2025年12月の地平線通信

12月の地平線通信・560号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

12月 17日。晴れている。気温4度。午後には14度まで上がるらしい。顔からマスクを外して新聞を取りに行く。普段は連れにおまかせの新聞、通信を出すきょうだけは私が取りに行く。「定数削減今国会では見送り」(朝日)「定数減、今国会見送り」(読売)と一面は同じ見出しだ。それにしても、江本君、なぜマスクを?

◆ある日、連れが知り合いの医者に言われた。「あなたの細いあごのかたちだと睡眠時無呼吸障害のおそれが高い。一度検診を」。便乗するかたちで私も1泊入院して就寝時の検査をしてもらったらなんと私が100%睡眠時無呼吸症候群とわかった。日頃、午後になると無性に眠くなる症状が日常的にあり、車を運転していても急激な睡魔に襲われ、ぞっとする経験が確かにあった。

◆医師の勧めでCPAP(Continuous Positive Airway Pressure=持続陽圧呼吸)という器具を装着することになった。鼻に装着したマスクから空気を送り込み、その圧で空気の通り道を確保する良い睡眠が取れるようになったのだ。昼間の眠気は全く消え、俄然元気になった。ただし電源を必要とするので山や草原では使用できない。どこに行くにも携行するので行動範囲は自然に限られている。穂高の麓、徳沢に泊まれるのも電源があるからこそ、なのだった。ともあれ、この歳になってよい睡眠が取れることはありがたい。

◆夜更かしの習慣だ。先日午前2時過ぎ、何気なくテレビをつけた。FIFAワールドカップの抽選会をやっている。音声は消してあるので画面で判断するしかないが、なぜかドナルド・トランプが出ている。超ごきげんの様子。トランプのためにFIFAが「FIFA平和賞」なるものを新設し、トランプに授与したのだ。なんという下品。なんという恥知らず。

◆トランプが欲しくてたまらないノーベル平和賞はベネズエラの反体制活動家、マリア・コリナ・マチャド氏(58)が受賞した。カツラで変装し、10か所の検問所をくぐり抜け、ボートでカリブ海のオランダ領の島を経て授賞式のあるノルウェーに向かった。無事到着し、バルコニーから人々に挨拶したが、実は荒れる海での船内の激しい衝撃で背骨を損傷し、しばらく帰国できないという。ベネズエラのマドゥロ政権はもちろんマチャド氏を極悪人扱いしているが、さて。

◆12月14日午後、法政大学市ヶ谷キャンパスのボアソナードタワー26階で、岡村隆を追悼する会が行なわれた。地平線会議の発足当時から身近にいた、あの岡村隆がなぜか追悼される立場になったのだ。7月4日午後4時43分、本人と話した。「岡村さん、どうしたんですか?」と友人に聞かれ、驚いてかけたのだ。あの時、5分も話しているのに私は大したことを言えなかった。岡村の「ありがとうございました」の言葉を呆然として聞いていた。

◆その後、練馬区の自宅に行く機会があり、岡村の書棚を見せてもらった。地平線会議が目指し続けてきた世界がそこにあった。仏教関係の貴重な書籍も多く、それらがきちんと整理されていることも片付けられない症候群の私には驚きだった。岡村隆、時折、君のことを語る場を持ち続けたい。

◆9歳の頃に作った「アルバム」がある。少年が犬と走っているスケッチに「アルバム」の字のかたちの布を貼り付けただけの簡素なものだが、今月、横須賀に1歳上の姉を見舞った際に持参した。貼られている写真の懐かしい犬たち、「太郎」「熊助」のことを知る人間は今や私と姉しかいない。小さな小さな写真なのだが、病室の姉はすぐわかり、喜んでくれた。

◆姉は12月12日、86歳で亡くなった。生まれつき言葉が不自由だった長男のことを思いやりながら息子だけではなく耳の不自由な人たちへの支援活動を続けた人生だった。岡村隆追悼会の翌日、横須賀で営まれた告別式。喪主として立った59歳の息子は母への思いを込めた弔辞を手話通訳士の介助で行った。一語一語が身に沁みる素晴らしい内容であった。

◆2025年も終わろうとしている。昨夜、関野吉晴から大事な知らせを受けた。「狩猟免許試験は不合格でした」。わぁ、あの関野にもそんなことが。猟友会が主催する事前勉強会に出ていれば問題なかったのだろうが、自身の講演会があり、勉強会に参加できなかった。「実はけっこう凹んでます」とも。7月には再試験があるという。頑張れ!ドクトル![江本嘉伸


先月の報告会から

ユーラシア歩き旅・序章

坪井伸吾

22025年11月29日 榎町地域センター

■今回の報告者は坪井伸吾さん(62)。長年勤めた郵便局員の仕事を辞め、今年の4月から9月にかけてユーラシア大陸最西端のポルトガル・ロカ岬からトルコ・イスタンブールまでの約4,000kmを歩いて旅をした。旅を終え、日本に戻って約3か月。心の整理も進んだ今、60代にして挑んだユーラシア歩き旅について語っていただいた。

旅の原点と歩み

◆高校のときはヨット部に在籍。和歌山県のヨット競技(二人一組で操縦)の名門校で上の学年にも下の学年にも日本一になったペアがいた。自分たちは全国7位までしか進めなかったがここでの厳しい練習によって鍛えられたことがその後につながっている。1989年、アラスカで購入した中古バイクで北米を縦断。さらに中南米を走行しアルゼンチン南端まで走破した。途中で資金が尽き日本に戻るなどの紆余曲折を経ながらも、約4年をかけて旅をやり切った。過去に五大陸すべてをバイクで走り、合計6年、15万kmを旅した。これまでバイク、いかだ、徒歩、ランニングと様々な方法で旅を続けてきたが、何者?と聞かれたときはバイク乗りと答えるのはこの6年間に及ぶバイク旅が人生の軸にあるからだ。

◆バイクで南米を走っていた1992年秋から93年にかけてはアマゾン川源流から河口まで4か月かけて仲間二人と“イカダ下り”を実施した。この時代の旅で今と違うのは、インターネット普及前で「自分がどこにいるのかわからないという日々がずっと続いていく」という状況。現代では経験しようと思ってももうできない旅のカタチだった。同志社大学時代には人力車友の会に所属し、東京から東海道五十三次を京都まで人力車を引いて仲間たちと歩いた。これが歩く、走るの一番の原点につながっている。

◆今から20年前、2005年には北米大陸横断ランニングを実施。ロサンゼルスからスタートしてニューヨークまで5,400kmを単独で走り切った。一番の問題は水。水が無いと「死んでしまう」。猛烈に気温が上がる中、砂漠越えで6リットルもの水を用意して走ったがそれでも水は全然足りない状態だったそうだ。20年経った今も強く記憶に残る体験である。当時は、野宿を続けながら15キロの荷物を背負い1日50~60km進むことも当たり前だった。この北米大陸横断ランで培った経験は、今回のユーラシア歩き旅の土台となった。

今回の旅のコンセプトと事前準備

◆今回の旅でやりたいことは明確だった。北米大陸横断ランのゴール地点(ニューヨーク)から、地球一周の線をつなぐ旅だ。前回のニューヨークから飛行機で大西洋を越え、ポルトガルに渡り、そこから日本に向けて東へと進むユーラシア歩き旅。20年前と同じようにはできなくても、自分でなんとかなるというイメージがあった。もちろん20年分の衰えも自覚していた。当時と同じ一日平均50kmの移動は無理だろう。昨年11月の富士山マラソン(河口湖周辺を走るフルマラソン)の記録は4時間半。年齢からいえば速いほうだが、「そのくらいの人はいっぱいいてアスリートとしては大したことがない」と率直に語る。今回のユーラシア歩き旅に挑戦するにあたり、「アスリートとしては無理だけど旅人としてやればできる」と語る。

◆ここで旅の前のトレーニング記録がお披露目された。旅の前、特別なトレーニングは何もしていない。月ごとのランニングの距離はゼロに近い。「行動するうちに順応して、できる」という坪井さん独自の旅人の論理が周囲を驚かせた。旅の前、坪井さんの寝袋購入に付き添ったときに「どういうトレーニングをしているんですか?」と訊くと、「やっているうちに体が慣れるんよ。何もしていない」と言っていたのは謙遜でなく本当だったのだ!

