2017年8月の地平線通信

8月の地平線通信・460号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

8月9日。都心は猛暑である。午後には、37℃を記録した。そんな中で長崎では平和祈念式典が始まり、甲子園では高校野球2日目が元気良く続いている。

◆朝食は、ヨーグルトとフレーク、バナナが定番だが、今朝はナッツ、ドライフルーツを混ぜた「ミューズリー」という健康食を試した。シール・エミコさんがオーストラリアから持ってきてくれたお土産である。7月30日、都内のカフェで久々に会った。一目見た途端、輝いているエミコがいた。

◆エミコとは97年11月28日の216回目の地平線報告会に来てもらったのが最初だからちょうど20年の付き合いになる。当時はまだアジア会館で地平線報告会をやっていた。あの後旅を続けたが、ガンに倒れて帰国、その後再スタートするも再発して闘病生活に。スティーブの支援で頑張り続け、ストーマになったいまも元気、おまけに綺麗になった。すっかり気に入ったミューズリーについて、こんなことを教えてくれた。

◆「1992年、18歳の女子大生が働いていた手作りミューズリーの会社が売りに出される事に。ミューズリーが大好きだった彼女は、その会社を買うと一大決心。本物の食品は本物の情熱から生まれる。そして、CARMANユS(カーマンズ)が誕生しました」。わお、どうりでおいしいわけだ。そういうわけで「シール・エミコの凱旋」という記事を8、9ページに特集した。

◆明後11日は二回目の国民の祝日「山の日」である。ことしは栃木県那須で中央大会である「山の日記念全国大会in那須 2017」が催される。「山の日」の制定にほんの少し汗をかいた不肖私にも声をかけていただいたが、高校生たちのことを思って今年は会場には行かないことにした。

◆4月の通信で書いたが、3月27日、那須岳でラッセル訓練をしていた栃木の高校生たちが雪崩に巻き込まれ、7人の生徒と教師1人が死んだ。事故の原因について「平成29年3月27日那須雪崩事故検証委員会」が立ち上げられ、私の知り合いも何人かメンバーとなった。その第一次報告書が6月30日に発表され、内容は私にも送られてきた。

◆事故が発生する前の「本件講習会1日目及び2日目の実施内容」というくだりが報告書にある。事故当日以外はどんなことをしたのか、という内容だ。それによると、51人の生徒、引率教員11人は3月25日9時30分はJR黒磯駅前の「割烹石山」に集合、10時に開講式が始まり、10時30分から「学科」を受けた。「講話」と「講義」に分かれ、講話は「山岳部はこんなに得する」という、なんだかノーテンキなテーマと記録されている。講義のほうは「国立登山研修所 安全登山普及指導者中央研修会に参加して」の真っ当なテーマで女子高の先生が報告した。

◆報告書では講話をした人の名は「△△△△」とぼかされている。まあ、誰がやろうと山での実地訓練とは違うから重要ではないのであろう。この通信の読者には知らせておくと講話をしたのは私である。コンクリートの街から飛び出し草や木や川の世界に入って行くことの素晴らしさ、それを若い時代に体感することがどんなに大事なことか、という思いで約90分、話した。ヒマラヤの峰やモンゴルの緑の草原の写真なども見せて熱をこめて語った。高校生たちの熱意が伝わってきて嬉しかった。

◆それが、2日後の、あの悲報である。なんということか。山岳部に入って何が「得だった」というのか。私は呆然とした。数日して突然警視庁捜査一課から電話が来た。「江本さんですか? こういう行事に参加されましたか?」。つまり、8人もの命が消された遭難事故の全体像をつかむために当事者ひとりひとりに確認をしているらしかった。私は「なんでも話しますが、電話ではいやです」と答えるといや、またそのうちに、と先方は電話を切った。

◆用件はそれだけだったらしく、その後連絡はない。そして、私は今でもあの素晴らしい高校生たちひとりひとりの命を考える。あの雪崩現場では高校生自身が「もう少し上まで行きましょう」と主張し、引率の教諭がそれを認めた結果、惨事が引き起こされたらしい。あり得る話だ。しかし、そこからどういう教訓を引き出せるか。あれからわずか4か月あまり。「山の日」は、静かにほんとうに静かに、7人の生徒と1人の先生のいのちを考えよう、と思い決めた。

◆警視庁と言えば、先日「認知機能検査」を受けなさい、というハガキが届いた。私は40才になって運転免許を取得した。おもに犬と動くためのものだが、思ったほど車に乗る機会は少なく、ドライブ技術は最低クラスと自認する。それに高齢者となった今は、アクセルとブレーキの踏み違えなんかいくらでもできる気がするので実践となると異常に慎重なドライバーである。犬を巻き込んでは申し訳ない、という気持ちも強い。登山家の和田城志さんが書いてくれた「窓」を何度も読み直す夏である。(江本嘉伸


先月の報告会から

極夜の彷徨

角幡唯介

2017年7月28日 新宿区スポーツセンター

■2016年から2017年にかけての冬、探検家・角幡唯介さんはグリーンランドの極夜の中を相棒のグリーンランド犬、ウヤミリック(現地語で「首輪」の意味)と共に80日間旅をした。極夜というのは極圏独特の現象で、毎年冬、北緯66.5度の以北では一日中太陽の昇らない時期が続く。誰もが避ける光のない季節。その真っ只中に角幡さんは挑戦した。

◆旅は先住民の住む最北の村シオラパルクから始まる。北緯77度。赤いヘリのプロペラの奏でる轟音の中、11月10日、白い大地に降り立った。極夜ははじまっているが、まだ完全な暗闇は訪れていない。旅の相棒であるグリーンランド犬ウヤミリックが彼の到着を待っていた。ウヤミリックを選んだ決め手は、その顔付きだった。これまで3年近く一緒に旅をしているというウヤミリックは堂々とした体躯だけれども、優しい表情をしている。そして、何よりも金色の美しい毛並みをしていた。

◆旅の計画は、極夜の中1月に最初のデポがあるアウンナットに到着後、北のイナーフィッシャックを経由して、そこから約1,000キロ先の北極海を目指すものだ。前年は7か月グリーンランドに滞在し、本番に備えてデポをそれぞれの地点に運んでいる。しばらくしてシオラパルクの海が凍りはじめ、12月になれば出発できそうな状態になってきた。ただし、まだ薄い状態の定着氷はうねりが入ると壊れてしまい、その先に行くことはできなくなる。そんな中、大きなブリザードが近付いてくることがインターネットの情報からわかった。

◆出発が遅れると旅の途中で氷が壊れてしまう可能性がある。風とうねりが治まってきた12月6日、氷河の麓で嵐をやり過ごすことを決め、月の出ていない極夜の中に一歩を踏み出した。闇の中に消えて行く彼らの前方を照らす赤色灯の灯りと灰色の氷、そして、それを踏みしめる音。それらがコーマック・マッカーシーの小説「ザ・ロード」の世界を想起させる。

◆「ザ・ロード」は核戦争のような厄災に見舞われた世界を歩く親子の物語だ。世界はほぼ死滅し、空は分厚い灰色の雲に覆われ、太陽の光は差し込まない。そんな世界の中で絶望に飲み込まれず、親子はただひたすら南に向けて歩き続ける。僕はそんな親子と氷の上を歩く一人と犬をいつの間にか重ねていた。

◆「シオラパルクを出てから2日目のことですが、テントの中で寝ていたら、ブーンという音が聞こえてきたんです。なんだろう思っていると、今度はブオーという今にも殴りかかってくるような音が聞こえてきました。すると今度はボンボンボンと風がテントを叩きはじめました。それが次第に連続となって、いろんな方向からテントを揺さぶりました。たぶん、氷床から吹き降ろす風なのでしょう。でも、寝袋から出る気はしませんでした。ただテントが潰されるのではないかと、それだけは怖かったです」

◆やがて今度は鞭がしなるような音が辺りに響きはじめた。氷が割れはじめているのではという疑念を持ちながらも、テントから出ずに様子を窺う。しばらくして、そんな音の響く中スライム状のものがテントを押しはじめているのに気付く。どうやら氷が割れて、波しぶきがテントにかかり、それが凍りはじめているようだった。その海水からできたスライム状の氷が今にもテントを押しつぶそうとしていた。慌ててテントの外に出ると既にウヤミリックは氷漬けのような状態になっていた。

◆やがて嵐は止んだ。テントに戻り、身体を休める。しかし、その間に橇の所にあった六分儀が風で飛ばされてなくなっていた。それは極夜の旅で自分の進む方角を知るための大切な道具だ。その事実に呆然とするが、六分儀のないまま旅を続行することを決める。地図とコンパスと自分の感覚で進むのだ。

◆シオラパルクを出発してから3日目。月の光の中、氷河の登攀が始まった。2度目のブリザードは氷河を登っているときにやってきた。それははじめ谷からエクトプラズム(注)のようにやってきたという。それが地吹雪の合図だ。気付けば1キロ先は地吹雪で覆われている。そよ風が、あっという間に強風に変わっていく。テントは地吹雪であっと言う間に雪で埋まる。テントの外に出ると既にテントの周りは1メートルほど雪が積もっていた。

