2022年9月の地平線通信

9月の地平線通信・521号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

9月28日。朝7時の気温は20度。新聞を取りに行くと空気がひんやりしている。ああ、秋がほんとうにきたのだ。きのう27日は、7月、選挙応援中に狙撃され、69才で逝った安倍晋三元首相の「国葬」だった。世界各国からの賓客を含め4100人が日本武道館に集まり、故人をしのぶ模様をテレビ中継で見た。

◆19日、世界を静かな感動に包み込んだイギリスのエリザベス女王(96才で崩御)の国葬は素晴らしかった。比較してはいけないが、これほどの「国葬反対」の声の高まりの中での強行である。なんとか無事終わってくれ、というのが本音だったが、セクハラ問題を指弾され、「安倍狙撃」の原因でもあった「世界平和統一家庭連合(旧統一教会)」と深い関わりを持つらしい細田衆院議長が弔辞を読み始めた途端、やはりダメだ、と思った。菅前首相の愛情あふれる弔辞はよかったのに、どうしてこんな無用人が……。

◆ウクライナではロシアのプーチン政権による「編入」が強引に実行されようとしている。ウクライナの東部や南部の支配地域でロシアへの一方的な編入を狙った「住民投票」が実行され、27日までに東部のドネツク州とルハンシク州、南東部ザポリージャ州、それに南部ヘルソン州のすべてで「開票」作業が終了した、とロシア側メディアが伝えた。

◆いずれもロシアへの編入に「賛成」する票の割合が80%から90%に上り、「反対」を大きく上回ったと伝えているが、対する西側国際社会はこれを認めない方針だ。2月24日のロシア軍の侵攻からなんともう7か月を過ぎた。慣れない手つきでWikipediaロシア語版をたどる日々である。テレビで「戦争反対」と大書した紙を放送中の番組で流したオフシャンニコワさんはどうしているのか、などなど。今度わかったこと伝えます。

◆明日9月29日は日本と中国が国交回復して半世紀となる節目の日だ。1972年のこの日、日本の田中角栄首相、中国の周恩来首相が合意書に署名し、断絶していた両国関係が正常化された。日中国交回復されたこの日は私には個人的な思い出と重なる。世界の動きを追い続ける自分の「眼」がいい加減であると思い知らされた現場でもあるからだ。

◆9月29日の2週間前、私は北朝鮮取材のため平壌にいた。そこまでの道のりが長かった。羽田から香港に飛び、鉄橋を歩いて渡り、中国大陸へ。ここから列車で北京に向かう。広州あたりの水田に角の長い水牛たちが珍しかった。さらに鴨緑江を渡って平壌に向かった。平壌滞在中にミュンヘンオリンピック選手村でパレスチナ人の釈放を要求する事件が起き、東京に電話がつながったとき、様子を聞いた。その間に日中国交が回復し、帰路は香港ではなく羽田に直帰できた。まだ航空協定が締結される前で日本の飛行機は飛べず、エールフランスかノースウエストの便と記憶している。

◆北京での短い滞在で中国の貧しさを思い知らされた。朝、街の中を散歩すると人々は洗面器のような大きなお皿にご飯も汁も盛って食べていたりした。天安門通りは人民服姿の男女(みんなが同じ服装でいることの異常さ!)の自転車が横一線の列になって走り、この通りが車で埋まることはあるのだろうか、と考えた。

◆幼い頃から横浜のつましい家庭に育ち、自分も貧乏暮らしをしてきたはずなのにこの時点ではこんな貧しい中国が日本に並ぶ日などこないぞ、と本気で思っていた。その確信があっという間に崩れ、いまや中国の経済力に一気に引き離されそうな日本である。

◆9月19日は、敬老の日だった。2022年9月1日時点の住民基本台帳に基づく100歳以上の高齢者の数は前年より4016人増加し、9万526人となったそうだ。100歳以上人口の増加は52年連続という。経済力はともかく世界有数の長寿国となった日本。100歳以上は圧倒的に女性が多く、全体の89%なのだそうだ。

◆私もまもなく82才になる。年寄りが漫然と生きていていいはずがない。とりあえず、できるだけ医療に関わらないで済む日々を送ろう。先月も書いたように小さな山や川の流れに恵まれたいまの住まいの利点を活かしてとにかく弁当を持ってよく外に出る。かなりの雨でも風でも歩くことにしている。

◆単に歩きまわっているわけではない。とにかく森とか草はらとか小川とかに身体が惹かれていく感じなのだ。その結果、プロ登山家、プロ冒険家という肩書きにならって我が家では「プロ徘徊師」が私に与えられた呼称だ。

◆最近知り合いに江本さん、iPhoneで運動の状況は正確にわかりますよ、と教えてもらった。携帯は常に持ち歩いているので毎日の歩数はすぐに出た。去年1年の平均歩数は7540歩だったが、ことしはなんと倍の14120歩になっている。そういえば今は台風でもなんでも2時間以上は歩いているかもな。

◆ついに数字を自慢するおばかな年寄りになったか、と言われそうだが、すみません。何か新しいこと見つけて報告します。[江本嘉伸


地平線ポストから
2022年 私の夏山

雲ノ平で体験したこと

■東京生まれの東京育ちの私の両親の故郷は北陸富山だ。小学生のころは両方の祖父母の家で夏休みに親戚が集まり入善ジャンボ西瓜を食べたり、冬休みに積雪で2階から出入りしてソリ遊びをした想い出がある。小学生のときの初めての登山も立山だった。

◆母は45才で父は67才でこの世を去り、この5年ほどは墓参に行くと言って1人で北アルプスに入るようになった。大学時代にワンゲル部に2年だけ所属していたことはあるが、団体行動が苦手だし体力ないへたれなのでドロップアウトした私を山に向かわせたのは、薬師沢小屋で年間半分働いてるイラストレーターのやまとけいこさんと彼女の描いた絵との出会いだろう。年は15歳も離れているが、共通の旅の思い出が重なる。

◆世界中を旅してる彼女が一番好きな場所だと言う薬師沢に何としても行ってみたくなって5年前に訪ねたのが最初だった。今年は3回目で、夜行バスで5時半に富山駅到着後、6時発の折立行きバスに乗り継いだ。いつもは新宿発最安値2500円以下のバスで行くが、眠れないと登れないので、三列シート4000円のバスを奮発した。

◆富山駅から折立登山口までバスで2時間。富山駅は予報通りに雨だったが、山が近づくと青空が見えて晴れてきた。4月にやまとけいこさんの原画展で出会った『雲上と谷底』というタイトルの絵は薬師沢小屋から赤い吊橋とイワナが泳ぐ黒部源流、そして標高差約500mの急登を登り詰めたアラスカ庭園から続く木道の先に雲ノ平山荘までが描かれている。

◆特に素晴らしいのは岩苔ゴロゴロの厳しい急登が雲で隠されているところ。此処ってどうなってるんだろうね? やまとけいこさんはニヤリとして「高世さん登ってみればわかりますよ」と言う。雲ノ平山荘は自然とアートの取り組み『アーティスト イン レジデンス』をしていて前から行きたい場所だった。東京根津で開催された展覧会にも5月に行き、雲ノ平山荘の伊藤二朗さんにもお会いして話を伺った。

◆「僕は簡単に来てくださいと言わないことにしてるんですよ…」と。そんなこと言われるとますます行きたくなった。薬師沢小屋から急登を雲ノ平山荘へ、その先の高天原山荘、その先にある高天原温泉に入り、大東新道の沢を下り、黒部源流をへつって薬師沢小屋に戻る4泊5日の山行計画が決まったのだ。

◆初日の夜の出来事は書き留めておかなければいけない特別な体験だった。折立から8時半にスタートした樹林帯の登りに苦戦して三角点1870mで脚がパンパンになり攣る。ベテラン70代7人グループから「速効性があるからすぐ飲みなさい」と芍薬甘草湯を頂く。ありがたい。そのときに太郎平小屋はコロナで閉鎖して泊まれないこと、食堂も営業してないことを知る。

◆五光岩ベンチ2196mで予備に朝コンビニで買った梅おにぎりを食べようとするが、疲れで喉を通らない。太郎平小屋2,330mに着いたのが14時半。登山計画書を提出して15時出発。薬師沢小屋には17時半過ぎる旨を無線で連絡してもらう。

◆さぁ、あとは下りだ! 何回か沢を渡渉して、さっきのベテラングループに追いつく。まだ17時前だ。追い抜くのもなんだしなぁと、ちょうど湧水があったのでザックを下ろして、沢水を汲み、首に巻いてた手拭いを冷水で洗い顔を洗い、ついでにショートカットにした頭に水をかぶる。さらにズンズン歩く。

◆しばらくして沢を渡渉した時に、さっきも通った橋のような気がして、もしかしたら休んでから反対方向に歩いてしまったのかと休んだところまで戻る。やはり間違ってない。そうだ、一本道なのに間違う訳ない、落ち着け落ち着けと歩き出す。18時過ぎ。深い谷なので電波がないから電話もできない。一瞬、薬師沢小屋の赤い吊り橋が見えたような気になって「おゝい、おゝい」と呼んでみる。そのうち闇が下りてくる。ヘッデンを点ける。

◆このまま闇雲に歩いて沢や崖に落ちたら大変なことになる。ここはカベッケヶ原のベンチに戻ってビバークして体力温存した方が良いと最近読んだ遭難記事を思い出す。コロナでインナーシーツを持っていたから、ダウンと持っていた長袖と雨具を着て、靴を脱いでベンチの上に横になって、初めて満天の星空に気がつく。インナーシーツから顔だけ出して見上げた天の川がこの世のものとは思えない美しさだ。晴れていて助かった。

◆夜の山谷の気配に包まれ、疲れ果てていつの間にか寝ていた。21時過ぎに強い光と「タカセさんですか?」と言う声で目覚める。薬師沢小屋のやまとけいこさんとスタッフのk君が迎えにきてくれたのだ。「怪我してないですか? お腹空いてないですか??」

◆ゴロンと隣に横になったやまとけいこさんは空を見上げて「久しぶりに星空を見た」と言った。「ここは気持ちいいけどカップ麺を食べたら小屋に行きましょう」と。満天の星空の下、食べたカレーヌードルは忘れられない沁み入る美味さだった。ヘッデンを点け3人で歩く山道でやまとけいこさんは何回もかがんで、トカゲやカエルや私には見えない生き物に話しかけて救出してる。そして何よりも私が救出されたのだ。

◆22時半、懐かしい赤い吊橋の小屋に着いた。歩きながらずーっと飲みたかった沢水で冷えたコーラを一気に飲んだ。「明日雲ノ平に私行けるかしら?」と呟いたら「行けますよ!!」いつも通りのやまとけいこさんの声が返ってきた。「朝ごはん5時ですからね。おやすみなさい。今日昼寝する時間があったのはこれだったか」と笑ってる。

