2017年2月の地平線通信

2月の地平線通信・454号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

2月8日。東京の最高気温は10℃の予想。風もおさまり、穏やかな日だ。しかし、まもなく寒波が来るらしい。トランプ政権がやたらに大統領令を連発し、世界を震撼させているアメリカ、東京では、千代田区長選で小池都知事応援する現職が75才の年寄りに関わらず圧勝、自民党議員が知事に擦り寄る奇妙な動きが続いている。

◆カナダでは、1600キロの長距離犬ぞりレース、ユーコン・クエストが始まっている。我らが本多有香さんも犬たちと奮闘中だ。今回が6回目、過去2回は完走している。ともかく出走21チームの中で「ルーキー」ではなく「ベテラン」とはっきり区別されている。新潟で育ち、岩手で学んだ女子がいまやカナダの犬ぞりレースの“常連”であることはすごいことだ。

◆天候はやや不安定らしい。「気温が1週間おきにヨーヨー並みに上下しています。−10度が続いたとおもったら−30度が続きます。変です」と出走少し前に知らせてきた。日本では網膜が剥がれて苦戦している年寄りがいるが、カナダの犬たちも“老い”と戦っている。「チームはリーダーたちの老齢化で、不安はあります。メインリーダーだったジョーカーがリタイアしてしまったのが大きいです。みんな7、8歳で、クエストは最後です」

◆1600キロという信じられない距離を走るのだから、体力旺盛な5、6才ぐらいが強いのだろう。「来年からは子犬達中心に中距離レースに出る事になります。最後にふさわしく老犬たちと楽しみたいです」きょう8日現在、有香さんは9位につけている。犬たちは1頭はずして目下13頭。ペリークロッシングという中継地で6時間休ませ、中間地点のドーソンに飛び出して行った。

◆私の左目の網膜剥離は、ようやく落ち着いてきた。目の中にもうひとつの丸いガラスのようなものができ、それが1か月かけてゆっくりゆっくり小さくなってゆき、つい3日前に消えた。そろそろ運動を再開してもいい頃かな? ドクターに聞いてみよう。

◆激しい運動は避けているが、実は書く仕事が重なって目はどちらかというと酷使している。きのうも今日もまもなく出来上がる『新編・西蔵漂泊』という文庫本の最後のチェックに追われつつ、この通信をつくる作業を平行させている。文庫本自体はかなり手直ししたので新しいものに生まれ変わりそうで楽しみだ。明治から昭和にかけてチベットに自分の足で入った10人の日本人の軌跡を追った記録。単行本ができた23年前、この上下2冊の本を高く評価してくれた司馬遼太郎さんのことばも今回は「あとがき」で紹介させてもらった。

◆先週末、また立山まで行った。登山ではなく、そこにある国立登山研修所での取材が目的である。研修所の入り口手前に5、60メートルほどの坂がある。傾斜はゆるやかだが、昼間融けた雪が凍りつく夜はツルツルになり、激しく転倒する可能性がある。慎重を期してほぼ新品の軽登山靴を履いていったら、さすが、フリクションが利いて安全だった。皆さん、凍った道は大げさに装備して歩きましょう。

◆50年前、ここに国立登山研修所ができた当時を知る地元芦峅寺のガイド、研修所の初期の職員の皆さんから聞くことが今回の仕事だ。2日にわたり、インタビューしたが、当事者からじかに聞く話は実に面白い。第1回南極観測で設営を目的に派遣された「芦峅寺の5人衆」と呼ばれたベテランガイドの一人にも会うことができたが、あの時はタロ、ジロなど取り残されたあの樺太犬を世話する仕事もした、と聞いてジンとする。もっとこういう人たちの話を取材しておかねば、という気持ちが強まった。

◆帰京して芦峅寺の話を賀曽利隆にすると、なんと「あそこは僕の仕事の原点ですよお!」と電話の声が高くなった。1976年8月に出た「あるく みる きく 114号」は『常願寺川ー立山信仰の源へ』という特集で、書き手は当時27才だった賀曽利。「宮本常一先生にこのテーマをやれ、と言われて」。「芦峅寺をぶらぶらと…」「おじいさんは元仲語(立山参拝者の案内人)」などの見出しで青年の旅の文章が綴られている。アフリカはじめ海外しか知らなかった賀曽利青年が日本を歩いて書く仕事のスタートだという。不思議な縁だ。(江本嘉伸


先月の報告会から

風神雷神アイルランドを行く!!

杉田明日香

2017年1月29日 新宿区スポーツセンター

■第454回、今年一発目となる地平線会議報告者は、アイルランドで開催されたアドベンチャーレース「Itera Expedition Race IRELAND 2016」への参加を果たした杉田明日香さんだ。アドベンチャーレースとは、山、川、海、洞窟といった大自然を舞台に、あらゆる冒険技術を駆使しながらゴールを目指すレース競技。特徴は、1班4人で数日間行動を共にするチームレースというところにある。

◆コースなど競技の詳しい内容は事前に公開されることなく、スタート前に発表される。自然をフィールドに行われるこの競技では、気象などあらゆる条件に左右されることからレース中の急なコース変更も珍しくない。個人の技術や体力にとどまらず、そのさらに上の次元にあるものが求められる。そんな世界の大会に、思い立ってから5年、アウトドア経験ゼロからの参加を実現してしまった明日香さん。たったの5年、されど5年。目標は世界。強い熱意と根気がなければ達成し得なかっただろう。無論「やってみた」という次元ではない。そんな彼女から、一体どんなお話が聞けるのか。

 

◆いつのまにやら“スーパー・ストイック・アスリート”の明日香さんを想像していた私は、登場した彼女の女性らしいワンピース姿に意表を突かれた。華奢できれいなお姉さん、という印象。どうやら報告会の前には結婚式に出席されていたのだとか。だがそれにしても彼女から「アドベンチャーレース」なんてゴツいワードを連想するには難しかった。雰囲気も気さくで朗らかで、報告者と聴衆という線引きを感じさせない親しみやすさ。 

◆明日香さんは報告が始まるやいなや、こんなことを言った。「始めて5年で世界の大会に出たことは「すごい」ことではなくて、その時その時を純粋に楽しんだ結果だと思っています」。これを聞いてハッとしたのは私だけだろうか。アドベンチャーレース、世界大会……。眩しい言葉に惑わされていた先入観を取り払ってくれたのが、この一言だった。

◆ 明日香さんの報告はアドベンチャーレースを軸に、ひとつの大きな「主題」を表現していた。それは日々出会う「あ、うれしい!」の気持ち。「「あ、うれしい!」を集める人生を歩みたい」と語る彼女は、慌ただしい日常の中ではつい見逃してしまうような、小さな幸せを拾い上げることを惜しまない。それは春の夜の匂い、鯉のぼりのお腹、感動した俳句……。数えきれないほどの「うれしい」瞬間を、報告の中で紹介してくれた。その直感こそが彼女をアドベンチャーレースへと導き、そこでまたたくさんの「あ、うれしい!」を発見したという。

◆明日香さんは興奮を含んだ口調で生き生きと語る。「この瞬間、たまらなく好きなんです!」彼女が国際大会と出会ったのは、アドベンチャーレースの世界にいざ踏み込んで間もないころ。きっかけは「鋸山アドベンチャーフェスタ」というイベントの中で観た、ある海外レース報告会の映像だったという。ボロボロになりながらも、チーム4人で互いに支え合い、荒々しい自然を駆け抜ける選手たちの姿。大自然の中に、彼らだけがポツンと映る風景。その映像に惹かれると同時に、明日香さんは自身の奥底から沸き立つ熱いエネルギーを感じたという。「次の瞬間、『私も国際大会に出る!』とこの時に決めていたのだと思います」

