2020年9月の地平線通信

9月の地平線通信・497号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

9月16日。きのう、今日と一気に秋が来た。今朝の都心の気温は24℃。除湿機能の恩恵に預かっていたつい先日までが嘘のようなひんやり感だ。午前9時過ぎ、臨時閣議で全閣僚が総辞職、7年8か月続いた第2次安倍晋三政権が幕を閉じた。

◆代わりに官房長官として安倍政権を支え続けた菅義偉(すが・よしひで)氏が午後の国会で新たな日本の首相(99代になる)に選ばれた。ただちに組閣が始まり、5人の新任を含む20人の閣僚が指名された。顔ぶれを見ると「安倍政権の継承」という印象に尽きるが、少なくとも新型コロナ・ウィルスという未曾有の事態への対処は継承ではなく前に踏み出してほしい。うまく切り抜けられるのか、あるいはより厳しい事態が来るのか。

◆きのう15日の国内の新型コロナ・ウィルス感染者は531人。累計では75,663人に達した。死者は1,467人。「前流行」だけで死者26万647人を数えた1918(大正7年)の「スペイン風邪」と較べて断然少ない。ちなみに、1919年12月からの「後流行」でも18万6672人が死んだ。スペイン風邪で日本だけでも死者は44万1314人に達したのだ。寒い季節に入るこれからどうなるのかわからないが、これまでのところ日本はうまく対応しているようだ。世界の感染者29,190,841人。死者は927,249人。

◆8月のある日、信じられない訃報が飛び込んできた。7月号の通信でコロナに関して健筆をふるってくれた神尾重則(かみお・しげのり)さん。医師として、登山家としてそして随筆家としてこの通信にも何度も登場してくれた。今回原稿を頼んだ時、すでに病院長の仕事は休んでいたが、コロナ禍で医師として考えることを、と依頼すると快諾してくれた。ケビン・コスナー主演の映画「ダンス・ウィズ・ウルブズ」(私はこの映画が好きだ)をもじった「ダンス・ウィズ・ウィルス」というタイトルの原稿は7月4日届いた。

◆体調のことは気にはなったが、そのうち様子を聞こう、と深刻には考えなかった。なにしろ健康に気を使う人で、毎朝5時には近くの大学の構内をジョギングする日課と聞いていたし、昨年もネパールの奥地、ドルポに医療ボランティアの仕事で行ってきたばかりだった。難しいガンにかかったようだったが、詳しい病状は話したがらず、原稿を書いてくれたあと、急に悪化したらしかった。8月12日朝、逝去。まだ67才だった。コロナ禍の中、通夜も告別式もご家族だけで行なったという。そうそう。秋に予定していたご長男の結婚を早め、8月に行なったそうだ。その時の元気な神尾さんの写真の笑顔を見て思わず涙がこぼれた。

◆奥多摩の山道71キロメートルを走る「日本山岳耐久レース ハセツネ(長谷川恒男)カップ」が神尾さんとの出会いだった。東京都山岳連盟が主催するこの大会に2回目からほぼ毎年、多分10回ほど私は参加していた。制限時間が24時間というのでのろのろでもなんとか時間内に走り切れたのだ。この大会の真髄は、深夜暗闇の山をライト頼りに走る時の強烈な“ひとり感”だ。あの厳しいさびしさは忘れられない。

◆日の出町の病院長だった神尾さんは山岳医として毎年現場に立ち会っていた。そのことが縁で私たちは親しくなり、地平線通信にしばしば寄稿をお願いし、その人柄に惚れ込んだ私は神尾さんに毎年一度健康診断をしてもらうようになった。とりわけ安心してお願いできたのは胃カメラ検査である。元気だった兄が食道ガンで手遅れとわかった時、胃カメラをしっかりやっていないことが悔やまれた。神尾さんは実に丁寧に目の前の画像を解説しながら私の食道、胃の状態を解説してくれた。、

◆2004年「Dr.重さん 山のカルテ」(西多摩新聞社刊)という著書を出した際こじんまりした出版記念会が開かれた。辺境ドキュメンタリストの大谷映芳さんが司会をつとめ、三浦雄一郎、関野吉晴、中村保といった錚々たるメンバーが顔をそろえた。2005年8月、313回目の地平線報告会で「青罌栗(ブルーポピー)の彼方へ」というタイトルで話をしていただき、2017年10月27日通算462回目の地平線報告会では「祈りとワクチン〜生老病死を巡る旅〜」と題してドルポの旅の様子を話していただいた。

◆8月の終わり、国立市のご自宅を訪ね、眞智子夫人から神尾重則という人生について長い話をお聞きした。奥様ともお会いしたことはあったし、電話ではよく話していたのでふるい友人の感じで3時間も居座ってしまった。神尾さんの遺稿ともなった「ダンス・ウィズ・ウィルス」が掲載されている7月の地平線通信495号を多めにお渡しし、今月ご家族の思いを地平線通信の1ページに、とお願いした。ご家族からのそのメッセージは、16ページ「さようなら 神尾さん」にあります。(江本嘉伸


コロナの中で教え、学ぶ

山岳部という、かけがえのない文化が存亡の危機に瀕している

■新型コロナウイルスの感染が広がり始めた2月26日、「週末(2月29日)は栂池で山スキーだ」と、登山計画書を練り上げ、翌日放課後のミーティングで最終確認をしようと昼休みに部長のM、副部長のAと話を詰めた。しかし、その日、首相は国民に向けて、2週間のスポーツ・文化イベントの自粛を要請した。それを受けて放課後の職員会議で、以後の一切の部活動が当面の間中止になった。しかし、その時はまだ事態の切迫した状況を十分に理解できていなかった。

◆追い打ちをかけたのが、翌27日の首相の理不尽かつ唐突な学校休校指示。そのまま春休みまでの間、学校という場における教育活動が強制的に停止させられ、ご多分に漏れず山岳部も全くのお手上げ状態となった。生徒のいないがらんとした学校の窓から、青空の下に美しく輝く後立山の峰々を見ながら恨めしく思う毎日が続いた。

◆4月に入り、いったんは学校が再開されるも、数日で再び休校となり、その後4月21日には、国内の山岳4団体が登山愛好家に、「登山の自粛」を呼びかける事態に至った。通常高校山岳部にとっては、6月初旬に行われるインターハイの県予選に向けて、4月から6月までの時期は、新人教育の場として、教わる下級生にとっても、教える上級生にとっても極めて重要な時期となる。この時期に登山の技術・体力・知識は格段に向上する。それに先駆けての3月は、雪上での生活訓練を通して上級生が来るべき新入生を迎えるために実力を高める時期だ。

◆長く高校山岳部の指導に携わってきた私は、高校山岳部は自立した安全登山の実践者を育てるための極めて優れた教育システムであり、インターハイという場はそのための非常に重要なハードウエアであると考えている。インターハイというと競争を思い浮かべ、違和感を覚える向きもおられるかもしれないが、山岳部におけるインターハイは、他のスポーツにおける単なる競争としての競技とは意味合いを異にしている。

◆一般にスポーツは人間が相手であり、人間が決めたルールの中で競い合うものである。ところが登山は大自然や時には自分自身と向き合うスポーツである。大自然の懐の中で自分自身を高めることこそ登山の大きな魅力であり、そこが他のスポーツと大きく違う側面である。フィールドやその日の天候また季節により条件が異なり、ルールのないのが登山の面白さでもある。しかし、その面白さを享受するためには、やらねばならないこと、知らねばならないことがたくさんある。

◆インターハイで行われる登山競技は、そのルールのない世界の中で、身を守るための安全登山の技術や体力などの総合力を客観化して評価する。もちろん若い高校生は、競技性をより意識し、その評価にのみとらわれることもなきにしもあらずだが、しかし、それだけに堕してしまうことなく、以後の登山活動に役立つように、大会では教育的な観点からのアドバイスが、講評という形で参加した全チームに向けて発信される。いわばインターハイの先にこそ目標があるのである。

◆しかし、コロナ禍の下で、それに向けての重要な機会がすべて失われてしまった。山は逃げない。されど、3年間(実質には2年数か月)という限定された期間における、極めて重要な時期の数か月の停滞は、かけがえのない時間の喪失である。6月の学校再開に合わせ、部活動も段階的に再開される一方で、社会全体でも制限つきながら登山自粛が解除された。

◆本校山岳部も社会状況を見ながら、コロナ対応の活動指針を定めて注意深く活動を始めたが、長野県教育委員会が定めた部活動再開におけるガイドラインの中にある宿泊禁止がネックになり、正常な活動とはほど遠いのが現状だ。仲間と語らい、同じ釜の飯を囲んでテント生活をするという山岳部にとっては、生命線とも言える活動が未だにできていない。

◆インターハイの県予選が中止され、夏山合宿も許可されない状況で、安全登山の基礎技術を高めるための上級生から下級生への登山技術や知識の伝達の場が失われ、山岳部という一つの文化が存亡の危機に瀕している。新型コロナウイルスは、間違いなく高校山岳部のあり方を根本から変えようとしている。その中で、我々は生徒とともに新しいスタイルを創造していかなくてはならない。いくつかの都道府県の高体連登山専門部では、テント生活が許可されていない暗闇の中でも、再開された暁には即座に対応できるようにと、コロナ禍の下における3密回避のテント泊の基準作りを進めている。

◆締めくくりのできなかった3年生、次期への橋渡し役を果たしきれない2年生、希望と違う活動を余儀なくされている1年生。日々美しい山を見つめながら、それぞれに苦悩の日々が続いている。しかし、そんな中で、僅かな救いもある。3年生は引退前の最後の山行は、「悔しさや辛さはどうにもならない。けれど最後に、仲間全員でいい山登りをしたい」と、これまで登山道整備で何度も登った本校ゆかりの山「鍬ノ峰」に登ることを選んだ。

◆梅雨時で大雨の予想される中、頂上に到達することさえかなわなかったが、その日の最高到達点で、山岳部に連綿と流れる「山岳部歌」をこれまでにない大きな声で歌った。それを引き継いだ1、2年生はそんな思いを受け止め、日々の日常活動が当たり前にできることを素直に喜び、いつか仲間とテント泊ができる日に向けて、毎日のトレーニングや天気図・読図などの学習に地道に取り組んでいる。

◆私は山好きの一高校山岳部の顧問に過ぎない。しかし、長くこの仕事をしてくる中で私自身山岳部の生徒たちに育ててもらってきた。また、インターハイを通じて長野県はもとより、全国の顧問仲間にも多くのことを教えてもらってきた。さらに、社会人の山岳会に所属して県の山岳協会にも関わる中で、国の内外を問わず、楽しくかつ刺激的な山登りを続けてくることができた。

◆そんなことへの恩返しの意味も込めて、今から20年前に自分のところに集まってくる情報を共有することで、高校山岳部の文化に少しでも貢献できればという気持ちからインターネットを介して双方向の情報発信を始めた。コロナ禍の下での私の発信に呼応して、全国の仲間たちも、出口の見えない状況の中で、もがいている様子が伝わってくる。学校が、ひいては社会全体が一時的に機能不全になるという経験したことのない状況におかれる中で、これまで何不自由なく登山を続けられてきたことの意味やありがたさが身に染みて感じられる。

◆そして、教育を担う学校現場で、生徒の成長において、授業以上に部活動の持つ意味の重要性に改めて気づかされているのは、ひとり私だけではない。高校山岳部の活動は、かけがえのない文化活動である。山岳部の楽しみはあまたあれど、山で気の合う仲間とのテント生活は格別である。日常から離れて、苦労して山に登った末に、大自然に抱かれ、そこに棲む生物の息吹を感じながらすべてに身を任せる。いつになったらそれを謳歌できる日が訪れるのだろうか。それまで、高校山岳部文化を如何につなげていけばいいのか、全国の仲間と連携をとりつつも、悩みは尽きない。(公益財団法人 全国高等学校体育連盟登山専門部顧問 大西浩

★大西さんは長野県大町岳陽高校教諭。高校山岳部間の情報交流の手段としてメール情報「かわらばん」を月数回発行し続けこの9月で682号を数える。国立登山研修所で江本と専門指導委員同期。

これが新しい大学の在り方に?