◆行けば行くほど北アは特別な満足感や発見をくれる。地図を広げて今回歩いたルートを見ると、私の左手の中に収まってしまうほど狭い。どこのピークも踏んでないが、雲ノ平と高天原と大道新道に這いつくばって行けたことが嬉しい。雲ノ平山荘で伊藤二朗さんに再会し、アート作品そのものの山荘と雄大な自然を堪能した。

◆高天原温泉に一緒に入った健脚ソロ女子2人との出会いも忘れられない。山で素敵なソロ女子に会うと嬉しくなる。ランプの小屋で偶然一緒になったW大山岳部の面々と下りた大東新道の沢も思い出深い。少し青春気分を味わった。筋肉痛はだいぶやわらいできて、打身のアザの色も薄れてきたが、山の日々の想い出は色濃くなる。

◆バテバテでもう二度と登れないのではと思ったことも都合よく忘れて、来年の山行コースを考えている懲りない64歳の自分に驚く。[高世泉

気がつけば登山人生

■自称“旅する主婦ライダー”の私。でも近年はバイク旅より登山が多め……!? その実態をお伝えしよう。独身時代からバイク旅が好きで、日本も海外もあちこち走ってきた。でも、実はバイクに乗り始めるとほぼ同時期に山にも登り始めている。一人旅の最中、天気が良いからと思い付きで登った開聞岳が、実に良かった。絶景の頂上も、登り下りの道もキラキラ輝いていた。それが山好きになった原点だった。だが、乗り始めたバイクはとても楽しく、山はバイク旅の最中に登ることが多かった。

◆例えば北海道ツーリング中に利尻、十勝、ちょっとがんばって大雪縦走など。屋久島は一周ツーリングだけでなく、中央部の山岳地帯は縦走した。バイクが縁で結婚した夫・隆行も、高校では山岳同好会に所属していた山好き。だから結婚後は夫婦でツーリングも登山も楽しむ生活に。夫婦で海外ツーリングにものめり込んだ。新婚旅行のグアテマラを皮切りに色々な国を走り、珍しい国だと、チュニジア、リビア、ミャンマーか。

◆さて、98年2月に結婚はしたが、3月から私は前々から計画していた、基本的に単独でバイクを主な手段とする“分割日本一周”の実行に踏み切った。合間に仕事や夫婦旅、親の病気、3.11のボランティア活動などもあり、終わったのは12年12月。

◆その翌年13年に夫と三浦半島にイチゴ狩りに出かけた際、「三浦富士」の登山口の看板を見つけ、何故か気になった。ネットで調べると、「郷土富士」なるものが日本に350くらいある。これは面白い!と、今度は郷土富士をターゲットにした登山が始まった。基本的に単独バイクで出かけて登る形。最初は本家の富士山だ!と、同年8月6日に登頂。過去にも登っていてこれで6度目だが、郷土富士を意識して登ったのは初だ。22年9月現在、登った郷土富士は75。

◆ここまでツーリングやバイク+登山の行動が多いように書いてきたが、16年から登山のみの行動が急に増えた。山に全集中するため、交通手段は車(登山口での車中泊は超便利)や電車が主となった。きっかけは、16年の春頃か、夫が「剱岳に登る!」と言い出したことだ。夫は剱岳にいつか登りたいとずーっと思っていて、今登らなかったら登らないまま人生が終わってしまう、とふと思ったとのこと。

◆この時夫は50才。うん、確かにそうかも。私ももちろん登りたい。この時点で夫の夢が私たちの計画に変わった。そんなわけで、今まで楽しいからと気楽に山に登っていた登山にトレーニング要素が加わり、少々難しめの山も意識して登るようにした。そして、その年の7月に剱岳登頂!! その充実感は最高だった。山頂では1時間ほどその感激に浸った。

◆そして、剱岳に登ったからもういいか、ではなく、もっと色々な山に登りたいね、と夫婦の思いが一致。その後も、休日ともなれば、次はどの山? と夫婦で盛り上がるように。機動性のあるバイクは、旅にピッタリの手段だし、走るだけでも楽しい。モンゴルの大草原を駆け巡り、氷河を抱くスケールの大きいカナダの山々の合間を通り抜け、オーストラリアの赤い大地を地平線目指してどこまでも走り続ける…その高揚感は極上だ。

◆だが、重いザックを背負い、一歩一歩進み、山の頂に立ったときの達成感は、バイクの高揚感とはまったく別次元だ。過程も、いい。真っ白なチングルマやピンクのハクサンコザクラなどが一面咲き乱れる高山植物の花畑に身を置くと、ここは天国かと思うほどの幸福感に満たされる。野鳥との出会いも嬉しい。キュートなエナガや、色は地味だがさえずりは天下一品のミソサザイに出会ってホッコリ。貴重な雷鳥だったらテンションMAX! あぁ、山っていいなぁ。

◆今年の6月以降夫婦で登った山は、甲斐駒、南陵ルートでの阿弥陀(松原尚之さんのガイド)、蓼科、浅間・黒斑、白山(御前峰)、権現・編笠、斜里岳、西穂など。西穂は今まで冬に3回登ったが、夏山としては初だ。

◆ここで冬山が突然出てくるが、実は冬山にも登るようになっていたのだ。きっかけは剱岳登頂の16年の秋、八ヶ岳の青年小屋に泊まったことだった。小屋のご主人、竹内敬一さんは冬山のガイドもされていた。竹内さんはエベレストに個人で登頂、そして長野県警山岳救助隊の隊長、国際山岳ガイド…と、とても信頼できる人なので、軽〜い気持ちで竹内さんとその冬、赤岳と西穂に登った。

◆そこから冬(雪)山の魅力にハマった。私達夫婦の実力で登れる雪山を探して登るようにもなった。例えば八ヶ岳の天狗岳や横岳、安達太良山、磐梯山、森吉山、岩手山、八甲田山、木曽駒ヶ岳など。今年のGWは残雪の鳥海山と月山に。

◆一年中山づくしで、ツーリング魂は消えた? いえいえ、今年の夫婦の夏休みは7年振りの北海道ツーリング。斜里岳はその最中の登頂だった。そんなこんなで、登山をメインにツーリング要素が久しぶりに加わった私達夫婦の夏が終わりつつある。[9月20日涸沢小屋にて。今日は奥穂に夫婦で登頂! もんがぁ〜(古山)里美]

35キロを背負って、山岳部3年生の夏山

■こんばんは! 地平線通信520号、とても面白かったです。以下、感想を送らせていただきたいです。あまり、まとまった言葉になりませんが、日々生活をしていては目の前のことで手一杯になりつい考えなくなってしまう、多くの問いかけが通信には詰まっていると感じました。この号を読むとなんだか、焦ります。

◆同世代の方が多かったからかもしれません。他方で、井口亜橘さんの「遺品整理の旅」も心に残るものの一つでした。資源削減やデジタルデータが重視される昨今の流れのなかで生きているからか、人の思いや情熱のこもったものが、そこに触れられる形であるということの意味を考えさせられました。改めて、私の知らない行動者がどれだけいることか、やはり地平線通信に出会えたことは大きいです。

◆遅くなりましたが夏合宿のことを少し、報告させてください。今年の夏山、前半の剱岳周辺で行った合宿では、8月19日に真砂沢BCから源次郎尾根、8月22日に剣沢BCから八ッ峰上半、と二つのルートから剱岳に登りました。以前の投稿で新入部員が10名!と報告しましたが、けが、コロナ、退部などが重なり、1年生1人、2年生1人、3年生4人での合宿となりました。ちなみに男性4名女性2名でした。

◆連日の雨もあってか雪渓の崩壊が早く、例年平蔵谷から下るところを、今年は別山尾根を通りました。長次郎谷の雪渓も状態が悪く、八ッ峰Cフェース、Aフェースの登攀はあきらめ、8月24日に室堂から下山しました。翌8月25日、後半の縦走には、白馬の栂池自然園から入山。担いだザックの重さは測っていないので体感ですが35kgくらいだったと思います。2年の男性1名と3年の男性1名、同じく3年の私、の3人パーティで後立山を縦走し、2年隊員は種池山荘から扇沢へ下山。

◆その後、私と同期の男性とで焼岳を目指していました。結局行けたのは奥穂高まででした。前半の合宿で自分の5日前から入山していたパートナーの疲労(自分も疲労していましたが)と台風の接近で9月5日に下山を決め(テントで台風を乗り越える果敢さはありませんでした)、涸沢、横尾を経由して上高地に下山しました。西穂高岳、焼岳まで行けなかったのではやはり物足りないと思いながら、縦走のなかでさまざまな登山者とすれ違い、山の登り方も捉え方も千差万別であることを知りました。これからできるだけ長く登っていきたいと思いはじめています。

◆そのこともあってか、先月号のなかでも猪熊孝行さんの文章も印象的でした。自分のなかで、そしておそらく多くの登山者にとって山岳気象のスペシャリストである猪熊さんですが、私は猪熊さんご自身の経歴などは存じ上げていませんでした。猪熊さんのなかで、山に登ることの意味が変化していった経緯や、「山に登る人が好き」、「人それぞれチャレンジするものは違う」といったストレートな言葉を受け取ったとき、自分は山のどこが好きなのか、どのように向き合いとらえているのか、また自分にとっての「挑戦」とは何かと、考えさせられました。

◆地平線通信を読みながら、「挑戦」を続ける人の視点と感情を受け取り、自分自身に立ちもどっているところです。私の行為も思想も、どこに行くかわからないけれど、山に登ることを始めて、地平線通信に出会うことができ、よかったと、改めて感謝申し上げたいです。江本さん、どうか「健康体」でいらっしゃってください。[九大山岳部3年 安平ゆう

今夏は何もしなかった

■今夏は何もしなかった。原因はコロナではない。コロナで大幅な制限がなされているとはいえ、海外渡航禁止にはなっていない。グリーンランド、シリア、厳冬ラップランドと現在進行形で活動する冒険家やジャーナリストは、海外渡航に関する諸々の手続きが煩雑になったくらいで怯んだりしない。

◆ぜんぶがぜんぶではないけれどコロナを理由にやらない人は、コロナの前から何もしてない。コロナが収束したところであいかわらず飲んだ席でやらずしゃべってるだけだろう。やる人は戦時中や終戦直後でも厳しい登山を実践していたというのは、登山史を調べればわかる。

◆自分自身の十代後半から二十代前半がバブルの時代だったにもかかわらず、大方の山岳部や山岳会そして登山界全般が低迷の一途をたどっていた。例外中の例外のような少数派が活動してたまたまそれが目立っていただけ、というパターンは時代背景がどうであろうがそう変わらないようだ。あっ、話がそれた。今夏に何もしなかった理由である。