◆明日香さんはアドベンチャーレースを共にした仲間の存在を強調する。レースに参加するためにはまず、3人のメンバーを探さなくてはならなかった。彼女はその時も、スキルの高さや体力は二の次で、何より「この人と一緒に出たい!」という第六感を頼りにしたそうだ。このレースでは自分と相手の得意や苦手を、補い合い、認め合わなければうまくいかない。でも仲間と一緒なら、自分の限界も一緒に乗り越えることができる。

◆そのよろこびは、アドベンチャーレースだけのものではない。普段は特別支援学級のお仕事に携わっているという明日香さん。聞くことや話すことが苦手な子供たちと向き合う中で、日頃からそうしたよろこびに出会うのだという。「自分はこれが苦手だけど、あれならできる」子供たちと話し合いながら、すき・きらい、にがて・とくいを通して、自分はどんな人間なのかを考える。その過程は人と人が支え合って生きるための第一歩だ。

◆自分を知ることと同じように、相手のことも知る。力を合わせれば、どんな可能性も広げていける。彼女曰く、アドベンチャーレースにもそうした魅力を感じるのだとか。そしてそれこそが、彼女にとってレースのもっとも楽しい要素なのだそうだ。そんな明日香さんは、メンバーと初めての顔合わせで早速「〇〇さんのこと教えてねワークシート」というものを用意した。お互いを知るきっかけを自らつくったのだという。

◆メンバーも集まったところで、本番までのこり4か月とすこし。メンバーそれぞれが社会人ということもあって、思うように時間を取ることはできない。4人揃って山で練習できたのはなんとたったの一度だけ。あとは各自の自主練習にお任せだったというから驚きだ。レースで重要になるカヤックは、当時さらに厳しい状況だった。チーム4人ともパドリング経験がほとんどないにもかかわらず、本番のレースでは海や川を135km漕ぎ切ることが要求されていた。

◆転機は、横浜金沢カヌークラブの高須賀吾朗先生との出会い。高須賀先生は、チーム風神雷神の「監督」と言えるほどの、欠かせない存在になった。初めてカヤックに挑戦した日には、乗った瞬間に「沈」をしたチームメンバー。しかし毎週末、海で練習を重ねるうちに、6月には荒波や強風の中で14kmの距離を漕ぐことができるようになった。レスキュー方法やペアでの操法までみっちり教わり、ついに迎えた本番。計582km、5日間ノンストップの冒険が始まる。

◆レース1日目、初っ端カヤックで海を行く55kmのコース。強風、高波に煽られて、艇はなかなか進まない。悪天候により距離が短縮されることになり、大自然の有為転変に翻弄されるレースを味わう。続くステージも、湖と川を行くカヤックのコース。転覆にも屈せずうねる荒波を越えながら、水上で2日目を迎える。およそ35kmの距離を漕ぐのに18時間を要した。残念だがここではステージをスキップすることになった。全コースを完走した海外のトップチームは、このステージを丸1日以上かけて漕ぎきったそうだ。トンデモナイ。

◆3日目の深夜、マウンテンバイクに乗り換え、ケイビングが待ち構える洞窟へ向かう。ただでさえ寒い洞内を、膝ぐらいまで水に浸かりながら歩くシーンもあったという。洞窟を脱出し、再びマウンテンバイクで立ち込める濃霧を切りながら進む。4日目に突入する直前、マウンテンバイクを1日ひたすら漕いだところで、またもやコース変更。距離が追加され、そこからさらに100kmを漕ぐことになる。

◆ときにガソリンスタンドの脇やビルの隙間、道端で倒れこむように眠り、ときに90年代メドレーを歌いながら漕ぎ進む……。マウンテンバイクのセクション、続くトレッキングのセクションを終え、やっと一息ついたのは大雨の降る5日目の夜1時。ここでは時間合わせのために12時間待機した。レースのラストは、13kmのカヌーコースで円満に締めくくられる!と思いきや……。

◆ゴールまで残り2km、橋の下の波打つポイントで華麗に沈。ここまでのレースを記録したカメラは湖の底へ消えた(写真は全てこの一台に収めていた)。それから明日香さんはカヌーをこげなくなるほどの悲しみに打たれながら、5日間と3時間というタイムでゴール。号泣の涙は、カメラを失った悔しさの涙だった。こんなオチってあるだろうか。それでも、レース初めての快晴の空の下、念願のゴールはさぞ素晴らしいものだったにちがいない。レースを終えた4人の集合写真は、爽快なほどに弾ける笑顔だ。

◆チーム風神雷神にとって、カヤック技術を叩き込んでくれた高須賀さんの存在を語らずには終われない。「あなたたちのカヤックスキルを短期間で向上させ、アイルランドの海を漕げるようになること。これは、私自身の挑戦でもあるんだよ」という高須賀さんの言葉に、胸がいっぱいになった明日香さん。風神雷神は4人でレースをしていたのではなくて、高須賀さんもチームの一員だったのだと振り返る。高須賀さんは本番のレース中も、チーム風神雷神のGPSトラッキングをハラハラしながら見守っていたそう。

◆ 「いつかスポーツの国際大会に出て、ゴールで日の丸を掲げて写真を撮りたい!」遡ること約15年、中学生の明日香さんが抱いた夢だ。そして昨年、レースの前夜の明日香さんは、自分が今まさにその「夢」を叶えようとしていることに気付きハッとしたという。自身の中に芽生える感情をひとつひとつ拾い上げてきた彼女は、いつかの大きな夢と思いがけぬ再会を果たしたのだった。いつの間にかその夢が、目の前でひとつのカタチになろうとしている。固執だとか意地は、そこにはない。描いたまんまの夢。なんてすてきな体験だろうとわたしは想像した。それにしても、夢を叶える瞬間に立ち会うって一体どんな感覚なのだろう。

◆最後にわたしのことを少しばかり綴らせてもらいたい。今回こうして見開きのレポートを担当させていただいたのだが、じつは地平線会議に参加したのは2回目の新人だ。この春大学2年生になるわたしは、ほんの1年前は受験勉強に打ち込む1人の女子高生だった。夢中になれたものと言ったら、今通う大学へ進学するための受験勉強ぐらい。吹奏楽部で青春を謳歌したあとで、大学では早大探検部に入部するだなんて微塵も思わなかったし、こうして地平線会議という場に夢中になる自分を想像したことすらなかった。

◆しかし今、わたしが探検部や地平線会議に夢中になるのは、これまでずっと遠くにあった広い広い世界を近くに感じることができるからだ。どの報告も、結局は自分へと繋がっていく気がするのだ。背中を押される気がするのだ。出会う人出会う人の背景に、私の知らない世界が広がっている。それを感じるのがたまらない。

◆将来なにしたいのとか、就職どうするのだとか、堅苦しい質問が飛び交う中で純粋に惹かれるものといったら、小さい頃に図鑑や画面の中にみた地球を直に感じることぐらいだった。1万人を超える新入生が入り乱れる中で「探検部」という場を見つけた時、「ここでなら夢で終わらないよ」と囁かれたような気がした。ドキドキした。

◆なぜこんなことを語るのか。それは明日香さんの報告を聞きながら、見つけたこの環境でこの先もずっと夢を膨らませていけたら、叶えることができたら、と思ったからだ。まだ何者でもないわたしは、夢だってもっと自由に構想していいんじゃないかと思い始めている。なんだってできる気がする。明日香さんがアドベンチャーレースに感じた、ぐわーっと迫る熱いエネルギーを、わたしは探検部と地平線という場所そのものに感じている。

◆これからわたしは何を仕出かすだろうか。膨らむ期待と構想を胸に、また覗きに来よう。(下川知恵 早大探検部1年 19才)


報告者のひとこと

『あ、うれしい!』がいっぱい!!