 毎年3月、大学では卒業式が行われるが、今年はCOVID-19の全国的な感染拡大で中止になってしまった。2020年3月20日、私が指導した学生たちにメールで卒業のお祝いの言葉を送った。

 4月は新入生を迎える。感染拡大は収まらず入学式も中止になり、新入生は教室定員の半分くらいでの密度で時間短縮したオリエンテーション、翌日は大学のWebシステムのID通知と設定を短時間で行い、あとは自宅またはアパート待機となる。翌日からはメールとWebシステムの連絡だけが情報交換手段である。

 事情は2年生以上も同じであるが、大学での科目履修申請や単位認定制度、講義での教員と学生との関係などは、1年生にとっては初めてのことであり、暗中模索であったろう。オリエンテーションで配布した資料に書いてあるとはいえ、どの資料に何が書いてあるなど簡単にはわかるわけもない。もっとかわいそうなのは、同級生と会話する時間もなく、友人を作ることができなかったので、心配なことを聞いたり相談したりする相手がいないことだろう。

 そんな中でも講義が開始される。講義の進め方などは大学教務からメールとWeb掲示板で伝えられ、各科目の教員からは、それぞれの講義の受講方法などがメールで伝えられる。Web講義の準備や情報周知のため、講義開始は予定より1週間遅れで開始された。私の勤務する大学では主に2つの講義方法が行われた。

 1つは講義ごとに資料や解説を15回分Web上に置いておき、学生は自らそれらを読んで学習し、各回の課題に解答するもの。もう1つは、資料は同様にWeb上に置いておき、時間割上の時刻にZoomというWeb会議室システムで講義をリアルタイムで行う方法である。あとになって、文科省の通達でビデオ相当が無いものは講義として好ましくないとの知らせがあり、ZoomまたはVOD(ビデオを作成しておいて、受講者が望んだ時間に視聴できるもの)を全ての講義で取り入れないといけないこととされた。

 私の講義の場合、最初の3週間は様子見として設定した。Webシステムでの課題提出期限に間に合わずに、メールや電話で相談してくる学生が何人も出た。それら学生にはメール提出を許可し、システム不慣れの学生救済を行った。その後は、ほぼ全員が期限内に課題を提出することができた。これは2年生の講義であるから、このようなことが可能だったと思われる。何人かで相談して提出したような課題回答も見られたが、そこは許容範囲とした。1年生用の講義も同様に、資料をWeb上に置き、こちらは課題をメールで期限内に提出するように指示したが、出さない学生の割合が多い。

 期限を過ぎた学生には督促メールを出すことを行った。私は1年生のチューター(学科の半分の50人が対象)ということもあり電話は延べ20回以上、メールは40通以上は出した。電話に出ない学生は親元に電話して現状を伝えることも行った。調べてみると、新入生からの質問等のメールは前期までで450通を超えている。

 本来は、大学のキャンパスで新しい生活様式を始めるはずだった新入生が、このように自宅軟禁状態で講義を受講しなければならないことが、どれだけフラストレーションをためているか想像する。また、PCが利用できる環境に無い学生は、これら講義をスマホで受講していたのである。

 一人暮らしのアパートでスマホの画面を見ながら、聞こえてくる教員の声と解説の文書を読み、その後、課題をスマホのWord等利用してフリックで長い文書を入力することを想像する。

 ネット講義での学生の負担を書いてきたが、教員も相当の負担増があった。先に書いたメールの対応もそうであるが、講義資料の準備やWebシステムの理解、またZoomの利用方法の習得などがある。また、提出された課題を点検するのに、いちいち各学生から送られてきたファイルを開いては中身をチェックし、点数をつけては、また次のファイルを開く作業を1回の講義で受講生分(1つの講義は100人以上)を行うのである。

 これは、なかなか操作を繰り返すのも気持ちがなえるし、またディスプレイを見続けるので目もつかれる。メール提出の場合は受け取ったか受け取らないかの確認に注意を必要とした。提出済みの学生に督促を送ってしまったこともあり、その後謝りのメールを送った。

 以上のことは岡山という地方都市の1私立大学の1つの学科の中の私に関わる部分だけの事柄である。しかしながら、ほとんどの国立大学は大都市や地方ということに関係なく、学生の入校禁止がされているし、私の知人の娘さんは、都内の私立大学にこの春合格しアパートも確保しているにも関わらず、岡山でネット講義を受けて半年が過ぎ、後期もネット講義が続く連絡が来たそうである。

 大学生活がこれで良いわけはないが、解決案は見当たらない。このような状況はいつまで続くのだろうか? 今年入学の学生だけが不利を被るのだろうか? または、これが新しい大学の在り方になってしまうのだろうか?(北川文夫 岡山)

突貫工事で進められた大学のオンライン講義

■地平線報告会にゼミ生たちを連れてくるようになって三年目を迎えようとしていた春にコロナ禍がやってきた。授業は軒並みオンラインに移行して顔を合わせて議論することもなくなり、定例の週末巡検や夏合宿もできなくなった。なによりも地平線報告会で諸氏の話を生で聞くことができなくなった。地平線との関係が軌道に乗りはじめて、さて次の展開へ、と思っていた矢先だっただけに大きな痛手である。

◆準備期間や公的支援が十分あったとは決していえない中で、教育を受ける機会を維持しようという教員の気概だけに支えられて、まさに自助と共助の中で突貫工事で進められてきたのが、全国の大学で展開されているオンライン講義の実情である。それでも前期を終えてみると、学生たちの習得度からみればまんざら悪くもない、という声が関係者の間では意外と多い。私自身も、授業ごとに書いてもらっている小レポートや期末試験の結果をみていて、通常時よりもむしろよくなっているように感じている。

◆バイトや部活という勉学の時間を奪う機会が減り、先輩などからの手抜きを勧めるような悪い情報に晒されることもなく、より純粋に勉学に励むようになったからでは、と想像したりもしている。一方、学生のほうはというと、自分でとったアンケートで対面授業の早期再開を望むのは6割強という結果。新規感染がなかなか収まりを見せない中で慎重に考えている向きもあることは確かだが、大半の学生にとっては、混雑にまみれた通学もなく、都合のよい時間に動画で受講して、とりあえず締め切りまでにレポートを出す、という引きこもりスタイルが思いのほか快適らしい。

◆ただ、中には、人付き合いが苦手だったり、人と群れることを嫌い自分の世界をひたすら邁進したいと思っているようなのもいて、対面授業再開を望まない4割の中には少なからずそのような志向の学生が含まれている。スクリーンとキーボードごしに学生とやりとりするうちに、オンライン授業で頭角をあらわすのはこうした学生なのではないかという側面も見えてきた。

◆さて、オンライン授業で一番たいへんなのが実習系の授業。フィールドワークの中で手取り足取り指導して学生自らの体で体験してもらうことを主眼とする教育スタイルを続けてきた私にとっては、手足をそがれたも同然で、それをどうやってオンラインでリカバーするかが思案のしどころであった。4月初めにプランを固めて、在宅でも手作業でできそうな教材を実験室からかき集め、学生宛てに事前に郵送することにした。これらが学生の手元に届けば、あとはネットごしに指示して作業させられる。

◆まずはネットごしのレクチャーで地学系フィールドワークの意義を解説した後、いつもはゼミの夏合宿で訪問している洞爺湖ジオパーク内の指定したチェックポイントをGoogle Mapで各自で巡ってもらい、そのスクショ画像を電子アルバムにして提出してもらった。スマホ世代の飲み込みはさすがに速く、成果発表の授業では、思い思いの巡検アルバムを見せっこするZoom談義に花が咲いて、新学期早々のよいアイスブレークになった。

◆その後、最近親しくさせてもらっている任意団体が主催する「缶チューハイ片手に多摩川を愛でる会」というバーチャルな企画に参加させてもらって、Google Earthで玉川上水をたどるネット巡検を実施した。羽村の取水堰から出発して、多摩川の河岸段丘をうまく迂回しながら武蔵野台地の一番高い背骨部分に乗り上げ、絶妙な水路回しでなるべく高度を落とさずに四谷大木戸まで水を運んでいたのが玉川上水である。これをGoogle Earthでバーチャルにたどるという1時間の旅であった。

◆終点の四谷から分水された上水は、江戸城内壕を経て江戸市中へと配分されていたのだが、水路の傾斜をずっと最後まで最低限に抑えてきた先人の努力の痕跡が、千鳥ヶ淵の田安門橋をはさんだ水面の高さの違いに現れている。これが鳥目線で一目瞭然にわかるのがGoogle Earthのよいところ。また、玉川上水を一日で歩ききることなど現実の野外巡検ではとうていできないことでもあり、この企画は思いのほか好評であった。

◆都内の身近な風景の中に、武蔵野台地の水問題と格闘してきた江戸の歴史と自然地理学的な要素が詰まっていることに改めて気づかされた、という感想が多く寄せられた。このほかにも、郵送しておいた赤青眼鏡で飛び出す地図を実体視してもらって、峠をうまく使いながら「マイ中山道」をアドリブで導き出してもらう課題をやったり、日本列島の山稜をトレースすることで太平洋と日本海への大分水嶺の存在に気づいてもらったり、プラスチックの惣菜パックのフタで立体山岳模型を製作してもらったり、半期14回分の講義としては盛りだくさんのメニューをこなしてもらった。

◆社会学部の学生なのでいわゆる文系なのだが、ネットごしでもけっこう実習をこなせていた学生さんたちは意外に優秀かも、と感心した次第。(澤柿教伸

他者との良好な関係のためにマスクが意味を持つ時代

■大学4年生の夏休みも漸く後半に差し掛かった。8月の始めから9月の終わりまで続く長い長い夏休み。この月を日本で過ごすのは大学1年生の夏以来、4年ぶりのことだ。例年欠かさず足を伸ばしていたインドネシアへは、昨今の状況からやむなく渡航を断念し、遠出することなく東京で大人しくしている。わたしの通う早稲田大学では、先月まで全ての授業がオンラインで行われていた。そして残る授業期間も、少なくとも今年度いっぱいは非対面式の授業が継続される方針だ。

◆感染拡大が始まってから、飽きるほど通っていたキャンパスと突然疎遠になってしまった。最終学年のわたしは、引き続き画面上で完結する授業を受け、卒論の提出を済ませたら、キャンパスライフを再開することがないまま卒業になるだろう。部屋の中で淡々と過ぎてゆく学生生活、人生の節目を彩るはずだった諸行事の中止。初めこそショックではあったが、「今年の異例の対応」をニュースやSNSで幾度となく目にしてからは、大学の決定もすんなりと受け入れられるようになっていた。近頃はコロナに関して動揺したり昂ったりということが、ほとんどなくなった。今日の今日まで終わりの見えない持久戦の中にいて、冬眠する熊のように、省エネモードで過ごす日々だ。

◆未曾有の事態に揺れ動く社会。その波はわたしの足下をも揺らし、広い意味での「新しい生活様式」は知らぬ間にも内面化されてきたと感じる。中でもマスクの着用は、たった半年前に生まれたトンデモ新常識でありながら、わたし自身の行動や思考にもだいぶ浸透した。実際どこへ出かけても、口元の露わな人間がかえって目立つほどの普及ぶりだ。

◆東京の街では、マスクがパスポートとも言える。マスクを着けずに混み合った電車に乗れば、乗客たちから困惑の視線を集め、行先のお店では入店を断られてしまうだろう。もちろんマスクの着用は、もとより互いの感染予防という第一義的な役割のためだ。だがそれに加え、他者との良好な関係のためにマスクが意味を持つ時代(現象?)が到来している。

◆半年前までは奇抜だと思っていた黒マスクも、若い世代がごく当たり前に着けるようになり、最近は「ちょっとしたお洒落で選ぶもの」という認識へ変わりつつある。化粧品売り場では、「マスクメイク」や「オンライン映え」への実用性が強調されている。時代の過渡期にいるとは、それまでの違和感センサーが死んで逆転することかもしれない。こうした肌感覚はおぼえておこうと思う。

◆ぼんやりと早稲田を去ることを想像しつつ、わたしは来月の院試に向けた勉強の最中でもある。もし合格できれば、来年度からは「環境社会学」という分野を学ぶ修士院生だ。志望先は早稲田大学の大学院なので、「早稲田を去る」とは大げさに聞こえてしまうかもしれないが、研究室が所沢にあるのだ。今いる学部とは分野が異なるため、一般の枠で受験することになっている。早稲田の学生であるからといって一つの優遇もない。

◆実はここでも「異例の対応」として、先日、今年度の入学試験と面接を全てオンラインで行うとのお達しがあった。試験の一部はそれまで筆記問題として出されていたものが、オンライン・システムを用いた口頭試問になるそうだ。さらにはカンニング防止として、試験前にはパソコンの付属カメラで360度景色をぐるりと回して見せ、余計な物が置いてないことやきちんと戸締りされていることを確かめるのだという。試験の最中は録画・録音によって一部始終が監視される。自宅で受験できるということだが、わたしの場合はかえって緊張してしまいそうだ。

◆息の詰まる冬眠生活が明けるのはいつになるのだろう。ウイルスを避け、変化の波を乗りこなしているようであっても、行動や思考を押し込める生活が健康的であるはずがない。精神的・身体的に負担を感じるのは自然なことだと思う。夏休みを送るわたしですら、「コロナ疲れ」なのか、この頃はたびたび身体に変調を来すようになった。うんざりするが、この不調に慣れきってしまいたいとも思わない。「新しい生活様式」への移行が求められても、身体の自然まで飼い慣らされてはいけないなと思う。ここからは少しずつでも、元の生活にあったのびやかさやしなやかさを取り戻していきたい。地平線の皆さまも、体調には一層敏感に、くれぐれもお元気でお過ごしください。(下川知恵

