2016年12月の地平線通信

12月の地平線通信・452号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

12月14日。北風が、冷たい。沖縄・名護でオスプレイが不時着、バラバラになった機体の映像が何度もニュースで流されている。あれほどの破壊なのに、乗員5人は無事、というから不思議だ。明日はロシアからプーチンが来る。トランプといい、こわもてのリーダーがなぜか人気の時代だ。

◆去年のメモ帳を開いたらちょうど1年になる、と気がついた。谷口けいさんの突然の遭難からだ。12月21日、「谷口けい滑落 大雪山黒岳北陵」と書き残している。そうか。けいさんは、いないんだ。まだどこかで出会う気がして、何よりも「遺影」となったけいさんに会いたくなくて、あの時、追悼会にも行かなかった。

◆よくメールをくれた。「だいぶ時差がありつつ、地平線通信を読ませていただいてます。毎回の情報アップデート、有難いです」とか「今日は、地平線通信発送の日ですね。お手伝いに行けずすいません」など、地平線会議についても結構まめな関心を持ってくれていた。「今、ボリビアにおります。2月に帰国の予定です。エモカレーもそろそろ食べたい〜! 谷口けい」最後にカレーを食べに来たのは、このメールの半年後、逝った年の夏だった、と思う。

◆私の仕事場の壁には彼女が紙切れに走り書きしたメモが貼り付けられたままだ。携帯電話の番号、メール・アドレス、携帯電話用メールアドレスが書いてある。はじめて我が家に来て、書いたものだと思う。その後も何度か来て、賑やかにカレーを食べながら奔放な話をしていった。一周忌、私なりに静かにけいさんを偲ぼう。

◆同じ女性登山家でも田部井淳子さんとは、40数年来の知り合いである。あの朗々たる声の持ち主は遭難ではなくガンで逝った。近年はそれほど頻繁なやりとりはしていなかったがこの通信の読者のひとりであり、彼女の親友が身内にいるので、大体のことは承知していた。NHKほかから私にもいくつか取材依頼があったのは「エベレスト以前の」無名の彼女を知る人があまりいないせいもあるだろう。

◆「田部井淳子さんを送る会」はこの18日の日曜日、世田谷区の昭和女子大キャンパスで行われる。一般の方の献花は14時30分から構内のクリーンホールで。平服で、お花、香典などはいっさいお断りだそうだ。(ゆかりの深い人たちによるお別れ会は、その前に計画されている)。地平線の皆さんも自由に参加してください。

◆ところで、1年前の手帳を繰ったのは、破天荒な旅をモンゴル、チベットでやった西川一三さんのご家族のことを確認したかったからだ。「秘境西域八年の潜行(上中下巻)」を書いた西川一三さんが逝って7年、3200枚に及んだ原稿を一体どうやってまとめ、管理したのかご家族から一度しっかり話を聞いておきたく、盛岡の病院にふさ子夫人、長女の由紀さんを訪ねていた。

◆詳しい経緯は省くが、ふさ子さん(今月で91才になる)が西川さんと結婚する前、そして結婚後も膨大な原稿を清書する仕事を手伝っていた、というのは、私にとって貴重な事実だった。当時の紙は質が悪く、西川さんが鉛筆で筆圧強い字を書くので、まったく読みにくい状態だったらしい。静岡県富士市に住むふさ子さんはたまたま東京の食餌療法の研究会で西川さんと出会い、この大きな仕事のことを知り、協力する気持ちになった。

◆その方法がユニークだった。川崎と富士市に暮らしていた二人は中間点の熱海駅の隣の函南駅で落ち合い、駅前食堂で食事をし、西川さんの鉛筆書きの原稿とふさ子さんが清書したペン書きの清書原稿を交換したのだそうである。3200枚という膨大な原稿量だったので、この仕事は二人が結婚後も続き、生まれた長女を背負い、家にこもって続けた、という。ただし、苦労とは思わなかった。「夫が命に刻んできたことなので真剣に取り組みました。中身が面白かったし」

◆1993年、94年に出した私の著書『西蔵漂泊 チベットに魅せられた十人の日本人』という本の取材で私は随分西川さんにお世話になっている。この本の出版記念パーティーにも盛岡から来てくれ、その後もフランクな交流をさせていただいた。そして、いまも取材を続けている。ご本人が逝っても、その人生を探求する仕事は終わらないぞ、と年の瀬につくづく思うのである。(江本嘉伸


先月の報告会から

一瞬に永遠を求めて

和小松由佳

2016年11月25日 新宿区スポーツセンター

■451回目の報告者は小松由佳さん。世界第2位の高峰K2(8,611m)を日本人女性として初登頂したのが2006年、24歳だった。同年「植村直己冒険賞」を受賞。その後、山から谷へ舞台を移し、現在はフォトジャーナリストとして活動している。いったい、どんな心境の変化があったのだろう? ベビーカーのなかにいる生後7ヶ月の息子サーメルくんと一緒に報告者席に立った小松さんは、「非情の山」K2の写真を眺めながら、山との出会いから話し始めた。

◆秋田で生まれ育った小松さん。周りにはいつも山があった。「あんな山に登りたい」と高校で競技登山を始め、「もっと大きな山へ」と東海大学山岳部に入った。大学を卒業した2005年、チョモランマ登頂に失敗。敗因はチームの人間関係だった。挫折感でもう山をやめようかと考えていたとき、山岳部の監督からK2に誘われた。「一期一会のチャンス。死ぬのではと不安もよぎったけれど」行くと決めた。

◆東海大学K2登山隊のメンバーは6人。全員が8,000m峰未経験者だったが、実力よりチームワークを重視した。現地の山岳民族をポーターとして雇い、ジープと徒歩で2週間かけて山麓まで行く。登頂ルートはノーマルルートの南東稜ではなく、あえて南南東稜を選んだ。中国・パキスタン・インドの国境付近は政治的な緊張が走る地域。外国人登山隊の監視役として専任コックとパキスタン軍人もついてきた。

◆装備を身につけ、いよいよK2に挑もうというそのとき「ドーン!」と爆音が。雪崩だ。2006年のK2死亡率は26%。ピラミッド状の険しい地形、岩のもろさ、急変しやすい天候、酸素の薄さが、厳しさの理由だという。「命をこめて1歩1歩、祈るように登った。恐怖感のなかに生きている実感があった」。平均傾斜45度。平地はほとんどなく、C1(6,400m)は岩と岩の隙間にテントを張った。大変だったのはトイレで、C2(7,200m)では男性隊員もいるテントの中で排泄した。強風にあおられ自動車ほどの岩が落ちてきたときは、山壁にじっとへばりついた。「人間の命が自分の情熱や努力とかではなく、運、不運に左右されるのを感じた」。

◆ついに頂上へ挑む日。アタック隊に選ばれたのは体調が整っていた若手3人。リーダーの蔵元学士さん、小松さん、現役山岳部員だった後輩の青木龍哉さんだ。ところがBC(5,200m)を出発して1時間後、蔵元さんが盲腸で麓の町へ緊急搬送される事態に。小松さんがリーダーになり3日後、C3(8,000m)へ到着。仮眠し、午前3時にC3を出た。この先は酸素を吸いながら進む。「ヒマラヤの8,000mより高所はデスゾーンと呼ばれ、無音で異次元の世界。自分の感覚が研ぎ澄まされ風や太陽を強く感じる」。

◆下を見ると真夜中なのにチラチラと光が。隊の仲間が焚き火でエールを送ってくれているとわかり、「みんなで一緒に歩いている」と思った。青木さんと体をロープでつなぎ、目に見えないクレバスにはまらないよう慎重に登る。8,200mまで来ると眼下にカラコルムの山々が広がって「世界は山なんじゃないか?」と感じた。上へ上へ、四つん這いで前進。ここが山頂だとわかった瞬間ゴーグルの中に涙があふれた。

◆「頂上からは地球がまるく見えた」。しかし喜びにひたる余裕はなく「あくまで折り返し地点。半分感動、半分恐怖」。最低でも15時までに登頂しなければならなかったのに着いたのは17時前。これはつまり、下る途中で確実に酸素がなくなるということ。下降しながら小松さんの意識はだんだん遠くなり、雪面から巨大な影があらわれて自分の体をすっと通過していく幻覚を何度も見たという。8,200m地点でついに酸素が尽きた。このとき午前2時。

◆このままC3まで下るか、夜が明けるまで3時間待つか? 青木さんの反応が相当鈍くなり、小松さんの思考力も低下。「良くない波がどんどん起きている」と、ビバークを決めた。雪面を削って横並びに座り、朝を待つ。つい寝落ちしそうになるが、自分たちの息の荒さに驚いてはっと目覚める、その繰り返し。起きるとまず「生きてる?」と隣の青木さんに尋ね、反応が返ってくるたび安心した。もしこのとき青木さんが力尽きていたら一緒に力尽きていたのではないかと思えるほど、隣に生きている存在があることが心強かった。