アドベンチャーレースの報告を終えて

■2017年、1月30日。AM1時。「これからの人生も『あ、うれしい!!』を探し続けたい。」「やりたいことをやるだけだ」。地平線会議での報告を終えて、家への道をポテポテと歩きながら、私の心はそう言っていた。報告会後、素敵な感想やご助言、ありがとうございました! ある人の「あなたは、実は匂いに敏感なんじゃないかな?」との一言から、「香り談義」になったことで、新たな気づきを得ることもできました。私はとってもとっても嬉しいです!

◆報告会の中で、風雨激しい中MTBで走っている選手の映像を流しながら「こういう所(荒々しい崖っぷちの所)を、選手4人で進んでいる姿、かっこよいですよね!私はこういう映像、大好きなんです!」という話をしていた時のこと。地平線会議の代表の江本さんに、こんな質問をされた。「あなたは、どっちが好きなの? “この風景の中に、選手として自分がいる時”と、“この風景の中にいる選手4人を、外から見ている時”と」という質問。私は「どっちだろう??」と自分の心に問いかけた。その場では、「どっちも好きです。」というような曖昧な返答をしたが、報告会からの帰り道、その問いかけの答えを考えていた。

◆私の答えは、こうだ。「やっぱり、どっちも好きです」。選手としてその風景の中に入り込んだ時には、その場の香り、風、色、音、空気感、、、そういったものをリアルに身体の五感(ときには第六感も)で感じられるから、好きだ。その“リアル”こそが私にとっての生きがいだ。「あ、うれしい!」の瞬間ともいえる。最高に幸せな時間なのだ。

◆選手4人を外からみている時は、「こんなどーんという大きな風景の中に、4人の選手が今、この瞬間に生きている」ということを感じられるから、好きだ。私は、果てしない地球の大きさと人の小ささとの余白の中に、時間の繋がりを感じることがある。初めてみる風景なのに、どこか懐かしくて、胸がきゅーっとなる。そんな瞬間は、運命を感じちゃうのだ。アドベンチャーレースの現場も、写真や映像も、そんな魅力が詰まっている。

◆これからやりたいこと。アドベンチャー・スペース(仮名称)を創りたい。いろんな分野の人たちで創る、場(リアルもインターネットも)を創りたいと考えている。現在、絶賛構想中。他にもやりたいことはいっぱいあるが、全部やろうと決めている。「あ、うれしい!」がいっぱい!! そんな人生にしたいのです!!【Adventure Race Team 風神雷神】キャプテン:杉田明日香

地図が読めるとどんな良いことがあるのでしょうか?

★以下は、明日香チームのナビゲーターで、会場では発言する時間がなかった武井さんからの「地図読み」についての寄稿です。

◆山で道迷い遭難しない。目的地までの距離と時間が正確にわかる。街でスムーズに目的地に着ける。などなどいろいろな良いことがあります。そして、私が1つ回答するなら、「アドベンチャーレースで勝てるチャンスを高めることができる」と答えます。

◆アドベンチャーレースはチームスポーツです。チームの中で地図を読む人を「ナビゲーター」といいます。私は風神雷神というチームにおいてナビゲーターをしています。アドベンチャーレースでは、地図をうまく読むことで、競技時間が短くなり、結果としてより良い順位を獲得することができます。

◆アドベンチャーレースは地図に記載された複数の場所(ポイント)を順番にいかに早く通ってゴールするのかを競います。しかし、ポイントの位置は地図に記載されていても、ポイントまでのルートは地図には記載されていません。つまりポイントまでの行き方は自由なのです。そこで重要なのが地図を読む力、「読図力」になります。ナビゲーターはポイントまでのルートを計画し、そのルート通りにチームをポイントまで導きます。ナビゲーターの読図力によってチーム行動が決まるため、成績も左右されます。

◆例えば、体力はあるが読図力がいまいちなAチームと体力がそこそこだが読図力は高いBチームが競った場合、Bチームが勝つことが多いです。Aチームは地図を読んでも迷ってしまい、行ったり来たりしているうちに体力と時間をどんどん使ってしまいます。しかし、Bチームは的確な読図により、最短のルートを通って、最小限の体力と時間でゴールすることができます。

◆このように地図が読めると、アドベンチャーレースで勝てるチャンスを高めることができるのです。体力だけでなく、頭脳(読図)も使うのが、アドベンチャーレースの面白いところだと、私は思います。

◆ぜひ、アドベンチャーレースに少しでも興味があるという方は、挑戦してみてください!! お待ちしています!【Adventure Race Team 風神雷神】ナビゲーター:武井正幸 (たけぷー)ブログ:たけぷー雑記帳(http://takepu.info


地平線ポストから

安静の年寄りを捨てて ハチドリ、ヤドクガエル、ハキリアリたちの世界へ…

■昨年暮れ、信州の某低山を歩いた際のこと。山道のうっすら積もった雪が固くしまっていた部分で、同行の「ご老人」はすってんすってん転びまくり。「うむ、この靴がまずいのじゃ。底がすりへっておるでのお」。古い靴でよかった。すべては靴のせいですとも!(地平線通信453号フロント原稿参照)

◆帰宅後、「目がかすむ」とおっしゃる。その症状はもしや、衝撃、振動で起きるというモーマクハクリ?正月明け早々の眼科処置でめでたく「落ちかけた目の鱗」を戻したものの、さて、旅立つ予定の私はどうしたものか? でも、結局は「安静を要する」ご老人の手術翌朝、発ってしまいました。コスタリカへ! だって、長く夢見た南国の楽園ですよ! 木、花、鳥、虫、獣がいっぱいの! 「いいわ、あなたのために諦める……」と善い人ぶって、この先、10年、ことあるごとに「こすたりか〜」と恨み節を言うよりは、お互いのためじゃ!

