2018年11月の地平線通信

11月の地平線通信・475号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

11月7日。立冬だが、都心の午後の気温は20度とあたたかめ。報道は一斉にアメリカの中間選挙の開票速報を競っている。中間選挙とは、2年ごとに行われる上下両院議員および州知事などの公職選のうち、大統領選挙のない年に行なわれる選挙をさす。今回の中間選挙に私が重大な関心を持つのは、トランプ政権の“横暴”をアメリカ人たちがどうとらえているか切実な問題として理解したいからだ。

◆大方のメディアは上院では与党共和党が優位を保ち、下院では民主党が多数派となるのでは、と予想していた。折しもホンデュラスなど中央アメリカの国々を出発し、徒歩でアメリカへの入国を目指す『移民キャラバン』の人々が北上している。7200人を超えるという人々をトランプ政権は銃で押し返せるのか。午後になって、アメリカのテレビ局が「民主党、下院で8年ぶり第1位を奪還」と速報で伝えた。上院は共和党が過半数を維持したため、これでねじれ状態と戦わなければならない。

◆この結果には心底ホッとした。若者、女性票の6割は民主党に流れた、と速報は伝えている。したたかなトランプ、強硬な姿勢は全く変えようとしないだろうが、そしてアメリカの分断は一層強まるだろうが、これまでのように王様の機嫌で世の中が動く事態は見ないで済むだろう。

◆地平線会議のメディアでアメリカの選挙のことをそんなに案ずるのか、という人もいるかもしれない。しかし、私たち一人一人の旅も冒険も人生そのものも、地球で展開するあらゆる政治や経済、そして文化の動きと無縁ではあり得ない、と私は考える。午後1時。オカシオコルテスの当選確実が報じられた。プエルトリコ出身の両親を持つ29才の女性。2年前の大統領選で、バーニー・サンダースの選挙運動に関わって頭角をあらわし、民主党のベテランを退けて候補となっていた。史上最年少の下院議員となる彼女の登場は、そのシンボリックな存在とも言え、強気の哲学で絶対優位を誇ってきたドナルド・トランプの足元を揺るがす存在になるかもしれない。

◆13日の前夜祭、14日の本祭と2日にわたった「地平線40年祭」が盛況のうちに終了した。どの内容も素晴らしかったが、13日の「地平線3分映画フェスティバル」は期待を超えて面白かった。はじめは2、3人しか手を上げず、大丈夫か?と心配したが、幕をあけてみればなんとなんと。表現することの才能と意欲に溢れる仲間が多いのだ、と悟った。この試み、これからも期待されるだろう。映画フェスはじめ40年祭の詳細は2ページ以降に。

◆前夜祭では恒例のオークションも盛り上がった。中でも今年は惠谷治夫人、眞保さん、原健次・典子夫妻のご長女、戸田由紀子さんら旅立った仲間のご家族からの協力がうれしかった。品物はどれも大変な人気だった。40年も続けてきた地平線会議である。これまでもこれからも見送る仲間の数はゆっくり増えてゆくだろうが、それらの人々のことを私は片時も忘れない。

◆オークションの盛り上がりをお知らせすると丁寧な返信をいただいた。「ずいぶんと盛況だったご様子が生き生きと伝わってきました。恵谷のものもお役に立ったようでこんなに嬉しいことはありません。江本さんも宮本さんもお元気の様子、これからもまた情熱をもって牽引していって下さることでしょうね。みなさまどうぞお元気でご活躍くださいませ。会議のご発展をお祈りしております」(恵谷眞保)

◆「嬉しいご報告、ありがとうございます。今後の地平線会議の何かのお役にたてば、父も母も喜ぶと思います。もしかしたら、二人で40年祭にちゃっかりおじゃまして、様子を観ていたかもしれません(笑)。父母を想ってくださり、本当にありがとうございます。(戸田由紀子)

◆14日の祭本番、どのパートも内容豊かだったが、私は「2部」で服部文祥氏が言ってのけた「自分がゆっくり死んでいっているような気がしている」との言葉が強く印象に残った。受け止め方はいろいろだろう。彼のような肉体を張った生き方は誰もができることではない。しかし、人生のある瞬間、それに似た思いにとらわれることはあるのではないか。人が他の生き物と違うのは、常に死を意識しながら生きてゆくからではないのか、と思うのである。

◆クロージングに登場してもらった宮本千晴さんの言葉も味わい深い。彼の語りはこれまでも多くの青年たちを惹きつけてきたが、滅多に登場しないのが問題だ。今回は特別に「地平線会議誕生まで」を語ってもらい、私とのトークは預かりとした。

◆『風趣狩伝』、手にしてくれた方々からは好評です。在庫あるうちに申し込んでください。もう読んだから、という人もフロント集の価値は何年か丹念に出し続けてきたことの意味を考える場、だということだと思います。

◆今月もいろいろ盛り込んでしまいました。地平線通信475号、「40年祭 恋する地平線特集」としたらなんと28ページに!(江本嘉伸


総タイトル


前夜祭 2018年10月13日 土曜日

映画フェス タイトル


榎町値域センター多目的ホール(新宿区早稲田町85)17:00〜19:00

■7月27日の報告会で開催を発表、募集を開始した「第1回地平線3分映画フェスティバル」。当初はエントリーがほとんどない状況が続き、一時は開催が危ぶまれたが、9月27日の締め切り直前に立て続けにエントリーがあり、関係者は胸をなでおろした。しかしエントリーはしたものの、フェスティバル開催1週間前にまだ撮影をしている作品や、編集者が悪天候で下山できずになかなか仕上げられない作品などもあって、最後の作品は開催当日、会場に届いてギリギリ間に合った。以下13作品、上映は作品が届いた順番に行われた。

会場参加者の全員投票で選ばれる「グランプリ」は、たがを監督の「しゃあまんのいちにち海編」が53票を集めて受賞した。報告会2次会参加費が1年間無料になる「北京杯」は瀧本千穂子監督「モンゴル大草原遊牧民生活2018」に贈られた。また、参加者全員がそれぞれのイチオシを「審査員特別賞」として選んだ。江本嘉伸審査員による「審査員特別江本賞」はみなちん監督の「『地平線を止めるな!パンケーキ』を焼く」が受賞した。副賞は「エモカレー」ご招待だという。おめでとうございます!(落合大祐


長野淳子さんと踊った「ダイナミック琉球」

■主催者特別上映「ダイナミック琉球への道」の横で踊らせていただき、ありがとうございました。踊りは身体が重くってイメージ通りじゃなかったけど、とても楽しかったです。実はこの企画はテンカラ食堂での酒の席(with ねこさん、かこさん、りえさん)で生まれました。大集会で何かしたいね→前はみんなで踊って楽しかったね→そういえば伊豆でダンス合宿したね→淳子さんと一緒に酔っ払いながら踊ったね→今回も踊りたいね→よっしゃ、そしたら「淳子さんと一緒にダイナミックパーティだ!」と盛り上がり、そんな企画をぶつけられた落合さんが素敵な映像を作ってくれて実現しました。

◆長野亮之介さんや坪井敬子さんや加藤ちあきちゃんにも盛り上げ隊をお願いしました。ちあきちゃんが着ていたのは、淳子さんが着ていた衣装です。会場にいた人達が淳子さんと一緒に、ダンスを観て笑顔になってくれていたら嬉しいです。さあ、次の大集会も踊るぞー! 踊りたくてウズウズしている皆さん、今から少しずつ自主練していてくださいね。今度は一緒に盛り上がりましょう。(岸本実千代 大阪)

個性あふれる作品ぞろいでした!

 ――3分映画フェスティバル講評

■地平線会議40年祭の前夜祭は「第1回地平線3分映画フェスティバル」。締切前日の応募はわずか4作品しかなく開催が心配されたが、駆け込み応募が相次ぎ最終的には13本の個性的な作品が集まった。

◆『鹿笛猟奥秩父』は服部文祥さんが笛で鹿をおびき寄せる狩猟を描いた緊張感あふれる映像。猟を撮影する(される)余裕があったのはさすが。『幸田文が綴る富士山「大沢崩れ」』は花岡正明さんが富士砂防事務所時代に企画した映像を再編集したもので、豪雨による土石流のすさまじい破壊力に圧倒される。

◆『Voice from the Arctic Ocean』は高沢進吾さんも参加したアラスカのクジラ猟の記録。自作の水中マイクで録音した地元の人も聞いたことがないというクジラの鳴き声に耳をすませ水面下の世界を想像した。『モンゴル大草原 遊牧民生活2018』は毎年通っているという瀧本千穂子・柚妃親子のモンゴル旅日記。しっかりした構成で遊牧民の暮らしをわかりやすく伝える。

◆『地平線を止めるな!パンケーキを焼く』は「みなちん」こと掛須美奈子さんによる地平線流3分クッキング。パンケーキの作り手はもちろん久島弘さん。『しゃあまんのいちにち 海編』はドキュメンタリーが多いなか、注文の多い(と思われる)たがを監督が脚色・演出したドラマ。しゃあまんを演ずる坪井伸吾さんの真剣な表情に会場は抱腹絶倒、かとうちあきさんの妖艶な演技も魅力的で続編が待たれる。

◆『SECOND SEASON』は今年6月に光菅修さんが参加したパラオからヤップ島までの航海の記録。詩情あふれる映像はできれば長編で観たいと思わせる。

◆『サバ』は関野吉晴さんがモンゴルで出会った少女プージェの祖母・スレンさんを訪ねた大西夏奈子さんの作品。御年96歳?(実際は87歳?)というスレンさんのはにかんだ笑顔が何ともすてき。『常念より愛をこめて』は強風が吹き荒れる常念岳の稜線で小原直史さんがカメラに向かってひたすら叫ぶ作品。マイクは風の音だけを拾い本人の声はまったく聞こえないのが惜しい。

◆野宿野郎さんの『シン・シュラフマン〈予告編〉』は植村直己冒険賞受賞者2人を含む5人のシュラフマンが身体を張って作った反五輪?映画。2020年の東京オリンピックに向けて撮影が進んでいる(と思われる)本編に期待が高まる。

◆『ZEROtoSUMMIT』は海から川の流れに沿って山頂まで走る二神浩晃さんの「ZtS(国内篇)」の紹介。ドローンによる空撮を多用した立体的な映像がすばらしい。『永遠の蒼(そら)』は数年前に熱気球で日本アルプス越えを敢行した安東浩正さんの貴重な映像で、今はもう飛行が許可されず挑む者もいないという空の冒険は迫力と美しさを兼ね備えていた。

◆『犬ぞりレースに挑む【マッシャー】本多有香の生活とは?』は加用裕紀さんがテレビ番組用に撮影したもの。極北の地で犬とともに暮らす本多有香さんの生き方がいつもより雄弁な彼女自身の言葉で伝わってくる。最後に、主催者特別作品の『ダイナミック琉球への道』を上映。スクリーンの前で長野亮之介さん、岸本実千代さん、中島ねこさん、村松直美さんが映像から飛び出てきたように躍動的に踊る姿がやけにまぶしかった。

◆参加者一人6票(1作品に複数入れるのも可)の投票で選ばれる「グランプリ」は、1票差でたがを(緒方敏明)監督の『しゃあまんのいちにち 海編』に決定したが、副賞の記念品はなんと緒方さん作。じつは上映前に、得票数が同数の場合と緒方さんが受賞した時の椿事を心配したのだが、まさか本当にそんなことになるとは……。結局、僅差だった二神浩晃監督の『ZEROtoSUMMIT』と、高沢進吾監督の『Voice from the Arctic Ocean』を「準グランプリ」とし、記念品は二人へ。

◆「審査員特別江本賞」はみなちん監督の『地平線を止めるな!パンケーキ」を焼く』、「北京杯」(不肖わたくしが選定)は瀧本千穂子監督の「モンゴル大草原 遊牧民生活2018」がそれぞれ受賞した。誰もが気軽に動画を撮れる時代というが、これほど多様で興味深い映像が集まったのも地平線会議ならでは。早くも次回(っていつ?)が楽しみである。(突然審査員に指名された 飯野昭司 山形 「山形国際ドキュメンタリー映画祭」インターナショナル・コンペティション部門選考委員)

【はみ出し情報】60年前にスタンダードカクテル「雪国」を創作した92歳の現役バーテンダーを描いた『YUKIGUNI』が2019年正月にポレポレ東中野とUPLINK渋谷で公開決定。そして、あの淀川長治さんに世界一と言わしめた伝説の劇場「グリーン・ハウス」の魅力を伝える『世界一と言われた映画館』が2019年1月5日から有楽町スバル座で公開決定。山形県酒田市発の映画が2本同時期に東京で公開されるのは前代未聞。ぜひご覧ください。


映画フェスあれこれ

グランプリ受賞監督の感慨

 ああ、今回は、ぼくは変な映画、創ってしまいました〜。すいません。視てくださって、ありがとうございます! 楽しんで観てくださったかたが、いらっしゃったので、とても嬉しかったです。完成さくひんは、たしかに「3分」ですが。創作の経緯には、なかなか、いろいろ、有りました。それは、おもしろくて楽しい事ばかり、です♪ 

 ぼくら、撮影前も 撮影中も 編集も わりと話し合いました。話し合うというか、「いつもの感じ」というか。まあ、全員、ほぼ毎月、会ってる仲なので。いつのまにか、「お互い」を知り合ってた ってことかも。なんとなく それぞれの人が感じてる「ニュアンス」みたいのが、その現場のときどきに解るというか〜。

 だから、それぞれのひとの魅力みたいのが、映像「さくひん」の中に自然に際立ったのだとおもいます。「遊ぶ」こと ほんとに好きなひとたちだし。 

 3分映画祭グランプリ賞は、素直に嬉しいです。ありがとうございました。さくひん創作関係者全員、喜んでます。なにが嬉しいかというと、作品を視てくださったみなさまが、楽しんでくださったことです。作品が愛されることが、創った者たちとしては、いちばん嬉しいし、そのことそのものが最高の賞だとおもいます。 

 今回のさくひんは、視るひとの価値感によって、それぞれにさまざま解釈できるように描きたかったです。いろいろな感想意見をいただいてます。たとえば、関野吉晴さんが、「冥途のイメージ」と評価してくださって、とても嬉しかったです。主演の坪井さんは、強風寒冷の中、かなり過酷だったとおもいます。なので今回の受賞は「主演男優賞」みたいなものだと想います。

 なにもかも、「しゃあまん」の御利益だとおもいます。坪井さんをふつーに撮ったら「しゃあまん」が映ってた、って感じです。坪井さん本人自身が「しゃあまん」だということに気づいて無いからなあ〜。だからなおのこと、坪井さんって、いつも輝いてるんですよね〜♪

 ぼく的には、妄想から創作から 合宿もロケも 私的に「すべてが楽しかった」おもしろかったです。坪井伸吾さん、かとうちあきさん、長野亮之介さん(撮影)、さかでひでとしさん(編集)、この個性的な四氏の、だれひとりが欠けても さくひんはリアルに生まれなかったと おもいます。みんな、モチベーション高かったです。おもしろくて すごくノリがいいチームワークだとおもいます。

 ぼくの幼稚な「妄想」の具現を、いろいろ提案工夫してくれて、ほんとうに ほんとうに感謝であります。(緒方敏明 「しゃあまんのいちにち」監督)

不思議な縁に感謝

■はじめまして、水流ランをやっている二神(ふたがみ)と申します。この度の映画フェスに『ZERO to SUMMIT』(以下、「ZtS」)を出品させていただき、栄えある準グランプリをいただきました。高い評価をいただき、深く御礼申し上げます。

◆「水流ラン」はわたしの造語で、川ぞいを走ること全般をそう名付けています。そのなかでも、河口から山のてっぺんまでずぅーーーっとひとつの水流をたどりつづけて走ることをZtS、国内四十七都道府県の最高峰をめざして同様に走ることをZtS47と呼び、2016年に活動を開始。地形を読み解き、なおかつその地域の歴史と文化に照合してもっともふさわしい一本の流れを選び、走っています。

◆国内では現在十座を実施済みですが、ZtSは世界の山と川も見据えています。地中海からローヌ川をたどりつづけ、シャモニーから氷河を登ってモンブランへ──そんな光景を想像するだけで心が躍るのです。この海外篇実施を模索するなか、学生時代から憧れている関野吉晴さんのグレートジャーニーが武蔵美で上映されると知り、ここにヒントがあると信じて通いつづけました。

◆そこで出会った坪井伸吾さんに導かれて出席した地平線報告会で映画フェス開催を知り、ZtSアピールの絶好の機会だと直感。新参者であるにもかかわらず、無謀にも初代グランプリの獲得をめざしてエントリーした次第です。グランプリは逃したものの、作品に見入る観衆の横顔にはこみ上げるものがありましたし、今回自己紹介までさせていただき、不思議な縁に感謝いたします。

◆一種の地理的探求であり、地域文化の再発見とまったく新しいアソビの創出もひそかに狙っているZtS。ランニングでも登山でもない、どの既存分野にも属さないこの活動は一体なんなのか、評価に値するものなのか、自分でもよくわかりません(アートかなと思っています)。二神、そしてZtSとは何ものか、地平線会議でお諮りいただければ幸いです。(二神浩晃

追記:1972年生まれ。愛知・岐阜・長野育ち、世田谷区在住の会社員(建築検査機関)。小中高で野球、日本大学ワンゲル部と社会人山岳会で登山全般、その他ツーリングカヌー、トレイルランニング等を経て、40歳からはランニングに一本化。最初で最後のフルマラソンでサブスリー(2:48”50’)達成後は独自の水流ランに特化し、現在に至る。妻、8歳の娘、4歳の息子の四人家族。

たくさんの調理道具を使う夫のパンケーキ作りの現場

■3分映画! その告知を見たとき理由はわからないがワクワクした。内容は何でもアリなので何か出品できたらいいな〜と思っていたら開催危うしの続報が。中止はつまらない。本気でエントリーすることにした。さて題材は? 朝の日課、たくさんの調理道具を使う夫のパンケーキ作りを記録しておきたい。ただそれだけでは面白くないな〜こうしたら?と内容が固まった。

◆構想1カ月撮影2日編集1日。タブレットで撮影し無料ソフトで編集した自画自賛の出来映え、助手に感謝。当日の13本+αはそれぞれの世界が詰まっていてまた観たい作品が多かった。そんな力作揃いの中、「審査員特別賞」をありがとうございました! 今度パンケーキご馳走しますね江本さん。そして次回開催を楽しみにしています。(夜空を南へ渡る白鳥の声を聞きながら 掛須美奈子 千歳市)

映画フェス、面白かった!