◆ひとつに体調不良がある。原因不明の腰痛が初夏のころから、より酷くなった。鎮痛剤も湿布薬も効かず夜も眠れないこともある。ぎっくり腰にも似た痛さ。そんなときは駅の階段すらまともに登れない。身障者用エレベーターがあってよかった。

◆そして突然のように襲いかかった五十肩。深夜痛みで目がさめる日が増える。肩に関してはクライマーからも年齢の割にやわらかいといわれていただけに、いままでできた動きができないというのはものすごい違和感がある。ちょっと動かしただけで痛い。今夏の天候不順ともあいまって体調不良がしんどいのはたしかだけれど、メンタル的に酷く落ち込んだわけではない。

◆ここ数年、何かでかいことをやりたいという欲が減退している。気力が萎えているのとはすこしちがう。時間が許すかぎり、山や自然にひたっていたい戯れていたいという欲は加齢と比例するかのごとく増大している。自身にとってしっくりくる時間を多く過ごしたい。

◆よく元新左翼の活動家が、若いころの過ちを総括したりしている。自分が二十歳前後に登攀をやっていた(あれでやったうちに入るのかどうかはさておき)ことが、果たして何だったのかを分析してみるのもおもしろい。登攀のあとにはじめた水平の旅のように、登攀では行為そのものを楽しんでいたわけではなかった。登攀は数時間から2、3日という短期間で、手っ取り早くやった気になれたのが大きかった。

◆1週間から数か月費やす水平の旅とちがって、登攀はすぐに結果がでる。だからできないとすぐに挫折となる。海のものとも山のものともわからないという大きな視点で、対象と格闘するような水平の旅のほうが自分は楽しめるようだ。求めているものが結果ではないのだろう。

◆垂直の世界で活躍する人って、壁を見あげたときにワクワク感につつまれている。でも自分は、大岩壁を前にしてワクワクしたことがなかった。谷川岳の一ノ倉沢、黒部の岩壁、欧州アルプス、ヨセミテのエルキャピタン。いずれも威圧感だけだった。

◆いつかきっと。そう淡い期待を抱いて本チャン・ルート200本ちかく登攀したけれど、ワクワク感に出会うことはなかった。自分の居場所はもっと別のところにあるのではないか、と疑問を抱きながらいつも登っていた。たぶん自分の身体構造も精神構造も極度の緊張感を強いられる垂直の世界で展開される登攀には向いていなかったのだろう。

◆30才からはじめた水平の旅では、頻繁にワクワク感を感じている。カナディアン・ロッキーを麓から見あげたとき、極寒のカナダ中央平原に立ったとき、風雪の津軽の山にむかうとき。成果がともなわなくても充実する。ただそこにいるだけで満たされる。粘るのはしんどいといいつつもどこか楽しんでもいる。無理して垂直の世界にしがみつかなくてよかった。

◆自分の経験のなかから語りたいことがたくさんある。一方で心のなかにしまっておきたい思い出もたくさんある。上手くいかなかったから話したくないのとはちがう。誰かに評価されたけれど、うまく言葉にできないものもある。はたから見たら時間とお金のムダとしかおもえないような成果ゼロであっても、そのときのできごとの心に深く刻まれているものもある。

◆語りたい思い出と心のなかにしまっておきたい思い出の境界線がどこにあるのか、自分でもよくわからない。ただこれからは心のなかにしまっておきたい思い出の比重を増やしていけたらいいかなっておもう。無理に何かをまとめるよりも、一生何も完成しないほうがいい。今夏は何もしなかったけれど、けっこう思索にふけっていた。

◆なお酷い腰痛と肩の痛みに苛まれながらも、これ以上体力が落ちないようにと7月8月は3日に1回の割合で丹沢でコースタイム6〜10時間歩いてから超かんたんな沢登り(滝登り)をしてみた。その合間には新潟や青森の競技場、江ノ島の灯台などで、高所における塗装作業やロープ設置作業などを行ったりした。夏の終わりには某テレビの撮影の手伝いのついでに立山剱岳で遊んだりもした。[田中幹也

地平線ポストから
海外より

逞しきスリランカの『探検家たち』

■出発予定日の間近になってデモ隊の大統領公邸突入、大統領の国外逃亡、新大統領の選出……と、政治状況が激動したため、出発を一時延期していましたが、結局、半月ほど遅れて8月4日から25日までの3週間、スリランカに行ってきました。実際に行ってみると、破産国家を宣言したほどの「最悪の経済危機」は改善されていないものの、政治的な混乱はほぼ収まり、不自由ながら旅もできて、当初予想したとおりにこの国の人々の「逞しさ」や「底力」を改めて実感する体験となりました。

◆この春以来、周知の事実となったスリランカの経済危機が国民にもたらしている困難は、たとえばガソリンの配給制や一日数時間の計画停電が全土で続き、食糧や必需品の輸入や流通が滞り、物価高が止まらず、都市には物乞いの姿が増えるなど、目に見える形でも多々現れていますが、郊外や地方では、人々が自宅の庭を開墾して自給食糧の増産に努め、不要不急の外出や支出は控え、ガスや油の代わりに竈を自作して薪を利用するなど、生活に工夫を凝らしながら危機を乗り越えようとしている姿が、一種感動的でもありました。

◆そんななか、来年の密林遺跡探査に向けて、合同探査隊のパートナーであるスリランカ政府考古局と計画を打ち合わせ、現地周辺を偵察するというのが私の渡航の目的でしたが、これは半ば成功、半ば失敗の結果に終わりました。来年から数年かけて探査しようとしている国内最大の川、マハウェリ川下流域の偵察は、考古局が燃料不足のため車両を用意できないので、代わりに便数の少ない長距離バスと、チャーターできた三輪タクシーを乗り継いで、単身、川の上流部まで行ったところで、結局は断念。ジャングルの入口の村までもたどり着くことはできませんでした。その一方で、考古局スタッフとともに衛星写真や手持ちの情報を綿密に検討し、入域ルートやベースキャンプ予定地、日程などを決定するところまでは漕ぎつけたので、とりあえずは一安心した次第です。

◆考古局では昨年、若いころからの探査仲間だった局長が退職し、高名な大学教授が新任の局長になっていたので、今後の協力関係の行方も心配でしたが、相手は私たちのことをよく知っており、心配は全く不要でした。初めて会ってすぐにスリランカ側の隊員候補者の名を告げられ、局長自ら一部期間は探査に参加するとの意向が伝えられたほどで、その隊員候補者も全員が過去に何度も行動を共にした考古局探査課の仲間だったことから、みな意気込んで計画を話し合うなど、関係はむしろ強化されたとの印象さえ持ちました。

◆「探査課」の探検スタッフとはいえ、予算の都合などから、私たちの遠征がなければ本格的な探検は実現できない現地側の事情と、私たちの過去半世紀の活動の意味とを、改めて思い知る機会にもなったと思います。

◆1973年に初めてスリランカのジャングルに踏み込んでから、来年でちょうど50年――。局地的で、しかも地味な遺跡探査でありながら、その小さな成果を積み上げて報告書にまとめ、発表し続けてきたことは、ほかにも意外な影響を及ぼしていました。スリランカではこの10年ほどの間に、登山や密林踏査、山奥の滝などの自然探訪の機運が民間の人々の間に急速に広まり、そのなかに未知の遺跡の発見にも興味を示す探検志向の人々が出現していたのです。

◆そうした人々は、何かの機会に私たちのことを知り、ネット上で公開している報告書を読み込み、私たちとの接触を求めていました。そして今回は、私のコロンボ滞在時期に合わせて面会要請があったなかから、8人の「探検家たち」と個別に会うことができ、お互いの情報を交換しましたが、その彼らの熱心さや、岩登り、川下りなどを含むスキルの高さ、考古学知識の深さや行動の実績には、むしろこちらが驚かされたほどでした。ただ問題は、そうした人々の活動の結果が、学術的な成果としても積み上げられるか、また大学や考古局など公的な研究機関や行政機関とどう関係づけられるかであり、そこには初期の私たちと同様、多くの課題があるようにも感じました。

◆彼らは、遺跡発見時の調査方法や記録の取り方、公的機関への報告の方法などを私たちから学びたいと語り、そのためにはボランティアとして一度は私たちの隊に参加したいとも語っています。私もまた、自分がやってきたことを彼らに引き継いでもらい、今後も必要な遺跡の探査や保全活動の輪を、一般市民にも広げてもらいたいと切に望んでいます。来年の考古局との合同探査で、その端緒が開けるかどうかは、考古局の都合もあるのでわかりませんが、別の機会を作ってでも彼らとは一緒に活動してみたいと思った次第でした。

◆探査開始50周年の来年を機に、遺跡保全にもつながる形での「探検の気風」をスリランカに広めること、そのための行動者のネットワークができるよう協力すること、そうした民間の組織と公的機関の官民協力の窓口を考古局側に設けるよう提言すること……といった「次の新たなミッション」が、自分に課せられたような思いを抱いて帰国した今回の旅でありました。[岡村隆

あこがれのフランス旅

■夏の終わり、切れていたパスポートを取り直して憧れのフランスの空気を少々吸ってきました。この円安、燃料費高の時期にとは思ったけど、行こうと思ったときがベストタイミングと信じて。閑散とした成田に対して、経由地のドバイ空港の不夜城のような賑やかさに驚きつつシャルル・ド・ゴール空港へ。現地滞在わずか10日の短い旅程で、パリと南仏ラ・シオタの二つの街を半々訪れました。

◆空港で、先に来てパリで仕事をしていた友人と落ち合います。彼女はパリに10年近く住んだことがあり、フランス語は堪能なので大船に乗った気分です。パリでは地下鉄の一車両に一人か二人マスク姿がいるかな〜という感じで、基本的にノーマスク生活。現地ではアパートを借りて泊まりました。バカンスなどで不在中の民家を短期間借りるシステムです。家具や食器、調味料なども使える上に安いのでお得。その代わりクロゼットに家主の服がかかっていたりします。

◆パリ19区で借りたアパートは運河のすぐそば。午後7時くらいになると人々が夕涼みに出てきます。運河のヘリには野暮な柵などはもちろんありません。運河端に座って足をブラブラさせたり、カフェのオープンテーブルでビールを飲んだりとみんな自由です。白人はもとより、アフリカ系、アラブ系、東洋系と人種民族もさまざま。日本人でもあまりガイジンという気がしないくらいのモザイクぶりです。

◆スマホやラジカセでお国の音楽を流してる人も時々います。ポプラ並木に縁取られた運河の周りは石造りの古い教会やアパートが立ち並んでます。この「ザ・ヨーロッパ」という風景に、エスニックなリズムが不思議と似合っている気がしました。僕らはこの運河がとても気に入り、折々散歩をし、バゲットとワインを持って運河沿いでピクニックしたりと地元住民気分を楽しみました。