コロナ自粛と100マイル

■私は8月7日から16日に開催された「100miles Adventure」で173.5kmを歩いた。これは、北極冒険家の荻田泰永さんが主催している小学6年生のための冒険旅だ。親は同行せず、小学6年生8人とサポートスタッフだけでテント生活を共にした。自分のことは自分でなんとかしなければならない。今回のルートは、小田原城を出発して箱根を越え、富士山の周りを大きく1周して、また箱根を通って小田原城に戻るというものだ。

◆出発の日、小田原城に集合した私たちにお揃いのTシャツが渡された。初顔合わせのとき、私は人見知りなのでのっぽの男の子や太っている男の子が少し怖かった。女の子は私の他に二人いて、その二人のお兄ちゃん同士が3年前に100milesに参加していたので、私が仲間外れになるのではないかと心配だった。集合写真撮影のとき、「笑ってー」と言われたが、うまく笑えていなかった気がする。

◆初日は午後の出発だったので4.5kmを歩いた。ゴールした今となってはとても短い距離だが、まだ全然歩いていなかったこのときは、4.5kmがどのくらいの距離なのかいまいち分かっていなかった。自分を安心させるために、“100メートル走が20秒だとして、全速力で走れば20×45で900秒で着く距離だ”などと考えながら歩いていた。

◆キャンプ場についてからは、私の心配とは裏腹に、みんなで楽しく喋ることができた。大人の手伝いなくテントを張り、食器洗いをして、仲間と一緒に生活した。たくさんの「初めて」を体験できた。その中で、どのようにすればもっと効率がよくなるのか、どうすればもっと上手くいくのかなどを考えられた。特に食器洗いは高校生のスタッフであるハルナにも教えてもらって最初の頃よりも上手にできるようになった。

◆毎日20km以上、長いときは26km程度歩いた。しかし坂が無い道はそこまで疲れなかった。歩いているときはすとぷり(私の好きなエンターテイメントグループ)のことを考えたり、頭の中で好きな曲を流したりしながらも、ミミズを踏まないことにだけに集中していた。

◆行程のほとんどが山の中で涼しく、歩きやすい道だった。しかし、御殿場市街や、小田原の街などの下界はとても暑くて死にそうだった。30分ごとにとる休憩をまだかまだかと待ちながら歩いていた時もあった。だからこそ、キャンプ場に着いた時の達成感がすごかった。キャンプ場では、みんな仲良くしてくれた。特に女子の、ココロと仲良くなった。100miles Adventureには、みんなでの食事や花火やスイカ割りなど楽しい思い出しかない。

◆10日間順調に歩ききり、いよいよゴールの瞬間になった。小田原城には、ゴールテープを持って家族たちが待っていてくれた。そこへみんなで手をつないでゴールした。その時は複雑な心境だった。これでみんなとお別れ、というのと、やっと家に帰れる、というのと、久しぶりに会った母とどう接していいのか分からない、という気持ちだった。その後、最後の昼食をみんなで楽しく食べて、どさくさに紛れて母と話した。みんなとのお別れは嫌だったが、また11月の同窓会で会えると思ったら気が楽になった。

◆100milesに行く前のコロナ自粛中、私は家で勉強をしたりひとりで遊んだりしていた。私は学校に行けず、母も仕事に行けずに家にいて、とても退屈で、ストレスがたくさんあった。友達にも会えないし、楽しい習い事にも行けないし、塾もなくて勉強があまりおもしろくない。学校から出された宿題ばかりをやっている日々だった。そのストレスから、母に対する反抗がひどくなった。暴言もそうだし、時々母のことをけったりもしていた気がする。

◆しかも私は、毎日iPadをいじって夜更かしもするようになっていた。もちろん、親の許可は取っていない。勝手にTwitterとTikTokとInstagramのアカウントを作って夜が明けるまで遊んでいた。それが、一番のストレス発散になっていたからだ。しかし、そんなコソコソした生活はいつまでも続かず、ある夜中に母にバレてしまった。

◆しかもその時、生きる意味がわからなくなって、死にたいと思っていた。自分で生きている価値は人がどう思っているかだと思ったけどわからなかったので、せめて生きる意味くらいはあるだろうと思って考えてみたものの、何も思い浮かばなかった。それなら、別に私がこの世に存在しなくても同じなのではないかと考え始めたのだ。

◆そうなると、自分で死ぬことを実行するか、生きる意味をみつけるかどちらかだと思った。母と話した時に、“生きる意味がないから死ぬのと、生きる意味がわからなくても生きるのとでは、違うんだよ。いつかきっと見つけられるよ”と言われ、生きる意味をみつける方を選んだ。カンザキイオリさんの『命に嫌われている。』という曲があるのだが、その中の“僕らは命に嫌われている 軽々しく死にたいだとか 軽々しく命を見てる 僕らは命に嫌われている”という部分がその時の私には共感できる部分が多く、大好きだった。

◆私のひどい反抗期がどのようにして終わったのか記憶をたどってみると、100milesに行って反抗する気持ちが自然に薄れた気がした。仲間と一緒に過ごし、家族がいなくても全然生きていけるということがわかって自立する気持ちが生まれて、母への暴言も減ったし、けるなんてこともなくなった。生きる意味という私の中の足りなかったパーツを100miles Adventureで見つけてピタッとはめ込めた気がする。(瀧本柚妃 小6)


地平線の森
ついに刊行!

『人間の土地へ』

 小松由佳 著 集英社インターナショナル 2,000円+税(2020年9月25日刊)

■9月25日、3年半をかけて書きあげた本が発売される。『人間の土地へ』(集英社インターナショナル/2020年9月刊)ヒマラヤに登り、シリアの沙漠の暮らしに出会い、内戦勃発によって難民となったシリア人の夫とのエピソードを語る、私自身のノンフィクションだ。

◆本が生まれたきっかけは、実は地平線会議の報告の場だった。2016年11月、報告者として発表した夜、話の内容を本にしてみないかと江本さんから提案いただいたのだった。物事には、時を経なければ語れないことがある。私自身、そうした経験をしてきた。夫との出会いや結婚、彼がどのようにシリアを逃れたのかについては、ほとんど語ってこなかったし、語れなかった。だが、過去を和らげるだけの時が流れ、凹凸の激しいこの道を行くのだという自身の生き方への覚悟を持った今なら、ようやく語れるかもしれない。そう思えたタイミングで、書籍化のお話をいただいたのだった。まさに素晴らしいチャンスであった。

◆しかし校了までは長い道のりで、2017年の2月頃から書き始め、校了に至るまでなんと3年半もかかってしまった。育児ノイローゼ気味になったり、次男が生まれたり、家計が厳しくなったりで書き続けられなかったこともある。しかし手を止めた時間もまた、書けなかったという時間がこの本の中に組み込まれていったような気もするのだ。この本は、私の半生の記録、そして私と夫の物語であると同時に、この3年半の私の日々の記録だ。

◆痺れを切らすことなく、ひたすら待ってくださった担当編集者、田中伊織さんには一生頭が上がらない。田中さんは執筆期間中に退職され、退職後もこの本の担当として関わってくださった。幼い子供を抱えて本を書き続けることは容易ではなかったが、何より自分が得てきた経験や想いを形として残すことができる幸せを感じた。一字一字に、私が生きたいっときいっときの思いを込めた。

◆タイトルである『人間の土地』は、サンテグジュペリの『人間の土地』からいただいたものだ。人間が土地に生きるとはどういうことなのか。そんな普遍的な問いを軸として描いている。舞台はヒマラヤとシリア、そして日本だ。登山の経験がなくとも、シリア情勢や難民問題に興味がなくとも、ある日本人女性が経験したひとつの真実として、それぞれに何かを得ていただける本だと確信している。

◆2人の子供のワンオペ育児、日々の生活をめぐる夫とのエライコッチャの結婚生活も、こうしてノンフィクション本として、その始まりから振り返ってみると、私の中のモヤモヤもなんだか成仏していく。というより、私や夫がどこから来たのか、何を求めて生きているのかを、私は書き手として知ろうとし、「今」を受け入れたかったのかもしれない。『人間の土地へ』、この本を是非多くの方に読んでいただけたら嬉しい。作品を残すことの幸福と、時間をかけて作品を生み出す経験をさせていただいたことに、心からの感謝をこめて。

◆本のきっかけを作ってくださった江本さん、編集者の田中さん、そしていつも応援し、見守ってくださっている皆様、どうもありがとうございます。(小松由佳

プロローグ / 第一章 2006年 非情の頂、K2からの帰還 / 第二章 沙漠のオアシス パルミラ / 第三章 混沌のシリア / 第四章 難民の多様を生きる / 第五章 日本、目に見えぬ壁 / 第六章 平和を待つ人々 / 第七章 難民の土地 / 終章 夜の光

通信費をありがとうございました

■先月の通信でお知らせして以降、通信費(1年2000円)を払ってくださった方は以下の方々です。数年分まとめて払ってくださった方もいます。万一、掲載もれありましたら必ず江本宛て連絡ください。送付の際、最近の通信への感想などひとことお寄せくださると嬉しいです。

延江由美子(7月に頂いたのに記録漏れでした。失礼しました)/三好直子(5000円 地平線通信、毎号力作です)/林与志弘(2200円)/鈴木飛馬(10000円 5年分)/伊藤寿男(20000円 「地平線通信」楽しく拝読しております。ところで通信費何年分お支払いしたか定かでないので、20000円送付致します。余れば寄付、不足なら不足分をお知らせ頂ければ幸甚です)(伊藤寿男さんからは2016年に10000円、その前は2014年に5000円の入金があります。ありがとうございました)/田島裕志/田中律子(4000円)


人よりも多く、縄文杉に行かねばならない私

■かつてないほど大型で非常に強いといわれた台風10号もようやく去りました。幸いなことに屋久島では大きな被害もなく、ウチも家族、家屋ともに無事でした。気象庁の何日も前からの警告のわりには、さほどのことはありませんでした。しかし、それは肩透かしということではなく、それだけの想定、準備をして備えていたからでしょう。ウチも初めて早めに避難しました。ほとんどの地域で停電してる中、その避難所はずっと電気が生きてて、心強く助かりました。

◆屋久島もコロナ禍に例外はなく、ひどい状況です。感染者が1名出ましたが、すぐに鹿児島に搬送、幸いなことにクラスターにもなりませんでした。都会に比べれば、まだ落ち着いていると言えそうです。非常事態宣言下の5月ごろはお客様も全く来ず、我々ガイドも自粛しておりました。しかし、最近は来島者も増え、夏休みに入る連休の7月24日は、縄文杉行が500人に迫るほどでした。おそらくお客様方もちょっと一息つき、自然の中でストレスを発散したい、という思いが強いと思います。

◆むろん受け入れる屋久島側も、様々な対策をとっています。だが、決してコロナの脅威が、収束したわけではありません。観光で成り立っているこの島。経済を活性化したいのは山々ですが、東京や、また与論島の状況を鑑みると、まだまだ下手なあがきは早いのでは、という感もあります。

◆屋久島には一時、松浦輝夫さんが住まわれていました。先月号で成川隆顕さんが書かれていた、植村直己さんとともに、エベレスト日本人初登頂者の松浦さんです。直接、お会いして話をする機会は残念ながらありませんでしたが、何かの時に縄文杉コースでお見かけしました。確か三浦雄一郎さんと登る縄文杉というツアーに同行していたのだと思います。ただ、その時、松浦さんは体調が思わしくなく、ウィルソン株で、自らリタイア、下山されたと、あとから聞きました。詳細は分かりませんが、エベレストに登ったほどの方でも、コンディションが悪ければ、降りる。引くことを知っているわけです。さすがだなあ、と思いました。いや、むしろそういう方だからこそ、偉業も成し遂げられたのでしょう。

◆思い入れが強いほど、むしろそれを達成するためには、条件が整わない時には引く。生きていれば、またチャンスはあります。諦めずにチャレンジしていけば、いつかはその思いは達成できる。焦って無理をすれば、逆にその機会を潰し、最悪、命を失うことにもなりかねません。むろん、無謀なようでも、その機を逃さず、賭けに出ることによってこそ、前進し、成功へと繋がることもあります。

◆だが、その成否をわけるのは、ほんの一瞬の差でしかなく、どんなに経験を積んだ達人であっても、見誤り破れさることもあるでしょう。まして凡人の自分などは、その機もわからず、ただただ流されているだけのようにも感じています。