■東京の滞在時間2時間ちょっと。普通に考えればもったいないかもしれない。でも、思い切って行って良かったです。地平線3分映画フェスティバルの作品は、「本気で生きている」人たちの作品。1番目の服部文祥さんからドキドキがとまりませんでした。落ち葉のこすれる音、鹿笛の音色、森に響く銃声、命あるものの最期。会場の全員が、目をこらし、耳を澄ましていました。普段の生活では感じられない、自然の豊かさや、生き物たちの声、そこに住むひとたちの暮らし。本当にお得な(1?)2時間でした。固まっていた心がほぐれた気がしました。

◆「サバ」のスレンおばあちゃんは、何回見ても笑顔になれそうです。仕事があって、なかなか時間が作れないことであきらめていたけれど、これからも地平線会議に行ってエネルギーを充電しよう! と思いました。ありがとうございました。(前夜祭の3分映画祭のみ参加 クエこと杉本郁枝 静岡)


オークション タイトル


3分映画フェスティバルが行われた榎町地域センターからオークション会場の「北京」までは歩いて7、8分。美味しい餃子が安く食える、と人気の店だが、この日は貸切にしてくれた。1時間近く飲食して盛り上がったあと、いよいよ本番へー。
北京(中華料理店/新宿区早稲田町74)20:00〜22:00

■「さあさあ、地平線オークションがはじまるよ〜」大集会恒例のオークション。会場の「北京」では、とっておきの「お宝」を見るため、そして手に入れるため、期待でみんなざわついていた。祭の衣装で準備万端の競り担当の長野亮之介さんと大西夏奈子さん。落札者には、関野さんの写真も特別にプレゼントされるとの嬉しいお知らせ。

◆下川千恵さん提供のインドネシアの村のラタン製品。家族ごとに異なるデザインで編んであるとのこと。素敵〜。「これをかぶって遊びに来てね」とコメントの付いたとんがり帽子は瀧本柚妃ちゃんの手に。かとうちあきちゃん敗れる……。ランタン谷のチベット絞り染めのマフラーは貞兼綾子さんから。布好きとしては、前のめりになる。競りの時、怖い顔していたかも……私、ゲット!

◆7月に亡くなられた原典子さんのご家族からは、貴重な「手塚治虫の原画」! ざわつきが一段と大きくなる。そして、価格も一気に上がる。高世仁さんがどんどん値をつり上げ,今回の最高価格に。長野画伯の個展で展示してあった猫の墨絵掛け軸はちあきちゃんが入手。

◆恵谷治さんが海外で集めた装身具や民族衣装、不思議な旗やペナント等が登場。やはりここは、岡村隆さんに一言をお願いする。「これが、いったい何であるのかさっぱりわかりません。恵谷にはそういう趣味があったのです」と紹介していただく。モロッコのマントは久島弘さんとの競り合いの末、兵頭渉さんのものに。突然、「熱気が足りない!」と大将こと丸山寛さんが現れて、「いいのか、いいのか!ほかにはいないか!」と煽り始める。恵谷さんがいない寂しさを実感……。金のアクセサリーは、またもやちあきちゃんが。翌日の大集会で早速身に着けていた。さすが!

◆最後は白根全さん提供の南米グッズ。女性達が群がる! 私もまた、前のめり状態に。アルパカ製の帽子は、みんながかぶってみたくて引っ張りだこ。光菅修さんは柚妃ちゃんへの贈り物として落札。あれよあれよと3点が売れてしまった〜。アマゾンスリーポ族の泥染布は、じっくりと獲物を狙っていた松原幸子さんの元へ。時間が迫って、最後は一気に駆け上がり終了。

◆書き切れないたくさんのことがありました。参加者みんなが本気で狙った「お宝」。出品してくださった方々に大感謝のオークションでした。(飛騨から参加 中畑朋子

 オークション協力者と提供品目

■下川知恵……藤のハンドメイドのカバン(ロングスレ村の母さん手づくり)/トゲトゲハット(ロングスレ村にこれをかぶって来て下さい)

■貞兼綾子……ランタン村の伝統的女性用手織り帯

■原健次……手塚治虫「きわめつけ1000ページ」セット箱(ピンバッヂと原画も)

■関野吉晴……アラスカの写真パネル(アラスカ・罠猟師)

■関野吉晴……アラスカの写真パネル(アラスカ・ダイアモンドダスト)

■関野吉晴……アマゾン写真パネル(アマゾン・マチゲンガの女の子)

■本多有香……ナンバープレート(ユーコン州の現物)

■長野亮之介……絵(墨絵の掛け軸。2017年秋「一氣一遊展」展示作品)/フリースと財布

■白根全……アルパカクッション(ペルー。ナスカの地上絵の土産付)/アマゾンスリーボ族泥染の布/チチカカ湖の帽子/チチカカ湖の帽子/手袋(子供用)/テーブルセンター/ペルーの帽子1/ペルーの帽子2

■植村直己冒険館……バッグ(豊岡の革製品)ビジネスバッグ/2Wayバッグ/ボストンバッグ/デイパック/ショルダーバッグ

■惠谷治……アクセサリー2種(中国のブレスレット(龍の彫刻)/ペンダントヘッド)/著書3冊(北朝鮮3冊セット。蔵書印あり)/布(テーブルクロスのようなもの。タージマハル?)/クルタ(サイズ表示:56)/旗・ペナントセット(バスク州旗/レーニン「社会主義競争に勝利せよ」)/テーブルクロス(インドの壁掛け?)/マント(モロッコのシュラパ。ウール)/空母いぶき(幼なじみの漫画家かわぐちかいじ作惠谷治監修のマンガ)セット(スコッチウィスキーとプラモデル)

★合計130,500円となりました。地平線会議の活動資金に活かします。すでに天に旅立たれた仲間のご遺族はじめ、皆さん、ご協力ほんとうにありがとうございました。


通信費、カンパをありがとうございました

■先月の通信でお知らせした後、通信費(1年2,000円です)を払ってくださったのは、以下の方々です。数年分まとめて払ってくださった方もいます。なお、「1万円カンパ」 は別に記載しています。通信費は郵便振替ですが、1万円カンパは銀行振り込みですのでお間違いなきよう。

櫻井悦子 10,000円 通信費5年分です。別に9/18にカンパ10,000円送金しました。地平線通信は私の元気のバイブル。地平線的精神永遠につなげて欲しいです)/酒井富美(10,000円 40年祭おめでとうございます)/竹下郁代(4,000円 今年は秋口より帯状疱疹に悩まされ、年を感じました。入金が遅れまして済みません。昨年今年の2年分を払い込みます)/寺田文子(西嶋練太郎さんから紹介されて473号、わくわくして拝読しました。購読申込します。よろしくお願いします)/金子浩(住所変更しました。よろしく)


本祭 東京ウィメンズプラザホール
2018年10月14日 日曜日
 地平線会議、東京ウィメンズプラザでの20年ぶりの大集会は小雨の中だった。受付には『地平線風趣狩伝』とゾモ「鯉」コラボTシャツが積まれ、ホールに続々とやってくる参加者たち。
 一方でステージの準備が遅れ、品行方正楽団のリハーサルが直前まで続いて、時間通りにスタートできるか冷や汗が出る。
 そして司会は誰かやるだろうと決めずにいたら、結局落合が自分でやるしかなくなってしまった。こうなればヤケッパチだ!こうして「40年祭」は3分映画フェスで昨夜グランプリを受賞した「しゃあまんのいちにち 海編」上映から、5分遅れで始まった。(落合大祐

第1部 タイトル


■第一部が始まる前に、前日の地平線3分映画フェスティバルでの大賞を受賞した「しゃあまんのいちにち海編」が上映された。ナンセンスな受け狙いともとれるが不思議な精神世界を映し出しているようにも見える。第一部のナビゲーター関野さんの発言は、この映画へのコメントから始まった。

◆世界中を旅していて、次はどこに旅に出ようかと考えたとき、精神世界の「あの世」への旅を思いついたが、帰ってくるあの世への旅はどうすればいいのだろう。この映画に現れたような、あの世とこの世をつなぐ精神風景は、多くの臨死体験者の体験談にも表れていると。うわー、受け狙いの映画が哲学的な意味を持ってきた。おがたがを監督の今後に期待しよう。

◆さて、第一部の最初のゲストは樫田秀樹さん。ボルネオ島サラワクの原生林が破壊され、アブラヤシ(パーム油)のプランテーションにどんどん浸食されていて、オランウータンやピグミー象などの希少動物が絶滅の危機に直面しているという。日本では石鹸の原料にパーム油が使われエコと称されるが、その裏ではこのような大規模環境破壊がされている。今回樫田さんはプナン族の生き方について多くを話してくれた。

◆プナン人は定住しないで森の中で移動しながら生活する。狩りは真夜中に行い、真っ暗な森の中を昼間と同じ速さで歩くことができる。取れた獲物は集団内に均等に分配する。でんぷん質はサゴヤシという木を砕いて汁を出し、その汁を搾って取り出す。サラワクの原生林の中で自然の食う食われるの一部として組み込まれたプナン人は原生林の生態系の一部になっていると感じた。

◆プナン以外の民族では鉄砲で狩猟する民族や焼き畑をしているものもあるという。焼き畑は10年周期くらいで焼き畑を行う区域を循環しているという。こちらも持続可能循環社会であるではないか。関野さんのコメントに、プナン人は持っている技術は出し惜しみしない社会で集団が一体となって生きているという。そのため、「ありがとう」という言葉がないそうだ。何かを人のためにやることは当たり前という相互関係だ。

◆私には集団として一つの生命体のようにも思えた。樫田さんは、ボルネオで生きる人たちが森は銀行とおなじと言っていることも紹介した。森で生きるプナンの人も、また森で焼き畑農業をする人も、何百年か分からないが同じ生活を送ってきたのだろうと想像する。このような人たちを支える森をアブラヤシのプランテーションにしてしまっては、希少動物どころかサラワクの少数民族の絶滅を招いてしまう恐れがあると感じた。

◆絶滅危惧種は動物だけではなく、人類の多種多様な生き方をしてきた民族も同様であろう。いや、人間の営みなので世界文化遺産とでもすべきであろう。動物の環境適合と違い、人間だから、別の方法でも生きられるという価値観を押しつけて森を奪うことは、やはり重要な地球上の生命を奪うに等しいことに他ならないと思えた。

◆二人目のゲストは糞土師こと伊沢正名さん。まず初めに関野さんから「うんこを埋めて時間がたつといい匂いになるので、うんこの匂い成分のスカトールは香水の成分にも使われているんですよね。うんことどこが違うんですか」、伊沢さん「匂いは同じですけど濃度が違うだけです。薄めると香水になるんです」。ウゲー、なにか異臭と芳香の混乱状態になった。

◆伊沢さんは元々コケやキノコなどの写真家でじっくり時間をかけて撮るような写真が得意とか。レンズの目線が超低いところにあり、普段上からしか見えないキノコなども下から見ると違ったように見えるという。そして、なぜ糞土師になったか。「生き物は動物も植物も区別しない。菌もおなじ。そうした中で、生き物は別の生きものが生産した(又は排泄した)ものを食して生きているという。うんこも菌のえさとして与える必要があると考えた。

◆そうして、一度野糞をしてしまうと楽しくてしょうがない。そんなわけで最長13年間野糞をしてきた記録がある。食物連鎖というなかで、奪った命は返すという考え方に基づき、うんこも自然に返さねばならないという。これは御馳走をいただいた人間の責任であり、御馳走の変わった姿を自然に還元しなければならないという。

◆私はこれまで食物連鎖の頂点の動物は奪うだけと考えていた。還元するとすれば死んだときの遺体だ。もちろん遺体は土に還る。しかし、うんこも還元の重要なものという伊沢さんの考え方は現代人のきれいなトイレを考え直させる。考えれば、昭和の初期まではお百姓は人糞を野菜の肥料としていたわけだし、江戸時代から都市のうんこは専用の業者が取引をして、都市の衛生と住民の食料生産を守っていたということに気づかされる。

◆プラスティックや紙、金属などエコと称して再利用、再処理加工などが厳しく言われる世の中になっているが、逆に見れば使い捨てが当たり前になりすぎて、どこまでが元に戻せるかをためしているような変な商品経済になってしまっているということだと思う。ストローをプラスチックではなくするのも良いが、うんこの再利用をするほうが優先順位が高いのではないかと思えてきた。

◆関野さんのナビゲートで、お二人が現代の問題を語りながらもずーっと昔の人間の営みと現代の営みの大きな変化を見せてくれているようであった。エコとは何だろう。政府や企業の言う「エコ」とは「エゴ」の間違いじゃないかと思えてくる。今の世の中を生きている私たちが、どこまで振り返ればよいのか、またどこまで振り返ることができるのか問われているような、出口を見つけるのが困難な迷路に放り出されたような複雑な気持ちが余韻として残った第一部だった。(北川文夫 岡山)


チャンプルー タイトル


■昼食休憩のあと、にぎやかに太鼓が響いた。300回記念集会をきっかけに結成された「品行方正楽団」の面々の久々の登場だ。ことし6月に逝去した団員の長野淳子さん(三線担当)を偲んでの選曲。「ステージの背景として演奏する淳子さん、ただ幼く可愛かった長岡祥太郎君の愛らしい姿の写真(いずれも白根全撮影)が」。メンバーは、長岡竜介(ケーナ・ギター)、長岡のり子(ピアノ)、長岡祥太郎(ピアノ・コンガ)、長野亮之介(和太鼓)、白根全(パーカッション)、車谷建太(津軽三味線)、張替鷹介(ヴァイオリン)、大西夏奈子(和太鼓)といった顔ぶれ。

◆寄せ太鼓のあと、淳子さんが好きだった中島みゆきの「糸」を団員たちが演奏しながら歌い、「 アンデスのお祭り」「 満月の夕」とつなげていった。じっと聴き入るとなんだか涙がにじんでくる舞台だった。はじめて聴いた客の中には「ほんとうに感動した。こんな素晴らしい演奏グループが地平線にいたのですかあ!」と心底驚いていた。(E

のり子飯史(めし)と共に歩んだ品行方正楽団の10年

  先ず初めに40年祭 恋する地平線にて品行方正楽団の演奏をさせていただけました事、またリハーサルよりサポートして下さいました実行委員、スタッフの皆様に楽団一同心より感謝申し上げます。

 楽団の歴史をちょっとだけおさらいすると、300か月記念フォーラムのオープニングを飾るべく、長野亮之介(太鼓)、白根全(パーカッション)、大西夏奈子(太鼓)、長岡竜介(ケーナ)の4名で結成されたのが品行方正楽団の始まりです。そこに長野淳子(三線)、車谷建太(津軽三味線)、張替鷹介(ヴァイオリン)、私、長岡のり子(ピアノ)と息子の祥太郎が加わり現在の9名編成になったのが、30周年の時でありました。

 当時は仕事を終えて、夕方から我が家のスタジオに集まって練習を重ねたわけですが、練習が終わる頃には全員おなかもぺこぺこに。そこで軽く夕食でおもてなししたのがきっかけで、練習の後にはみんなで食卓を囲むスタイルが楽団の定番となっていきました。

