃ちにされて、終わる。だから、筏の下に隠れた。ライトに照らされないようにしながら。

◆そしたら、やつらが、筏に乗りこんで来る。警察とか軍ならいいと、最初は思ったんだけど。雰囲気が緊張してる。これは物盗りだ。殺される。ドミンゴは果敢に吠えてる。筏の下に隠れながら、板のすきまから上の人たちが見える。そのときも「彼らが殺しにきた」と、小声の英語でGoProに撮影録音してる自分がいた……。ぼくの物語は「ここでは終わらないぞ」「撮影をとにかく残しておきたい」という、いろんな気持ち。

◆荷物を全部持って、やつらが去っていったあと。命だけは助かった、と筏に座ってた。そしたら、また、やつらが戻ってきた。寒くて、眠くて、どーしようかなのとき。こんどこそ「殺しに来た」と感じた。また、水中に落ちて逃げたけど、すでに見られてるんだから、もうだめだ。水中で手をあげて。相手の「全面的味方」「なんでも協力します」「なにか必要なことあったら言ってくださいね」「あなたのこと大好きです」と命乞いをする。目だけ出して、ライフル構えてる。「おい、乗れ」。筏に這い上がって、正座して、覚悟する。「ドラッグはどこなんだ」。「出せ」。「このタンクの中だろう!」。

◆筏に、這い上がりながら。ついに、このときが来たと、ほんとうに覚悟を決める。しかし、「それでも」と思う自分。「それでも」まだ生きてる。俺は怖くないんだ。親は悲しむかもしれないけども、俺が死ぬ。「俺」が死ぬんだぞ。死ぬやつがいちばん辛いに決まってるだろ。だから、親にはガマンしてもらおう。親には覚悟してもらおう、って気持ちになった。そしたら、やつらはすごいいい人たちで。「日本から来た観光旅行者なんです」と説明したら、わかってくれた。「ドラッグないなら、いいよ」って。カメラとか、パソコンとか、全部返してくれた。そして「ここらへんは、すごく治安が悪いから」「気をつけろよ」と、すごくいいやつらに、励まされる。

◆報告会場は、なんだか共感の笑い。すげぇ、いい人たちだなーって、「ありがとーございまーす!」ってハグしようとしたんだけど。相手も緊張してるし、それはさせてくれなかった。お金とか、お礼を差し上げようかと思ったら、逃げちゃった。それが今年の3月22日のこと。

━━アマゾンの神様と対話した

■そのあとは「どーしようか」って、考えてた。旅を続けるかどうかを。そしたら、別のボートが通過した。そのときに、初めて、いままで経験したことがないような、すごい恐怖がわき上がった。それが、人生で一番「怖い」体感。今までは、「死ぬ」かもしれん、という修羅場をどう乗り切るかなので、「怖い」とか、考える余裕がなかった。考える余裕があると、すごく「怖い」。ライフジャケットのことすらも。ちょっとは防弾チョッキ代わりになるんじゃないかとか、思ってる自分が。もぉ「こりゃ、ダメだ」って、自覚。怖すぎて「生きてる心地しない」。

◆この怖さは、息を止める肺の苦しさとかではなくて、一瞬で「心臓が止まる」感じなんだ。こんな心理状態じゃ「話にならない」って、旅をやめた。こんなの、旅でも冒険でもない、って。生きてる心地がしない。「余裕」がない、これは自分が大好きな「イタズラ」なんかじゃない。

◆日本に帰ろうと決めてから、時間つぶしで教会へ行った。クリスチャンじゃないけど、お祈りした、みんなと。教会で「神様ありがとー」って声に出して言ったら。神様と対話したような気持ちになった。今、命があることが奇跡なんだ。存在が奇跡なんだ。神様と対話してる気持ち。その時間がとても気持ちよくて。すべての存在が、生き物が愛おしいと、思った。悪いやつ、醜いやつ、ムカつくやつとか、そんなこと関係ない。もう、存在してることが、かわいい。愛おしい。それが「愛」ということではないか、って、虫一匹も殺せない気持ちになった。それは、命を2回、脅かされることによって、初めて「愛」を知ったような。

◆自分の親には、頭ぶんなぐられるのが怖かった。怖すぎて、なんで、怒られてるのか、わからなくなる。誉められるときには、すごく誉められた。甘やかされて育ったことは、すばらしくて。ちゃんと、すなおに、愛を求められなかった。愛されなかった、親に。自分は、いままで自己愛を勉強できなかったという物語にしようかと思ってるんだけど、今回の報告会は。

◆筏の転覆のときに思ったことだけど。人生の経験値と時間軸ということには。幼少期があって、それからの人生の継続について考えていた。将来はアフリカに行って象に乗って旅をしようとか、旅の道中は考えていた。でも「死ぬんだ」って思ったら、線(人生の経緯)も全部消える。「点しか」残らない。「今」っていう、「現在」だけがある。死んだと、思ったら、生きてた自分。白い世界に、立ち現れた自分。「生きてた」って、思うと、線は関係ないな、って。線なんか幻想で、「今しかない」んだ。

━━Showを観てくれて、ありがとう

■「最後に希望の話をします」。「自己愛性パーソナリティ障害に気がついたぼくは、生まれ変われる。ぼくは人のことを、愛せるかもしれない、って、今は思ってる」。「生きてるうちに、生まれ変わろう」。「そしたら『可能性は無限大に成るんじゃないの』って、ぼくは思う」。「これで、この報告会は、希望っぽくなったかも」と、ぼくこと、竜一くん。

◆丸山さん。「人が生まれ変わる瞬間を、垣間見たような報告会でした」。「今日の最初は、病人のようで未来がないという状態で始まりましたが」。「パーソナリティ障害患者として語り始め、最後には、一粒の光を持ち帰ってほしいって言ってましたが、どうでしょうか、みなさん」。丸山さん、会場を、見渡す。今日は「とても大きなものを、受け取ったような気がします」と、丸山さんが締める。

◆質問代表は、ゆずきさん。「世界中の人に旅の動画を観てもらったから、パフォーマンス人間としては満足ですか?」という深い質問である。答える竜一くんは、「世界中の人に観てもらう予定で、これから映像作品をつくって、みなさんに、観てほしいと思っていますが」。

◆「ピエロ自身は、本望でした。でも、ピエロを演じてる本人は、心の中で泣いてるかもしれない」と答えながら、さらにことばをつづける。「ぼくは、パフォーマンス人間ですから、パフォーマンス人間としては、大満足です」。今回の旅の最後の映像撮影で、カメラに向かって。「みなさん、観てくれてありがとー、ぼくのShowを!と言ってるんだから」。(緒方敏明 彫刻家)


報告者のひとこと

いま僕が一番やりたいことは、冒険旅行ではなく、生活すること

■報告会を終え、二週間が経ちました。自分が「自己愛性人格障害」であることを認め、一生治らない病なのだと思い込んだときから、経験したことのない絶望の世界が始まりました。誰かを愛そうとすれば、その人に対する嫉妬や裏切りを繰り返してしまい、僕に愛された人は精神的に病んでいくのだということを知ったのがきっかけでした。これが報告会の数日前の出来事だったので、時期が重なってしまい、司会の丸山さんはじめ、皆さんにご心配とご迷惑をおかけしたことと思います。申し訳ございませんでした。

◆先に書いておくのですが、僕は報告会の数日後に、「自己愛性人格障害」を止めることができました。絶望の世界は、自分で作り上げているにすぎないのだと、気付くことができたのです。人格障害になるのは育った家庭環境に原因があり、僕の場合両親が自分のことを愛せなかったことに、そもそもの原因があったのでした。

◆そしてその先にあった気付きとは、僕が冒険旅行を好み、旅行をしながら自分のことを痛めつけるようなことをしてきたのもまた、親からの愛に飢えていたことによる、自傷行為であったのだということでした。これまで、自分が旅を好きな本当の理由を知らないまま10年近く、旅を好んで来たのです。