◆気がつくと熱い太陽が顔を温め、紫色の雲海が崇高に広がっていた。朝だ!!。あまりの美しさと、生きていることに感動。ふらふらの足でC3に帰りつきBCへ連絡したら、遭難騒ぎになっていた。ビバーク地点がちょうど山の裏側で無線の交信が途切れていたためだ。出発前に両親へ遺書を残していた小松さんは、K2で得た体験を通じて「ただ生きているだけですごいこと」と、命の価値を噛みしめた。

◆BCで登頂を祝っていたときに会ったロシア隊の青年たちは、その後雪崩にあい帰らぬ人に。下りは落石が激しく、青木さんは「K2に殺されるかと思った」。山麓まで戻り、土に生える緑色の草を久しぶりに見た小松さんは「感激のあまりゴロゴロ転がった」。「K2は多くを教え、与えてくれた」。過激派といわれたイスラム教シーア派のポーターたちとの出会いも大きかった。歌って踊るのが好きな彼らと、言葉は通じなくても家族のように打ち解けた。蔵元さんとも無事再会し、仲間との絆があったからこそ登頂できたと実感。「人が生かしあい、つながりあって生きている」。レンズの向こうの小松さんに心を許し、微笑むポーターたちのポートレイトが続く。

◆翌年は大学時代の先輩と2人でパキスタンのシスパーレ(7,611m)北壁へ。氷河を横断し、底が見えないほど深いクレバスをジャンプして飛び越えるのは恐怖だった。頂上まであと少しのところで、雪崩がひどくなりリタイア。この後、小松さんの心に変化が起きる。「私は山を目指してはいないんじゃないか?」。困難なルートに挑むことよりも、麓の人々の暮らしに惹かれていく気持ちに気づいた。

◆「裕福ではなくても、厳しい自然のなかで互いに支え合って生きる人々を見たい」。小松さんにとって、このシスパーレが最後のヒマラヤになった。勤めていた登山用品店を辞め、自転車に寝袋をつけて沖縄へ旅に出たが、なぜ山をやめたのか、自分自身でも整理がつかない葛藤の日々。東京郊外の牧場で働きながら1年に3〜4ヶ月間旅をする生活を4年送った。

◆中学生のときに見たドキュメンタリー番組が、世界の人の暮らしに興味を持つようになった原点だという。ラダックの山あいに暮らす羊飼いのおじいさんは、寒い冬の放牧が大変でも便利な町へ移る気はなく「ここには山があり人間がいて動物がいる。これが私の幸せなんだ」と語った。その姿に「頭をハンマーで叩かれたような衝撃を受けた」。

◆東西アジアの遊牧民に会いたくて、2008年8月モンゴルの草原を訪れた。知り合いを通じて東部スフバートル県の遊牧民一家と縁がつながり3ヶ月の居候生活。「大地は360度、空は半円に広がる」。ゲルの主は2人の子どもがいる29歳の夫婦。小松さんは、男の仕事である羊の放牧も、女の仕事である乳搾りも手伝った。お父さんがヤギを屠るところを横で眺めていると「なんのために草原に来たんだ」と怒られ、小松さんも屠った。ツノとツノの間の柔らかいところを打って気絶させ、おなかにつけた切りこみから手を入れて動脈をちぎる。「生温かい血の感触が今でもよみがえる重みある経験」。

◆モンゴル滞在中、いくつものカルチャーショックが。ある晩ウォッカに酔った男性たちが激しい喧嘩を始め、1人の男性がもう1人の太ももにナイフを突き刺して大量出血。心配したが、翌朝には包帯を巻いて2人仲良く馬に乗り放牧していたのには驚いた。性に対しても彼らはおおらか。家族とゲルで川の字になり眠っていると、小松さんのすぐ横で夫婦が夜の営みを始めるので「私は悶々とするわけです」。人と動物との関係性も独特だ。友情があるのと同時に、いわゆる「ペット」とは違う一定の距離感があった。

◆モンゴルを後にした小松さんはロシア、ウクライナを経て、砂漠の遊牧民が暮らす中東へ。2008年はシリア、レバノン、ヨルダン、イスラエル、2009年はイラク、イラン、2010年はエジプト、イエメンを歩いた。ヒマラヤを離れて5年になる2013年、人から用事を頼まれパキスタンへ行く機会があり、憧れだったナンガ・パルバットを麓から眺めた。「以前なら山といえば頂やルートが浮かんできたけれど、山麓の人々、風、水、すべてが山なのだと感じた。これまでの道のりはここへ来るための長い旅だったんだと、妙に納得した」。

◆2008年、シリア砂漠に暮らす半遊牧民のアブドュルラティーフ一家と出会う。60代と70代の両親には16人の子どもと100頭のラクダがいた。ラクダの放牧を担当する12男末っ子のラドワンさんは、のちに小松さんの夫になる人。「シリアの人々はすごく明るく目がキラキラして、どこに行っても旅人に優しかった」。シリアの有名な言葉に「ラーハ(ゆとり、休息)をたくさん持つ人生が一番いい人生だ」というものがあるそう。シリア人は大切な人と過ごす穏やかな時間を大切にし、シビアな話もシリアン・ジョークで冗談に変えてしまう。

◆平和な時間が流れるシリアで内戦が勃発したのが2011年。政府側、反政府側、ISという3つの勢力の影響下におかれ、2016年現在で人口2,240万人のうち27万人が命を失い、約400万人が国外で難民生活を送る。外国人と親しくするとスパイ容疑をかけられるため、シリアの友人たちは小松さんから離れていき、小松さんも秘密警察に監視されるようになった。

◆放心状態で宙を見つめるラドワンさんの表情をとらえた写真が印象的だ。「兄のサーメルが警察に連行されたと電話で知らされた瞬間を撮ったもの」。民主化運動に参加していた兄はずっと警察に狙われていた。同じく運動に参加するラドワンさんの身も安全ではない。小松さんは「自分がここにいることで彼らに何ができるのか?」と考えたが、答えが出なかった。するとあるイギリス人ジャーナリストから「今ここにいるなら写真を撮ればいい。1枚の写真は人の心を変えることができる。それがめぐりめぐって政治や世界を変える。カメラはそれほどに大きな力を持っているんだよ」といわれ、内戦の惨禍が迫る日常を生きる人々を撮り始めた。シリア警察は銃よりもカメラを警戒していた。

◆「会いたいけれど来ないでほしい。警察にマークされている」とアブドュルラティーフ一家から電話越しに伝えられ、実際に情勢は悪化の一途をたどった。小松さんはそれ以降シリアに入ることができていないが、周辺のヨルダンやトルコでシリアから逃げてきた難民を取材するように。働く子どもや、「あまりにたくさんの血を見てしまったので故郷に帰ることに戸惑いがある」と話す夫婦。状況は厳しいが「出会った難民たちは希望を持って生きていた。時に明るくて強い。悲惨な状況だけでなくそういう姿も伝えていきたい」と小松さんはいう。

◆レバノンへ逃れたラドワンさんと2013年に結婚。家族3人で東京に暮らし、ラドワンさんは力仕事を掛け持ちしながら実家へも仕送りを続ける。5年前に捕らえられた兄はまだ行方不明。今年誕生した赤ちゃんに兄と同じ「沙芽瑠(サーメル)」という名前をつけ、優しく頼もしいお兄さんがどうか生きていますようにと願いをこめた。この言葉には「夜の中の光」という意味があるという。

◆「K2の頃より主人と結婚した日本の生活のほうが日々サバイバル。本当の冒険とはヒマラヤ登山のように単発的なものではなく、毎日の日常生活の積み重ねだと思うようになった。これからも日常を自分なりに豊かに生きていきたい」と締めくくった小松さん。若くして大功績をあげ、若くしてその世界から身をひくことは、どれほどの勇気がいるんだろう? そして人生をまるごと冒険に塗りかえてしまうほどの覚悟とは……。小松さんの尋常ではない芯の強さに圧倒され、ときどき聞こえるサーメルくんの元気な泣き声が心に響いた報告会だった。(大西夏奈子


報告者のひとこと

どんな土地に行って何をしていても、直感を働かせる

 ヒマラヤ登山、自転車旅、モンゴルの遊牧民との生活、砂漠の旅、フォトグラファーとして難民の取材、この10年の間のことだ。一見何のつながりもない、かけ離れた行為としてとられることもあるが、私にとって全てが一本の線でつながっている。

 そのときどきに心が求めるものに忠実に、頭で考えるよりも、先に足を前に出してまず歩き始めることをしてきた。単純で鈍感な性格ゆえ、失敗も恥も多く挫折もあったが、“まずは始めてしまう。そしてやりながら学ぶ。そこで迷ったなら周りを見渡し、ゆっくり歩きながら決めていけばいい”と信じている。また既存の価値観ではなく、自分の目や心でものごとを見て感じることを大切にしたい。なかでも直感は、生き物として最も大切な感覚のひとつだと思っている。どんな土地に行って何をしていても、直感を働かせることができれば大丈夫だと思っている。