 30周年の本番が終わってからも、私の夕食に味をしめたメンバー達は、クリスマス会、忘年会、新年会、誕生日会と口実をつくっては集まり宴を催すこと10年。そうです、この度の楽団紹介で夏奈子さんの告白に衝撃を受けた方がいたと聞きましたが、私達はひたすらに宴会をし続けてきたのです。

 ちくわぶに群がったおでん、出汁をひいて作ったキムチ鍋、馬肉のすき焼き、生地から手作りしたピザやタコス、ローストビーフ、韓国薬膳の参鶏湯etc.。宴会料理は「のり子飯」と名付けられ、それぞれに思い出がよみがえります。でも、実は楽団の男性陣もみんな料理上手なのですよ。

 楽団の宴会ルールはただ1つ。全員集合すること。食べて飲んで、最後はボードゲームで大いに笑う。練習はいずこへ。昨年淳子さんの病気がわかってからも、変わりなくずっとずっと続けてきたことでした。そんな楽団に転機が訪れたのが今年の6月、私達の大切な家族の淳子さんを失ったときでした。「淳子さん、もっと練習してうまくなりたいって言ってたね」。誰からともなく「40年祭で演奏しようよ」。私達の心が決まるのに、時間も多くの言葉も必要ありませんでした。

 「チャンプルー♪ミュージックに恋して」と題したステージでは、結成時からの楽団の代名詞でもある「寄せ太鼓」(太鼓、チャンチキ、津軽三味線のアドリブ〜ヴァイオリンとピアノの情熱大陸〜津軽三味線とケーナのコラボ/40周年スペシャルバージョン)、淳子さんの好きだった言葉の力を感じる2曲「糸」と「満月の夕」、南米の名曲より会場参加型の「アンデスのお祭り」の4曲を演奏しました。

 演奏中のスライドは我らが楽団の写真家、全さんが10年間撮りためていたものを鷹介くんの編集でおとどけしました。30周年の時は3才でステージ上をチョロチョロし寝てしまった祥太郎も中1になり、ボンゴ、ピアノ、ボーカルを担当し、楽団にはなくてはならない存在に成長しました。メンバーが抱えていた大変なコンディション、短い練習期間にもかかわらず、この数ヶ月とても濃密な時間を共にし、楽団員の力を結集したステージにすることができたと感じています。私達の伝えたかった「淳子さんと共に音楽を通しての家族感」それがすこしでも皆さんに伝えることができたならば幸いです。

 そして、反省会という名の宴会を既に催したことはいうまでもありません。(長岡のり子


■地平線はみだし情報■

■「長岡竜介ケーナコンサート」2018年12月10日(月)19:00開演/ルーテル市ヶ谷センターホール/前売券4,000円・当日券4,500円/チケットご予約は長岡音楽事務所(Tel&Fax03-3709-1298)までご連絡ください。


1万円カンパ、ありがとうございました!

先月の通信で掲載させていただいた「1万円カンパ協力者」リストの中に手違いで漏れている方がいました。お詫びしてここに、その後の協力者氏名とともに掲載いたします。これで協力者は120人となりました。ありがとうございました。なお、カンパは来年春まで続け全協力者氏名をあらためて掲載いたします。

河田真智子/高世泉/村松直美/街道憲久/白根全/横内宏美/尾形康子/猪熊隆之/河野典子/ 青木明美/金子宏/野々山富雄/佐藤正樹カンパの振込先は、以下の通りです。
■みずほ銀行四谷支店 普通 2181225 地平線会議 代表世話人 江本嘉伸(エモトヨシノブ)


第2部 タイトル


■11月で2歳になる双子。そのひとりを背負って地平線40年祭に参加した。関野さんに抱っこしてもらうと、なぜか大泣き。その後、品行方正楽団の演奏では静かに聞き入っていた息子。生演奏の音楽は、こんなに小さな人にも伝わるんだな、と思いながら、第2部へ。「自分の可能性に恋して」のパートが始まると、どうにも静かにしていられなくなった息子。彼を背負って、立って、聞くことにした。

◆サバイバル登山の服部文祥さん、北米大陸単独横断ランニングの坪井伸吾さん、第一回地平線報告者にして超長距離ランナーの三輪主彦さん、がステージに上がる。まずは3人の行動を紹介。服部さんに促されて、坪井さんが走り始めた経緯を説明した。坪井さんの走り旅は、肩肘張らない自然体。2005年、4ヶ月かけて北米大陸を5400km走って横断。

◆それ以降は24時間走とか、ここ数年は河口湖のマラソン大会に毎年出場する程度。無理していないから、特に怪我はないという。それに対して、服部さんはここ2年ほど膝が痛くて苦労しているそうだ。つづいて三輪さんの走りの経歴へ。三輪さんが第一回地平線会議で報告した頃には、すでに日常的に走っていた。トルコに滞在していたときのこと。街中で走ると地元の人に警戒されて走りにくく、郊外なら大丈夫かと思って、都市部を離れて走っていたら、野良犬に追いかけられて走りにくかった。

◆坪井さんもアメリカ走り旅ではこっそりテントを張っていても犬に気付かれてしまうから嫌だったと。野良犬はランナーにとって宿敵なのか、と感じながら聞いていたら、服部さんがぼそっと一言、「叩いて食ってしまえばいいんですけどね」。「犬は食ったことないけど、狐はうまいから犬もきっとうまいですよ」と。一人ひとりの強烈な体験がさらっと触れ合う。

◆服部さんは山登りの延長線上で釣りや狩猟をやっている。若い頃からアスリートレベルの高い活動をしたいと思っていた。陸上競技で求めているのは、強さと速さ。距離の長さではない。 専門は中距離走の400m、800m、1500m。それに加えて3000m、5000mに取り組んでいる。人間の身体がどこまでやれるのか、自分自身で表現したいと考えていた。

◆しかし、それができたのは40歳過ぎぐらいまで。42〜43歳の頃に自己ベストが永遠に出ないだろうな、と実感したあたりから、「自分がゆっくりと、死んでいっているような気持ちがしている」。それ以降は良くて平行線、微妙に下がっている。せっかく積み上げていたものを失うのが嫌で、一生懸命アンチエイジングでトレーニングをしている、というのが現状だそうだ。

◆服部さんから「どうです? そういうこと、します?」という話のバトンを受けて、坪井さんの走り歴に。「そんな哲学ないんですよね」と坪井さん。走るスタンスが根本的に違うようだ。はっきり言ってそんなに努力していないと。学生時代にぶっつけ本番で完走した、初めてのフルマラソンは感動した。しかし、翌年練習して1時間もタイムを縮めたのに、その時は感動しなかった

◆その後、走るのを中断していた40歳くらいの頃、原稿ばかり書いて運動をあまりしていなかったところ、家の階段の昇り降りで膝が痛くなってしまったそうだ。それで少し運動をしようと思い、ランニングシューズを買って、走りを再開。100kmマラソンの存在を知り、どこまで行けるのか、と参加してみると完走できてしまった。100kmの先、どこまで行けるのか知りたいという思いが、アメリカ大陸横断ランニングに繋がっていった。「だからそんなに努力してないんです」と。

◆服部さんからの「坪井さんが求めるものはタイムではなく距離なんですね」との問いに「距離というよりも面白ければいいな」という思いで行動していると。北米大陸横断の時は、毎日が自己記録の更新で、同じ日は一度もなかった。ゴールの時は、感動よりも走り終わって寂しいな、という思いの方が強かったそうだ。

◆続いて、三輪さんが中距離走に取り組んでいた頃の話に。「今はっきり覚えていないけれど、1500mを4分20秒台で走っていたはずなんですよ」と三輪さんがいうと、間髪入れず服部さんが「速いじゃないですか、僕1500m4分25秒台で45歳以上の横浜市記録持ってるんです」と。そのスピードにもかかわらず、三輪さんが朝霞市民運動会で3000m走に出た時は、9人中最下位。大東文化大学の連中が速くて、「町内会で1位になるのは大変だなと思ったんです」という言葉に、会場からは笑いが。

◆ハセツネカップでも50歳の部で6位になり、総合でも30台の順位。シルクロード走り旅の中山嘉太郎さんよりも速かったそうだ。高校の先生をやっていた三輪さんは、高校生に競争を挑まれても最初は負けなかった。しかし、45歳頃を境に負けると悔しいからやらなくなった。その頃から、超長距離を走るようになったそうだ。三輪さんが「江本さんも速くて5000mを17分で走るんです」というと、服部さんはここでも間髪入れず、「『走った』んですね、そこ重要ですからね」と。

◆話は、身体測定の数値と山走りのタイムについてへ。ある時、鹿屋体育大学の山本先生の研究の一環で、三輪さんと江本さん、そして若者の身体を測定して比較したそうだ。組織や身体能力の数値では、若者の方が明らかに優れているのに、山走りでは三輪さんの方が断トツ速かった。無理して頑張ったわけでもないのに、タイムは1時間以上の差がついた。結局、科学的な説明はつかず、わからないけど年寄りには山が合っているのだろう、という話になったそうだ。

◆坪井さんの走りのコツは、悩まないこと。「疲れてきたら、何のためにやっているんだろうとか考えてしまうんだけど、考えなければいい」という坪井さんの言葉に対して、「僕、行動の意味を考えて言葉にして売っているんで」と服部さん。行動に対する根本的な違いがここにも現れている。服部さんの「ゆっくりと死んでいるかもしれない説」は間違っているのか? 三輪さんから、「ゆっくり死んでいるんだよ、それはしかたないんだけど」と。先日、お遍路さんの道をたどった1200kmでも身体の衰えを感じた。でも、坪井さんの説で言うところの「あぁ衰えてるな、と思うだけで、悩まないんですよ」。

◆服部さんは40歳の時、800mで40歳以上の部で日本一になった。45歳の部では日本一になれなかったので、50歳の部では再び日本一になりたい。できれば日本記録も出したいそうだ。本気でトレーニングしてスポーツを続けていると、いつかは身体が壊れていく。坪井さんのように、悩まず無理しないのが、長く走り続けるコツなのか。「はっきり言ってトレーニングはしていないです」と坪井さん。結局、アメリカ大陸横断では、走る力よりも、必要なのは人に対するサバイバル能力だった。

◆目標を定めてトレーニングし、身体の衰えに抗う服部さん。その場、その時に順応していき、なんとかなるよと北米大陸を走りきった坪井さん。中長距離で強く速い走りから、ゆっくり超長距離へ、悩まない走りに至った三輪さん。行動のスタンスが根本的に違う、服部さんと坪井さん。そのあいだを三輪さんがつなぎ役となって、時間とともに鼎談の場がほぐれていき、本音が交わっていったように感じた。

◆残り10分、江本さんからの呼びかけで田中幹也さんがステージにあがる。ここ数年、気がつくと台風という厳しい自然条件の山を経験している、ような状況。「地平線で報告者にもなった山岳天気予報の猪熊さん、彼は彼でいいんだけど、彼が大雨強風の予報を出すと、みんなが下山しちゃう。そういうのって、なんかつまんない」。幹也さんが台風の時にテントを張る場所は、基本的に森林限界の上で、尚かつ風当たりが強いところだそうだ。

◆「登山は道のないところを登るものなのに、日本では登山道を外れると怒られる。本来、登山道を登るのって、ただのレクリエーションであって、登山って言わないんですよね」と服部さんがいうと、すかさず「登山道は走るもの」と三輪さん。そして幹也さんは「台風のときも、夏の登山道は登山と言えるんじゃないですかね」と。この掛け合いが面白くて、会場の笑いを誘っていた。

◆しかし、世間の常識ではなく、自分自身の価値観で行動を捉えている人同士が、本音で語っている言葉だと感じた。「道をたどるのは登山とは言いません」と服部さんが締めくくった。幹也さんも「ズバリそう思う」。服部さん、坪井さん、三輪さん、幹也さん、これだけのキャストが一つの場で語り合った約53分間。会場に居られることをとても幸せに思いながら、話の展開に聞き入っているうちに、あっという間に第2部は終わってしまった。(いまは3児の父 山本豊人


先月号の発送請負人

■地平線通信474号(2018年10月号)は10月6日土曜日午後印刷、封入作業をし、この日7時、郵便局に集荷してもらいました。1週間後に「40年祭」を控えて大忙しの通信制作、皆さんの頑張りで贅沢な内容の通信が出来上がりました。作業に汗を流してくれたのは、以下の皆さんです。土曜日の発送という珍しい日程だったのでいつもより人手は少なかったけれど、いい汗かいてくれました。
森井祐介 武田力 前田庄司 中嶋敦子 光菅修 大西夏奈子 落合大祐(江本は同時刻に行われた惠谷治追悼会に出席)


地平線はみだし情報

■地平線会議40年祭オリジナル「ゾモ鯉」Tシャツ[会場限定]Lサイズのみ4枚あり。売価2000円のうち1000円をゾモファンドを通じてネパール・ランタン谷の牧畜支援に寄付します。送料300円。ご希望の方はメールで


トリビア タイトル


地平線トリビア・当日レポート

 「地平線トリビア」は〇×クイズ形式で、地平線会議の40年のあれやこれやを振り返る、ヤケッパチのお祭り企画でした。会場に座っている全員(が強制)参加で、地平線にまつわるマニアでカルトな22問に挑戦。配布された解答用紙に〇か×を記入、加えて〇か×の用紙を掲げ、答えが出たところで解答用紙に回答を自己採点してゆくという、けっこう大変な作業を繰り返しました。

 司会は丸山純さんで、アシスタントに加藤千晶。舞台上では、有識回答者に指名された岡村隆さんと菊地由美子さんが〇と×を回答。問題は地平線の創設期、中期、現在に分かれており、1問目からして、なんだかいじわる。意外と初期の問題を間違えたりする岡村さん(わざとかも)と、勘よく正解する菊地さん。問題にちなんで、会場にいる花岡正明さんや岸本佳則さんなどにマイクが運ばれ、少しずつ当時のエピソードなどを聞きながら進みました。

 〇×だけでは簡単すぎでは?と途中で「三択クイズ」も登場。問題はかなりマニアックで、このあと正解数の多かった10人が前に出ての勝負に。ここには三輪主彦さんや久保田賢次さん、西牟田靖さん、多胡歩未さんのお子さんの天俐(あまり)さんの姿も。最後は岡村さんだけが答えを知っているドッキリ問題で、会場で答えが明かされました。結果、20問の正解で江本嘉伸さんが優勝、「地平線トリビア王」になるという、当然といえば当然の結果に。これには江本さんも「え、いいの」という反応でしたが、江本さん以上に地平線愛にあふれた人間はいない。むしろ、江本さんがならなくてどうする!

