2021年8月の地平線通信

8月の地平線通信・508号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

8月18日。各地に激しい豪雨災害を引き起こした雨がようやく止み、久々に太陽が顔を出した。が、こんどは、暑い! きのう17日は42回目の地平線会議の誕生日だった。いちいちお祝いでもないが、どんな時代を我々が生きているのか確認するのに「日付」は役に立つ。

◆たとえば16日、アフガニスタンの首都カブールの空港から送られてきた映像ほどショッキングなものはなかった。米軍の撤退に乗じて反政府勢力タリバンが一気に首都を制圧、危険を感じた市民、関係者が空港を飛び立とうとする米軍機の機体に必死にしがみついたのである。

◆バスやトラックではない。飛び立つ間際の飛行機にしがみつくとはどういうことか。報道によれば、前夜は、政権側あるいは米軍に協力してきたアフガン人の米軍機への同乗か許されたことがあった。タリバンにつかまったら命はない、と信じる人々にとってこの瞬間、飛行機がいかに大事だったか。中には離陸後に機体から振り落とされた人もいて、それらの動画は逐一世界に発信されたのである。

◆1994年7月に誕生したタリバン(原義は「神学生たち」)は、パキスタンのアフガン難民キャンプで育った、アフガニスタン・パキスタンのパシュトゥーン人たちを中心とする組織だった。パキスタン側のパシュトゥーン人居住地域にUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の活動取材で入ったことがある。タリバンが誕生する以前のことだ。地域の部族長の屋敷に招かれ、歓談したが、銃を手にした数人の部下が目をひからせ、独特の緊張があった。パシュトゥーンの人々はイスラム世界の掟を守る以前に部族として守るべき何かがあるのだ、と当時の私は嗅ぎとった。

◆「9.11」と聞いて若い読者はピンとこないかもしれない。20年前、ニューヨークの世界貿易センタービルにオサマ・ビンラディンの命を受けたアルカイダの“兵士”たちがハイジャック機の搭乗者もろとも突っ込んだ日だ。あの日、私は富士山にいた。大沢崩れという崩壊のため長く立ち入り禁止となっていた「お中道」が1日だけ開放されたので参加させてもらったのだ。

◆夜の山小屋のテレビで巨大なビルが崩れ落ちてゆくさまを見て参加していたアメリカ人が叫んだ。「戦争だ!」。あの日からちょうど20年、オサマ・ビンラディンへの復讐を果たしたアメリカは今や完全にアフガンから手を引こうとして、きのうの空港での騒ぎになっている。責任あるはずの大統領は「現金を積みこんだ4台の車とともに国外に逃亡した」と伝えられ、閣僚から非難の声が上がっている。

◆一方で、イスラム主義組織タリバンが、首都カブールから退避する民間人らに対して空港までの「安全な通行」を保証した、とも伝えられている。女性に教育は不要とする従来の女性たちの処遇についても「イスラムの法の範囲で」社会参加を認める、と報道官は語っている。ほんとうに「新しいタリバン」が誕生するのだろうか。簡単なことではないと思う。

◆鳴り物入りで始まったオリンピックは、随分昔の出来事のように感じられる。日本選手団は史上最多の金メダル27個を獲得。銀14、銅17を合わせた総メダル数58個も過去最多なのだそうだ。マラソンの大迫傑が最後に2人抜いて6位入賞、柔道阿部一二三・詩兄妹の同時金メダル、女子バスケットボールの銀メダル、ソフトボール二連覇などなど話題はいろいろあった。私もしばしば熱中した。

◆しかし、4年に1度の国際大運動会も、終わってしまえばそれだけのこと。ほとんどの競技が「無観客」だったこともあって、余韻は驚くほど小さい。私は振り返ってつくづく国立競技場を新築する必要はなかった、古いものを大事に使うべきだった、と感じている。1569億円を投じて建設された巨大な新国立は、維持管理費も年間で約24億円がかかると試算され、そのお金を生み出すのは簡単ではない。

◆そして、何よりも1年7か月になるというのに、一向に収束しない新型コロナウイルスだ。新たなデルタ株の猛威がおさまらず、オリンピック後も戦いは続く。政府は17日、新型コロナウイルス感染症対策本部を開き、京都、兵庫、福岡など7府県を緊急事態宣言対象に加えた。発令期間は20日〜9月12日。東京など宣言発令中の6都府県も期限を8月末から9月12日まで延ばした。

◆東京では17日に新たに4377人の感染が判明した。全国では連日、2万人を超え、重症者は5日連続最多を記録している。そんな中でパラリンピックは、予定通り今月24日、開会する。これもすべて無観客だ。43年目に入った地平線会議。視力は落ち、足下はよたよたしはじめているが、せめてもの抵抗、と毎朝、毎夕、新聞取りのため8階を歩いて往復する日々である。[江本嘉伸


地平線ポストから

頑張れ、森本孝さん!

■東北道の事故から2か月、まだバイクに乗れないので、「青春18きっぷ」を使って東北を一周してきました。東京を出発すると、東北本線→IGRいわて銀河鉄道→青い森鉄道で青森へ。第1夜は青森泊です。青森からは奥羽本線で南へ。秋田を通り、横手から北上線で奥羽山脈を越えて北上へ。第2夜は夏油温泉に泊まりました。「元湯夏油」の5つの露天風呂のうち、4湯はうれしい混浴。混浴湯で左手のリハビリをしたので、親指が動くようになりましたよ。

◆北上から横手に戻ると、奥羽本線で南へ。山形からは左沢線に乗り、終点の左沢へ。第3夜は左沢温泉の「湯元旅館」に泊まりましたが、空が抜け落ちそうな豪雨。最上川が氾濫するのではないかと心配するほどのすさまじさでした。

◆山形へ戻ると米沢へ。米沢駅前の「東洋館」では米沢牛のステーキ200グラムをたべました。そして福島へ。第4夜は高湯温泉の「玉子湯旅館」に泊まりました。東北の名湯の効能には絶大なものがあり、左手はかなり動くようになりました。

◆「東北一周」を終えて神奈川県伊勢原市の自宅に帰ると、真っ先に『地平線通信』(7月号)を読みました。森本孝さんの「観文研3ばかタカシの一角から」には胸を打たれました。締めくくりの「嗚呼、もう一度、私もばかになりたい!」には、胸がジーンとしてしまうのでした。

◆森本さんもバイクが大好きだとありますが、観文研時代、森本さんの語る夢物語で、「私の夢はアメリカ大陸横断のトラックドライバーになることだ!」という一文を読んだことがあります。ぼくは1990年に50ccバイクで「ロサンゼルス→ニューヨーク」のアメリカ大陸横断を成しとげましたが、ニューヨークに到着したときは、「森本さん、アメリカ大陸横断を達成しましたよ!」と心の中で叫んだものです。

◆宮本常一先生のおつくりになった観文研は残念ながら1989年3月31日に解散しましたが、じつに大きな遺産を残しました。それは観文研発行の月刊誌『あるくみるきく』です。最終号は263号でした。毎号、一人の著者が特集ページを書くという形式の月刊誌で、地平線会議の仲間たちの多くが『あるくみるきく』を書いています。

◆宮本千晴さんや街道憲久さんらの「極北の旅−−カナダ北極圏の秋と冬」、森本孝さんの「トラジャ族のはざまで−−インドネシア・スラウェシ島」、伊藤幸司さんの「ユーコン川をくだる」、岡村隆さんの「スリランカ」、向後元彦・向後紀代美さんの「ラダク−−小チベット・ラダクへの旅」、田中雄次郎さんの「日本縦断徒歩旅行」、北村節子さんの「蒼穹へのはるかな旅−−チベットの高峰シシャパンマ登山」、河田真智子さんの「島からの手紙−−奄美の島々」、三輪主彦さんの「構造線をゆく」、丸山純さんの「ムンムレット谷の春−−カラーシャ族の春の祭り」、田口洋美さんの「阿仁マタギ・国境を越えた狩人たち」……と多士済々です。