◆必死で除雪作業をはじめる。テントだけでなく、今度はウヤミリックが雪に埋まっている。埋まっているウヤミリックをリードから放してやると一目散にその場から逃げ出したという。「しまった」と思ったが、3分後、大声でその名を呼んだ彼の下にウヤミリックは帰ってきた。そんなウヤミリックの身体を彼は優しく撫でてあげたという。

◆その後、1週間ほどの時間をかけ、最大の難所を突破。次に目指すアウンナットまではできれば月の出ている間に到着したい。外気は-30℃。そんな中を月と星を頼りに旅を続ける。必然夜間に行動することになるのだが、それは月の南中時刻に合わせるためだ。しかし、月の現れる時刻は日に日にずれていく。やがて少しずつ彼の中の時間の感覚が狂っていく。そんな身体の状態と極夜の氷床を旅する緊張もあって、行動中ほとんど眠れなかったそうだ。

◆氷床では、これまでの経験からツンドラに降りる場所について目星がついており、そこを目指して歩みを進める。予想では早くて3日、遅くても6日くらいの行程だ。しかし、6日目になっても目指す場所に辿り着くことはなかった。辺りは靄がかかり、自分が氷床の際に向けて下っているのかどうかも分からない。「コンパスが狂っているのだろうか?それとも自分の感覚がおかしくなっているのだろうか? 北に向かっていたはずなのに、いつの間にか南に向かっているのか? 自分の感覚が当てにならず、進んでいても、進んでいないような感覚でした。理由は分かりません。そして、自分自身も含めていろんなことが信じられなくなりました」

◆最終的には頭上の北極星を頼りに自分の位置を確認し、そして、北へと歩き続けた。北極星の光は淡い。しかし、変わらずいつもそこにある。その事実がときに安心感を与えてくれた。やがて「下り」がはじまるのだが、途中で橇がこけ、その拍子に行動食やカメラ、弾丸などが入った容器が斜面を滑り降りていった。身体が自然とそちらに走り出すが、振り返ってみて、あれは危険な行為だったと気付く。「クレバスに落ちてしまう可能性もありました」。その荷物は斜面の中腹に止まっていた。そこには砂利がちらばっていてツンドラがはじまっていたことがわかった。無事氷床を抜けたのだ。結局、4日程の行程に10日くらいかかってしまった。

◆ツンドラでは、あまりにも辺りが暗すぎて自分がどこにいるのか正確に分からない。感覚で記憶を掘り起こしながら、進む。やがてこれまで何度も訪れたアウンナットに続く谷に自分がいることに気付いた。暗闇の中でも目が慣れてくると、うっすらと山の稜線が見える。それは記憶にある山の稜線だ。記憶が蘇り、自分の位置を確信した。「あっ、ここだと分かりました」。

◆それは極限の状態の中、研ぎ澄まされた感覚がもたらしたものなのだろうか。谷を降りていくと、見慣れたアウンナットの地形が彼の目の前に広がってきた。ようやくアウンナットに辿り着いた彼の前方に白い小屋が亡霊のように浮かび上がる。しかし、そこにはデポはなかった。白熊に襲われたのだ。そのデポが既にないことは、事前に犬橇でその辺りをパトロールしていた人達から聞いていたのがせめてもだった。

◆「イナーフィッシャックにもデポがあって、ひとまずそこまで行こうと思いました。そこから最終目的の北極海までは約1,000キロ。そこで3週間も過ごせば、明るくなってきます。もう迷うこともありません。1月下旬まではイナーフィッシャックでごろごろしていよう。当時はそんなことを考えていました」。アウンナットで時を過ごす間に衛星電話で日本の家族に電話をした。「もう大丈夫だと伝えました。一番危険だと思われた氷河を越え、ブリザードが吹き荒れる氷床を抜け、アウンナットにも到着できたので。でも、実際は全然違いました」

◆しばらくしてアウンナットを後にし、予定通りの日数でイナーフィッシャックに辿り着く。しかし、イナーフィッシャックに辿り着いて見たのは、白熊に食い荒らされたデポの残骸だけだった。ぐちゃぐちゃになった小屋の中。そこには1か月分の燃料と食料があるはずだった。どうやら天井から白熊が入り込んだらしい。ショックを受けながらも、イナーフィッシャックにもうひとつデポがあることを思い出す。それはイギリスの遠征隊が船で運んで残していったものだった。

◆「でも、正直、やばいんじゃないかと思いました。これまで自分がやろうとしていたことが何もできていないんですよね。この悪い流れからすると、もしかして……と」。翌日事前に場所を確認していたイギリス隊のデポを見に行った。しかし、その場所には何も見当たらなかった。イギリス隊のデポはプラスチックの樽に入っていたのだが、その樽さえ見当たらない。しばらくして、彼はガソリンの容器を見つける。そこにはくっきりと白熊の爪の痕が残っていた。そして、散乱しているデポを発見する。

◆「やばい」。ナーフィッシャックに辿り着く前に兎を2羽仕留めたもののウヤミリックの食料が尽きようとしていた。イギリス隊のデポが無くなっていることを知ったのは、1月13日。まだ1か月分くらいの食料は残っている。たぶん、村に帰れるかどうかギリギリのラインだ。最悪自分は死なないだろう。イギリス隊のデポには80キロのドッグフードが含まれていた。それを当てにしていた。「ウヤミリックが死んだら、この先の旅を続ける気力を保てない」

◆ウヤミリックの分も含めた少なくとも村に帰れるだけの食料を、そして、可能であれば北に向かうことができる食料を手に入れるために狩りをする決意をする。まずジャコウウシに狙いを定める。はじめジャコウウシがたくさんいるセプテンバー湖に向かおうとするが、これから月は満月となり、そして、欠けていく。そんな中で月の出ている内にイナーフィッシャックから距離のあるセプテンバー湖には辿り着けないと判断し、一路ダラス湾に向かう。

◆ダラス湾には兎の足跡がたくさんあったという。しかし、1羽の兎も獲ることはおろか、見かけることもできなかった。そんな中、単独行動をしているジャコウウシを見つける。ウヤミリックが反応しないのを訝しながらも200メートルほど近付くが、それは更に先にある巨大な岩だったという。結局その場での狩りはあきらめ、どんどん内陸に入って行く。まるで月の光に導かれるように。

◆足跡は確かにある。でも、ジャコウウシはそこにはいない。まるで夕食時の食卓に自分が足を踏み入れた途端、料理だけを残して忽然と人だけが消えてしまったように。そんな光景が彼の眼前に繰り広げられていた。やがて次第に月に怒りを覚えるようになってくる。「月の光が明るいと獲物が獲れるという自信が湧くんですよね。しかも周りは動物の足跡だらけなんです。でも、何もいない。まるで月に騙されているような気がしました」

◆獲物の獲れない焦燥感からか、狩りに出ている間にウヤミリックが自分の分の食料を食べてしまうのではないかと1時間もテントを離れると不安に襲われてしまうようになる。ウヤミリックも飢えているのだ。残りのドッグフードを少しずつ与えていたのだが、日に日にウヤミリックは痩せ細っていった。極夜行を開始した頃は「ウヤミリックがいなければ旅は出来ない」ととても大事にしていた。しかし、そんな極限の状態は彼を変える。「自分が死なないように、最悪の場合はウヤミリックの肉を食べて生き延びよう」と思うようになった。

◆その後、内陸部から撤収し、再びダラス湾を目指すのだが、途中から月が暗くなっていったため、昼間に行動をするようになる。その頃になると昼の11時くらいから空が白く明るくなり、姿は見えずともその光の向こうに太陽の存在が感じられたという。「ただ太陽がそこにあることが嬉しかったです。今回の旅で初めて希望を感じた瞬間でした」

◆1月18日、ダラス湾に戻って2日目、目の前にふたつの青い光が現れた。銃を構え、その青い光に向けて撃ったのだが、弾は当たらなかった。驚いたその青い光はその場から走り出したが、やがて立ち止まった。青い光の主は狼だった。彼は狼に近付き、再び銃を構え、撃つのだが、弾は空しく空を切るだけだった。狼を仕留め損ね、落胆しているとウヤミリックが雪の下からジャコウウシの頭蓋骨を見つけた。夢中で貪りつくウヤミリック。ほとんど食べるところはない。それでも空腹を満たすためにウヤミリックは、その骨をかみ砕き、咀嚼し、そして、飲み込む。

◆「アウンナットの小屋までは連れて行こうと思いました。白熊が怖いからです。そんな飢えて、痩せ細ったウヤミリックを可哀そうだと思いながらも、俺の食べる肉はこれだけしかないのかと思う自分もいました」。ウヤミリックがのたれ死んでしまったら食べようと考えていたが、イナーフィッシャックに再び訪れたときにイギリス隊のデポがあった場所で白熊がまだ掘り起こしていないところを発見する。その場所を掘り返すとガソリンの入った容器と共に黒いビニール袋が残っていた。その中には20キロ分のドッグフードが一袋入っていた。

◆「うぉー!!お前を殺さなくて済んだぞ!!」そう叫び、彼はその場で残っていた3キロほどのドッグフードをウヤミリックに与えた。そして、アウンナットに到着した1月27日、急に周りが明るくなり、ヘッドランプがなくても行動できるようになる。その瞬間、彼は極夜が終ったという想いに包まれたという。「いざ明るくなって見ると寂しかったですね。戦争が終わった後の日本国民もこんな感じだったのかもしれません。不条理な状況や力が急になくなって、その代わりに喪失感が襲ってきました。自分が今までやっていたことはなんだったのだろうという想いに飲み込まれました」