◆では今の自分の思い入れとはなんだろうか? 若い頃は、いろんな所に行きたい、いろんなものを見たい、いろんなことをしたい、そんな思いが強かった。それでアフリカに行き怪獣を探したり、木を植えたり、屋久島に住み着いたり、好き勝手ばかりしていました。そこに一片の悔いもありません。今もし、命が尽きたとしても後悔のない、幸運な人生であったと言えます。

◆でも、未練はあります。まだ死ぬわけにはいかない。その未練は家族です。子らの成長を見守り、見届けるまでは簡単にはくたばれない。トンがって、デカいことばかり言ってたくせに、最後はそんな平凡なことが、望みなのか。でも、その平凡な願いが、実は物凄く大変なことだ、ということを今さらながら実感しています。「なんとかなるさ」という楽観的なところは、相変わらずですが、自分の身体や、社会情勢が抜き差しならない状況になってきました。

◆自分は屋久島のネイチャーガイドです。仕事は楽しく、天職に巡り合えたと感謝しています。ただ、逆に言うと、他にロクなことはできません。潰しがきかないのです。若ければまだ、いろんな道もあるかもしれません。でも長年の無理が一気に出て、股関節や足などが、悲鳴を上げ始めました。そしてこのコロナ禍です。観光業自体が成り立たなくなってきました。

◆家族を養うためには、まだまだ頑張って働かなければなりません。人よりも多く、縄文杉に行かねばならない。今、この状態でも来ていただけるお客様を少しでも、ご案内してお金を得る。そうしなければ、生活はできません。しかし、もし、万が一、新型コロナに感染でもしたら、それが最悪の事態になったら、元も子もなくなってしまいます。

◆今はまさに引く、少なくとも情勢を見極める時期なのかもしれません。でも正直なところ、その判断ができかねています。状況も、情報も目まぐるしく変わり、何が正解であるのか、誰にもわからない。だからこそ、今は日々を全うしていくことしか、ないのかもしれません。幸か不幸か、やっぱりお気楽人間なので、「なるようにしか、ならない。考え過ぎてもしょうがない」と思ってしまいます。思考を停止してはいけませんが、暗く下向きな考えからは、明るい結論、結果は出ないと過信してます。困ったモンだ。(野々山富雄 屋久島住民)

島の児童生徒にも1人1台タブレットが

■9月6日から7日にかけて九州、沖縄地方を襲った台風10号。屋久島の人々も、これまでにない警戒態勢で台風対策をしていました。奄美大島と屋久島の間に連なるトカラ列島の島々(十島村)では、島民およそ200名が自衛隊のヘリで鹿児島本土に島外避難をしたほどです。

◆停電の中、窓に打ちつける雨風の音を聞きながら眠り、一夜明けてみると、外は折れた木の枝や葉でいっぱいでした。窓ガラスにも、風でちぎれた葉っぱがベタベタとくっついています。台風の威力は予測より弱まってはいたものの、島内では神社の大木や学校の時計台が倒れて窓ガラスが割れたり、瓦が飛んだりといった被害が出ました。

◆6月半ばに小学校から教育委員会に職場が変わった私は、屋根が一部飛んでしまった町立体育館(避難所)の片付けに行きました。床に溜まった雨水をモップと水切りで外に押し流すには、落ちてぐにゃぐにゃに曲がった屋根材や、散乱した断熱材をどけないといけません。役場での仕事はこの他にも意外と現場作業が多く、人々の暮らしを支えるということについて考えさせられました。体育館は屋根のビニールシートかけまで職員がしていて驚きました。

◆そんな矢先、10月から小学校での仕事に復帰することになりました。コロナの影響で遅れた学習の支援をするために加配教員を置く、という国の施策です。配属先は4年前まで3年間勤めていた学校なので、知っている子どもたちもいます。

◆野々山富雄さんが書いていると思いますが、屋久島では8月にコロナ感染者が1名出ました。夏は国内外からの観光客も来ていたので心配もありましたが、これ以降、状況は落ち着いています。今後に向けたコロナ対策でもあるのでしょう、島でも教育現場のICT化が進められています。文科省が2019年末に打ち出した「GIGAスクール構想」では、令和5年度までに全国の小中学校の児童生徒に1人1台タブレット整備をする計画となっていましたが、こちらでは今年度中の整備が決まりました。島外の学校とのオンライン授業も試験的に行われています。こんど行く小学校も4年前にいた時とはがらっと環境が変わっているはず。自分なりに準備をしているところです。

◆なんだか今年は、自分の意思でというより、まわりの状況に流されて仕事を転々としています。それでもやっぱり、自分を必要としてくれる場所で働く喜びというものはあるなあと思ったりもします。10月からまた、新しい環境で頑張ります。(屋久島 新垣亜美)

100年後に珊瑚を残せるか

■こんにちは。コロナニュースが毎日当たり前の中、喜界島では9月頭は台風の話題で持ちきりでした。むしろコロナそっちのけです。外から持ち込まれなければコロナについては安全地帯なので、島内は警戒心が薄くなってきたようにも感じます。

台風9号の通過に続き、10号。今度はほぼストライクゾーンで通過する。しかも、風速80メートルなんて、島も経験したことのない台風の勢力に各々できる限りのことをして避難あるいは引き籠りました。窓にサトウキビが突き刺さってもおかしくない。牛が飛ばされるかも。なんて想像していました。結局、喜界島を通過する時は少し勢力もおさまり、島の右側を通ってくれたためか大きな被害は出ませんでした。

◆最大風速は42m/s。台風慣れしたこの島でも人口約6900人のうち1000人近くの人が避難をしていたそうです。コロナ対策も少しはしたと思いますが、収容するほうが優先されたと思います。さすがに農作物は風や潮風の塩害でやられてしまい、収穫前の白ごまが枯れている姿は残念で仕方ないですが、想定よりは被害は少なかったようです。

◆最近の海水温の上昇で全国至るところでおかしな現象が起きている。大型台風もそうですし、島周辺の珊瑚は色が薄くなったり白化している様子。気候変動は待ったなしなことを目の当たりにしています。一方で環境を侵しながら今の生活の流れがあるのも事実で、全て一気に止めることは難しい。環境問題のジレンマです。

◆最近、島内の喜界島サンゴ礁科学研究所主催のエコツアーガイド育成講習を受けています。100年後に珊瑚を残すことを皆で考えながら学んでいます。今のままでは100年珊瑚が島で育つのは難しいかもしれません。コロナ生活でも皆さん身にしみておられるかと思いますが、身の回りで起きている異変に対して今後の自分達の生活様式を考えて行きたいと思います。(うめ 日置梓 喜界島住民)

猛烈台風、吉川謙二さんのこと

■こんにちは。台風9号はようやく沖縄から離れつつありますが、いやー、風、強かった! 先週古くなったヤギ小屋のトタンを張り替え、昨日はヤギ達に腹一杯食べさせてやーぐまい(家ごもり)させ、念入りに台風対策しましたが、テレビの気象予報士は今回は古い家屋が倒壊するほどの台風だから頑丈な建物に避難しろと繰り返し言うので内心かなりビビりました。うち、かなりおんぼろですからねー。今のところ被害はない様ですが、まだまだ台風シーズンは始まったばかり。気が抜けません、やれやれ。

◆ところで昨日8月31日から三日間は旧盆にあたります。沖縄の人にとって旧盆は大変重要なイベントで、初日は仏壇にご馳走を供えてご先祖様を迎え、お盆の間はお中元を持って親戚回りをし、最終日は親戚一同年寄りから子供達が集まり、エイサー踊りが各家の仏壇を回ってご先祖を送ります。島の人は、旧盆に台風が来るのは珍しい、台風でエイサーができなかった年は今までない、と言います。今年はコロナの影響で、かなり前からエイサーはないと決まっていましたが、まさかこんな年になるとは。明日は盆の最終日。エイサーがないし、親戚達もなるべく自粛して集まらないのでさびしいお盆です。

◆さて、地平線通信で素晴らしい連載を続けている吉川謙二さんのことです。吉川さんとは、もう30年くらい前の1992年、吉川謙二さんが隊長をつとめる「アンタークティックウォーク隊」の事務局の留守番バイトをしないかと地平線報告会場で白根全さんから紹介されて、軽い気持ちで神楽坂にある事務所を訪れたのがご縁のはじまりでした。その時私は相模原の実家に住んでいたので神楽坂まで通うのは遠く、バイト代もそんなに出せないとのことでやっぱり無理だなと断ろうとしたのです。

◆でも吉川さんが「そこをなんとか、助けると思って」とあのゴジラ顔で懇願するのでやることにしたんですが、考えてみたらそれがその後の私の人生を決める大きなできごとでした。アンタークティックウォーク隊とは、南極大陸のパトリオットヒルから南極点まで1100キロを学術調査しながら徒歩無補給で踏破するという探検隊で、吉川さんはじめ徒歩隊の隊員3名はそれぞれ食料や物資をソリを引いて約2か月の間歩いたのです。

◆軽量化のための吉川さんの発想はおもしろいものでした。鮭とばをそりの一部に使ったり、高カロリーの吉川ビスケットというのを開発したり。また当時はスマホどころか携帯電話やインターネットはまだまだ普及してなくて、神楽坂の事務局と南極との連絡は高い国際電話かテレックス! そろそろ到達するかも、というあやふやな情報しかない中、1993年1月16日、南極点に到達! 現地からの国際電話待ちのため、私は前日から冬の寒い中事務局に泊まり込みで到達連絡を待ったのでした。

◆到達した時3人はかなりの飢餓状態だったらしく、歓待されたアメリカの基地で爆食いし肝臓を壊した、と後日聞いたのを覚えています。数年前、突然吉川さんが浜比嘉島に暮らす私を訪ねてくれました。大学(アラスカ)で吉川さんについての本を作るために彼を知る人を訪ねてインタビューして回っていると。記者さんとアラスカから来たんだって言うから驚きました。時間がないといいながら、たまたまいとこが浜辺でバーベキューをしていたのでご一緒しました。忙しい彼は最初「話が済んだらすぐに行かないと」なんて言っていたけど「あと一か所行く予定だったところをやめれば時間ができる」と。今度はもうちょっとゆっくりビールでも飲みたいですねー!

◆そうそう前述した、このバイトが私の人生を決める大きなできごととなったという話。神楽坂の事務所ですが、実はアドベンチャーロードという小さな旅行会社の片隅をお借りしていたのですけど、隊の解散後、私はその旅行会社からうちで働かないかと誘われて就職。海外トレッキングを扱うその会社で約15年間ネパール担当として働きました。ルート作りや日程づくり、ツアー説明会や営業、集客、添乗まで主にヒマラヤトレッキングを仕事にしながら、リピーターのお客さんたちと毎年カヤックツーリング旅に沖縄にも来ていました。

◆あの時バイトを断っていたら、私は今どこでなにしてるかな。これからのますますのご活躍を期待しています。あ、火星に行くという夢はまだ追っかけてますか?(外間晴美 浜比嘉島)

井戸のある浜比嘉島の家で染織の仕事スタート!

■先日は地平線通信と素敵な写真集、ありがとうございました。通信はまだ全て読み終わっておりませんが、楽しみながら見させていただいており、地平線会議の皆様の行動力にただただ圧倒されています。学生の頃はバックパックの旅に憧れたりしましたが、怖がりな上、出不精なので、結局叶いませんでした。通信を読んで自分が行った気分になって楽しんでいます。

◆8月の通信で拝見したマングローブとコロナのお話はとても興味深かったです。マングローブに優れたCO2蓄積能力があるなんて知りませんでした。マングローブ大学が早く実現するといいですね。沖縄にもマングローブはあって、伝統的な染織に使われています。貴重な植物なので私は使ったことはありませんが、濃厚な赤褐色に染まるそうです。

◆私が浜比嘉島に移住したのは、染織の仕事をするのに適した家を探していたとき偶々知り合いに紹介していただいたことがきっかけでした。織り機を置くスペースがあり、気兼ねなく音を立てられる一軒家、かつ安い家賃(これが重要です!)の家は、不動産屋経由では見つからず、ツテを辿ってなんとか見つけた家でした。

◆ヤギ牧場を営む外間夫妻と出会ったのは島の行事に参加した時です。まだ島に知り合いの少ない私に本当に良くして下さって、どれだけ助かったかわかりません。島で最初に借りた家は後に出ることになりましたが、その際は別の家を探すため奔走して下さり、お陰さまで今も浜比嘉島に住んでいます。前述の通り出不精でビビりですので、山でヤギの群れを放牧し、アヒルをつぶし、夜は焚き火で湯を沸かす、ワイルドな外間夫妻との出会いはかなり衝撃的でした。

◆お二人の薫陶を受けて、私も少しずつ外に出るようになりました。一時期牧場の手伝いをさせていただいたことがあり、ヤギの糞にも触れるようになりました。人間慣れるものですね。

◆1人で自然の中に入ることに抵抗がなくなってきたので、島の野山で染料植物を探したりもします。学生の頃は化学染料を0.0何g単位で細かく量り染色していました。そのやり方でしか表現できないものがあるのは確かですが、私にはしっくりこないので、今は専ら植物染料を使っています。上手く説明できないのですが、植物を採取し、色を取り出して染めるという行為にゾクゾクするといいますか、生きている実感が湧いてくる感じがして、その感覚が好きだから辞めずに続けているのだと思います。

◆今年の春、念願の染織工房をオープンしました。江本さんがご覧になったお家です。この家の素晴らしいのはなんと言っても井戸があるところ! 石灰分の多い沖縄の井戸水と島の植物は相性が良く、良い色が染まります。オープンしたといってもこれだけで食べていく力がなく、あてにしていた観光客もコロナで減少し、わずか数か月で休業しました。

◆今は近くの通信制高校で事務員のアルバイトをしながら、細々と制作しています。一日中パソコンに向かって、見えない生徒保護者に電話で対応する現代的な仕事と、前時代的な染織の仕事のギャップが面白くて、これはこれで結構気に入っています。(渡辺智子 31才)

犬たち30匹、アラスカへ大移動!