◆噂通り、焼きたてのフランスパンはうまかった。世界中の美味しいものが食べられる国なので、何を食べても大抵うまいのですが、今回印象的だったのはアフリカの家庭料理でした。一緒に旅をした女性の旧友宅にディナーに招かれたところ、チャド出身の奥方が手料理を振舞ってくれたのです。鶏肉料理のスパイシーな味つけが絶妙でした。

◆もうひとつ記憶に残ったのはラ・シオタで食べたモーリシャス風料理。仲良くなったブラッスリー(定食屋)の店員がモーリシャス出身だったのです。混ぜご飯のような味がどこかアジア的で馴染みました。フランスは名にしおう農業大国だから、食料品は結構値ごろ感があります。外食は少々高いけど、野菜や果物、パン、チーズやワインは日本より安い。

◆パリからマルセイユに向かうTGVの車窓からは、延々と続く牧場と赤い屋根の農村風景が望めます。さすが食料自給率130パーセント越え(カロリーベース)の眺め。日本だって豊かな農耕地と風土を持っているのに、食料自給率は30パーセント台。何が間違っているんでしょうね。

◆絵描きの端くれとしてはフランスの美術館も垂涎の的なんですが、今回訪れた有名どころはオルセー美術館とモンマルトル博物館のみでした。オルセーには教科書や図録でしか見たことのない絵画や彫刻がこれでもかとばかり並んでいます。ナマの絵は質感が違うのはもちろんだけど、サイズは現物を見ないとわかりません。アンリ・ルソーの絵があんなに大きいとはびっくり。

◆夢中で見て回るうちに閉館時間となり、今見たもののあまりの濃さにセーヌ川の河畔でしばらく呆然としました。ルーブル美術館は時間が足りなくて今回敬遠しましたが、周辺を歩いただけで感じるその規模の大きさたるや! ルーブルは次回のお楽しみということにしておきますが、オルセーだってまた行きたい。オーランジュリーも、ケ・ブランリも、ピカソ美術館もロダン美術館も行きた〜い。今回は駆け足で彼の国の光の面ばかり見たと思うけど、影の部分やもっと奥深いところも見たいと思わせる国でした。[できれば半年くらい住んでみたい長野亮之介


先月号の発送請負人

■地平線通信520号(2022年8月号)は8月24日、車谷建太君を軸に印刷、封入作業をし、新宿局に渡しました。先月はいつもの森井祐介さんが体調を崩して入院されたため、新垣亜美さんが急遽レイアウトの代打をやってくれました。丸山純さんはじめベテランたちが応援して初仕事とは思えない出来栄えでした。江本はコロナ禍を少しでも避けたいので大事を取って自宅で待機しました。長い通信制作の仕事の中でできあがった地平線通信を見ないなんてもちろん初めて。よくないね。最後が大事なのに。
車谷建太 中嶋敦子 白根全 落合大祐 新垣亜美 長岡祥太郎 長岡のり子 加藤千晶 武田力


アビジャンで水産資源管理を考えた

■漁業ほど「権利と義務」を考えなければならない産業はありません。目のまえに海がある、魚がいるから獲るというのが漁業の始まりで、獲りたい人がとって売り、多くの人の食料となるから産業になりました。ただ大勢がルールなしで大量に漁獲すれば水産資源は枯渇してしまいますから、ルールと管理が必要になります。

◆私たちがコートジボワールで取り組む「魚のすり身プロジェクト」は魚の有効活用と漁村女性の自立が目的ですが、魚を獲るところから持続的でなければ「すり身プロ」も続きません。今年は国連が定めた「零細漁業・養殖業の国際年」でもあることから、新たなチャレンジとしてコートジボワール漁業省や水産関係者に呼び掛けて9月1日、アビジャンで「水産資源のサステイナブルユース」をテーマにワークショップを開きました。零細漁民や学者、漁業省関係者に集まってもらい、とにかくみんなで話そう、というわけです。もちろん、すり身研修生たちにも参加を呼び掛けました。参加の呼び水として「ランチには美味しいすり身弁当がありますよ」とPRし、すり身でつくったハンバーグとコロッケ、すり身汁を全員で味わい、ワークショップは始まりました。

◆地域機関の代表は「資源管理は大切。ルールを作り、いま関係者に説明しているところだ」「魚が大きく育つ前に漁師が獲ってしまっている。育つまで待って根絶やしにしないようにするため、罰則も決めた」というと、零細漁師は「自分たちはルールに従って網目を30〜40ミリにしているが、海外からの移住者がルールを守らないで獲っている。どうしたらよいのだ?」と訴える。

◆漁業省は「取り締まりには船と漁業管理を理解する人員が必要だ。いま漁業省と海軍で協定を結んだところで、これから始まる」と応える。研究者は「水産物の持続的な利用には産学協力が重要だ。漁獲に適したサイズ、産卵時期の把握、資源量を踏まえた漁獲可能量の3点について協力できる。ルールづくりは政府の仕事だが、漁師が納得できる裏付けは学問の仕事だ」。日本での話し合いとまったく同じような展開となりました。

◆海外からの移住者というのは、隣国のガーナ人を指します。コートジボワールの沿岸域には多数のガーナ人漁業集落があります。沖合では韓国の大型船がマグロを獲っています。近年は中国船が急激に増えています。これから漁業を始めるという中国人に会ったところ「中国人が漁業を始めたら根絶やしにするまで獲ってしまうだろう」と豪語していました。

◆漁業の管理は難しい。ルールをつくっても違反者は必ずいるため罰則が必要ですが、守らせるには船がなければ取り締まりができません。ただ先の学者から「大学の調査事業として学生を漁村に派遣している。すべての地域で最初は強い反発を受けるが、次世代に魚を残すための活動ですと時間をかけて説明すると理解が得られるようになる」という前向きな報告もありました。活発な議論に学んだことは多く、日本のことを考えざるをえませんでした。

◆日本では一昨年、70年ぶりに漁業法が改正されました。日本周辺は水産資源量の悪化が止まらないため、2030年までに資源量を回復させよう、という取り組みがすったもんだの末に決まったのです。この目標のために、TAC魚種(捕獲数量制限種)を現在の8種から20〜30種まで拡大する。漁獲量の8割を個別割当制度(IQ)という方法で管理する。資源調査する魚種を50種から200種に拡大する……という取り組みが始まりましたが、TAC魚種の拡大がすでに難航しています。

◆9月18日付の朝日新聞に20年来の仲良しの漁師が載っていました。半世紀に渡りキンメダイの資源管理を自主的に行ってきたグループのリーダーですが、彼らは「キンメダイをTAC魚種に加えることに反対」という記事です。なぜなのか。政府が画一的なルールをあてはめようとするため「獲らない努力をしてきた勝浦の漁師の割当量が(獲れるだけ獲ってきた漁師たちより)少なくなりかねないからだ」というのです。

◆アビジャンでも、漁師たちは「政府は漁村で説明をしているというが、聞いたことなんてない」と反発していました。しかし先の学者の「大学生が時間をかけて丁寧に説明したら理解が得られるようになった」という事例を聞き、政府にもそういう風に進めてもらいたいものだと言い残して帰りました。今回のアビジャンのワークショップは「魚のすり身プロジェクト」のため実験的に行いましたが、日本の水産資源管理の進め方に大きな示唆を与えてくれるものになりました。[佐藤安紀子

アンゴラから

■アンゴラ南部の港湾都市ナミベにいます。日本の大手建設会社が、御影石(花崗岩)の積出桟橋と岸壁を作る港湾工事で、基礎杭の載荷試験をマレーシア人技術者とインドネシア人作業員に指導するのが今回の仕事です。会社から2週間だけ行ってくれと言われて、現地に来てからすでに2週間が過ぎましたが、まだ仕事が始まっていません。

◆今回の渡航でいちばん苦労したのは、ビザの取得でした。コロナの影響なのか揃える書類が多く、しかもビザの受付は週2日のみ。8月18日から月末までは大統領選挙のため、ビザの受付は中止とのことで、8月16日に駆け込みで申請しました。いざ大使館へ行ってみると、日本人の女性が丁寧に対応してくれて、問題なく受理されました。32年前、インド大使館へビザの申請に行ったときの、高圧的で不愛想な日本人のオバサンとは、天と地ほどの違いでした。

◆出発前72時間以内にPCR検査の必要があり、検査したその日のうちに発行された診断書に「Negative」の文字を見つけ、ひと安心。前のように2週間の待機がなくなり、ずいぶん楽になったんだろうと思います。

◆ドバイ経由が多いアフリカ方面ですが、ちょっとおしゃれにエールフランスでパリ経由。でも、成田からアラスカを通り北極海をかすめ、グリーンランド横断、イギリスを縦断してパリまで14時間のフライトは、エコノミークラス症候群寸前でした。

◆アンゴラの首都ルアンダの空港の格納庫で入国前の抗原検査。30分ほど並びましたが検査後15分で結果がでて、あまりに順調で拍子抜けしました。成田を出発してからナミベに着くまではマスクをしてきましたが、ナミベでは日本人を含めマスクをしている人はほとんどいません。せっかくひと箱持ってきたのに、使うのはスーパーへ買い物に行くときだけです。

◆日本人にとって、ここではコロナよりマラリアのほうが怖いかもしれません。日本で予防薬を処方してもらい、虫除けスプレーと蚊取り線香も持ってきました。現地スタッフからも、マラリアには注意するよう、念を押されました。

◆宿舎を一歩出るとまわりは沙漠で、レンガの壁に囲まれた小さな家が並んでいます。道路脇では野菜や果物、魚のほ、中古のスマホケースとか、どうみても不要品としか思えないようなものを、地べたに並べて売っています。アフリカは暑いと思い込んで、半そでと短パンしか持ってこなかったのですが、南半球のナミベは冬で、気温は朝晩で16℃、昼間でも20℃前後です。いまの札幌と同じくらいでしょうか。26℃まで上がった日は暑いと感じましたが、残暑の日本に比べれば快適です。[武田力

植村直己冒険館(豊岡)からのお知らせ
2022年度「チャレンジ応援祭」を開催します

(1) 周辺地域の人々と一緒に作り上げ、参加した誰もが楽しめるイベントを目指す
(2) 集ったチャレンジャー達と地域の人々が交流を深め、お互いが称賛し応援し合うきっかけとする
(3) 将来を担う子どもたちに「挑戦することの面白さ、大切さ」を感じてもらう体験の機会を提供する。

■開催日 2022年10月29日(土)〜30日(日)
■場 所 植村直己冒険館とその周辺(兵庫県豊岡市日高町伊府)
■内 容
<29日(土) 講演会・交流会>
(1) スケジュール
19:00〜 講演会・交流会(小ホール)
 ゲスト 関野吉晴さん、なすびさん他(予定)
20:30〜 チャレンジャーと市民の交流会
 1. 交流会場をどんぐりbase周辺に3〜4か所設ける
 2. 各箇所にゲストが入り交流
 3. 私のチャレンジへの思い、願いなどが話題に…
21:45  終了