◆報告会の一週間後、僕は実家を出ました。そして気が付いたのは、これまでの僕の旅とは、帰る場所の保証された、旅のマネゴトに過ぎなかったのだということです。愛は親が教えるものだとばかり、思っていました。しかし僕の親にとって、愛とは経済的な豊かさと暴力と諦めと依存でした。僕が誰かを愛そうとしたとき、僕は人に金銭を与え、暴力を振るい、自分の幸福を諦めて相手に依存していることに気が付いたのです。

◆愛とは、自分で探し、自分で掴み取るものであり、親から教わった愛とは、その手がかりになるに過ぎないのでした。親が子のために生き、子は親のために生きる構図の中では、永遠に、本当の愛を確かめ、見つけることはできないのだと思います。僕は今回はじめて本当の家出をした訳ですが、家出とは、自分の中の悪の根源を育てている親という存在を否定し、自分の中の善を探しに行く作業なのだと思います。

◆思えば、幼少期、父親の暴力が怖くて仕方が無かったのです。母親もまた、それを見て見ぬ振りをし続けることで、僕に、諦めという形の愛を教えていたのです。殴り返すことを諦めた僕は、代わりに旅に出る方法を覚えました。旅で自分を苛め抜いた先に、空腹と寒さの厳しさの中に、一番大きな感動があったのです。

◆それは親が一切教えてくれなかったことでした。精神的な辛さを、親は僕に許してくれなかったのです。僕の親は僕を愛することしかできず、自分の子供を許すことが苦手だったのです。お金を与えられ、手をかけられて育った僕は、許してもらえない寂しさを抱えたまま、オトナになりました。人と遊ぶのも、付き合うのも、苦手でした。代わりに中高では同級生をいじめ、万引きをして罪悪感に苛まれることで、生きている実感を得ていたこともありました。

◆だから、アマゾンに行って自然の厳しさに直面し、苦しむことで、本当の愛を見つけたかったのでしょう。そして実際、アマゾンでの二度の死にかける経験が教えてくれた感情とは、すべてのものがいとおしく感じられる、本当の愛だったのです。

◆いま僕が一番やりたいことは、冒険旅行ではなく、生活することです。現実逃避のための旅をして、刺激を求めて生きるを感じ、人に認められた気分になって、空虚な愛を求めるよりも、実生活の中で、働くことや食べること、住むこと、愛することを通して、生きるをやっていきたいと思っています。(宮川竜一


あれ?旅の話じゃないの?

━━8年ぶりの宮川さんの報告会を聞いて

■地平線通信7月号を見て次回の報告者が宮川さんと知り、とにかく何はなくても話を聞きに行かねば!との思いで、久しぶりに地平線報告会に参加しました。なぜ、「行かねば!」と思ったのかは、8年前(2008年12月23日)に宮川さんが初めて地平線会議で報告者となった際、私がその時のレポートを担当していて縁を感じたからです。

◆その経緯は恐らく宮川さんご自身もあまりご存知ないかもしれませんが、地平線通信に宮川さん(記事ではM君)のことを書いた坪井さんの記事を読んだことがきっかけでした。どんな青年なんだろう、と気になっていたところ、その後、そのM君がアマゾンから帰国し旅の記事が「宮川竜一」として掲載されていたため、「あっ!きっとあのM君だ。」と思い、私が江本さんに「この子、面白いですね〜」と記事の感想を伝えたことがきっかけだったと思います。それから、しばらくたち宮川さんが報告者になったときに、江本さんから「藤木さんが面白いといっていた子だよ」と半ば強制的に(!?)レポートの担当に任命されたことを記憶しています。

◆その時のレポートは、地平線会議のWEBに掲載されており、今回は、続編ともなるので、ぜひ、そちらもお読みいただければと思います(報告会レポートの「NO.356」です)。そんな縁を感じ、また、今回もユニークな旅や経験をしてきた、そして、大人になった宮川さんに会いに行こうと思った次第です。

◆報告は、冒頭から「あれ?旅の話じゃないの?」と思いましたが、それはそれとして、最終的には、そのこと含めてやはり期待を裏切らずユニークかついろいろな経験をしてきたことや特に報告会当日、本人はつらい情況だったかもしれませんが、聞く側としてはどれも興味深く楽しかったです。そして、再会できたこと、嬉しく思いました。

◆私自身、昨年まで大阪に転勤していたこともあり(と、言い訳はさておき)5年ぶりという久々すぎるくらいの参加でしたが、以前から変わらない雰囲気で、また、二次会にも参加し、北京の餃子も変わらずに美味しく、どちらも変わらぬ安定感があり元気をもらえました。(藤木安子

━━いちばん面白かった

■「モモタロウ・アマゾンを行く」は、今まで聞いた報告会の中でいちばんおもしろかったです。いぬ、オウム、リャマ、ウシなど様々な動物を飼いながらパフォーマンスして、いかだも一から作る。なかなかここまでする人はいないと思います。ぼくはあらためて、自然の中で生活をしたいと思いました。(長岡祥太郎 小学5年)


通信費、カンパをありがとうございました

■先月の通信でお知らせした後、通信費(1年2,000円です)を払ってくださったのは、以下の方々です。数年分まとめて払ってくださった方、カンパを含めてくださった方もいます。地平線会議は会員制ではないので会費は取っていません。皆さんの通信費とカンパが通信制作はじめ活動の原資です。どうかご理解くださるよう。当方のミスで万一漏れがあった場合はご面倒でも必ず江本宛てお知らせください。振り込みの際、通信で印象に残った文章への感想、ご自身の近況をハガキなどで添えてくださるとありがたいです。アドレスは(メール、住所とも)最終ページにあります。

 橋口優(5000円)/兵頭渉/小澤周平(6000円)/馬場健治(10000円)/豊田和司(江本様 8月11日はすばらしい講演をありがとうございました。また、どこかで、お会いできますようにと祈念しております)/吉岡嶺二(2870円 通信費+α(振込料釣り銭)本年は台湾日月潭を計画していたのですが、『中国観光団のモーターボートと水上スキーが暴れ回り自分達が漕ぐのを止めました』と地元カヌー協会から連絡があり、残念ながら断念しました。永久カヌーイスト)/永田真知子


夏の終わりに

プリウスで家畜を追う遊牧民!

■私がこの原稿を書いているまさに今、娘の柚妃は学校で夏休みの自由研究「モンゴル旅 2016」を発表している。初めてモンゴルへ旅した5歳から数えて今年で三回目、二年生になった柚妃と私はこの夏も十日間の遊牧民生活を送ってきた。

◆ウランバートル到着の翌日、草原で過ごすための食料や水を買いに市場に行く道中、街の景色が昨年までとは違っていることに気付いた。交通量の多さは相変わらずだが、走っている車が大きく様変わりしている。昨年ほとんど見なかったトヨタ・プリウスが全体の半数近くを占める勢いで数を伸ばしているのだ。街角に立って見てみると、ほとんどすべてのプリウスが右ハンドル(つまり日本から輸入した中古車)であることが分かった。

◆ハイブリッド車が急速に広まった理由の一つに、排気ガスによる環境への負荷が少ない低公害車の優遇政策が実施されたことが挙げられる。ウランバートルの冬期の大気汚染は深刻な問題なのだ。低公害、厳寒期のエンジンのかかりやすさ、そしてトヨタブランド、これらが合わさってモンゴルでプリウスが一気に普及したのだろう。今年は草原でもプリウスで家畜を追っている人を見かけた。これまでも馬よりバイクで追う人の方が多かったのだが、燃費を考慮してのことなら馬が一番いいのにと違和感のある光景を見て思った。

◆今回も昨年と同じアルハンガイのハイルハン・ソムの草原にある遊牧民家族のゲルに行った。今年の草原は緑が濃く、ふさふさしていていかにもおいしそうな草が見渡す限り生えている。水不足の昨年とは違い色とりどりの小花も一面に咲いている。なだらかな斜面を下ると大小いくつもの湖があり、家畜が水を飲んだり白鳥などの水鳥が羽を休めたりしている。柚妃が青年と二人で馬に乗って湖に出かけた時、馬が首を下げて水を飲んだので前のめりに転げ落ちそうになり、必死で鞍にしがみついて耐えたそうだ。戻ってきてから「大変だったよ!命がけだったよ!」と憤慨する娘が面白かった。