◆と、こんな顛末で勇躍赴いた中米の熱帯雨林。乾期で快適、のはずが、「天候不順で」豪雨の日々。同行9人のほとんどが、環境省のレインジャーOBやNHKの自然担当者でフィールドになれていたのが不幸中の幸いか。チャーターした小型バスで、いくつかの公立や民営の自然公園を回りました。広さは北海道ほど。紛争の多い中南米では落ち着いた農業・観光の国で、熱帯雨林とその間に拓いたコーヒーやバナナ、カカオの果樹園が広がります。国の構えとして、「常備軍を持たぬ」(朝鮮戦争への参加拒否がそのきっかけになったそうな。

◆ただ、自衛のための非常時徴兵制度あり)ことで、GNPの6%を教育にあてて、国公立教育機関はすべて無料、子供の医療費も12歳まではただ、って、なんか「ユートピア感」がありますよね。国を挙げて自然観光を売りにしてる、というのも、戦略としてビューティフルに思えます。

◆あちこちに、エコツアーのためのホテルが充実。たいていは森の中、平屋か二階建てのセンタービルにフロントやレストラン、ロビーを構え、客室は敷地内に小さなロッジを点在させる造りです。客は独立した「ツインベッド+バストイレ+ベランダ」に2人1組でご宿泊。レストランに出向いてビュッフェ方式でお食事。野菜や地鶏を中心にした体によさそうなメニュー。どのホテルでも似たり寄ったり、ではありますが。

◆たいてい、レストランのベランダには、鳥の餌台が置かれていて、大型のオオハシや金属光沢のフウチョウ類、ハチドリまで、初めて見る姿に興奮させられます。欧米からの自然観察ツアー客も多く、みなさん、ニコンにキャノンの長い筒。人はみな、素敵なものを見ると手中に、ではなく、カメラ中に、ゲットしたいのですね。見つめるよりシャッターを押したがる、その「新しいハンティング本能」の生態を見るのも一興でした。

◆標高1500m上の熱帯雲霧林。公園専属のネイチャーガイドと、雨具に身を固めて森の小道を歩きます。2,30mはあろうかというイチジク類、絡みつく無数のつた、とんでもない高さの幹に色鮮やかに咲く蘭の花。そして林床には見慣れない植物。自分の縮尺サイズがコロボックルになったような錯覚です。緑にとろけていくような。

◆見ものの一つはやっぱり色鮮やかなヤドクガエル類です。宿ではガイドがナイトツアーも案内してくれ、雨の森の中、程よく作られた遊歩道に沿って、「ほらそこに」と懐中電灯で示すその先、素人ではとても気づかないたたずまいで、それら魔法の生き物は赤やブルーをてらてら光らせて、確かに存在しているのでした。強く思ったのは、私たちはテレビを通して、すでに相当の「ネイチャー耳年増(目年増?)である」ということです。金と時間をかけた最近のテレビ自然番組はすごいですものね。みんなみんな、「見たことある」ものばかり。生態も、少なくとも同行連中はわかっている。ガイドの誤りを仲間内で確認したりする「や〜な客」でもありました。

◆それでも、です。あの肌にまとわりつくような湿気、鳥の声が森中に甲高くこだまするような空気の立体感、全体が緑を帯びたような重い風、雨具に当たる雨の音、等々、打たれるものがありました。映像に切り取って紹介された珍しい花や動物ではなく、「そこにいる方々」なのです。

◆同様の思いは、カリブ海に面した河口の自然公園でも。船外機(ほとんどがヤマハとスズキ)付のボートで、雨で増水した褐色の川を、森の奥までさかのぼります。あっちでもこっちでも高い高い梢にナマケモノがうずくまり、ホエザルが枝々を渡り、バシリスクが隠し絵のようにじっとこっちを見ている。みんなみんな、もう知っているお姿です。でも、この川の水量と植物の圧倒的な重量感の中、そこに「いる」ということに感嘆します。

◆ホテル近くの人々の行き交う小道で、ハキリアリの行列に遭遇したときはびっくりたまげました。こ、こんなところにいらして、いいんですかぁ? あの、あのハキリアリさまが! でも、思えば彼らは当然のこととしてそこに暮らしているんですよね。液晶の中ではない花鳥虫獣、魑魅魍魎。あの深々とした太古のままの環境で彼らに出会うこと。それがはるばる太平洋を越え、中継地アメリカの失礼な通関を経て、さらに言うなら、「安静必要な術後のご老人を放置して」あの国にたどり着いた旅の価値でありました。

◆そうそう、かの地の人々にも惹かれました。おっとりしたたたずまいで、とげとげしたものが感じられません。現地に長い日本人は「あまりに深い熱帯雨林で、貴金属が得られるわけでもない土地だから、スペインやポルトガルも、他の南米地域より執着しなかったせいじゃない?」と解説してくれました。『銃・病原菌・鉄』(ジャレル・ダイヤモンド)や『1492年』(ジャック・アタリ)、『1493年』(チャールズ・マン)など、コロンブス以後の酸鼻な征服と収奪の歴史は最近、詳細に語られるようになりましたが、コスタリカはその「主舞台」とはならなかったようです。

◆欧州人がもたらした細菌やウイルスで人口の9割近くが消失した新大陸の宿命からは逃れられなかったようですが、人々は混血して、ラテン系白人風の、短躯で胸板が厚い容姿。旅行者の目には差別もなく暮らしているように見えました。そういえば、密林を自分で開いた、と農場を見せてくれた無口な男性も、見た目は白人。自然農法を実施したいと金を貯め、土地を買い、当初3年ほどは、妻と二人、手に入れた密林にテントを張って借金を返しながら畑を作った、と言います。

◆この豪雨地帯で艱難辛苦、と見えますが、先住民の風貌を備えた妻は穏やかな笑顔。今はエコツーリズムの客たちに自分の農場でとれた野菜の伝統食を出すレストランを経営。夫はカカオなどの栽培の傍ら、敷地内の巨大な蛾やヤドクガエル、シロヘラコウモリ(すごくキュート!盗んできたかった!)などを保護しつつ客を案内する、というガイド業もしています。夫婦そろって「夢の生活ができて今は幸せ」と満足気。高価な産物がないためにかつて簒奪を逃れた小さな国が、ここだけの「自然の宝」をアピールして、今は世界で際立つ観光国家に。そんな国家の戦略と自身の生き方がみごとに重なっているんですね。

◆現地の日本人は言います。コスタリカへ来た自然好きは、カエル同様、住む人にも惹かれて、リピーターになる人が多いんですよ、と。たいへんだ、惚れてしまいそう。ご老人、もう転ばないでね。(北村節子

水仙忌

■1月30日は民俗学者、宮本常一先生の37回忌でした。毎年この日に縁のある方々が集まり偲ぶ会が国分寺の東福寺で行われ、参加しました。先生の故郷、山口県周防大島では宮本先生の命日を水仙忌と呼び、法要が行われているそうです。早春を告げる水仙の花が東京にも送られ遺影の横に供えられました。

◆私は宮本先生が創設された日本観光文化研究所(以下、観文研)発行の「あるくみるきく」のファンで、先生が亡くなられた後に観文研で働いていました。もう30年以上前のことです。久しぶりに段ボール箱から「あるくみるきく」を引っ張り出しました。1967年3月創刊の月刊誌は263号まで20年以上続き、毎月特集記事が組まれました。私の持っている一番古いものは1972年12月の70号。特集「私たちの旅を語る」。65歳の宮本先生と若い旅人たち(今みると錚々たるメンバー)の座談会を収録したものです。

◆この特集号で宮本先生は『私たちがいろいろ迷いながらも結局旅に期待を寄せるのは、やはりじっとしていたのでは出会えなかった、いろいろな世界やものごとに身をもって触れることができるからです。そしてそこから自分自身で何かをつかみ考えていけるからです。借物でない自分自身の確かな何かを』『自分一人の楽しみと思っている旅も、思わぬ結果を生んでいるようです。おそらく文化というものはこんなふうにして作られるものでしょう』と言っています。若い旅人へのあたたかな宮本先生のまなざしを感じます。

◆この頃、秋葉原の観文研では月1でテーマを絞って自由に旅人が話す場を提供していたのです。巻末に『1月は「地底の旅」2月は「植物の旅」3月は「川の旅」を予定、老若男女、あるチエないチエ問いません。ふところ相応のおやつを持っておいで下さい』なんて告知があります。おもしろそうですね。この流れが1979年発足の地平線会議へとつながっていくわけです。