◆カソリは「アフリカ一周」を書かせてもらいましたが、それが我が第一冊目の本の『アフリカよ』につながっていくのです。世界から日本に目を向けると、「常願寺川」、「下関」、「西原−−甲武国境の山村」と書かせてもらいました。

◆忘れられないのは「宮本常一追悼号」です。宮本先生の遺稿となった未発表の手書き原稿を持って、山陽本線の車窓の風景を眺めつづけ、写真を撮りつづけたのです。題して「車窓の風景から」。宮本先生の「カソリ君、新幹線の車窓からでも、見えるものは見えるんだよ」というお言葉が聞こえてくるようでした。

◆さて、「観文研3ばかタカシ」の森本孝さんです。森本さんは世界から日本に目を向けると、「下北の海」、「糸満の海」、「奥丹後の海」と、次々と「日本の海シリーズ」を書き上げていきます。時間をかけた丹念な調査と、宮本常一先生ゆずりの巧みな聞き書きが際立っています。さらに『あるくみるきく』では「瀬戸内海の釣漁の島・沖家室」、「越前−−浦々の漁労」とつづいていくのです。

◆森本さんにとっての記念碑的な「下北の海」は素晴らしい一冊です。青森県の野辺地から下北半島に入り、泊漁港から白糠漁港、さらには本州最北の大間漁港へと舞台を移し、下北の漁民の生活ぶりをあますところなく描いています。見事です。宮本先生亡きあと、観文研では総力をあげて佐井村の佐井を拠点にして下北の共同調査を行いましたが、その時には森本さんの「下北の海」をテキストにして読み返しました。

◆森本さん、奇跡を信じましょう。この世界には目に見えない大きな力が働いています。不治の病を乗り越えて、ぜひとも9月発売予定の『宮本常一と民俗学』(玉川大学出版部)を完成させてください。そしてさらに次のステップを目指しましょうよ。頑張れ、森本孝![賀曽利隆

はたちを迎えた私のアルプス夏山合宿

■どうしようか。16:00をまわった頃、大阪駅の中央出口、大きな柱にザックをおき、それによりかかるように腰を下ろす。まずは脳に酸素をと思い深く呼吸する。今日は8月14日。予期しなかった大雨の影響で福岡から大阪まで1日の予定が2日かかった。夏合宿波乱の幕開けだ。

◆まず入山できるのかという話だが、名古屋から富山までのバスは動いているらしい。予定を変え、名古屋まで出ることになった。JRは京都方面が運行見合わせとなっていたので、近鉄を使い、三重県を通って名古屋へ行く。

◆ 21:30ごろ、名古屋駅着。今晩の寝床だが、この大きな駅でビバークは厳しそうだということで、カラオケボックスで眠らせてもらうことになった。90Lザックを背負い、40Lザックを前にもち歩き回る私たちは街中のどこにいても浮いている。早く山に行きたい。

◆8月15日6:30、名鉄バスセンターに着く。コンビニのおにぎりを二つ詰め込み、7:20ごろ、富山駅行きのバスに乗り込む。動いてくれてよかった。10:40頃、富山駅に着き、そこから立山駅へ行き室堂まで、ケーブルカーとバスを乗り継ぐ予定だ。今日入山して、雷鳥沢まで行くという方針だが、どうなるだろう。剣岳周辺の雪渓の様子も気になる。

許可が降りなかった昨年の合宿

◆ 昨年の夏合宿は許可が下りず、私を含めた1年生は参加できなかった。体力的、技術的未熟さから事故を起こすことが現実的だったからだ。これは部にとって痛手となった。夏合宿を部全体で行うことの重要性は、上級生から下級生への生活技術等の伝承、雪上訓練を行い冬山への備えを行う点にある。

◆ 現在山岳部員は9名いる。4年生から順に、2名、1名、4名、2名、という構成で、男女比は7:2である。今年の夏合宿は、1年生1名と4年生2名を除く計6名で行う。4年生は部員といっても活動には参加しない。私を含め女性は2名で、行動計画に男女の違いによる区別はない。前半、真砂沢を拠点に剣岳周辺で10日ほどかけて、八つ峰6峰Aフェース、Cフェース、源次郎尾根、立山連峰、に登り、雪渓上で雪上訓練を行わせてもらう予定だ。

立山からケーブルカーで室堂へ

◆計画では、その後剱〜槍縦走隊と、南アルプス北部縦走隊にわかれて行動することになっている。どちらも男性2名、女性1名の構成で、私は南アルプス隊を選んだ。前半戦終了後、一度下山し松本まで出て、尾白渓谷駐車場まで電車とタクシーで向かい、甲斐駒ケ岳目指して入山する計画になっている。その後仙丈ケ岳、北岳、農鳥岳と縦走し、奈良田に下る。縦走の行動日は6日、予備日3日の計画である。

◆15日午後、立山から室堂にのぼるケーブルカーに乗れた。立山駅は天候とコロナ禍でがらんどうだった。本当はもっと活気のある場所なのだろうが、とはいえ、日本アルプスに片足を踏み入れているという実感はある。ケーブルカーを降り、室堂にむかうバスに乗り込む。視界100mもないほど、ガスっている。

◆今この社会状況のなかで合宿を行うことに、どのような意味があり、どれほどの責任を負っているのだろう。私は学生であって、すべての責任を負うことはできない。公的な立場にある人の説明責任と同じように、私は自身の行動について考えなければならない。この合宿で感染者が出るかもしれないし、自分が感染を広げてしまう可能性もある。

コロナ禍の中の合宿をしっかり記録したい

◆全日程テント泊だが、テント場や山小屋で感染を広げれば、そこは一定期間閉鎖されるだろう。他のテントと一定距離を保つこと、近づかないこと、アルコール消毒、マスク着用を忘れないこと、基本的な対策を行うことは当然だが、やりたいことをやること、やらせてもらうこと、その責任について、考えることは辞めずにいようと思う。そしてこの合宿を、どう記録に残すのか。そのことの重要性は、「世界が仕事場」での江本さんの講義と、地平線通信から教えていただいた。

◆福岡を発つ8月13日、私は20歳になった。私を面白い世界へいざなってくれた人や、進むことを鼓舞してくれた人の存在が自然と喚起される。私はどう生きていくのだろう。10代の終わりに、地平線通信に出会えたこと、原稿を書く機会をいただいたこと、幸運なことだと心から感謝します。では、行ってきます![安平ゆう 8月15日14時08分]

ついにロング・スレ村に広がり始めたコロナウイルス

◆わたしは2017年春から、パンデミックが騒がれ始めた2020年3月を最後にするまで、東京のほぼ真南、赤道直下に位置するボルネオ島への訪問と滞在を繰り返してきました。ロング・スレ村は熱帯雨林に囲われた、とりわけ辺鄙な山間にあり、わたしが訪れた最初の村でした。夫ヘルマン(56)と妻アウェ(48)の夫婦は、初めての出会いのときからずっと世話を焼いてくれている、わたしの「ボルネオの両親」です。これまでに約半年をこの村で過ごす間、わたしはこの二人の「一人娘」として、小さな共同体で村人たちとの関係性を深めてきました。

◆中でも5月の終わりに別れてしまった恋人は、この両親と同じくらい大事に思っていた人でした。スレは50年代前後まで森での遊動生活をしていたプナン族の村です。彼もプナン人で、森で砂金や香木を採集する仕事には非常に長けていました。日に焼け皮の厚くなった彼の手には、細かいシワが無数に刻まれていました。