 とかいうわけで、菊地さんからトリビア帽と賞状の授与が。トリビア帽は長野さんが<卒業式の授与式の帽子>をイメージしてつくってくださった素敵なもので、文面のかっこいい賞状は久島弘さんの作品でした。

 この通信に全問題がどーんと載っておりますので、ぜひ江本トリビア王に挑戦を! 打倒、エモジョンイル〜! ちなみに回収された解答用紙の中で、次点の成績優秀者は17問正解の埜口保男さんと飯野昭司さんでした。すごいぞっ!(加藤千晶

何問答えられますか? 地平線トリビア全問題

第1問
 地平線会議誕生の頃、創設メンバーたちが集った四谷一丁目にある喫茶店の名前は「オハラ」である。

第2問
 地平線会議は創設当時「放送局」を持っていて、“番組”を「全国に向けて放送」していた。

第3問
 地平線会議の柱だった探検年報『地平線から』の刊行。『1979』から『第八巻』まで、「森田靖郎さん」が「編集長」を務めた。

第4問
 創設当時の地平線会議、「代表世話人」は「江本嘉伸さん」と「宮本千晴さん」の二人体制だった。

第5問
 1979年9月の「第1回地平線報告会」(三輪主彦さん)の参加費も、今と同じ「1人500円」だった。

第6問
 皇居一周など、1989年から19回続いた「地平線マラソン」。その最多優勝者は「三輪主彦さん」である。

第7問
 ますます味が奥深くなったと大評判。江本嘉伸さんの得意料理「エモカレー」に 絶対欠かせない野菜は「ジャガイモ」である。

第8問
 報告会二次会でおなじみ、中華料理「北京」のご店主(ママ)。彼女の一番好きなメニューは、もちろん「あの餃子」である。

第9問
 「初めて東京を離れて」開催された地平線報告会は、阪神・淡路大震災を経ての「拡大大阪集会」(1996年8月)である。

第10問
 これまでの地平線報告会のなかで「最年長報告者」は、傘寿の80歳で報告した「金井重さん」である。

第11問
 「最年少報告者」は2018年4月の報告会に登場した「下川知恵さん」である。

第12問
 地平線の「関西メンバーご用達」の食堂の名前は「カンテラ食堂」である。

第13問
 2004年12月以降の全地平線通信のフロントを収録した「風趣狩伝」。江本嘉伸さん以外で執筆したのは何人?
  1)1人/2)5人/3)16人

第14問
 スリランカの密林遺跡調査隊の隊長の岡村隆さんが「現地で愛用」している服の「ブランド」は?
  1)ノースフェイス 2)モンベル 3)山本寛斎

第15問
 地平線会議の初期、ある「有名雑誌」で毎号、地平線関係の「記事を連載」していたことがある。その雑誌の名前は?
  1)BE-PAL 2)Number 3)山と溪谷

第16問
 地平線会議の前身は、民俗学者・宮本常一さん主宰の「観文研」(日本観光文化研究所)である。

第17問
 報告会の予告イラストで似顔絵を毎月描く長野亮之介画伯。何度もXXXXX丸出しのすっぽんぽんで描かれるのは、「服部文祥さん」である。

第18問
 地平線報告会で一番最初に楽器を演奏したのは第122回(1989.12.22)の「長岡竜介さん」である。

第19問
 発足後、毎月欠かさず発行されてきた「地平線通信」(祝!474号)。じつは歴代の編集長の中に「女性」がいた。

第20問
 高世夫妻、難波夫妻、多胡夫妻、丸山夫妻……数々の出会いと恋が生まれた地平線報告会や記念大集会。久島弘さんと掛須美奈子さんが最初に出会ったのは、日高町(当時)の「植村直己冒険館」である。

第21問
 かつては二次会がなく、報告会終了後はあちこちの居酒屋に流れた。沿線の名前を取って、これを「山手線会議」と呼ぶ。

第22問
 編集者だった岡村隆さんは、冒険小説の「作家」となったが、奥様に「あなたは『ラブシーン』の書き方が下手ね」と言われて、2冊出しただけで「断念」した。


地平線トリビア、半分しか正解できませんでした〜

 地平線40周年、おめでとうございます。

 私が地平線会議と最初に関わったのは、たしか1988年か1989年頃。現在は沖縄にいる、ライダー仲間のはるみちゃん、Aくんの3人で「賀曽利さんに会えるかも」と報告会に参加したのがきっかけです。たしか、吉田敏浩氏のミャンマー・カチン族の話でした。うわあ、もう30年前になるんですね! それ以後、私も旅の報告を何度かさせていただいたり、最近では福島のことを発言させてもらったり、いろいろとお世話になっています。ありがとうございます。

 ここのところはご無沙汰しているものの、私にとって古巣のような地平線会議。その40年記念集会となれば顔を出さないないわけにはいきません。万障繰り合わせて、午後から御邪魔させていただきました。隣席は岐阜県高山市から参加、地平線同期の中畑朋子さん、その隣は高世泉さん。逆側には久島夫妻という、やはり古くからの面々が。壇上では、服部文祥さん、坪井伸吾さん、三輪先生がトークを繰り広げているところで、そのうち田中幹也さんが乱入し何をしでかすかハラハラしつつも、なんとか無事に終わってホッ。

 その後、満を持して始まったのが「地平線トリビア ヤケッパチだヨ 大クイズ大会」。会場に居る全員が参加できる企画で、けっこう盛り上がりましたね〜(ちなみに、「トリビア」とは雑学的な知識、豆知識のことです<wikipediaより>。最近やたらと横文字言葉が横行しているとお嘆きの方々、そういうことですので)。

 それぞれの問題に各人に配られた青○か赤×かのカードを上げて答えるやり方でわかりやすかったし、各質問の答えのあとに詳しく解説が入ったり、会場からいろいろな人が引っ張り出されてエンターテインメントとしても楽しめました。

 それにしても、今更ながら知った新たな事実がいっぱいでした。

 地平線会議って、「観光文化研究所」が前身じゃなくて大学探検部による「全国学生探検報告会」から発展したんですか! えっ? 地平線通信に女性編集長がいたの? しかもすぐ隣に座っている中畑さん! 全然知らなかったよ。岡村さんがスリランカ密林遺跡調査で愛用しているブランドが、まさかの「山本寛斎」! 有名雑誌の「Number」に地平線会議のコーナーがあったとは! 長野亮之介画伯が関野さんを毎回、裸の猿の姿で描く理由や、報告会の最年少発表者が17歳(18歳?)で最高齢が93歳などなど、興味深いことだらけ。地平線テレフォンサービスはぜひ聞いてみたかったなあ。

 一方、懐かしい思い出もいくつか登場。地平線マラソンの問題では、「第一回地平線マラソン」の順位リストが大きく映し出され、その中に私の名前を見つけたときは、あの時代がいきなりフラッシュバック! まだ東京の実家に居候していた頃なので、地平線のイベントにもけっこう参加していたんですね。このときは女性トップだったけれど、その次の回で、三輪先生の奥様にゴール直前で抜かされて女性2位になってしまって悔しかったんだっけ。地平線マラソン、一時は盛り上がったのに、最後の19回目の参加者がたった2人というさみしい終わり方だったとは、悲しいです。

 年報「地平線から」の問題では、白根全編集長が登場。先輩諸氏から編集長を押し付けられた経緯を語っていましたが、そんなことより、Vo.9のほうは一体、どうなっているんでしょうか。Vol.8が出たすぐ後、編集長の命令で新聞記事を切り抜いたりいろいろやった覚えがあるんですけどー。インターネットなどない時代なのでけっこう大変だったんですけど。同じく苦労したと主張していた熊沢さんが「最新号いかがですかあ〜」と、「地平線から Vol・8」をヤケッパチ気味で売り歩いてましたが、在庫はまだまだあるんでしょうか。

 という感じで、楽しく盛り上がりながらトリビア終了〜。

 司会の丸山さん、ちょっととぼけた感じの加藤ちあきちゃんのコンビもよかったです。ちあきちゃんが読めなかった三輪先生の名前、「主彦(かずひこ)」もトリビアになったかも?  創設期メンバーの岡村さんと新しい世代の菊地由美子さんの凸凹コンビをゲスト回答者として壇上に上げたのも、いいアイデアだったと思います。ちなみに、お2人とも正解14〜15問と好成績。トリビア王は20問正解の江本さん。予想通りで面白くないですが、どの問題を間違ったのかが気になるところです。私はといえば、22 問中正解11問。あてずっぽうで答えた問題もあったから、実際は3割くらいしかわからなかったということになります。30年も関わっているんだから、けっこうイケると思ったのに〜。中畑さんは15問正解。一番成績悪いじゃん、ワタシ。

 というわけで、出来が悪かった私の解答用紙は提出せずに、持ち帰ってしまいました。悪しからず。(滝野沢優子


■地平線はみだし情報■

■写真家たちのクスコ ――マルティン・チャンビと20世紀前半のアンデス写真――(先月の通信でタイトルを誤記してしまったので再掲)
 11月21日(水)〜12月12日(水)まで。
 東京都千代田区六番町2-9 セルバンテス文化センター東京2Fギャラリーにて。
 月〜土曜日:10:00から20:00 日曜日:10:00から12:30
 年中無休/入場無料、週末は在廊の予定。

★東京メトロ有楽町線麹町駅より徒歩3分、市ヶ谷、四ツ谷から徒歩5分ほど、日本テレビ斜め向かい。
  http://tokio.cervantes.es/ Tel:03-5210-1800

★ギャラリートークの日時は在日ペルー大使館のHP参照のこと。


地平線トリビア正解集

  第1問 →×
正解は「オハラII」。オハラとオハラIIがあって、間違える人もいた。オハラIIの奥は大きなテーブルがある個室になっていた。

  第2問 →○
当時まだ珍しかった留守番電話を使った150秒のテレフォンサービス「地平線報告会」で、報告会の予告や実況、旅から帰った人のインタビューなどを流していた。1年半ほどのあいだに全部で112本の「番組」が制作され、それをテープ起こしした『地平線放送だより』も刊行。放送やインタビューをカセットテープにまとめた「地平線放送テープ」も販売された。番組一覧が地平線のウェブサイトに掲載されている。

  第3問 →×
『地平線から・1979』から『1983』までの5冊は森田靖郎さんが編集長だったが、『vol.6』から『第八巻』までの3冊は白根全さんが編集長を務めた。

  第4問 →×
代表世話人は二人体制で、そのうちの一人が交替する(つまり任期は2年)。初年度は宮本千晴さんと三輪主彦さん。2年目が三輪さんと江本嘉伸さん、3年目が江本さんと惠谷治さん……というように代わっていった。

  第5問 →○
一切値上げなしの500円でやってきた。

  第6問 →×
第1回は花岡正明さんがぶっちぎりで優勝。以後も花岡さんが11回優勝、江本嘉伸さん、三輪主彦さん、樫田秀樹さん、岸本佳則さんが1回ずつ。乳母車部門、ジーパン部門などユニークな部門が続々誕生。最後となった「第19回」は「地平線神谷氏御成婚記念マラソン」で、参加者が2人! 『地平線データブック・DAS』のiv-33ページ以降に地平線マラソンの全記録と走者のコメントが収録されている。拡大神戸集会では松田仁志さんが優勝。

  第7問 →×
ジャガイモは入らない。とくにゴーヤ、オクラをたっぷり入れるのが特徴。

  第8問 →×
餃子ではなく、以下の4品。きくらげ玉子、なす味噌、海鮮焼きそば、ジャージャー麺。

  第9問 →×
「阪神・淡路大震災を経て」なので、当然「拡大神戸集会」。1996年8月24日の第201回。会場は神戸市青少年会館。岸本佳則さんの熱意で、初めて東京を飛び出した。

  第10問 →×
野元甚蔵さんが2010年5月に「ノムタイの宇宙――70年前のチベットから日本へ」と題して、93歳で報告している。金井重さんは80歳(2007年9月20日=重さんの80歳のお誕生日)で、「祝傘寿猶在旅途上――シゲ旅の現在・過去・未来」として登場。

  第11問 →×
平田オリザさん(1981年3月・第18回「530日間世界一周」)と田口真樹子さん(1988年8月・第106回「旅は風来坊のように」)が18歳で登場しているが、田口さんの生年月日がわからず、どちらが最年少かは判断できなかった。

  第12問 →×
「テンカラ食堂」が正解。「天から」が由来。

  第13問 →3)16人
関野吉晴さん、三輪主彦さん、河田真智子さん、丸山純さん、角幡唯介さんら、16人(のべ)。

  第14問 →3)山本寛斎
山本寛斎の「ワークマン」というシリーズ。

  第15問 →2)Number
Numberの創刊準備号(0号)から「Advernture」というページを持っていた。主に岡村隆さんと惠谷治さんが執筆。創刊号(1号)には、地平線会議発足の記事も。

  第16問 →×
渡邉久樹さん(日大)、山田高司さん(農大)、河村安彦さん(獨協)、浅野哲哉(法政)らの大学探検部の現役や若手OBが呼びかけ人となって、1978年12月2〜4日、「全国学生探検報告会」が開かれた。これにオブザーバーとして参加した江本嘉伸さんと宮本千晴さん、岡村隆さんらが、探検情報の集積や人的ネットワーク充実の必要性を痛感。79年8月17日に山岳部・探検部OBたちが江本家に集まり、そこに観文研のメンバーたちも合流して、地平線会議の設立となった。

  第17問 →×
服部文祥さんのイラスト(2009年1月の「シアワセへのサバイバル」)が強烈なイメージとなっているが、じつは関野吉晴さんは何度もすっぽんぽんで描かれている。一度そのイメージが浮かんでしまうと、長野画伯はどうしても繰り返し脳裏に浮かんできてついつい描いてしまうという。

  第18問 →×
第5回地平線報告会(1980年1月)で、当時まだ学生だった丸山純さんがカラーシャ族の斜め笛で結婚式の旋律を披露。さらに同じ笛で「コンドルは飛んでいく」も演奏した。

  第19問 →○
中畑朋子さんが編集長を務めた時期がある。当時は、武田力さんがレイアウトを担当していた。

  第20問 →○
ご両人ともはっきり記憶してないそうだが、出会いが「植村直己冒険館」であることは間違いないという。

  第21問 →×
アジア会館からまず新宿西口のションベン横丁(現・思い出横丁)に流れ、さらに高円寺や荻窪などで三次会をやっていたので、「中央線会議」と呼ばれた。

  第22問 →○
当日、この瞬間まで出題側の誰も正解を知らなかったファイナル・クエスチョン。いきなり飛び出した質問に苦笑しながら岡村さんが出してくれた答えは「○」。それだけじゃないけど、そういう要素もたしかにある、とのこと。

トリビア・裏っかわ

 「地平線トリビア」は当日までの裏っかわが、ヤケッパチの祭り状態でした。案が出たのは、江本さんのお宅(この場所で、どれだけの人と人との交流があって、色々なものが生まれていったのか)。江本さん、丸山さん、長野さん、武田力さん、落合大祐さんという、長い間、そしていまの地平線会議をひっぱってきた方々が揃って、40年祭りの話をされていた時でした。

 美味しい「エモ料理」の数々(この日のメインはエモカレーではなくエモハンバーグシチュー)と本物のビールにわたしは楽しく酔っ払い、祭りだったら大宴会したいとか盆踊りしたいとか、好き勝手なことを言った。そのうち「地平線トリビア」(丸山さん命名)が出てきたのでした。すると「これは問題になるんじゃない?」なんて話になり、どうして江本さんはあのカオスな状態の部屋からぱっと見つけられるのか。地平線会議発足時に作った趣意書やそのメモ書き、最初のはがき通信などお宝資料がどんどん机の前に。誕生前夜の話、江本さん不在時代の持ち回りで報告会をコーディネートしていた時の話など。どのお話もいまなお色鮮やかで、本当だったらそういう話を、わたしは楽しく呑みながらへえーっと聞いていたいのです。

「トリビアは酒の席の話だと思ってた」(by落合さん)はずなのに、紆余曲折あってプログラムの中に滑り込むことに。ひやー、どうしよう……。時間がない中「100問、候補を作るべし!」とはっぱをかけてくださったのはスパルタ武田さん。中島ねこさん、岸本実千代さん、中畑朋子さん、大西夏奈子さんらと「トリビア問題」チームを結成。問題制作のため『地平線データブック・DAS』などを読んで、あらためて感じたのは、当時の方々の恐ろしいほどの行動力や、さらにそれを記録として残すという熱意でした。なんなんだ、この人たちは。大集会や祭りみたいなことを年に何回もやっているじゃないか。超人過ぎる……。

 こっちはそんなことできないよ〜。とか思っているうちに、気づけばもう本番数日前。ヤケッパチになっていたところ、やさしい光菅修さん(影のMVP!)がスライド制作を、前夜祭の前日には見るに見かねて救世主現る! 丸山さんが司会を引き受けてくださることに。ここから、問題のシェイプアップや問題用紙作成、進行など、頭も身体もフル稼働の丸山さん。窮地にこそ、輝いて見える丸山さん……(どうかどうか、長生きしてください)。

 3分映画祭のあとに〇×の紙を印刷したり、二次会が終わってから前田庄司さん(二日にわたってずっとスライド操作。たいへん)も含めて打ち合わせしたり。深夜には泥酔のわたしの代わりに野宿党の仲間たちが〇×用紙の袋詰めをしてくれるわ、当日も光菅さんは照明を担当しながらスライドを直しているわ。地平線は「ブラック企業のようなもの」とこっそり思っていたのですが、いやもうはっきりとそう思った次第です(今回は、自分がみなさまに多大なご負担を……)。でも(だからか?)祭りの後のビールは、めちゃくちゃ美味しかった!