(2) 講演会・交流会の参加方法
 1. 申し込み 電話または申し込みフォームから
 2. 定  員 50名様(抽選)
 3. 締め切り 10月10日(月・祝)
 4. 抽選発表 10月15日(土)
       当選者へはメールまたは電話で通知
 5. 参加費  無料
  問合せ  豊岡市立植村直己冒険館
        担当:宇都宮岳尚
       〒669-5346 豊岡市日高町伊府785
       TEL 0796-44-1515
       https://boukenkan.com


地平線ポストから

ジャーナリストやめます

■2022年5月31日から6月7日まで僕はシリアを旅した。初めてシリアを訪れたのは2012年3月だった。そのとき、首都ダマスカスの郊外の町で僕は1か月暮らした。毎日のようにアサド政権と自由シリア軍がぶつかっていた。市民は反政府デモを行い、たくさんの人々が戦闘に巻き込まれたり、政府軍のスナイパーに撃たれたり、死傷者があとをたたなかった。

◆それから僕はシリアに通い続けた。シリアが今後どうなるのかを見たかったからだ。2015年4月、5度目のシリアの訪問が最後になった。それ以降はシリアに入るのが厳しくなったからだ。それから7年が経過して、僕は再びシリアを訪問することになった。

◆アサド政権の支配地域をめぐるツアーに参加したのだ。首都のダマスカスからハマ、アレッポ、ホムス、パルミラ、マアルーラを1週間かけて駆け抜けた。ガイドが常に僕を監視していた。どの都市もガイドなしでは、一人で出歩くことは許されなかった。

◆アサド政権の支配地域なので、アサド大統領を支持する人々ばかりだ。僕はずっと反体制派を取材してきた。アサド政権が市民を無差別に殺害するのを目撃してきた。しかし、そのことをガイドに話すと、それは西側諸国(欧米)のプロパガンダだと一蹴した。アサド大統領はシリアを守るためにテロリスト(自由シリア軍)と戦った英雄だとガイドは称賛していた。ただ、それがガイドや市民の本音なのか分からない。アサド大統領を批判することは許されないのだ。秘密警察が目を光らせている。

◆2011年3月、民衆が自由を求めて立ち上がった。しかし、平和的なデモを武力で鎮圧するアサド政権に市民は武器を握り、戦争に突入した。その結果、40万人以上の死者と1000万人以上が住む家を追われた。そして、シリアで起きた民衆蜂起は潰され、自由を叫ぶ声はなくなったのが今のアサド政権が支配する地域だった。何のための戦争だったのか。僕は崩れ落ちたまま放置された建物、経済が疲弊し、日々の生活に苦しむ市民を見て、シリアの戦争が国民に何をもたらしたのだろうと今回の旅で改めて考えさせられた。

◆帰国すると、僕は東京のアパートを引き払うことに決めた。僕の中で、今回のシリアの訪問を最後に、ジャーナリストから足を洗うことを考えていた。理由は様々だが、まず一つに経済的な問題があった。どれだけ頑張って取材をしても、滅多に黒字になることはなかった。たいていの取材は赤字だった。その赤字を埋め合わせ、さらに次の取材の資金を稼ぐために僕は日本でトラックのドライバーをしていた。それでも僕は割り切っていた。ジャーナリストとして稼げなくても、日本でバイトをすればいい。それで僕の興味のあるテーマを取材できるのであれば苦にはならなかった。しかし、徐々に取材をするための気力が湧かなくなった。これが二つ目の辞めると決めた理由だった。

◆2016年1月に僕はシリアの取材を一冊の本にまとめた。その後、僕は再度シリアに足を運ぶために2度、3度と入国を試みたが、国境の警備が厳重になり、またシリア国内での治安の悪化、信頼できるガイドが見つからなかったりと、全てが失敗に終わった。そのことで僕は徐々にシリアを取材することへの興味が薄れてきていた。別にシリアに入れなくても、例えば隣国に逃れているシリア人難民は大勢いるし、彼らも多くの問題を抱えている。僕はそんな難民の人たちから話を聞いて、何か取材ができないかと考えたりもした。しかし、意欲が湧かなかった。

◆この気力の衰えがどこからきているのかはっきりとはわからない。年齢を重ねてきたことで将来への不安が増してきたのかもしれない。それともシリアの取材がひと段落して次のテーマが見つからないのも原因かもしれない。

◆2022年2月末、ウクライナにロシアが侵攻した。日本も含めて世界のメディアが一斉にウクライナの危機を連日のように報道した。ロシア軍がウクライナの各都市にミサイルを撃ち込み、住民を殺戮し、家財道具や金品を略奪した。ジャーナリストやカメラマンが現地から命がけの報道を続けていた。僕はそんなニュースを眺めながら、特に何か行動を起こそうとは思わなかった。もう世界の戦争を見ても、そこに取材に行くだけの気持ちが消えていた。

◆僕は今、実家の岐阜県高山市に戻って職探しをしている日々である。周囲を山で囲まれたこの町に生まれ、物心ついたころから、あの山の向こうには何があるのだろうかとワクワクしていたことを思い出す。戦場に行きたいと純粋に感じたのは、不謹慎かもしれないが、子供のころのワクワク感が結びついているのかもしれない。

◆戦場とは僕にとっては想像もつかない世界だった。ニュースを見ても、本を読んでも、人が殺し合う戦争がこの世界のどこかで起きているなんて信じられなかった。平和な国、日本で生まれ育ったからだろう。だから、僕は自分の目で確かめようと興味本位で戦場に足を運んだ。

◆ただ興味がある、それだけでは20年もジャーナリストを続けられなかった。そこには戦争で苦しむ人々を通して感じた現実を多くの人に伝えなければいけないという責任を感じていたからだと思う。ジャーナリストを辞める。それは無責任だと思う。でも、疲れたのだ。そう感じて、戦争から離れられる僕は幸せだ。今も戦争から逃げたくても逃げられない人々が世界にはたくさんいる。[桜木武史


通信費をありがとうございました

■先月の通信でお知らせして以降、通信費(1年2000円)を払ってくださった方は以下の方々です。カンパを含めて送金してくださった方もいます。地平線会議の志を理解くださった方々からの心としてありがたくお受けしています。万一、掲載もれありましたら必ず江本宛て連絡ください(最終ページにアドレスあり)。送付の際、最近の通信への感想などひとことお寄せくださると嬉しいです。

■水嶋由里江(5000円 地平線通信1年分 2000円、カンパ3000円気が付いたら前回4月振込から1年を遠に過ぎて、失礼いたしました。毎号沢山の情報量に驚いています。コロナ禍でも世界が広がり、教えられていますが、なかなか付いて行けずタジタジとしています。1月号で金井重さんのことを知りましたが、楽しく逞しい女性の先人の話は元気になります)/津川芳己/池田祐司(10000円 5月号で紹介されていたブルース・チャトウィンの映画、福岡で見ました。1988年、中国・敦煌で長野亮之介さんにお会いし、地平線会議を教えてもらって以来の読者です)/永田真知子/金子浩(10000円 コロナ禍、地平線通信は楽しみです。通信費、いつまで払ったか不明。2年分として残りはカンパです)/田島裕志(5000円 いつも楽しみにしています。2年分+カンパです)/石原卓也/辻野由喜(4000円)/辻拓朗(10000円)/稲森一彦(5000円 江本さん、頑張っていますねー。高校の同級生として最大級の敬意を表します。明日の"国葬"止めてほしいなー。)/西口陽子(いつも通信をありがとうございます。自分の体より大きい絵とたわむれる日々です)/西牧結華 10000円(松本から札幌へ移住して早6年。昨日旦那が海で釣ってきた鮭と、朝晩のちょっと寒いくらいの外気に北海道の秋を感じています。日々の仕事に追われまくって、生活はすっかり地平線会議的な物事から遠ざかっていますが、月に一度送られてくる通信は、私の中の世界や視座を広げてくれる窓になっていて、そこから流れ来る音や匂いや皆さんの声に刺激をもらっています。これからも密かにしみじみ楽しく読ませていただきます)


音楽のようなもの

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コロナの縛りから逃れて

■1年半ぐらい前。古い友人から「新型コロナ予防接種を受けるのは止めて」というメールがきた。彼女いわく、コロナは今までの予防接種とは別物で、遺伝子を操作するもの。学者が安全と言っても、今後どうなるかはわからない。という。その通りだと思った。

◆原発の安全神話と構図は同じだ。たが自粛には正直うんざりしていた。未来の悪い可能性より、今感染して職場に迷惑をかける方が怖かった。彼女には「

○さんが正しい気がする。でもそうなら自分だけ生き残ろうとは思わない。何も考えず、世間の空気と一体化した結果は受け入れます」と大仰な返事をする。いつか歴史上最大の薬害が起きるかもしれない。

◆7月23日朝、目が覚めると体調が悪かった。体温を測ると37.4℃。自宅にあった検査キットでは陰性。判断が難しい。会社の同僚に電話すると、彼は39.2℃。その日、職場ではクラスターが発生し、同じ班9人のうち7人が感染していた。

◆3回の接種の効果があったのか、コロナの症状は半日でほぼ回復した。ただ10日間の自宅待機である。2年ぶりにリアル開催するつもりで準備を進めてきたWTN-Jの講演会をZoomに変更するしかなかった。

◆WTN-J(ワールドツーリングネットワークジャパン、略してワッツー)とは、2002年に発足した海外ツーリングの愛好会だ。最初のメンバーは8名。一人1000円ずつ出しあって資本金8000円で旗揚げした。会員なし、会則なし、リーダーなしの集団活動が嫌いな人間の集団。理想とするモデルは個人的には地平線会議だった。それからお話会と銘打った講演会の司会を20年やってきた。

◆お話会は9月10日で81回になり、その他のイベントも含めると100回ぐらいになる。ところがコロナで誰も海外に行けなくなると、海外を走るライダーもいなくなり、この2年、お話会開催は困難を極めた。こうなれば昔話をしてもらおうと、スタッフの一人に20年前のロシアツーリングの話をしてもらう。さて次は……。うーーん、次は……。考え続けていると「これから旅立つ人に話してもらう」というイメージが突然閃く。

◆海外ツーリング未経験者に海外ツーリングの話をしてもらう、という無茶な企画。これが新鮮だった。お客さんの大半はすでに旅してきた先輩。未来の旅人は、彼らにいつか来た道を思い出させ、熱いアドバイスが飛びだした。

◆次は……と思っていると、なんとこのコロナ下の1月に海外に飛び出すライダーが現れた。これはチャンスだ。もし現地から中継ができれば、それこそが最新情報だ。Zoomが普及した今なら、聞く側も各自部屋で見ることもできる。問題は話し手がどこから情報を流すかだ。南米……、ライダーの予定走行ルート……。できる! パラグアイにかつての世界一周ライダーがレストランを開いている。