◆高校生の私は旅に憧れて夢中になって読みました。そして20代、準備をして沖縄八重山への長い旅を終え1984年帰京してたまたま新聞の片隅に見つけた観文研の小さな求人広告。大学で民俗学を勉強したわけでもない私を採用してもらえたのは熱い思いだけだったでしょう。あらためて「あるくみるきく」は今の私の好奇心の根っこに繋がっていたことを実感します。この出会いに深く感謝し、子育てをほぼ終えた今こそ旅に出ようかなぁ〜(高世泉

★「あるくみるきく」は東和町周防大島文化交流センター内宮本常一資料館、武蔵野美術大学民俗資料室で閲覧可能です。また平成22〜24年に農文協から「あるくみるきく双書宮本常一とあるいた昭和の日本」全25巻が刊行されています。

フィデルの不在とクラウド・ファンディングでゴルゴ13を雇う件など

■フィデル・カストロ・ルス元キューバ国家評議会議長逝去に伴い、年末年始のご挨拶は自粛させていただきました。悪しからずご了解のほど、お願いいたします。

◆長年「キューバの呪い」と呼ばれる病いに摂りつかれていたが、フィデルの不在とともに症状は雲散霧消、ウソのように覚めてしまった。我がキューバ愛はフィデル愛そのものだった、ということだろうか。たったひとりの存在が50年以上に渡って国家を支配し続け、その地に暮らす人民の意志をコントロールし、その結果、世にも稀な理想を追求する国家が維持されたが、そこで暮らす住民は自らの意思を実現する機会のないまま、平等な貧困のなかに理想を見いだせずに混迷するというリアルな現実を残しただけ。

◆アメリカが滅ぶまで私は死なんぞ、と老骨に鞭打って頑張ってきたフィデルも、トラちゃん大統領誕生とともに、安心したのか生きがいを失ったのか、「あっ、では」とばかりお隠れあそばされた。フィデルは聖人として精神的に列聖され、自ら後には銅像ひとつ、通りの名前ひとつ残すことを禁じた。仏週刊誌のインタビューで自らの過ちを「資本家どもと共に私は地獄に落ち、マルクスやエンゲルス、レーニンに会うだろう。地獄の熱さなど、実現しない理想を持ち続けた苦痛に比べれば何でもない」と語っていた。

◆ひとつだけ付け加えるとすれば、コロンビア和平に果たしたキューバの役割だろう。50年以上に渡って続いた内戦では推定22万人が死亡、数万人が行方不明になり、500万人が避難民となった。コロンビア政府と左翼ゲリラ組織「コロンビア革命軍=FARC」の和平合意は、やはりフィデルのカリスマ性無しには実現せず、サントス大統領が受け取ったノーベル平和賞の金メダルの半分は、フィデルに贈られてもおかしくはなかった。

◆それより何より、よそ様の国の心配をする暇があるなら、自らの足元の際どさこそ最優先だ。長州っぽのでんでん総理が南スーダンに派遣した駆け付け警護部隊は、なぜか旧奥羽越列藩同盟方面ばかり。南スーダンの内戦も半世紀以上の歴史があり、主役のディンカ族もヌエル族もめっちゃ強い。ひ弱な朝敵部隊では歯が歯が立たないだろうが、しかしそうなると犠牲者は靖国神社に祀られるのであろうか? 加えて、今や最大の護憲勢力であらせられる今生陛下との公式晩さん会の席上で不敬なツイートをしたトラちゃん大統領が、なんてもう目が離せない近未来ですな。

◆この際、でんでん総理とゴルフをしに行く大統領専用機をイスラム国なんぞが撃墜してくれると、地球上の主要懸案事項は一挙に解決という、すばらしき展開を期待したりする今日この頃。とりあえず、クラウド・ファンディングでゴルゴ13を雇う費用を集める方が現実的だろうか? これぞまさしく共謀罪だが、言いたい放題のまま、今年のカーニバルは西アフリカのギニアビサウ方面に逃亡出撃となる。では、さらば。(ZZz-カーニバル評論家)


先月号の発送請負人

■地平線通信453号(2017年1月号)は、1月18日印刷封入し、翌19日、郵便局に引き取ってもらいました。今月も以下の方々が汗をかきに来てくれました。原稿書き、チェック、レイアウト、印刷、ページ揃え、封入、そして冊数数え、とすべて手作りの通信。皆さんの汗かきあってのものです。皆さん、ありがとうございました。
  森井祐介 車谷建太 兵頭渉 中嶋敦子 伊藤里香 下川知恵 前田庄司 武田力 江本嘉伸 光菅修 杉山貴章 籾山由紀 松澤亮


『新編・西蔵漂泊』出版記念講演会のお知らせ

■いまから23年前に刊行されて話題となった江本嘉伸さんの名著『西蔵漂泊──チベットに魅せられた十人の日本人』(上下巻/山と溪谷社)が、『新編・西蔵漂泊』として「ヤマケイ文庫」に収録されて、3月1日から発売されることになりました。この出版を記念して、3月20日(月・祝日)に江本さんの講演会が、カワチェン主催で開催されます。会場は新宿歴史博物館の講堂(東京都新宿区三栄町22/03-3359-2131)。14時〜16時。参加費1000円。定員120名。カワチェンでは、すでにネットで参加申し込みを受付けています。http://www.kawachen.org/

■また、同じ日の夕方に「出版記念パーティ」を開こうという企画も突如として立ち上がりました。会場がJR四ツ谷駅前の「主婦会館プラザエフ」ということしかまだ決まっていませんが、興味のある方は江本さんと個別に連絡をとってみてください。(丸山純


旅は、記録だ!

■2017年も早いもので2月になりました。あっというまに過ぎ去った1月ですが、みなさんはどのように過ごしましたか。ぼくは「冬もバイクの季節!」だとばかりに、バイクを走らせていました。1月1日の「初日の出ツーリング」に始まり、1月3日は「富士山一周」。御殿場を拠点にし、反時計回りで富士山を一周しました。富士五湖や朝霧高原、十里木高原ではきれいな富士山を見ました。その間では須走の富士浅間神社(東口本宮)、富士吉田の富士浅間神社(北口本宮)、富士宮の浅間大社を参拝しました。

◆1月5日は箱根です。箱根峠から芦ノ湖スカイライン→箱根スカイラインと走りましたが、芦ノ湖スカイラインの杓子峠、三国峠からはやはりきれいな富士山を見ることができました。翌1月6日も箱根。箱根峠から今度は箱根新道経由で椿ラインに入り、湯河原に下りましたが、大観山から見る富士山はすばらしいものでした。この季節は富士山を見るのには最高。1月10日は箱根峠から伊豆スカイラインに入り、伊豆半島をまわりました。

◆1月11日は山梨県の道志村です。道志川沿いの国道413号は何とか走れましたが、一歩、脇道に入るといたるところがツルンツルンのアイスバーン。そこで見事にステーンと滑り、腰を強打しました。今年の初滑り。アイスバーンで転倒すると、自分の足もツルツル滑るので、バイクを起こすのが大変なのです。それでも何とかバイクを起こすと腰の痛みに耐えて走りつづけ、最後は山伏峠を越えて山中湖畔に出ました。