◆ヨーロッパを横断するために巡礼路を利用する計画を立てた。ヨーロッパにはスペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラ(以下、サンティアゴ。キリスト教の三大巡礼地の一つで聖ヤコブの墓がある聖地)へと収斂する無数の巡礼路がある。当初は寒さを敬遠し南を回るつもりだったが、調査を進めるうち「巡礼路をつなぐ」というコンセプトに惹かれて計画を変更した。その中でもフランス・ルピュイの“岩山の上の教会”の写真を見て心を動かされ、「ここに到達したい」と思った。

ポルトガル→聖地サンティアゴ(700km)

◆3月31日に郵便局を退職し、4月10日に日本を出た。ユーラシア大陸最西端に位置するポルトガルのロカ岬から聖地サンティアゴへの巡礼路(通称:ポルトガルの道)を北上した。旅の2日目、この日の宿をどうしたらいいかわからない中、同じ道を辿る4名が声を掛けてくれ迎え入れてくれた。すごく嬉しかった、心強かった。メンバーはオーストリア、イギリス、アメリカ、イタリアの壮年男性陣。即席の国際チームの誕生だ。

◆ここから坪井さんたち5名は、車が通り土埃の舞う巡礼路、ぶどう畑の中を通る巡礼路と数日間行動を共にした。4日目にはイギリス人のデービット(63)がリタイア。脚の故障で歩けなくなってしまったがそのときのデービットの寂しそうな表情が忘れられない。皆何かしらの想いがある。重いものを背負っている。彼らにとっては一生ものの感じが伝わってきただけに彼のリタイアは寂しかった。元々団体行動が苦手と語る坪井さん、歩くペースの違いもありチームは自然と分解した。

◆所々続く難路をこえ、300km地点の古都コインブラへと到着。ここまで無事に来られたことで、「自分は最後まで行ける」という感覚が生まれた。ドミトリーではポーランド人男性のスタンとの出会いが待っていた。日本に8年住んでいたことのあるスタンの話を詳しく聞くとなんと坪井さんの地元、和歌山で生活をしていたという。しかも年齢も坪井さんと同じだとわかった。そこからスタンの身の上話を聞いた。共鳴し合う二人の時間。旅の醍醐味である“思いもよらない出会い”が訪れたひとときだった。

◆さらに歩みを進めこの巡礼路の中間地点350km、アルベルガリアという街に着いた。街の中央広場には巡礼者の立派な像が建っている。街の人にとって巡礼者は生まれたときからいる身近な存在。巡礼者のための補給食が道端に用意されており街全体が巡礼者を受け入れている。

◆ここで一枚の印象的な写真がスクリーンに映された。両腕にストックを持った50代ぐらいの白人女性の後ろ姿。果てしなく続く巡礼路をバックに、今にも倒れそうな状態でうなだれている。明らかに限界を迎えている様子だ。でも「助けを求められるか、倒れない限り手は出せない」。それぞれが何かを求めて懸命に歩いているのだ。坪井さんが実感を込めながら「この街に辿り着くだけでも凄い。大概の人はスタートすること自体を諦めてしまう。ここに立っているだけである意味尊敬に値する。それをこの街の人たちはわかっているから、巡礼者は大事にされ尊敬もされている」と語った。ここに立つ人たちは皆何かしらの想いを抱えながら、この道を歩いているのだ。

◆ポルトガルから国境の川を越えスペインへ。そして、いよいよ最初のゴールであるサンティアゴ大聖堂へと辿り着く。700kmの道のりを歩いてきた巡礼者の中には感極まって泣く人もいて、街中に幸せが満ち満ちている。巡礼路の良さは、大聖堂というかたちのあるゴールがあり、ここできれいに完結すること。皆で同じ道を歩む中で、同じ夢を見ることができる。皆で歩くこと自体が楽しく、偶然再会する人たちもいて、出会いが満ちていることが巡礼路の良い所だと感じたそうだ。そこからさらにフィステーラへと足を延ばした。地の果てを意味するこの地まで計1,000kmの道のりだった。坪井さんの中の目標地点だ。今回の歩き旅全体からすると、1/5の距離に過ぎないが、これ以上先の旅は想像がつかない。目標が叶い、ここで座って立ち上がれなくなってしまった。夢という名の目標があって、それを原動力にここまで動いてきた。夢が叶った瞬間に、夢は夢でなくなり、ここから先、何を原動力に自分自身を引っ張っていけばよいのかわからず呆然としてしまったそうだ。

サンティアゴ→フランス(約2,000km)

◆ここから先、スペインからフランスのルピュイに向けて“東へと”進む約2,000kmの旅がスタートする。巡礼路の1つである通称“フランス人の道”を逆行して、ヨーロッパを東へと横断するルートを進んだ。すれ違う巡礼者たちと「ブエン カミーノ(良い旅を!)」と挨拶しあう。巡礼者からは「そっちは逆だよ!」と何度も注意された。そもそも巡礼路を逆行して歩く人などいないからだ。道標の存在に気付かず何度も道に迷った。ここで坪井さんの精神の変化へと話が移る。

◆朝起きて、巡礼路を歩きながらひとり前日のことを振り返る日々。旅では昨日の自分自身にあれでよかったのか、もっとできたのじゃないだろうかと自問するのが習慣となっている。昔は自分自身が許せなかった。自分はもっとできたはずだという思いが、常に何をしていてもあって腹立つことが多かった。最近は自分自身を許せるようになった。昨日あれでよかったのかと自問したときに、いやよく頑張ったよなという返事が自分の中から返ってくる。今は緩くなった感じがあり楽になった。昔はもっとキリキリした感じを持っていた。飄飄としたイメージの坪井さんの意外な一面に触れた思いがした。

◆フランスへと入るためのピレネー山脈越えはいちばんの難所となった。20kmの距離で標高差1,450mを一気に下りる。フランスに入ると、ひたすら畑が続き、気温も35℃から40℃くらいに上がり日陰もなく猛暑が待ち構えていた。宿では夜になると皆で人生について語り合う。日本人との出会いもあった。73歳の男性と話をすると、寿命と健康寿命は違うんだよと言われた。生きているからといって、やりたいことがやれるわけではないのだと。だからやれるときにやりたいことをやるべきだと。体力的には落ちる一方だから、今やらないでどうすんだという想いでこの人はここに来た。思うことと実行することは全然違って、やはり実行できている人は尊敬に値する。

EU滞在期間の制約と山中の極限状況

◆EU(シェンゲン圏)にはビザなしで最大3か月しか滞在できない。そのため今回、ポルトガルのロカ岬(リスボン)からフランスのルピュイまでの約2,800kmを3か月以内に到達する必要があった。これは「年齢と体力的にギリギリの挑戦」だった。結果として、本当にギリギリながら 3か月以内にルピュイへ到達できた。旅の最終日はドミトリーに泊まった。ドイツ人2人が巡礼路の最後の夜を祝ってくれ、気持ちよく終えることができたそうだ。

◆その直後、地平線の創設メンバーの一人である岡村隆さんの訃報が入ってきた。あまりにガックリときてしまい次のルートを何も考えられなくなってしまった。滞在期限の3か月を超えて旅を継続するためには、EU非加盟国へ出国する必要があり、“とりあえず”ルート上にあるセルビアへと出た。岡村さんの件があって完全に気持ちがダウンし何もする気が起きず、ドナウ川のほとりに立って、ボーっとしていた。気持ちが回復するのを待っている状態だった。

◆その後バスで西隣の国、ボスニアのバニャルカへと移動。そこから東へと歩き始め国境を越えて再びセルビア。南部の都市ニーシまで歩いた。道路状況は織り込み済みだったものの、路肩がまったくない道が延々と続く。気温40℃近くになる中、道幅いっぱいの大型トラックやトレーラーがガンガン行き交っており、巡礼路とは比較にならない“命がけの道路”だった。さすがに身の危険を感じたため山の中をぬけていくルートを使うことにした。

◆車を避けるため山へと迂回したが、山中ではクマの足跡を発見、地図アプリの表示が消える、往復4kmもの道迷いと、精神的にギリギリの状況になった。道に迷った挙句、国境地帯の「ドクロマークの地雷警告」に出くわす。地雷原に迷い込んでしまったのだ。極限状況の中、山の中を走ってどうにか街の宿へと辿り着くことができた。別の場面、ひとり歩く坪井さんの姿に心を動かされたのであろう。疲れ切って歩いていたときに中年の女性が手を振ってこちらに向かって走ってきて坪井さんに温かいパンを手渡してくれた。言葉はわからなくても頑張ってという純粋な気持ちが伝わってきた。