◆闇が駆逐される。明るくなると動物が獲れる。まずは食料としての狐が1頭。しかし、それ以上の獲物はアウンナットにいる間は獲れなかった。「もうシオラパルクに戻るしかない」その想いを胸に再び歩きはじめる。しかし、2月の氷床の気象は厳しい。アウンナットの小屋を出ると、後ろを狼の夫婦がつけていた。その内の1頭を即座に撃ち殺す。それは白い体毛に覆われた美しい雌の狼だった。氷床に至るツンドラでは更に兎を3羽仕留めたが、氷床越えは天候もわるく、容易に前に進むことはできない。風が強く、天候の変化も全く読めない。次第に不足してくる食料の中、停滞を余儀なくされる。テントの外では相変わらず、すさまじい風が吹いている。

◆「明日覚悟を決めて出ないと帰れない」。風が止んだ隙を利用して、一気に進み、最初に登った氷河の辺りにまで辿り着いた。そこから村までは2日の距離だ。しかし、氷河を降りていくこと自体が難しい。少なくとも晴れないと降りられない。息もできないブリザードの中、お茶だけを飲んで耐え忍ぶ。そして、2月20日。滝のような風がやってきて、テントの表面を叩きはじめた。風速は秒速15メートルくらいだろうか。既に狼も食べ切っていた。

◆翌2月21日、シオラパルク到着を目前に控えた極夜の旅78日目の朝、テントに日の光が差し込んでいることに気付く。外は少しブリザードが治まってきているようだ。テントの入り口を開け、外に足を踏み出す。するとそこには黄金色の太陽が優しくその光を降り注いでいた。「そのときに見る太陽を想像して、どんな風に感じるかを自分なりに考えてはいたけれど、それは自分の予想を遥かに凌駕していました」

◆黄金色に燃える太陽に対面した彼の声は震えていた。投影された映像に映らない彼はきっと泣いているのだろう。頬を伝いながら、その場で凍り付いていく涙を僕は想像した。しかし、それもつかの間、その後すさまじいブリザードがやってきた。翌日に風が止み、村に降りる氷河に辿り着いた。そして、極夜の旅80日目、シオラパルクに到着した。

◆「迎えに来てくれたのは、3人だけでした」そう言いながら、角幡さんは苦笑いをした。そうして、予定を大幅に超え、約3時間に亘った報告会は幕を閉じる。報告会の後、僕は2次会の「北京」で彼にビールを注ぎながら、こんな質問をした。「今回はもともと計画していた北極海までの旅はできませんでしたが、その計画を完遂するためにもう一度極夜の旅をしますか?」。彼はきっぱりと「もう極夜の旅は満足しました」と真摯な眼差しで答えてくれた。

◆来年2月には今回の旅のことを記した書籍が出版予定だという。その本には彼の極夜の中での葛藤がより詳細に記されているに違いない。彼が極夜を欲した理由も。そして、78日目に再び目にした黄金色に燃える太陽への想いも。僕はその本の完成を今から心待ちにしている。(光菅修

(注)エクトプラズムとは、霊の姿を物質化、視覚化させたりする際に関与するとされる半物質、または、ある種のエネルギー状態のものの意。

報告者のひとこと

このシステム化した世界の外側にどうやって飛び出すか

今回で地平線会議での報告は4回目になります。1回目(2003年)と2回目(2010年)はツアンポー単独探検について、3回目(2011年)は荻田君と行ったカナダ北極圏1600キロ徒歩行、そして今回が極夜の探検についてです。

 最近は講演の依頼が増えてきたし、地平線4回目ともなるとさすがに場慣れしてきて、今回終わったときは、これまでの講演・トークショー関係で一番面白く話せたんじゃないだろうかという手応えがありました。実際、江本さんはじめ、何人かから非常に面白かったという感想をいただき、かなり嬉しかったです。

◆それに、この極夜探検については地平線以外の場でも大小含めてかれこれ4回ほど報告しましたが、いずれも好評でした。人前で報告するたびに好評度が高まるため、今、ぼくの中では、この極夜探検の話はめちゃくちゃ面白いんじゃないだろうか、もしかしたら来年2月に刊行予定の単行本もバカ売れするんじゃないだろうか、ピューリッツァー賞にノミネートされるんじゃないだろうか、という期待感が膨らんでいます。

◆はっきり言って出発前の評判は散々なものでした。極夜の暗闇を探検しますと言っても、大方の反応は「え? 何それ?」というもの。最近、山登りを趣味にしているという噂のV6岡田准一さんのラジオ番組に呼ばれたときも、キョトンとして、え、意味わかんないんですけどみたいな反応だったし(そうは言わなかったけど顔にそう書いていた)、出発前の講演会で「これまではツアンポーとかフランクリン隊とかわかりやすいテーマで探検してきたのに、極夜というのは理解できません」と言われたこともありました(まあ、ツアンポーやアグルーカの時も出発前は意味わからないとよく言われたんですが……)。

◆正直、周囲の理解が得られないことに自信を失い、どうせこんなことやっても誰にも分かってもらえないだろうなぁと思っていました。それでも五年間、極夜にこだわったのは、時間をかけすぎて引くに引けなくなったということもありますが、この旅が探検の新しい局面を切り拓く行為になるんじゃないかと自分で期待していたからです。

◆今のぼくの関心は、どうやったら脱システム的な旅ができるかということにしかありません。脱システムというのは読んで字のごとくシステムを脱することです。GPS、衛星電話等、テクノロジーの発達で現代システムは無限に膨張して、空間的な領域に関するかぎり、システムはほぼグローバルに全地球上を包囲してしまったかの感があります。ヒマラヤに行っても、北極点に行っても、どこに行ってもシステムが完備されているので、地理的にどこかに到達することを目指しても、そのシステムの網の目から逃れることは不可能です。その結果、近年、探検・冒険の世界では急速にスポーツ化が進んでいます。

◆たとえばヒマラヤ登山や極点旅行のツアー化や、アドベンチャーレースの隆盛等にそうした変化が表れているといえるでしょう。システムに覆われるということは、その内部が管理されて秩序化されるということです。情報インフラや衛星通信技術で覆われることで、全地球上が座標軸上にプロットされてデジタルに管理可能な世界となったわけです。

◆本来、システムの外側の世界は混沌とした未知の領域で、冒険とはそのシステムの外側に向かう行動であり、探検とはそこで何かを探る行為でした。それが全地球上がシステムの管理下におかれたため、混沌とした未知の領域が消滅してしまいました。地球上が競技場のような整った舞台として理解できるようになったため、昔、冒険として理解されていた行為はすべてスポーツに置き換わっているわけです。

◆ぼくの目的は、このシステム化した世界の外側にどうやって飛び出すかというものでした。世界がグローバルに競技場化した以上、地理的な観点にこだわっていては脱システムは難しい。逆にいえば、探検界、冒険界の人間がいまだに地理的観点以外のテーマを見つけられず、どこどこに到達するとか、どこどこを踏破するということにばかりこだわるから、冒険は〈日本人初〉とか〈世界最年少〉といったあまり意味があるとは思えない記録でしか価値を提示できないスポーツに変質してしまった。ぼくが極夜探検を目指したのは、まずはこの地理的な価値観から脱却して、地理的秘境にかわる新しい未知の世界を提示すること、つまりスポーツ化した世界に反旗を翻して、新しい探検の像を具体的に表現することでした。

◆報告会を聞かれた方ならわかると思いますが、極夜世界は予想以上に未知と混沌に支配された世界でした。78日目に昇った太陽を見たときは、自分でも予期せぬ感動に襲われ、混乱しました。あの一瞬に今回の極夜探検のすべてが象徴されたと考えています。制限時間をオーバーして3時間語りましたが、話せなかったことはまだまだあります。それだけ濃密な旅でした。

◆脱システムするという観点から言えば、百点満点ではなかったですが(たとえば家族との関係から衛星電話を持ち込まざるをえなかった点。家族こそ脱システムするのが一番難しいシステムなんだと痛感しました)、新しい世界を開拓できたという点では満足しています。まあ、あんなすごい太陽を見ることができたのだから、その意味でも極夜というテーマはこれで終わりでしょう。もう一回行ってもあれ以上の太陽が見られるとは思えません。今はまた別の脱システムの方法を新たに開拓することで頭がいっぱいです。(角幡唯介


「暗中模索の体験、探検」“コーハイ”からひとこと

■ノンフィクション作家で、探検家の角幡唯介さん。また、私にとっては憧れの「センパイ」でもある。ご存知の方も多いかもしれないが、角幡さんは早稲田大学探検部に在籍していた。とあれば、私のような現役部員にとって角幡さんは「センパイ」にあたり、眩しい存在で、いわばヒーローにあたるのだ。かくして、現役の探検部員達はこぞって地平線会議での報告会に集ったわけだが、今回は私が代表して筆を走らせている。