◆話しは今年の1月にさかのぼり、「プージェー」という関野吉晴さんとモンゴルの遊牧民家族の交流を描いたドキュメンタリー映画を観たときのことだ。その中でヤギを屠る場面が生々しく映されていたのだが、あとで娘にあのシーン大丈夫だった?と聞くと、なんで?ヤギはかわいいけど食べるときは屠る、当たり前なのになんで大丈夫って聞くの?と逆に驚かれてしまった。

◆これまで二回のモンゴル旅では、生き物が肉になる過程を見てしまったら一生肉が食べられなくなるかもしれないと心配して娘の目から遠ざけていたのだが、この会話があってから娘は大丈夫と確信した。モンゴルで羊を屠る方法は、みぞおちに小さく切れ目を入れそこから手を差し入れて心臓の大動脈を握って殺すのだ。できるだけ小さい傷で短時間でやれば羊が苦しむ時間が短いことからこういう方法を取るそうだが、そこには羊を大切にする気持ちがあるのだと思う。

◆私が促すまでもなく、柚妃は率先して羊の前脚を引っ張って大の字にするのを手伝い、目前で腹を切り開き内臓を取り出して盥に入れ、柄杓で血をくみ出すのを見ていた。肉も内臓も血も毛皮も、骨以外は余すところなく使う。レバーは生のまま猫のごちそうになり、前脚は子犬に玩具として与えられた。その日の夕飯は当然てんこ盛りの各種ホルモンだ。部位によって全然違う味や歯ごたえを楽しむ娘がとても頼もしく見えた。

◆今回山に行く機会が二度あった。一度目は、子供たちと行った野いちご摘みだ。なだらかな草の丘のような山で、谷間にだけ白樺や松が生えている林がある。とある林で薪にするために木が伐り出されて日差しが届いている下草を分けると、野いちごがたくさん自生しているのを見つけられる。持参した容器にどんどん入れながら、せっせとつまみ食いもする。

◆二度目はそのあたりで一番高い山に馬で登った。日当たりの良い斜面はすべて高山花が咲く草原で、林が谷に沿って広がっている。登りでは馬の息も荒く汗もたくさんかいて大変そうだった。山を二つ越えて1704mの頂から下を見ると、湖とゲルが遠くに小さく見えた。ふと柚妃を見ると、両手を鞍から離して立ったままリズミカルに馬に乗っている。毎日乗るうちに体が覚えたようだ。

◆馬と言えば、昨年柚妃が草原で誕生日を迎えたときにプレゼントされたそらちゃんという仔馬に一年ぶりに会った。連れてきてもらったそらちゃんは、まだ大人とは言えないまでも仔馬の弱々しさが消え、ちゃんと一年分成長していた。抱き上げてもらって背中に乗ると、まだ未調教の馬なのでそらちゃんも柚妃も居心地悪そうにしていた。

◆8月の草原では夜の11時ごろやっと暗くなるのだが、夜のとばりが下りた途端に満天の星空が頭上に広がる。天の川や星座の数々を眺めていると、ときおり人工衛星がぴゅーっと通り過ぎる。娘は手ですくえそうな星空を見て「星がピシカ、ピシカ光ってるね」と宮沢賢治の世界みたいなことを言っていた。

◆乳搾りや牛追いの仕事が終わると娘は4歳のオザという女の子とずっと遊んでいた。どこからか壊れた木戸を探してきてシーソーにしたり、ウルガという、先にひもがついた、放れ馬を捕えるための長い棒を馬と鞭に見立てて「チュ!チュ!」と掛け声をかけながら走らせたり、楽しそうに遊ぶ声が四六時中きゃっきゃと響いていた。それを横目に私は草の上に座り、多胡光純さんの「空と大地」を読んでいた。草原の風に吹かれながら読むのにこれ以上ふさわしい本は無いと思うぐらい、人生で一番気持ちの良い読書だった。

◆柚妃が帰宅した。来年はどんな旅にしようか、3年生のクラスでもやるであろう自由研究の発表を早くも思い描いているようだ。(瀧本千穂子

この夏も野宿と盆踊りに明け暮れて

■ねぶた祭や盆おどり三昧。踊り終わった夜や明け方に野宿をする「野宿がおまけ」の数カ月を過ごしておりました。とはいえ「野宿が目的の野宿」も。7月にスウェーデン出身の漫画家・オーサさんとした野宿は楽しかったです。朝日新聞「be」の「オーサの日本探検」という連載(日本文化を体験したオーサさんの漫画と、記者さんの記事で構成)の取材でした。スウェーデンでの野宿事情(キャンプ場が整備されていてそこ以外ではあまりしない感じ、とか)を聞いたり、雨が降ったので記者さんのお家に避難してしばらく呑んだり、私のほうがよい体験をいろいろさせてもらったような。

◆そのときは、何度も野宿したことのある隅田川の川沿い(勝鬨橋のそば)で寝たのですが、早朝、見回りに来た警備員さんに「野宿するな」と怒鳴られました。こんなこと初めて。職務への熱心さなのか正義感なのかわからないけど、それはその場所で困っていたり弱っていたりする人を助けるために発揮して、のびのびと楽しく過ごしているやつらはほっとけばいいのに。いまいちな警備員さんであります。

◆これで記事はボツになるかと思いきや、記者さんが確認して「夜間寝るの自由」との回答を管轄の場所からもらい、その顛末入りで記事になったので、警備員さん、叱られたんじゃないかなあ。ほっとくの、だいじ。そして「寝るの自由」の回答はうれしいけど、確認してダメってなると(だからってやめないけど)困るから、なるべくなあなあにしてゆきたいものだ、とも思いました。

◆ほかには8月、誰に頼まれたわけでもなく「24時間テレビ」の放映に合わせて「24時間野宿」を新橋の駅前にある「SL広場」でしたのですが、そばに派出所があったけど、24時間ひたすらごろごろ寝たり呑んだりし続けられて、来てくれた人や偶然通りかかった人らと話せて楽しかったので、新橋も捨てたもんじゃない。のびのびできる場所を開拓したり、なあなあにそういう空間をつくってゆきたいものだなあ、と強く思った次第です。

◆ところで、先月の地平線通信に唐突に同封されていた「ヤマカケ号」ですが、そんななあなあでてきとうな人間が「制作室」にいるからであります。熊沢正子さんの「『山の日』というから『山の表現』を考えてみたが……」の中で出てきた季語、「山を笑う」「山を粧う」は「山笑う」「山粧う」の間違いです! 気づかれた方はとうぜん制作室側のミスだと思われたはずですが、その通りで、熊沢さんが送ってくださった手書きの原稿を、私がタイプミスしちゃったのであります。ほかにもいろいろミスしてそうだけど、もうしようがない。どうかあとはだれも気づいてませんように。今後このようなことがないよう心掛けつつ、なるべくなあなあに、また唐突に、なんか同封したいです。ごめんなさい。(加藤千晶 野宿野郎))

死んだふりして神様をだます「ミーグヮーヨー」をうちの爺が……

■江本さんこんにちは。ご無沙汰しています。さておととい島でおもしろい行事がありましたのでレポートします。旧暦8月8日はトーカチを祝う日。トーカチとは88歳の米寿祝いです。昇のお父さんが今年トーカチを迎え、実家でお祝いがありました。

◆ここ浜比嘉島の比嘉では特に、変わったトーカチの風習があります。「ミーグヮーヨー」というもので、ミーは新、ヨーは世でしょうか、なんでも人は88歳まででこの世で食べる分が尽きるそうで、一度葬式をしたふりをして神様を騙して、新たに生まれ変わるんだそうです。私は朝から30人前の中身汁を作ったり実家を掃除したり飾りつけをしたりその合間に牧場のお客さんの送迎、やぎ小屋の掃除など大忙し。夕方から家族親戚が実家にわいわいと集まりました。