◆セルビアから東へ進もうとするも、ルーマニアやブルガリアといったEU圏が隣接しており入国できない。飛行機を使ってそれらの壁になる国を越えてトルコへと進むことで“EU回避ルート”を取りつつ日本へと近づいていった。トルコでは路肩も広く快調に距離を稼ぐことができた。スタートから約4,000km地点のイスタンブールに着いたとき、燃え尽きて帰国を決断。自分の中で疲れ果てた感じがあり、かつ右目に翼状片ができてしまい日本で治療する必要がでた。より本質的には旅がもう嫌になってしまっていた。

◆そして坪井さんにとって本当に大事な原点である「人力俥友之会」の50周年記念パーティーが控えていた。様々な理由があり気持ちの堤防に小さな穴が空き、そこから少しずつ日本への想いがどんどん入ってきて止められなくなってしまった。体力的にはまだ動けるのに精神的な部分で自分の弱さを感じてしまい悔しかった。成田に着いたとき、都内の自宅までの80kmを歩いて帰ろうとした。2日かければ辿り着ける。結果的には台風の通過が重なり15キロ歩いたところで電車を使うことになったが最後まで自分の足で旅を完結させたかったという坪井さんの強い意志の表れだった。

◆旅を振り返り記憶に残ったのは、それぞれの国でその時々に助けてくれた人々、お世話になった人々。今後は、可能であれば(どのようなルートを辿るにせよ)日本までのルートを繋ぎたい。もちろんイスタンブールより先は簡単ではないというのもわかっている。ただ、「寿命と健康寿命は違う。僕はまだ動ける。体が動くうちにやりたいことをやりたい」と言って、坪井さんは今回の旅の報告を締めくくった。[塚本昌晃


報告者のひとこと

そもそもなぜ?を遡る

■地平線で話させていただいてから2週間が過ぎた。もう遠い昔のような気がする。旅そのものも同じだ。成田空港から都内の自宅を目指して歩いた9月3日以降、長距離はおろかまったく運動もしておらず、体重は8キロも増えた。ここ5年程、52キロ前後の体重しかなかった。2キロ減ると危険水域に入る状態。トルコで計った時は50キロを切っていた。58キロになったのは20年ぶりぐらいでちょっと嬉しい。

◆旅のさなか、いつも昨日を振り返っていた。昨日、頑張って次の町まで歩を進めておいたほうがよかったのではないかと。実際に町まで到着すると、いやいやこれは止めておいて正解だった、と思う。20年前に北米をランニング横断したときも同じ問いかけをしていた。あのころは、こんなユルイ答は返ってこなかった。カリフォルニアのモハベ砂漠を越えられなかった夜、日記を書いていて腹立たしさのあまりボールペンを床に叩きつけてしまった。今回、そういう感覚はいちども訪れず、気持ちはわりと平穏だった。

◆堪えたのは7月9日に入って聞いた地平線創設メンバーの一人、岡村隆さんの訃報だった。少し前に「お一人お一人にちゃんと人生のお礼を伝えるのには、もう少し時間が欲しいけどなあ」と、岡村さんらしくない書き込みを違和感ありつつも流してしまっていた。当時、巡礼路編をギリギリEU滞在日数内で終了させ燃え尽きていたためダメージが大きく、フランスにいて葬儀に参加できず申し訳ない気分だった。ともかくEU圏外に脱出しないといけなかった。フランスのリヨンから、まるで環境の違うセルビアのベオグラードに飛んで、心身ともに疲れてしまいドナウ川をぼんやり見ていた記憶がある。

◆イスタンブールに着いたときも気分はかなりモヤモヤした。ポルトガルからトルコまでは、旅立つ前に予想した未来図で、結果はほぼその通りになった。問題はその時点で、まだ時間も体力もあったことで、難しいのは終わらせ方だった。マラソン競技のようにルールがあるものはゴールに到達すれば自動的に終わる。でも自分で始めたものは自分で終わらせないといけない。イスタンブールの町中を歩き回り、自分を納得させる理由を探した。うすぼんやりした言いわけしか見つからず、結局いまだにすっきりはしていない。

◆「そもそもなぜそんなことをしようとしたのですか?」。報告会で腑に落ちる話にするためには答えるべき問いであると思い、過去にさかのぼって古い写真を出した。並べた写真を見せたら余計に混乱するかもと思った。懐かしい写真たちは、そのときに自分が一番惹かれたこと。基準は外ではなく自分の中にあると気づいた。結果もさほど重要ではなく「ああ面白かった」と本当に思えたら、それで充分なのだ。

◆旅に出る前に江本さんに「昔と同じことやっても意味がない」と、諭されたが、報告会後に「同じじゃないんだな」と、しみじみと言ってもらえてうれしかった。真向かいに座っていたので途中で寝ていたのも丸見えでしたが結論がそこでホッとしています。[坪井伸吾

イラスト-1

 イラスト 長野亮之介


「今やらないでどうするのか!」の言葉が響いた報告会

■坪井伸吾さんは自分のことを声高に話さない。以前、そのことについて質問したら「自分のことを話したい人が多いから、聞く側にまわっている」という答えだった。そんな坪井さんの話が存分に聞ける機会とあって、楽しみにしていた報告会。印象に残ったのは、旅のスタイルの変化や、出会った人々とのエピソード、体力と精神力についての葛藤。そして「寿命と健康寿命は違う。やりたいことを今やらないでどうするのか。思っているのと実行するのは違う」という言葉だ。これは坪井さんが退職後にすぐ旅に出た理由であり、さまざまな事情を抱えながら世界各地から巡礼路を歩きに来ている、思いを実行している人への敬意でもある。そして自分への問いかけのようにも受け取った。

◆子どものころから「自分で確かめないと信じられない」性格だったと語っていた坪井さん。今回の旅も「自分がどこまでできるか試してみたい」というのが原動力で、おそらく他人の評価は関係ないのだろう。かつて北米5400キロを走り抜け、そして今年、ロカ岬からイスタンブールまで4000キロを歩いた偉人でありながら、それを自慢するでもなく(自慢してもらっていいのだが)、淡々としているのが、また魅力だ。ユーラシア大陸横断のために「巡礼路を逆に歩く」ことが、現地では発想のないことであり、間違っていると注意されたときに歩いてきた道、距離を見せると一転ヒーロー扱いされるという話も面白かった。巡礼路事情について知ることができたのもありがたかった。

◆会場で坪井さんのお嬢さん、友ちゃんに久しぶりに会えたのもうれしかった。友ちゃんは、2009年の地平線会議30周年大集会「踊る大地平線」で「ダイナミック琉球」を一緒に踊った仲間。当時10歳だったそうで、お母さんの敬子さん含む大人たちと練習を重ね、舞台で踊ってくれたのだ。友ちゃんに話を聞くと、お父さんは家ではあまりしゃべらないそうで、この日の話の内容は初めて知ることばかりだったとのこと。意外なことに、家では会話が続かないことも多いそうで、「会場で質問に答える様子を見て、ちゃんと答えられるんだと驚きました」とも。その言葉を選びながらの静かな話し方は、坪井さんと重なるものがあり、謙虚さと芯の強さが伝わってきた。

◆旅はまだ続くのだろうが、独自の観察力・感受力による坪井さんらしい言葉による滋味深い旅行記が1冊にまとまる日を、今から楽しみにしている。[日野和子


北海道地平線に向けた1万円カンパのお願い

■2026年初秋に予定している北海道での地平線会議を成功させるため、1万円カンパを募っています。北海道地平線を「青年たちが集う場にしたい」、というのが私たちの希望です。交通費、宿泊代など原則参加者の自己負担としますが、それ以外に相当な出費が見込まれます。どうかご協力ください。[江本嘉伸

1万円カンパ協力者

(2025年11月19日現在)

賀曽利隆 梶光一 内山邦昭 新垣亜美 高世泉 横山喜久 藤木安子 市岡康子 佐藤安紀子 本所稚佳江 山川陽一 野地耕治 澤柿教伸(2口)神尾眞智子 村上あつし 櫻井悦子 長谷川昌美 豊田和司 江本嘉伸 新堂睦子 落合大祐 池田祐司 北川文夫 石井洋子 三好直子 瀧本千穂子・豊岡裕 石原卓也 広田凱子 神谷夏実 宮本千晴 渡辺哲 水嶋由里江 松尾清晴 埜口保男(5口) 田中雄次郎 岸本佳則 ささきようこ 三井ひろたか 山本牧 岡村まこと 金子浩 平本達彦・規子 渡辺やすえ 久保田賢次 滝村英之 長塚進吉 長野めぐみ 北村節子 森美南子 飯野昭司 猪熊隆之 岡村節子 加藤秀宣 斉藤孝昭 網谷由美子 阿部幹雄 高橋千鶴子 岡貴章 森本真由美 山本豊人 小林由美子 斉藤宏子 渡辺三知子 小林進一 岩渕清(3口) 那須美智 森国興

★1万円カンパの振り込み口座は以下のとおりです。報告会会場でも受け付けています。
 みずほ銀行四谷支店/普通 2181225/地平線会議 代表世話人 江本嘉伸

坪井伸吾さんの3回の報告会に参加しました

■こんにちは。いつも通信を読むのが楽しみな86歳女子です。金井重さんとのおしゃべりの中、地平線会議を知ってから、30年は経っているでしょうか! 浦和に住んでいて、介護の真ん中の時、榎町の報告会に数回出席しました。それが偶然坪井伸吾さんでした。人力車で東海道を歩き、アマゾン河を筏で銃撃を受けながらわたり、アメリカ横断ランを完遂。偶然、この3回の報告会に出ていたのです。今回の報告会でその坪井さんがユーラシア歩き旅を話されるとは!