◆今回のお話は、“極夜の彷徨”ということで、グリーンランド北部における、「暗闇の探検」の報告であった。太陽が昇らない、その天文現象を「探検」する。その切り口はとても斬新で、刺激的に思えた。角幡さんの計画を知って以来、発表を楽しみにしていたのだが、今回の映像を交えた報告は想像を超える迫力であった。最新技術の集積たるソニーのデジタル一眼レフカメラ。肉眼よりも暗所に強い、その35mmセンサーを通してもなお、極夜の暗闇は永遠に広がっていくように見えた。ノイズの乗った映像は、足元のみがヘッドライトの光に照らされており、撮影者の足並みとともに揺れた。その場に居なかった人間にも、充分に臨場感が伝わってきた。

◆「コンパスを信じられなくなる」「自分を信じられなくなる」「進んでいるはずなのに、進んでいない」。 映像とともに落ち着いた口調で述べる角幡さんの言葉には、重みがあった。私たちは、彼にとっての80日間をわずか2時間半に凝縮して聴いている。本当は、何度となく悩み、苛立ち、頭を抱えたのだろう。「最後に信じられたのは北極星だけ」。数歩歩いては立ち止まり、暗闇の中、北極星を眺める角幡さんを想像する。しかし、どれだけその姿を頭に描けど、極夜の二ヶ月強を、その体験を真に理解することは叶わない。だからこそ、角幡さんの挑戦には意味があった訳だし、「探検」であったのだろう。

◆高野秀行さんとの対談本『地図のない場所で眠りたい』で、角幡さんは「探検」を「自分たちが属している社会やコミュニティの知識や常識の外側に行くこと」と語った。今回の報告は、まさにそう言ったものを秘めていたように思う。ブリザードの中七時間にも渡ったという除雪作業、シロクマに喰われてしまったデポの食料、疑心暗鬼になりながらの狩り。どれも強烈なお話ばかりで、聞いているこちらまで冷や汗が出た。

◆「月に騙された」。最も極限状態に近かったという、獲物を探していた約10日間の説明の中で、角幡さんはこんな言葉を繰り返し使っていた。それは、発狂寸前とも言える彼の状況を表すには、あまりにも幻想的で神秘的な表現に思えた。しかし、どうしてだろうか、西洋で「月」は昔から「狂気」の象徴であるという。ラテン語で月のことを「ルナ」と呼ぶが、これを語源とする英語の「ルナシィ」はまさにその意味である。「月に騙された」というのは、精神が限界に近づき、自分自身に芽生えた狂気に操られる、そんな彼自身の状況を説明していたのではないだろうか。

◆しかし、角幡さんのお話を聞いていて何よりも驚嘆させられるのは、こうした予期せぬ事態への対応である。時にナーバスに陥ることはあれど、すぐに冷静さを取り戻し、論理的な思考で策を講じる。経験と知識に基づいた立体的な思考は、状況に応じて複数の選択肢の中から最適なものを選ぶのだ。生死の危険が伴う活動では、「撤退するか、継続するか」という大きな決断が常に存在する。だが、その決断のためには、その他多くの要素でもって判断をせねばならない。

◆一回目のブリザードでは、暗闇でのナビゲーションの要である六分儀を無くしたが継続を決意した。地図・コンパスと自分の感覚を信じたのだ。二回目のブリザードでは、煩わしく感じながらも必死の思いで除雪を行った。そうしなければ、テントごと埋まっていたかもしれない。デポした食料がシロクマに食われていたことを知った時には、狩りを決意した。そして、獲物が見つからなければ場所を変え、方法を変え、腐肉をも漁った。

◆最後には共にソリを引いた犬を食べることすら、考えたという。やせ細った犬を見下ろし、その姿を可哀想だと感じながらも、これが自分に残された食料か、とその僅かに残った肉を確認する。生と死の境では、常に判断を更新しなければならない。残忍だと、薄情だと言っている暇はないのだ。

◆幸いにも、その後角幡さんはイギリス隊が残したドッグフードを発見し、少し明るくなった世界を南へと撤退する。その時の気持ちを「自分の自由を束縛したものを失ったような、喪失感のような感情」と説明していたのが印象に残る。「自分がやってきたことは何だったのか」、それは、やり終わった後に急な虚無感とともに思い及ぶことなのかもしれない。ただ、帰り道に彼が見た「初めての太陽」、そしてその感動は、極夜の探検を通してしか得られないだろう。

◆さて、「センパイ」が活躍する中、私達現役の早稲田大学探検部員はというと、今夏6人の隊でカムチャツカに向かう予定である。この通信が出る頃にはもう、現地で行動を開始しているはずだ。偉大なる「センパイ」の報告の後には、少し見劣りしてしまうかもしれない。だが、少しでも追いつけるように、もがくつもりだ。コリャーク山脈における最高峰の外国人隊初登頂と、人類未踏峰の登頂を目的とした計画は、40日間に渡る。詳しくは、ホームページ(http://wasedatanken.com/kamchatka/)をご覧頂きたい。地平線通信の許す限り、現地からの報告も発信したいと考えている。

◆皆様におかれましては、私達「コウハイ」の探検を見守り、応援して頂ければ、と願っています。(早稲田大学探検部三年 カムチャツカ遠征隊 隊長 井上一星


地平線ポストから

写真家チェ・ゲバラは何を見たのだろうか?

■キューバの首都ハバナ市内の割と閑静な住宅街の一角に立つ割と質素な2階建ての家。居間に通されると、ソファに座っていた長いサラサラ髪のJKギャル2名が「オーラ、いらっしゃい〜」と明るく迎えてくれた。奥から出てきた割と太めの中年女性に「あんたたち、ちゃんと宿題すませたの?」みたいなことを言われ、サマードレスの裾をひるがえして「はーい、ママ」と立ち去る。ってことは……?!

◆この家は革命の後、かのチェ・ゲバラが暮らしていた自宅で、出迎えてくれたのは長女のアレイダさん。つまりはゲバラの娘や孫からほっぺたにキスされてしまったということだが、まあこれはラテン地域ではただのご挨拶で特別のことでもなんでもない。とはいえ、やはり相手が相手だけに心騒ぐものがある。

◆が、今回の訪問相手はチェの長男カミーロ・ゲバラ氏で、目的はチェ・ゲバラ自身が撮影した写真に関してだ。チェを撮影した写真はかの有名なイコンとなったキューバの写真家アルベルト・コルダの作品を始め多々あるが、チェ自身が撮影した写真はほとんどその存在すら知られていなかった。もともと写真好きだったチェは、メキシコでフィデル・カストロと出会う前は街角の写真屋として生計を立てていたこともある。革命中もその後も、常にその傍らにはカメラがあった。自ら撮影した作品を集めた写真展がイタリアで開催されたという情報を聞きつけ、これはぜひとも日本に紹介せねば、とヘンな使命感に燃えたあげく、裏技とキューバ・コネクションを駆使して打ち合わせが実現したのだった。

◆写真展のカタログなど資料を見せてもらいながら、さっそく契約条件など細かい話が始まる。オリジナル原版も見せてもらったが、部分的に藻割れやカビ、指紋による汚れなど悲惨な状態の作品が多い。カミーロいわくこれこそが時間経過による歴史的証言だし、修正はそれを改竄することにつながるのだとか。写真的にどうなのだろうか、疑問を呈してもそれはフェティシズムだとの主張はまったく変わらず。ついでに、ハバナの革命博物館に展示してあるチェ愛用のNIKON-Sを借りることは出来るか聞いてみたが、それこそ物質主義的退廃だそうな。いやはや、難しそう〜!

◆とりあえず、写真展開催に関する覚書を交わすところまではたどり着けたが、後日送付されてきた契約内容はかなりハードルが高い。どうやら、チェの自宅向かいに建設中のCentro de Estudios Che Guevara (チェ・ゲバラ研究センター)の建築/運営資金集めが最優先事項のようだ。しかも、当時はまだ米国による対キューバ経済封鎖が厳しい時代で、スポンサー企業を探すのは至難の業である。

◆つまり、どのような形であれキューバにお金の落ちるような企画に協力する企業は、自動的に米国内での営業活動に多大な支障をきたすことになってしまう。機材メーカーなど数社に打診してみたが、やはり米国の巨大マーケットでのビジネスを犠牲にしてまでキューバにすり寄るモノ好きは見つからず、結局この企画はあえなくボツってしまったのであった。その後、某新聞社文化事業部に企画持ち込みがあったのは風の便りに聞いていたが、どのような紆余曲折があったのか実現には至らなかった。

◆没後50年を記念したその写真展「写真家チェ・ゲバラの見た世界」が、8月9日(水)から27日(日)までの日程で開催される運びとなった。恵比寿ガーデンプレイス内のザ・ガーデンルームで、メキシコやキューバで撮影した作品を中心に240点で構成。その中には1959年の訪日時の写真も含まれている。通商使節団代表として世界各国を訪れた際に日本にも立ち寄ったチェは、自ら希望して広島に向かった。

◆当初は外務省のセッティングで、九段の戦没者慰霊碑に献花する予定が組まれていた。キューバ大使館からそのスケジュールを聞かされたチェは、アジア侵略で数百万人を殺した兵士の祀られている墓より、ヤンキーが十万人の市民を虐殺した広島に絶対に行くと主張。夜行列車に飛び乗って広島の原爆慰霊碑に詣で、「君たち日本人はアメリカにこんなひどいことをされて、腹が立たないのか」と問いかける。その後、原爆病院で入院患者を見舞い、原爆スラムも訪れていた。58年後の8月6日、カミーロは原爆忌に献花した。チェの問いかけはいまだに有効のまま、被爆72年目の夏が過ぎて行く。(ZZz-カーニバル評論家)