◆さて夜8時を回った頃、親戚や区長や島の三線弾きなどうちに入りきれないくらい人が集まり出すと、やおら仏壇の前に布団が敷かれ88歳の昇進おじいが横になり白い布を顔にかけられ、枕元には線香、周りで家族が「おじい〜」とか「お父さ〜ん」とか言っておいおいと(くすくす笑いと共に)泣き始めました。泣く人が多いほどいいそうです。

◆しばらくすると、突然「ミーグヮー、ミーグヮーヨー」との掛け声を合図におじいは起こされ、指笛と三線に合わせてカチャーシーを踊り周りのみんなもカチャーシー。その後三線の地方に私と昇も混じりかぎやで風節などのおめでたい曲3曲の演奏が終わると、大きな大きなバースデーケーキがどーんと出てきて「トーカチおめでとうー!」となりました。

◆今年のトーカチは比嘉で4人いますがミーグヮーヨーができたのはうちのお父さんだけでした。お父さんは3年前軽い脳梗塞を起こしたあと胆石の手術などで一時歩くのが大変になりかけましたが週5回のデイサービスで元気になり、無事にミーグヮーヨーを迎えることができました。来月10月には式場で約200人を呼んでの盛大なトーカチパーティーが予定されています。親戚や島の人達による舞踊などの余興も盛りだくさんの予定です。さて、生まれ変わった昇進おじいは嬉しそうに刺身やケーキやチキンなど沢山のご馳走をほおばってニコニコでしたとさ。(9月10日 外間晴美 浜比嘉島発)

最新報告! 東北ツーリング旅で見た台風10号の爪痕

■8月29日から夏休みを取り、1人で山登りも交えた東北ツーリングに出かけ、今日9月9日に帰宅しました。正確には、台風10号が来ていて、そんな中出かけるのは命に関わるので出発を遅らせ、8月31日から出かけました。

◆連日30度越えの猛暑の中、目的の岩手山と岩木山に登ったり、観光もし、それで夏休みを楽しく終えるはずでした。でも、やっぱり大好きな東北が台風10号で被害を受けたのが気になって気になって、自分の目で見て来ようと現地へ行くことにしました。被害は主に沿岸部。内陸から被災地へ向かう国道や県道はほぼ全滅に近いほど通行止めです。

◆9月5日、行ける所までと思い、まずは盛岡から国道455で、死者も多数出てしまった岩泉へ向かいました。山間部に入っても、折れた大木1本を片付けている場面しか見ませんでしたが、早坂トンネル(標高約900mの峠)を抜けた先から、様子が一変。道路には土砂が流れた跡がはっきりわかり、道の脇にはどけられた土砂の山や折れた大木、根っこから抜けた大木などがあり、断続的にそんな光景が続きます。国道に平行する小本川が氾濫、また、山からの土砂が流れ込んだりして被害に遭った家もあり、道路も片側が陥没していたり……。台風から5日たっても川は濁流でした。

◆岩泉の町なかから手前10kmほどの国道340との分岐点で通行止め。そこから国道340を南下し、でも、その先の押角峠も通行止めなので、峠より手前の県道171へ入り、丁度大きくUターンするような形で内陸方面に戻ります。その県道も、土砂や木々で道が埋まったのを脇に片付けた、という光景が続き、災害当時は通行止めだったはず。それらを片付け、通行できるようにした人達の努力は並々ならぬものだったに違いないと想像できます。杉の大木数本が頭上に平行に 倒れかかっているままなのは、そこまで手が回っていないのでしょう。倒れてこないと信じつつ、その下を通り抜けました。

◆その後、県道171から別の道を経由し、もう少し南部に位置する早池峰山のすぐ南側を通る県道25を使って内陸部に戻りました。被災地からほど近いのに、県道25は無傷。ライダーには走って楽しめる林間のワインディングロードです。早池峰山登山口には、登山客や車もちらほら見受けられ、台風とは無縁の日常風景でした。

◆9月6日は内陸の奥州市から国道343でまずは沿岸の陸前高田に出て、そこから国道45で北上しました。大船渡、釜石など東日本大震災の被災地を、今回はただただ通り抜け、宮古にやってきました。海から目と鼻の先にある市役所の周辺の空き地や歩道橋の下には泥 (足首くらいの深さと見受けられました)がたまったままで、道路はきれいになっているものの、道端には片付けた泥を入れたと思われる土嚢がずらりと並んでいました。

◆宮古駅そばのガソリンスタンドの人に、「この通りは大丈夫だったけど、1本隣の商店街は増水で被害を受けたよ。小さな川なんだけどね。それが溢れて。市役所の辺りはその川からの水と、海からの水と両方がやってきた」と聞きました。商店街脇の川を見ましたが、用水路のような本当に小さな川で、これが溢れて被害をもたらすとは、考えられないようなものでした。

◆さらに国道45を北上して、小本から内陸へ向かう国道455で岩泉を目指しました。国道脇の小本川が氾濫したので、道すがらの光景はひどいものでした。道の駅いわいずみの先 が通行止めでしたが、その周辺には、大量の大木や土砂、泥や木々に埋まった車や被災した家、完全にひっくり返った消防車もありました。小本に戻り、さらに国道45を北上し、久慈へ。ここも被災した事は知っていますが、町なかはパスして、海がすぐ近くという立地の「地下水族館もぐらんぴあ」へ。ここは東日本大震災で被災し長らく閉鎖されていましたが、今年の春にやっと再開したという施設です。

◆台風10号の被害を心配し、ドキドキしながら到着しましたが、無事に営業していて、ほっとしました。せっかくなので、じっくりと見学してきました。久慈から西へ向かう国道281はやっぱり通行止めなので、北西へ向かう国道395を使って内陸へ戻りました。9月9日、帰宅途中で立ち寄った那須塩原市のガソリンスタンドに置いてあった「下野(しもつけ)新聞」。そこには、“明日9月10日は関東、東北豪雨より1年。河川、橋、道路など公共土木施設の復旧5割”と書かれていました。

◆去年の鬼怒川決壊がとてもショッキングだったあの豪雨から、1年……。その普及も終わっていないのに、北東北沿岸部が、また復旧困難な豪雨に見舞われている……。でも、この先、どこがこのような被害に遭うかはわかりません。今度は私の住む地域かもしれません。ゲリラ豪雨や竜巻は予測できないかもしれませんが、台風のようにあらかじめ予測でき、対策が取れるものもあります。

◆避難指示などに従うのも大事かもしれませんが、自分の命は自分で守らないと、と、今回の台風10号の被害の様子をこの目で見て、改めて強く思 いました。みなさんにもそうあって欲しいです。“氾濫するとは思えない小さな川”、“崩れるとは思わない裏山や斜面”などなど、大雨の時には危険箇所と見なしてください。改めて、自分の地域を見直してみてください、ぜひ!(旅する主婦ライダー もんがぁ〜さとみ

ホテルもレストランもほとんど英語が通じないポルトガルの街でITのお仕事

■いま、仕事でポルトガルのCampo Maiorという町に来ています。Campo Maiorはリスボンから西に約200キロ、スペイン国境に近い人口7500人ほどの小さな町です。私の本業はおもに企業のITシステムの開発を担当するプログラマで、ポルトガルにもその関連の仕事で来ており、今回は1ヶ月ほど滞在します。

◆ おそらく、わざわざポルトガルまで来てITシステム開発の仕事をしている日本人はほとんどいないのではないかと思います。IT業界ではそれくらい日本とポルトガルは結び付きがありません。今回のプロジェクトの目的は、そんなポルトガルに日本で生み出されたとある開発手法を輸出することです。そのために、まずはとにかくポルトガルに行って実際にシステムを作り、「凄い」と言わせて来いというのが私に与えられたミッションというわけです。

◆実際にこのプロジェクトに参加して実感したのは、ポルトガルの会社は目先の利益よりも普段からの付き合いを非常に大切にしているということです。仕事抜きの付き合いを続けていく中で信頼を深め、この人になら任せられそうだとなった段階で一気に話が前に進みます。今回の我々のチャレンジも、ポルトガル人スタッフが長い時間をかけてパートナーやクライアントとの関係を築いてきたことではじめて形になったものです。