 旅で出会った人々は、草原であれ沙漠であれ、どの土地でも日常を愛おしんで生きていたことが印象的だった。広い世界に憧れ出会いを重ねるごとに、狭い世界が深いということを知るようになった。

 4年前、シリア人の主人との結婚をめぐり両親に勘当され、実家に立ち入ることができなかった一年半があった。この孤立無縁の日々があって初めて、私にとってのふるさとはその風土ではなく、そこに生きる人であることを痛感した。愛する家族や仲間とともに日常を日常として送れることが、いかに特別でかけがえのないことか。今は母として、女として、そして人間として、日常を丁寧に積み上げることを大切にしたい。先鋭的な厳しさのなかにあるものより、日常の深部にきらりと光るものを見つめていたい。生きることは、日々が一期一会の宝物だとしみじみ感じている。(小松由佳


地平線報告会に乳児が来た! そして私のB面

■私は子供が苦手だ。娘を産んで育てている今、8歳ぐらいまでの子どもならどう対処すればいいかは学習済みなので、はた目には子供好きな人っぽく映っているのだろうが、内心は苦手意識に加え恐怖心やちょっとした嫌悪感までトッピングされたコンプレックスの塊である。我が子に対しては大らかかつきめ細かい心を持って、個性と好奇心を尊重した愛情深い幸せな子育てをしている。そういう気持ちがよその子には持てないのだ。

◆そんな私にサーメル君のお世話係のお鉢が回ってきた。報告会にほぼ毎回娘を連れて出席している私は、さぞいいお母さんのイメージで捉えられているのだろう。しかも江本さんたってのお願いとあっては断る訳にはいかない。8年前は四六時中抱っこひもでおなかにくっつけていた娘がどんどん成長してしまい一抹の寂しさを感じている今、懐かしい感触を少しは思い出せるかも、とも思ったし。

◆しかし娘がぽよぽよの赤ちゃんだったころを思い出せるかも、なんて思ったのは大間違いだったと、お世話開始10分で悟った。ベビーカーの中で機嫌よくガラガラで遊んでたのもつかの間、だんだんむずかり出してこのままでは泣き出してしまう、という瞬間さっと抱っこして会場最後列に移動。重っ、そして太っ。娘との違いすぎる感触にしばし呆然。何を隠そう、男の子を抱っこしたのはこの時が初めてなのだ。

◆しかし気を取り直して娘のときと同じように立ってゆらゆらしたり座ってとんとんしたりしているうちに機嫌はすっかり良くなりケラケラ笑い声まで聞こえるように。束ねた私の髪を思いっきり引っ張って、思わず「イテテテ」と言うとそれがツボだったらしく何度でも引っ張ってはイテテテ…を繰り返す。まつ毛がくるんとカールしたパッチリおめめの赤ちゃんが上機嫌で笑っている図、愛らしい以外の言葉が見つからない。会場最後列では、「ちょっと抱かせて」コールが止まらず、右から左、左から右へサーメル君のリレーが始まっていた。

◆しかし休憩後、おっぱいを飲んで満腹になり眠くなったのにお母さんじゃない人たちに抱っこされている心地悪さに大泣きしてしまい、しばらく会場外に連れて行くと、次々と交代してくれる人たちの優しさがあった。最後列の受付スタッフだけでなく、子育て孫育てをこなしてきたベテランさんたちも加わってくださり、なんとか2時間半が終了。ギーギーいきみながら大泣きするサーメル君をお母さんのところに連れて行ったとたん、脚の上にちょこんと座ってほよっとしている。こんにゃろ。でもやっぱりお母さんじゃないとね、お母さんのいる安心感が赤ちゃんには何より大切で幸せなことなんだなと、解っていたけど改めて思った。

◆今回の報告会、私は二時間半まったく聴いていない。映像も観ていない。いつも通り長野さんの紹介文と絵から想像を膨らませ胸を躍らせて報告会に臨んでいるのに、だ。他の人が外に連れ出してくれているときだって、サーメル君が気になりすぎて透視もできないのに入口の鉄扉を凝視していたのだから。そんな悔しさとモヤモヤ感が大いに残る報告会だったが、別のところで少し収穫があった。

◆サーメル君のこれからの人生、一筋縄でいかないこともあるかもしれない、でもとにかく幸せに育ってほしいと心から願っている。そう思える私は、苦手意識などのよその子どもと接する際に不要な感情は少し解消できたのではないかな、と思う。まだサーメル君に限ってのことかもしれないけど。子供と密に接すれば接するほど、愛情がコンプレックスを薄めてくれるのかもしれないと思った。(瀧本千穂子

あの落ち着いた話ぶりはどこか達観したような……フォトグラファー・小松由佳さんの意外

 ■小松由佳さんの名前を久しぶりにみたのは2年前。山形県の「山岳資源の魅力向上推進プロジェクト」の有識者として名前があり、肩書が“フォトグラファー”になっていたので、気になってネットで検索し本人のウェブサイトにたどり着いた(現在のサイトは当時とは変わっている)。サイトのニュースには「写真誌『名のない星』発刊しました!」とあり、その一つが『命をつなぐ旅』と題されたサケの遡上を撮影したものだった。撮影場所は秋田県にかほ市の川袋川(かわふくろがわ)。鳥海山の西麓にある湧水の川で、わたしがよく行く山形県遊佐町の牛渡川(うしわたりがわ)の少し北にある姉妹のような川だ。小松さんが日本人女性初のK2登頂者であり植村直己冒険賞受賞者であることはもちろん知っていたが、まさか写真家になっていたとは……。

◆しかもこの時は「鳥海山頂美術館」(頂上にある大物忌神社参籠所の一画を利用した夏季限定の美術館)で「憧れの山 ナンガ・パルバッドへ」という写真展をやっていた。行きたい!と思ったが、鳥海山頂は簡単に行ける場所ではなく(わたしの足だと往復8時間くらいかかる)、週末の予定と天気をにらんでいるうちに会期が終わってしまった。その頃は小松さんがシリアに通っていることは知らなかったので、通信の案内をみておどろいた。シリアの内戦や難民については数少ないニュースや昨年の山形国際ドキュメンタリー映画祭で上映された映像くらいしか知識がなく、できれば内側からみたシリアの実情を知りたいと思っていたからだ。

◆報告会はK2に登った10年前の映像から始まり、山を離れて草原や沙漠を旅しやがてシリアに通うようになったことを、まるでアナウンサーがナレーションを読むようによどみなく進められた。まだ若いのにあの落ち着きはなんだろうと思うくらい、丁寧でおだやかな話ぶりだった。2013年を最後にシリアには入国していないとのことだったが、これは外国人と接すると政府から疑われ親しいシリア人に迷惑がかかるかららしい。小松さんのおだやかさの陰には遠いシリアの友人たちを想う気持ちが秘められているように感じた。「山形国際ドキュメンタリー映画祭2017」のコンペティション応募作品も届き始めたと聞くが、今回は前回にましてシリアを題材にした映画が多いだろう。厳しい現実のなかに少しでも希望がみえることを期待したい。(飯野昭司 山形県酒田市)


関野吉晴の魅力に迫る映画特集が、横浜シネマリンで開催されています!

■地平線通信で何度も扱っていただいている関野吉晴や、教え子の佐藤洋平、前田次郎、私・水本博之も監督で参加している『縄文号とパクール号の航海』が12/12(月)〜12/23(金・祝)の日程で横浜シネマリンで公開されています。本作は関野吉晴が2008年から4年かけて自然素材から道具をつくり、カヌーをつくり、エンジンなしでインドネシアから石垣島まで公開する様子を追ったものです。また、関野ゼミの若者たちが『カレーライスを一から作る』という計画をたて、その様子を追ったものが新作映画として同劇場で公開されています。12/10(土)〜 12/23(金・祝)。そのほか、一から作るシリーズの元祖『僕らのカヌーができるまで』、関野とモンゴルとの少女との交流を描いた『プージェー』も上映される予定。また、期間中は関野吉晴をはじめ、各作品の監督もトークゲストで来場します。詳細は横浜シネマリン(住所:横浜市中区長者町6-95/電話:045-341-3180/URL: http://cinemarine.co.jp/まで。(水本博之 「縄文号とパクール号の航海」監督)


地平線ポストから

友のいる被災地・熊本ツーリング旅で見たこと

■11月21日から12月2日の間、九州をツーリングした。ライフワークの郷土富士を登る旅の一環であるけれど、今回は、友人に会うのが第一の目的だった。初日は自宅のある神奈川から高速で移動、そして途中岡山で降り、美星(びせい)町に住む友人を尋ねた。4年ぶりの再会だ。彼は東日本大震災の時、RQでボランティアをした後、元々働いていた福島県いわき市の生木葉(なまきば)ファームで放射能に汚染された畑や養鶏場の土の除染作業をした。私はRQのボランティア中では彼と会うことはなかったが、縁あって生木葉の除染作業を手伝うこととなり、何度も訪れ、共に汗を流した、という友である。