先月号の発送請負人

■地平線通信459号(2017年7月号)は、7月12日夕、印刷封入、13日に新宿局に託しました。今月も、私のフロント原稿が遅れてぎりぎりの作業になりましたが、多くの皆さんが駆けつけてくれたおかげで、印刷が終わるとほんとうにあっという間に作業は終わりました。通信に封入した「山の日」のリーフレット(あとがき参照)を背負って私が駆け込んだ時は、皆手持ち無沙汰で待っている状態でした。駆けつけてくれた方々は、以下の皆さんです。ほんとうにありがとうございました。
森井祐介 車谷建太 伊藤里香 兵頭渉 前田庄司 落合大祐 久保田静香 杉山貴章 中嶋敦子 福田晴子 光菅修 下川知恵 松澤亮 江本嘉伸
★このあと、いつもの「北京」に直行し、珍しく「冷やし中華そば」「冷やしタンメン」などを皆で楽しみました。


シール・エミコの“凱旋”

美しくなったエミを迎えて

■現在、オーストラリアのメルボルンに住んでいるエミ(シール・エミコ)が東京に来てくれました! 今まで毎年大阪には帰ってきていたのですが、東京はなんと7年ぶりです。

◆エミは、スティーブ(夫)と自転車で世界一周の旅の途中にガンを発病。旅を中断し、緊急帰国して手術。そして、復活して再び世界一周を再開しましたが、ガンが再発、そして、再再発。7年前に東京の大きな病院にセカンドオピニオンとして聞きに行くも、治療方法が見つからず。病院に付き添った私に「一緒に聞いて欲しい」と不安そうだったエミと一緒に診察室に入りました。診察後は、何も声をかけることができませんでした。そして、エミはスティーブの待つ大阪に帰っていきました。帰りの新幹線では、泣いて帰ったそうです。それが最後の東京でした。

◆大阪に戻ってからも紆余曲折あり、抗がん剤治療を行うも日本の医療では限界と半ば見放され、最後の望みを掛けてスティーブの故郷、オーストラリア(メルボルン)に旅立ったのが今から6年前。メルボルンでも受け容れてくれる病院が決まらずに失意のどん底に。心身ともに最悪の状態になり、この時、誰とも連絡を取りたくなく、うつ状態にもなったそうです。そして、治療の望みをあきらめ緩和ケアのホスピスを探していたとき、幸運にも手術をしてくれる先生がいるとの連絡がメルボルンの病院から入りました。

◆この経緯は、病院探しであちこちの病院で「大好きなスティーブと少しでも長く一緒にいたい。そのためなら、どんな治療でも我慢する!」とお医者さんたちに訴え続けていた成果でもありました。その生きたいという強い熱意が届き、ある時、お医者さんたちのミーティングでエミの話になったそうです。有名なガン手術の「あのドクター」が良いだろうという結論になり、そして、なんと、そのドクターが手術を引きうけてくれる、と連絡があったそうです。病院の場所は、シドニー。

◆この時期、エミは、体調も精神的にもボロボロで生きる望みをなくしかけていたといいます。スティーブには「シドニーは遠いし、お金もかかる。手術したところで治る見込みはわからない。もうホスピスでいいよ」と自分の気持ちを伝えたところ、スティーブは絶対に治療して直そう!という強い気持ちでした。「これを最後にして、病院に行こう!」と言ってくれた彼の心にこたえてエミもこの手術にかけてみることにしました。緩和ケアを選んでいたら余命数か月だったそうです。

◆その手術とは、膀胱も腸も取ってしまう骨盤内臓全摘出術という大手術。すでに悪化が進行していて深刻な状況だったため最優先に手術をしてくれることになったそうです。シドニーの病院では、医師や看護師たちがチームを組み、治療にあたってくれました。エミは、医師たちに「どんなにつらい治療でも弱音は吐きません。そして、万が一のことが起きても先生をうらみません」と言ったそうです。

◆エミの「生きたい!」という情熱と医師たちが「生かしたい!」という強い熱意がマッチし、そして、長時間かけての手術は成功しました。術後は、再びメルボルンに戻って療養。車椅子の生活になりました。療養中も薬の副作用や激痛との戦いは壮絶でした。そんな中、昨年11月の検査では癌が消えており、今年の5月までは抗ガン剤等の薬を飲んでいたことで体調が最悪だったのが思いきって薬をやめたら、みるみる元気になってきたとか。そして、今年の7月、シドニーで大手術をしてから5年が経過しました。

◆術後、治療しながらも今まで毎年、1か月ほど大阪には帰ってきていたのですが、今回は東京にも来ることができました。車椅子でなく、しかも一人で。今回の日本帰国は、当初、4週間としていたところ、スティーブが「もう1週間延ばして、東京へも行っておいで」と言ってくれたそうです。日々一番そばで見ていた彼だけに、今回は大丈夫!と思ったのでしょう。

◆一生車椅子の生活になるかもしれないほどの大きな大きな手術をしたにもかかわらず、今回は東京まで自力で来れるまでになりました。本当にビックリです! しかも、医療用の杖ではなく、登山用ストック1本。スゴイ!スゴイ!! 待ち合わせした東京駅でエミを見つけたとき、感動でした。しかも、若々しくなっている!

◆さて、東京駅でエミと1年ぶりの再会をはたし、一旦、(エミは、東京の別宅と呼ぶ)我が家へ荷物を置き、この日から6日間、めーいっぱいのスケジュールがスタートしました。落語会に行ったり、江の島や福生にも行ったりと怒涛の毎日で、時に日付を越えて帰宅したこともあるくらい充実&満喫の日々でした。今回が初対面の人やまたは、数年ぶりやなんと29年ぶりに再会した人たち、そして、バイクや自転車つながり、地平線会議つながりなどなど。

◆今回は、ストック1本で自分の足で歩くことができている。元気なだけについつい私は油断してしまい階段を使ってしまうと、あっ!いけない、無理させてしまっているのではと声をかけると「大丈夫、これもリハビリ。トレーニング」と。なんともポジティブ。かなりきつかったと思います。

◆オーストラリアでは、オリ君(オーストラリアで飼っているワンコのオリバー)とちょこっと近所を散歩する程度、家も平屋なので日々の生活では階段なんて全然使わないそうです。このため、今回の東京では、こんなにたくさん歩き階段も上り下りできたことエミ自身も驚いていたようです。頑張ろうとする強い精神力と努力の賜物です。

◆筋肉痛になっていないか聞いたところ「筋肉痛になる。でも、筋肉痛になるということは、きっと、今まで使っていなかったわけだし、それで筋肉がつくことにもなる」と、またまた前向きな発言。まだまだ痛みやつらいことはたくさんあるのでしょうが、病気になる前のエミに戻っている、いや、さらにパワーアップしているかも、と思っちゃうほど元気で、そして、笑顔を絶やさずキラキラと輝いていました。東京でのエミとの6日間は、私自身も大いに楽しみ元気をもらえました。

追伸:江本さんも忙しい中、時間を作っていただき、大きなタッパにエモカレーとキュウリの醤油付け(これも自家製)を持ってきてくれました。エミと美味しくいただきました。ご馳走様です♪短い時間でしたが、いろいろと話すことができて良かったと、エミも喜んでいました。(エミと29年来の友人 藤木安子

シール・エミコの“凱旋”

お守り

■7月30日16時、「第6回、シールエミコ一時帰国、何度でもやったるねん東京壮行会」。勢い余って30分前に会場に到着してしまった。坂の途中にある会場の前で同じように早く着きすぎた知人と立ち話をしていると、関係者らしき空気を漂わせた美女が坂を上がってきた。マズイことに、その人は明らかに僕を目指して近づいてくる。

◆「アフリカで会った山中」と言われて、やっとわかった。バイクで世界一周していた山中さん夫婦の奥さん、徳子さん。ウガンダの首都、カンパラのキャンプ場で別れてから22年ぶりだ。タンザニア、ケニヤ、ウガンダ、あの頃、僕らは何度も出会って、何度も分かれた。徳子さんと話しながら会場に入ると、奥で新聞の取材を受けているエミコさんが目に入る。

◆が、すぐには本人とは分からなかった。杖なしで立っている、黄色いチャイナドレス風の服を着た姿はアイドルのようだ。ガンを克服しただけでなく、信じられないことに若返っている。すぐにでもエミコさんに挨拶に行きたいが、途切れることなく彼女の回りに人が集まるので、少し離れたところで徳子さんと、その様子を眩しく見ながら昔話をする。

◆山中さん夫婦と最初に会ったのは、1995年、タンザニアのダルエスサラームだ。日本大使館宛てに届く手紙の中に、自分のものを探していると、奥の部屋から出てきた大使が僕が腕にかけていたヘルメットに驚き、話しかけてきた。バイク好きの大使は、今この町にバイク世界一周中の夫婦がいるから紹介する、と、言って、駐車場から自分のバイクを持ち出してきて、山中さん夫婦が居候していた日系人の中津川さんのお宅に連れて行ってくれた。