◆感動的だった。画面の向こうにかつてのライダーと現役ライダーが並んで現れ、今の南米最新ツーリング情報を話してくれた。

◆次は、次は、ああああ、もう思いうかばない。こうなれば過去に話し手がいないときに使った手。最終兵器は自分。というわけでコロナ自宅待機期間中に北極海へ続く道の歴史について話す。

◆さてと、コロナにかかったことで、しばらくは免疫が効く。つまりリアルお話会も解禁だ。9月10日、東京を飛び出して、長野県築北郡で出張お話会。話し手は櫻井恵子さん。『地平線から 第八巻』、「行動者の記録」の1987年4月のページに登場するライダーである。現在はライダーが集まる古民家民宿、角屋のオーナー。この人の話をしっかり聞いてみたい、と思った。となると会場はもう角屋しかないだろう。「場」というのは重要で、自分の城で話された櫻井さんは「今まで誰にも話したことがないことを話してしまった」と言ってくれた。

◆コロナによって日常を縛りあげられたことで、その網目から逃れる今まで思いもつかなかったアイデアや方法が生まれている。[地平線報告会と2次会の北京がいかに自分にとって重要だったか、を、身に沁みて感じている坪井伸吾

島に激震が走った1週間

■ある日ポストに投函されていた一通の封筒。「使用済資源油化事業工場建設に伴う住民説明会のご案内」とある。使用済みプラスチックを油化して再利用する工場を浜比嘉島に建てたいという会社からのだ。台風14号が大東、奄美をかすめて九州目指して進んでいるという連休なか日の9月18日。浜中学校跡地のコミュニケーション会議室に、浜、比嘉の住民や事業者などざっと50人以上が集まった。

◆「ジャパンプラスチック・エナジー」とかいう会社の社長と関連企業の5、6人が会場を仕切っていた。スクリーンに会社の概要などが映し出され、廃プラスチックを再資源化する、熱分解し燃やさないからダイオキシンも出ず匂いもない、危険はまったくない、夢のような話がぽんぽん飛び出す。これからの人類の未来に必要な事業なのだと、話は壮大だ。

◆建設予定地は、11年前に廃校になった比嘉小学校の体育館跡地とその周辺。浜比嘉島を選んだ背景には、主にこのあたりの基幹産業であるもずく養殖にともなう廃プラスチック(網)をリサイクルするためで、勝連漁協の組合長がぜひと誘ったんだと言う。説明会は2時間の予定だったが会社側が質疑応答をさせずに終わろうとしたため紛糾し時間オーバー。

◆でも、なぜ浜比嘉島なのか? うるま市には工業団地がありなぜそこに行かないのか? 当初は宮古島で会社を作り進めていたようだが撤退したのはなぜか? プラントはすでに石川県で建設済、実証実験済、でも稼働はしていない、なぜか? 環境省からのお墨付きを得ている、でも補助金はない、なぜか? 結局納得いくほどの回答はなかった。

◆次の日、島の移住者、事業者たちでグループLINEが立ち上がった。宿や飲食店などをやっている人が主だがみんな島が好きでここで生業をしている人たちだ。すぐにでも署名活動など始めようというひともいたが、ひとまずは両区の区長と話して様子を見ようということになる。

◆私は、そんなプラント工場が浜比嘉島に建てられるわけがないと思った。5年前に景観条例ができたくらいだ。予定地は区域外になっているのだが、何か規制があるはずだ、そんな思いで役所に電話した。

◆建築行政課というところにたどりつき、規制はないのか尋ねると、規制はある、書類を揃え、環境アセスを経て厳しく審査する、と言われた上で、住民説明会があったという話をしたところ、そのもずく網リサイクルの話は一度聞いていたが、なんと、2日前に会社側からここは諦めて他の地区を探すとメールがあったところだと言われた!

◆え?2日前と言ったら、説明会の翌日ではないか。あきらめが早すぎない? まあ会場の雰囲気はほとんどが反対だったしもずく漁師もリサイクルは無理だと意見していたからこりゃ無理だと思ったのか、話を島に持ってきた男(島出身の職業不詳な人)と会社側が内輪もめしたかわからないが、この話はどうやら今のところ進まないと考えていいらしい。

◆まだ会社側からあきらめましたという連絡がないので安心はできないし、別のルートで役所に聞いた人によると、一般論として書類が揃い、地主がOKならば役所としては基本的にハンコを押さざるを得ないと言われたという。そしてこういう話はたくさんあり、いつまた問題が持ち上がるかわからないと。

◆それにしても激震が走った1週間であった。まだまだ目が離せないが、今回のことで島内外の人たちがぎゅっと固まり防衛体制を作れたことは今後に活かせると思う。地平線のみなさんも見守っていてください。

◆そうそう、うちのすぐ近くになんと、本屋さんができました。赤瓦の小さな民家を改装した店舗で、コーヒー飲んだりもできます。こんな過疎の島で、探さないとわからないような場所に! 一日何人お客さんが来るのかなと心配になってしまいますが、ゆるゆるとやって行くのでしょう。島に来たら覗いてみてください。

◆先日は、萩田さんの冒険書店で本を二冊購入しました。Amazonじゃなくても欲しい本が早く届いて、目から鱗でした。これからは冒険書店を利用したいと思います。できたら書店を訪ねて南極に行ったソリを見たいところです。[浜比嘉島 外間晴美

夏休み、子どもたちは立山でキャンプ、母は絵本のサイン会

■あちこちコロナの嵐ですが、我が家も9月の初めに双子の片割れの識世が熱を出しました。昼に少しだった熱がみるみる上がり、夜には40.7度という見たこともない体温に。苦しそうにしていましたがその日は診療を受けられるところが見つからず、以前処方されていた解熱剤を飲ませて様子をみました。

◆翌日朝から電話をかけ続け診察と検査を受けることができ、コロナ陽性確定。普段から体温高めだからか、その頃にはかなり元気になっていました。2月にも双子弟の方がコロナに感染、家族で2週間籠っていました。幸い今回他の家族は無事でしたが、子供が3人いると病気を持ち込む機会も家庭内感染の危険性も高くなりますね。

◆夏休み、子供たちと夫は立山でキャンプしてきました。小3娘と年長には雷鳥沢から剣沢の道のりもかなりの登山だったようです。残念ながら雷鳥には会えなかったようですが、人見知りゼロの子供達は山岳警備隊のお兄さんたちに懐き、珍しがられ、たくさん遊んでもらったそうです。

◆先日絵本『きらきらくものす みーつけた!』を出版したことをきっかけに、地元浦和の蔦屋書店でサイン会と原画の展示をさせてもらいました。

◆サイン会には3〜5才くらいのこどもを連れた同級生や保育園のママ友、埼玉新聞の取材を受けたのでその記事を見て来てくれた方、通りがかりの方、インスタを見てくれた方などたくさんの人が来てくれ、30冊ほどにサインをさせてもらいました。蔦屋書店にはその後もはるばる足を運んでくれた方もおり、絵本は合計60冊ほど売れたようです。本当にありがたくて胸がいっぱいになりました。

◆以下、友だちからもらった絵本の感想です。「昨日の夜も『読んでー』と持ってきて、自分でも『くもさんくるくる、お水きらきらーなりました』って読んでたよ」「今日は早速蜘蛛の巣探してたよ。本ってそういうところがいいよね」「昨日帰ってから絵本子どもに読み聞かせしたよ。読み終わった後もういっかい!って持ってきて、今日も絵本読んでーって自分から持ってきたよ。気に入ったみたいです」「子どもと寝る前に絵本読んだら、『くもさんぐるぐるすごいねぇ!』て喜んで見てたよ。『次はわたしが読む!』って自分でじっくり見てる。すてきな絵本だね」「子供たち(一歳の双子ちゃん)にも読み聞かせをしたら『す!す!』って言えるようになって興味津々でした。蜘蛛の巣の絵が細かくて綺麗で絵本に登場してくる男の子が識世くんと絃世くんっぽいな〜とかジャンバーをかけてあげるお母さんがとよこさんかなと読みながら温かい気持ちになりました。1番好きな絵本になりました」。

◆月刊誌なのでいつまでも書店にあるものではありませんが、図書館などには収蔵されています。誰かの心に残ったら嬉しいです。[竹村東代子

橋の半ばに差しかかって
ふと上流に目を向けると
大きな魚が泳いで
いや流れて来るのが見えた
何かの理由で
最早流れに逆らうこともできずに
時々横倒しになりながら流されて来る

その時横合いから
小さな魚がついと近づいて来て
大きな魚に接したかと思うと
ついと離れて行った
まるで私だ

橋のたもとに私の実家はあって
九十になる母親が病気がちに暮らしており
時々様子を見に行くと称して
いつもおこづかいをせしめて帰る
つい今しがたもそうしたばかり……

すぐに歩き始めて
大きな魚を最後まで
見送らなかったのはなぜかと
考えていて気がついた

大きな魚
あれが私だ
だとすれば私に近づいて来て
ついと離れて行くあの者は誰だろう……

私が過ぎてゆく
その時に      [豊田和司

地平線ポストから
先月号を読んで

斉藤宏子さん原稿に激しく感動!

■江本様、お久しぶりです。今日はあまりにも感動的な通信の記事にそのまま見過ごすことができず、ペン(キーボード)をとりました。斉藤実さんの奥様宏子さんの手記です。この寄稿文の中のカメラマン市川任男氏の回想もすばらしく、数々のエピソードを楽しく拝見しました。多分斉藤実さんほど素晴らしい科学実験の実行者はいなかったと思います。

◆理路整然と必要なこと、しっかりした信念に基づいて困難に立ち向かう日本一の探検家だと思います。1. 海水を上手に飲めば真水を節約できる。2. 水割りを1か月以上飲んでも問題ない。3. 食糧としてまた水の補給としての魚は重要なので、釣り道具(糸、針、仕掛け、擬似餌、魚かぎなど)の充実は救命具の中で欠かせない。4. 救命ボートは帆付きで自走できることで可能性が広がるなど。まさにどれだけの人が精神的にも肉体的にも救われたか? また、新しい救命装備の開発にもヒントを得たか? 人類への貢献は計り知れないと思います。

◆実験報告書としての本の内容がシュールなのに漢字にはふりがながつけられ、挿絵も入って子供向け(?)に印刷されたような『太平洋漂流実験50日』を私も90年代アラスカへも持って行き、今でも時々は表紙を開き勇気付けられることがあります。当時アラン・ボンバールとともに漂流実験の意義や科学的根拠を議論されていましたが、実際にやるとなると全く別な問題です。

◆ただ根拠だけ、それだけでは実行できない決死の覚悟、そのどれを取っても人が人生をかけてやるに値するものだと感動したのを覚えています。それにしてもこの斎藤実さんという人はなぜ怖くないのか? 死ぬ確率が異常に高いこの実験をどうして続けられるのか? そこまでして本人を動かす、動機、情熱は一体なんなのか? 40年以上も喉の奥にヒッかかったこの疑問を今回の手記で、斉藤実さんの心理を垣間見ることができました。