◆その後彼は独立して農家となるため、岡山へ移住して彼女と結婚し、今は2歳の子供と3人暮らし。ただ、専業農家では生活が厳しいという現実に直面し、林業も農作業の合間に携わっているとのことだ。来年2月にはもう一人家族が増えるとのこと。わぉ、素敵! 一家の住む古民家(風呂は薪で焚く五右衛門風呂♪)に一泊した後は、再び高速で福岡へ。

◆福岡では、いつも顔を出すバイク屋でオイル交換をした。店長は69歳。レース好きで、毎年参加する島根のオフロードバイクのレースでは常に上位10位以内で、前回は250台参加する中、やはりその地位を維持。もちろん最高齢だ。年寄りなりのクレバーな(?)走り、そして毎日欠かさないという、腹筋やダンベルなどのトレーニングがその結果を生むようだ。

◆そしてバイク友達のいる熊本へ。彼女は熊本市在住で、今年の地震で家が被災。当初はご両親と共に家の敷地内で車中泊をしていたそうだが、ご両親が車中泊では落ち着かず、しばらくして自宅で寝るようになったそうだ。しかし、屋根瓦が落ち、雨漏りは酷いし、家の耐震性も怪しいという、不安の日々……。家は半壊の判定にあと少しで及ばず、2次判定を待てばもしかしたら 半壊判定をされたかもしれないが、それにはまだ何か月も待たなくてはならないそうだ。

◆それよりも家族で安心して家で暮らせるのが先決、と、保険金や補助金もないまま自費で家の修繕をすることに。屋根を直し、壁の一部を壊して筋交いを入れ、別の壁は外から補強する、等々。私が訪れた翌日も、大工さんが別の箇所を直しに来ていた。

◆その熊本の友人は1日を割いてくれ、私を車であちこち案内してくれた。震源地となった益城町を通る。車窓からは、地震で崩れかけた家があちこちで見られた。しかし、一見大丈夫そうな家も多かった。が、彼女によると、外観は何ともなくても、内部がだめで、人が住めなくなった家がたくさんある、熊本市内でもそういう家は多いよ、とのことだ。それから阿蘇の方へ移動。通行止めが何か所もあるので、迂回して進む。

◆途中で、手書きの「山田牧場」の小さな看板を見つけた。地元に人気のおいしいソフトクリームがあるとのことで、看板に従い、左折する。集落の間の狭い道が迂回路だった。工事のでかいダンプも入っているので、すれ違いが一苦労。なんとかたどり着いたら営業時間にはまだ早かったが、人がいたので頼んでみたらソフトクリームを食べられることとなった。やった! 喜んだ私達だったが、お店の人もわざわざやってきた私達を嬉しそうに歓迎してくれた。

◆その先もいろいろと迂回路を適当に進んでいたら、阿蘇大橋のたもとにフッと出た。橋が橋となる手前でぶつりと消滅し、その先には峡谷を隔てて対岸の大規模な土砂崩れが見える。国道57号と鉄道 ・豊肥本線は埋まったままだ。驚いたのは、その土砂崩れの斜面で、ユンボなどで作業を行っていたことだ。某かの安全対策をした上での作業とは思うが、余震も予測できない中、私には命がけの作業のように思われた。

◆自分一人でもバイクで阿蘇を走った。特に田んぼのあぜ道を舗装した道は、波打っている箇所が多かった。長崎も訪れてペンギン友達と会い、そして大分へ向かう。郷土富士の涌蓋(わいた)山と由布岳に登った。由布岳登山口に近い温泉地・湯布院町は、熊本地震後、観光客が減ったと聞いたが、今回行ってみたら、駅前周辺の土産物や飲食店が並ぶ通りは、平日でも観光客で大賑わい。外国人も多く見かけた。

◆そして、杵築市の友人(というよりは、お姉さんと慕う存在)宅へ。もうだいぶ前のことだが、自宅を建てる前に、建築家の旦那さんが土地を深く掘って地層を調べたら、阿蘇山の火山灰が出てきたとのこと。そして今年の10月に阿蘇山が爆発的噴火をし、風向きもあってやはりこの時もうっすらだったけれど火山灰が積もった。やっぱり同じことが再び起きてもおかしくはないのだ。

◆私が九州滞在中にもしも強い余震が起こり、通行止めなどで帰宅日が遅れたら、帰宅した翌日にすぐ出かける新潟行きに影響がでるなぁ、ともふと思ったが、その滞在中に、東北で津波が発生する地震も起きているし、関東だって、いつ大地震が起きても不思議じゃない。日本のどこでいつ地震や噴火が起きるかは予測不可能なのだ。だから、ある程度、例えば大地震の直後など、は自粛するが、今後も行ける限り、どんどん外に出て行きたいと思う。(旅する主婦ライダー もんがぁ〜さとみ

私も(山が)好きやからしゃあないな
  将来の女流アルピニストを宣言した小学生時代

■親しかった友が9月、逝ってしまった。葬儀の翌朝突然思い立ち、28年ぶりに上高地を訪れた。山へ行きたくても叶わなかった日々を思い感慨に耽った。

 山を好きになったのは小学校4年生のときに出会った数冊の本のお蔭。槇有恒「マナスル登頂物語」・古原和美「ヒマラヤの旅──未知をたずねて」・そして「暮らしの」に寄稿されていた雁部貞夫氏(アララギ派歌人)のヒンドゥ・クシュ紀行。6年生の時は「ヒマラヤ巨峰初登頂記:8,000メートル峰14座」をランドセルに忍ばせて毎日通学していた。著者のマリオ・ファンティンは1954年のk2イタリア隊のカメラマンである。

 病嵩じて卒業文集には「私は将来女流アルピニストになります。」と書いた。そんな私が本格的に山を始めたのは1984年、京都に移り住んでから。最初一年ほど労山に在籍(後に伊藤達夫氏が入会)。その後大阪の「岳僚山の会」に移籍。親の介護のため、関西を離れざるを得なくなるまでの4年間は、アルパインクライミングに情熱を燃やす仲間に恵まれた充実した日々だった。

 会の代表の松本憲親氏は「確保の理論」の第一人者である。「大阪方式」をご存じだろうか。アイゼンの底につけるアンチスノープレートも松本氏の考案。工業用ミシンを踏んで自作の登攀具をいろいろと試作する方でもある。出来の悪い私は仲間に追いついていくのが精いっぱいであったのだが、松本氏に会の中で一番ザイルを組んでもらったのは実は私なのだ。世界一のビレイヤーに薫陶を受けたのだから、無様な登り方だけはしてはいけないと、其の事だけは今でも胸に刻んでいる。

 1980年代の関西のヤマヤには魅力的な方がたくさんいらした。その筆頭が和田城志さんであった。遠い遠い憧れの方、「サンナビキ同人」と聞いただけでシビレた。関西にいた幸せ、3度ほどお目にかかる機会があった。そのうちの2回はお子さん連れ、優しいお父さんだった。11月の立山でお会いしたときはカンチェンジュンガ帰りの眩しい和田さんだった。2度目は阪急神戸線の車中、「今日はどちらへ?」「保塁岩です(関西メッカのクライミングのゲレンデです)」。お子さんを2人連れた釣り竿を抱えた紳士が和田さんとは気が付かず。電車を降りてから仲間と大騒ぎ。3回目はマッシャブルムの報告会の会場での事。

 月日が流れて今年、正月明けのJICAでの「ランタン谷」シンポジウム、今回の報告会と2度もお会いする事が出来た。和田さんと介護の事やら、「ブエナ・ビスタ・ソシアルクラブ」を聞かなあかんで、とかこんなお話をする日が来るとは思ってもいなかった。歳を重ねる事も悪くないものだ。山の現役に戻りたい気持ちがムクムクと湧いてきた。大切な事を忘れていた。報告会で西北ネパールの無名峰の写真を見ながら「いいなあ、登りたいなあ」と仰った和田さんの横顔が忘れられないです。(中嶋敦子

ゾモTシャツ、沖縄の島でも売りました!!

■こんにちは。いま汗だくになって畑で草取りです。12月も半ばというのに、27℃くらいありそうです。さて、11月26、27日に浜比嘉島でクラフトピクニックというイベントが開催されました。うちの牧場でも「やぎピクニック」というイベントをやりましたが、そのイベントで、ゾモTシャツを売れないかなあと思い、東京のゾモ普及協会に相談、落合さんに在庫分を送っていただきました。何枚か見本という形で置いて当日希望を受け付けようかな、と思っていたのですが、現物が目の前にある強みで結果的にゾモT11枚とゾモトートバッグ三枚売りました。沖縄からわずかながらも遠いヒマラヤの村の支援ができたことを誇りに思っています。落合さんにはお世話をおかけしました。ありがとうございました。取り急ぎご報告まで。蚊にさされまくりながらメールしてます(笑) (外間晴美 沖縄・浜比嘉島)


先月号の発送請負人

■地平線通信451号は、11月16日印刷、封入作業を終え、翌17日に発送しました。451号は大部20ページ。すでにおわかりのように和田城志さんの特集のような迫力ある通信となりました。作業に駆けつけてくれたのは、以下の皆さんです。ページ数が多かったので手数があってほんとに助かりました。ありがとうございました。
  森井祐介 車谷建太 伊藤里香 兵頭渉 武田力 光菅修 白根全 江本嘉伸 前田庄司 中嶋敦子 松澤亮 杉山貴章


至福の時──跳人・たかしょー、ロスのレッドカーペットで跳ねる!