◆もちろん、日本からも何度か現地に足を運び、直接顔を合わせて実際の技術を見せる努力をしてきました。このあたりは日本の商習慣ともよく似ており、案外両国には通じ合うものがあるのではないかと感じました。そんなこんなで、英語の実力は中学生レベルという私が、英語が喋れるポルトガル人と、英語が喋れる日本人と、英語が喋れないポルトガル人に混ざって仕事をしています。このうち、英語が喋れるポルトガル人はリスボン在住でときどきしか顔を出さないため、満足に言葉が通じない者同士で頑張ってコミュニケーションを図るという素敵な状況です。それでも、みんな気さくで親切なのでそれなりに楽しんでいます。

◆言葉の問題といえば、そもそもCampo Maiorではホテルでもレストランでもほとんど英語が通じません。メニューも当たり前にポルトガル語しか書かれていないので、自分が何を頼んだのかもよく分からないのですが、基本的に何を食べてもハズレがないのであまり困っていません。特にポルトガルはワインが美味しい上に激安なので、ワイン好きの人にはオススメですよ。では、これから町をあげての「Bye Bye Summer Party」に招待されているので、ちょっと出かけてきます。(9月10日 杉山貴章 ポルトガル・カンポマイオ発)

74才のストック・カンリ峰登山で思うこと

■この夏、インドヒマラヤの6153m峰に登ったことをメールで横断山脈研究会に報告したら、江本さんの目にとまり、通信に原稿を書きなさいとの電話をいただいた。“なるべく自慢たらたら書きなさい”との注文。え〜?と思う。

◆登ったのは中国との国境に近いラダック地方のストック・カンリ。州都レーから見るピラミダルな姿は名峰と呼ぶにふさわしいが、白馬岳みたいに裏側から簡単に登れる。IMF(インド登山財団)が地元に登山許可権を与えており今シ

−ズンも外国人500人、インド人700人が押し寄せ、ベースキャンプ(BC)までの道筋は登山客、ガイド、荷馬がひっきりなしに行き交っていた。BCから山頂までもしっかりした踏み跡が付き、わたしの登った8月21日は雪も融けアイゼンもピッケルもいらなかった。高さを除けば日本の夏山みたいなもの、誰でも登れる山だ。

◆このガイド付き高所ハイクを自慢たらたら書けば“西嶋の嬉しいが”(金沢弁:さほどでないことに独りはしゃぎしている奴)だと地平線会議の錚々たるメンバーから笑いものになるだけ。江本さんはストック・カンリがどんな山か知らないはずがない。はて、それでは何をどんな風に自慢して書けというのだろうか、少し考えてみた。

◆キーワードがわたしの歳にあることは分かる。ただ、三浦雄一郎を筆頭にいまどき高齢者の高峰登山は珍しくない。登頂したとき隣に登ってきた欧米人が“70歳だぞ”とこぶしを突き上げたので、わたしも自分を指さし“74歳だ”と言ったらこぶしが下ってしまった。六千米の山頂、どんな歳や立場の人であれ、そこに登ってきたというだけですごいし尊いのに、“おれの方が歳だぞ、どうだ” なんて、登らせてくれたお山に対して恥ずかしい。その方のしおしお下げたこぶしを見ながらそんな物言いをした自分をダラ(金沢弁:バカ)だったと思う。

◆書き悩んでいるとき電話があった。「西嶋さん、Nさん死んだよ。知らせようと電話したけど通じなかった。また、外国でも行っとったんか?」。Tさんだ、わたしがチョモランマ登山参加のため辞表を出したとき、なぜか休暇を認め行かせてくれた上司、定年退職後もお付き合いさせてもらっている方だ。ハッとひらめいた。“ああ、そういうことなんか”と。

◆最後の加賀藩主前田慶寧(よしやす)を研究し「前田慶寧と幕末維新」という本を書いているTさん。あるときわたしに向かい「あんたは前田慶寧とよう似ている」「ええッ、どこが?」「 慶寧はひ弱で武芸は藩祖利家に遠く及ばず上達しない、欲求不満でアウトドア派になった。どれも満たされず、武芸もアウトドアもいつまでもやっとるところが似とる」

◆ひ弱でスポーツダメ、いつもボールの来ないところに引っ込んでいる劣等感の塊だった自分。人と競わずただゆっくりマイペースで登り続けていればいつか頂に着き、速い人遅い人わけ隔てなく感動をくれる山。汗をかいたことが嬉しかった。さすがTさん、登山にのめり込みいつまでも続けているわたしの本当を見切っていた。

◆中学生で金沢郊外の医王山に登り、以来60年。地平線会議の発足が1979年8月、その前の年78年に最初のヒマラヤで7403m峰に登り、登山後西の地平線に向けギリシャまで一人放浪の旅。以後、世界各地の山と地平線を目指してきた。昨年は、連れ合いと二人でスターアライアンス世界一周航空券を使い、降機地空港周辺の山に登りながら、81日間ならぬ「91日間世界一周の旅」もした。今夏はたのまれて4人の隊を組織し、ストック・カンリに登り、下山後、南の地平を求めて車でインドヒマラヤ四大山脈縦断の緊迫感ある旅をして無事戻ってきた。

◆わたしに経験とある程度の体力や自信を与えてくれたのがふるさとの医王山と白山、とりわけ霊峰白山の力が大きい。感謝して白山連峰を南北に歩き通す「白山神駈道登山文化運動」を提唱、昨年まで10年間継続してきた。若いころわたしが劣等感を抱いて見ていた運動能力抜群の同級生たち、今も身体を動かしているものは多くない。好きなことを長〜く長〜く真面目にやってきたからこそ、江本さんからも声をかけていただき、錚々たるメンバーの通信に投稿できるまでになったんだ。

◆「継続は力」、続けておればひ弱でもいつかは、そしてジイジになってもストック・カンリくらいは登れるということ、きっと江本さんはそれを書けと言ったに違いない。Tの電話で気づき、書きました。詳しくは「白山神駈道」ブログをご覧下さい。(金沢住人 西嶋錬太郎)

この本に旅をさせたいのです
写真集『ひとりひとりが宝もの』
寄贈協力を!

■島に通って43年になります。「天国みたいな島なんだ」と聞かされて初めて訪れた鹿児島県・沖永良部島(おきのえらぶじま)の写真集を作りました。B5判80ページオールカラーの本の中に約100人の人が、それぞれの仕事をする場所で正面を向いて、ニコニコしている写真群です。

◆写真集を作るキッカケは、沖永良部高校での出前授業です。私の娘・夏帆(なつほ)が重い障害を持って生まれました。言葉を持たない娘がどんなことを考え思っているのか知りたくて、娘が高校生の時、島の高校へ出前授業に行きました。島に住む子どもたちは高校を卒業すると、あるいは高校のない島では中学を卒業するとひとたび親元を離れ、島を出ます。島を出る前にふるさとを記憶してほしいと思いました。出前授業で無記名アンケートを配布「島に住む幸せは何?」と聞いてみました。その中に「幸せなんかじゃ、ない」という書き込みがありました。空欄ではなく心の内を書いてくれたのが嬉しく、島を旅立つ人たちへ伝えるものを作りたいと思いました。

◆重い障害を持つ娘に「生まれてきて、幸せ?」と聞いて、彼女が「幸せじゃない」とこたえたら、親である私はうろたえてしまいます。何ができるだろう……43年前19歳の私が沖永良部島の港で見送ってもらった時にお世話になった人に言われました。「人の一生には自分でもどうしようもできないくらい辛い時があるものだ。そんな時にはあなたもこの島に帰ってきなさい。ふるさとがあるということはありがたいことだ」と。この言葉を次の世代に継承していきたいと思いました。

◆ふるさとのお父さんお母さんが働いている写真を撮ってほしいと思います。その写真は島を出て暮らす日々の中で何か辛いことがあった時に、きっと支えになってくれると思います。私の写真集の写真がそのサンプルになったらいいなと思いました。