◆山中さん夫婦は家の主のように庭でバイクのメンテナンスをしていて、爽やかに挨拶してくれた。ダンナの健二さんの高校球児みたいな笑顔は今でも鮮やかに思いだせる。それからしばらくして、ケニヤのナイロビで僕らは再会した。そこで僕は山中さん夫婦に誘われて、アパートを借りて滞在していたスティーブとエミコさんに会いに行ったのだった。

◆待っていてもエミコさんの回りから人がいなくなる瞬間はなさそうなので、徳子さんと二人で近づいてアフリカの話をふった。ナイロビで会ったときのことで僕が覚えているのは、エミコさんが、モザンビークの道端で拾ったベルトを使っていたことと、今世紀中には旅は終わらない、と、言ったこと、と話すと、エミコさんは僕が貧乏そうだったので、アパートのトイレットペーパー、と、石鹸をあげた、と、言った。お互い、なぜそんなどうでもいいことしか覚えてないのだろう。

◆僕と同じように山中さん夫婦もエミコさんから石鹸をもらっている。でもそれは、強盗にすべてを盗られたら、この中に入っている50ドルを使え、と、保険、として、山中さん夫婦に渡した手作り石鹸で、日本人しか読めないように「護身用米国五十なり」のメモが添えられている。日付は一九九五年一二月八日。山中さん夫婦はその石鹸をお守りとして旅を続け、帰国後も大事に保管していた。その石鹸をこの日徳子さんは持参していた。

◆後半、参加者の一人一人がエミコさんへの思いを語る中で、徳子さんは石鹸のエピソードを語り、安宿によくある小さな紙袋に包まれた石鹸を取り出した。そして22年間、お守りにしていた石鹸をその場で割った。中からはナイロン袋に包まれた50ドル紙幣とメッセージが出てきた。タイムカプセルから出てきた小さな紙片には、お守り、「enjoy and take care of your trip.your friend steve & emiko 95,12,1」と小さい文字で書かれていた。老眼になった3人はすぐにはその数字を判別できなかった。タイムカプセルである石鹸が割られていく中で、スティーブとエミコさんが借りていた部屋が脳裏に写った。すると水洗しトイレットペーパーを渡してくれたエミコさんの姿も見えた。

◆帰宅後、当時の日記を読み返してみた。山中さん夫婦とダルエスで会ったのが1995年10月24日。スティーブとエミコさんにナイロビで会ったのが11月8日。石鹸が山中さん夫婦に手渡された12月8日は、僕はタンザニアとコンゴの国境にあるタンガニーカ湖にいて、12月19日にウガンダのカンパラのキャンプ場で山中さん夫婦と再会。22日にコンゴに向かう2人と別れて、僕はエチオピアに向かった。それから22年たっている。日記を開くと当時のアフリカの空気が舞い上がり、僕らは同じ時間を共有していたと改めて思う。

◆記録をたどると95年当時、1ドルは90円。ナイロビのキャンプ場は270円(3ドル)。僕はだいたい1日500円(5・5ドル)ほどで生活している。12月8日のキゴマの宿はなんと70円。その物価の中で、キャンプ場は高い! と、スティーブとエミコさんは月決めのアパートに入っていた。一泊3ドルのキャンプ場が高いと感じる旅人が、50ドルを旅人に保険として手渡す。その重さがどれだけのものか、同じ旅人としてゾクゾクする。自分のことにせいいっぱいだった僕は、そんな献身的な考えなど抱いたこともなかった。

◆エミコさんが会場にいる一人一人に特別な人であるのは、彼女が出会った一人一人をきっと特別な人として接してきたからだろう。(坪井伸吾 「護身用米国産五十なり」と書かれた紙切れ、石鹸、そしてほんものの50ドル紙幣の写真を添えて)

シール・エミコの“凱旋”

今年もぶじ戻ってこれましたー!

■家族&友人の笑顔に会いたくて、また一年リハビリに専念し、どうにか杖一本で歩けるようになりました。愛だとか、友情、祈り、願い、希望、夢、感謝。目には見えないエネルギーを心で感じ、周りの人のおかげで確実に回復に向かっております。明日があることを実感してます。「人生はこれからだ!」なーんて厚かましいですが一歩一歩前進して行こうと思います。江本さんとも東京で再会がかない感激でした。みなさんどうも有難う! これからもどうぞ宜しくです。(エミコ(^^)♪♪)


何個も地雷を踏んで、今年もやりとげた台湾月琴奏者とのコラボ

◆弘前よりこんにちは! 僕はいま台湾月琴民謡協会の皆さんと一緒に弘前に来ています。津軽三味線と台湾月琴。楽器同士のご縁の力に誘われて、2012年に彼らと姉妹会を結んで以来、台北での民謡祭に毎年参加し、ここ弘前でも隔年で交流音楽祭を積み重ねてきました(今年で3回目)。

◆参加するのと主催するのとでは大違いで、その上、大方のプロデュース全般が素人の僕一人に任されているのですから大変です。半年前から会場の確保や資金の工面(弘前市の助成金の申請プレゼンテーションなど)や企画全般に翻弄されながらの準備期間を経て、毎回ギリギリの気絶寸前状態でゴールを迎えています。もう3回目なので、少しは余裕があってもいい筈なのに、毎回何個も地雷を踏んで(痛烈なミス)、一向に頭を下げる回数は減っていません(苦笑)。

◆唄、三味線、手踊りといった民謡に獅子舞や登山囃子などの津軽を代表する郷土芸能と、台湾月琴をはじめとする台湾伝統音楽の数々。長い歳月を経て、先人達から受け継がれてきた郷土芸能は、それぞれの土地の暮らしや風土や歴史を色濃く映し出す“文化の集大成”です。「地元独自の文化同士が、海を越えて世界の人達とより仲良くなってゆけるこのイベントを通じて、“国は違えど郷土芸能には共通する想いがある”ということをみんなで共有したい!」その一心で僕は台湾の皆さんと共に作ったコラボレーションの曲を演奏しました。

◆舞台から大勢の観衆の皆さんのいい顔を見る度に、台湾の皆さんの演奏する楽しげな姿を見る度に、これまでの僕の全ての疲れは吹き飛んでいきます。伝統音楽の文化交流は毎回試行錯誤の連続で反省点も多々有るのですが、本番の舞台上では両国双方の演者達の本物の熱量がそこにはありました。今はただ、会場の皆さんからいただいた多くの応援の言葉を今後の励みにしたいと噛み締めるばかりです。

◆他にも、弘前ねぷたパレードに台湾の横断幕を掲げて参加したり、青森ねぶたを見学したりと(加藤千晶ちゃんがめちゃくちゃ真剣に跳ねてる姿を目撃出来ました!)、青森の熱い夏を台湾の皆さんと満喫しまくっています。皆さんもどうぞ良い夏を! (車谷建太 津軽三味線弾き)

津軽半島 激走250km! のはずが……

■7月15日(土)〜17日(月)に青森県の津軽半島を走るジャーニーラン大会へ参加してきました。弘前市をスタート/ゴールとし、日本海側から龍飛崎を回り込むルートで距離は250kmです。弘前城公園を20時にスタート。先ずは岩木山の麓を走ります。蒸し暑く汗が滝のように吹き出します。脱水に注意しながら先ずは日本海を目指しました。夜明け前に日本海側の鰺ヶ沢町のエイドに到着(58km)。腹ペコでしたのでおにぎりやパンを補給し、今度は日本海を眺めつつ北上し十三湖を目指します。天候は曇りから豪雨気味の荒れ模様へ。 ピーカンで無い分走りには好都合だったのですが、時折雨足が強くなりウエアとシューズはずぶ濡れとなってしまいました。

◆雨の県道を30kmほど北上し、十三湖のエイド(99km)には9時前に到着。カレーライスとシジミ汁を頂き、パワーを充電します。小泊町から津軽半島最北端の龍飛崎へ続く通称「龍泊ライン」は絶景のシーサイドルートで 今までバイクで何度か走っているのですが、キツイ上りに眺望を楽しむ余裕もありません。上りは全部歩き、眺瞰台からは一気に下っていくワインディングロードへ。そして漸く龍飛崎へ到着(135km)。「ここまでやってきた!」との感慨に浸りました。濃いガスが立ち込め、残念ながら対岸の北海道・松島半島を見ることは出来ませんでした。

◆龍飛崎では日本で唯一の階段国道(R339)を降り、外ヶ浜町へ。天候が回復し津軽海峡越しに北海道を眺めつつ走ります。折り返しを過ぎ、気分を盛り上げていきたいところだったのですが、徐々に足が重くなってきました。そして17km程進んだ今別町(大平)に日暮れ前に到着(152km)。ここからは内陸部に入っていきます。いよいよ2晩目です。200km超の大会では2晩目が勝負。如何に止まらず、足を動かし続けるかがポイントとなるのですが、暗くなると一気に眠気に襲われ、歩いていてもフラフラ状態です。

◆眠気を我慢できず道端でごろ寝をしても、5分も経たずに悪寒で目が覚めてしまいます。寝て歩いてを繰り返し、夜が明けた5時過ぎに漸く中泊町「パルナス」のエイドに到着しました(190km)。建物の玄関近くにあったソファーに横になった途端に爆睡してしまい、起きたのが1時間後。起き上がり動こうとしても足が固まって動きません。