◆最強寒波襲来の1月14日から1月16日までは大雪の信州を走りました。中央道の須玉ICから国道141号で野辺山峠を越えて信州に入ったのですが、時間は午前11時を過ぎているというのに気温は氷点下8度。強烈な寒さでした。佐久では路面に積もった雪が凍り、路肩の雪溜まりの中を両足ベタ着きで走りました。大雪の上田でひと晩泊り、翌日は長野から国道19号で松本へ。その間では一番、雪に降られました。

◆ボソボソと降りつづく雪の中を走りつづけたのです。ヘルメットのシールドに雪がベタッと張り付いてしまうので、左手で雪をはらい除けながら走るのですが、それでもすぐに前方が見えなくなってしまいます。そこでシールドを上げて裸眼で走ることが多くなるわけですが、雪がブスブスと目に突き刺さり、あまりの痛さに耐えかねてまたシールドを下すといった繰り返し。松本に到着したときは心底、ホッとしました。松本でひと晩泊り、塩尻峠を越えて諏訪に入ると抜けるような青空。諏訪の午前10時の気温は氷点下6度。それでも暖かく感じられるのだから不思議です。路面に雪はまったありませんでした。

◆1月21日は房総半島の「林道走破行」。三浦半島の久里浜から東京湾フェリーで内房の金谷に渡り、そこから金谷元名林道(ダート6・9キロ)→山中林道(ダート3・5キロ)→大山林道(ダート1・2キロ)→横尾林道(ダート8・7キロ)→高山林道(ダート1・5キロ)→柚の木林道(ダート6・4キロ)と6本の林道を走りつないで房総半島を横断。外房の鴨川に出ました。日本中の林道を走っている「林道の狼カソリ」なので、房総半島の林道は目の色を変えて走ってきました。

◆1月24日〜1月25日は、3月11日に出発する東北太平洋岸の「鵜ノ子岬→尻屋崎」(今回で第17回目になります)の前哨戦で、「洲崎→鵜ノ子岬」を走ってきました。房総半島西端の洲崎は東京湾と太平洋を分ける岬。そこから太平洋岸を北上し、房総半島最南端の野島崎、勝浦の八幡岬、九十九里浜が始まる太東崎と岬をめぐり、九十九里浜が尽きる飯岡の刑部岬の展望台から飯岡の町並みと飯岡漁港を見下ろしました。真っ赤な夕日が太平洋に落ちていくと、その右手の水平線上には何と富士山がチョコンと見えているのです。驚きの光景。

◆夕日が沈むと飯岡温泉「いいおか潮騒ホテル」に泊まりました。翌日は犬吠埼に寄って銚子へ。銚子からは利根川を渡って茨城県に入り、大洗、日立と通って福島県境へ。大津波で大きな被害を受けた大津漁港の復興はかなり進んでいました。そして最後に関東と東北を分ける鵜ノ子岬へ。関東側の平潟漁港は水揚げされた魚介類が仕分けされ、運びだされているところで大にぎわい。ここでは若い女性の姿を多くみかけました。東北側の勿来漁港に行くと、まったく人影はなく閑散としていました。あまりにも対照的な光景。鵜ノ子岬を後にすると、いわき勿来ICから常磐道に入り、高速道で東京に向かってバイクを走らせるのでした。

◆こうして1月もバイク旅をつづけましたが、この時期は我がバイク旅の記録の整理で忙しいのです。まずは1年間(2016年)の旅のメモ帳を見て旅した日数とバイクで走った距離を出します。昨年の旅した日数は163日で、通算すると7273日(約20年)になりました。バイクで走った距離は5万1307キロで、通算すると151万9518キロ(約地球38周)になりました。この通算の記録というのは、20歳の時に「アフリカ縦断」に旅立った1968年4月12日以降のものです。

◆旅の日数の7273日ですが、そのうちの国内の旅の日数が4075日と「4000日」を超えました。これはぼくにとってはすごくうれしいことなのです。というのは日本観光文化研究所をおつくりになった民俗学者の故宮本常一先生の、生涯をかけて日本を旅された日数が4000日だったからです。「先生、私カソリも4000日を超えましたよ」というと、「なあ、カソリ君、中身が大事じゃよ」という先生のお言葉が聞こえてくるようでした。ぼくの旅の日数が4000日を超えたのは1994年。46歳の時のことでした。その時の日本を旅した日数は1616日でした。

◆日数と距離の次は、我が旅のメインテーマである温泉と峠の記録の整理です。昨年は128湯の温泉に入り、そのうち39湯が初めての温泉なので、通算すると1927湯(2006年〜2007年の「温泉めぐり日本一周」で入った3063湯は含まれていません)になりました。ぼくの温泉のカウント方法は1温泉地1湯。この通算の記録というのは、温泉めぐりを始めた1975年2月21日以降のものです。

◆峠は153峠を越え、そのうちの11峠が初めての峠で、通算すると1688峠になりました。この通算の記録というのは峠越えを始めた1975年3月28日以降のものです。温泉も峠も、何回その温泉に入り、何回その峠を越えたかを記録しています。一番多く入っているのは福島県の木賊温泉で26回になります。一番多く越えている峠は栃木・福島県境の山王峠で37回になります。なお神奈川県伊勢原市の我が家に近い善波峠、津古久峠、土山峠、牧馬峠、御殿峠の5峠は、カウントする峠には含めていません。

◆ぼくは旅は記録だと思っています。こうして旅の記録をまとめると、自分のいままでやってきたことを振り返ることができるだけでなく、これから先も、ますます「旅をつづけたい!」という気持ちが強くなってくるのです。(賀曽利隆

白鵬関は大きいなあ…………!

■1月末に両国国技館でおこなわれた「第7回白鵬杯」。小学1年生から中学生までが5つの土俵に分かれて(2つの本土俵と3つの即席ビニール土俵)、学年ごとにトーナメント形式で横綱を目指す。はかま姿の横綱白鵬関は朝9時から夜7時までずーっと、子ども力士たちの勝負に見入っていた。5か国から集まった出場選手は1184人。国技館の土俵で偉大な横綱にじっと見つめられながら相撲をとれるなんて、わくわくドキドキの大事件! 観戦する白鵬関の表情は、真剣だったり、手を叩いてにこにこ笑ったり、くるくる変わった。

◆そんな白鵬関が唯一土俵前から消えたのは、昼休みのマスコミ向け会見のとき。白鵬杯への思い、小学2年生の部に出場する息子さんのこと、これから鳥取の中学校に入るソソルフのことなどなごやかにお話していたが、小学2年生の試合が始まりそうという連絡を受けると大慌てで土俵に戻っていった。その翌日のYahooニュースには「白鵬関“上からエール”」という記事。会見で記者から新横綱誕生についての思いを尋ねられたときの白鵬関は、私の目には静かに熱く奮い立ちながらも揺るぎない穏やかな印象で、けっして上から目線とは感じなかった。同じ日にネットで見かけた別の記事の見出しは「白鵬、初場所で“協会に恥をかかせてやる”と反発か」。横綱は大変だ……。

◆今年で開催7年目の白鵬杯は白鵬関が主催し、「競技の裾野を広げて愛する相撲を発展させたい」と、地方や海外から来る参加者の旅費を大会側で負担している。会場のあちこちで子ども力士が四股を踏み、勝った子は頬を上気させて、負けた子はお母さんの胸で泣いていた。試合後は、相撲への夢をますますふくらませてうちに帰ったのかもしれない。来年の大会に向けてまた練習をがんばるのかもしれない。大会中、白鵬関の前には色紙を抱える子どもの長い列が途切れなくて、横綱はそのすべてにサインを書いていた。この日の白鵬関は本当にのびのび楽しそうで、元旭天鵬や把瑠都などのOB力士や現役力士も大勢駆けつけ、土俵まわりは大小の力士たちの笑顔がいっぱい、大盛り上がりだった。(大西夏奈子