◆河田真智子写真集『ひとりひとりが宝もの』(1500円+送料160円)は自費出版で2400部作り、そのうちの400部を寄贈用として用意しました。地平線の旅人たちにこの本に旅をさせ、島の学校ばかりではなく、山の学校や、都会の図書館、読み聞かせの会や人の集まるところに運んでいただきたく、お願いいたします。サポートの方法としては、本を買ってくださり寄贈していただく、寄贈先を紹介してくださり河田が郵送する、ご自分の民宿などに置いてくださる、送料切手のカンパを下さる、そのほかのアイディアも大歓迎です。

へのご連絡をお待ちしています。(島旅写真家 河田真智子

耳を傾ける人。そして「しっぽまで、あんこの詰まった鯛焼きのような」地平線通信

■意表を突かれた。「山の日」が国民の祝日となって初めての8月11日、広島で開かれた記念講演会で、江本氏が「山を想う、山を語る〜祝日としての山の日は何を意味するのか」をテーマに話をされた。しかし、映し出された映像は東日本大震災がらみのものばかり。私は、津波が平穏な街を襲うその映像を初めて見て、泣いた。その現場に居合わせても、何もできないと思った。せめて、祈ることくらいしかできない、と痛切に思った。しかし、江本氏の講演を聞いていて、「祈ることしかできない」、のではなく、「祈ることができる」という強い思いに変わっていったのは、なぜだろうか?

◆講演が終わり懇親会の会場まで一緒に歩きながら、江本氏に熱心に語っていたのはしかし、講演会の感想ではなく、最近読んだ立花隆『武満徹』の感想だった。「この本は膨大なインタビューを元に、徹底的に武満徹について書かれているのですが、途中から特定の人物ではなく、すべての青春群像へのオマージュという気がしてくるんですね」「はあ」「立花隆には、青春讃歌とも呼ぶべき一連の水脈がありまして、この本はその最終形で、『二十歳のころ』、最も初期には『青春漂流』があります」「タカジョーが載ってた本だね」「タカショー? 誰ですか、それ?」「鷹匠! 松原英俊さん」「ああ、鷹匠ですか」いきなり、突拍子もないことを喋くり始めた原住民(私のこと)の話に、熱心に耳を傾け、適切なコメントを繰り出すこの方の姿勢には、いつも打たれる。

◆私と江本氏との出会いは、14年前に遡る。国際山岳年(2002年)に、「日本に山の日をつくろう」と提唱された江本氏を講師にお招きして、第1回広島「山の日」県民の集いのイベントが行われた。国民の祝日になる14年も前から、広島では独自の活動が始まっていたのだ。江本氏は前日、本土四国の100キロマラソンに参加され、私は山陽道のサービスエリアまで講師様をお迎えに上がる運転手に任命されていたのだが、前夜したたか呑んでしまい、急遽運転手を交代して、助手席で役に立たないナビゲーターとしてお迎えに上がった。

◆江本氏と初めてお会いして、何をトチ狂ったのか、「足をおもみましましょうか」と申し出た。江本氏、快諾。後部座席でスポーツマッサージをさせていただいた。その功績が認められて、今では江本氏専属トレーナー(広島地区限定)の地位にまで上り詰めた私だが、なぜ、そうなったのか? 私が大胆な申し出をしたのは、明らかに酒のせいだが、江本氏が、初見で、私のような風采の上がらない原住民に、疲れた足のケアを任せてくださったのは、なぜなのか? 優れた文化人類学者のように、フィールド・ワークにおいて、「原住民の好意を無下に断ってはいけない」を金科玉条とされていたのだろうか?

◆「できたてです」と江本さんから、『地平線通信448号』をいただいた。一読、驚愕。しっぽまで、あんこの詰まった鯛焼きのように、読み飛ばせる記事がひとつもない。どの記事にも、若い筆者たちの躍動する息遣いがあり、背後に、編集者の周到な心配りが感じられる。毎月報告者を決め、その予告を出し、報告をまとめて印刷配布することは、大変なことだ。立花隆が、『二十歳のころ』で、一時的に東大でやったことを、江本氏はこれまで448か月も1回も休むことなく、やっておられたのだ。

◆それを支えたのは、原住民の立場から言わせてもらえば、江本氏の「耳を傾ける姿勢」だと思う。この「事業」は、江本氏の、未知の世界にあこがれるだけではなく、実際に行動する青春群像に捧げられた一大絵巻という気がする。それはもちろん、未だに若さを失なっておられない江本氏自身に捧げられたものでもあるだろう。(豊田和司 広島県山岳連盟事務局長)

斉藤実さんの家族から

■残暑お見舞い申し上げます。いつも通信から超人的な、そして暖かな“走り”を拝読しています。実さん(注)と入れ替わりの住人、大犬のベアも17才となりました。、2人で毎日1時間ほどとぼとぼ散歩しています。ベアはもう走ることはありませんが、私が可愛がっている猫のノラ君には若い時と変わらず一瞬猪突猛進して、あとでハアハア、寝ています。

◆お知らせです。竹橋にある国立近代美術館のフィルム部門に実さんの作品が保存されることとなり、この夏礼状が届きました。「路上の沈黙 高校生バイク事故の悲劇」など121本です。当時はすべてフィルム撮影でしたから保存が大変で由緒ある国の美術館に受け入れて頂き、ほっ、としています(斉藤さんが本領を発揮した「海の記録」は、テレビ局がからんでいたせいか、残っていないそうだ)。リオオリンピック楽しかったです。私も時々、上智大学に通っています。ロシア語ではなく、「文章講座」に。(所沢市 斉藤宏子 とれたてのぶどうを添えて)

注:斉藤実さんは、1981年11月の第25回地平線報告会「へのかっぱ号の漂流実験」の報告者。おだやかな人柄とは裏腹にやったことはとんでもない、しかし価値ある冒険だった。なお、彼の代表作『太平洋漂流実験50日』(新書版)が増刷された際、一部が地平線会議にカンパとして寄贈された。まだ残部が少しあるので希望の方は送料含めて700円切手を江本宛に。

先月号の発送請負人

■地平線通信448号(2016年8月号)は、8月10日印刷、封入作業を終え、(「山の日」の講演で11日は江本が早朝から広島行ったため。発送受付は必ず14時以降と決まっている)12日に新宿郵便局から発送しました。8月号は、ちあきんぐ(加藤千晶)、かなこんだ(大西夏奈子)両名のアイデアに長野亮之介画伯がユーモア乗りして「なにがなんだか ヤマカケ号」という4ページの特別付録がついている。編集長がまったく知らない、という独創的な内容。「山の日」特集っぽい本体16ページとあわせて20ページの大部となりました。 ★印刷、封入作業に来てくれたのは、以下の皆さんです。ページ数が多いのと、今月は少し部数を増やしたため、ほんとうに助かりました。
車谷建太 森井祐介 加藤千晶 伊藤里香 新垣亜美 前田庄司 福田晴子 落合大祐 武田力 杉山貴章 江本嘉伸
 新垣亜美さんは、屋久島から学校の夏休みで里帰り中に駆けつけてくれました。
◆作業を終えてもちろん、いつもの餃子の「北京」へ。そして、お店のママにできたてほやほやの地平線通信を差し上げました。ママは一目見て大喜びしてくれた。特別付録「なにがなんだか ヤマカケ号」のフロントページは、なんとママのインタビュー特集なんです。気をよくしたママは「15年花彫酒」という今まで飲んだことのない中国酒を私たちに振舞ってくださり、大いに盛り上がりました。お手元の「山かけGO」をぜひ確認ください。


地平線の森

思いあふれるラブレター

『ひとりひとりが宝物』

  河田真智子著 1,500円

■島で暮らすうえで重要なのは、「共生」だと思う。先日も沖縄本島の西に浮かぶ伊江島で、島の人たちとそんな話をした。共生とは、弱さやダメな部分も含め、一人ひとりの個性や行動を受け入れて生きることだと私は理解している。そのために必要なのは、人を追いつめないやさしさ、思いやり。島ではときに正義よりも共生が優先されることに、島へ通い始めた頃はよく驚いたものだ。