◆ゴールの弘前市まで残り60km。20時が制限時刻ですので、歩いてでも十分間に合います。しかし、これから10時間近く歩かなければならない、と思うと気持ちが切れてしまい、そこでリタイヤを決断しました。

◆今まで参加した大会では初めてのリタイヤです。ウルトラの大会では辛く苦しく足や体が痛くなる場面などいくらでもありますし、そんな事は百も承知で参加しているのですが、今回は龍飛崎を過ぎた辺りから「どこでリタイヤしようか……」と考え始めていました。走れなくとも足さえ動かしていれば、徐々に回復することも今まで何度も経験してきたのですが、今回は気持ちが萎えてしまったようです。

◆リタイヤした中泊町から電車で戻る途中、炎天下の中を走り続けているランナーを見かけました。やはり途中で止めるべきではなかったですね。眠さでウトウトしていたのですが、徐々に悔しさが湧いてきました。ゴール近くの温泉で一休みし、ビールを飲んでいてもどうも気持ちがスッキリとしません。やはり歩いてでもゴールを目指すべきだったのではないかと……。途中で諦めてしまった自分への苛立ち。悔しさですね。

◆即来年のリベンジを決めました。この悔しさを晴らすため、来年は完走を目指しますよ。(福島県いわき市 渡辺哲

2017年夏・リニアの現場

■「釣りの方はこちらへ」。沢登りのいでたちの僕たちに、笑顔でガードマンは言った。きっと、この沢は多くのイワナを育み、そのイワナを求めて、多くの太公望たちがここを訪れるのだろう。地平線通信457号(以降、457号)でお伝えした、4月下旬の見学会の時とは違い、親切、丁寧だ。指し示される先は、現場を取り囲むフェンスの外側であり、崖脇の人ひとりがやっと通れる場所ではあるけれど。

◆8月4日、僕は、共に脱ダムに取り組む友人と、大鹿村小河内沢川を遡行した。小河内沢川は、この通信457号で着工をお知らせした釜沢(除山)

※非常口トンネル掘削現場の脇を流れる沢で、雨乞いの滝をはじめとする多くの滝を有し、その水が育む植生と、石灰岩相が作り出す景色が非常に美しい。しかし、リニア新幹線環境影響評価書によると、この沢は、平均水量52%、渇水期には、その水量の86%が減少すると予測されている。JRは、影響が少ないことを理由に、渇水した上流域へ水は戻さない。と言っている。

◆JRは山梨実験線延伸24.3Km区間で、飲料水の井戸、水源、農業用水の水源等34件の水枯れを公表している。しかし、実験線区間では環境アセスメントが行われていないため、その水枯れを検証することはできない。また、人間生活に影響がないために件数に含まれない、地表水の減少も起こっていて、それが、水場や、ヌタ場(シカやイノシシが体についたダニ等の寄生虫や、汚れを落とすために泥浴びする場所)の減少をもたらし、大型獣が人里近くに移動する原因となっているとも言われている。

◆大鹿村は、4月20日の釜沢(除山)非常口の着工に続き、7月3日小渋川非常口が着工され、長野県のリニア工事最前線となった。地元の方は「騒々しくなった」「工事車両には怖い思いをする」というが、今は、本格着工には程遠く、本格着工を迎えた時、村の人々はとんでもない事に遭遇することになるだろう。今、大鹿村は、二ヶ所のトンネル掘削工事が行われている、しかし、それほどの、車両の通行や、騒々しさは感じられない。

◆それは、457号でお伝えした発生土処分地計画全てが、暗礁に乗り上げ、その解決のめどが立っていないためだ。ある受け入れ地では、工事を急ぐJRが、見切り発車で希少植物の違法採取をおこない、問題となっている。受け入れ表明自体にも問題が見つかり、県の受け入れの承認が得られない事態も起こっている。その問題解決も「早くて3年、長ければ10年余の月日がかかるだろう」いわれている。

◆また、釜沢(除山)非常口へ通じる県道の橋に亀裂が見つかり、車両重量4トン以下に制限されている、JRは「工事に影響はない、大型機械は分解して搬入し、土の運搬は軽量のトラックで行う」と新聞に語っている。しかし、大型ダンプカー32万台もの土を、軽量小型のダンプカーで運ぶということは、工事車両の増加を伴い、それは、排出ガスの増加や、地元の方の生活をさらに圧迫することになるだろう。

◆釜沢(除山)非常口へ通じる県道は、すでに、4輪駆動車の下周りを擦るほど、荒れた道路になっている。行き帰りに望む、上蔵(わぞ)集落は、中央構造線が作る山並みと、42名の尊い犠牲を出した大西山崩落跡地を背景として、四季折々、美しい佇まいを見せる。厳しい自然と、人間生活が育んできたことを感じさせる、僕の大好きな景色だ。今、その景色を育んできた多くのものが消えようとしている。山の日を前に、ここにある、山と共に生きる生活を思い、美しい景色を心に刻みながら、大鹿村を後にした。(小石和男

※釜沢(除山《のぞきやま》):新聞、資料により両方の表記があるために、このようにしました。


★地平線会議からのお知らせ★

 先月号の「あとがき」で予告した「地平線夏だより」ですが、まだ夏休み真っ只中、という人が多いようで、「8月5日締め切り」は無理のようでした。一応9月号でも特集しますので、それならという方は9月8日の金曜日までに「500字ぐらい」で書き送ってください。9月の地平線通信は13日の水曜日に発行するつもりです。


通信費、カンパをありがとうございました

■先月の通信でお知らせした後、通信費(1年2,000円です)を払ってくださったのは、以下の方々です。数年分まとめて払ってくださった方、カンパを含めてくださった方もいます。地平線会議は会員制ではないので会費は取っていません。皆さんの通信費とカンパが通信制作はじめ活動の原資です。同時に、私が通信を読み続けてほしい、と思う方には通信費支払いの有無に関係なく送り続けています。

 久々に手紙をくれた鶴田さん(下に書簡の全文を掲載させてもらった)もそうした一人です。30何年か前、四谷の酒席で若い鶴田さんたちと歓談したことよく覚えていますが、「とある料亭で」とは言い過ぎです。ごく普通の一杯飲み屋でした。忘れずに地平線からの発信を受け止め続けてくれていることにお礼を言います。こうした便りを書くことも、ささやかな勇気がいることと思いますが、どんなに私や仲間たちを元気づけるか、この際みなさんにもお伝えしておきます。鶴田君、ありがとう。

 当方の勘違いで受け取りたくないのに送られてきてしまう人、遠慮なく連絡ください。購読希望が増えていて部数はあまり増やせないのです。通信費を払ったのに、記録されていないなど万一漏れがあった場合はご面倒でも江本宛てお知らせください。振り込みの際、通信で印象に残った文章への感想、ご自身の近況をハガキなどで添えてくださるとありがたいです。アドレスは(メール、住所とも)最終ページにあります。(江本嘉伸

横山喜久(6月23日の報告会で通信費頂いていたのに、地平線通信7月号に記載できませんでした。失礼しました)/高橋千鶴子/庄子レイ子/平田寛重(10,000円 通信費5年分です)/光菅修/石原卓也/秋葉純子/神保一晃/古山里美・隆行/ 北村操(5,000円 2年分+カンパ)/覚正伴徳/宮本千晴(10,000円 カンパ)/北村憲彦 /川崎彰子(6月に地平線会議に参加させて頂きました。通信もお送り頂き、ありがとうございました。先月の角幡さんの話も聞きかったのですが、仕事と重なり、伺えずでした。またの機会、参加したいと思います)


■拝啓 江本嘉伸様初めてお便りさせて頂きます。今月も地平線通信をお送り下さり、誠にありがとうございました。私は三十三年この方、通信費を一度としてお支払いした記憶がなく、いつ発送を止められても当然の愚か者です。きちんとお支払いされている皆様方に申し訳が立たず、本当にすみませんです。

◆まともな暮らしをしていれば、すぐにでも三十年分をお振り込みせねばならないところ、恒常的な素寒貧をかこつ有様で、今も財布の中には八百十五円しか入っておりません。若い時ならともかく、この年になっても金に縁がないのは宿世の因縁としか言いようがございません。もっとも、金がたまらないのは、生来の怠け者でろくに働いていないせいであります。そのうち、機会があれば、必ずお支払いしたく存じます。どうかご海容下さい。

◆江本さんは覚えておられないかも知れませんが、三十年程前、四谷かどこかのとある料亭で接待して頂きました。あの時は確か、向後元彦さんや山田高司さんも同席しておられ、私は居るのか居ないのか判らないぐらいに小さくなって末席を汚していました。当時、「砂漠に緑を」のカフジ駐在員として現地に赴任しており、一時帰国の間にたまたま参加させて頂いた宴会だったように思います。

◆7月の通信に四万十の山田高司さんが達意の文章で寄稿されておられますが、私の直の先輩である塚本剛正さんとは農大探検部の同期と聞いており、斯界では一頭地を抜く存在として、私たちは尊敬、憧憬して参りました。十数年前、四国八十八ヶ所を歩いていた時、山田さんのご自宅に泊めて頂き、男二人で鍋をつついたこと、終生の思い出でございます。今はすっかりご無沙汰していますが、通信で山田さんはじめ、縁の方々の消息が知れるのは有難いことです。