◆2年間ボルネオと日本で離ればなれの期間がほとんどでしたが、いつもその寂しさや距離の大きさなど忘れてしまうほど、時間と愛情を惜しみなく注いでくれる人でした。しかし村のある女性との距離が近づき、近日の結婚を目標に交際したいということを唐突に打ち明けられ、ただそのことを受け入れるしかありませんでした。

◆それからしばらく経って感じるのは、その彼がスレ村のことをいかに伝えてくれていたかということです。これまでは彼の日々の活動や、家族や共通の知人の話を通して、また彼が送ってくれる写真やビデオを通して、その日の天気や些細な出来事でさえも、村の様子がだいぶわかっていました。また森の動植物のことや、昔の暮らしのことも、寝物語によく聴かせてくれました。

◆そうしたやり取りが別れを機にぱたりと止んでしまったので、しばらくは村ごと絵本の中にしまわれてしまったかのようにさえ感じました。情けないようですが、わたし自身も傷心のために、しばらく村の人たちと通信していたFacebookを積極的にチェックすることができずにいたのです。そのような日常にも慣れてきた7月初旬、スレ村からほど近い内陸地域で、コロナが広がり始めたという情報がわたしのもとへ届きました。

◆現在は減少傾向にあるものの、インドネシア全体でピークとなった7月18日には、1日あたり4万4721人の新規感染者が報告されました。スレ村のプナンは、昨年のパンデミック初期には森の中へ避難しましたが、今回は農繁期と物資危機が重なっていたこともあってか、森へ逃れるという方法をとりませんでした。7月25日、村の両親を通じてスレ村で21名の感染者が出たことを知りました。

◆二人はその翌日から、感染を免れるために、村の中心から離れたところにある畑の掘っ建て小屋へ避難しました。幸い小屋は診療所のWi-fiが届く環境にあり、その間も毎日連絡を取り合うことが可能でした。2人はほどなくして鼻水と咳の症状を訴えましたが、村ではコロナと同時に風邪も流行っていたので、様子を見て小屋に留まる判断でした。しかし31日には村の診療所で検査を受けることになり、父母共に陽性反応が出ました。

◆わたしは、どうか村には戻らないでと繰り返し希望を伝えていましたが、陽性とわかった後で、「やっと自宅に戻ってこられてホッとしたわ! 小屋で眠るときのように寒い思いをせずにすむし、食糧もある」と言う母の声を電話で聞くと、思いがけず不安よりも安堵の気持ちが湧きました。この日、感染者数は既に30名以上に膨らんでいました。

◆ロング・スレ村は、吊り橋で繋がる隣の村と合わせると1000人程度の人口です。村にあるのは診療所とそのスタッフだけで、昨年までいた雇われの医師も現在はいません。さらに母は昔から喘息持ちで、父はわたしが村に滞在する間に、咳で失神するほど風邪をこじらせ、街に運ばれて治療を受けたことがありました。

◆現在両親は14日間の自宅での隔離生活を送っています。幸い母は比較的順調に快方へ向かっているようですが、父の病状が重く、点滴とネブライザーが装着されました。わたしは東京に居て祈ることしかできず、行き場のない不安と緊張感だけが募っています。大事な両親がどうにか乗り越えてくれることを祈るばかりです。

◆昨晩、村で仲の良かったおじいさんがコロナのために亡くなりました。この村でコロナの犠牲者が出たのはおそらく初めてです。

◆張り出した簡素なテラスの長椅子で、おじいさんはよく甘いコーヒーを飲んでいました。手招きされて、わたしが隣に腰掛けると、決まって交わす2人だけの特別な会話がありました。「バフイって日本語でなんていうんだっけ?」「『イノシシ』っていうよ」「あ〜、そうだった。イノチチ。イノチチ」。畑仕事で疲れたおじいさんの身体を、小一時間かけてマッサージすることもありました。次に村に戻ることができたら、まず会いたい人物のひとりでした。

◆スレ村はいまやわたしの「故郷」です。しかし東京の生活とは、あまりにもかけ離れています。スレ村と繋がるためには、携帯の電波かインターネットという拙い通信手段しかありません。このような有事にありながら、確かめてきた互いの愛情をもってしても、道具なくして相手のことは何一つわからないのです。

◆さらに、テレビをつけてオリンピックを眺めたり、映画を鑑賞したり、予備校のアルバイトをしたりと、東京の生活に浸かりさえすれば、大事な人たちの不安や哀しさでさえも、スイッチのON/OFFのようにシャットアウトできてしまいます。四六時中のことはわからない、ここからでは何もできない。スレ村の愛おしい人たちの苦しさや痛みを、直に感じ分かち合うことは到底できない場所にいるのだという不甲斐なさは、一体どこにやったらいいのでしょうか。自分は今、遠く離れた故郷の状況を直視する心構えすら失っているように思われます。

◆先の見えない状態で、隔たれた家族と「共に耐え忍ぶ」ということさえ困難を感じます。[下川知恵(8月6日)]

■追伸(8月15日)

◆先日、村のお父さんがコロナから無事回復しました! 一時は、厚労省から自宅療養者に向けた「緊急性の高い症状」とされている、胸の痛みと、返事がはっきりとしない症状があり、日本にいるわたしも気が気でない夜を過ごしました。厳しい隔離のために医療措置が受けられない中で、症状の軽くなった村のお母さんが殆ど寝ずの状態で一心に看病したようです。17日に2人の隔離生活がやっと明けます。幸いロング・スレ村では、コロナが収束の方向に向かっているということです。

うちのわんこ、ごんが……

■ご報告。うちのわんこ、ごんが、7月30日の昼、天国に行ってしまいました。地平線あしびなーはじめ、浜比嘉島を訪れて下さった地平線のみなさんには、散歩に連れて行ってもらったりして可愛がっていただいて、たくさん愛していただき、ありがとうございました。

◆特に江本さん、長野さんにはほんとにお世話になりました。おふたりは、私の嫁ぎ先がどんなところかを確認しに私が島に引っ越す前に外間家を訪れ(笑)ごんと仲良くなっていましたから、身内みたいなものです。

◆享年推定18歳。寝たきりになったら介護する覚悟でごんの部屋も作りオムツも用意していたのに、よろよろしながらも最後まで自力で歩き、ごはんも全部美味しそうにたいらげ、外の庭で過ごし、力尽きました。最後まで、ごん、でした。

◆ごん、その日は朝、娘のぽにょといつものように海岸散歩して、ごはん全部たいらげて、おしっこもうんちもして、あちこち歩き回り、調子よかったんです。

◆暑い日でした。2時間ほどやぎの世話して昼にうちに戻ると、庭で炎天下にうずくまるごんが。日陰の囲いから出てしまったようです。慌てて水を飲ませようとしたりアイスノンで冷やしたりしましたが、呼吸は弱く、呼びかけてもぐったりして、4、5回痙攣して、私の腕の中で息を引き取りました。まるで私が来るのを待っていたかのようでした。

◆私の不注意でした。まだまだ長生きできたのに。悔やみました。一日中自分を責めながら暗い気持ちでいたのですが、その翌日、夕方にさあっと天気雨が降り、草刈りを切り上げて軽トラを走らせ下ってきたところで、なんと、アマミチューのあたりから虹がかかったんです! 思わず車を止めて外に出ました。