[通信費、カンパをありがとうございました]

■先月の通信でお知らせした後、通信費(1年2,000円です)を払ってくださったのは、以下の方々です。数年分まとめて払ってくださった方、カンパを含めてくださった方もいます。地平線会議は会員制ではないので会費は取っていません。皆さんの通信費とカンパが通信制作はじめ活動の原資です。当方のミスで万一漏れがあった場合はご面倒でも必ず江本宛てお知らせください。

 振り込みの際、通信で印象に残った文章への感想、ご自身の近況をハガキなどで江本宛て添えてくださるとありがたいです。アドレスは(メール、住所とも)最終ページにあります。

阿佐昭子(4,000円 2016・2017年分。今年から自由時間がたっぷりです。まずは地平線会議に参加して、冒険への予行演習をいたします)/平本達彦(遅くなってすみません。よろしくお願い致します)/桐原悦雄(4,000円)/北川文夫 2,000円/野元龍二(10,000円 先日、無事父の三回忌を済ませました。通信、いつも読ませてもらっています。甚蔵次男 鹿児島市)/尾浜良太(10,000円 2月1日 通信費を過去分お送りします)/原典子(毎月楽しく読ませていただいております)/加用裕紀/五十嵐宥樹

エミコさん、有香さん、屋久島から応援しています!

■地平線通信、いつもありがとうございます。世界や話題は様々なのに、どの記事にも引き込まれるものがあるから不思議です。1月号では、特にエミコさんの記事に目が止まりました。苦しい手術を何度も乗り越えて、体は本当にきついでしょう。それでもなお、生きている喜びが、まっすぐに伝わってきました。よくあきらめないで、頑張って来られたなあ……感動しました。母もエミコさんファンで気にしていたので、さっそく連絡しました。最近は報告会にはほとんど参加できなくなってしまいましたが、毎月活字からパワーをもらっています。

◆いつもパワーをもらうと言えば、まさに今、本多有香さんがユーコンクエスト挑戦まっただ中ですね! 現在(2月5日夜)ホワイトホースを出発して13時間、チェックポイントのカナダのブレイバーンを通過したようです。これから数日間にもわたるレース、有香さんは犬たちと協力して自然の中を走り抜ける喜びをたっぷり味わいながら、頑張ってくれるでしょう。今年はどんなドラマがあるか、楽しみです。屋久島から応援しています!

◆あと、久しぶりに口永良部島の続報です。島の金岳(かながたけ)小中学校、来年度はなんと6名もの山村留学生が来てくれることになりました! 主に関東からです。一昨年の噴火で知名度があがったのでしょうか。島の自然を恐ろしいと見るだけではなく、その豊かさを子どもに体験させようとする人がこんなにいるなんて、嬉しい驚きでした。来年度、島の小学校は兄妹の2人、中学校も3名だけになってしまいそうでした。でもこれでまた活気がでそうです。学校だけでなく、島の人みんなを励ましてくれる話題でした。(屋久島 新垣亜美


地平線の森

大当たり うちの嫁!

獲物山

  服部文祥著 笹倉出版 1600円+税

この本を読まない、または見ないわけにはいかない、と断定する。え? 一体どんな? という人のために、以下この本の目次をすべて露出しておこう。いま、服部文祥が到達した世界がここに表現されている、と考えるからだ。

 「はじめに」「獲物山」「トップ川遡行記」「出猟日記・山のバカンス編」「出猟日記・家族と山旅編」「殺生余禄・45頭目の鹿」「自給自足の山旅」「サバイバル登山 2016」「手を血に染めるという救済 2016.6 只見 黒谷川源流部」「物質文明からの逃走」「命影 写真家 石川竜一×登山家 服部文祥」「狩猟ー誠実なる蛮行」「出猟日記 半矢追跡編」「出猟日記 古道探訪編」「出猟日記 ある狩猟の過程」「殺生余禄 トロフィー文化を考える」「出猟日記 必然なる偶然」「ライフル取得前夜、そして現在の使用銃」「殺生余禄 狩猟鳥獣は単独猟者の夢を見るか」「天空魂 テンカラ騙し」「テンカラ釣り入門 渓の翁を訪ねて」「テンカラ釣行記 新潟県下田川内2015.6〜」

 ここまでで114ページ。案外と薄く感じられるが、実はこの本、写真を最大限贅沢に使ったムック(というのだと思う)なのだ。贅沢で内容深い本、うまい表現ではないが、「超硬派版アイドル写真集」と言えなくもない。表紙は、ターフを張ったそばで釣った魚を焼いて飯を食っている、間違いなく服部文祥のかっこいい日常なのだが、カバーを外してみなさい。なんと原野で尻丸出しのキジ打ち姿が。

 ところでタイトルの「獲物山」について、服部はこう書く。

 「食べる物を得るために野山や海で活動する。ついこのあいだまで全人類がやっていたことである。今でもほとんどすべての生物はそうして生きている。現代人と家畜以外のほとんどすべての生物である。

 一方、われわれ現代人と食べ物とのあいだには、労働や賃金もしくは栽培や飼育が挟まれ、それが「仕事」といわれている。そしてフィールドで獲物を獲って食べることは「遊び」と目される。なんとも不可思議なものである。

 どちらが深くまっすぐに生きる活動につながっているかは明白だ。

 日帰りの渓流釣りや狩猟から、獲物を食べながら続ける長期間の登山まで獲物を求めて山に入る それを「獲物山」という。

 地平線の仲間たちには断然、最後の「サバイバル登山家のアタリ嫁」が注目されるだろう。「はじめて服部小雪に会った瞬間に『嫁さんみーつけ』と心の中で叫んだ」という村上(文祥の旧姓)が惚れた嫁が4ページにわたってふんだんに登場するのだ。

 「出猟日記。一頭目の人間。1996年10月24日19時ごろ 埼玉県西武鉄道小手指駅前CASA メス 26歳 口説いて生獲り」だと。よかったねえ、生獲りできて。(江本嘉伸


今月の窓

探検、冒険、競技

■地平線会議の面々の目指すものは、時代とともに変化してきたと思う。しかし、変化しないものもあるはずだとも信じたい。ここに集う人々は、文字通り地平線(水平方向も垂直方向も)の彼方に想いを寄せてきた人々であり、旅への憧れに胸焦がす人々である。旅とは非日常の世界であり、空間的に言えば地理的広がりであり、時間的に言えば過去に潜り、未来へ昇っていくことである。

◆それらを貫く精神は、己の身体を通して表現される、未知へのあこがれに象徴される。その未知が人類史的なものか個人史的なものかは、世界紛争と家庭内不和ほどの差があるが、取り組む姿勢にはそれほど差はない。未知は、好奇心と不安のせめぎあう世界である。人はそこに魅かれる。少し乱暴な定義だが、人類史的が探検で、個人史的が冒険ということにしておこう。