 お久しぶりです。連絡があまりできず申し訳ありません!

 ユーコンで仕事をたくさんもらって、餌代は取り敢えず返せたし精神的にも復活しています。

 ユーコンに10年もいたんだなぁと思わせる人脈が助けてくれました。食事はご馳走になるか我慢するかの二択だったけれど、あの食べられない日から一転してベルトの穴が一個ずれるほどたくさんの人から助けられて生きています。

 こちらのボスからは冬の仕事まで提案されてあっちに行かずにここに居るよう引き止められているし、ユーコンで一番世話になったベスちゃんの健康状態の不安も現在あって、まだ悩んでいますが、一応犬のためにもアラスカに戻る予定です。近所の家族も帰ってこい、とたくさん連絡を入れてくれてます。

 正直言うと、ユーコンでの大工やらペンキ屋やらの仕事の方が時給も良いし間違いないのです。積み上げた実績があるからどんどん仕事が舞い込むし、楽しいです。

 アラスカでは、安い仕事しかないし、何かあったら一番に職を失う弱い立場で、しかもアメリカドルが高くて高くて、何やってんだって感じですが。

 レースもコロナでどうなるか実際わかりませんが、やっぱり私の犬ぞり関連の友達はこっちにあまりいなくてアラスカの人ばかりだし、訓練のトレイルもあっちの方が安全だし、でもレースがあるかさえわからないから今年はここで蓄えたら?とかまだ少しだけ迷っています。(本多有香 8月27日)

追伸:アラスカに無事に着いています。途中、3回もトレーラーのタイヤがパンクするというあり得ない事故があり、2日以上かかる旅でした。犬30匹連れてこのアクシデントは大変で、疲れました。とりあえず。(9月10日)

「東日本大震災・原子力災害伝承館」、9月20日に開館

■東日本大震災から9年6か月が経ちました。東京電力福島第一原発周辺の地域も徐々に復興が進んできていますが、溜まり続けている原発からの汚染水の処理、廃炉の対応、そして未だに立入りが制限されている帰還困難区域等、まだまだ課題は残されています。

◆福島第一原発が立地している双葉町内に震災と原発事故の記憶や教訓を後世に継承する県の施設「東日本大震災・原子力災害伝承館」が9月20日に開館します。震災前の平穏な日常が震災によりどう変わってしまったのか、さまざまな県民の証言や思い出の品等が展示され、また原発事故直後の様子や復興の歩みなどを記録した映像、語り部による講話などを通じて記憶の風化を防ぐことを目的にしています。津波により被災した地域にも同様の施設がオープンしていますが、原発事故に関する資料の展示があるのはここだけだと思いますので、是非皆さんに見ていただければと思います。

◆その双葉町は今年3月に一部地域が解除されたものの町の95%は帰還困難区域です。今年の3月にJR常磐線が全線開通して駅舎が新しく建て替えられましたが、水道、ガス等のインフラが整備されていないため、駅周辺には居住できません。また未だに崩れた建物、傾いた電柱などが震災当時のまま残されています。

◆ここには私が3年間通った双葉高校があります。校庭は雑草で荒れ果て、乗り捨てられた車も当時のまま残されています。高校時代は卓球部に在籍していたのですが、練習していた体育館もそのまま。中を覗くと卓球台、練習ネット、ラケット、ボール等が散乱していました。恐らく地震発生後、生徒達はすぐに避難したのでしょう。

◆ようたく立ち入ることができるようになり、荒れ果てた母校を目の当たりにすると、悲しさと悔しさと何ともいえない気持ちになります。震災から9年半が経過しますが、復興には程遠い場所がまだ残されているのです。(渡辺哲


凍った大地を追って

その11 大ダイオミード、小ダイオミード

■この7月、ロシア地理学会から海軍の協力でロシア北極の島々で調査する研究募集があった。ロシア人研究者向けだが、ムルマンスクで2週間の隔離後、軍艦でウランゲル、ノボシビルスク諸島、セーベルナヤゼムリヤやフランツヨセフへ行けるのはロシアでも滅多にないチャンスだ。.ロシア人の教え子に参加をすすめた。

◆数年前私がシベリアの北極海沿岸の村周りをしていたのはちょうどクリミア侵攻が始まった時、アメリカ内務省に籍を置いていた私を含めた26人はモスクワの大使館から毎日安否確認の電話をうけることになっていた。しかし、ロシアには3つの大きな電話会社があり、都市部では3つともサービスがあるが、村ではそのうちの1つまたはサービスがない。よって私は新しい村に行くごとにSIMカードを取り替える(電話番号が変わる)ことになる。

◆状況が読めていない(引き継ぎが悪い)大使館職員は、“なぜ電話番号を変えるんだ”と苛立っていた。ノボシビルスク諸島と言えば、20世紀初めに“北極のビスマルク”と言われたチェコ人がいた。チェコではエスキモーヤンと呼ばれた、ヤンウェルツエルのことだ。戦前の1930年、エスペランティストの中垣虎二郎が“北極”と言うタイトルで痛快な物語を出している。北極研究者の中でヤンファンは多いが、その反面あまりに面白すぎるため、フィクションだと思われ、極地史を研究している人たちには軽侮している人もいる。

◆当時は小氷期と呼ばれる江戸時代の飢饉が多発した世界的にちょっと寒かった最後の時期で、当時の北極を考える上で大切な資料だ。例えば毎年クリスマスになるとアラスカからシベリアまで普通に犬ぞり郵便隊がベーリング海峡を渡っていたことがわかる。当時北極の見聞は探検家の記述によることが多いが、そこに住んでいる者の見地が反映されているこの本は素晴らしいと思う。

◆ロシア以外の北極の島々でその地理がよく知られていないところにカナダのスベルドロップ諸島がある。今では極北カナダで人が住んでいるのはアラート、ユーレカの気象台、マクギル大学の観測所(夏のみ)、1950年代強制的に作られたレゾリュート、グリスフィヨルドだけだが、僻地といえばアラートはまだ序の口。北西のこれらの島々は僻地中の僻地だろう。

◆かつて気象台があったアイザクセンとかモールドベイと聞いて場所がわかる人はまずいない。レゾリュートのようにイヌイットを強制的に住まわせようとしたが僻地すぎて中止になった。永久凍土の温度を測るため、それらの島々に穴掘りに行ったことがあるが、たどり着く可能性は50%だ。バンクス島北部、プリンスパトリック島燃料デポまではなんとかなるが、仮に天気が良くてもアイザクセンの滑走路は泥が深く、リスキーだ。

◆帰路跳ねた泥のせいで尾翼が動かなくなり、離陸体勢のままの飛行を迫られた。結局エンジンを一つ止めて燃料セーブした。滑走路先の残骸もかつて離陸時泥にハマった飛行機だ。以前着陸直後カリブーが滑走路に飛び出した時は思わず声を出してしまった。パイロットもかなり焦っただろうが一緒に声を発しなかった理由に同乗者がパニックにならないためだと聞いて感心した。

◆政治的な理由で北方民が僻地の島に移住させられたケースはカナダだけではない。例えば1925年グリーンランドのスコルスビスーン、1926年ソ連のウランゲル島、大ダイオミード島。大ダイオミード島の住民はその後1948年に今度は冷戦でチュクチ半島に強制移住させられて、今では国境警備と気象観測員だけだ。一方米領小ダイオミード島には民間人が住んでいて学校もある。

◆私は普通春先に小ダイオミード島の学校を訪問する。4kmちょっと離れたロシア領大ダイオミードとの間の海氷が安定しやすく領海すれすれに滑走路を作りそこに小型飛行機で着陸するのだ。海氷がなくなるとヘリだけになる。狭い日付変更線の両側の島は泳いでも2時間ぐらいで冷戦時野心的な冒険パフォーマーたちがたびたび訪れた。

◆大小ダイオミード島と政治的に対照的なのがスバールバード諸島だ。ノルウェーの北にあるこの島は、ノルウェー領ではあるが条約加盟国は経済活動や渡航が自由だ。中心地ロングイヤーベンは90年代から解放され大学もでき、今は学生が多い。大型クルーズ船も来るようになった。80年代初めてここへきたのは、教育社のお金だった。日本の一出版社が、大学にお金を出して北極に探検隊(調査隊)を送るとは日本もいい時代だった。当時教育社はトレーニングペーパーなど学習関係の会社だったが雑誌『ニュートン』の発行や加納一郎全集など極地に積極的だった。

◆5、6年前ここで2年間教えていた時、ロシアの学生にヨーロッパ(シェンゲン)の“マルチビザ”を発行するのに苦労した。一旦オスロに入りまた出国するので往復で2回ヨーロッパに入国する必要があった。若いロシア人がそのまま逃亡して働くのを恐れているのだ。特に美人ほど難しかった気がする。パスポートの写真は写りが悪い方がいい。

◆ロングイヤーベンには寿司屋がある。授業の後よく一杯やりに顔を出すのだが、そこで働く日本人は就労ビザも永住権もいらないので日本国内と同じ感覚だ。


漕ぎ続けてきた人生

■通信費振込用紙に添えた一言のメモで、江本さんから“これまでのカヌー人生そして今は”といった内容で書いてみないかとお誘いをいただいた。昭和57年5月、鎌倉から京都まで漕いだ旅の最終日のことが、朝日新聞の小さな記事になったのが縁で、地平線報告会に通うことになった。その後サラリーマンのサンデーゴルフの代りに漕ぎ続けてきた。日本五大島周航(9600キロ)完結までに23年の歳月(正味はその中の301日)を要した。

◆平成13年にリタイアした。これでいよいよ海外に行けると最初に選んだのはアメリカとカナダの国境線をたどるセントローレンス川だ。五大湖畔のキングストンから大西洋岸のガスぺまでの1200キロ、ふた夏35日の日々が懐かしい。そして欧州縦断(アムステルダム〜パリ〜リヨン〜マルセイユ)、英国運河、ライン川、トルコ・ボスポラス海峡、ミシシッピー、ラオス・メコン川と漕いできた。

◆以上がこれまでの“わがカヌー人生”の概要だが、江本さんからこうした旅にはSNSは使っているのかと質問された。面目ないが答えはノンだ。携行するのは地図とコンパスだけ。こだわるようだが大航海時代の気分を味わいたいと思っている。困った時には停泊しているボートや岸に寄せて、身振り手振りで尋ねまくってなんとか切り抜けてきた。ここで物を言ったのが掲げている日の丸の小旗だった。上陸後は見知らぬ町をぶらりぶらりと地球の歩き方で通してきた。

◆カヌーと並んでこれまでのわが人生を支えてくれたもう片方の輪が印刷だ。京都を目指して漕いでいた当時の職場は大日本印刷の市谷工場だった。航海日誌をもとにして紀行記でもまとめてみようかと思い付いた。組版現場のベテラン職人さんが、仕事の合間に刷ってくれたゲラ(校正刷)を見た営業担当者が、自分の得意先に持って行ってくれた。そうして『東海道中カヌー膝栗毛』(山と溪谷社刊)が誕生したのである。鉛の使用が禁止になって印刷方式は活版(凸版)からオフセット(平版)に切り替わってしまった。それでこの本は、この後に続いたカヌー膝栗毛シリーズの中で唯一の手触りも心地よい活字本になった。

◆海外の旅では、カナダのアッパー・カナダ・ビレッジ、フランスのリヨン、ドイツのマインツ(グーテンベルグ博物館)、ミュンヘン等々、各地の印刷博物館を訪ねてきた。どこも活字を拾い、旧式の挺式プレス機を使っての実演ショーが目玉になっていた。見覚えのある機械や刷り物も数多くあった。自分の現役時代には最新鋭設備として活躍していた印刷機や製本機も今や役目を終えた展示品になっていた。