■跳人歴14年、全米のセレブや著名人も参加する「ハリウッドクリスマスパレード」という大舞台で、ようやくその夢が叶いました。ロサンゼルスでは、毎年「二世ウィーク祭」で青森ねぶたの運行が行われています。主催しているのは現地の南加青森県人会です。海外でねぶた運行が行われた例はたくさんありますが、継続して毎年開催されているのはロサンゼルスだけだそうです。

◆その実績と、新作ねぶた「津軽海峡 義経渡海」が評価されて、11月の「ハリウッドクリスマスパレード」に出演したのが去年のことです。日本からもお囃子数人と、跳人1名が応援に駆けつけました。このときの動画を見て血が騒ぎました。なぜ俺はこの場にいないんだろうか。もし次があるなら、これは絶対に行くしかない。

◆その機会はすぐに来ました。前年に好評だったことから2年連続での出演が決まったのです。早速仲間と連絡を取り合い、今年は10名ほどの跳人がロサンゼルスに集合しました。わざわざ太平洋を渡って跳ねようというくらいですから、みんな生粋の跳人馬鹿です。

◆パレードのコースは約5キロありますが、メインはチャイニーズシアター前のレッドカーペット。もちろん主役はねぶた本体とお囃子ですが、跳人はその露払い役として先頭に立ちます。ステージと観客スタンドに挟まれた約300メートル、10分弱を休まず全力で跳ね続けるというのが、日本参加組の我々に与えられた仕事です。

◆この10分間は、夢の中にいるような至福の時間でした。何よりも印象的だったのは、アメリカならではの観客のノリの良さ。おそらく彼らはねぶた祭のことなど何も知らないはずですが、お囃子が鳴り跳人が跳ね始めた瞬間や、ねぶたが登場した瞬間に響き渡る歓声、そしてこちらの煽りに応える掛け声。中には一緒になって跳ね始める人もいました。この素直な反応は本場青森を上回るものだったと思います。

◆跳人の跳ね方には特に決まった型というものはありません。ただダイナミックに跳ねる、それだけの動作で見ている人を魅了する必要があります。ねぶたを知らないアメリカ人相手に青森の跳ねを披露し、素直に喜んでもらえたというのは、本当に跳人冥利に尽きることです。

◆カッコイイ跳ねに憧れて自分なりに追求してきたつもりですが、いまは魅せる側に回れているという自信が持てました。とはいえ、心に思い描いている理想にはほど遠いので、まだまだ精進しなくてはという決意が湧きました。もっと完成度を高めて、海外ねぶたにも再チャレンジするつもりです。(杉山貴章


通信費、カンパをありがとうございました

■先月の通信でお知らせした後、通信費(1年2,000円です)を払ってくださったのは、以下の方々です。数年分まとめて払ってくださった方、カンパを含めてくださった方もいます。地平線会議は会員制ではないので会費は取っていません。皆さんの通信費とカンパが通信制作はじめ活動の原資です。当方のミスで万一漏れがあった場合はご面倒でも必ず江本宛てお知らせください。振り込みの際、通信で印象に残った文章への感想、ご自身の近況をハガキなどで江本宛て添えてくださるとありがたいです。アドレスは(メール、住所とも)最終ページにあります。

 津川芳巳/鈴木敦史(10,000円 地平線通信費2013年6月〜2017年6月分 北海道小樽市)/永井マス子/梶光一(10,000円 地平線通信をいつも楽しく読ませていただいております。報告会に行くことができずに残念です)/新堂睦子 10,000円 2017年度通信費  8,000円はボランティアの皆さまに敬意を表して)/萩原浩司(いつもしっかり読んでいます。長い原稿は、時に風呂に持ち込んでじっくりよみます)/花崎洋(10,000円 毎号の通信を年甲斐もなく刺激を受けつつ拝見しております。特に今回11月号の和田氏のお話しと記録には恥ずかしながら胸がふるえました)/菊池洋三/広田凱子/小泉秀樹(5,000円 下記に近況)


■地平線通信を購読して丁度1年になります。昨年の日本冒険フォーラムで「地平線通信のバックナンバー」や「地平線の旅人たち」をいただき、地平線会議のユニークな活動を初めて知りました。ここはまさに“日本人の才知と行動力を発揮する冒険家たちの集団”という印象をもちました。4年前のフォーラムでも、植村直己冒険館から声がかかり、チャレンジャーのメッセージ展にパネルを展示していただき、明大の会場へ足を運んだのですが、このときは地平線会議のコーナーに気づかなかったことが悔やまれます。

◆ともあれ、毎月の通信はexcitingでinspiringです。あれほどのボリュームある内容を短時間で活字にするエネルギーも見事です。今月号(451号)はいつもよりページ数も多く、“わかりやすい登山”に終始している自分としては、考えさせられ、刺激的な内容でした。元気をもらいましたが、もう少し若かったらと、つい思ってしまいます。幸い、この1年余りの間に阿部雅龍さん、小松由佳さんの二人の秋田県出身者が通信に登場するのは嬉しいことです。1年分の通信費として5,000円同封します。余りはカンパです。(小泉秀樹 秋田県大仙市 年金生活者)


再びの津波警報のショック、そして相馬駅までの路線開通の喜び

■11/22(火)早朝の6時前、福島県沖を震源としたM7.4の地震が発生しました。いわき市は震度5弱。ちょうど朝食を取っている最中で、椅子から転げ落ちそうになるほどの強い横揺れでした。約30秒程で揺れは治まり、幸い物が落ちるような事も無く一安心したところ、津波警報が発令され再び緊張感が走りました。前日から両親が楢葉町の自宅に戻っていたので、直ぐに電話し怪我の有無や家屋の状況を確認した後、津波に備えて直ぐに避難出来る準備を整えておくよう伝えました。

◆自宅は海岸から約1.2kmほどしか離れてなく、5年前の震災では約500m手前で津波は止まったため津波被害は免れたのですが、今回は震源が福島県沖なので不安感が増してきました。暫くするといわき市の小名浜港の様子がテレビに映し出されました。市内の道路は避難する車で渋滞が始まり、早くもガソリンスタンドには車の長い列が出来ていました。5年前と同じ状況に震災の記憶が蘇ります。

◆そして沿岸部では高台に避難する人が、心配そうに海を見つめているシーンも写りました。幸い小名浜に出されていた3mの予想は、約60cmの津波が到達しただけで一安心です。今回の地震では特に被害等は無かったのですが、その後も軽微な地震から震度3〜4の揺れが継続しているので、引き続き十分警戒します。

◆続いては嬉しい話題です。12/10に福島県の太平洋岸を走る常磐線の「浜吉田駅」(宮城県亘理町)から「相馬駅」までの区間(約22km)が再開通しました。震災から5年9ケ月振りです。この区間は津波により駅舎が丸ごと流され、列車が折れ曲がるほどの被害を受けた「新地駅」も通ります。その当時の凄まじい写真や映像を覚えている方もおられると思います。

◆線路は約1kmほど内陸に移設され、また駅舎も高架にする等の津波対策が取られました。電車の通る風景は何故か気持ちがホッと和む気がします。私の自宅からも常磐線の電車が田んぼの中を走っていく風景を見る事が出来るのですが、2年前に楢葉町の「竜田駅」まで常磐線が再開した時は、その列車の音に日常の生活を感じたことを思い出します。今回の常磐線開通はそんな当たり前の日常にまた一歩近づいた事を感じさせる、とても嬉しい出来事でした。(渡辺哲


ことしの地平線カレンダーのタイトルは「叢猫戯画」!!

■年内にできあがるのかどうか、毎年末はらはらさせられる恒例の『地平線カレンダー』。「2017年版」は、長野亮之介画伯がやっとこさ最初の1枚目の絵(1・2月分)を描き上げたところですが、なんとかぎりぎりで報告会に間に合いそうです! 今回のタイトルは「叢猫戯画」……と聞けば、地平線のみなさんならなんとなく絵柄がイメージできるでしょうか。いつもと同じA5判横6枚組+表紙。頒布価格は500円+送料(1部120円、2部以上160円)。申し込みは地平線のWebサイトから。

画伯のひとこと

「草むらの中で擬人的な猫がいろんな事をしてる様子を描いてます。例えば猟とか、魚釣りとか、楽器演奏などです。草むらといっても現実的ではなく、空想的な草むらですが、出てくる植物は実在です」

◆地平線会議からのお知らせ◆

23日の報告会、いつもより早めにスタートします!