◆手記の中で、“…母が夢に現れました。「みのる、世のため、人のためです。おやりなさい」と。「恐くとも、決心はつきました」と”いう箇所がありましたが、やはりあの斉藤実さんという男でさえも怖かったのだとちょっと安心しました。世の中は裕福になり、好きな冒険、個人のやりたいことが勝手にできてしまう昨今、こういう意味のある行動、問題提起はとても大切なことだと思います。特に斉藤実氏を知らない世代には是非紹介してもいい話ですね。私の人生を大きく揺らし、突き進めてくれた斉藤実さんという人物の生い立ちや逸話があれから23年後にこうして読める感動と衝撃、こうして地平線会議を続けてこられた江本さんとそのコネクションに深く敬意また感謝します。

◆取り急ぎあまりの感動にメールしました。ありがとうございます。[吉川謙二

島の図書館に斉藤実さんの本を

■江本さま。このところ、「過労熱」で2回発熱しました。熱が出ると、ヘルパーさん他すべてを止めて、PCR検査を受け「陰性」になるのですが、念のため自主「隔離」をするので厄介です。今回も過労熱だったと思われます。心臓のベースが落ちたと感じました。胸に埋め込んだ超小型除細動器はまだ一度も作動していません。

◆斉藤さんの御本、5冊お願いいたします。残ってしまうようなら10冊引き受けます。冊数をお知らせいただけましたら切手をお送りします。

◆島の図書館に本を送る活動を、気づいたら46年もやっています。1年前にインスタで「島の図書館に本を送る会」のページを作りました。本を紹介し、その本に適したところに送ります。個人でやっている図書室なども熱心でいいです(インスタをしている図書館が増えています)。

◆ただ、すぐ、発送できません。今、沖縄の琉球大学図書館本館と医学部別館の同時開催で写真展を含む「医療への信頼」をテーマにした企画展をしていただくことになり、準備中です。会期は40日間という長丁場です。

◆コロナ禍にあって、私が行けなくても開催するという準備です。トークショーなども予定されているので、ネットを駆使しての準備になります。島嶼医療がよくなること。これは、「生きる喜び」ミッション以降、目指してきたことでした。10年くらい取り組んでいます。

◆沖縄での写真展の1回目は、最も行きにくい八重山・鳩間島の小中学校で開催しました。台風で停電になると水も出なくなるという島です。コロナになった場合、病院の受け入れが難しいことが課題です。

◆夏帆のデイサービスもずっと休ませていました。そろそろ、短期間でも行かせようとしています。「コロナにならないこと」が最も簡単です。江本さん、もう一冬かと思いますので、どうぞ気をつけてください。[河田真智子

『太平洋漂流実験50日』を是非!

■こんにちは。以前に1度だけ、北大探検部の五十嵐宥樹さんの発表があったときに報告会の感想を送りました、辻と申します。あのときは法政大学探検部に所属していましたが、昨年3月に大学を卒業して、いまは出版社の山と溪谷社で雑誌の編集をしています。

◆先日届いた地平線通信で斉藤宏子さんの文章を読み、斉藤実さんの『太平洋漂流実験50日』をいただきたいと思いました。それに、五十嵐さんの報告会の感想を書いたときから、通信費を払っていないにもかかわらず、4年間毎月通信を送っていただいていました。ありがとうございます。これを期に、4年分の通信費を送らせていただきます(遅くなりすみません)。

◆今月の通信を読むまで、斉藤実さんについては存じ上げませんでしたが、学生時代に読んだアラン・ボンバールの『実験漂流記』を思い出しました。1950年ころ、海難事故の多さに憂いていたフランスの医者である著者が、食料と水を持たずに大西洋を漂流し、漂流中は海水、魚、プランクトンなどで飢えをしのぎ生還する話です。

◆学生時代の私は、現代の探検に社会的意義はあるのか、をぼんやりと考えていました。「探検」と「冒険」の違いは「社会への還元」の有無であり、探検部にいるからには探検をしたいと思っていたからです。

◆ボンバールの本を読んだあたりから、「探検」と「冒険」の2つの言葉の境界線が曖昧になっていくのを感じました。ボンバールの実験漂流は冒険のように思えるが、その目的は「漂流しても生きながらえることを証明し、海難事故で亡くなる人を減らす」ことであり、その姿勢は探検家のように思えました。

◆軟弱といえど探検家の末席である探検部員の私にとって、探検について、また自分の取り組みたいことについて考えるきっかけとなった本が『実験漂流記』でした。そういったことがあり、斉藤さんはどんな実験漂流をしたのか、とても興味があり、ぜひ本を読みたいと思いました。ボンバールの本を読んでから数年経ち、今は登山者向けの雑誌の編集者をしていますが、今後も仕事を含めて「探検」を自分の活動の大きなテーマにすることは続けていくつもりです。

◆編集の仕事を始めて1年半が経ち、徐々に探検・冒険的な記事を自ら作れるようになってきました。角幡唯介さんの連載エッセイ、荻田泰永さんの書店で存在を知った、モーターパラグライダーで空撮を行なう山本直洋さんのインタビュー記事、ロビンソン・クルーソーのモデルの住居跡を発見した

煖エ大輔さんの書き下ろしルポなど、大きな刺激をもらえる記事の作成に関わらせてもらっています(登山者向けの雑誌なので、山のコースガイドなどのメイン記事を作ることのほうが、よっぽど多いですが)。今後も「探検」「冒険」にまつわる記事を作っていきたいと思います。

◆自分の活動はというと、興味を持った山の名前の由来を調べ始めました。これ自体は探検といえないかもしれないですが、文献を調べて実際に現地に赴き、また調べの繰り返しはおもしろく、しばらく続けていきたいと思っています。

◆今後も毎月の通信を楽しみにしています。また報告会が再開されたら参加させていただきます。よろしくお願いします。[辻拓朗

北の国から野菜がどっさり

■江本さん、先日は電話で失礼しました。贈って頂きます本(福田晴子著『宮本常一の旅学』田中君は1978年8月発行『あるくみるきく138 日本縦断徒歩旅行』の著者)の感想は必ず返事します。ただいつになるかは今のところわかりません。申し訳ありません。

◆昨日芋を掘りながら鳥の声がする空を見上げると渡り鳥の編隊飛行でした。9月10日から今日までの間に霜が3回降りました。カラマツも色が変わり始めました。今冬の到来は早いのかそんな予感がしてイヤな気持ちです。冬への準備に追われる圧迫感で私の秋は気持ちも時間も全く余裕がありません。

◆そう来年で北海道に来て43年になるのに(520号通信フロント重く読みました)私の年代のまわりの酪農経営者は次々に後継者へ委譲か圧倒的に後継者不在が多くすごい勢いで離農が進んでいます。今の私は1日でも長く牛飼いをやっていたいという思いの中に現実の体力的厳しさもかなり感じています。でもまなるようになるさと毎日毎日牛の優しい表情に癒されながら朝、晩充実した気持ちで乳しぼりを続けています。

◆送りました野菜、無肥料、無農薬、自然の力栽培です。堆肥は100%土にしてから牧草地にまいていて、野菜には入れてません。全て自然の力栽培です。召し上がってください。

 芋 キタアカネ サヤアカネ(うす赤い色)  ニンジン 黒田五寸/薬味ネギ 白矢  レタス シスコ/キウリ 地這い/ズッキーニ

◆お元気でお過ごしください。[2022年9月16日 田中雄次郎

突然送られてきた野菜が嬉しくて思わずここにさらしてしまいましたが、私信です。雄次郎がなかなかつかまらないので独断で掲載してしまいました。許せ雄次郎。

福澤卓也のこと

■いつも楽しみにしている地平線通信ですが、520号は特に食い入るように読みました。福澤君のことを井口亜橘さんが書いていたからです。福澤君は私の大学院時代(北大低温研)の同期でした。山仲間から見た福澤君のことは多くの方が書くことができるでしょうから、私は大学院での福澤君のことを紹介することにします。

◆福澤君とは研究分野は違ったのですが、お互いの研究室が近くに位置していて(同じ建物のほぼ上下)、福澤君の研究室にはテレビがあったので入り浸っていました。すでに福澤君は多くの海外遠征などを経験しており、まだ日本から出たことがなかった私にとっては、聞く話は非常に新鮮で海外への憧れを募らせました。様々な海外調査に出ることになったときも、いろいろなアドバイスをくれました。頼もしかったですね。他にも一緒に大相撲を観戦して勝敗を予想したりもしていました。私以外にも、この研究室には(テレビの効果もあってか?)同期や後輩がいつも集っていました。もちろん、忙しくても嫌な顔を見せずにいつもニコニコしている福澤君の性格にもよるでしょうね。

◆福澤君は大学院の修士課程で雪崩の研究をしていました。山仲間を一人でも雪崩から救いたいと、この研究を始めたと聞きました。どのような条件だと雪崩が起きやすいか、などを明らかにするために、雪崩の発生現場で調査を行い、多くのデータを集めていました。室内での実験でも、どのような雪の質だと雪が滑りやすくて雪崩が起きやすいかを調べていました。その研究成果を修士論文にまとめ、学術論文として発表し、また雪崩発生のデータをまとめて発表していました。

◆そのまま博士課程に一緒に進むのかな、と見ていたら、なんとそのまま研究室の助手に! 今ではあまりこのパターン(修士課程修了後にそのまま教員になること)はないですが、当時はよくできる人はこのように採用されました。福澤君はまさに、「よくできる人」でした。研究に対してはとにかく妥協せずに努力していましたね。

◆一方で、ご存じの方はご存じですが無類の酒好きで二日酔い知らず。というか、頭痛をほとんど経験したことがなく、高山病で初めて頭痛を経験したとか。嘘かもしれませんがね。よく飲みに行きましたね、大人数でも少人数でも差しでも。いろいろと相談に乗ってもらいました。酔うと得意のスペイン語が飛び出したりもしましたね。「原田〜、この焼き肉屋、全品半額だって〜。行こうよ〜」「福澤、それって最初から高い値段を設定してるだけじゃないの?」という会話をしたことも思い出されます。疑いもせず、とても純なやつでしたね。

◆ちょうど福澤君がミニヤコンカに出かける前、私も海外調査を予定していたので、体力養成のために二人で夜ジョギングをしたことも。その後は「我々が走る目的はダイエットではなく、体力養成である」と言い訳してそのまま飲みに行ったっけ。