◆河田真智子さんの『ひとりひとりが宝物』には、サトウキビ畑や港、飲食店やホテルなど、それぞれの仕事や生活の場で撮影された沖永良部の人たちの写真が並んでいる。一人ひとりの暮らしの物語が浮かび上がってくるような写真を見ながら、「島の人の顔だなあ」とうれしくなった。たくましくて、やさしい。なんでも受け入れてくれそうなおおらかさが表情に表れているのだ。

◆写真集では、河田さんと沖永良部のかかわりも紹介されていた。印象的だったのは、初めて沖永良部島を訪ねたときの帰り際に島の人からかけられたという言葉。「人の一生に、自分ではどうしようもできないくらい辛い時があるものだ。そんな時には、あなたもこの島に帰ってきたらいい。帰るふるさとがあるということは、ありがたいことだ」との言葉を添えて見送ってくれたという。

◆また、生まれてきた娘の夏帆ちゃんに重いハンディキャップがあるとわかり、島の人から届いた手紙には、「真智子さん、これだけは忘れないで欲しい。なっちゃんは、でっかい太陽のような子です。みんなに愛されるために生まれてきた子です。エラブに来てくれるのを待っています」と書かれていたという。これらの言葉が、どれほど河田さんを力づけ、支え続けただろうか。このような言葉をさりげなくかけられる人に憧れる。

◆その後、河田さんは夏帆ちゃんを連れての訪島を実現し、夏帆ちゃんは島の人たちに抱っこされたという。自分の子どもも他人の子どもも、自分の子のように育てる沖永良部島の人たちを見て、そのように自分も子育てをしたいと思ったと河田さんは綴っている。

◆以前、地平線報告会の帰りに一緒に食事をしたとき、「母としての榊原真知子(本名)は、悩みを抱えるお母さんたちの話をひたすら聞く、おとなしい聞き役で、島を旅するパワフルな河田真智子とは、まったく別人なの」と話していた河田さん。その両者によってバランスが保たれ、よりたくましく、やさしい女性になられているように思う。目が大きく彫りが深い顔立ちで、人懐っこく、まるで島人のような河田さんが、惚れて通い続けた沖永良部島。その島の人たちの魅力を閉じ込めた写真集『ひとりひとりが宝物』は、河田さんの思いあふれるラブレターであるとともに、沖永良部島の暮らしを伝える貴重な記録でもあると思う。(日野和子


論考・2016秋

 「老いるにつれて若さが際立つという逆説」

■優れたサッカーチームは めまぐるしいパスサッカーを展開する。パスの網目が複雑なほど、美しく強靭な星座が織り成される。しかし、試合の勝敗を左右するのはキック力だけではない。先日のアジア最終予選、日本vsUAE戦に見るように、「審判の笛」という不条理も勝敗の鍵を握っている。それもサッカーだと割り切らねばならない。

◆ヒトの生命も、多様な相互作用の中で、全体としてバランスを保とうとしている。連綿たる情報のパスと、物質の合成と分解をくりかえしながら、平衡のとれたバランス=恒常性を維持しようと連動している。生命は時間の関数であるが、そこには「神の笛」という変数も介入し、数奇な運命を演出している。

◆全て秩序があるものは壊れてゆくのは自然の摂理である。たとえ百年の恋でもやがては萎びるもの。秩序は無秩序へ、熱あるものは冷める方向へと一方的に推移する。エントロピー増大の法則は宇宙の大原則。生命はそれに抗い、変性、酸化、炎症といったエントロピーの流れを排除しようとするが、やがて力尽きるとき、個体は死を迎えることになる。

◆ヒトの年のとり方は均一でない。それは生存を決定する環境因子や遺伝因子が、多岐にわたって複雑に組み合わされているから。平均的なヒトが平均的な遺伝子多型をもって生まれたとすると、その余命の違いをもたらすものは、習慣と環境の違いである。健康を最優先に考えた行動をとると、平均余命は10年延び(セブンス・デイ・アドバンティストの研究)、平均寿命に関係する遺伝率は30%(スカンジナビアの双子研究)であるという。

◆シュメールの粘土板に楔状文字で描かれた「ギルガメッシュ叙事詩」には、エイジングコントロールの萌芽が見られる。主人公ギルガメシュは、幾多の困難を乗り越えて、永遠の生命を保証する薬草を手に入れるが、その努力は徒労に終わる。眠っている間に蛇に薬草を食べられてしまうのである。こうして蛇は不死となり、ヒトには死が運命づけられたそうな。この叙事詩は、不老不死を求める旅の物語の原型といえそうだ。

◆現代の生命科学が注目する老化遅延のための戦略は、大きく分けて4つある。遺伝子操作、酸化損傷の防止、老人病の治療、カロリー制限である。とりわけゲノム編集技術の進歩はめざましくノーベル賞は確実だ。はたして元気で高齢を迎えるための処方箋は見つかるのだろうか? ギルガメッシュの冒険は不老不死を求める旅の原型であったが、「賢者の石」を求める知の冒険は今も続いている。

◆平穏無事か波乱万丈か、どのようなライフスタイルが自分にとって相応しいものか。イソップ寓話の「田舎のねずみと都会のねずみ」が暗喩するように、何れのライフスタイルを選択するかは、各人の心に委ねられている。老化の到来を少しでも遅らせるための努力を実践するにせよ、あるがままに無駄な抵抗をせずに淡々と過ごすにせよ、生命の地平から眺めると、砂時計の砂礫の一粒は一瞬一瞬、終末に向かって落下している。時間の矢はエントロピー増大の方向にしか進むことはないのだから。

◆その中で、ヒトは一時の記憶を風紋に留めながら、やがて消えて行く。山の坂道で巨石を運び、転がり落ちては登り返す果てしない徒労を続けるシーシュポスの背理。情け容赦なく降りそそぐ時間の矢。それにもかかわらず、はかない風紋を描く旅を続けることのほかに、私たちの持つ術はないのかも知れない。

◆今は亡き三浦敬三さんが、百寿を迎えたときに、テイネでスキーをご一緒したことがある。スキーというアイデンティティー追求のために、敬三さんのライフスタイルは見事に確立されていた。「頑固であれ、柔軟であれ」。自分流を貫く百寿者は、次の目標を常に見すえていた。そのライフスタイルに肖ることなど到底叶わぬが、あの眼差しは忘れることができない。敬三さんの胸に聴診器を当てると、「100歳の少年」のわくわくとする心音が聞こえてきたことを思い出す。

◆たとえ平均寿命が100歳を越えても、そのほとんどが認知症と寝たきりとあっては、社会は機能不全に陥ることになる。やがて迎える超高齢社会において、健康を保持し生産的な老後(successful aging)を各人が送ることができれば、日本の未来の光明にも繋がろう。老いるにつれて若さが際立つという「逆説」を演じている山の仲間や医学界の先輩は少なくない。健康づくりと生きがい作りを一体的に捉えること、見果てぬ夢を抱き続けること。それが逆説を生む一翼を担うのに違いない。

◆寿(いのち長き)と夭(いのち短き)の分水嶺。養生訓は「心楽しむべし、身は労すべし」と喝破する。いつも楽しい気持ちで身体をよく使うことが枢要であると説いている。旅とは想像すること。想像力を掻き立てる旅は心を愉しくする。そんな時、身を労することに厭いは生じない。

◆健康は山の天候と同じで、万華鏡のように変化する。いつ病気や障害を患い、不本意で孤独な老後を送ることになるやも知れない。自分の心に忠実な生き方を選択できればいいのだが、それは至難のこと。どんな不条理が待っているかは神のみぞ知るところだ。しかし「神の笛」がどう吹こうとも、ヒトは必ず死ぬという当たり前のことに思いを馳せれば、大抵のことは凌げるに違いない。

◆哀歓の山河を越えて、歳を重ねるにつれて佳境に入るような旅ができないものか。迎える最終章は完璧ではなくとも、「まあまあ」であればよし。そう考えると余計な力みは抜けて、キックもスムーズに蹴れそうな気がしてくる。“Never too late”さあ、靴紐を結びなおして旅へと出立しませんか。 (医師・神尾重則