■2016年最後の報告会は、めでたい祝日(23日は天皇誕生日)と重なりました。せっかくの休日の地平線報告会、しかも三連休の初日とくれば、いつもは参加しにくい遠路の仲間たちのことも考えなければなりません。よしっ!いつもより早めにスタートして可能な人には恒例の「年に一度の大仕事」を手伝っていただこう、と考えました。

 「年に一度の大仕事」とは、地平線カレンダーの「初見兼封入作業」のことです。毎年どんなカレンダーが誕生するのか、は地平線にとっての重大事。その全容はこの報告会直前に初めて明かされます。出来立てほやほやのカレンダーを手にして一瞬鑑賞してもらい、次に用意された所定の袋に1セットずつ封入する仕事に参加してほしいのです。千部以下の数ですが、それでも手数が頼りの作業。可能な方は、16時30分に会場に集合してください。

 そして、報告会本番をいつもより30分早め、18時スタートとします。

 クリスマス直前ということもあり、報告会の前後、もしくは途中の中休みの時、今や地平線の伝説となりつつある「原典子さんケーキ」が登場する予定です。熱い飲み物も……、と言いたいが、それは各自に調達してもらって。

 そして、1年を締めくくる「最後の餃子・ビール大会」を21時30分から「北京」で、という予定です。(E

■会場で古い年報『地平線から』と長野亮之介画伯のイラスト告知の集大成『地平線・月世見画報』などの販売も行います。

特別レポート

“老年探検隊”なお活躍中!! ━━南チベット・ネパール報告

最新刊「ヒマラヤの東 山岳地図帳」の刊行はじめ東チベット探検の成果と世界への英文情報発信でいまや世界に知られる“老年探検隊”、中村保さん(82)と相棒の永井剛さん(84)のお二人が11月、今度は南チベットとネパールの未踏山域に踏み込んで帰国した。中村さんは、先月の通信でお知らせした通り、「ピオレドールアジア功労賞」を受賞したばかり。地平線の仲間たちに11月の旅の顛末を書いてもらった。(E)

最新刊「ヒマラヤの東 山岳地図帳」の刊行はじめ東チベット探検の成果と世界への英文情報発信でいまや世界に知られる“老年探検隊”、中村保さん(82)と相棒の永井剛さん(84)のお二人が11月、今度は南チベットとネパールの未踏山域に踏み込んで帰国した。中村さんは、先月の通信でお知らせした通り、「ピオレドールアジア功労賞」を受賞したばかり。地平線の仲間たちに11月の旅の顛末を書いてもらった。(E)

 早く解明すべき課題の山域であった。2014年秋に踏査に入ったが天候に恵まれず、許可問題もあり不完全燃焼に終わった。心残りだった。2016年秋、老年探検隊はいつもの相棒、永井剛さんと捲土重来を期し準備を進めた。インド国境に近いという理由で南チベットへの外国人規制はますます厳しくなっていたが、許可取得を前広に進めた。2014年には入れなかった垂涎の金東郷への許可は無理を押して手に入れた。詳しくは公表できないが、最終許可は公安局と人民解放軍西蔵軍区である。しかし、許可証に記載の町、郷と幹線道路から外れてはならないと厳しい条件がつけられていた。表向きは従わざるをえないが、有能なガイド、アワンの機転で成果を上げ所期の目的を達成した。

 探査の主な対象は禁断の林芝地区朗県、ヤルン・ツァンポー南岸のボボナン氷河山塊(Bobonung Glacier Scenic Area)を囲繞する6,000m峰の山塊とその東のセルリカ6,000m峰である。さらに西の加査県ヤルン・ツァンポー南岸の天を突く岩峰の山塊とヤルン・ツァンポー北岸の聖山ウォルデ・コンゲの主峰を確認することも意図した。ボボナン山塊は谷筋から姿を捉えることはたいへん難しいが、今回は連日快晴に恵まれ11月8日から12日までの短期間で探査を終えることができた。

 韓国ソウルで第11回アジア黄金のピッケル賞を受賞した直後、11月6日に四川省成都に飛んだ。成都は小生の四半世紀に亘る東チベット踏査の基点である。11月25日に帰国した。短期間だったが密度の濃い行程だった。南チベット踏査とネパール・カトマンズでの行事に参加することが目的だった。具体的には下記の順序で記すが、「辺境は今」……重点を置いて報告する。

  1.ヤルン・ツァンポー南岸の知られざる未踏峰の山塊を探る
  2.「辺境は今」ヤルン・ツァンポー峡谷──開発のパラドックス
  3.ネパール・カトマンズ:三つの国際イベント
  4.ランタン谷に入る──地震からの復興は進みつつある
  5.カトマンズ/ラサ/成都 ヒマラヤ越えゴールデンルート

 二年ぶりのチベットの発展と変貌は想像を超えていた。習近平政権のチベット族の締付と外国人規制はますます厳しくなっている。チベット自治区のチベット族はパスポートを持てない。青海、四川のチベット族に対しても同様の規制が始まっている。中国人全般にわたり腐敗撲滅の動きは加速しており下級役人にまで及んでいる。部長レベル以上の高級官僚はパスポートを政府に預けさせられていて勝手に外国には出られない。香港に行くにも政府の許可が要る。国外逃亡を防ぐためだ。チベットも例外でない。

 禁断の南チベット踏査は、外国人規制がますます厳しくなっている。日々地区と県の公安が我々の行動を監視されつつ神経を使いながらヤルン・ツァンポー南岸の未踏の山塊を踏査した。11月8日成都を出発して林芝空港に降り立つ。許可証を厳重にチェックされる。林芝地区の中心・チベット第三の都会、八一鎮で公安に届け出を済ませてから、ヤルン・ツァンポー沿いの人民解放軍の基地の町、米林に入る。

 林芝空港から米林はヒマラヤ東端の難峰ナムチャバルワ7,782m(1992年に日本山岳会・中国合同隊が初頂登)を囲繞する世界最大のキャニオン、ツァンポー大峡谷観光の入口であり、五つ星のホテルが建ち、シーズンには中国人観光客で賑わう。しかし外国人は、インドとの国境に近いという理由でオフリミットという奇妙な現象が起こっている。

 我々の踏査は米林からチベット第五の都会、澤当までの間、ヤルン・ツァンポー峡谷沿いの朗県、加査県、桑日県で許可取得が一番難しいところである。外国人の目に触れない嘗ての秘境は建設の槌音が響いている。省都ラサから八一鎮まで500kmのトンネルと橋梁で結ぶ鉄道建設とダムの建設が突貫工事で進められている。ダムは既に一つ完成、ダム湖が出現している。上流に新しいダムを建設中。峡谷は工事現場と化している。

 鉄道は東へ川蔵公路沿いに四川省の成都まで伸ばす計画である。西ではシガツェから新疆省のカシュガルまで計画されている。やがて聖山カイラス巡礼は高原鉄道で、という時代が来るかも知れない。他にも世界第二の規模の銅鉱山開発、新たな青蔵公路の高速道路などチベットの開発のスピードは驚くべきものである。

 中国経済の減速が報じられるなか、BBC放送によるとチベット自治区は年率11.2%の高成長を維持している(中国各省のなかで最大)。旺盛な公共投資がチベット発展の原動力である。ニュー・フロンティアのダイナミックな鼓動が聞こえてくる。厳しく管理統制されているチベット族だが経済的な恩恵は蒙っている。

 様変わりしつつあるヤルン・ツァンポー流域だが、チベット文化発祥の土地であり、チベット仏教寺院と歴史的事跡は多い。朗県と加査の間のダライラマ13世生誕の記念館は敬虔なチベット族の来訪が絶えない。13世の波乱万丈の生涯は心を打つ。13世以前のチベットは完全に鎖国したミステリアスな国であった。13世が初めて世界の文明を取り入れた。近代的な諸制度を導入、郵便網を整備、電話も設置した。

 しかし、1904年英国のヤングハズバンドの軍隊がラサ侵攻をした時モンゴルに6年間亡命した。記念館に飾られている肖像画は13世がお気に入りのモンゴル服の姿である。清朝のチベット侵攻の際はインドに亡命、その後もシッキムにも亡命した。清朝が亡んだ中国革命の後亡命先からラサに帰った。開明的な13世だったが54歳でこの世を去った。以上は仏教とチベットの歴史に詳しいガイド、アワンの説明である。

 ラサの都市化も急激である。区画整理された道路に車が渋滞する。高層アパートも建設も目につく。外環道路が新たに建設されている。百貨店も現代的で日本並みである。香港スタイルの大型ショッピング・モールもできている。地下1階は巨大なスーパー・マーケットで熊本とんこつラ−メンの店が流行っている。地上1階にケケンタッキー・フラドチキン、シンガポールの有名なバンの店、1〜3階はブランド店、化粧品(日本製あり)など高級店が揃っている。4階はレストラン街である。ラサ市は半数以上は漢族が住んでいるだろうが、とにかく活気があり、購買力の大きさが感じられる。