◆山にも一緒に行きました。以前にも書きましたが(地平線通信501号)、大学院に入学するまで私は山登りの経験がほとんどなかったのですが、私の修士論文の調査で大雪山に行くときに来てくれたり、雪渓調査に共に参加することもありました。山装備が貧弱だった私に、お古の秀岳荘ヤッケをくれましたね。今でも大切に持っていますが、これが形見になってしまいましたね。最近、使ってないので今度山に行くときに着てみようかな。一緒に過ごした日々は、私にとっては非常に濃いものであり、経験不足の私を成長させてもらいました。面と向かって感謝の言葉を言ったことがなかったのが残念ですね。とにかく楽しかったです。

◆大学に遭難の第一報が入った日のことをよく覚えています。奇しくもその日は福澤君の誕生日。第一報を伝えるファックスを、鬼の形相で持ってきた後輩の顔が今でも忘れられません。あれから20年近く経つのですね。

◆あんまり書くと他の雪崩研究者に怒られるかもしれないですが、福澤君がミニヤコンカから帰ってこなくて、日本の雪崩研究が大きく遅れたのは事実でしょう。同僚や後輩たちがその遺志を継いで、雪崩事故を少しでもなくすべく研究を進めています。早く、その雪崩調査から帰っておいでよ。日本の雪崩研究も進んでるよ。また飲もう。当時は就職していた福澤君が奢ってくれたことが多かったけど、私も就職したので今度は「割り勘」にしよう。たまには奢るよ。その後、私もスペイン語を少しだけ覚えたよ。

◆結局、個人的な思い出話になってしまいましたね。失礼しました。[原田鉱一郎 北大低温研出身 宮城大学准教授]


今月の窓

旅はまだ続く

樋口和生

■江本さんからの原稿依頼はいつも突然だ。井口亜橘さんの先月の地平線通信への投稿を受け、福澤卓也のことについて書いてほしいという。改めてここで福澤のことを書くよりも、仲間内で出版された遺稿集に寄せた私の原稿を再掲し、その前に原稿を書いた背景を少し説明することとしたい。

◆亜橘さんが、福澤の遺稿集を出したいので原稿を書いてほしいと言ってきたのは、2015年だったと思う。2015年といえば、4月にネパールの大地震が起こり、その後ランタン村の復興支援に動くことになったことと、11月からの南極越冬に向けて観測隊の準備に取り掛かっていたことが相まって、依頼された原稿にはなかなか取り掛かれずにいた。

◆昭和基地でゆっくり書こうと思っていたものの、現場に入ればそれほど心の余裕を持てず、原稿のイメージだけを携えて帰国することになった。遺稿集とはいえ、福澤が生前に書き溜めた文章や詩に加え、山や研究の仲間、家族からの追悼文がバランスよく配された遺稿&追悼文集という内容となった。ごく近しい身内だけを対象とした文集なので、広く一般の人が読むチャンスは少ないが、登山家であり雪崩の研究者だった福澤という人間を語り継ぎたいと江本さんに言って戴けるのはありがたいことだと思う。

◆福澤の遺したものをお焚き上げしようと決心したものの、やはり最後の踏ん切りがつかず、枯れたと思っていた涙をとめどなく流したと聞いて、亜橘さんはまだまだ旅の途上なんだと感じた。

◆私は、今年の11月から第64次南極地域観測隊の越冬隊長として南極に出かけることになった。現在昭和基地で越冬している63次越冬隊長の澤柿教伸さん(法政大学・地平線報告者)と現地でバトンタッチし、4回目の冬を過ごすことになる。

◆亜橘さんと次に会えるのは再来年の帰国後となるだろうが、彼女の旅が続くように、私の旅もまだしばらくは続くことになりそうだ。

福澤卓也遺稿集「旅の記憶 〜空、雲、風 そして心の詩」あとがきより

福澤君とのこと

 じじじっと音がして、ろうそくが消えた。

 窓は閉まっているし、隙間風も入っていない。

 ヒマラヤの山中、高峰に囲まれたジョムソンの夜のことだった。

 一緒にトレッキングに来ていた人たちだけでなく、他のトレッカーやロッジのスタッフも引き上げ、静まりかえった食堂でウィスキーを舐めながら、ろうそくを挟んでアキさんと福澤君のことを話していた時だ。

 「来たね」思わず口をついて出た。

 信心深くもないし、霊感など持ち合わせないのだけど、その時はすぐ近くに福澤君の存在を確かに感じた。

 福澤君と初めて会ったのは、確か低温研の山田知充さんの部屋を訪ねた時だったと思う。

 「こいつは山に行かないと死んでしまうそうや」

 山田さんがそんな風に紹介してくれた。

 あごに無精髭を蓄え、茶目っ気たっぷりの愛嬌のある目が印象的だった。

 それから4年ほど経ち、低温研の福澤君と山スキー部OBの阿部幹雄さんが中心となって、手稲山で雪崩講習会が開催された。

 その1年前にアメリカの野外学校の冬のコースに参加して雪崩講習会を受けていた私は、現地で手に入れた雪崩ビーコンを持って手稲山に出かけた。日本国内では雪崩ビーコンのことを知る人は殆どおらず、私もアメリカで初めて手にしてその威力に驚いていた。

 手稲山での講習会が終わった後、講習会を継続できないかと福澤君と阿部さんに話を持ちかけたことがきっかけとなり、北海道雪崩事故防止研究会(ASSH)が立ち上がった。

 講演会「雪崩から身を守るために」と講習会「雪崩事故防止セミナー」の2本立てで活動が始まり、活動に賛同してくれる人たちをスタッフに迎えてスタートしたのが1991年。それから今に至るまで26年間続いている。

 講演会や講習会をどのように組み立てていくか、日本の雪崩教育をどうしていけばいいかなど、時間を忘れて話し合ったことがつい昨日のように思える。アイディアマンの福澤君はいつもその話し合いを牽引した。最新の雪崩の研究成果を一般の人に広め、科学的な視点で雪崩を捉えて理解を促し、雪崩事故の軽減に役立てようというASSHのスタイルが出来上がったのは、研究者であると同時に登山家でもある福澤君の存在に依るところが大きかった。

 講習会や講演会の準備と本番、雪崩ビーコンの性能試験、山と溪谷社から原稿料を前借りして出かけたスイスの取材旅行、一般向けの雪崩テキスト「最新雪崩学入門」の打ち合わせ、「つる」のカウンターで一杯傾けながらの会話など、一緒に過ごした時間はそれほど多くはないものの、福澤君との時間は濃密だった。

 福澤君が戻ってこないことが確実となってしばらく経った頃、我が家に遊びに来たいとアキさんから連絡が入った。

 聞けば、福澤君とつながりのある人たちを少しずつ訪ね歩いているという。

 帰るべき人が帰って来ず、自分の気持ちの納まり場所を見つけられず、ぽっかりとできた心の空洞を埋めていく、アキさんの長い旅路の始まりだった。

 私たち夫婦はそんなアキさんの話を聞くことしかできなかったけれど、福澤君が旅立つ前の二人のこと、当時のアキさんの心境を少しずつ理解するようになった。

 浜松に暮らしていたアキさんとは頻繁に会うことはなかったが、我が家を訪ねてくる度に少しずつ心がほぐれていくのがわかり、私も妻も表情が和らいでいくアキさんを見て嬉しく思っていた。

 そんなアキさんの長い旅路の中で、福澤君のことを理解するにはヒマラヤの息吹に触れることは避けて通れなかったのだろうと思う。私は当時山のガイドを生業としていて、毎年ネパールにトレッキングに出かけていたが、そのツアーにアキさんが参加したいという。

 8000mの頂がオレンジ色に輝き、やがて山腹がピンク色に染まるヒマラヤの夜明け。熱い紅茶を手に、山をじっと見つめていたアキさんの姿が印象的だった。

 「福澤は幸せなやつだなあ」と言う人は多い。何年経ってもみんなから想われ、確かに幸せなやつかもしれない。

 でも、山が好きで、人が好きで、目を輝かせながら山のことを語るのが好きだった福澤君のことを思うと、周りの人を悲しませてしまったことを悔やんでいるに違いない。

 できることなら、いつものように法螺話を交えつつ、面白おかしくミニヤコンカでのことを聞かせて欲しかったと改めて思う。

〈ひとこと〉 樋口和生さんは、2017年5月26日、457回の地平線報告会で「隊長はつらいよ フーテンの和(カズ)、ヒマラヤ、南極流れ旅」とのタイトルで報告者になっていただいた。国立極地研究所職員で57次南極越冬隊長の仕事から帰国したばかり。それまでにも50次、52次の南極隊にも参加していてほとんど“南極の主”となりつつあるが、もともとは北大山岳部出の山男。貞兼綾子さん率いるランタン・プロジェクトにも参加している。チベット学者の貞兼さんはネパールやチベットでのフィールドワークに必要な青年として「針金を歯で噛み切れるような人」とよく私に話していたが、実はそれは樋口さんのことだ、と後年打ち明けた。地平線会議とのきっかけはアラスカにいた超行動学者、吉川謙二が日本に帰ってきた時だったが、北大出(吉川もその1人)にアクティブな魅力的な人が多いことに驚かされる。その樋口さんたちが大事にし、かつ頼りにした青年が福澤卓也さんだった。私は一面識もないが、樋口さんたちが刊行した福澤さんの『旅の記憶 空、雲、風 そして心の詩』を読み、ミニヤコンカから帰ってこなかった挑戦者の心をできる範囲で伝え続けたい、とあらためて思った。[E

あとがき

■ずっと通信のレイアウトを引き受けてくれていた森井祐介さん、今も病院で治療中で今月もフレッシュウーマンの新垣亜美さんに頑張っていただいた。まだ2回目で原稿量もかなり多いのに見事な腕前で一同ほんとうにホッとしています。アンゴラに出張中の武田力君も、遠くからほとんどいつものペースと変わらず頑張ってくれたのもありがたかった。

◆森井さんからきのう連絡あり、ようやく歩く練習を始めるところです、と言っていた。声はしっかりしていたが、実際のところかなりの重症だったのでは。囲碁センターもやめます、と言っていた。まだ1か月以上は病院にいるでしょう、とのことだった。

◆「実はシリア取材後、放心状態になっています」と小松由佳さんから。現地で見聞きしたことがそれほどひどいものだったらしい。「ロシアがいまウクライナでやっていることがシリアではずっと前から続いていたことを皆さんにも知ってほしいです」とも。とにかく無事に帰国されることを。[江本嘉伸


『パン屋にて』(作:長野亮之介)
表4 パン屋にて

《画像をクリックするとイラストを拡大表示します》


■今月の地平線報告会は 中止 します

今月も地平線報告会は中止します。
ピークは過ぎたようですが、まだ感染者数が高止まりしているため、地平線報告会の開催はもうしばらく様子を見ることにします。


地平線通信 521号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:新垣亜美/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2022年9月28日 地平線会議
〒183-0001 東京都府中市浅間町3-18-1-843 江本嘉伸 方


地平線ポスト宛先(江本嘉伸)
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 042-316-3149


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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