◆私は60年安保時に早大露文にいました。幸運にも4時退社と知らずに受けて就職した東京海上損保に働きながら2足の草鞋を履きました。安保の後も勤務評定反対など授業ボイコットばかりで、あまり勉強をした記憶がありません。体育で山岳をガラガラポンの抽選で引き当て、数回山へ行ったときに知り合った今の夫がいて、現在があります。

◆夫の両親の介護に26年。孫4人の夕食も世話をしました。いちばん小さい孫が小学3年になるとき、夫の初の転勤で仙台に行き、とても気に入ってマンションを買いました。移住40日後にあの大震災に遭遇しました。あのとき、江本さんから電話をいただいたことを感謝しています。仙台駅隣の高層マンション23階で、制震マンションなので被害なしでした。夫はヘルニアで前日入院、3月11日午後2時半全身麻酔、2時46分に医師がメスを取ったとたんに大揺れ!! 手術は止められ、本人は3日間眠り続けて、地震、津波を知らず!! 今でも夫婦そろって元気に過ごしています。

◆夫より私がスポーツ観戦好きで、テレビが主ですが、バスケットボール、サッカー、バレーボール、野球、カーリング、ラグビー、特にワールドカップ級は大好きで、録画ではなく、午前2時でも3時でも起きて観戦します。来年は冬季オリンピック、WBC野球、サッカーと楽しみがいっぱいで今からワクワクしています。

◆梶彩子さんのロシアの話、今後の西興部村の地平線など魅力いっぱいです。残念ながら行かれないので、ささやかですが、カンパで応援します。最後に、会津の酒井富美さんとは民宿に泊まり、地平線の縁で手を取り合いました。また、仙台で東北大学の桜を見に行った帰り、古本屋に入って、宮本常一さんの本を見つけ、5月に佐渡へ旅行したときは宮本常一さんの足跡をうかがい知りました。江本さんのご健康と、スタッフの皆様のご活躍を心からお祈りいたします。[仙台 小村寿子

長めの追記 私が露文を選んだわけ——江本さんの問いかけにこたえて

◆1939年4月4日東京都豊島区雑司ヶ谷生まれ、私は近くの鬼子母神神社やみみずくの棲む欅並木の下で遊んでいた。1945年3月8日の東京大空襲で父の姉と息子が浅草で被災、隅田川で真っ黒い焼死体で見つかった。姉の夫と学徒動員から家に戻った長男が家に水をかけて消火し、生き残った。戦後その叔父は鬱で鉄道自殺をした。

◆私の母は次女で両親は東大赤門前で丁稚が沢山いる大きな米屋だった。その家も全焼し、母の姉の夫が、満鉄にいて東京に迎えにきた。父が戦地に行っていた母は渡満を嫌がったが、両親、長女一家4人、うちは母と3歳の弟と私の3人、未婚の叔母が3人の12人で哈爾濱(ハルピン)に向かった。敦賀から北朝鮮経由で2か月もかかって哈爾濱に到着。哈爾濱は6月、春と夏が一度にきて美しい街だったと叔母が書き残しています。母の弟は中学2年の時学徒動員で渡満、肺結核にかかり除隊、哈爾濱で親の家に戻りましたが、苦しんで死にました。

◆哈爾濱では満鉄の隣が大使館、反対隣が放送局、庭の木に水を撒くと翌日はキノコが沢山採れました。哈爾濱に若いロシア兵が入ってきました。母や叔母は片言のロシア語で、彼らがコルフォーズだったことを知りました。着物を着た母と叔母が彼等と撮った写真が今も手元にあります。冬は坂を橇で下って、松花江の上をトラックが走っているのを驚きの目で見ていました。私も片言でロシア語を話しました。

◆8月15日終戦。家族の中で私たちが一番初めに帰国の道を採りました。母29歳。頭を坊主にし、男装のつもり。懐にコルト銃と青酸カリを持っていました。無蓋の石炭貨車に乗り、母はどんなにつらかったかと思います。日新丸ではコレラが流行り、子供が次々に死んでいきました。莚にくるまれ、ボートに乗せられ、沖に捨てられていきました。私も子供ながらに、いつ死ぬか?と思いました。

◆佐世保に着いても上陸が許されず、緑濃い日本の陸地を眺め、船辺をサヨリが銀鱗を光らせる姿が、今でも目に焼き付いています。やっと日本に上陸。その際検疫と言われ、女性が横一列に並び、全員お尻を出し、検便をされたと母は悔しがっていました。恥も何もありませんでした。

◆佐世保から東京に帰る列車は大混雑、窓から乗って、母はピカドンが落ちた広島で降りようと思ったそうです。がすし詰めで降りられず、目白の父の兄の家にたどり着いたら父が先に帰国していました。しかし叔父の家は娘5人がいて、ぎゅうぎゅうでした。目白駅前に父はバラックで自転車屋を始めました。父は南方の島で生き残り、戦争の話は一切しませんでした。ただ、マラリア熱があり、高熱を出すと「うちのお庭に象が来た!」と叫びました。庭もなく、象もいないのに。

◆中学二年の夏休み、代々木の日ソ学院にロシア語の夏季講習を受けに行きました。習うのは学校の先生が多かったように覚えています。黄色いスカートを身に着け、おさげ髪の少女は珍しかったと思います。日本女子大の学生がうちに下宿して、卒業時に世界文学全集を全部私にくれました。モーパッサンの『女の一生』バルザックの『絶対の探求』など訳もわからず読みました。文字と文学が大好きでした。中学3年では学校初の女子生徒会長になり、暴力教師を議題にしました。卒業式には生徒総代になりました。

◆高校は北園を選びました。非常に自由で、制服なし、大学並みに科目選択を自分で行いました。卒業前の進路調査で、引き揚げで貧しく長女だったので、多分10月過ぎに先生に就職しますと伝えました。もうほとんど試験が終わっていて、残っていたのが三越と、東京海上でした。私だけが両方受かりました。三越ではどこの売り場を希望ですか?と問われ、本の売り場ですと答えたのを覚えています。東京海上には入社の日に損害保険会社と知りびっくりしました。

◆運が良かったのは東京海上では9時15分始まり、4時退社でした。そこでダメ元で上司に「明日休ませてください、早稲田大学に入りました」と言いました。女性では初めてでしたが、男性は高卒で夜学に行く人が何人もいました。大手町から早稲田に楽に行くことができました。


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◆申し込みは地平線会議のウェブサイトか、はがき(お名前・送付先・部数を明記)で以下に。
〒167-0021 東京都杉並区井草3-14-14-505 武田方「地平線会議・プロダクトハウス」宛。
支払いは郵便振替で。振込用紙を同封しますので、カレンダー到着後に振り込んでください。

■長野亮之介画伯による恒例の『地平線カレンダー』。今年の春と夏の2度にわたって訪れたカメルーンで眺めた風景や出会った人々を、さまざまなタッチで描いています。例年と同じA5判の全7枚組。表紙の裏に各絵のキャプションが載せてあります。売り上げは地平線会議に全額寄付され、今後の出版活動のための資金となります。


地平線会議からのお願い(原稿募集)

2026年1月の通信で「新年300字特集」を行います。新しい年にあたって決意していること、感じていること、地平線通信への感想、地平線会議に期待すること、などなどテーマは自由です。新年の挨拶のような内容は不要、具体的な感想や提案を歓迎します。締め切りは早いですが1月5日(月)とします。短い文章に挑戦してください。宛先は通信の最後のページにある「地平線ポスト」、あるいはハガキで府中市の江本の住所まで。