今月の窓

「シンギュラリティーの冒険」

■今年8月、会社から20年勤続のお祝いをもらった。15万円の旅行券。大学山岳部の先輩から、私のような社員を雇う会社こそ表彰されるべきだと物言いがついた。もっともである。

◆長期休暇をとりはじめた入社3年目の夏。有給をつなげ3週間を休み、中国の7000m峰に登った。友達とふたりだけの登山はのびのびとして、窮屈に感じていた山登りの呪縛から解放される気がした。悪天のため他の隊があきらめて下山するなか登頂し、翌日に見た光景は忘れられない。不思議なことだが石が振動し、登頂を祝福してくれたように感じた。荷下げも大変で、とても疲れて脳内麻薬が放出されたのだろう。このとき味わった幸福感が原体験となり、あれから17年も海外登山を続けてしまった。

◆直感に従って物事を選択してきた。山岳部で山をはじめたころは何事も精一杯だったが、むしろそのお陰で与えられた命の有り難さを理解した。ヒマラヤで感じた至福感も、同じだ。ベースキャンプで不思議な石の祝福を感じながら、同時に会社のとなりに座る先輩の日々細やかな仕事がどれほど尊い誠実さで成り立っているか、このとき理解したのだ。

◆ある若き登山家は山登りを「苦しみの芸術」と表現した。苦しみや大変さを内包するがゆえの豊かな行為であることを表していると思う。山に向かうことはそういう意味で自分の喜びであり、だからこそまわりにも感謝する。だとすれば、それは自分のためだけの行為ではないのではないか。論理的飛躍があるにせよ、それを言い訳にしてきた。

◆現実的に3週間の休みも、調整できることに思えた。本社のあるスイスでは3週間から6週間の夏休みを取っているのだ。翌年、ふたたび長期の夏休みを申請すると、厳しかった総務部長は「社会貢献のような位置付けだから」と受理してくれた。それ以来、まわりが長期で休み山へ行く人だと考えてくれるようになった。

◆良い出会いに恵まれてきたと思う。職場もそうだが、山登りでも多くの出会いがあった。余暇の範疇とはいえ長く山を登っていると、マンネリや停滞があり、モチベーションを維持するのは難しい。凡庸な私が山登りをいまだに面白いと感じられるのは、転機となる時期によろこびを教えてくれる仲間と出会ってきたからだ。新たな発想とエネルギーをもらい、次の行動がつながってきた。

◆今の私にエネルギーを与えてくれるのは、山でラインを引くことに喜びを見いだす友達たちの、創造的な世界観だ。自由な発想で山を見つめる彼らの活躍は登山の本質を示しているように思える。また、人としての在り方にも触発された。お金を生まないどころか命もかかるような山登りを人生の中心に据えつつも、家族や仲間を大切にし、人生そのものを心から楽しんでいたからだ。

◆ある冬のシーズンに、彼らと遭難現場に立ち会うことがあった。その迅速な判断と行動力は、当然ながらどれだけ登りこんでいるか、山に人生を捧げているかに比例していた。優劣は立ち姿からだけでもわかるほど明らかで、存在としての美しさは圧倒的だった。

◆美しいものに出会うと、自分を変えたいと思うようになる。それを機に、私は山を中心に暮らしたいと考えるようになった。仕事を変えることを前提に山暮らしを模索しはじめたところ出会いが重なり、山のふもとに拠点ができた。次に収入の糧を考えた。会社に就業契約の変更を申し出て、山暮らしと会社員暮らしの両立の検討を申し出たが、突き返された。登山ガイドやヨガインストラクターなど既に収入を得ている分野で独立することも考えたが、現実的には仕事の比重が増え本末転倒になる可能性があった。それであれば、いまの時間の使い方をまず見直そうと、しばらく二拠点で生活することを決めた。

◆場所を選ばない働き方を模索しているうちに、ITの分野に行き当たった。驚いたことに、そこでは専門家たちが、人工知能が全人類の知能を超えるといわれる時代(シンギュラリティー)に向けて、人間と世界の在り方を議論しはじめていた。どうやら仕事どころか社会経済の概念そのものが大きく変わるような過渡期に、いま生きているらしい。オフィス業務はもちろん、医者など高度な専門分野も機械に代替されるという。

◆人工知能と経済の連関を研究する先進的な経済学者は、80年前に書かれたケインズの予言を引用し、未来のモデルを示している。「われわれはこの時間、この一日の高潔でじょうずな過ごし方を教示してくれることができる人、物事のなかに直接のよろこびを見出すことができる人、汗して働くことも紡ぐこともしない野の百合のような人を、尊敬するようになる」。

◆同じ経済学者は、人工知能にとって代わられる将来は経済活動そのものが破綻するのだから、国が社会保障として国民ひとりひとりに定額のベーシックインカムを支給すべきだ、その財源は確保できると提案してもいる。まあ、私が携わるオフィス業務などは真っ先にやられてしまうし、私よりもっと働かずに冒険ばかりしてお金がない友達たちにはまさにベーシックインカムは朗報だ…。

◆いま、多くの冒険は余計なものをまとってしまったようにも見える。それは経済活動という枠の中でどう折り合いをつけるか模索したひとつの結果でもあっただろう。一方で、まったくそういったものにとらわれない、本人の純粋な思いに突き動かされて行動する地平線的な冒険者たちに私たちは美しさをみてきたのだと思う。大きく変わるといわれる未来に、自分はどう生きていたいのかを考えはじめている。(恩田真砂美


あとがき

■448回の報告会、意外な展開でした。直前には報告者本人が「今の心の状態では話し続けるのは無理かも」と言い出して、おいおい、どうしたんだよ。結果は期待していた以上に濃い内容で、最後までびっくりさせられ続けました。いつもの報告会とはまったく違う内容をどう伝えるか。レポートはダメです、と言いながら表現のプロでもある彫刻家が自分流で生き生きと報告会の進行ぶりを伝えてくれた。宮川君、緒方君、そしてうまくリードしてくれた丸山君、ありがとうございました。そんなわけで結果的に今月は長めのレポートとなりました。

◆きのう、上智大学から「受講証」が届いた。前にも少し書いたが、歩いて通える場所なので4年前から春、秋の二回、週1回のロシア語上級の講義を受けている。学生時代、いい加減にしかしなかった語学にもう一度挑戦してみよう、と思いたったのだが、実はまだ安心できない。ことし春のコースは受講証が届いたあと「希望者が5人に満たなかった」ため、キャンセルされたからだ(振り込んだお金も返金された)。はじめて参加した時は16人もの受講者がいて、狭い教室に全員座るのも大変だったがこの変化は何を意味するのか。

◆プーチンの強力なロシアへの嫌気か、国をあげてのドーピング問題、あるいはロシアでは金にならない、という判断か。今月29日の木曜日が初日。週1回90分のレッスン、私には相当きついのだが、なにとぞつぶれませぬように。(江本嘉伸)


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

日常茶飯戦争のリアル

  • 9月23日(金) 18:30〜21:00 500円
  • 於:新宿スポーツセンター 2F大会議室

「人殺しの道具である銃には僕は絶対触りません。だから生き延びられたのかも」というのはフリーランス・ジャーナリストの桜木武史さん(37)。'12〜'15年5度に渡って内戦中のシリアに入り、主に反体制派陣営に密着取材を続けて来ました。「大手メディアは体制側の発表情報を流すばかり。武力の差にもめげずに戦い続ける反体制派のリアルを知りたくて」と桜木さん。

日本ではコンビニのトラック運転手で資金をためては、シリアの最前線で銃声に身を縮める日々を過ごします。近代都市の真中で進行する市街戦は、日常と非日常がモザイクのように混ざり合ったカオスであり、また明日の日本にだって起こりうるパラレルワールドでもありました。

今月は桜木さんに、混沌としたシリアの今を、独自の視点から報告して頂きます。


地平線通信 449号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2016年9月14日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方


地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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