 2009年に交代した二人のガイドについても触れたい。現在のアワン、以前のタシについてである。二人とも英語は堪能であり、ガイドから事業家に転身した。二人を夕食に招待して語らった。タシは敬虔な仏教徒でタンカ(仏画)の絵師でもあった。近年、建設ブームに乗り、ラサ近郊メドコンガ郊外の巨大な銅鉱山開発の建設にかかわる下請業者となり社長業に勤しんでいる。可愛い奥さんと立派なセダンでやってきた。アワンは輸入商品ショップとレストランをポタラ宮の裏手の新開地で営業している。二人の成功は嬉しい。いいガイドに恵まれた。アワンの不満はパスポートが取れないことである。五年前まではパスポートは取れたのに、今は特別のことがない限りできないという。

 久しぶりにセラ寺にも行ってみた。問答(Debate)は盛んにやっていたが、最盛期は7,000人いた学僧の数は、今は600人弱に激減している。街中では僧侶もスマホ、運転手もスマホである。

 11月16日、南チベット踏査を終えてチベット登山協会を表敬した。チベット登山界の最高実力者、チベット自治区体育局副局長尼瑪次仁さんに先方の要望により中村の全ての著作6冊(『ヒマラヤの東山岳地図帳』ドイツ語版『Die Alpen Tibets』など)を届けるためである。残念ながら同氏は不在だったので秘書長の張明興さん(2回来日、日本の登山家に知られている)に会って本を託した。

 日本でも情報はあるが、最近中国人が大挙してネパール側からヒマラヤ8,000m峰を登りに出かけている。9月に「鼎峰探検」という中国のツアー会社がマナスル公募登山で27名を集め26名が登頂している。チョモランマ(エベレスト)、チョー・オユー、シシャパンマの8,000m峰は中国(チベット)側からも登れるが、チベット登山協会が規制をしているので、チベット側からの登山は限定的である。登山隊を扱うツアー会社はチベット登山協会傘下の「聖山探検公司」1社が独占している、登山料はネパールより高い、チベット族ガイドの使用を義務付けている、等々。

 実態を張明興秘書長に確認したところ:
  ・中国側からの登山者数を管理している。
  ・危険を回避するため、高所登山の経験を確認する書類での資格審査をしている。
  ・登山者数は年により変わるが2016年はシェルパを含め600人弱であった。

 なお、南・東チベットへのアクセス、登山許可は今のところ不可能であるが、ラサの西は外国人にオープンになっている。今年も日本の平出和也・中島健郎のペアがロインボ・カンリ7,095m北面に新ルートを開いた。英国アルパインクラブのポール・ラムスデンのチームが念青唐古拉山東峰7,046m(ラサの直ぐ北)の北壁を初登攀した。ポーランド隊はブータン・中国国境のガンカル・プンスム7,570mについで世界第二の未踏峰ラブチェ・カンIII東7,250mに挑んだ。ラサを境に東西に地政学的に大きな違いがある。 

 南チベット踏査を終え、11月17日カトマンズへ飛んだ。ネパールでの行事は三つである。主宰者はネパール登山協会会長アン・ツェリン・シェルパさんである。中村は国際会議で講演をした。テ−マは

「将来のマウンテン・パラダイス──東チベットの山々」、カンチェンジュンガ、マカルー初登頂60周年記念(Diamond Jubilee Celebrations)

アジア山岳連盟UAAAカトマンズ年次総会(日山協と労山の幹部が出席)

国際会議:登山と観光・気象変動・ネパール地震

 地震の被害が最大だったランタン谷にヘリコプターで入った。地震による崩落の跡は生々しく残っている。地震直後の状況を知らないので比較はできないが、復興は進んでいる印象を受けた。神埼忠男さん、八木原圀明さんも一緒だった。

 帰路に飛んだカトマンズ・ラサ・成都はまさに「Golden Flying Route over the Himalaya」である。欧米登山家垂涎の飛行ルートである。ヒマラヤ、シッキム、中央・南チベット、ブータン、東チベット念青唐古拉山東部、四川の山々が全て見える華麗な航路である。旅の締め括りを堪能することができた。(中村保


地平線の森

時空を超えた、旅する歴史──

昭和セピアモダン

  森田靖郎著(Kindle版)

 旅を生業(なりわい)としてきた私でも、旅の空で虚しくなることがあります。人恋しくて、そんな私を言祝(ことほ)ぐのは、居酒屋で飲む一杯のビールです。パブ、バル、タヴェルナ、ケラーそしてダイナー……ところ選ばず飛び込み、見知らぬ人と酌み交わす……。ビールの首都・ミュンヘンでは、「朝昼晩そして夜。汝はビールを飲むべし。然らずんば軽蔑されん」とありました。ビールは修道士の断食期間の貴重な栄養源だったそうです。ミュンヘン郊外にあるアンデックス修道院には醸造所がありました。明治の文豪・森鴎外が足しげく通ったのかと、『独逸日記』を読み直したいと思います。「ホフブロイ」というビアホールには、いまも常連たち専用のテーブルがあり、マイ・ジョッキが金庫に残されていました。

 ドイツ・ビール「ヘル」という銘柄に魅せられた日本人に伊藤博文がいました。伊藤は明治憲法の見本はドイツにあると、ウィーンに出向き、ビールを飲みながらシュタイン博士に教えを受けます。博士から教えを受けた伊藤は、国家を人体にたとえるという考え方に至ります。「君主を頭に見立てれば、国家を支える足は人民である。そして身体を動かす臓器が行政である」と、行政に力を入れ、権力を分散化する内閣制度を取り入れる方法を探ります。そして、初代の内閣総理大臣となり、憲法草案に取り組みます。立憲国家・日本はビール談義から始まったのか……。

 モノ書きで生きていこうと決めたとき、「自分の生きた時代だけは書き残そう」と腹をくくりました。「昭和史」という重いテーマに取り組んだのは、3.11後です。人間の手に負えない何かに支配されている。それは文明ではないだろうかと……。時は文明末です。既成の文明と新たな文明の衝突期に遭遇した同時代人には、なにが起こっても不思議ではありません。天変地異が起こり、地震、津波、火山の噴火など自然災害、異常気象に見舞われ、疫病が蔓延し、民族移動や動乱、内戦、テロ、戦争といった政治的暴力などが人類に襲いかかり、さまざまな試練に出くわします。新たな文明の生みの苦しみなのか、文明を弄んだ人類への警告なのか……。

 『昭和セピアモダン』─TOKYO改造計画─を書き終えるまで数年の歳月を要しました。

 その校了後、付け足したのは「結果」でした。「結果」とはアメリカ大統領選挙です。イギリスのEU離脱の国民投票でも、離脱派が勝利すると予測していました。アメリカの新大統領はトランプだと、早い段階から確信していました。「結果」には「原因」がありました。ルネサンス以来、人類の繁栄をまっしぐらに走り続けてきた西の文明、その成長も70年代以降停滞し続け、「見えない不安」が「異変」を誘発しました。さしずめアメリカ文明が賞味期限を迎えている文明末の時代、資本主義、民主主義もまた延命へともがき続けています。「覇権主義」から「一国主義」へと、さまざまなトランプ現象を生み出した「原因」は、文明の交代期をいっそう加速しつつあります。

 文明トレンド説によれば、次なる文明は東へ移ります。西から東へ、大きな歴史の転換期であることは間違いないと思います。文明が東へ移るということは、覇権や繁栄だけではありません。問題や課題の焦点も東へ移るということです。「核兵器のない世界」「地球温暖化」そしてグローバリズムによって生み出された「巨大な格差」にどのように立ち向かっていくのか。アメリカの陰に隠れず、アメリカ文明に代わる「見えざる手」があるのか……、歴史に聞くしかありません。

 私の歴史テーマは「原因と結果は一致する」です。昭和史の現場を歩きながら、「結果」から「原因」を探り、「原因と結果は一致する」に何度となく頷いたことか。

 歴史をたどれば、大事件の前には必ず小事件が起こっています。ゆっくりと時間をかけ、しかも連鎖的に事件は準備されています。事件の陰には、いくつもの原因が隠されています。それがまとまると、大事件(結果)として歴史になるのです。事件の前兆を見極め、次なる事件の火種を探りながら、都市改造を繰り返してきた「この国の原因と結果」を見直す、その手法として、「プレ昭和」「昭和モダン」そして「ポスト昭和モダン」と時代を三つに区切り、時代の終わりと始まりにはなくてはならない都市改造の現場をたどり、時代を浮き彫りにさせてみました。

 とりわけ「ポスト昭和モダン」は、近代日本史上もっとも大きな都市改造・戦後レジームが形成されています。「20世紀を生きてきた私たちが、いかにして21世紀を生き抜くか」そのカギは昭和モダンにあります。

 昭和史をたどり、わかったこと……。この国のあり方です。日米安保、憲法改正、原発再稼働そして地球温暖化……、「お前ならどうする?」と突き付けられ、「自分たちの国の現実」と向き合い、「この国のあり方」を考えさせられました。