◆ごんが、うれしそうに尻尾をふりながら虹の橋を駆け上がって行くのが見えた気がして、涙があふれました。ごんはまっすぐ天国に駆け上がって行ったんだ、と思いました。

◆私がここに来る前からごんは外間家にいたんです。ごんは私のお兄ちゃんみたいなもんでした。暇があればごんの写真を毎日見て、過ごしています。

◆ごんを愛してくださり、ありがとうございました。ぽにょももう14歳です。ぽにょをしっかり守りたいと思います。[外間晴美(浜比嘉島)]

こんな状況でも途切れない地平線通信、すごいです

■暑中お見舞い申し上げます。引っ越しはお疲れ様でした。暑中見舞いのハガキをと思いましたが、今は少しでも物を少なくと思いLINEにしました。落ち着かない状況でも途切れない地平線通信はやはりすごいことです。ありがたいです。

◆下関に通信が届いたころには東京のコロナは4000人を越えましたね。これからお盆の帰省や夏休みの旅行などありどうなるやら。昨日ウチの病院の医師たちが「来週は10000人いくね。どうなるか」と心配していました。時間差で下関にも影響が出ると覚悟しています。

◆それでも、娘が夏休みで帰省するのを「ダメ」とは言えず、楽しみにしている自分がいますね。まだまだ暑い日が続きますから、お身体ご自愛くださいませ。[河野典子(下関)]

PS 私は犬派ですが、通信の猫タイトルは素敵でした。

カノア選手の銀メダルと私

■決勝戦の終わりを告げるブザーが響き渡った。既に勝利を確信し、砂浜へと戻ってきていたイタロ・フェレイラ選手が天を仰ぐとブラジルから一緒にやってきた仲間たちが駆け寄り、彼を取り囲んだ。遠目からでも彼等の喜びが爆発しているのがわかった。一方沖に目をやると大波の中で漂いながら、自ら一向に動く気配をみせない五十嵐カノア選手の赤い背中が見えた。

◆手元のスマホに映るライブ映像にはフェレイラ選手と仲間達がハグをしているところが映し出されていた。波間に浮かび、陸側からは背中しか見えないカノア選手は肩を落とし、そこで涙を流しているかのようだった。彼の周りだけ時が歩みを止めていた。どのくらい時が経っただろうか。永遠にも感じられた時間が流れた後、彼は身を翻し、少しずつ砂浜に向けてパドリングを再開した。こうして台風一過の中で行われたオリンピックのサーフィン競技が幕を閉じた。

◆会社を離れてから1年半。そのほとんどの時間をパラオで感染した結核の検査や治療に費やしてきたのだが、ひょんなきっかけからオリンピック組織委員会で働くこととなった。はじめは既にできあがっている組織に馴染めるか不安だった。しかし、その不安はすぐに消え、組織の中で役割を持って働く楽しさを改めて噛み締める日々がはじまった。

◆職場となった釣ヶ崎海岸は元々駐車場とトイレ、玉前神社の鳥居があるだけの土地だった。そこにバックヤードで働く人達のオフィスや食堂、トイレ、選手達の更衣室、ラウンジなどが次々と建てられていた。

◆中でも驚いたのは、サーフィン・フェスティバルの会場だった。海のそばの何もない土地を造成し、一面に芝生が張り巡らされた会場には、ライブ用のステージや観客が寛ぐための大型のタープ、世界や日本のサーフィンの歴史が分かるサーフィン・ミュージアム、流木でつくった巨大なオブジェが建ち並んでいた。また海側には競技を一望できる展望台が作られ、今か今かとオリンピックの開催を待ち望んでいるようにも見えた。

◆一方僕が会場入りした7月13日以降、釣ヶ崎海岸はほとんど波のない状態が続いていた。その状況が一変したのは、まさに競技初日の25日だった。関東・東北に接近してきた台風8号のうねりがその状況を一変させたのだ。波は前日夕方の倍以上に高さになり、立て続けに押し寄せくるようになった。通常ならクローズといわれる海況だ。そんな波の中を各国の選手たちが競技開始のブザーと共に沖を目指して、パドリングしていった。

◆競技2日目の早朝には巨大な波がチューブをつくる様も見られた。釣ヶ崎海岸では滅多に見かけない現象だ。その波をカノア選手は潜り抜け、準決勝では大空を舞い、大逆転劇を繰り広げた。そうした選手たちの華麗な技はもちろんのことだが、僕の心を何より深く打ったのは、大波を乗り越え、視認が難しいほど遠く沖までパドリングしていく選手たちの後ろ姿だった。選手たちは小さな姿が波間に消えたかと思うと次の瞬間には山のような波を頂点から滑り降りた。そこにあったのは意志によって積み重ねられた努力の先にある人間の可能性だった。

◆5年前、パラオからミクロネシアの島々を経由して、最終的にグアムまで航海した僕が旅の間に感じていたのは、人の意志の持つ力の脆弱さだった。意志の力で克服しようとしても船酔いや慢性的な寝不足は一向に回復することはなかった。次第に僕は自然の前では人間の意識は物事を知覚するだけのものでしかないという想いに囚われていった。それはある種の諦観に近いものだった。でも、それだけではないんだと波に翻弄されながらも沖に向かってパドリングを続ける選手たちを見て感じたのだ。

◆決勝戦のブザーが鳴った後の沖で佇むカノア選手の後ろ姿も僕の心を打ったもののひとつだった。世の中にある多くの物事は、「もう一度挑戦すればいい」類のものなのだろう。彼自身、すでに次のタヒチで開催されるパリ五輪を目指している。でも、同じ場所にもう一度立てるかは誰にもわからない。わからないからこそ、もう少しで金メダルに届きそうだったからこそ、彼の落胆はどこまでも深く、すぐに海から上がる選択は取れなかったに違いない。

◆物事にはどんなに望んでも、努力をしたとしても「次」がやってこないものだってあるのだ。だからこそ、「今」目の前にあるチャンスに全力でぶつからなければいけない瞬間が人には必ずある。

◆記者会見が終わり、更衣室からサーフボードを抱え、駐車場に向かう彼の背中はとても寂しそうに見えた。とても銀メダルを手にした選手には見えなかった。その失意も、全てを賭けて「今」目の前にやってきたチャンスに挑んだものだけが手にできる証に違いない。

◆競技が終わって数日後、組織の中で役割を持ちながら、努力を積み重ねた後に見える景色が見たいと次第に思うようになっていった僕の気持ちを見透かしたように元の会社の人事部長からメールが届いた。それから11日後の8月13日、僕の復職が決まった。

◆一昨年、僕は目の前に巡ってきてくれたチャンスに応えるために会社を辞めた。そして、今新たな挑戦の機会がやってきてくれた。そのことに感謝しつつ、このチャンスに全力で取り組みたい。[光菅修

あんぱん

げんばくがおちたつぎのひ
あてもなくまちをあるきつづけた
きがつくといつのまにか
しらないおんなのこがついてくる

あっちへいけ!
おいはらっても
おいはらっても
おんなのこはついてくる

ていぼうにこしをおろして
ひとつだけもっていたあんぱんをたべた
おんなのこもとなりにすわって
あしをぶらぶらさせていた

くすのきのねもとで
よるはのじゅくした
おんなのこもすこしはなれて
ごろりとよこになった

よくあさめがさめると
おんなのこはつめたくなっていて
なにごともなかったかのように
ぼくはまたあるきはじめた…

いまでもときどきおんなのこは
ゆめのなかであしをぶらぶらさせていて
あんぱんをわけてやるのは
いまこのときだとおもって…

いつも
なきながら
めがさめる

   [豊田和司(詩人 広島)]