◆威風堂々、オールドソルジャーのパレードに居合わせた思いの一時を過すことができた。そしてまた、たまたま通りがかった田舎町の路傍や個人宅の玄関先に古い印刷機がエクステリアとして飾られているのも見てきた。かつてそれを使っていた人が置いたのだろうか。はるばると時空を超えた出会いだった。そしてカヌーと印刷とが繋がった。活字の発明以来今日までは、紙のメディアがごくごく当たり前のものだったのだが……。カヌーの旅先で時代の節目を見届けるとは思わなかった。

◆少々へそ曲がりと言われるだろうが、自分は今もって手書き派だ。この原稿も四百字詰原稿用紙に書いている。これだって今では文房具店で探すのも難しくなってしまった。編集スタッフの皆さんには大変な手間をおかけして申し訳ないが、どうかご容赦いただきたい。

◆話を本題のカヌー人生に戻すが、今は自宅前の江の島の海でぷかりぷかりと少しだけ漕いでいる。水平線の向こうに次々と曽遊の地の水景色が浮かんでくる。再び出掛けて行かれるのはいつになるのだろうか。その時の年齢を考えれば、これまでのように自艇を担いで行っての長旅は難しかろう。レンタル艇にしておいしい所のつまみ漕ぎでもいい。退職の際の挨拶状で宣言した“夢と元気の配達人”の役割を持ち続けていたい。(吉岡嶺二 永久カヌーイスト)


先月号の発送請負人

【先月号の発送請負人】

■地平線通信496号は8月19日印刷、封入作業をし、20日新宿局に渡しました。今回も原稿が多く、なんと24ページに。書いてくれた皆さんに感謝です。榎町地域センターに狭い「印刷室」があり、その設備を借りて車谷建太君が中心となり、他の助っ人も加勢して折りまで進める。そして刷り上がった紙の山を冊子に仕分ける作業。密を避けて、皆さんに呼びかけることはしませんが、常連が参じてくれ、挟み込み、封入、宛名貼り、と一気に作業が進行しました。参加してくれたのは、以下の皆さんです。ありがとうございました。
森井祐介 車谷建太 白根全 久保田賢次 光菅修 高世泉 伊藤里香 武田力 落合大祐 江本嘉伸


イラスト KOFUKI
絵師のひとこと

土に生きるニワトリたちに尊敬の念が

■こんにちは。昨年7月に報告を行った服部小雪です。コロナ禍の中、みなさんがどのように暮らしているか、地平線通信を通して知ることができ、ありがたいと思っています。長い間、横浜にある自宅の庭先でニワトリを飼ってきましたが、5月末に、最後に残っていたオンドリが寿命で倒れ、ついに群れが全滅してしまいました。ニワトリ小屋は、主を失ってまたたく間に廃墟の雰囲気となっています。

◆ニワトリは暑さに弱く、夏の間はクチバシを半開きにして日陰で座っているばかりですが、9月になると急に活発に歩き回るようになります。指の長い大きな足で、力強く土を掻き出し、お尻を空に向けてフリフリしながら、さかんに何かをつつきます。草の茂みに秋の虫がたくさん潜んでいて、それが栄養豊富な餌となるのです。そんなわけで秋のニワトリは、殻の硬い良い卵を生みます。土に生きる彼女たちを見ると、いつも尊敬の念が湧いてきます。今度は、できればチャボを飼いたいと考えているのですが、なかなか有精卵が入手できず困っている状況です。(服部小雪 イラストレーター)


アルゼンチンからのメール

■8月9日 FBに海外からの友達申請が届く。若い女性からで、なんだか怪しい。ただの申請なら無視しようと思ったが、メッセンジャーに英語の長文が入っている。念のために確認してみることにした。

「こんにちはシンゴ! 私はカネラ・フェルナンデスです。ロベルト・フェルナンデスの娘です。私たちはお互いを知らないので、このメッセージは奇妙に感じるかもしれません。リオガレゴス、アルゼンチンのサンタクルスにいるため、私たちはまだ隔離されています。今日、私の父は書類を調べて整理していました。そして1991年にあなたがバイクを彼に売ったときの書類を見つけました。私たちがあなたに連絡したら、それはあなたの旅行に良い思い出をもたらすと思いました。残っているナンバープレートの写真を添付します。今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。私が生まれる3年前に、私の父があなたのバイクを売ったとき、彼は自分と私の母の家のために最初の真新しい家具を買うことができたと言われました」

◆これは本物だ。添付されているナンバープレートの写真も当時使用していたものに間違いない。確かに僕はアラスカから走ってきたバイクを、アルゼンチンのマゼラン海峡手前の町、リオガジェーゴスで売却した。でも誰かに売ったわけでなく、バイク屋さんに売った。それをロベルトさんという方が買ったのか。

◆南米のスライドの中から、バイクを売った時の写真を探してみる。そこには3人のアルゼンチン人が映っている。その写真をカネラさんに送ってみる。カネラさんの返事で、左端の赤い服を着ている人がロベルトさんだとわかる。写真を撮った時に、ロベルトさんはいたのだ。

◆1991年、僕は冬のパタゴニアをバイクで走っていた。北半球と南半球の違いはあるとはいえ、アラスカと同じ緯度のエリアを冬に走ろうなんて、まったく考えてなかった。バイクの度重なる故障で、どんどん時間が過ぎ、そしてとうとう冬になってしまったのだ。冬のパタゴニアは名物の強風は吹いていなかった。気温も予想していたよりは随分暖かい。しかし、もう残金は400ドル。おまけにチェーンは伸びきり、スプロケットの歯はすり減ってツルツル。道は凍っていた。

◆バイクのパーツがあるとしたらブエノスアイレスか、チリのサンチャゴだが、どちらもここからだと3000キロは離れている。もしそこまでバスで往復すれば、パーツがあっても買うお金が足りないだろう。こうなったら仕方ない。リオガジェーゴスから300キロ離れたチリのプンタアレナスに免税特区がある。そこでパーツを見つけられれば、仕事を見つけて越冬しよう。無茶な可能性にかけてプンタアレナスに向かい。そして挫折した。

◆その失意の中、リオガジェーゴスでバイクを売ったので、もう気持ちは終わっていて、バイク屋さんにいた人たちへの興味も失っていた。ロベルトさんたちが映った写真は人を撮ったのではなく、バイクの最後の姿を撮った写真だ。僕からすれば、ちょっと辛い写真だが、若かりし頃のおとうさんが映っている写真にカネラさんは大喜び。カネラさんに、そもそも一体どうやって僕を見つけたのか?と、聞くと、書類にあった名前をFBで検索して見つけたとのこと。

◆仲のいい親子らしく、二人で一緒に撮った写真も送ってくれた。二人は「コロナが収束したら、いつでも来て、歓迎します」と、書いてくれている。コロナも迷惑なだけでなく、粋なこともするもんだ。(坪井伸吾


さようなら 神尾さん

 先日は暑い中、お忙しい中、お参りにいらして下さり、ありがとうございました。
 沢山の励ましのお言葉をいただきまして、パワーを頂き、夫に見守られながら頑張っております。お願いされた神尾の足跡、子供たちと相談して、履歴書を作ってみました。取り急ぎお送りさせて頂きます。参考になれば幸甚に存じます。
 コロナ、猛暑、台風と、次々に日本を襲ってきますが、ご自愛のほどお祈り申し上げます。
   2020年初秋 神尾眞智子

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神尾重則(かみおしげのり)
1953年4月11日 東京生

1966年3月 北海道釧路市立鳥取小学校 卒業
1969年3月 北海道釧路市立鳥取中学校 卒業
1972年3月 函館ラ・サール高等学校 卒業
 スピードスケートの選手として北海道の大地をユキヒョウの如く駆け滑り、オリンピックを目指した

1974年6月 宮崎医科大学医学部に一期生として入学
1980年4月 宮崎医科大学医学部 卒業
 広大無辺の医学を志す青年は、同様に深山幽谷の山々に魅せられ没頭。「医学」と「山岳」が生涯のテーマとなる

1982年 妻・眞智子と結婚
 英則、真以、侑希を授かり、気宇壮大な大黒柱となって「心・目的を明確にしろ」「技・知識の取得に勤しめ」「体・準備を怠るな」を教えに家族を強い絆で結んだ
1980年 ネパール ツクチェピーク南西陵から初登
1983年 エベレスト街道ペリチェにて高山病の研究と診療活動
1992年 パキスタン・ガッシャブルム主峰遠征
 異国の地に聳え立つ険しい山々を登攀していった
 2000年代からはNGO活動の一環として、秘境の地・ドルポに自身のテーマを投影し、「ティンギュー村診療所開設のための医療支援」、「B型肝炎ワクチンの普及・B型肝炎の蔓延状況調査」など国際的な医療活動にも従事した

1982年4月 東京医科大学大学院入学
 「モノクローナル抗体による骨髄中の肺小細胞癌細胞の検出と除去のための基礎的研究」をテーマに研究に邁進
1986年3月 博士課程修了 医学博士取得

呼吸器外科を専門とし、国立がんセンター研究所、都立豊島病院外科にて研鑽を積んだ
1994年 医療法人崎陽会 落合クリニック院長就任
2015年 医療法人崎陽会 日の出ヶ丘病院院長就任
 総合医として地域医療に従事し、肺癌・胃癌・大腸癌・乳癌の早期発見にも尽力した
 日の出町医師会長、西多摩医師会理事など歴任
 学校医・産業医としても地域に貢献
 温泉療法医、日本体育協会公認スポーツドクター、日本オリンピック委員会強化スタッフ、日本山岳協会医科学常任委員、東京都山岳連盟顧問ドクターを歴任した

 愛する山々に囲まれた豊かな自然が織りなす西多摩の地で、日々粉骨砕身診療に取り組み、篤実な診療が患者の厚い信頼を得た

 科学者でありながら、詩人の心も備えており、医学・山岳を軸に「生老病死」「雪・温泉・酒」をモチーフとして、雑誌や新聞に多くの連載を持ち、数々の作品を遺した。2004年には『Dr. 重さん 山のカルテ 西多摩からヒマラヤまで』を出版。闘病記である『Dr. 重さん 登攀記 異形の山 ヒマラヤ』(未発表)が絶筆となった

令和2年8月12日 永眠 67歳

   妻 神尾眞智子、長男 神尾英則、長女 宮部真以、次女 北田侑希 記す

神尾さんと鳥海山へ

■地平線会議には多彩な方々が集まっているが、最大の弱点はサイエンスに強い人材がごく少数だということだ。神尾重則さんは現役の病院長さんで西ネパールのドルポまで出かけて医療支援もされている。過去にはヒマラヤ登山隊のドクターも務めたという行動的なお医者さんである。著著を読むと医療だけでなくサイエンス全般にかかわっていることがわかる。

◆7月の地平線通信に「ダンス・ウィズ・ウィルス」という文章を書いてくださった。私はその文章の中で「楕円の哲学」という部分にひかれた。「医療と経済をそれぞれの焦点とし、楕円上のP点をいかに動かすか」それが社会の安定につながるというのである。新型コロナにどう向き合うかという指針を地平線会議の仲間に示してくれた。

◆3年前の4月、神尾先生と鳥海山へテレマークスキーをしに行った。私は激しい運動を禁止されているが、心臓病で担ぎ込まれた豊島病院の元心臓医だったDr. 関野も「この人なら自分の体を任せてもいい」と紹介しているので、我が家の奥さんから「神尾先生と一緒ならOK」が出た。神尾先生がシールを利かせながら祓川からの急斜面を登る様子からは体が弱っている兆候はなく、楽しく登り滑った。

◆今年は行けなかったが来年は必ず行こうと思っていた。「なのに……」である。今『Dr. 重さん 山のカルテ』(西多摩新聞社/2004年)を読み直し、最大のサイエンチストを失った寂しさを感じている。(三輪主彦

エミに平穏な生活が戻ってきますように

■こんな世の中になるなんて……。大好きな旅行も山登りも制限されてしまいました。私は、会社で人事部門におり、社員へは感染しないよう注意喚起している立場として、自分が社内で感染者第一号になっては……と、日々、注意しつつ生活しています。

◆年明けのクルーズ船内での出来事が、日本国内にもじわじわと感染が広まってきた2月中旬、オーストラリアに行ってきました。30年来の大親友エミ(シール・エミコ)とご主人のスティーブに会いに。数日間、一緒に楽しく過ごしてきました。そのころ、まだオーストラリアでは、マスクをしている人はほとんどいなく、街では「一部のアジア系の人がマスクをしている」といった状況でした。