 先人の言葉に、「一人前になるには、歴史をやれ、旅をしろ」と……。一人前をめざして歴史の現場を歩きながら、同時に「自分のあり方」を見つめた自分史でもあります。だれにもそれぞれの昭和史があります。ヒトだけではなく、街やモノ、時代の空気にも……。

 2020TOKYOオリンピックは、新たな地平の始まりです。その原風景『昭和セピアモダン』を読み、それぞれの昭和史を思い浮かべてください。(森田靖郎


今月の窓

捕まるなよ

■12月の声を聞くと、とたんに1年を振り返る番組ばかりになって、テレビの前で「知恵がねえなァ」などと、言ってしまうのもまた、年中行事。その日のニュースも流行語大賞の話題で持ちきりだった。広島出身で、カープに肩入れする僕が言うのもおかしなことだが、「神ってる」の大賞受賞は、やはりヘンな感じがするもので、2016年をこんな言葉で表現していいものかと思った。神がいれば日ハムの逆転日本一は……という愚痴では、もちろんない。

◆テレビ画面の「神」という文字を見ていると、9月の報告者、戦場ジャーナリストの桜木武史さんのことをふと思った。彼から「トルコ行き」の話を聞いたのは11月、日本人ジャーナリストがイラクで拘束された直後のことだった。すでに当局に目をつけられている彼らは、最近ではトルコに入国することすら難しく、入管での門前払いを避けるため、ギリシャ経由で現地に向かうのだという。

◆僕は「捕まるなよ」「シリアには入らないほうがいいんじゃないの」と、型通りの声を掛け、彼もまた笑いながら「今回はトルコでシリアから逃れた友人たちに会いに行くだけですから」と言っていたが、タイミングさえ合えば、彼がシリアに入るであろうことは、何となく確信していた。果たして12月1日、彼のフェイスブックに、アラビア語でこんな書き込みがなされた。

◆〈私はアンティオキアにいます。 私の友人がここに住んで、私にメッセージをください。私はあなたの村を訪れたいが、私にとっては辛いです。これは私の最後のチャンスは私の友人に会いに。 私はシリアの愛。武史〉(自動翻訳) かつてのシリア領、トルコのアンタキヤでシリアの友人の手引きを待っているのだろう。その後の書き込みは途絶えたままだ。

◆2016年ひたすら「神」を信じてきた人たちが、あいかわらず無慈悲に殺され続ける一方で、「神」に熱狂するアメリカはトランプ大統領を選び出した。そして「神さま」の数ではどこにも負けない日本では野球を見ながら「神ってる」と叫んで興奮している。べつに日本が能天気というつもりはない。事実、「保育園落ちた日本死ね」という言葉もまた「流行語」に選ばれるくらいで、そこには、ただひたすらに生きにくさ、息苦しさばかりが強調される社会がある。でも本当に生きにくいか、息苦しいか…と突き詰めると、実はそうでもなかったりもする。それは地平線の報告会でしばしば感じることである。

◆今年もいろんな話を聞かせてもらった。いつ雪崩や落石が襲ってくるか分からない痺れる登攀、実弾を掻い潜る戦場、息苦しさなら8000メートルの方がずっとしんどいはずだという極限の世界はともかくも、自然に身を委ねて暮らせば、都会の快適さは得られない。1月の報告者、石井洋子さんに触発されてロケットストーブを作り、その性能に驚いたものの、これで日常をまかなう根性は僕にはない。本来なら、報告者の方がずっと生きにくく、時に絶望的な瞬間を味わっているはずなのに、なんだろうこの感覚。絶望とは縁遠い、それどころか時おり飄々とした雰囲気を漂わせて、妙な安定感を見せてくれる。

◆今でもそうかもしれないけど、冒険やら探検は、しばしば道楽とか現実逃避と言われてきた。かく言う僕も大学時代までは、山の世界に首まで浸かっていて、卒業さえしたら頭までどっぷり浸かろうと企んでいた。ところが、親に「何のために大学にやったんだ」「現実逃避も程にしろ」と叱られて、結局サラリーマンになってしまった。その程度の意志と言われればそれまでだが、僕にとっては「現実逃避」という言葉は結構こたえ、特に“逃避”の響きは、何度目かの反抗期だった僕を焚き付けるにはちょうど良かった。おかげで今や三児のオヤジだ。

◆とはともかくも、生活はおろか命の保証もない「冒険の世界」と「普通の生活」と、どちらが安定しているかと問われれば、明らかだろう。なのに不平不満が出てくるのは圧倒的に「普通の生活」からの方が多いのはナゼなのか。こんなことを考えてみた。

◆今から十数年前、イラクで武装勢力に拘束された3人の日本人がいた。彼らの救出を巡っては、当時「自己責任」という言葉がずいぶん取り沙汰されたけど、今、「自己責任」という言葉の適用範囲はもっと広くなっているような気がする。「保育園落ちた…」しかり、職にあぶれた、年を取った、病気になった…全部が「自己責任」の世の中だ。でもって自分ではどうしようもないから、致し方なく「神」やら「国」のせいにしてしまう。

◆もちろん国の無策や怠慢を擁護する気なんてサラサラないが、ロクな社会保障のなかった昔は、老いや病、生も死も自分たちで始末しなければならず、愚痴をこぼしながらも、どうにか凌いできたとは、爺さん婆さんから散々聞かされた。「そんなもんツバつけときゃ治る」と。

◆10月の報告者の和田城志さんは、しきりに「身体性」という言葉を口にした。何ごとに頼るでもなく、まずは自らの身体でコトにあたれというメッセージに、目標や結果、ましてや記録でもない、冒険や探検の根っこを垣間見た。頼るべきは自分のみであると腹を括ってしまえば、あとはいかに楽しく生きるかなのだろう。

◆地平線には一風変わっていて、ときに危うさを見せることもあるけど、全部をひっくるめて楽しみ方を熟知した人たちがいる。“逃避”なんかじゃないから、飄々と、堂々と、そこに立っていられる。と、ゴタクを並べ始めると堕落した「身体性」をついに失ってしまいそうなので、このあたりでやめにして、ただ今は、桜木さんと交わした「帰ってきたらゆっくり飲もうぜ」という約束を果たす日のことを思ってみる。(竹中宏 編集者)


あとがき

■2016年最後の地平線通信を送ります。はじめに、先月の通信で2か所訂正があります。まず、和田城志さんが東京の報告会場へ自転車で向かうくだり。6ページの最後から7ページの冒頭部分がつながっていませんでした。10月26日の日記です。「…佐久臼田で日没になった。同い年のママがやっている居酒屋でたらふく飲んだ。函館出身、嫁いで今は農家と居酒屋、烏賊飯がおいしかった。客は(誰も来ず、看板まで飲んで、千曲川の橋の下でご)ろ寝した。」の()内の言葉が抜けていました。お詫びして修正します。

◆12ページの「ラテンもつらいよ! 南半球逃亡潜伏日記・改訂版」最後のパラグラフの後半に「マスコミも一応は追及している彼の地の現状が羨ましく」のくだりが落ちていました。「南米各国で左派政権が域内勢力を増してきた反動か、米国とキューバの手打ちやブラジルの大統領訴追あたりからだいぶ風向きが変わってきたのは事実だろう。といっても、検察が一応は仕事をしつつ、司法が一応は機能し、マスコミも一応は追及している彼の地の現状が羨ましく見えてくるのが情けない」となります。

◆ところで、表紙の題字、わかりますか?わかるわけないよね。「遠くから来る便り」、というような意味のサモア語らしい。「地平線」という言葉がすぐ出てこなかったので長野亮之介画伯がひねり出した画伯語で「地平線通信」のことです。いつもながら画伯の挑戦心に敬服。年賀状、ことしも欠礼します。頂くのは歓迎です。(江本嘉伸


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

星に牽(ひ)かれて乱海を渡る

  • 12月23日(金) 18:30〜21:00 500円
  • 於:新宿スポーツセンター 2F大会議室

「すごい船酔いと四六時中体が濡れてる状態にようやく慣れたのは、出航後4週間経ってからでしたねー」というのは光菅(こうすげ)修さん(40)。今年3月〜5月にかけ、ポリネシアの伝統的な航海術、スターナビゲーションを使った69日間の旅を経験しました。

有名な伝承者のマウ・ピアイルグ氏の息子であるセサリオ船長のもと、パラオ人2名、ミクロネシア人3名、米国人1名、日本人2名、計10名のクルーの一員となった光菅さんでしたが、船上生活は全くの初心者でした。

'06、'07、'13年と、今回の航海船双胴の大型カヌー、マイス号の制作を手伝ったり試乗した関係から思いがけず乗り込んだものの、長い海上生活も初めてなら、船上作業もその場で習い、その上嵐のために日程も全く読めず、勤め人の光菅さんの運命や、如何に?!

「嵐の中、クルーの一人が海に落ちたのを見たとき、死を感じました」という光菅さんに、南太平洋の旅を語って頂きます。


地平線通信 452号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2016年12月14日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方


地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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