全・肯・定
引っ越し、いろいろ

引っ越し術、指南いたします

■引っ越しなら一家言あり、これまでの経験は100回以上、といっても学生時代でのアルバイトですが。当時は生活費2万円と3食込1万円の寮費が毎月必要でした。一方で収入は奨学金1万円のみでしたから月2万円足りません。その不足分を工面すべく見つけたのが引越屋、記憶にある方もいるでしょう、創業間もない888-8888でおなじみだったダック引越センター(アート引越センターがのち吸収)が学校の隣ブロックにあったのです。専門学校ですから土曜日も授業、したがって動けるのは日曜だけでしたが、日当は5000円、3回行けば1回は日当なみのご祝儀ももらえたので、月3回の稼働でどうにかなったのです。1年も過ぎると3月の繁忙期には同級生を10人ぐらい束ねて提供と、ブローカーじみたことまでできたので、卒業のときは就職をと誘われたのもいい思い出ですね。ちなみに私の看護師としての初任給が税込12万円だったころの話です。

◆以下引っ越しにまつわるエピソード。客が業者の仕事ぶりを決めるのは、一にも二にも初対面のときです。まずは張り切りたくなるパターン。3人いたら最初に「これで昼食を」と1万円ぐらいはずんで、軍手2双と汗拭きタオル、冬ならホットの缶コーヒーを加えるような人ですね。しかも小物の梱包はすでに完了、あとは運ぶだけ。さらに玄関の角を捨てるような毛布でカバーして待てば、引越屋は泣いて汗を流します。

◆嫌われるのはもちろんこの逆。あいさつするや、あとはよろしく、先方で待っているからと消え、部屋の中は生活そのまま。これからガラスのコップ一個一個梱包するの?という客です。そういう客にかぎって、家具に傷をつけるな、時間に遅れるなとうるさいので仕事も適当になります。

◆家の所在地にもしばしば泣かされました。建築基準法で5階(東京都は4階:当時)まではエレベータの設置義務がないので、団地だとせまい階段を持ち運びしなければなりません。ベッドなんぞ回るのか、という踊り場も多く、傷をつけないために毛布を張りつめての作業です。しかも横浜のような坂の町だと玄関先に4トン車を横付けできず、停められたのは団地まで数十メートル下の道、なんてこともしばしば起こります。玄関まで伸びる長い石段に、こいつも往復するのかと何度卒倒したことか。

◆荷物をすべて搬入し業務終了。ここでよくあるのが、「お疲れさん、ビールとはいかないでしょうがせめてお茶を」と始まる、引越屋も含めた打ち上げ。むろんこちらはよそ者、15分ほどで切り上げるのですが、「急須の入った箱はどこだ、お茶は、湯のみは」と、段ボールを片っ端から開ける姿に、なるべく早く会社にもどりたいのでと辞退し、「そのへんの自動販売機でジュースでも買ってこい」となるパターンです。終わったときのことを考えて、お茶会用の段ボールだけは目立つ箱にひとまとめにしておきましょう。

◆地平線に顔を出すからにはほぼ全員が、標準な日本人より地理に詳しいと思います。私もまた地理だけには自信がありますが、その知識を培ってくれた要因のひとつが、この引越屋での3年でした。むろん当時はカーナビなどありません。一方で私は(いまもなお)運転できません。ですから移動中のナビゲーションも私の仕事になり、乗車中は常に区分地図をながめながら、三つ目の信号左折、500mほど行って郵便局の角を右に、すると公園が右にあるので、そこを過ぎた2棟目の団地です、と誘導していました。おかげで東京圏内の道路網にも詳しくなれたのが、いまの自転車活動につながっています。[埜口保男

北の秘密基地「ちえん荘」に来れ!

■去る8月5日、遠軽町から上川郡の東神楽町に転入した。旭川と美瑛に挟まれた人口1万人ほどの自治体だ。今月で新聞記者を退職する相方が、旭川にある家具作りの職業訓練校に通うのに合わせての引っ越しだった。格安でレンタルしたハイエースで高速をピストンし、1日半かけて荷物の移送がひと段落したころには、走行距離は800kmに及んでいた。新居は閑静な住宅地に立つ一軒家で、夜に居間に接したテラスに腰をおろすと、町の中心地にもかかわらず流れ星が見えた。

◆北大探検部時代、大学構内に部室を持てなかった我々は、学生街に借り上げた一軒家を部室兼住居として使っていた。その様式は四半世紀ちかく続いたのち、街の再開発による立ち退き要請の波に洗われ、いまではただのガレージに共同装備を収納しているだけになっている。札幌市内の戸建てが次々と高層マンションに代わり、不動産屋に家屋の管理が委託される時代に、学生だけで借りられる一軒家を探すのは困難になった。資料や報告書を読み、語り合う、「場」としての部室は消滅した。それでも、引っ越すたびに「部屋に愛称をつける」習わしは引き継がれ、現在のガレージは「NIMBY窟」と部員に呼ばれているらしい。

◆私もいまだにその慣習を引きずって、東神楽の借家には「ちえん荘」と命名した。速さや効率が重視される世間の風潮に抗う意味での「遅延」、その土地の関係を大事にして生きたいという意味での「地縁」、生活の知恵を学び実践する学び舎という意味での「ちえん(知恵の)」、などの漢字が当てはまり、音の響きとしては、山仕事に必須の「チェーンソー」がかかっている。住民票に建物名も記載するよう役場職員に懇願する私に、相方は呆れ気味だった。

◆かつての部室が、北海道を訪れる旅人や山系の部員にとってのサロンの役割を担っていたように、新居もそういう場として活用してもらえればと思っている。かつて探検部の仲間と夢想した、探検や旅について語り合える秘密基地のような空間を作りたい。そんなことを考えた今回の引っ越しであった。[五十嵐宥樹

11回の引っ越しの末、決め手は「地盤の硬さ」

◆小学5年生と地図帳を開いて「どこに行ったことがある?」「どこに住んだことある?」と話しながら、都道府県名を覚える学習をした。

◆子どもたちは「Dランドに行ったことがある〜」「東京に行った〜」ととてもうれしそうに話す。わかる! 田舎の子どもにとって、他の県に行くことはまったく違う世界に行くことなのだ。7月25日付地元紙(信濃毎日新聞)によると、俳優の渡辺謙氏は栗林忠道中将の墓参りをした際『彼が抱いたであろう、山の向こうへの冒険心や探求心が、山の中で育った僕にはすごくわかりました』と書いている。まさしくそうなのだ。子ども心に「この山の向こうには」「谷を越えたら」といつも思っていた。

◆「私は……」と数えて、気づいた。なんと11回も引っ越しをしていた。

◆初めての引っ越し先は京都・六波羅の町家の2階。人の話す言葉と関西人のノリがわからず「大変なところに来ちゃった」と不安になったことを覚えている(15年後また機会が訪れたので、長野−京都は2往復している)。

◆京都から戻り、最初の赴任地は標高千メートル弱にある分校。「手をつなぎ長野に呼ぼう冬季五輪」と大きな立て看板が立っていた。まさか〜こんな山奥に来るわけないでしょ!っと思っていた。しかし、それから10年後、なんと本当にオリンピックはやってきた。それはものすごい衝撃だった。それまで「ここから出て行くこと」を考えていた者の前に、向こうから違う世界がやってきたのである。「僻地」とされていた土地に「海外の人々」が押し寄せるとは……。こんなことあるだろうか?と。

◆20年以上経ち、分校は休校。すぐ近くにあり退勤後や休日に通った、金メダリストを生んだスキー場は昨シーズン限りで閉鎖となった。来るときは華々しいのに密やかに去る。時の流れとはそういうものなのかも。

◆それからは異動に伴う引っ越しの日々。次の地は選手村のあったところ、そしてその次はつい1か月前まで陸上や水泳の選手が高地合宿を張っていたプールのある、ツツジのきれいな地である。