(第13問目の人数を数え間違えちゃったような。『風趣狩伝』を買って、確認してください〜。 加藤千晶


40年祭あれこれ

よそ者、若者、ばか者がいない

■今回は全体をちゃんと聞けなかったので、感想を言う資格はありません。40年も報告会をやってきたってすごいです。安心感があります。でも、破綻や場外乱闘があってもいいじゃないかとも思いました。

◆会場を見渡すと見知った顔ばかりでした。私が地平線会議に顔を出し始めた頃、参加者の中でほぼ最年少だったと思います。それから20年近く経っているのですが、小学生を除けば、この日も壇上・客席を含めて最年少の部類でした。みんな大人だからケンカも起きません。

◆「よそ者、若者、ばか者」が地方を救うなどと言われます。もちろん、その考え自体にも疑う余地があるかもしれません。ただ、少なくとも創成期を知っている長老だけでなく、今日初めて来たような若者の話も聞いてみたいなあと思うのです。(菊地由美子


第3部 タイトル


■第3部「森と川に恋して」は、江本さんの進行のもと、四万十の主、山田高司さんの南米、アフリカでの探検の軌跡を聞きつつ、後半は山仕事グループ「五反舎」を率いる長野亮之介さんを交えて、なぜ山仕事に打ち込むのかが語られた。京都から来場した木のおもちゃ作家、多胡歩未さんも飛び入り参加し共感の拍手を浴びた。

◆「中にどっぷりというよりは、外に出たりしながらずっと地平線会議を見続けていた彼だから出てもらいたかった」と江本さん。東京農大探検部の山田さんが地平線会議と関わりを持ったのは二十歳のとき。「先輩がいなかったので2年の僕がリーダーでした。報告会をやりたいという主旨で来るようにと、やわらかかったけど、行かないとまずいような感じで呼ばれた記憶があります。江本さんが主旨を話されるのですが、アフリカの話や南極の話など、熱いんですが、みんな勝手に自分のことを話していて」と、なんだか情景が想像できそうな山田さんの軽妙な語りに、会場は初っ端から笑いに包まれた。

◆「トリニダード・トバコからゴールはブエノスアイレス。ラプラタ川の河口、天然の運河を抜けてアマゾンに出て、また支流を上りラプラタ川の源流に出てと約1万キロを行くルートでした」と、南米三大河川の話にわくわく感も高まる。だが、そこで強盗にやられてしまう。「情けない話で。オリノコ川の河口にカヌーを買いにいったんですが、強盗の巣窟だったらしいです。そこにのこのこカヌーを売ってくれないかなあって。服もとられパンツ一丁に」。警察へ行ったら「お前ら日本人だろう。なんで空手でやっつけなかったんだ」って言われたとの話にさらに大きな笑いが。帰ってすぐアフリカへ。

◆「川をつないで世界を一周する計画を立てていたんです。アフリカを手始めに5年から10年ぐらいやって、その先はまた考えようということで。南米が終わったのが82年。大学を出て嬬恋村のキャベツ畑や新宿の青果市場で働いたりと、お金を貯めて出かけたのが85年」と当時を振り返る。アフリカの五大河川を結んで行く計画だったが、300万とか400万の数の餓死者が出ている頃で、「なんでのこのこ川下りに行くんだ」と非難も受けた。

◆治安が悪かったりで国境が閉鎖していると、パリとかロンドンに行ってアルバイトをして、国境が開いたらまた行くという繰り返し。ナイル源流近くまで行っていたが、源流のスーダンにはどうやったら行けるかと調べて、砂漠化防止の植林NGOの活動を知ったのが植林との縁となる。「今日、山田さんを引っ張り出した理由は、川よ森よ地球よというタイトルの原稿をくれたことがあるから」と江本さんがふり、森の話題に。

◆「木を植え、林を育て、森を愛で、川に託し、海に恋し、星を思うといったサブタイトルで結構読みごたえがあり、若い人に向けて少年時代の話をしてもらいたいと思ったんです。こういう生き方は日本の宝だなという気がしている」と江本さん。「2000年かな」と、山田さんは地元、四万十の村の成人式で話をした思い出をふり返る。「青い星の川を旅して、木を植えてという題で、20歳になった子どもたちに、川を旅して木を植えた20年分の話をしたら、荒れる成人式の時代だったのですが熱心に聞いてくれた」という。

◆「お宮が一つあって横によろず屋があったんですが、小遣いをもらっても買うようなものはなかった。ただ、飛んでるもの、走ってるもの、泳いでるもの、生えてるものがそこいらじゅうにあり、調べて食えるものは全部さばいて食い始めたのが物心ついてから。先輩を見習ってやってましたね。縄文の人たちが狩猟、採取を年上の人から習うように」という山田さんの子どもの頃のエピソードに、「ローカルで生き抜いてきた人がうらやましい。出てくる知恵というか思想というか判断力というか」と江本さんも羨望の声を。

◆90年代初頭はアフリカで植林をやっていた山田さんだが、「機械とか化学物質が入ってくる前の日本の農業、林業のことも勉強しておかなきゃ」と、四万十に帰って生活するうちに、だんだん少年時代のことを思い出した。南米とかアフリカの写真をおじいさん、おばあさんたちに見せると、「わしらも昔はこんなもんやったな」といった会話に。そんな所に育ったことが財産だという。

◆「飢えるアフリカ」を川から見たとき、砂漠化と森林破壊のすごさを感じた。森が砂漠になって飢えて死んでいく子どもたちをいっぱい見た。木を植えることをやっていくうちに、それが仕事にもなった。現在は長野亮之介さんの紹介で、奥多摩の山の調査の仕事をやっているそうだ。

◆「画伯、出てきてくれますか」との江本さんの声で長野さんが登壇。話はまず長野さんが活動している森林ボランティアグループ「五反舎」の意味から。1ヘクタールの半分が大体五反。年に五反ぐらい山の手入れをしたいということから名づけられ、もう20年ぐらいやっている。北大で森林学を専攻し、バイオマスのことでドイツにも行ったことがあるという長野さんは、こう語り始めた。

◆「皆さんご存知かと思うのですが、今、日本の森林の蓄積、木の量がたぶん過去で一番多いんです。戦後は丸裸だったし、日本の山は裸の山のときが多かった。なぜ木が増えているのかというと、木の家を作らなくなった、というか木を使わなくなった」。それに山田さんが応える。「僕が林業に入った20年ぐらい前は、山仕事をやる人の平均が55歳から60歳でした。今は温暖化が人為的なものだと認知されて、防止するには二酸化炭素を吸う森をということで、緑の雇用制度もでき、若い子たちが山仕事に入ってくるようになりましたが、材価はまったく安いまんまです」。

◆続いて会場に座っていた多胡歩未さんも登壇。「私はすごい木が好きだなあ。木材フェチなんです」と楽しそうに語る多胡さんの明るい雰囲気も加わり、壇上はさらににぎやかに(詳しくは多胡さんご本人によるレポートをご覧ください)。

◆話は盛り上がるいっぽうだが残念ながら時間に。最後に三人がそれぞれ思いを語った。まず山田さんは「苗と土地を用意してもらえば木を植えるのは簡単ですが、いい林になるにはたぶん100年。伐ったものを返そうとすれば200年。江戸時代末期に伐って原生林とほとんど変わらないぐらいになっている森が四万十にあるんですが、アメリカの先住民の人が、7世代先を考えて生きろと言っていたのはそういうことかな」と。

◆続いて長野さんは、原発事故が起きた福島に地平線会議で行ったとき、畑だった所が1年ぐらい後にはもう林になり始めていたことを語った。「本当に大きな森になっていくのには100年、200年の単位になるんですが、一方で人間側の森というか、人が景観を作ってきたというのも確かで、例えばアマゾン川って原始の森だと思っていますが、3分の2ぐらいは人間が作っていった風景だという話もある。森を使うということがすごく大事なんだろうなと思います」と。

◆多胡さんも「子どもたちに人間として生きていく力を身につけてほしい、そういう環境がいろんな所にあったらいいなと思っています」と結んだ。江本さんが冒頭で言っていた「外に出たりしながらずっと見続けていた山田さんだから出てもらいたかった」という言葉の意味を改めて感じながら、私も盛大に拍手をしていた。(久保田賢次


子どもたちを森へ!

■久々の地平線祭に子連れで馳せ参じました。弾丸スケジュールすぎて、挨拶をしに行っただけみたいなものでしたが、期せずして飛び入りトークをする事になり、言いたい事を言わせていただいてありがとうございました。もっといろんな人と話をしたかったのですが、今回は、顔を出す事(と江本さんに娘を会わせる)が目的だったので、任務完了です。

◆最近の私の活動は、「木のおもちゃを作っている人」の域からはみ出て、森と関わりたくてしょうがない人になっています。「子ども」とか「遊び」とかずっと向き合っているテーマに「森」を追加して、私の想いを乗せて伝えることをしています。子ども達と接していて違和感を感じるのは、好きにしていいよ。と言われて固まってしまう子の多さ。

◆言われた事だけをやっていても生きていける世の中です。特に子どもを取り巻く環境では、自分で考えて行動する機会がなくなってきています。私は、自分で考えて行動するには、想像力が必要だと思っていて、それをいかに引き出すか、育むか、が今やるべき事なのだと思っています。そのツールとして、「木のおもちゃ」や「森」が必要なのです。

◆最近、子ども達を森へ連れて行って、自分たちで好きな事をさせるという活動をしています。材料を集めて焚き火をするのも、食事の用意も子ども達だけでやります。カニをとったり、鬼ごっこしたり、竹を伐ったり、隣のボランティアのおっちゃん達に交渉して道具も借りてくるし、やり方を教えてもらうし、時には食材をもらってきたり。全部自分達でやっています。

◆そろそろイノシシがかかる時期なので、子ども達、どうするんだろ……とか密かに思っています。想像力は本来子どもがふんだんに持ち合わせている能力なので、それを使える環境を整えてあげるとあっという間に開花します。

◆今、私は森を作りたいというビジョンに向かっています。私の描いている森は、学ぶ場や遊ぶ場、仕事場がちゃんとあって、人と経済とエネルギーが循環している森です。これらが揃っていれば、人々は街に依存することなく、森の中でも過ごせると思うのです。今、それが街にあるから、人は街へ行かざるを得ないのでは?という発想です。自然と共に生きること。人間も大いなる自然の一部でしかない事を思い出してほしい。そんな環境にいれば、想像力なんて勝手に膨張するし、それが今の子ども達には何よりも必要なのではないかと思っています。

◆久しぶりに地平線の皆さんにお会いして思った事は、相変わらずとても大事なことに勝手に気づかせてもらえる場であるということ。原点なのだなぁと改めて思いました。それに、自分ではめっちゃオトナになったぜぃっ! と思っていたのに、結局20年前と変わらないパッションで生きているのだという事も。(多胡歩未 京都府)


クロージング 宮本千晴、語る

「40年を機に伝える、地平線会議までにあったこと」

プログラムでは「クロージング 変貌について 宮本千晴+江本嘉伸」となっていたが、千晴さんがひとりで語り通してくれたのでのテーマを「宮本千晴、語る」と変更させてもらった。(E)

 僕はたまたま岡村隆君たちや、学生探険報告会に集まった学生さんたちよりも年上だったから、その分余計な経験があったんです。その余計な分、地平線会議につながるいわば前史をごく私的な視点でお話しさせてください。

 振り返ってみると、やっぱり一番大きかったのは、向後元彦かなという気がします。地平線会議設立のときには日本にいなかったから関わってはいないんですが、前史の中では大きい。向後は学生時代にヒマラヤを登山隊としても登っているし、たったひとりで、探検的なルートをいくつも辿って、トウモロコシとじゃがいもだけ、ポーターひとりだけという格好で歩きまわってもいたんです。これは僕らも含めヒマラヤの第三世代だなあと当時みんな認識していました。第一世代は、槇有恒さんを隊長として京大のOBたちだとか、戦前からヒマラヤへ行きたかったような人たちが出かけていって、なんとか大きな山に登った。

 そのあと、薫陶は受けていたけれども連れていってはもらえなかった本多勝一さんや元気のよかった先輩たちが、自分たちで活路を開いた。我々はその下、第三世代、その他大勢の先っぱしりです。1961年から63年くらいに出かけた連中ですか。日本の盛り上がりの中でちょうどそういうことをやりたがる年代、世代にいたわけです。まだ外貨を得るためには五省庁からなる審議会を通らねばならなかったので、学術を名乗ったり、派遣組織をでっちあげたりという経験もした。それがまもなく始まる、外貨を1000ドルだけもって一人でも出かけられる多彩な第四世代との違いかと思います。

 出かけたのは多くがヒマラヤですが、帰ってきて、何かうずうずしてしょうがないわけですよ。で集まってガチャガチャ、こういう(世界や自身についての)発見と思考にみちた面白さをもっとみんなに広げられないか、もっと世界に伍せるようなレベルに行けないのかって。とくによくしゃべってたのは農大の向後と東海大の星野紀夫だったでしょう。上に恐い先輩たちが一杯いる京都の連中と違って、恐いもの知らずです。

 で、勢いあまって日本探検協会なるものを作ってしまった。発起人にとか賛同とかは、今西錦司、西堀栄三郎、川喜田二郎、梅棹忠夫などビックネームがずらずら並んで、早稲田の大隈講堂だったかを借りて2日か3日かけて何かやったんです。やったけれども、それで息が切れた。

 では何をやるか。向後が誰かとの話の中で、南極のビンソンマシフは七大陸の最高峰でまだ登られていない山だと気がついた。あれに登ろうよ、と、声を掛けたら卒業してほどない若造ばっかり、北大から九大、韓国まで9つの大学のOB11人が集まりました。デンマークの砕氷船をチャーターする見積を取ったり、すでにパイロットになっていた山本恵志郎に飛ばせて自力でアルゼンチンからアプローチする検討をしたり、アメリカの南極探検家フィン・ロネを招いてコーチを受けたり。リーダーを引き受けてもらおうと学習院の木下是雄先生を一生懸命口説いたり……。ですが肝心の金の話が進まない。最後には西堀先生が東大総長の茅誠司先生を口説いてアメリカの南極探険の元締めNSFあてに援助の要請を出してくださった。アメリカの南極基地に通う飛行機に途中まで便乗させてもらえないかという話です。結局、協力してやってもいいよという返事が来たんですが、それはビンソンをねらっていたアメリカのいくつかのグループが合同でチームを作り、最初に登っちゃった後のことでした。がっくり来て、やめちゃった。

 そういう流れがあって、苦い反省を胸に抱えて、11人の多くはそれぞれいろんな道を模索することになりました。向後は探検の本場イギリスへ行って勉強してこなければだめだと言って、ロンドンへ行った。奥さんと一緒に。そこで赤んぼをこしらえて。

 僕はあまりに地力が足りないと反省していましたから、東海大学極地研究会の街道憲久君や礒野哲志君らからカナダの北極圏に行く相談を受けたとき、この新しい若い仲間たちと5年くらいかけて極地の探険を基本から身につけていきたいなと思った。で、勤め先(後で述べる観文研)を休職して、一次隊の現地隊長として参加し、晩夏から厳冬の2月まで互いに数百〜千キロも離れた土地でひとりひとり極地の冬で修行することになるわけです。そして厳冬期も魚を捕りながら自分と犬を養う力を身につけた礒野が引き続き二次隊に加わります。

 二次隊の隊長はビンソンの仲間だった京大AACKの宮木靖雅。三次隊の隊長は同じくビンソン仲間で都立大先輩の伊藤尤士さん。二次隊は氷雪の春の間はめざましい活動ぶりでした。しかし夏の氷海で隊長と礒野と中庭和之君が姿を消します。またも地力不足でした。

 話を少し戻します。日本探険協会だのビンソンだのにうつつを抜かしている間も、私には結婚したい人がいたもんですから、食えるようになることが課題でした。大学院に席をおいてセールスやらなにやらもがいていましたら、ちょうど父が近畿日本ツーリストに頼まれて、資料室というささやかな場(のちの観文研=日本観光文化研究所)を作ることになり、俺はほとんど行けないからおまえ支度しろといわれました。見かねたのでしょう。

 旅行に新しい地平を開きたい。父には父の構想があったのでしょうが、僕にも僕の考えがある。いずれにせよゼロから立ち上げる話です。頼りは自分の体験と思考。自分のヒマラヤ登山やネパールの僻地の探査行で経験した、体験し、発見し、考えることの面白さです。いや、その前の山や山岳部の体験も大きいですね。みなと山に登ったり、雪氷の岩壁から落ちて死にそこなったり、体を動かすことで知った人間の感性と死のこと。もっと大きかったのはさまざまに違う仲間のかけがえのなさですか。優劣ではない、その人がその人として存在していることの価値。

 結果として17年間、集まった人たちともども食うや食わずの境あたりで苦闘をつづけるはめになります。見返りに多くの若い仲間を得るという幸運に恵まれました。

 金のないところでしたから、非常に難しかったんです。しかし次第に少しはみ出してしまった若い人たちが、自分で面白がり、こだわり、大事だと思い、追求しつづけようとする感性と力を当てにすることができるようになりました。すると次々と若い人が集まってきて、旅費付きの大学院だという言い方さえできるようになった。

 会社の要求で『あるくみるきく』という雑誌も始めました。薄いけれども新書という方が近いつくりで、書くのも写すのも編集するのも基本的に素人(ないしまだ素人と自認するもの)という構えです。おのずと編集の場は延々とつづく筆者との格闘の場。会社の期待からは90度くらいずれているし、誤植は多いし、定期刊行はできてない。めちゃくちゃです。

 それでも不思議に評判のいい部分があり、この読者をベースにして、友の会のようなものをつくれないかと会社のほうから出てきました。会社の期待の中ではたして旅の地平を開くようなことができるのか。やれる人がいるとしたら、ロンドンにいる向後君しかいない。帰って来てもらって、一切口を出さないから好きなようにということでやってもらうことになります。当然向後はさまざまに模索をする。その間に全国あちこちの大学を訪ねて、探検部の学生やOBたちと話をし合ってつないでいった。もう一回一緒にネットワークをつくれないかとなって、たしか法政の平靖夫君の世話で白馬の法政大学山荘に集まり「たんけん会議」が開かれた。