◆山田さんはレレレーの山水河原者見習いとの事ですが、すばらしく恰好がいいです。私も天才バカボンに出てくるレレレのおじさんを究極のお手本に、残生をおもしろ楽しく過ごしたいものです。上京の節、タイミングが合えば、報告会に寄らせて頂きます。マングローブの仕事で、エクアドルやベトナムでご一緒した三輪主彦さん、白根全さん、長野亮之介さんはじめ、他、綺羅、星の如くご活躍の地平線子の皆さまにもどうぞよろしくお伝え下さい。

◆梅雨もまだ明けぬのに、今年は格別の暑さです。冷房もない部屋で汗たらたら流しながら、一筆認めました。汚い手紙になり、どうかお許し下さい。

 江本さん、そして皆さま方のご健勝ご発展をお祈り申し上げております。 敬具

       平成二十九年七月十七日  
        鶴田幸一(原稿用紙3枚に達筆で)。


今月の窓

歩く、走る、航

■講演をするとき、来られている方にまず訊くことは「運転免許証を持っていない人、手を挙げてください」である。わずかだがいる。私は持っていない。高校生のときに持たないと決めた。モータリゼーションのうさん臭さに気づいたからだ。動力化のもたらすライフスタイルの変更はすべてに通底する問題を内蔵している。最大の問題はエネルギー消費の爆発的な拡大だ。今さら車批判をしても滑稽なほどに生活の必需品となっている。

◆動力つまりエンジンに対する無意識の抵抗として、現代の探検や冒険や登山があるように思われる。つまり科学文明の利器をなるべく排して、生身の肉体で大自然を舞台にパフォーマンスを発揮することに意味を見いだしている。

◆かつて探検は、時代の先端を行く科学技術を使い、探検家の創意工夫と行動力で全人類にとっての未知なる地平を切り拓いた。その延長線で言えば、現代の探検は宇宙へ深海へと展開され、さらに発達した動力が人類の行動範囲を広げているが、探検の主体である人間の役割は小さくなってきた。やがて人工知能搭載のロボットが探検の最前線を引っ張っていくだろう。

◆人類にとっての探検は終わり、個の能力にフォーカスした冒険に舞台は移っていっているように思える。現代に探検は存在しうるのか。探し検見する対象があるのだろうか。コロンブス(海)やナンセン(極地)やマンメリー(山)を頭の隅に置きながら夢想する探検、あまたの偉人たちが目指した前人未到の地平、ああ古き良き時代。ひるがえって冒険、危険を冒すだけのパフォーマンスはいくらでも創作できる。アドレナリン全開の興奮と忍耐、冒険の中に探検の残り香を求めている時代なのだろう。

◆動力を拒否する、そこまで言わなくてもなるべく動力と距離を置くことはできる。高度な科学技術に冒険の目的が汚染されないように配慮しながら、しかしナンセンスな目立ちがり屋のパフォーマンスに堕ちない行為、社会進化のゆくえを占うとき、探検や冒険の生きづらさが指標になるかもしれない。

◆大げさな言い方をした。そう言うお前は何を目指しているのか、と突っ込まれそうだ。正直に言おう。もう探検も冒険も登山も何もやっていない。いや、今までもやってきたかかどうか自信はない。ちょっと偏執的に山に取り組んできたが、同時代のクライマーやヒマラヤニストと比べてみても、ひいき目に言って、優れた業績を残してきたとは到底言えない。

◆1987年の遭難でしがみついていた山から引きはがされた。途方に暮れていた私を勇気づけてくれたのは、H・W・ティルマンだった。J・R・アンダーソン著の『高い山はるかなる海探検家ティルマンの生涯』を読んだとき、目から鱗だった。地球の七割は海であることを忘れていた。歴史上の偉人に自分を投影するという厚かましさはお許しいただきたいが、心底ティルマンをまねようと思った。彼が初登頂したナンダ・デビィは、私が最初にトレッキングをした山域だ。彼が1949年にネパールヒマラヤで最初に目指したランタン・リルンを、1949年生まれの私が初登頂した。

◆ヒマラヤは騒がしくなったと、エヴェレスト登頂のまえに海に転身したダンディズム、かっこよさも度が過ぎている。寡黙、女嫌い、質素、勤勉、およそ欲というものがないジェントルマン。比べるのも情けないが、私は、饒舌、女好き、放蕩、怠惰、欲望にさいなまれているハゲデブ加齢臭。共通するのは、アウトドア志向、本好き、相当ひどい環境でもへこたれないことぐらいか。

◆ミスチーフ号のような古くて頑丈な船を手に入れなければならない。それで人のあまり行かない海域を目指す。しかし、それはとんでもない野望だった。ティルマンにあこがれて、いつの間にか30年経ってしまった。偶然手に入れた名艇SK31は朽ち果て、セーラーとしてのスキルは素人同然で、まだ一歩も踏み出していない。諦めてはいない、けれど何だか必死さがない。焦ってもいない、けれどこのまま終わりたくはない。

◆遭難後30年間、以前ほどではないが体を酷使してきた。もう限界だ。障害のある右膝を人工関節にした。体と心のミスマッチに慣れ親しんできた習いにも陰りが出てきた。日々旅に暮らすことで精神のバランスをとっていたのかもしれない。ただ歩いた。具体的な目標があるわけではない。四国遍路を、冬の日本海海岸線を、ヒマラヤ全山域トラバースを、海から海へ本州、九州山地縦断をやった。ただ走った。狭い日本列島の隅々、消滅集落の山間地や海岸線を、山越え古道や離島を走り続けた。探検、冒険、アルピニズムのかけらもない。

◆四国一周を三回やった程度の船乗りがぼろ船を修理している。SK31うりぇくむ丸(韓国語で私たちの夢という意)をミスチーフ号になぞらえて、海原に旅立とうと目論んでいる。法螺話は山ほどある。鑑真、空海(遣唐使船)、倭寇松浦党、曾呂利助左衛門、鄭成功、朝鮮通信使、北前船、大黒屋光太夫、高田嘉兵衛、ジョン万次郎、あまたの海の男の足跡をたどりたい。

◆地平線会議の通信に書くのならもう少しスケールの大きい法螺話にしなければいけないが、正直自信がないし寿命が先に尽きそうだ。ヨットの世界でも北極南極隅々まで網羅されている。世界一周レースが頻繁に行われる時代だ。ティルマンに従えば、海と山を合体させなければならない。日本近海の航法に山あてというのがある。海から見た顕著な山をランドマークにして航海をする。そのノリで、ユーラシア、アフリカ大陸一周航海というのはどうだろう。すてきな山を一つ一つ登りながら。(和田城志


あとがき

■たった今、おっかない経験をした。全文書き上げたフロント原稿、字句を少し修正しようと「削除キー」にタッチしたら一瞬にしてすべて消え去ってしまった。フロントだけでなく地平線通信今号のすべてが。

◆大慌てで書き直したが、同じものにはならない。それも1時間以上もかかってしまった。森井さん、すみませんでした。こういうミスが、これから多いのだろうな、とぞっとします。

◆先月の通信のフロントでモンゴルの夏の祭り「ナーダム」のことを書いているのですが、その中で「今年は1032人の相撲とりが参加」としたのははやとちりでした。「512人(516人ではなく)」が正しい。それにしても、512人!ちなみに、日本の大相撲は、序の口、序二段、三段目、幕下、十両、幕内で全部で「692人」いるんだそうです。

◆まだまだ暑いです。麦丸を看病しながら静かにする夏です。(江本嘉伸

■ひとこと……江本さん、焦ったためにあとがきがえらく少なくなってしまいました。いつもは入りきれないほどの思いがあるのですが……(森井


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

スワ湖発セカイ行き
〜8年半157ヶ国のチャリンコ旅〜

  • 8月25日(金) 18:30〜21:00 500円
  • 於:新宿スポーツセンター 2F大会議室

「世界中でやさしい人に出遭ったので、少々イヤな事にあっても帳尻は合ってるのかも」と言うのはサイクリストの小口良平さん(37)。人生に目標を持てず、“何か自分しかできない事を”探していた大学卒業間近、幼少の頃の“大冒険”の達成感が蘇ったのです。故郷長野県の諏訪湖を自転車で周遊した記憶でした。

それまで長旅の経験はなかったけれど一念発起し、まず挑んだのは東京〜箱根間の自転車ツーリング。工程の半分も行かずに挫折しそうな道中、励ましてくれた見知らぬおばあちゃんとの出会いに心を揺さぶられました。「もっと世界中のいろいろな人と出会いたい」という思いに突き動かされ、世界一周ツーリングの準備を始めます。

勤め人として5年間の超節約生活の末、一千万円の貯金を達成、'07〜'08年の日本一周を経て、満を持して'09年から世界へとペダルを踏み始めました。数え切れないほどの出会いを重ね、'16年10月に故郷、岡谷にゴール。157ヶ国、地球4周程の距離を走破しました。

今月は小口さんに長い自分探しの旅の顛末を語って頂きます!


地平線通信 460号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2017年8月9日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方


地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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