◆11回の引っ越しを経て、今は善光寺門前表参道と称するところにいる。決め手は、京都・御所南で体感した地盤の硬さにあった。[南澤久実


先月号の発送請負人

■地平線通信507号(2021年7月号)は、さる7月28日の水曜日、印刷、封入作業をし、その日のうちに新宿局に託しました。印刷・発送作業をする新宿区榎町地域センターがコロナワクチン接種会場となったため、月末近くの発送となりました。報告会は相変わらず開けませんが、通信は今号も多彩活気に溢れた内容であると思います。書いてくれたすべての皆さんに感謝!
◆今月は以下の8人が集まってくれ、助かりました。
 森井祐介 車谷建太 中嶋敦子 白根全 伊藤里香 江本嘉伸 久島弘 武田力


通信費をありがとうございました

先月の通信でお知らせして以降、通信費(1年2000円)を払ってくださった方は以下の方々です。カンパを含めて送金してくださった方もいます。地平線会議の志を理解くださった方々からの心としてありがたくお受けしています。万一、掲載もれありましたら必ず江本宛て連絡(最終ページにアドレスあり)ください。送付の際、最近の通信への感想などひとことお寄せくださると嬉しいです。

光菅修 一柳百(6000円 コレカラモ コツソリフアン デ イサセテクダサイ) 恩田真砂美(10000円) 永田真知子


東日本大震災、そしてコロナ。緊迫した2度の引っ越し

■これまでに経験した引っ越しは計3回。進学で大阪から香川へ。就職で香川から千葉へ。結婚して千葉から喜界島へ。人生の転機に引っ越しがあった。引っ越しといえば業者探しが困難な印象がある。

◆2011年3月。就職で関東行が決まっていたが、社宅の連絡が会社からこないまま3.11がおきた。それでも社宅連絡がこず翌週末にやっと行先がわかり、そこから引っ越し準備。もちろん、関東まで行ける業者は見つからない。ガソリン不足や物資を東北へ運ぶためトラックが少なくなっていた。

◆3.11の未曽有の事態の最中で、こんな時期に就職のためだけに移動するべきなのか……と思いつつも会社は出社の日程の変更もないとのことで、何軒も業者に問い合わせし、やっと条件付き(荷物が予定の日には届かず、どこかで待機させる)で荷物を出すことができた。結局3月31日ギリギリで荷物を千葉に搬入した。TVで見る関東はまさに緊急事態最中で自分の移動も気が引ける。心落ち着かない3月だった。

◆それから10年後の2020年4月、結婚を機に鹿児島県喜界島へ引っ越すことに。今度はコロナウイルス最中の引っ越し。コロナがまだ未知のウイルスでジワジワ東京に広がっていた頃だが、コロナ問題よりも、そもそも単身の少量の荷物を離島へ運ぶ業者が見つからなかった。

◆長年使った家具類は廃棄かリサイクルし、運ぶものは衣類と細々したものだけ。離島専門の業者があると聞き、問い合わせたところ「うちはコンテナ輸送からなんで、高く付きますよ」と数十万かかるとの回答……。結局、断捨離して「ゆうパック」ですべて荷物を送ることにした。「こんな時期に島に入ると嫌がられそう」「荷物に菌が付いているといわれているしそのまま越していいのか」などとモヤモヤしつつ4月頭の一度目の緊急事態宣言中に移動した。

◆荷物をすべて搬出した千葉の家を最後に見渡すと、がらんとしていて10年自分の家だった感覚がなくよその家の気がした。もうここに帰ることはないんだと思うと、貸部屋にも関わらず寂しい気持ちになって、記念に部屋の写真を撮った。

◆先月無事に引っ越しを終えた江本さんは引っ越しの日、42年住んだお部屋をどのような気持ちで見渡しましたか。江本さんだけでなく、沢山の人が往来し会議や話し合いが行われた部屋。また皆の憩いの場。沢山の人がこの引っ越しで思い出すことがあると思います。私も、あのお家のお掃除要員としてまた伺えないのが寂しいです。

◆次、私が引っ越すのは島を出るとき。子供も生まれ、家族とモノが増えての移動。今度の引っ越しは家よりも島を出ることがとても寂しい気持ちになりそうです。[うめ 日置梓

■追伸◆8月11日ついに喜界島でもコロナ患者が確認されました。翌日に3人が感染。8月13日にはさらに15人と気が付けば合計19人の感染が確認されました。流行りのデルタ株が確認されているとのこと。今、濃厚接触者の感染確認が進んでいて恐らくさらに増えるのではと懸念されます。島は65歳以上のワクチン接種はすんでおり、そのお陰か偶然なのか現在感染者は50代以下に留まっています。島内で治療等できる施設はなく島外での治療になります。緊急時はドクターヘリか自衛隊のヘリが飛びますが、本土と違って直ぐに病院で対応することはできません。感染者の体調が急変したときを考えると恐ろしいです。

◆人口6,794人の小さな島で昨年12月に単発で感染者が確認されたきり、これまで1人も確認されていませんでした。そのためマスク等感染対策はしていましたが、生活形態は平常とあまり変わらず、スポーツや文化活動、交流会等は開かれていました。

◆夏休みの帰省と観光で持ち込まれたものがいつの間にか広がっていたのだと思います。静かに広がり、気づいた時には身近に迫っている。コロナの恐ろしさが離島まで迫ってきています。

38年に24回の引っ越し!

■私は高校卒業後、北は札幌市から、鹿児島県肝属郡高山町、インドネシア共和国ジャカルタ特別区(JICA派遣専門家)までの13都道県を、38年間で24回引っ越しをしました。国家公務員だった32年間に15回転勤し、ほぼすべて転居が必要な勤務地だったため、職場の事情により14回は官舎への引っ越しでした。

◆自分の意思に関係ない時期と場所に、またその多くが誰も知っている人がいない任地と職場に赴任し、決められた官舎等に暮らしました。役人は「ところてん式」の人事異動ですから、辞令交付後、すぐに官舎を空け、前任者が住んでいた官舎に引っ越さなければなりません。10日前の内示後、業務のとりまとめと新任地の引き継ぎだけでも忙殺されますが、引っ越しを伴うと徹夜の日々でした。

◆各地で職場の同僚などに手伝ってもらいながら、「夜逃げ」のように、とりあえず段ボールに詰めてトラックに積込み、新任地での荷物の取出し・整理もたいへんでした。転居に伴う住民票や電気・水など事務手続きには、多大な労力・時間・費用がかかり、何回やっても、引っ越しは上手にはなりませんでした。[花岡正明

引っ越しは自分を見つめるいい機会

■高山から茅ヶ崎に引っ越しました! 今日(8月10日)で6日目、ほやほや! モノが多いので、引っ越しはかなり大変。でも、面白い経験でした。

◆準備は1年以上前から始めました。というのも、高齢の母が一人暮らしできる環境を整えなくてはならなかったから。家の改修工事、訪問看護師さん、ヘルパーさん、移動スーパー等々。福祉サービスを知ることは、いつか迎える自分自身の老後にも役立ちそうです。

◆実家暮らしからアパート暮らしになるので、持ちモノをひとつひとつ確認して取捨選択。何に興味を持って、誰と交流して、どんな本を読んで、何を聴いて、何を収集してきたのか。高山で暮らした22年間を振り返り、自分を見つめる本当によい機会となりました。

◆狭くても、旅先で手に入れた器や雑貨、お気に入りのオブジェたちとは一緒に暮らしたい。織りの道具と材料も必要。必要なモノって、変わっていくのですね。大切な本の大半は実家に置いていくことにしました。そして、持っていくモノたちをもっと大切にするつもりです。