◆渡豪は、本当にぎりぎりセーフでした。帰国後は、すぐに社内での感染対策や社員が感染した場合の対応を作成し、3月には小学校や幼稚園が休校・休園。預け先のないお子さんのいる社員は出社できなくなるため、急きょ、在宅勤務のルール策定や在宅用のパソコン準備などを行い、さらに、各座席にパーテーションを設置するなど一気に業務が増えて、休み中に貯まっている仕事もあったので、旅行でリフレッシュしてきた気分は一気に吹っ飛びました。

◆その後、オーストラリアは渡航制限が出てカンタス航空が飛ばなくなり、各地でも感染が拡大しエミたちの住む街はロックダウンになりました。2月に行けて、そして、帰国できて本当に良かったです。帰国後もエミとはメールでお互いの近況を伝えあっていました。

◆そんな中、7月下旬、「腸が破けた。でも、コロナですぐに病院、診てもらえない……。良いニュースでなくゴメン」と、エミからのメール。私は「大丈夫?っていうか、大丈夫じゃないよね?」と返信。8月に入りようやく病院から来て良いとの連絡があり、病院へ行ったと同時に緊急入院。そんな状況にもかかわらずエミからは「緊急入院でバッタバタ。特別個室だ〜、と思ったら集中治療室」と明るいようなメールだけれども、その内容で事の重大さがわかりました。

◆過去の様々な治療や内臓全摘出という大手術が原因で複雑で難しい手術となり、執刀できる先生やチームで連携する先生たちの調整が必要、かつ先生たちにとっても手術はチャレンジになると。ただし、なかなか先生の調整がつかず、一旦退院。「え〜何もせずに退院!?」と驚きました。9月に入り、ようやく病院から調整ができたとの連絡があり、9月10日(この原稿の締め切り日)、エミの手術です。

◆エミから「腸が破れた」と連絡をもらった際、「これはただごとではない。大変な状態では?」と思い、自転車関係でエミとの長い付き合いで支援している方やエミたちの帰国に合わせて「エミ&スティーブの会」を大阪で開催しているお店のオーナーとも連携して、何か支援ができないかとあれこれと考えていたところ、モンベルの「シール・エミコ支援基金」の口座がまだ維持されていることを知り、モンベルへ利用の許可をいただきました。以下が口座情報です。

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 支援金振込先:みずほ銀行 四ツ橋支店(店番号:563)
 口座番号:普通預金 1070975
 口座名義:シールエミコ支援基金

◆手術が成功し、再び、エミとスティーブに平穏な生活ができるようになってほしいと祈るばかりです。皆さまからの支援金はすべて「お見舞い」としてシール・エミコさんにお届けし、治療費などに活用いたします。コロナ禍により大変な状況下での支援のお願い、大変恐縮ですが何卒ご協力お願いいたします。手術が成功し、壮行会でみなさまと再会できることを強く祈っています。(藤木安子

追記:'本人から連絡。「手術は、11時間半にも及んだ。今は、術後の激しい痛みと闘ってる」と。

子供たちが戻ってきたコロナ禍のランタン村

■体温を超える暑さの夏、雨が降れば河川氾濫や地滑り、くっきりと目玉の見える台風の相次ぐ襲来。経験したことのない異常気象は毎年更新されて、異常が常態化しているのでしょうか? これ以上人間を痛めつけないでください、と叫びたい気持ちです。元気にお過ごしでしょうか? ご無沙汰しています。

◆いつもの場所での報告会も停止状態ですが、世話人の方々の工夫で、「地平線通信」は滅多に読めないような情報を満載:異国のエピデミックまたはパンデミックまたは新型コロナについての記述、登山や探検への哲学的なアプローチ(?)、何より普通の日常では気づかない事柄への問題提議がなされていて、地平線的コロナ版「山のパンセ」と呼びたいくらいです。

◆そういうわけで、私へも世話人から「生き延びているのであれば一筆」の依頼がありました。私の個人的な日常に大した変わりはありません。が、ランタンからの便りは、今年3月以降は頻繁になりました。スマホを使って、文字が送れない者はヴォイスメッセージ、そうでなければ「Hi!」だけ。安否の確認です。雪や雨などのお天気情報に加え、農催事や婦人会などの集まりをした時には必ず誰かが写真や動画で知らせてきます。歌だけのお知らせもあります。そこに参加することが叶わない者への心遣いなのでしょう。

◆今月9月2日はチベット暦の7月15日、ランタン谷東奥ランシッサ(標高4100メートル)での満月の祭りがありました。スマホを持っているものは競ってFace bookにあげ、私のFBにもタグ付けやメッセンジャー経由でシャーマンの踊りを送りつけてきました。今年も例年通りに行事を終えることができた! その嬉しさが伝わってきます。

◆未だ収束の目処も立たない新型コロナ。感染の脅威はこのヒマラヤの山岳地域にまで及んでいて、彼らのメッセージからこれまでにない日常が現出していることがわかります。ネパール国内では早い時期にチベット(中国)との国境が閉じられ、中間山地からカトマンドゥへ通じる幹線道路、一般道も要所に関が設けられ人や物の流れをせき止めてきました。

◆首都カトマンドゥはロックダウンが続き、商店のシャッターは下ろされ、日銭を稼ぐタクシードライバーや人力車夫、荷運び人たちはどのように暮らしているのか?! カトマンドゥの息子は「新型コロナは人を餓死させ、猜疑心を生み出す」と言っていた。空港も閉じられ、観光客はもちろん、出稼ぎ先の中東やインドからも帰国できずにいる。

◆ネパールの人々の暮らし方は、低地、中間山地、そしてヒマラヤの高地とで大きく違っています。中間山地は低地と高地をつなぐ中継地であり食料の供給地です。高地ではヒマラヤを資源として登山やトレッキングのお客を迎え入れてきました。国境が閉じられ、国内の自治体間の往来が途絶えると、自給自足が可能な地域とそうでない地域との社会的経済的な格差が生まれます。一概には言えませんが、発達した交通網によって自由な往来が現在のネパール社会を形作っているとすれば、このネパールのコロナ禍は、十数年前に人々を引き戻しているのではないか、と想像します。

◆ランタン村に現出した状況は、昔のランタン村を知るものにとっては、非日常というより、14、5年前の日常そのものに思えます。思いつくままですが、以下の二点にそれが認められます。

 1)戻ってきた子供たち
 2)戻ってきた農業と牧畜

◆コロナ感染の危機が高まったこの3月、カトマンドゥの寄宿学校で学ぶ子供たちは大挙して村へ戻ってきました。4、5才から大学生まで約250人(全ランタン民はおよそ500人)。彼らは年に2回か3回の短い休暇を除き、都会に暮らしています。それが、もう6か月も村に滞在しています。家族とともに過ごす時間の中で、彼らは何を見、何を感じたでしょうか?

◆この6か月の間、いくつかの重要な村の行事がありました。チベット暦4月のサカダワ(釈迦の誕生と涅槃)の法要、大般若会、6月4日祭り、7月15日の満月の祭りなど。6月4日祭りは、キャンチェンゴンバで催される村最大の祭り。このヒマラヤの谷の村がどのように仏教を受容してきたかを知る興味深い祭りです。釈迦の初転法輪を賀ぐ仏教と豊穣をもたらす土着の神々への恭順が示され、儀式を挟みつつ3日3晩続きます。

◆最終日に弓矢で遠投を競う余興があります。今年の勝者3人のうちの1人はカトマンドゥから戻っていた20才そこそこの学生でした。彼らが送ってくれた動画には、これまで見たこともない数の村人が輪になって歌い踊っています。そこに参加したヤングたちが、村に伝えられてきたものを、心と体のどこかに記憶しておいてほしいと願います。

◆紙面が少なくなりました。もう一つのコロナ禍還流現象は、トレッカー相手の観光業が廃業状態の中で、農業と牧畜という従来の高地適応型の経済が彼らの手に戻ってきたことです。ビニールハウスで育てる緑黄食野菜はこれまではなかった品目です。そして、改めてランタンプランに戻りますが、ゾモファンドを立ち上げた大震災の年、21名いたゴタルー(放牧専従者)は現在その半分の12名に減っています。コロナ禍以前に老齢で廃業したものもいますが、家畜頭数は減ってはいないようです。彼らはこのゾモは「チチのゾモ」と認識しているのでしょう。売却すると村人の厳しい目にさらされます。

◆ゴタルーたちは都会から帰ってきた子供や孫たちのために、ミルクを絞り、バターや乾燥チーズなどを作り始めました。先日の現地からの電話では、自家製乳製品の需要がのびているようです。作る端から売れるらしいです。末尾ながら、ランタンプランの最後の試みとして、建設半ばだったランタン酪農組合センターハウスを、この秋、完成させる予定です。ゴタルーたちの希望のランドマークになることを願って。皆さんのご支援に感謝してご報告まで。 (貞兼綾子 ランタンプラン)

37才、体力はまだ伸びている――コロナ禍と南極遠征

■今年は南極行きの飛行機を全面的に飛ばさないことが9月3日に南極専門飛行機チャーター会社のホームページにて発表された。僕が目指している白瀬中尉の足跡を伸ばしての南極点徒歩到達は当然延期になるが、2020年度は世界的に全ての南極遠征が実施されないことになる。

◆この飛行機会社はALEという名前で、南極大陸に民間で飛行機を着陸できる権限をぼぼ独占的に持ったアメリカに本社を置く会社である。現在、一部の例外を除いた冒険家たち以外はこのALEのロジスティクスに頼らざるを得ない。例外としては、2017年にあのマイク・ホーンが自らの船パンゲアをチームで操船して南極にアプローチしカイトで単独横断、対岸に待たせた船でピックアップという荒業をやってのけている。ちなみにマイクはこの方法を応用して、2019年にはあのボルゲ・オズランドとコンビで極夜の北極海徒歩横断までやってのけた。世界トップの冒険家たちの実行能力には驚愕だ。

◆さて、僕の今後のことを話そう。昨年は約1億円近いチャーター費を集めながらALEの都合により今年に延期に、今年はコロナで来年に延期だ。来年も確実に決行できるかはまだわからない。だが、落ち込んでいる時間はない。僕の恩師の冒険家は大場満郎さんだが、大場さんも白瀬中尉も何があっても目標を諦めることはなかった。僕はそこに憧れた。今年がダメなら来年もある。現在37才になるが、トレーニングは欠かさず行っている。むしろ体力はまだ伸びている。ピークはまだ保てるだろう。

◆来年5月にグリーンランド内陸氷床横断に行くつもりだ。年に100日間はフィールドに出ているし、昨年末には冬の北海道も歩いたが、今年も去年も極地に行けていない。ブランクがあまりに長すぎる。南極の成功率を高めるためにも遠征に出る。グリーンランドは北極圏の中では珍しくシャットアウトされていない。9月現在でも知る限りでは3チームが横断に挑戦している。その中に知り合いの外国人冒険家が数人いるので、彼らから現在の情報を得ることができるだろう。ちなみにグリーンランドは単独での内陸遠征が禁じられているので、僕は外国人たちとチームを組む。単独での内陸縦横断は植村直己さん以外の例を僕は知らない。

◆夏には冒険学校の第一弾もやるつもりだ。元々、南極が終わってからやるつもりだったが1年延びたことでライフプランを書き直す。短い人生、どこまでトガッて生きていけるだろう。走り続ける以外の答えはない。(阿部雅龍

こんなときだからこそ

■「こんなときだからこそ」この言葉で始まる会話が増えた昨今の私。世間一般的に自由にできる時間が増えたと言われておりますが、私の日常は以前に比べて急激に忙しくなっております。まず、私事ですが初めての子供ができ、40歳になって子育てに追われています。そして先週、急遽転居もしたので、引っ越しや事務作業にも追われています。そして新型コロナウィルス対応で、仕事も以前よりも増えました。時間がかかる作業が多い仕事のわりに、成果が見えないこともあり、メンタル的にも下がる日々が増えました。しかし、「こんなときだからこそ」です。そこはきっと、世界を自転車で8年半旅したことで得たメンタルとフィジカルのタフネスさが役立っています。妻と新しくできた子供のおかげで、守る者を得た男の強さを持てました。

◆自転車冒険旅から戻り、3年半。書籍『スマイル!』が3年を経て文庫化しました。大きな変更点は、「文庫化のあとがき」への5,000文字の加筆です。この約10ページに帰国後の活動と今後への想いを綴らせていただきました。自転車旅で得た経験から観光業に従事し、サイクリングガイドを行っています。そして市町村へのサイクリングアドバイザー業を行い、現在は官民連携の長野県サイクリング協議会の副代表も務めています。一般社団法人の理事にもなり、長野県上伊那郡辰野町で「グラバイステーション」というレンタサイクル&ガイド会社をOPENしました。

◆同時に、自転車旅も続けており、1年に1か国未訪問国を走っております。76歳で196カ国をコンプリートする予定です。そして50歳までには南極大陸を自転車走行する夢も捨てておりません。これも地平線通信のおかげです。新型コロナウィルスの状況の中でも活動を続けている方の姿が、私のモチベーションを保たててくれています。南極チャレンジを続ける阿部雅龍くんや、こんなときだがらこそのオンライン配信活動を続けている光菅修さん。自転車レジェンドである平田オリザさんの活動等、多くのパワーを頂いております。

◆「こんなときだからこそ」改めて、この言葉を呪文のように唱え、魔法を叶えていきたいと思います。地平線会議にかかわるみなさまのご多幸を、長野の地よりお祈りしております。(自転車冒険家&自転車旅行研究家 小口良平

★『スマイル! 笑顔と出会った自転車地球一周157カ国、155,502km』(河出書房新社)の文庫化『果てまで走れ! 157ヵ国、自転車で地球一周15万キロの旅 』(河出文庫)発売中!