 そのなかで観文研にベースをもつ向後を中心とするつながりと場を「AMKAS」(あるきみるきくアメーバー集団=アムカス、のちに、あむかす)と名付けて、メディアに出た探検・冒険の情報を集めてファイリングするような作業を担当することになります。それをアルバイトとして平君や岡村君がやっていた。『地平線から』の前史でした。

 観文研には、破れた、スプリングがはみ出しているようなソファがありまして、そこへたくさん、入れ代わり立ち代わり研究畑ではない人たちがよく遊びに来てくれて……関野君もまだ一橋大学の1年生だったと思いますが来てくれたし、賀曽利隆も最初のアフリカから帰ってまだ間もなくの頃だったと思いますが来ていて、恵谷治も来ていた。いろんな連中がきて延々と話をするわけです。ある年所員と見なしてもよい人たちの数を数えたら78人になっていました。

 一方でそういう流れはありましたが、観文研とはまったく別のところで78年の法政大学の探検報告会が開かれます。興味はもちろんもちましたが、この先この動きがどうなるかってことも読めていた。みんな就職しなきゃいけませんからね。探検的な行為ができる職業を選んだとしても、その仕事や職業の目的や価値の中心はどうしても個人的なそれとはずれてしまい、そっちのプロにならなければならなくなる。プロの仕事というのは、とてもかなわない立派な尊敬すべき仕事になっていくんだけれども、やっぱりつまらなさがあるんですよ。何か枠がはまってしまう。素人がうぶな感覚でやることの大切さということが、プロの仕事とは別にあるんじゃないかという印象を強くもっていました。

 エベレストでもそうですけれど、不思議なことに、人間、他の奴がやるとやれるようになる。自分が強くなったわけではないんだけれど。江本のような優秀な新聞記者がやってきたこと、見てきたことは知識としては入るんですけれど、実感には欠ける。でも身近な友人や仲間がやってきたことは、自分の体験に似た切実さでわかる。それを大事にすべきではないかと、その先人たちの感覚をどうやったらみんなで共有できるのか、あるいは追体験してもらえるのか、という問題意識がずっとありました。

 そこへ学生探険報告会です。大変失礼だけれども、任せておいては先が見えてる。昔の僕らと同じです。だからここは観文研というより、完全に主体性を持っている「あむかす」がボランティアベースでやれることをやるしかないね、と。というわけで今までずっと続くことになった地平線報告会や地平線通信だのを、賀曽利隆や伊藤幸司や丸山純、青柳正一、三輪主彦君らが考え出して、1年間だけならなんとかやれるだろうとはじめたわけです。

 一方、森田靖郎君や白根全さんなんかはまだ元気一杯だったから、大変苦労の多い、いい仕事を残してくれました。また当時はまだ新聞記者だということで遠慮していたお隣の男(江本嘉伸さん)のように、天職といえるような人がいて推進役・まとめ役になり、そしてそれをサポートする人たちが自分を励まし励まし続けて、これまたずいぶんしつこくサポートし続けてくれた。

 それが40年。僕にはそんなことはまったく読めなかったし、そんな馬力もなかった。だから今回だって出る幕じゃない。みんな偉いなあ、本当にご苦労さまでした、という感じなんです。

 台風も真ん中の目がなくなるとダメだから、地平線会議はやっぱり必要なんですよ。でも報告会だけじゃあない。使い方によっては若い世代が非常に簡単に手を伸ばしたい方向の先輩にタッチできる仕組みだということも活かしてほしい。地平線会議の誰かに頼めば、もっとその先にいるすごい人たちに会うことができ、話を聞いてもらうこともできる。同類なのですから。(宮本千晴 テープ起こし:日野和子


地平線の森

『地平線 風趣狩伝』

 ――地平線通信フロント集 2004.12〜2018.10

読んでよし 眺めてよし

◆本書は、2004年11月に刊行された、地平線通信を網羅する『大雲海』の続きとして、2004年12月号から2018年10月号までの全フロント168本が収録されている。A5版384頁と手になじむサイズに、地平線報告会予告イラストや報告会・大集会・写真展全記録なども盛り込まれている(近年、編集長の江本嘉伸さんとレイアウト担当の森井祐介さんコンビの手腕により、通信1号あたりのボリュームがかなり増したため、まるごと書籍化すると、ものすごい厚さになってしまうそうだ)。長野亮之介さんが手がけた、心躍る極彩色の表紙には、虎をはじめとする多様な生き物が登場し、裏に地平線会議40年祭タイトル『恋する地平線』マスコット(?)の鯉が佇む。

◆本文ではまず長野さんによる題字が目に飛び込む。その月の報告にまつわる地域の言語のほか、書体や描く道具、はたまた暗号、古語、造語などを駆使し、同じものはふたつとない。「地平線通信の読者には柔軟な脳みその持ち主たちが集まっているはずだから、非常識なタイトルがあっても良いじゃないかと、当初から考えて描き続けてます」とのこと。フロントの文章や時代背景、報告会との関連を意識して眺めると、思わぬ発見がありそうだ。

◆報告者にとって真剣勝負の地平線報告会。そのレポートを主軸とする地平線通信のフロントには、本書中、江本さんだけでなく、三輪主彦さん、関野吉晴さん、大西夏奈子さん、賀曽利隆さん、山田和也さん、森田靖郎さん、河田真智子さん、丸山純さん、桃井和馬さん、角幡唯介さん(掲載順)も名を連ねる。筆者の名は最後に掲載されているので、読み始めて「あれ、なんか違う」と気付くことも。どれを読んでもその人の小宇宙に引き込まれる気分になる。

◆気になる言葉にも行き当たる。「元気に長生きしたいと思うたら、1年に1度だけ、死ぬような何かをやってみるんや。マラソンでも断食でも、あとは何もせんでええのや」、「人間というものは、ほんのちょっとしたきっかけでいかなる方向にも突っ走ることを歴史は示している」、「人と人が出会い、変化させあって、あらたな価値観を育てていく」、「決して強者だけが生き残ったわけではない」、「やさしい戦いで勝つより厳しい相手に負けた方が強くなれる」、「人生には誰にも『必然の出会い』というものがある。その出会いをいつ果たすかは、個々人の日頃の姿勢にあるように思う」、「大地震も津波も太古から続く地球の息吹」、「時間は、ゆっくり早く流れる」、「花の舞台にいるのはごく一時だけ……志とは違う、しんどい思いをしながら生き、そっちの世界の価値観に流れていく人もいる」……。ページを繰り、今の自分に響く言葉を探すのもいいのではないだろうか。

◆近頃のフロントはもっぱら江本編集長が担当している。大抵が日付からの書き出しは、読む者を当時に引き戻す最初のマジックだ。掲載予定の原稿や時事、地平線会議にまつわる出来事などを材料に、日常や想いといったスパイスを加えたシチューを、フロントで仕上げる。今、ランダムにページを開けてみる。2013年4月10日。北朝鮮のミサイル〜シール・エミコさんの復活〜植村直己冒険館〜モンゴルと政治〜拉致問題〜映画『プージェー』〜今月の報告会(関野吉晴さん)。話題はつながりながら駆け巡り、円を描くように帰結する。

◆いつかフロント集が読んでみたい、と実はひそかに願っていたが、40年祭のおかげで、実現されてしまった。振り返ったり気付いたりしながら、いくらでも読めてしまう。この際、第2巻も手にしたいとまたひそかに思っている(丸山さん、お願いいたします)。

◆『大雲海』発刊直後の301号フロントに「続けていれば、必ずつながってゆく」とある。本書は、地平線会議が果たしてどのようにつながってきたのか、その軌跡を示すものでもあろう。(中島ねこ 大阪府)

「津兵衛寸通寸」!

『風趣狩伝』の発刊によせて

 江本嘉伸さんから、本書の発刊とコメントあらばとのお電話を昨日いただいたばかりですがさきほどもう本が手元に届きました。江本さんらしいというより、地平線らしい装いに充ちた装丁になっていて、長野画伯の見慣れた題字。丸山純編集長の手になるものと一目瞭然のいでたちです。このなかに江本さんがいっぱい詰まっているということだとすぐ理解できました。さっそく透明プラのぴったりのカヴァーをかけると、美しさがいっそう引き立ちました。

 それにしても301号から464号まで164個ものバリエーションを「地平線通信」というわずか5文字で書けたものよと、あらためて長野画伯の力量に感嘆しました。しかもそれがみーんな突飛!(失礼)。わけても446号、判じ物みたいですがちゃんと地平線通信があり、人の顔、フクロウ、へび、アメリカ原住民といろいろ想像できてとても気に入りました。

 そしてなんとものどかな333号のモンゴルゲル。でも、407号「津兵衛寸通寸」読んで見て大爆笑。小学校時代5年半、疎開先の福島いわきで自分自身がしていた発音そのもの。最終的に、319号針葉樹林に迷い込んで木を見て森が見えないこれがなんとなくしっくりきたのかなと思いました。自分にながれる基底の重音のようなものを若いころから感じていたのですが、モンゴルのタイガも、シベリアのタイガも、そしてフィンランドなど北欧の森も、北の針葉樹林というものは、まさに自分の重音に響いていたのですが、このタイトル、感じます。シベリウスの交響曲1番の出だしのような響きを。すてきです。尊敬する関野先生や山田監督がでてくるページであることも、雰囲気にあっていると思いました。

 さらに390号の点抜きに驚かされました。見るのは二回目なのに初めて見るように興味深い。この題字集だけででも本書を求める価値ありと確信しました。

 フロント集本文についてです。江本さん以外にもいろいろの方が書かれているとは知っていましたが、せっぱつまって臨時にお願いしているのかなぐらいに思っていました。しかし、関野先生はじめなかなかの力作にあらためて感じ入りました。やはり本に仕立てる価値ありと、縦書きにしたりご苦労された丸山編集長の炯眼にあらためてこころから感心しているところです。

 さて、江本さんのフロントご執筆ですが、夫婦二人で通信の毎号で愛読しています。そして必需品化しています。なぜか、江本さんと連絡とらなくても毎月動静がわかるからです。とても便利にしています。でも、おどろくべきは、冒険、探検、登山、たびなどいろいろ切り口はありましょうが、そのときどきの時代を捉えた一文が挿入されていて、なかなかの逸品になっているように思います。あらためてフロント集を一書に仕立て上げたのを拝見すると、さすが大新聞の編集委員をなさった方と思いました。本書のページごとに躍動しているのが見られ、しかも私のフィールドモンゴルに水準以上に思いを寄せた情報、判断を書かれていたりして、時代を思い返すよすがとなる一文になり、あらためて敬意を表したいと思います。

 いちいちの内容にしたり顔で立ち入るのは控えたいと思います(長野画伯に立ち入ったのはもはや私の趣味になったとも言えそうな題字観察の世界なので、”主人は私1人”、ゆるされよ)。

 以上とりあえずのコメントですが、私今この本のあちこちを読みちらしており、停まりません。あらためて、江本さんの超幅広い交遊関係があることに心底感心しております。このはばの広さは私自身にない才能なので、うらやましいかぎりです。通信を通して知った方々を時にテレビで拝見したりすると、まるで知人のようにその一端を共有させていただいております。つれあいはその方のご家庭事情、個人事情をまるで親戚やスターのように承知していて、解説してくれています。その通信の巻頭エッセー面白くないはずがありません。(花田麿公

◆地平線、風趣狩伝のこと◆

■すごい本が届きました。地平線通信の方々というか、丸山純さんの底力ですね。「大雲海」といい「風趣狩伝」といいスタッフの皆様のチームワークと緻密さに敬服でございます。「大雲海」のあとがつながりました。やはり文字(本)でまとまったものはいいですね。とても嬉しいです。通信はすべて手元にありますが、「風趣狩伝」はまた違った味があるとおもいます。

◆通信の最終ページの予告を入れたのが良いアイデアですね。長野画伯の絵が一ページに12枚見られるのはとてもたのしいです。最高です。しばらくはこの「風趣狩伝」かかえて出掛けることになるでしょう。ありがとうございました。(横山喜久


■地平線会議から今月13日に発行されたばかりの『地平線・風趣狩伝 地平線通信フロント集 2004.12〜2018.10』が届いた。地平線通信編集長の江本嘉伸さんの巻頭言もこうして一堂に集まると、なかなかの圧巻だ。積み重ねがいかに重要かがよく分かる。我々東京外国語大学ウルドゥー語劇団の報告会は2007年3月23日に開かれたが、その予告がイラスト入りで通信328号(2007.3.14)に掲載された。これもきちんと記録されている。(麻田豊


■「地平線40年」大書受取りました。有難うございます。素晴らしい集大成です。先に進むためのマイルストーンとして大きな意義があります。おめでとうございます。小生、昨日帰国しました。先ず四姑娘山フォーラムと成都の四川観光大学で講演し、その後青海省のメコン上流域(玉樹〜ナンチェン)を探りました。知られざる未踏の山群(5470m)も見つけました。いずれ横断研ニュースで配信します。(中村保


■9月某日、3分映画祭の撮影で、僕らは車で千葉の海岸に向かっていた。いきなり長野さんの携帯がなる。相手は丸山純さんで、もう時間がない。誌面の文字は縦で組みたい。今確認できるか? と、緊張感が漂う会話がなされた。撮影終了後、長野さんは終電で千葉鎌ヶ谷から小金井まで帰宅。さらに深夜、作業を進め、40周年の会場には当たり前のように本が並んでいた。凄いです。長野さん、丸山さん。

◆風趣狩伝は地平線通信のフロント原稿集。でも通信の発送作業では、印刷が始まっているのに、フロントがまだ、という信じがたい場面に出くわす。理由は江本さんが最新の時事ネタを盛り込もうとするかららしい。それだけ聞くと「えぇ」と思うが、本を読むと、記事がいつ、どういう時代背景の中で書かれたのかよく分かる。そして本の中に画伯のイラストとして登場する自分も、同じ時代を生き、同じ空気を吸ってきたんだなぁと思える。(坪井伸吾


「恋する地平線」を振り返って

■11月に入ってしまった。地平線40年祭に向けたこの数ヶ月が、遠い昔のようだ。「恋する地平線 ヤケッパチでも続ける宣言」と大集会のタイトルを決めたのは9月11日、通信発送を控えた前日のことだった。テーマやタイトルが決まらないとプログラムに意見しようがない、と言われ、何度も主要メンバーが江本邸に集まってはビールを飲みながら案を出し合い、それでも決定打が出ないままに、みんなどんどん追い込まれて不安だけが募る。「初恋を語るように旅の話をしよう」という長野淳子さんの案が頭の中でひっかかって、最後は長野亮之介画伯に電話で相談して、本当にギリギリになってから決まった。

◆3月11日深夜に淳子さんが江本さんに書いた返信を同報で受け取ったときのことは忘れられない。「地平線はすごい人たちの集まりなので、すごい人たちになった原体験を聞きたいと私はずっと思っていました。それが誰かとの出会いであったり、何かの本や映画や絵画や実際の体験でもなんでもありだと思います。何かしら今の自分につながる『あれ』があるんじゃないかな?」

◆行動をためらっている人たちを誘い、ファーストステップを踏む手助けをしたい。既に動き回っている人たちには、その行動範囲をもっと広く、深くさせたい。そんなことを具体的なプログラムに落とし込んでいきたいと思いながらも、プログラムが決まらない焦りの最中、農業バイトで富良野市に住み込んでいる石原玲さんからメイルが届いた。

◆「ヤケッパチ案に挙げられていましたが『ズット恋する地平線』というタイトルは、私にはぴったり来ました。何故なら地平線会議に来る人は皆、何かしらに恋してると思うからです。旅や冒険はもちろん美術や音楽や映像であったり、趣味や仕事の域を超えて生活そのものの日常の様々な分野で、何かしらを追い続けている。例えば私を例に挙げると、本屋や郵便配達、農業などは恋い焦がれて就いた仕事であり、七転八倒しながらでも、いつも喜びと誇りを胸の隅に働いています。

◆また、趣味の音楽フェスティバルでは、野外と音楽を心底楽しみます。そして NO BIKE NO LIFE、何といっても自転車。どんな時も自転車に乗ると元気になれた! 自転車が無しの私は考えられない。そして未だ未だ、やりたいことや行きたい場所があり、それが今の片思いです。人は恋をすると片想いでも元気になれますよね。そこに向かおうとするエネルギーが生きる力になる。色々な事情で自殺する人が毎年何万人もいますが、地平線に集う方々は、仕事もお金も友だちも何もあっても無くても生きていけるのだと思います。誰しも皆、どこかで必死に生きている部分があり、それを支えているのは恋する気持ちのような気がします」。