◆長い引っ越しを経て、新しい生活が始まりました。海の近くで、同居人在り。いろんな「初めて」を愉しんでいこうと思っています。[ナカハタトモコ(茅ヶ崎市在住)]


今井友樹さん、楮(こうぞ)に挑む

■2018年9月、「オキのサキと飛べ」で473回地平線報告会をやった今井友樹さんが新たな映画制作に打ち込み、新作ドキュメンタリー映画『明日(あす)をへぐる』(73分)を完成させた。18年の報告会ではカスミ網猟がテーマだったが、今度は和紙の原料となる「楮(こうぞ)」作りに打ち込む老婦人たちがテーマ。

◆「へぐる」とは、和紙の原料作りの工程の一つで、刈り取った楮の枝を蒸して、皮をはぎ、はいだ皮の外皮部分を包丁で削りとる作業のこと。それを土佐弁で「へぐる」と言うのだそうだ。「彼女たちは楮の外皮を何度も何度も削り落とし、白い繊維部分だけを残していきます」と今井さんは言い、続ける。

◆「楮が和紙の原料になるまでには、へぐったのちに、煮る、水にさらす、チリをとる、叩いて繊維一本一本に解す、といった長い工程があります。中でもこのへぐる工程は、機械ではできず、皮の1枚1枚を丁寧に手作業で行う必要があります。僕はこのへぐる作業を見ながら、不思議に心地良くなっていくのを感じました」

◆「女性たちの手わざや佇まいから、世代を越えて受け継がれてきた山里の暮らしが見え隠れするからかもしれません。そして手を動かしながらも口を動かすことを忘れない彼女たちの体験談に、僕はすっかり魅了されてしまいました」

◆「大体一つの皮をへぐるのに5分ほど。一皮一皮削るたびに、自分が嫁いでいたときの話、夜なべ仕事の苦労話、家に電灯が点いたときの話、道路がアスファルトに変わったころの話、などなど90年に及ぶ山里の暮らしがとめどなく語られるのです」

◆皆さん、ぜひ東中野に行きましょう!

 ドキュメンタリー映画
  『明日をへぐる』(73分)
  9月11日(土)公開
  監督:今井友樹/シグロ作品
  場所:ポレポレ東中野
    (JR東中野駅西口改札北出口から徒歩1分)
     https://pole2.co.jp

   ★     ★     ★

■『明日をへぐる』公開記念特別上映として、『明日をへぐる』と同じ高知県吾北地区で撮影した東陽一監督のベルリン国際映画祭銀熊賞受賞作『絵の中のぼくの村』と今井友樹監督の前作『鳥の道を越えて』を特別上映します! この機会にぜひご覧ください!!(E

 長編記録映画
  『鳥の道を越えて』(93分)
  9月4日(土)〜9月10日(金)16:40より1日1回上映
  監督:今井友樹
  場所:ポレポレ東中野


けもの道とひとの道

岡村 隆 

第8回(最終回)

■NPO設立後、最初の本格活動となった2010年のスリランカ密林遺跡探査には、私の呼びかけに応じて法大OBらのほか、5つの大学から探検部員学生が集まった。ほかにも日本観光文化研究所以来の先輩で、1972年のアフガン行を共にした西山昭宣さん、その教え子で、のちにイザベラ・バードの『日本奥地紀行』を漫画化して『ふしぎの国のバード』を描くことになる早大生の佐々大河、青年海外協力隊などで活動してシンハラ語に堪能な小学校教師の松山弥生さんらがいた。

◆68歳から19歳まで、多様な職業や立場の14人が集まり、スリランカ政府考古局の4人を加えてマハウェリ川中流左岸の密林に踏み込んだ姿は、まさにNPOの「広く一般市民の力を集めて南アジアの未発見遺跡を探検調査し」「国際協力の新たな形を追求する」という設立趣旨に適っていたが、その態勢のまま最後まで走れなかったのは残念だった。最奥の村の学校で、住民を集めて遺跡保存の大事さを訴える啓蒙活動をしたほかは、4か所の小規模な寺院遺跡や水利遺跡を発見したところで時間切れとなり、休暇利用の社会人隊員は帰国しなければならなかったのだ。結局、この隊が最後に遭遇する大規模で重要な「スドゥカンダ寺院遺跡」の発見と測量調査は、私と7人の学生探検部員の手に委ねられ、その私も、調査途中で学生らに手順と方法を指示して帰国しなければならなかった。

◆月刊誌編集長職の辞任を機に、強引に休暇をもらって臨んだ密林遺跡探査だったが、やはり十分な成果を上げるには1か月では足りなかった。そのことは仕事に復帰した私に大きなわだかまりを残し、定職を持ちながら本格的な探検を志すことの難しさや、人生上の意味を改めて考えさせられた。会社では、従来やっていた単行本の編集のほかに役員としての仕事が加わり、街道憲久が社長を退職してからは責任も増していた。さらには、この直後から「家庭の問題」が一気に押し寄せるようになった。田舎で施設に入れた父の病状に伴う介護と、実家で訪問介護を受けながら一人で暮らす母の世話、草が茂り、荒れていく家の管理で、短期の九州帰省を繰り返さねばならず、父の死、子供たちの結婚、母の施設入居と、気持ちを奪われる事態が相次いだ。

◆しかし、その間にも自身が途中リタイアした「スドゥカンダ遺跡」の全貌解明には使命感を感じて、2011年には前回隊員で考古学を専攻する東海大探検会の菅沼圭一朗をリーダーに、8人の学生隊(関西を含む6大学の探検部員)を現地に送り、継続調査に当たってもらった。菅沼らは期待に応えて奮闘し、遺跡の一部が水上伽藍だったことを証明する古代ダム湖の堤防跡を発見するなど、大きな成果を上げて帰国した。また2013年にも東海大探検会の松原晃太ら5人(東海大と法大の探検部員)が周辺の探査を継続し、この地域で課題とされた未踏査部分を踏査して、ひとつの地域プロジェクトに区切りをつけてくれた。これらはいずれも、私が現地考古局と文書や電話で連絡をとり、合同調査の形にして実施したもので、自身が現地に行けない場合、こうした方法での探検の進め方、関わり方があるということを改めて認識した次第だった。

◆さて、2016年に私は67歳になり、役員定年の年を迎えた。本来なら退職して自由になり、いつでもスリランカへ行けるはずだった。ほかの仲間や若い学生たちに任せた、といっても探検の主体はあくまでも現場で行動する人であり、ベースキャンプに陣取る登山隊長のようなことさえできないのでは、自身を探検家と称することはできない。じつは松原らが地域課題に区切りをつけてくれた翌年の2014年以来、私には狙っている場所があった。これまでは周辺を探査したことはあっても、許可の関係で核心部には踏み込めなかったスリランカ南東部のヤラ国立公園である。立ち入り規制の厳しさから、20世紀初頭の探検家や狩猟家が記録を残して以来、情報が極端に乏しく、「最後の考古学的空白地帯」と呼ばれてきた場所だ。ここへ何とか入り込めないか、入域を管理する自然保護局から許可を取り付けるべく、考古局を通して交渉を始めていた。そして、その交渉を進めるためにも偵察を兼ねて何度か渡航する予定だった。ところが……。