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地平線ポストから

どこにいても繋がる地平線

■12月8日午前8時過ぎに江本さんから電話。「締め切り間近で申し訳ないが」という前置きの原稿依頼でした。突然の電話はいつものこと。江本さんの発信者表示を見た瞬間から用件の想像はついたのと、すっかり不義理をしているという負い目もあって、執筆を引き受けました。去年から今年にかけての地平線会議的出来事を中心に近況報告を兼ねて書くことにします。

◆2022年3月に昭和基地での4回目の越冬を終えて帰国後、3か月間の残務処理を終えて国立極地研究所を退職し、7月から念願のフリーとなりました。南極に出かける前から、帰国後は久しぶりにネパールに行こうと考えていましたが、昨年9月から12月にかけて16年ぶり26回目のネパールに行ってきました。どうせ行くならこれまで行ったことのないエリアで長距離を歩こうと思い、最初の2か月は東ネパールのカンチェンジュンガ~マカルー~エベレストの各エリアをつなぐルート、残りの1か月はランタン村を中心に歩く計画を立て、気心の知れた仲間と山旅を楽しむことができました。

◆東ネパールは総勢6名。うち3名はカンチェンジュンガエリアのみ参加で、残り3名は最後まで歩くことにしたのですが、私はマカルーベースキャンプで風邪をひいてしまい、エベレストエリアに抜ける6000m級の峠越えをあきらめてもう一人と一緒に下山。結果、全行程を歩いたのは1名だけとなりました。心残りはあるものの、観光開発のされていないリモートエリアを行く総行程約350㎞、54日間の山旅は思い出深いものとなりました。

◆東ネパールから下山後は、先に下山してユキヒョウ調査隊に参加していた幸島司郎さん(ランタンプラン事務局長)と札幌からやってきた北大山岳部現役2年目の女子部員と合流して3人でランタン谷を訪れました。2015年のネパール大地震後に貞兼綾子さんを中心にランタンプランとして復興支援をしたものの、現地を訪れるチャンスがないまま時が過ぎてしまい、ようやく20年ぶりに訪れることができました。

◆地震で発生した氷河雪崩による土石流の跡は生々しく、以前の美しかった村の佇まいの面影は殆どありませんでしたが、貞兼さんが息子同然に可愛がっているテンバに村を案内してもらい、村の人たちの生活の様子や会話から、彼らの逞しさに圧倒される思いがしました。

◆ランタンの後に訪れたゴサインクンドでは、カトマンズの若者集団と同宿となり、そのうちの一人がカオリという日本人を知っていると話しかけてきました。よくよく話を聞いてみると、カオリとは稲葉香さんのことで、面識はなかったものの地平線通信や著作を通して知っているということで話が盛り上がり、結果的に稲葉さんとFacebookでつながることになりました。

◆そんな縁もあって、今年の6月に札幌で開催された稲葉さんの講演会でお会いすることができました。その際、南極の話を聞いてみたいということになり、私の大阪への帰省に合わせて、11月9日に千早赤阪村で講演を行いました。「極夜を越えて」という素敵なタイトルをつけてもらい、辺境の地にも関わらずたくさんの人が参加してくれました。中でも中学3年生のときの担任の先生が来てくれたのは感激でした。また、中学高校時代の同級生、大学山岳部の後輩、南極関係者も来てくれて、昔の仲間に私がやってきたことを聞いてもらえたのはありがたいことでした。

◆今年の9月には関野吉晴さんの話を聞くことができました。関野さんが北大で集中講義をするという情報を聞きつけ、参加自由というので4日間15コマというハードスケジュールのもと聴講しました。以前から関野さんの話は一度聞いてみたいと思っていたので、千載一遇のチャンス。期待に違わずその行動力と経験に裏打ちされた話に圧倒されました。

◆その他にも北大博物館で講演した際に、法政大出身で北大環境科学院に在籍する杉田友華さんが来てくれるなど、どこにいても地平線会議の縁が繋がって行きます。[樋口和生


先月号の発送請負人

■地平線通信559号は、11月19日に印刷し、発送作業を終えました。作業に汗を流してくれたのは以下のみなさんです。20ページの大部の作業、おつかれさまでした(最後の人は、今月も仕上がった通信を受け取りに行っただけです)。

 車谷建太 中畑朋子 伊藤里香 白根全 坪井伸吾 落合大祐 江本嘉伸


江戸ポタミア探検隊始末記

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■高野秀行くん(辺境作家、早大探検部OB)との積年の約束を果たすべく日本の秘境、高知県南西端から上京したのが2017年11月。あれから8年、奥多摩の川と山々をベースにイラク、トルコ、中国の川と東日本の森や川にも足を運んだ(縁と訳あって、この5月から、千葉県館山市に住んでいる)。高野秀行との約束は、1997年ナイル源流域の国々の植林プロジェクト形成調査に4か月無給で同行してもらった代わりに、「いつか治安が良くなったらナイル川を一緒に下ろう」だった。

◆2017年早春、東京の高野から四万十市の実家に電話が入った。「ナイルはまだダメですが、チグリス・ユーフラテス川の特に合流点にあるアフワールと言う巨大湿地は面白いですよ、行きましょう」。約束から20年が経っている。家族の反対があったが、高野から三顧ならぬ四顧の礼があり家族も渋々了解。2年もあれば終わるつもりが、コロナ禍などもありチグリス・ユーフラテス川通いは延べ7年に及んだ。

◆「イラク水滸伝」(チグリス・ユーフラテス川下流編)に続き、来年春「メソポタミアのボート3人男」(チグリス・ユーフラテス川上流編)が出版予定。集英社文庫ウェブサイトでの連載が去る8月に終了したばかり。エドポタミア探検隊は、この川探検のための日本における鍛錬のために結成した。メソポタミアはギリシャ語で「(チグリス川とユーフラテス川)二つの川に挟まれた土地」の意味。エドポタミアは荒川と多摩川に挟まれた江戸の町にちなんで、語呂合わせした造語。

◆「いいですね」と高野は言った。ただ、この20年で高野のライフスタイルは大きく変化した。1990年代、「相棒」高野に電話すると「暇か?」「暇です」が決まり事だった(人気ドラマ「相棒」の決まり文句より前からこの会話をしていた)。「では、晩飯に一杯つけて、フランス語の書類書きを頼む」「ラジャー」。あのころの高野は「人が休む盆と正月に仕事して、あとはぶらぶらしてます」と豪語していた。

◆2010年代になりいくつかのノンフィクション賞を取ったりしてすっかり売れ子になった高野は、「忙しいか?」「忙しいです」に変わった。中島みゆきの「悪女」の歌詞みたいに「あの子もわりと忙しいようで、そうそう付き合わせてもいられない」でエドポタミア探検隊の荒川、多摩川鍛錬計画に来られないことが多く、偵察と称して荒川は一度、多摩川は二度、一人ドラゴンランをやった。ドラゴンランは川の最源流の山から海まで、徒歩、自転車、カヌーなどの人力だけで踏破する行為に名付けたもの。忙しい高野は部分的に参加した(ちなみに川を続けて航行するのはドラゴンヴォヤージュとして世界一周計画を立てていた。ナイルはその途上だった)。

◆館山に来たのは、このエドポタミア探検隊の始末をつける意味もあり、次なるステップへの飛躍点でもある。縄文時代より前、2万年前の氷河期、海岸線は今より100m以上下り、荒川には利根川と多摩川が、干上がった東京湾で合流して館山あたりで太平洋にそそいでいたらしい。そう、ここは「エドポタミア探検隊」に始末をつけるには、またとない場所なのだ。館山の山は椎や樫などの照葉樹林が優先し海中にはサンゴも見える。何より鏡ヶ浦の向こうに富士山が望め、夕陽時のシルエットの絶景が縄文時代と変わらず人々を癒している。そして今「水と森の地球巡礼88景」を構想している。この始末記はその0号でもある。[山田高司

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人生はワンダフル、そしてデンジャラス

■アラブの格言に、こんな言葉がある。「故郷とは、人間が持ちうる最良のものである」。アラブ社会において故郷とは、生まれた土地を意味するだけではない。深く広い親族コミュニティがあり、自分が生かされてきた、そして生かされていくだろう「人間の連なり」を指すものだ。アラブの人々にとって故郷とは、土地そのものではなく“人間”であると言える。

◆そうしたかけがえのない故郷での暮らしを内戦によって失い、難民となっていった人々の物語を、ノンフィクション作品『シリアの家族』で描いた。大変光栄なことに、この作品によって第23回開高健ノンフィクション賞を受賞させていただき、身に余る光栄である。ただ恐縮している。