◆私の大学山岳部時代に少し先だって、登山における未知についての論争(パイオニアワークとは何か)が盛んに戦わされ、探検部が創設された。しかし、探検史を眺めてみると、帝国覇権、大航海時代、植民地経営、極地探検、高峰登山と、動機もやり方もそれぞれ違うが、未知へのあこがれとそれらを牽引したフィールドは時代とともに変化し枯渇していったことが分かる。探検目標が失われたのだ。そして第二次大戦後に落穂ひろい的探検がなされ、ヒマラヤ初登頂の時代でもって地理的探検は終った。未来に目を向けると、深海、宇宙が新たなフロンティアであろうか。しかし、そこには個の身体が躍動する世界はない。そういう背景を考えると、大学探検部の登場は、人類史を背負うのではなく、個人史的探検つまり冒険の始まりを表していたのではなかろうか。

◆探検の目的は常にいろいろな副次的な学術成果を伴う。時代を下るに従い、学術の比重は大きくなってきた。探検の動機が領土的野心(富)から知的好奇心(学術)へと進化してきたからだ。やがて探検の目的よりもその手段にフォーカスされるようになり、その肉体的躍動が目的化して、学術的側面が小さくなってゆく。

◆チェリー=ガラードの「探検とは、知的欲求の肉体的表現である」も梅棹忠夫の「山は頭でするもの、学問は足でするもの」も探検における肉体(身体性)の重要性を述べているが、その真意は「知」の優位にある。「知」の含まれていない冒険は探検にはなりえないのだ。そして、知的欲求は、地理的探検を離れ、社会的問題に関心をシフトさせた。アマゾンの熱帯雨林よりニューヨークの高層ビルジャングルへ、極限の大自然より生き惑う民衆へ、本多勝一の『極限の民族』はその接点を描いたルポだった。自然から人へ、探検の意義を変えたのだ。

◆ならば、現代の冒険はどうなのか。アルピニズム命で山にかかわってきた私が望む冒険とは何だろうか。次の世代に何を求めているのだろうか。やがて個人の身体表現に重きをなす冒険も行き場が狭まってきた。植村直己を冒険家と称するのはなぜか。彼の足跡にはすべて先駆者がいたが、彼のユニークさはそれを一人で成し遂げたことだ。アマゾン、エベレスト、北極、多様なフィールドで活動した。中でもグリーンランド縦断は人類初だったが、我々は彼を探検家とも登山家とも呼ばなかった。

◆そして、遅れてきた我々は手段をエスカレートすることに活路を見いだした。北極に例をとれば、ナンセンは帆船で、ペアリーは犬ぞりで、飛行船、単独行、横断、スキー、バイク、徒歩、厳冬期、それぞれがそれぞれの冒険心を満たした。これと同じことを南極、サハラ砂漠、オーストリア、アフリカ、中央アジア、大海原でやってきた。

◆そこに共通するところは、文明や科学技術への批判精神である。なるべく物への依存を減らし、シングルハンドで挑むことである。冒険は、自然を相手にした身体性への回帰のように見える。そこに弱点がありそうな気がする。冒険から競技への進化(退化というべきか)である。

◆今や登山は、8000m峰14座、五大陸最高峰、日本百名山などを全山登頂するという、他人が設定した目標の塗り絵登山の全盛期である。山岳の個性ではなく、数値に関心がある。もう探検どころか冒険の名にも値しない。自然を舞台とする冒険的登山は、まちがいなく廃れていくだろう。しかし、ちゃんと次の舞台が用意されている。それがフリークライミングであり、ボードクライミングである。それを支えるのはグレーディングであり、スポーツ競技である。これらの目指すものは、ゲームでのフィジカルな身体能力と想像力である。そこには競うべき他者が不可欠だ。探検や冒険には優勝劣敗はないが、競技には必ずある。それが目的なのだから。

◆探検と冒険と競技、いずれが優れているのかなどと問う気はない。それぞれ独立した異なる活動だと考えればいい。まちがいないことは、命の危険は少なくなっているということだ。探検は、孤立無援の未知なる地平線の彼方を目指した。冒険は、探検のノスタルジーを孤高の精神で感じようとした。そして競技は、己の身体能力の可能性を他者と比べることで証明しようとした。

◆最後に私の愚痴を書こう。2013年、5か月をかけてネパールヒマラヤ全山域横断をしたとき、マナスル山群のラルキャ・ラで山岳マラソンに遭遇した。たくさんの人(ランナー以外の運営スタッフや現地警備員たち)がいて、せっかくのヒマラヤが台無しだった。重い荷物を担いで旅をしている我々のそばをランニングシャツで駆け抜けていった。うるさいのは街だけにしてくれ。大自然の中で何を比べたがっているのだと思った。(和田城志


あとがき

■フロントで書いたように、今回は急ぎの仕事が重なってかなりバタバタの通信の編集作業だった。それでも大慌てしないで済むのは、通信スタッフとレイアウトの森井さんがしっかりしているからだ。地平線会議がつくりあげた力、と言うべきだろうか。ほんとうにありがたい環境である。

◆今月は19才の書き手に大役をお願いした。不慣れなことであろうに、実にしっかり表現してくれ、驚くとともに嬉しかった。フロントで賀曽利隆が青年の時の旅の取材の原点として芦峅寺のことを語った、と伝えたが若い書き手が育つことは地平線会議のもうひとつのひそかな狙いである。

◆文庫版の『西蔵漂泊』の解説は、ランタン谷を支援しているチベット学者、貞兼綾子さんにお願いした。月末にはまたまたランタン谷に「帰る」予定でお忙しい身ながら快く引き受けてくださり、ありがたかった。あやさんの人徳で、南極の昭和基地で57次越冬隊長の樋口和生さんほか皆さんがゾモTシャツ70着を注文してくれたこと、ゾモ普及協会の代表として忘れられない(1月31日の毎日新聞にTシャツを着た隊員の集合写真が載りました!)。

◆何かと縁のある立山の「国立登山研修所」は講師陣が充実していることで有名であるが、実は樋口さんも講師のひとりである。北大山岳部出身の樋口さんはランタン谷でも南極でもほんとうに大事な縁の下の仕事を続けておられる、のだと思う。いま、日本に向かう船の中、無事のご帰国を。ありがとうございました。(江本嘉伸


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

むきだしモンゴル

  • 2月24日(金) 18:30〜21:00 500円
  • 於:新宿スポーツセンター 2F大会議室

「人に対して壁を作らない。ホント、ラテン系民族っぽいんですよ! 一言でいえば“むき出し”なんです」。モンゴル人の印象をこう評するのは大西夏奈子さん(36)。出身高校の大先輩、探検家の関野吉晴さんに憧れつつ「何故かわからないけど」東京外大モンゴル語学科に進みます。学生時代に訪蒙しますが、当時はピンと来ず、卒業後はモンゴルと無関係の仕事をしていました。

2013年、当時〈第二のアブダビ〉とも言われた経済成長中のモンゴルに興味をひかれ、12年振りに再訪します。そこで感じたのはニュースと現実のギャップでした。豊富な地下資源の価値が注目され、IT機器も普及。一方で日本など海外の核廃棄物処理なども検討され、また急激な社会変化のひずみもありました。しかし生活形態が変化しても人々の暮らしには昔ながらの風習が深く根づき、民族への誇りからくる熱気にあふれていました。

蒙古襲来と大相撲だけじゃない、ナマのモンゴルの魅力にはまった夏奈子さん、現在はフリーの編集者、ライターとしてモンゴルに通いつつ日蒙のつながりを深めたいと考えています。

今月はモンゴルの魅力と現状について大西さんに語って頂きます。応援団として元・駐モンゴル日本大使の花田麿公さんにもおこし頂きます。


地平線通信 454号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2017年2月8日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方


地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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