◆私は、ここでもまた迂遠な「けもの道」に踏み迷ってしまったのだ。定年退職の日を迎えたというのに、抱えていた仕事が終わらず、私は契約で会社に繋がれた。抱えていたのは、関野吉晴と山極寿一・京大総長の対談本の編集だった。当初は企画にNHK 対談番組も相乗りさせてくれといってきたディレクター大島新(早大探検部OB)の申し出を了承し、放映の後は一気に仕上げて刊行する予定が、さまざまな理由で進まないまま定年の春を迎えた。して、その間には次の隊の組織など定年後を見据えた遠征の準備も進んでいた。さらには、とりあえず退職の区切りにと思って交渉に出かけたスリランカで、入域許可が取れそうな感触をつかむと、準備は一気に加速してしまった。その結果、事情を知った関野が「本の刊行は遠征後でもいいよ」と言ってくれたのをいいことに、私は仕事を放り出して遠征に出てしまったのだった。

◆好事魔多しとはいうが、2016年夏のこの遠征はうまくいかなかった。考古局の努力もあって難しい許可を取りつけ、日本からは遺跡発掘を生業とする法大OBの境雅仁ら19人もの隊員(うち15人が5つの大学の探検部員)とスリランカ側から7人のベテラン隊員が乗り込んだというのに、有棘植物の密生するジャングルの下生えに阻まれ、野外活動新人の多い日本側隊員の力量不足も相まって、目的としたタラグルヘラ山の遺跡には到達できず、探査は見事な失敗に終わった。これには、仕事との絡みで中途半端な姿勢のまま準備に臨み、隊の構成などを熟慮しなかった私の責任が大きく、私は出直しを誓って帰国せざるを得なかった。

◆帰国後は、もちろん、失敗を挽回するための次の遠征準備に着手した。だが、その準備を本格化させるためにも、引きずってきた仕事に決着をつけなければならない。関野と山極さんの対談本がここまで遅れたのは、これが私の編集者人生最後の仕事だ、と思って、力を入れすぎたせいかもしれない。だからだろう、構成や原稿のリライトをもう一度最初からやり直したため、結局はその後も1年余りの時間がかかって、2人には迷惑をかけた。ことに山極さんは、2017年の暮れも押し迫ってから送付したゲラを、正月返上で朱入れしてくれ、おかげで2018年3月に『人類は何を失いつつあるのか〜ゴリラ社会と先住民社会から見えてきたもの』を世に送り出すことができた。私は編集者を卒業し、会社から解き放たれた。

◆2018年6月、私はスリランカ考古局のバンダーラ探査主任とともに同国ヤラ国立公園入口のガルゲーという村にいた。国立公園を管理する自然保護局の責任者がいて、8月の本格探査への協力を約束してくれた。対談本の原稿リライトが一段落した前年秋から本格化していた遠征準備は、これで弾みがつき、一度帰国した私は8月、8人の仲間とともにここへ舞い戻った。若手考古学者を含む社会人4人と学生5人の隊だった。学生はいずれも前回隊員だった日大、拓大、法大の探検部員。考古局からはバンダーラ以下、写真課長や遺跡修復課の図版担当主任らベテラン勢が加わった。そして結果的に、この隊で目標だったタラグルヘラ山の大寺院遺跡の発見と測量調査は達成された。

◆約100年前に英領セイロンの陸地測量隊が偶然に発見し、地図にも載せながら、その後は誰にも確認されず謎のまま密林の奥に眠っていた寺院遺跡を、再発見して伽藍配置図まで作成できたことは、スケールは小さいながらも、いかにも探検らしい探検のありようだったとして私は満足だった。自分らの探検が地味と見られることも、局地的なものに過ぎないことも自覚していた一方、これが日本仏教の源流を遡る試みであり、世界仏教史の未知の部分の解明に関わる大仕事だということも自覚していて、そこにまた一里塚が築けたと実感したからだった。しかし、そうした思いすべてを含めても、この発見を機に、私の学生時代からの取り組みにまで遡って植村直己冒険賞が授けられたのは、心底、意外なことだった。

◆植村さんは縁ある人で、尊敬する登山家・冒険家であり、同様に行動と思想の純粋さ、高度さから尊敬する冒険家は周囲にも多い。自分では決して近寄れぬ世界の人たちとして、私はアマチュアの、それも局地的な探検家に過ぎない自分を彼らとは区別していた。しかし、そうした思いを昔から十分に知る某氏らが私を推し、選考委員では編集の仕事で迷惑をかけた山極寿一さんが最も強く押してくれたらしい。私は「冒険家ではないが、それでもいいのか」と確かめたうえで、これまで活動を共にしてきた多くの仲間の代表として、ありがたく賞をいただくことにした。そして、それを励みとして自分の探検をさらに推し進めようと決意した。受賞の年(2019年)は行事や講演で時間がとられるだろうが、その翌年からは毎年長期の遠征を繰り返す予定で、その計画も練っていた。だが……。

◆周知のように2020年が明けてすぐ世界に広まったコロナ禍は、いまだ人々の行動を縛り、私もまた大きな足踏み状態にある。その間には母も亡くなり、大事な友人らの死もあって、人生上の喪失感は抱きながらも、さまざまな呪縛から解き放たれて、学生時代以来の自由な感覚で探検に邁進できると思った矢先に、こうなってしまった。それでもいま、立ち止まって思えば、コロナ禍は私に、「疫病を一因とする古代シンハラ文明の滅亡」という自身の研究テーマへの実感的な考察を深めさせてくれた。また、立ち止まって振り返ることで、迂遠な回り道だらけではあっても、若い日に宮本千晴さんから言われて最初の報告書でも決意表明した「この探検を続ける」という基本線からは外れずに生きてきた道筋が見えてきた。それもこれも、これまで書いてきたように、出会った人々の助けあらばこその経緯であったことは言うまでもない。

◆才あらば、そして、もっと思い切りのよさや勤勉さがあれば、「けもの道」などに踏み迷わない、異なる発展もあっただろうが、これが私の、やや情けない現状報告である。夢と現実の相克に悩む若い人や、「生活」に縛られながらも人生の夢を手放さずにいる人たちに、なにがしかの参考になればと思って書かせていただいた。ありがとうございました。(おわり)


あとがき

■訃報は覚悟していたとはいえ、ごんのさよならは、こたえた。ごんは、行くたびに私と浜辺を走った。あいつがいることがどんなに私を浜比嘉島に引きつけたことか。遠くからごん、と呼ぶと身体中で反応してくれるのだった。最後に散歩したのはおととしの暮れだった。ごん、またを会おうな。

◆フロントで書けなかったこと。私はスリランカ人女性、ウィシュマ・サンダマリさん(当時33歳)が3月に死亡した問題が気になって仕方がない。出入国在留管理庁は12日、ウィシュマさんが映った施設内の監視カメラ映像を遺族(ウィシュマさんの妹たち)に開示した。遺族側は「動物のように扱われていた」と感想を述べた。ある程度ご存知と思うので詳細な経緯は省くが、日本でそんなことが行われているのか!と思うほど無慈悲で残酷なことだ。

◆日本はしばしば嘘がまかりとおる。桜の会など一連の出来事は常に曖昧にされそうになり、時にその犠牲者が出る。アフガニスタンとは別な意味でウィシュマさん事件は注目していてほしい。

◆地平線報告会、当分開けそうもないが、何か工夫はできないものか。とにかく「密」はノーだから、のんびりしたアイデアで。[江本嘉伸


『水の道を歩くの巻』(作:長野亮之介)
表4 イラスト 安心安全の巻

《画像をクリックすると拡大表示します》


■今月の地平線報告会は 中止 します

今月も地平線報告会は中止します。
会場として利用してきた新宿スポーツセンターが再開されましたが、定員117名の大会議室も「40名以下」が条件で、参加者全員の名簿提出や厳密な体調管理なども要求されるため、今月も地平線報告会はお休みすることにしました。


地平線通信 508号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2021年8月18日 地平線会議
〒183-0001 東京都府中市浅間町3-18-1-843 江本嘉伸方


地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp(江本伸方)


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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