今月の窓

コロナの日々 「地平線会議」はやはり大事なんだ

■正直にいうと、コロナに限らず、他の人に聞いてもらうような話はわたしにはない。早い話、わたしのところにはまだコロナの火の粉は降ってきていない。身近なところで病魔としての恐さをまだ見ていないし、生活の根拠を奪われてしまう不公平なやりきれなさも側にはない。

◆それは多分に自分の日常がすでに隠居風の生活になっているからだろう。Stay home!  言われなくてもやっている。加えてぼけがまわっている。感度が鈍り、危機感も探究心も想像力もやはりにぶっている。誰かと、あるいは誰かたちと会いたい、話し合いたいという欲求も一人でいることの快適さとどっちがどっちだ。なんだか世間が遠い。たぶん群落ちした猿はこうなんだろう。

◆だからぼけーっとして暇をもてあましているかというとそうではない。時間はいくらあっても足りない。やりたいのにやれないで積み残していくことばかりだ。ひとつには歳とともに少しは苦労させた女房どのに孝行をしたいと思うようになり、それが少しずつ身についてきたためでもある。寝具を干し、洗濯をして干したり入れたり、スーパーやホームセンターで買い物をするのは専売特許だし、食事の用意や後始末もほぼ独占。

◆これは長年山岳部風自己流だったのでまだ良かったが、最近は評価を気にしてネットでレシピなるものを見るようになって悪化した。内外の猫どもの面倒は半々だが……要するにほぼ主夫だ。テレビを一緒に楽しむのも予定の内だが見ているとつい寝入っていたりする。

◆少し自分の作業に集中できるのは夜半。しかし画面やキーボードに向かっているとはいっても、まずは画面の中の各種片づけで、したかった仕事の前にソフトやネットの不調と分からなさとの格闘で貴重な時間はつぶされてしまう。本は買うけど読む時間はない。写真やフィルムのデジタル化を進めているのにすぐじゃまが入る。庭のトウカエデに登って枝葉を空かせなければならないのに……、歩きに出たいのに……、山歩きの計画はあるのに……日々はいつもどおり無為に流れて行く。コロナでその定型化が進んだ。いや、火の粉が注いでこないまま、体も感覚もコロナに順応してしまった。

◆それでもコロナに興味はあり、期待もしてしまう。いったいどういうものなんだ、これは。パンデミックを起こすウイルスだという。ウイルスに関するうろ覚えの知識で、そうか、人類は今後こいつと連れになるってことだなとまず思う。集団免疫なんていう用語が出はじめ、にわかに世界が等身大の個人の集まりのように見えはじめる。ん? 人口の6割前後は感染して免疫を持つようにならないと終息しない? 人間ひとりひとりが裸で対等な立場で細胞レベルで戦う話なんだと。ならば感染者は前線の兵士、ご苦労さまですと感謝し、自分も積極的に感染した方が世のためになるんじゃないか。

◆残念ながらその幻影はすぐに消えた。政府も医者も世間もひたすらかからないようにする話しかしない。なぜだ、どういうことだ。うまくやれば集団免疫づくりを他人に任せて、自分だけは隠れて通せるはずだという読みがあるのだ。免疫づくりは下々にやらせればよい。ワクチンとやらが時間稼ぎをしはじめるまで。なんだこれも今までどおり、いや、いままでにも増して、災厄を弱いものにしわ寄せする話だったのか。

◆パンデミックを抑え込むのに本当はどっちを向くのがいいのかはわたしには分からない。自分がかかるということだけなら6割に加わることも悪くない。症状の恐さは人によって大きく違うという。軽い肺気腫を持つ80代の老人が重症に到るリスクはそう低くないとしても、他の病気や事故や貧困が原因のリスクに比べてそんなに高い訳ではない。しかし問題は感染すると自分一人では処理できなくなるということと、他の人に感染させる存在になってしまうということだ。……なるほど、個人の選択としては各自感染せずに逃げきることを目標にするしかないのか。

◆女房孝行の一環として、週末にはたいてい弁当を持ってあちこちの緑の濃い公園に出かける。ほんとうは低くても山に行きたいのだが、長雨やら猛暑やらがつづいて女房どのが同意しない。公園は家族づれで賑わっていた。とくに水の流れがあるとあちこちで二密状態だ。公園がこれほど子供たちと若い両親のためにその本来の期待された機能を発揮できたことはなかったろうし、若い父親たちがこれほどまじめに子供を相手にできたこともなかったのではないか。世界はやはり似たような個人・家族の集まりでできているのかと少し安心する。

◆一方で国の対策の遅れやずれもさまざまに指摘された。なぜそうなの、なぜそうできないの、という話ばかりが驚くほどつづく。いまはネットの時代だから外国の状態も昔よりずっとよくわかり、比較される。地平線に関心を持つ人たちなら日本ではさまざまな分野で停滞や劣化が起こっており、世界に遅れをとっていることは実感として知っておられると思う。が、今回は広く国の統治能力の不足・遅れ・劣化が露出し、国民も再認識することになった。ついでに「ウソ」の代償がほんとに大きいことも。コロナのおかげだ。

◆なぜそうなったのか。なにがまずかったのか。誰のせいなのか。指摘はすぐに現れ、その背景の解説も腐るほどありそうだ。しかしその奥でつまるところわれわれ国民の問題、日本人の資質や哲学、習性の問題に行き着いてしまう。われわれにはそれに気づくだけの正直さはある。だがその先が「一億総懺悔」止まりになるという習癖がある。それをどう越えればいいのか。ひとりひとりはどう責任を取ればよいのか。問題や対策を馬鹿にしないできちんと整理して組み立ててみられないだろうか。「どうして?」を考えながらわたしがもっとも欲しいと思ったのは、衆知をまとめあげてシステムにする協働の場と能力だ。地平線の中にもそういうプロジェクトがあっても……。

◆そういう探求や解明、またその先の発想はたぶんわれわれ日本人の不得手な作業だろう。社会的・歴史的な諸事情からくる訓練不足だ。しかし不得手ではすまないし、感性が劣っているとは思わない。多くの人たちはコロナ下で直観的に自身の生物としての健康さや頼るべき感覚を維持する努力をつづけているし、地平線にはKJ法の使い手もおり、森田靖郎のように時空をまたぐ旅人もいて、全体を俯瞰させてくれる。コロナは終わる。しかしその背後で終わりのない、ずっと危険でやっかいな問題が着実に進んでいる。それに対してコロナの前から関野吉晴をはじめ何人もの人たちがわれわれの勘と考える力を育てようとしてさまざまな努力をつづけてくれてもいる。そうしたことが見渡せる「地平線会議」はやはり大事なんだ、!と。江本をはじめ世話人たちの、わたしから見れば超人的な持続努力に感謝する。(宮本千晴

「目には見えない縁」いつでも、どこでも

■私が所属している修道会Medical Mission Sistersの略名はMMSですが、「それ、Medical Moving Sistersってこと?」と皮肉られるほど、私たちは創立当初からしょっちゅう移動してきました。そう、ほとんどアイデンティティーの一部になるくらいに。ところがCOVID-9のパンデミックで、御多分に洩れず私たちの物理的移動はほとんど止まりました。アメリカで働いていたインド人シスターは任期が終わってもインドに戻れず、ベトナムの新しいミッションに行くわよ!と張り切っていた別のインド人シスターは宙ぶらりんの待ち状態。

◆ドイツからしばらくぶりの休暇でフィリピンにきていたフィリピン人のシスターもまた然り。かく言う私も、これから果たしてどれくらい日本にいることになるのか今も皆目見当がつきません。ただ、ミッショナリーの特権、とでもいいましょうか、私たちはどこで足止めを食らっても大抵の場合そこには“HOME”と言える場所があり、仲間がいます。ほんとうにありがたく思うのですが、一方で、命がけでより安全な場所、より人間らしい生活を求め、身一つで彷徨う人々、あるいはCOVID-19で出稼ぎ先の仕事がなくなり、かといって故郷に戻れず生活のめどが立たない切羽詰まった状況に陥った人々のことを考えると、身につまされます。

◆20代後半にアメリカに渡ってその後日本では活動していない修道会に入ってからは、もう母国で生活することはなかろうと思っていましたが、ところがどっこい、人生いつなにが起きるのか、なにがどう幸いするか、わかりません。中村哲先生はご著書『天、共に在り』に「様々な人や出来事との出会い、そしてそれに自分がどう応えるかで、行く末が定められてゆきます。私たち個人のどんな小さな出来事も、時と場所を超えて縦横無尽、有機的に結ばれています。そして、そこに人の意思を超えた神聖なものを感じざるを得ません。」と書いておられますが、それは私もここ数年、とりわけ東京の実家を活動拠点にして以来、折に触れて深く感じるところです。

◆去年の3月初めて長野亮之介さんの個展に伺いました。そこで展示されていた探検冒険年報『地平線から』を見て、「これ、持ってる」と思い出して驚き、長野さんが編集に関わっていたと知ってさらにびっくり。私の手元にあるのはその昔まだ大学生だった頃、東京か札幌の本屋か何かの集会で見つけ、題名に惹かれて買ったものだったのです。今年になって江本さんにもお会いして、インドに戻る(筈だった)直前の2月の報告会でお話しさせていただき、結局こうしてまだ日本にいるのですが、それはそれでまた、新しい息吹をもたらすたくさんのつながりを生みだしています。

◆ミッショナリーにとって現地語を習得するのも大事な務めだと思うのですが、以前、たとえ数か月の滞在であっても一生いるつもりで学べ、と言われたことがあります。妙言だと思いました。他のことにもあてはまるような気がします。ところで、地平線通信8月号の巻頭文にあった平田オリザさんのアイスクリームの話。思わず額を打ちました。それは1年間のアメリカ留学から戻ってきた夏のこと。夕飯がすんでなお、大きめのお茶碗(どんぶりよりは小さい)にアイスクリームを山盛りにして食べようとした私を見た母の、「こりゃ、たまげた」と言わんばかりの表情が鮮やかに蘇ってきたからです。時は奇しくも1982年。ちなみにその一年で、体重は10キロ増えました。(延江由美子


あとがき

■地平線報告会を休止してもう半年。なかなか集うことができない。地平線報告会を開いてきた新宿スポーツセンターに聞いてみるといつもの「大会議室」(通常は110人は入れる)は目下「40人まで」なんだそうだ。報告会に60人以下ということはあまりないのでうーむ、もう少し待つか。それとも「先着順40人」として一度やってみるか。報告会をやる人とテーマはさまざまに思いつくのだが、なんとも悩ましいのである。

◆寺子屋を理想としてきた地平線報告会は、できれば「密」でありたい。ウィズ・コロナの時代、そういう意味ではお休みは当然なのである。せめてリモートで試みてもいいのでは、と考えるが、小学校の授業やキャンパスの実情を側から見ていると「遠隔操作」は私たちには似合わない、との印象が強い。ならば、活字の通信をしっかり出し続けよう、といまの形になっている。

◆写真も入れない。ただ活字だけ、というのもあんまりだ。長野亮之介画伯による8コママンガは佳境に入っていて毎号楽しみだが(今月号のはどうもねえ…)、時には別の絵もあっていい。というわけで今月は服部小雪さんにお願いして14ページにイラストを描いてもらった。小雪さん、ありがとう。絵が届いた時、嬉しかったです。絵心のあるひと、私から頼まれたら描いてね。あ、頼まれなくても!(江本嘉伸


■地平線マンガ『夏の夜の夢の巻』(作:長野亮之介)
マンガ 夏の夜の夢の巻

   《画像をクリックすると別タブで拡大表示します》


■今月の地平線報告会は 延期 します

今月も地平線報告会は延期します。
会場として利用してきた新宿スポーツセンターが再開されましたが、定員112名の大会議室も「30名以下」が条件で、参加者全員の名簿提出や厳密な体調管理なども要求されるため、今月も地平線報告会はお休みすることにしました。


地平線通信 497号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2020年9月16日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方


地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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