◆物語の舞台は中東の国シリアだ。古代文明の発祥地としても知られるシリアは、2011年以降、市民による民主化運動を政権側が武力弾圧したことをきっかけに、泥沼の内戦へと突入。多くの死者、難民が生まれた。かつての人口2240万人中、50万人以上が死亡。500万人以上が国外に逃れて難民となったこの騒乱は、国連によって「今世紀最悪の人道危機」とも呼ばれた。

◆私の夫はシリア難民であり、夫の家族もまた、難民として故郷を離れなければならなかった。そうした彼らの境遇や思いを、私は家族の一人としての近い距離から目撃してきた。報道では、“難民”とひとくくりにされる。そうした彼らにも、1人1人、唯一無二の人生があり、物語がある。それを実感するようになった私は、シリアで何が起きているのか、難民となることがどういうことなのかを、市井の人々の姿から伝えることを試みるようになった。

◆当初この作品では、故郷への帰還を願いながら異郷に暮らすシリア難民を描く予定だった。しかし昨年12月のアサド政権の崩壊により、作品を書き始めた当初からは思いもよらない波乱の展開となった。執筆するうえで考えたことは、ひとつの出来事にしても、様々な解釈ができる余地を残すということだった。特に、人間の多面性をこそ描きたいと思った。

◆何故なら私は写真家だ。そして私が考える良い写真とは、見る人によって、さまざまな解釈が可能な写真だ。同じように、作品を描くのなら、読み手によってさまざまな解釈が可能で、それぞれに何かを考えさせられるものを、と願ってきた。答えを示したり、白と黒の線引きをすることは、私の役割ではない。あくまでも、読み手が何かを考えるきっかけを示すにとどめ、読み手それぞれが、それぞれの答えを見出していただけたら嬉しい。

◆『シリアの家族』は、5年近い執筆期間のなかで生まれた。その日々のなかでも、特に2022年に単身で行った、アサド政権下のシリア取材が思い出深い。厳しい情報統制下、市民が真実を語らず、親族によって自宅軟禁にあい、秘密警察に監視をされ、精神的に追い込まれることもあった。しかし、どのような厳しい状況下でも、写真家でありたいと思った。

◆写真家としてある、ということはどういうことか。それは、どんな状況にあっても、常に光を追い求めるということではないだろうか。そしてシリアのような紛争地においてそれは、人間のなかの光だ。光の存在を信じ、見つめ続けることが、写真家の仕事であり、役割ではないかと思っている。どんなに過酷で厳しい状況にあっても、目を凝らし続けるなら、微かな光はあるはずだ。それを探し続けたい、これからも。

◆11月21日に、開高健ノンフィクション賞贈賞式が都内にて行われた。その日、私の二人の子供たちと夫に加え、秋田から両親も参列した。夫と結婚する際、秋田の両親は、イスラム教徒、アラブ人という夫のイメージから、テロリストを連想したらしい。そのため結婚を大反対されて勘当され、1年以上、まったく連絡を取れなかった期間がある。「娘はいなかったものだと思うから、お前も親はいなかったものだと思え」と父に言われ、もちろん結婚式も行うことができなかった。

◆あれから13年が経ち、現在は両親との関係も回復した。今では両親も夫を理解し、二人の子供たち、サーメル(9歳)とサラーム(6歳)も可愛がってくれる。その両親に、結婚の際に見せられなかった晴れ姿を見せたいという思いから、贈賞式ではほぼ20年ぶりに着物を着た。これまで私は、ヒマラヤに登ったり、砂漠を旅したり、シリア人と結婚したりと、自由奔放に生きてきた。そうした生き方は、親として受け入れがたいことも多かったに違いない。しかし、そのようにしか生きられない私を受け入れ、認めてくれた両親がいる。心から感謝したい。

◆開高健ノンフィクション賞。本当に、私にはもったいない賞だ。この受賞に慢心せず、早く次に行かなければ、と思う。頭の中は、「常在戦場」だ。私にとっては、取材先のシリアではなく、二人の子供を抱えて家計を支えなければならない日本の日常生活こそが、戦場だ。

◆12月21日に、夫がシリアに帰ることになった。今後、日本に時々やってくることがあるかもしれないが、拠点はもうシリアだ。私たちは日本に残る。寂しいかと言われたら、全然寂しくない。というのは嘘で、30%くらいは寂しいが、夫の決断を応援している。それは私自身が、難民を取材しながら、彼らがいかに故郷に帰ることを夢見てきたかを知っているからだ。その時にならないと先のことはわからないが、新しい家族の形を時間をかけて探るつもりだ。

◆12月27日の報告会では、新刊『シリアの家族』をめぐる話題とともに、シリアに帰る夫のことや、今後の新しい家族の形の模索などをお話しさせていただく予定だ。改めて人生はワンダフル、そしてデンジャラスだと思う。[小松由佳


通信費をありがとうございました

■先月の通信でお知らせして以降、通信費(1年2000円です)を払ってくださったのは以下の方々です。万一記載漏れがありましたら必ず江本宛メールください。通信費を振り込む際、通信のどの原稿が面白かったかや、ご自身の近況などを添えてくださると嬉しいです(メールアドレス、住所は最終ページにあります)。

那須美智(20000円 通信費5年分と北海道での地平線会議寄附1万円です) 執行一利(4000円 市川市から千葉市に引っ越しました) 岸本佳則・実千代(10000円 5ネンブン) 渋谷嘉明 (10000円 通信費です) 川﨑彰子(6000円) 小泉秀樹(5000円 2025年通信ヒ+カンパです。いつもhotなfrontの長文コラムすばらしい!) 宮崎拓(いつもご苦労様です。通信費です) 新堂睦子(10000円 NHKドキュメンタリー、ペシャワール会・中村哲氏の番組をみて江本さんを思い出しました。お二方の共通点は「やさしさ」でしょうか。ペシャワール会には長年、わずかながら寄付しています。→中村哲さんと較べられたら即死です。E) 川﨑泰照 広田凱子 三上彬(6000円  3年分) 光菅修(9500円 通信費+カンパ) 海宝道義(10000円  5年分 ) 渋谷典子 日野和子 森国興(30000円 内訳は以下の原稿中に) 森本眞由美(5000円)

◆今年も秋はなくいきなり冬の季節となりましたがご清栄のことと存じます。ご無沙汰しております。毎月の地平線通信を楽しみに読んでます。とくに巻頭言の江本さんの文章は毎回読みごたえがあります。あらゆる分野で時期を得た話題を書かれ、敬服してます。

◆地平線会議がいまだに活発な活動をされるのも江本さんいればこそと痛感いたします。昭和40年半ばの白馬での全国学生探検会議、アムカス、そして地平線会議と半世紀を超える長い活動となりました。

◆ここに地平線会議に対しまして少しカンパをさせていただきます。まずは地平線通信費10000円、来年秋の西興部村での北海道地平線に10000円、そして日頃地平線通信の発送請負人に尽力されている人たちの打ち上げの飲み代に10000円、計30000円を同封させていただきますのでお使いください。

◆私も今年は脊柱と腰椎の圧迫骨折を2度もやってしまい、療養に時間を費やしました。月一度の地平線通信が唯一の楽しみでした。もう少し頑張りたいと思います。

◆話は変わりますが、いま問題となっている熊の害も世の中の様相が一変した思いでいます。私も熊を何頭か撃ちましたが、今は警察や自衛隊まで出動することになりました。本来ハンターがやるべきことと思いますが警察も銃の規制を強化してハンター人口は激減しています。

◆私はアフリカ、シベリア、カナダ等でいわゆる猛獣狩りを体験しましたが、やはり手負いにしたら必ず逆襲される危険を痛感しています。熊の駆除にしてもその習慣を熟知したハンターが行うのが本来の姿と思っています。この熊問題、もう少し時間がかかりそうです。お会いできますことを楽しみにしております。ご自愛ください。[森国興 日大探検部OB]


林業現場から 新たな旅へ

■12月いっぱいで、新卒で働いてきた林業会社を辞める。新卒から3年8か月が経過したが、実際はその間に休職して旅に出たり怪我をして療養した期間もあったりしたので、正確には林業の現場に出て働いたのは3年ほどになる。

◆私のやっていることがとりわけ珍しいことではないという思いがあり、これまで林業について詳しく語ってこなかった。現場に出て木を伐る女性が今どき珍しいということはないし、女性だからこそ活かせる視点がある、などという考え方は私は胡散臭く思う。男も女も関係ない。他でもないあなたはどうなんだ?どう考えどう動くのか?という話である。

◆林業といえど地域によっても会社によってもやることはさまざまだし、つまり森林(もり)や木との向き合い方も人によってさまざまである。極端な例かもしれないが、地球温暖化現象が人間活動によるものだと信じる人と信じない人がいるように、森林という自然環境に人間がどこまで手を加えるべきか同じ林業マンのなかでも考え方は人それぞれで、私も人間が自然にどこまで影響を与えることができるのか否かいまだに疑問に思う。