◆何度も考えながら時間をかけて書いてくれたことがにじみ出るメッセージ。これに後押しされて、長野画伯の電話番号をダイヤルしたのだった。事務所や会則はなく、会長もいない地平線会議の40年祭りなので、代表世話人の江本嘉伸さんに押し付けるのではなく、地平線に関わる人たちみんなでアイデアを出し合い、議論をして「祭」を実現したかった。2004年の300ヵ月記念フォーラムでは私が「実行委員長」を任されて、不案内なままに皆さんの協力で何とか乗り切ったが、今回はそんな役を決めずに進めてもいいんじゃないか、と思ったのだ。私にとってはこのイベントも「旅」のようなもの。万全の準備と装備で臨むだけが旅ではない。

◆その優柔不断が仇になって、テーマもタイトルもプログラムもなかなか決まらず、いったん決まったかと思えばひっくり返すことになったりして、皆さんにはご心配をおかけした。「若い人たちの意見を」との声から、ここ数年初めて地平線報告会に来た人たちの意見を提案にまとめれば、今度は「地平線らしくない」と異論が出る。準備に集まってもらえば、結局いつも見る顔ぶれ。報告会には学生の参加も増えたが、現代の学生はバイトに忙しく、地平線どころではないのだ。「8年かけて卒業」なんて学生は天然記念物。これはいずれどうにかしないとならないが、ぼやいていても10月14日は刻々と近づいてくる。

◆冒頭は関野吉晴さんを軸に、午後は服部文祥さんと山田高司さんと骨組みができ、登壇者全員が確定したのは10月に入ってからだった。伊沢正名さんは名前が10月の地平線通信に載っていて驚いたそうだ。何も決まっていない中で登壇する方は不安だっただろうと思う。関野さんが「きょうは環境がテーマということで」と話し始めたときには調整不足を指摘されているようでドキリとしたし、文祥さんとの「異種格闘技」に臨む坪井伸吾さんの不安げな表情には人選をしておきながら本当に申し訳なく思った。

◆「ヤケッパチ」と言いつつ、スケジュールがきちんと伝わっていなかったために文祥さんがなかなか来ない。登壇15分前に到着したときには本当に安堵した。最後は宮本千晴さんの叱咤激励を、江本さんにうまく締めてもらった。ステージでトークや演奏が進行している間も、私は次のプログラムのことを気にして行ったり来たり。ステージ上のことは実は断片的にしか見聞きしていないのだが、会場の皆さんの表情を見ると、それぞれに発見や驚きがあったようだ(そのことは今月の通信に寄せられた原稿でもわかる)。そして祭に参加した方も、来られなかった方にも、みんなの「恋」をおたがいに応援する地平線会議でありたい、と思う。(落合大祐

40年祭あれこれ

■宮本千晴さんの地平線会議創設以前のお話に40年の歴史を感じ、私としてはトリビアの神戸集会に関する質問で、不正解の人が沢山いたことに22年の時の経過を感じました。地平線会議の歴史の半分よりも以前なのだからもう当然ですね。次は500回記念集会を楽しみにしています。10月28日はシール・スティーブが我家に泊まり、30日は武田さんとテンカラ食堂で飲み会をしました。江本さんも大阪にぜひお越しください。(岸本佳則 大阪府 地平線会議が東京を離れて初めて実施した神戸集会の実行責任者)

夜行バスで金沢市から参加しました!

■7年前に再婚同居して、夫(西嶋)がわたしに無い根気強さ、悪く言えばしつこさを持つ変わり者だと初めて分かりました。その夫が「地平線通信」を愛読し、私にも読むよう勧めるのです。読んで、まぁ〜、夫以上にすごい方々が沢山いるんだわ。常識にとらわれている人は冒険者になれないのだと感心しきりです。今回の40年祭、テレビで見た有名人の服部氏、関野氏などが出ておられ興味津々。夜行バスで金沢から上京した我々ですがその疲れも何のそのでずっと聞いてしまいました。やはり私も変人の一人かな?と改めて思い知った時間でした。(高畠加代子

■10年前、(雪黒部横断中遭難死)と私西嶋と賀曽利隆氏などで沖縄浜比嘉島の砂浜で夜遅くまで飲んでいました。私は賀曽利氏に何度も旅していれば景色も感動も苦労もおおよそ予見できる、なのに困難な旅をなぜ続けるのかと絡んでいました。今回賀曽利氏は不参加でしたが、話題になり彼ほど徹底して突き抜けた者はいないとのことでした。「突き抜けた者」とは? 私はすごく気になりました。地平線会議同人とは「突き抜けた者」(連れ合い流に言えば「変人」それも極端な)のことなんでしょうね。10年前の浜比嘉島の私、40年祭会場にいる今の私、ナビゲーターやゲストのみなさんの突き抜けぶりと比べて何と不徹底なんだろうと思い知らされました。(西嶋錬太郎 金沢市)

フィレンツェから、おめでとう!

■「地平線会議40年祭」おめでとうございます。本日ですから、さぞかし!無事に盛大な宴になったことでしょう……私も、ぜひ参加したいと思っていたのです。でも、公式に日時が発表になった折なんとか、イタリアからの帰国を14日に合わせようと試みたのですが、今週末までJALのパリー羽田便は満席。残念ながら今回の大切な40年祭に参加叶わず! 帰国は、明日フィレンツェを発ちパリ経由となり、2日遅れに……。何とも気の抜けた話です。とはいえ、ひと言お祝いのメッセージをお送りします。

◆地平線会議の創立当時、観文研に勤務していた私は山や旅には強い関心を抱いておりましたが「探検とか冒険」には縁のない人間。でも、職場に出入りされる方々があまりにも個性的な生き方を実践している人々でしたから、地平線会議創立の打ち合わせの場にも遠巻きで参加しておりました。アジア会館での集会には、受付担当で飲み物手配をした記憶があります。今思うと、皆んな若かった!

◆ずっと通信を送っていただいたお礼をあらためて申し上げたいのと、これからも長く続けていただきたい気持ちで一杯です。随分、若い方や知らない方が多くなりましたが違和感なく想像をふくらませながら……。懐かしい方が登場すると、時間の流れを思い知らされたりいたします。先月でしたか、近所の行きつけの喫茶店のカウンターで通信を開いて読んでいた私にお隣の見知らぬ紳士から「地平線会議ですね」と声をかけられました。

◆その方は塚下さんという東京の方で、今は札幌在住とのこと。ここで「地平線会議」に出会うとは!と、驚いてらっしゃいました。丁度、阿部幹雄さんの報告記事を読んでいたところでした。ずっと前に、山と溪谷社(筆者は元山と溪谷編集者)の元同僚から紹介された事がある阿部幹雄さんの報告会には行きたかったものですから……そのように不思議な繋がりをもたらす「地平線会議」です。今回の祭典には出席できませんでしたが、後日きっとワクワクする報告レポートを書いてくださるだろうと期待しております。

◆中途半端な祝電メールになってしまいましたね。でも、ほんとうにおめでとうございます!(10月14日 フィレンツェ発 山田まり子 札幌の自宅とフィレンツェを行き来する日々)

発信者が力を発揮するだけでなく、受け手も本気で楽しんでこそ!

■地平線40年おめでとうございます。40年祭は初日しか参加できませんでしたが3分映画フェスティバルに北京での二次会・オークション、と前夜祭らしい独特の高揚感に包まれ楽しかったです。ありがとうございました。

◆恋する地平線3分映画フェスティバル素晴らしかったです。開場直後、まだザワつきが残る会場で流された服部さんのオープニング映像。静寂な山中にバーンと発砲音が炸裂する狩猟のシーンでは、会場全体が静まりかえりピンと張りつめた緊張感と共に映像に引き込まれていきました。そんなシリアスな映像だけでなくアラスカが見せる大自然のドキュメンタリー映像〜シュラフマンのコメディータッチの映像、そして大西さんや柚妃ちゃんのモンゴルでの体験型の映像まで、どれもが魅力的でした。

◆「しゃあまんのいちにち」はコメディーを突き抜けアート作品にまで昇華した構成と作り込みで忘れられない映像です。作り手の手作り感が伝わる映像っていいですね。上映中の2時間ずっと会話と笑いが絶えない会場のアットホームな雰囲気が温かかったです。遠路、福井から東京へ来たにも関わらず途中なぜか「帰ってきた」と感じてしまいました。僕にとっての地平線は月に1度だけ帰る実家のような感覚なのかもしれません。

◆最後に今回の映画祭やその後の二次会で撮らせてもらった写真を見返すと、どのシーンでも皆さん、本当に楽しんでいるのが写真からも伝わってきます。良いイベントにするには発信者が力を発揮するだけでなく、それを受け止める受け手も本気で楽しんでこそ素晴らしい内容になるのですね。今回の40年祭は発信側と受け手の双方が互いに刺激し合って作用する化学反応が起こったかのような1日でした。ありがとうございました。(塚本昌晃 福井)

旅先からのメッセージ

さまざまな事情で祭に来られない人も少なくない。当日、どこにいますか?と尋ね、祭に寄せてメッセージを書いてもらった。

阿部雅龍さん(2015年10月報告者)
群馬県みなかみ町でアウトドアフェス「人力フェス」を開催。音楽のみならず、アウトドアの講習、ロゲイニングなどのノウハウ講習もあります。僕は南極行動食クッキングなどをします。今年の日本人未踏であるメスナールートでの単独無補給南極点到達900kmを達成させて、一番の夢である白瀬ルートでの南極点到達のステップアップにします。子供の頃から憧れた南極。思いっきり楽しんできます。11月9日成田から南米チリのプンタアレーナスへ。現地で準備。18日南極大陸海岸線ロンネ棚氷より徒歩開始。12月29日南極点到達予定。1月中旬帰国予定。

桜木武史さん(2016年9月報告者)
今はトルコ南部の都市ガジアンテップに滞在しています。トルコに来て2ヵ月と1週間になりますが、その間にイラク側のクルディスタンに旅行し、いくつか都市を転々としながら、ガジアンテップに戻りました。ガジアンテップでは合計で1ヵ月ほど滞在していますが、大半がホテルにいます。そして小説を書いています。誰かに頼まれたわけでもなく、ただ書きたくて書いています。帰国したら、自費出版で形にしたいと思っています。


地平線ポストから

ロングスレ村にとって“いい仕事”をしたい!

■はじめて海外からの寄稿にわくわくしています。このたびは地平線40周年、ほんとうにおめでとうございました! 今月の通信はほくほくのお祭り報告でさぞ賑わうのでしょうね。当日は残念ながら会場へ足を運ぶことがかないませんでしたが、一月以上前より滞在しているジャカルタから、ビデオチャットを経由してリアルタイムで参加することが叶いました。

◆国外にいても声がかかるお祭りなんて、この先他に出会うでしょうか。いろんな意味で、さすが地平線と思いながら話に乗りました(笑)。約束の時刻は日本時朝10:30。こちらの時刻では8:30でした。なかなか心細い一人暮らしの最中、当日は日曜日だったのにめずらしくぱちっと目覚めました。

◆遅ればせながらの報告となってしまいましたが、わたしは今年9月から大学を休学してのインドネシア滞在を決め、いまインドネシアの首都ジャカルタにいます。これまで大学の長期休みを利用して村に通っていたのですが、次第に長期的に村に滞在したいという思いが強くなりました。そこで奨学金を利用するという条件で両親からの許しを得、私費留学というかたちで実現しています。

◆この計画は、来年の9月末まで。ビザの関係上きちんと最後まで継続できるか謎ですが、12月には今いるジャカルタを出て、ロングスレへ向かうことができます。この奨学金への応募をきっかけにして、わたしは「ロングスレの女性の手仕事であるラタン工芸品を日本に輸入して広める」という一大テーマを打ち立てました。村ではラタン編みを習っているので、つきつめて広めたいと考えたからです。

◆現在その前段階として、首都ジャカルタにある「ボルネオシック」という、ボルネオの伝統工芸を扱うお店で見習いとして働いています。このショップでは、ボルネオ各地の伝統工芸をいくつかの村に独自に発注し、我々のライフスタイルに馴染むかたちで世に送り出しています。現地のNGO団体によって立ち上げられ、森林資源の維持などにも取り組んでいます。

◆実際はほんとうにこじんまりとしたお店で、わたしよりいくつか年上の若い女性従業員が二人だけ。お客さんは一日に一組あるかないかです。日本では考えられないくらいのんびりした職場で見習いする中で、ぽつぽつ拾い集めるように学んでいます。毎日が過ぎるのがとても早く、楽しみなカリマンタンでの村生活もいよいよ近づいてきました。

◆しかし正直なところ、いますなおに村に行くぞ!という気が起きないでいます。先にも書いたように、わたしは「村のラタン工芸を日本で売る」という単純明快な目標を立て、活動のためのお金をいただけるまでに至りました。そのおかげで今こうしてインドネシアで生活できていますが、その採用通知を受け取ってから、ずっと付き纏う不安感を消し去れないのです。今回のジャカルタ滞在も、じつは新鮮さで不安を上塗りする感覚があります。

◆わたしのほんとうの目的は「ロングスレの村人」になることです。これはずっと揺らいでません。村の当たり前を知って、真似て、じぶんの自然にすることが何よりの楽しみです。そのなかに、ラタンの手仕事を身につけるという目標があります。しかしわたしが掲げたそれによって、自分の想い想いの文様を、楽しくおしゃべりしながら編んでいく憧れの場に変化を与えてしまうのではないかと恐れています。

◆日本でウケる商品を目指せば、とうぜんデザインも変わってくるし、寸法や文様も理想に忠実にしなければなりません。ひっかかるのは、「日本」や「海外輸出」というキーワードが、今のロングスレにとってちぐはぐなことです。奨学金応募当時は口実程度にと考えていたことですが、いま目前に迫り、「村に何しに行くのか」決心をつけられずにいます。

◆どんよりした報告になってしまいましたが、ジャカルタについて一月半、とくに体調も崩さず元気に過ごしています。周りにインドネシア人しかいない環境にうんざりする瞬間もありますが、下宿のおばちゃんや、職場仲間にははっきりいって恵まれました。お家と職場のあいだにある小商店の夫婦も、さいきん顔を覚えて話しかけてくれるようになって嬉しいです。迷いもありますけど、日々あんまり気を重くしすぎず過ごそうと思います。(下川知恵 いまはジャカルタ)

たくましく生きてほしい、私の「沙漠の芽と蕾」

■10月はじめ、元気いっぱいの男の子が生まれた。妊娠7カ月のお腹の中でトルコ取材に一緒に向かった次男だ。妊娠後期に難民の取材に行くことについては多くの方にさまざまなご意見をいただいた。が、母親にとっては赤ちゃんが生まれる前が一番身動きがとれる。子供を産んでもフォトグラファーとして現場に立ち続けたいという切実な願い、そしてこの取材行にはもう一つ、大切な目的があった。それは二歳の息子サーメルを連れ、難民となった夫の家族に9年ぶりに会うことだ。

◆シリア中央部の街、パルミラ郊外の沙漠に、100頭のラクダを放牧して暮らしていた夫の家族。彼らは内戦によって故郷を追われ、一年前からトルコ南部に暮らしている。2012年の春のことだ。「今のシリアで外国人との接触は我々にとって危険だ。申し訳ないが今年は来ないでくれ」。それまでのように首都のダマスカスから電話をかけた私に、一家の父親が言った。突然の言葉にめまいを覚えつつも、シリアで表面上感じにくかった内戦の影をそこに感じた。それから間もなくシリアは戦火にのまれ、多くの死者と難民が生まれた。あれから9年。夫の家族もまた全てを失い、一年前にトルコへ逃れた。両親が元気なうちに会いたい。そして彼らの孫にあたる長男のサーメルを抱っこしてもらいたかった。

◆夫の家族はトルコ南部への高原の街オスマニエに暮らしている。私はそこで実に9年ぶりに彼らと再会を果たした。今年85歳を迎えた高齢の父親は、内戦で多くを失った心労もあってすっかり痩せ、現実を考えることに疲れている様子だった。彼はサーメルを抱っこして涙を流した。父親が一番会いたいだろう息子(夫)はシリア国籍のためにトルコに入国が許されず、何年も会えずにいる。サーメルを膝に抱いた父親は、孫の匂いをくんくん嗅いで「ラドワン(夫)の匂いだ」と目を細めた。

◆長男サーメルに続き、二人目の赤ちゃんも男の子だ。子供たちの名前には私たち夫婦の願いをこめた。長男サーメルは内戦で行方不明になった兄の名からとり、次男はアラビア語で「平和」を意味するサラームと名付けた。平和な時代に生きてほしい、そして平和を自ら生み出す一人となってほしいという願いからだ。サーメルは「沙芽瑠」、サラームは「沙蕾夢」、ふたりとも“沙漠に輝く平和”、つまりシリアの平和を願って漢字を当てている。沙漠の芽と蕾。この2つの小さな命が、さまざまな試練に直面しながらたくましく力強く生きるよう、母として願っている。(小松由佳

「風趣狩伝」は一級の記録である

澤柿教伸

 地平線報告会にゼミ生たちを連れてくるようになってほぼ半年になるが、節目となる40年祭の開催の年と重なったことは、偶然とはいえ意義の大きなことだと思っている。

 歴史は、それを直接経験していない世代にも次への指標を示してくれるものだろうと思う。ただ、それには、直接の経験を有しない次世代が、語りや記述で知り得た歴史を実感へと変換する「受容体」とでも言うべきスキルを持つ必要がある。

 実のところ、ゼミ生たちは、「さとり世代」あるいは「コスパ意識世代」とも称される世代。探検や冒険への強烈な志向というよりは、ユルユルのゼミ運営のお得感と漠然とした興味に惹かれて集まってるといったほうがよい。しかも、齢二十前後と若い彼らは、自らなにかを成し遂げてきた経験がまだほとんどないといってよく、残念ながらその歴史に感化される「受容体」は未成熟である。よほどの自惚れかませた好奇心でもないかぎり、地平線会議の40年の歴史や不断の継続性の意義を自らつかみ取ることは相当に困難であろう。テレビや雑誌の上で繰り広げられる世界の延長にしかなり得ないのではないかと、指導教員ながら、心配しつつ見守ってきている。

 こうして40年祭の意義を反芻しつつ我がゼミのあり方に思いを巡らせていた時に、早大探検部のtwitterで「最近巷で話題のカムチャツカ遠征の他にも多種多様な活動が行われているが、ごく一部しか報告が完了しておらず、報告の重要性が痛感される」というつぶやきに出会った。続けて「しかし探検部とはそのような仕事ができない人たちが集まるところなんだよなあ……」ともあった。これには「けだし名言」と感服したのだが、実践者・行動者としての資質や歴史に対する受容体が育っているなとも思った。

 近刊の好著『ホモ・デウス』(ユヴァル・ノア・ハラリ著)の導入に「行動に変化をもたらさない知識は役立たない。だが、行動を変える知識はたちまち妥当性を失う」と、歴史の知識のパラドクスを指摘する箇所がある。歴史をよく理解するほど、歴史は早く道筋を変え、既得知識は早く時代遅れになるという。つまり、知識の増大は変化の加速と増大を生み出して将来予測をさらに困難にする、というイタチごっこが起きてしまうというのだ。

 予測困難な将来に立ち向かう姿勢もまた「探検や冒険」であるとするなら、探検や冒険が自ら生み出す情報は、次への指針となると同時に目指す対象すら生み出している、と言って良いのではないかと思う。過去15年にわたって毎月欠かさず発行されてきた地平線通信のフロントだけを集めた『地平線・風趣狩伝』は、個々人の営みであった行動を一所に集成し、それに時代背景を添えて残している。その意味でも、「行動を変える知識」としての素質を有する一級の記録でありインベントリーであると思う。『ホモ・デウス』に従えば、それは一級であればあるほど早く時代遅れになる宿命を有することになるが、それは歴史の受容体を持つ行動者にとってのことである。それが身内だけにいるとは限らない。発信力が強ければ強いほど受容体を持つ他の行動者にヒットする確率も高くなる。

 ゼミ生たちは今、11月末に開催される学部研究発表会でこの半年間に見聞きしたことをプレゼンすべく作業を進めている最中である。この考察をゼミ生たちに伝えるべきかどうか、自発的な気づきに期待するのがよいのかどうか、一指導教員としてはまだ答えは出せていないが、アカデミズムの営みに「受容体」の育成が期待されるとすれば、それはそれで使命を果たしつつあるのではないかとも思ったりしている。

40年祭あれこれ

【100字考】法政大学社会学部 澤柿ゼミの学生

「自分にとっての地平線会議」

■澤柿ゼミを通して地平線会議を知った。地平線会議は、私の想像を超える体験や知識がプレゼンの中で飛び交い、とても有意義な時間を与えてくれる。一参加者として楽しめる場である。(3年 島崎司吏

■私にとって地平線会議とは、自分が何かをする準備をさせてくれるところだと思う。私はこの冬に今までやっていたアルペンスキーをしながら、バックカントリースキーを始めて、日本中を周ろうと考えている。新しいことを始める準備を地平線会議でもしたい。(3年 島村隆矩

■私にとって、世界を知ることが出来る手段の一つが地平線会議だ。自分では到底経験することのできない話を聞き、視野を広げることが出来ている。また、行動力のある方々の経験を知ることで、自分も何か新しいことに挑戦したいと思うようになった。(3年 長島優衣

■地平線会議とは、自然がいかに畏れ多い存在かを教えてくれる場所だと思う。活動者達は自然と上手く付き合う術を知っていて、自然の中での愉しみと厳しさを地平線会議で教えてくれるように感じる。(3年 沼田駿

■自分たちよりもはるかに経験豊富で壮大なテーマ・ヴィジョンを持った人の話を聞くことで、自分の目の前にある課題に一歩踏み出そうという勇気を与えてくれるもの、それが私にとっての地平線会議。(3年 大森琴子

■地平線会議は「出会いの場」である。出会うのはヒトであり、自分の知らない世界であり、たまに自分に出会う。発表者のお話の中で、その方の研究の知識はもちろん、生き方も感じることが出来る。(3年 笠井亮佑

■私にとっての地平線会議は「刺激を与えてくれる場所」である。毎回参加するたびに様々な刺激を受け、そして自分も何かやってみようという思いにさせてもらえる。地平線会議に参加したことで自分のこれまでの、そしてこれからの生き方を見つめなおすことができた!(3年 安藤優汰

■地平線会議で世界をみてきた人の話を聞くことで、口だけではなく実際に行動することの意味について深く考えることができた。今後は、明確な目標を決めて、どのように行動にうつすかについて考えていきたい。(3年 田中達也

■地平線会議は、私自身の世界を広げるための学びの場である。私の日常には無い神秘的な体験や、その人しかできないことをしている方々のお話を聞くことで、私も何かを頑張りたいという気持ちにさせられる。(2年 須田祐麻

■私にとっての地平線会議とは、知らない世界との触れ合いの場である。足を踏み入れたことのない土地の話を聞くことができるだけでなく、毎回の報告者の好奇心、情熱、行動力の源に迫る話は、心に刺激を与えてくれる。(2年 飯野志歩

■地平線会議は、私にとって、自分たちよりもはるかに経験豊富で壮大なテーマ・ヴィジョンを持った人の話を聞くことで、自分の目の前にある課題に一歩踏み出そうという勇気を与えてくれるもの。(2年 竹中智哉

■澤柿ゼミに入った初めは「ただ偉い人の話を聞くだけ」だと思っていた。今ではこんな素晴らしい生き方もあるんだ、と教えてくれる学びの場所。まだ回数が少ないのでこれからもたくさん地平線会議に出席したい。(2年 石井英人

■地平線会議は、様々な方向性から地球で遊んでいる人たちの集まりだと思う。カヌーで川を進み、ヨットで海を走り、気球で空を飛ぶ、そんな人たちの発表を聴けて、貴重な映像を拝見させて頂ける貴重な場所である。(2年 亀岡浩樹

★大森、竹中さんの文章のダブリが気になります。(編集長

23日から3日間、荻田チルドレンの「100マイルだよ全員集合!」

■こんにちは〜8月から横須賀で「言語と嚥下に特化したお口のデイサービス ハッピーマウス」で相談員をはじめた青木明美です。40年祭、御盛会おめでとうございます! そしてお疲れ様です。後れ馳せながら、本日、一万円カンパ送金しました。通信費は郵便局が激混みで断念しました。また、ひまそうな郵便局から振込みます。子育てはいろいろと金がかかるので(笑)カンパが遅くなったこと、お許しください。

◆そういえば、小6の娘は、荻田泰永さんの8月の100miles Adventureで新潟駅から猪苗代湖志田浜まで、猛暑や台風とつきあいながら会津磐梯山にも登頂し、粛々と170km完歩してきました。ご褒美でいわきのスパリゾートハワイアンズで二日間びっちりウォータースライダー三昧に興じ、帰宅翌日からは地元子ども会キャンプでリーダーを務めて、下級生達の面倒をみていました。

◆そして11月23日(金)勤労感謝の日からの3日間、品川区のみなとが丘埠頭公園キャンプ場で、100miles Adventure7年間8ルートに参加した日本全国のogita Children 45名(初回の2012年に参加した子は高校3年生) が一堂に会す「100マイルだよ全員集合!」という 100マイルの同窓会キャンプに、一人で「三日間行くから! ついてこないでよ!」だそうです(笑)。可愛い子には旅をさせるもんですね。急に秋に突入しました! お身体ご自愛くださいませ!(青木明美


今月の窓

行動47日、移動距離1286km

40年祭の時期になしとげたお遍路の旅

■地平線40年祭の当日、私は菅傘をかぶり、20kg弱のザックを背負い、杖をつきながら66番礼所・雲辺寺(徳島県)に向けて山を登っていた。事前の落合氏との打ち合わせでは、スマホを使いFaceTimeで地平線祭会場と登山現場とのやりとりをすることになっていた。

◆実は、9月6日から単身四国へお遍路に出ていた。お遍路とは弘法大師空海にまつわる四国八十八カ所のお寺を礼拝する修行行為だ。お寺は四国四県に点在しその移動距離は四国をぐるっと一周の1000kmから1200kmほどになる。移動手段は車や公共機関を使ったり、行程は何回かに区切って旅するなどやり方は自由、動機も人それぞれだ。懺悔遍路もあれば、故人への供養、闘病、願掛けであったりする。今回私は初めての遍路だが一番から八十八番までのお寺を一気にお参りする「通し打ち」を試みた。目的は心の洗濯。課したルールは「全区間徒歩、自炊、野宿」とした。

◆毎日、日の出から夕方までお寺を目指し歩くのだが、平均すると一日30kmから40kmを歩いた。アスファルトや田んぼ道、民家を縫う細い路地、山道など昔から伝わる遍路道は暮らしや自然の中を細々と走っていた。お寺でのお参りは無宗教の身だが弘法大師に習い携行するロウソクと線香をともし般若心経を唱えた。寺ひとつのお参りに30分を要した。野宿は遍路小屋や公園や道の駅にある屋根付きのベンチ(東屋)を利用し、時にお寺の通夜堂や持ち主の善意で提供される善根宿などを利用した。

◆歩いている間は常に自分と向き合っていた。空を飛ぶかカヌーを漕ぐしか知らない私にとって、荷を背負い歩き続けるという行為は想像以上に厳しかった。背負う重量は煩悩の塊かと自分を疑ったり、いい歳をして(お陰様で44歳)周囲に迷惑はかけられまいと重さを納得したり。それでも四国は歩くことで多くを見せてくれ、前へ前へと止まらずに次の展開をもとめる心を養ってくれた。

◆空を飛ぶことで一気に通り過ぎてしまう景色の背景にどれだけの人が暮らし、働き、地道な営みがあることか。そのことに改めて気づかされ、自身を省みた。遍路中は社会から完璧に隔離されているからだろう、目に映ること一つ一つにとても感度高く反応し意味を見いだそうとしていた。例えば、結界を超えたときに起こる心の静寂と邪気の存在から、静寂を維持する生き方はと考えたり。お寺を礼拝すると納経帳に御朱印を頂くのだが、その作業をする住職の容子はおおむねそのお寺の様子や構え、盛衰を投影しているなと思えたり。

◆挨拶ひとつで元気になり、不要なイガミ合いを消し去ってくれる。そして去り際がいかに肝要かと気づかされたり。そんな日々の出来事、感慨を歩きながらメモ帳に書き込んだ。遍路を通じて心にあり続けたキーワードは「求道精神」だった。道を求め極めることと経済的自立を同時に図ろうとすると、現代社会ではとたんに煩悩まみれになる。

◆この発想から抜け出せず、もがき、一喜一憂を繰り返していた。その最中にサラリと舞い込んだのが地平線40年祭へのお誘いだった。そのころ遍路はひと月をこえ1000kmほど歩いていた。秘密だったこの旅も隠していてもしょうが無いと吹っ切れていたことも幸いし、地平線を心で受けとめることができた。意識を地平線にフォーカスすると、地平線は求道の志士の集いじゃないか! と目が覚め心勇んだ。1000キロを歩き再び原点に戻ったというのが率直なところだった。

◆10月20日、八十八番礼所大窪寺(香川県)をお参りし無事に結願(遍路終了)した。高揚感はなかったが、しずかに「求道の実践」にむけ心は動いていた。大窪寺の山門で撮ってもらった写真は自分で言うのも何だがとてもいい笑顔だ。その翌日、お礼参りに和歌山県高野山の奥の院へと向かった。そこは入定(即身成仏)した弘法大師が今もいる場所だ。緩やかな山道を6時間ほど歩き奥の院へとたどり着いた。行動47日、移動距離1286km。新品だった靴の底はツルツルにすり減り、58キロあった体重は5キロ落ち、旅は終わった。

◆遍路を振り返るとその道中は人生の縮図だった。雨が降ろうが体調が悪かろうが安息日はない。台風や長雨で被災した道を這うように進んだ。夜中、狸に靴と洗濯物を持っていかれ唖然とした朝もあった。時には遍路道をはずれ、四万十川に沿い窪川から江川崎、中村と歩いたり泳いだりと寄り道をして遍路を楽しんだ。

◆折しも警察から脱走、日本一周中の旅行者になりすましていた男が逮捕された直後だった。菅傘をかぶっているとお遍路さんでとおるが、それがないときの街中での突き刺さる視線が耐えがたい時もあった。一方で高野山の大門の脇で野宿の準備をしていると「寒いから」と若いお坊さんが疑いもせず自室に私を案内してくれた。多くのお接待を受け、助けを求め、もらってばかりじゃいけないと戒めできることをした。するとまた次のお接待が訪れた。般若心経のいうところの人のために生きるという発想が苦楽と共に身にたたき込まれた感がある。

◆最後になるが、遍路で出会うこれはという人が話すことに「あとは社会とどう合わすかだ」とみな口をそろえて言う。答えは誰も教えてくれないが、問われている。地平線よ、求道の志士よ、これからも気丈であれ!(天空の旅人 多胡光純 またとない豪快な振り返りの旅を許してくれた家族に感謝しつつ)


あとがき

■フロントで書いたオークションの協力者、実は外国にもいた。カナダ・ホワイトホース在住のマッシャー、本多有香さん。はじめ、見事なヘラジカの角を地平線のために確保したようだが、郵便局の窓口でこれは送れません、と言われがっかりしたそう。ヘラジカ角の写真を送ってくれ、それとは別にユーコンのナンバープレートを(いっさい説明なしに)郵送してきた。

◆突然届いたナンバープレート、一体どんな由緒があるの? 謂われを教えて、と書いたが返事なし。しかし、オークションでは意外な人気で大いに貢献してくれた。経緯を説明してお礼を伝えると「わあ、ちゃんと役に立って良かったです。ホッとしました」と返信があった。

◆海外と言えば、オーストラリアのシール・エミコさんから先ほどFacebookで「サイクリング再開、第一目標の500kmを本日突破! 旅してた時の(ほんの) 5〜6日分の距離なんだけど、身体の障害、痛み、(歳も!)うまくつきあって頑張れたと思う♪ 残りの世界一周に向かってゆっくりと、じっくりと、確実に向かってる感じ♪」と元気な近況が。あのエミコさんが再びペダルを踏んだんだ、と感無量である。

◆12月から来年3月まで地平線報告会の会場が変わります。いつもの新宿区スポーツセンターが休館するためで、とりあえず12月は22日の土曜日午後、新宿区歴史博物館を確保しました。詳しくは地平線のウェブサイトで告知します。(江本嘉伸


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

“大発見”への一里塚

  • 11月23日(金) 18:30〜21:00 500円
  • 於:新宿スポーツセンター 2F大会議室

「オレはやっぱり探検家なんだよー」というのは、作家・編集者の岡村隆さん(70)。今年8月にスリランカ南東部タラグルヘラ山域のジャングルで古代シンハラ王朝時代の大規模な仏教遺跡を“中発見”しました。

法政大学探検部員だった'69年、モルディブ探検準備の為に訪れたコロンボ(スリランカ)で秘跡の情報を偶然に得て以来、その歴史的意義とロマンに魅せられ、50年間こだわってきた考古学調査探検行の一成果です。

古来、仏教伝播の重要な拠点であり、日本の仏教とも実は縁の深いスリランカには、未発見の遺跡がまだ数多く眠っています。しかし、ドライ・ゾーンの厳しい気候、深いブッシュ、野獣(ゾウ、ヒョウ、ナマケグマetc.)等のハードルが高く、アクセスは容易ではありません。

半世紀に渡る関わりで学術的な興味もさることながら、何より岡村さんの心を躍らせるのは未知に挑むロマンです。「今回のは中発見なんだ。まだまだ面白いのはこれからだよ」と熱く語る岡村さんに、今月はスリランカの探検行の魅力を語って頂きます!


地平線通信 475号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2018年11月7日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方


地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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