◆必要以上に山に道を切り開き木を伐採して、お金の足しにならないようなものはその場に捨てる……。「木材の活用」をとうたわれるが、自然と向き合うなかで経済的なことを優先してしまうのは人間の勝手に過ぎない。正直、川上といわれる山現場で3年やってきても、人の暮らす場所にかかる川下における木材の活用という面については私はあまり携わることができなかった。

◆ネガティブなことを言ってきたように思うが、もちろん、自然のなかの山現場で働くことじたいは幸せである。とある林業マンたちへのアンケートでは、「林業をやっていて幸せだと感じるのはどんな瞬間か」という質問の答えとして目立っていたのが、「風がふいたとき」という答えだった。風の気持ちよさ、日差しの暖かさ、森のざわめき、鳥の鳴き声……。「生きている」感覚が確かにあった。それに、藪に覆われて見通しが悪い雑木林や密生した暗い林を見通しよく明るくしていく作業は、目に見えて変化を感じられて、やっていて気持ちいい。

◆林業を3年やって一区切りつけようとしている私は、林業マンとしてはまだプロとは言えない中途半端な段階であると思う。けれど、林業で得た経験と知識、人との繋がりを活かして、山により深く関わる在り方を目指していく。来月は大型免許を取りに行き、その後は冬の間は文字通りふらふらする。そして来夏は山小屋で働く予定。これからも山にさすらう私をよろしくお願いいたします。[長野の木こり山人、小口寿子

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ねこまんが

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参院選が背中を押したデンマーク再訪

■「言霊」という言葉をよく聞くが、私は半信半疑だった。私の前回の投稿(2025年1月号)は、「またきっと私はあの地(デンマーク)に確かめに行くんじゃないかな?と予感している」、で締めていたが、まさか1年足らずでまたコペンハーゲン空港に降り立っているとは!

◆前回、町を包み込む安心感と清々しい空気、道行く人々が醸しだしている余裕と満ち足りた表情の正体は「民主主義が正しく機能しているから」ではないか、とまでは何となく推測できた。では、なぜ正しく機能しているのか?まではわからず日本に戻ってから様々な書籍を読み漁ったりネットで調べたりしてみたものの、明確な答えは出てこなかった。ならばやはり現地で確かめた方が良いだろうと思い、実際2〜3年の長期スパンで準備しようと思っていた。

◆ふいに背中を押したのは、夏の日本の参院選だった。出所がはっきりしない情報を声高に叫んで人々の不安を煽り、排外主義的なキーワードをキャッチコピーにする政党が躍進し、それを支持する人もたちまち周囲に増え、私はかなりショックを受けた。今まで以上に自分たちの声がかき消されて行くような気がして、果たして日本は本当に民主国家といえるのだろうか?と今までも薄っすらと抱いていた疑問が頭を占めるようになり、居ても立ってもいられなくなって、それから1月も経たぬうちにデンマーク再訪を決めた。

◆今回決めていたのは、政治家にアクセスすること、教育現場を見ること、前回行きそびれた首都コペンハーゲンのヒッピー街、クリスチャニアに行くこと、そして自転車に乗ること!

◆まずは自転車でクリスチャニア自治区に行く事にしたが、そこで想定外の恥ずかしい思いをした。私は日本人女性としては平均身長よりやや低い位だが、デンマークのレンタサイクル屋で一番小さいものを借りて一番低くサドルを下げていざ腰かけて見ると、足がぶらぶら……地面は遠かった。それ以上小さいものはうちでは無い、と申し訳なさそうに言われ、自転車に乗る練習から始める羽目になった。東京ではクロスバイクに颯爽と跨り、風を切って街を走り回っているのに、乗り慣れない自転車で何度か盛大にこけた。

◆しかし乗り慣れてくると、デンマークらしいデザイン性の高い新しい建築群と古い街並が調和している美しい景色が目に入り始め、海風を全身に感じながら漕ぎ進むのは爽快だった。自転車が移動手段として主権を得ているデンマークの自転車道は、広く整備が行き届いている。場所によっては二車線の所もあり、街の中心部に自転車専用のハイウェイも存在しているので、自転車好きには堪らないと思う。新宿から箱根位の距離なら親子でサイクリングなんてことも普通らしい。その分自動車の渋滞なども見られず、実際空気は東京に比べておいしい。

◆前回、自転車の前かごの位置に人が乗れるほどの大きな荷台をつけた自転車が町中を走っているのを度々見かけて驚いたが、そのバイクの発祥の地がその日の目的地クリスチャニア自治区だ。自治区のエリアは、皇族の住む城から約1キロ、首都コペンハーゲンの一等地にある。東京で言えば永田町辺りに34ha(東京ドーム7.5個分)の広大なヒッピー達の住む場所があるというイメージだ。1960年代、ヒッピームーブメントが起こり元々は海軍施設を若者が占拠したのが始まりだ。自転車に乗るのに苦戦し、少し時間に遅れて到着した私を、当時からずっとそこで暮らしているエバはいたずらっぽい、でも包み込むような笑顔で迎えてくれた。エバは時折冗談を交えながら、気さくにクリスチャニアの歴史と、ここでのルールを教えてくれた。

◆暴力は行わない、武器を持たない、ハードドラッグを使用しない、車を持たない、犬を繋がないなどなど。エバに案内されて自治区内を歩くと、確かに繋がれていない犬がのんびりと歩いている。開放された窓から子どもたちの屈託ない声が響く。DIYで建てた家は一つも似た物がなくどれも個性的で、壁面には派手なグラフィックアートが施しているものもある。エバによれば、過去には政府からたびたび立ち退きを迫られ、この地の所有を巡って国と銃撃戦になった事もあったが、2012年に募ったファンドで得た資金を元手に、住民が8500dkk(約20億円)でこの土地を買い取って平和的合意に至り、現在新しい建物を作らない、住民を増やさない約束で自治区には1000人弱の人が暮らしている。

◆散策を続けてみると、広場には、チベット仏教のタルチョーがはためき、アフリカにありそうなプリミティブな巨大彫刻が置かれ、一瞬、近代的で洗練されたコペンハーゲンの中心部にいることを忘れた。メイン通りのプッシャーストリートでは以前は大麻の売買も合法だったが、2024年にその通りで大麻を巡って銃で撃たれて人が亡くなり、クリスチャニアでも大麻の扱いは禁止になったのだ、とエバは少し悲しい目をしながら説明してくれた。でも禁止になったとはいえ、散策途中でなにやらスモーキーな草の匂いが鼻をよぎったのは気のせいだろうか?

◆その他、クリスチャニアならではの様々な特徴があった。クリスチャニア税2000dkk(48,000円)を月々自治区に納めている。国には税金を払っていないが、教育や医療などの公的なサービスは高い税金を納めている他の市民同様に受けられる。リーダーは持たず合議制で決め、すべての住民が納得するまでとことん話し合う。などなど。

◆そんな自治区の存在を、大半のコペンハーゲンの人々は煙たがりもせず、おおらかに受け入れている。今やチボリ公園と並ぶデンマークの人気観光スポットにもなり、住民退去の際に新しい住民を募集すると100名近い人々が集まるという。なんだかそういう懐の深さが、「どんな人たちにも居場所があり、誰一人取りこぼさず、みんなで幸せになる」ことをモットーにしているデンマークらしいな、と私はクリスチャニアの奥に、そっと微笑むように佇む深い緑色の池を眺めながら思った。

◆デンマークではなぜ民主主義が正しく機能している(と感じるのか)を探る旅はまだ始まったばかりだったが、それからの数日間を想像して私の胸は早くも高鳴っていた。[中山郁子

来年の西興部、私も何かやります

■江本さん、ご無沙汰してました。お元気ですか。地平線通信からは相変わらずエネルギッシュな江本さんが伝わってきます。そして長野亮之介画伯の地平線カレンダーをありがとうございました。さすがにどのページもかっこいいし、生を感じますね。

◆さて、通信毎号に出ている西興部村ですが、この村には私の長男雄馬(田中ではなく南優馬といいます)が同じ酪農と羊をやっています。その雄馬の家でGA.KOPPERの浅野和さんと歓談したこともあります。西興部村は大変親しみのある所ですよ。なので北海道地平線会議ではどういう形でできるか何か協力したいと思っています。

◆もう北海道、私の住む豊富村も雪が増えてきています。5月まで雪と付き合います。これから冬本番です。江本さん、どうかお身体大事に元気で過ごしてください。来年秋の西興部、楽しみにしています。[2025年12月11日 田中雄次郎](採れたてのカボチャとニンニク、それに袋詰めの自家製キムチの入った段ボール箱にいつもの手書きで)

以下、カボチャとニンニク、それにキムチについての雄次郎の解説。
◆肥料、農薬不使用、自然栽培の自家野菜▲カボチャ えびす(緑)夢味(白) 見栄え悪くてゴメンなさい。寒くなってきていたんでしまったらそれもゴメンなさい。▲自家野菜のキムチ(ハクサイ、ダイコン、ニンジン、ネギ、ニンニク、ノシャップの漁師と物々交換している昆布、静岡の農家の友人が送ってくれた甘柿、買ったシメジを材料とした)
ありがとう、田中君。私は毎回雄次郎の手書きの文章を読むたび、よし私ももう少し頑張ろう、と励まされる。もう50年近く会っていないのに。[E]

追悼・岡村隆

岡村隆さんを偲ぶ会ダイジェスト

■7月に亡くなった岡村隆さんの追悼会が12月14日、私の母校の法政大学で開かれた。法大探検部OB会の主催。岡村さんのご家族のほか、他大学探検部や山岳部、ジャーナリスト、出版関係、NPO南アジア遺跡探検調査会に加え、もちろん地平線会議の面々も多数参加した。100人に迫る人数が集い、別れを惜しんだ。

◆会場に入ると、市ケ谷キャンパスの高層タワー26階には似つかわしくない祭壇が目を引いた。生前愛用したタープやツェルトと、うっそうと植物が混ざる供花で飾り立てられている。「ジャングルのように」と生花店を営む後輩らが用意したものだ。中央の遺影として長野亮之介さんが植村直己冒険賞受賞記念パーティーのために描いた「ゾウに乗った岡村さん」の絵がA1サイズに引き伸ばされて飾られた。

◆会の冒頭に30秒の黙とうが捧げられ、探検部の関係者や生前ゆかりの深い方々がスピーチしていく。私は探検部員時代と、NPOで後輩として指導いただき、今回は会の実行委員としても参加した。地平線会議や仕事場でのお姿はよく知らず、意外に思わされるエピソードも多かった。

◆明大探検部OBでジャーナリストの吉田敏浩さんは、ビルマやアフガンの取材で岡村さんに激励された当時を振り返った。「向こうの立場から見たら自分はどう見えるのかということを考えながら旅をする、異文化を通して自分の原点を見つめることを教わった。ジャーナリストとして取材する土台となった」と哀悼の意を示した。

◆岡村さんが長く編集長を務めた東海教育研究所からは、現「望星」編集長の石井靖彦さんが登壇。長く職場を共にした中での積年の思いを暴露しながらも、「編集長としての姿を長く見てきた時間は、私にとっての宝だった」と話した。

◆ジャーナリストでジャパンプレス代表の佐藤和孝さんは、山本美香賞の選考委員を務めた岡村さんを「細部まで読み込み、核を捕まえ、非常に優しい目で物事をみてくださっていた」と振り返り、冥福を祈った。

◆1週間前、NPO南アジア遺跡探検調査会は、岡村さんが最後に携わった2023年のスリランカ遺跡調査隊の報告書を完成させた。報告書は偲ぶ会で頒布された。理事長を引きついだ松山弥生さんは「足りないところばかりですが、教えていただいたことが多々あります。仲間と力を合わせて前進していきたい」と話した。

◆地平線からは丸山純さんが登壇。「実はたき火や薮こぎが下手だったらしい」「定職なしで頑張っていた観文研で真っ先に就職してしまった」など、若い岡村さんのエピソードを披露して会場を沸かせた。「人を巻き込んで若い人を励ますのが、岡村さんの大きな魅力だった」と別れを惜しんだ。

◆江本嘉伸さんは岡村さんと30歳で出会い、1979年の地平線会議設立を経て、50年近くを共にした歩みを追想した。地平線というキーワードは岡村さんの発案だったそうだ。「今もここにいるような気がして仕方がない」と別れを惜しみ、「とても敵わない。敵わないけれどいつもそばに居てくれる。そういう存在でこれからも居てほしい。岡村、ありがとう」と涙ぐんだ。

◆関野吉晴さんはグレートジャーニーの旅で、岡村さんら応援団に長く助けられた感謝を述べた。「無名でも将来何かやるだろうという者を育ててくれる人だった。彼がいたおかげで大成した人が何人もいる。非常に尊敬していた、惜しい人を亡くした。意志を受け継ぎ私たちがやりたいことをやっていくことが一番の追悼だと思う」と話した。

◆最後のスピーチを務めた後輩で作家の高山文彦さんは、岡村さんと同郷の宮崎県出身者。亡くなった際には納骨にも同行した。「彼の人生は、大きな旅であった。大きな現実の中で、荒野を泳いで来たような人」と表現。著書の『モルディブ漂流』にも触れ、「文学者・岡村隆としても素晴らしい記録を残すことができてとても幸せに思う」と語った。

◆妻節子さん、長男征さんは、岡村さんのご家庭での様子に触れながら参加者に謝辞を述べた。

◆岡村さんは1983年のモルディブの船旅の際、カツオ漁の小型船に乗り、真っ黒に日焼けをしながら釣ったカツオを食べて航海を続けた。会の終わりには「いくら揺れても、船に対する私の気持ちには、もうどこかどっしりとした安心感が芽生えていた」と司会者から著書『モルディブ漂流』での航海の心境を表した一節が引用された。ヨットの旅になぞらえ「どうぞ、良い旅を」と締めくくられた。

◆おかげさまで盛会に終えることができた。多数のご参加ありがとうございました。[滝川大貴、協力・片山綾音

多くの表現者を育てた『望星』編集長時代

【1本の電話で始まった『望星』の書評】——あれは1997年の3月だった。岡村隆さんから突然電話があり、「お前、最近なんか本を読んだか?」といきなり尋ねられた。えっ? 本? ちょうど田中淳夫さん(静岡大学探検部OB)の『「森を守れ」が森を殺す!』を読了したばかりだったのでその旨答えると、「よし、それなら今度の『望星』にその書評を書け!」と問答無用で命じられた。

◆よくよく聞いてみると、何号か前から岡村さんは東海教育研究所が発行する月刊誌『望星』の編集長を引き受けたのだという。『望星』はもともと東海大学の校友誌的な位置づけにあった雑誌で、東海大学探検部OBの街道憲久さんが編集長を務めていた時期も長かった。それが、しばらく前から一般誌として大学から離れて自立するように求められていて、編集・出版の世界で生きてきた岡村さんに白羽の矢が立ったようだ。

◆岡村さんはその電話で、特集以外の末端の記事まで自分がリライトしなければならないのでとても手が回らない、せめて書評ぐらいは安心して任せられる奴に頼みたいと言う。「俺でいいんですか?」と聞くと、「お前ならやれる」。どうやらその前に子ども向け雑誌で岡村さんを取材した記事が、合格点に達していたらしい。大慌てで原稿にまとめてメールで送信したが、1文字も岡村さんの手が入ることはなかった。

◆以後、2019年までの20年以上にわたって、ほぼ毎月『望星』の書評ページのために、800字弱という書き手にとってはとてもやりにくい微妙な長さの原稿と悪戦苦闘することになる(のちに1200字バージョンも登場)。パキスタンの山奥の町から、途切れがちな低速の電話回線に接続して何時間もかけて原稿を送ったこともあった。月に何度も、これはと思う新刊書との出会いを期待して新宿の紀伊国屋などの大型書店を回遊し、書棚を漁る。仕事に追われて滅多に本を読まなくなり、頭を使わないパープリンな生活を送っていた私にとって、この岡村さんの電話はまさに人生を変える一撃となった。

【お前は編集者の仕事を否定するのか】——書評を担当するうちに『望星』本体のインタビュー記事の依頼も受けるようになり、後年は特集に合わせて私から企画を持ち込んで、地平線つながりの人たちに登場してもらうこともよくあった。

◆最初にインタビュー原稿を書いたとき、岡村さんと大激論になったことがいまだに忘れられない。私はもともと広告のコピーライター出身のため、レイアウトが決まっていないと文章が書けない。また、のちにコンピューターで印刷物を制作するDTP(デスク・トップ・パブリッシング)を手がけるようになったため、自分でページの編集・レイアウト・組版をやれる。そこで、『望星』とぴったり同じ字数・行数でサンプルの誌面を用意し、そこに書いた原稿を流し込んで提出した。すると岡村さんが烈火のごとく怒ったのだ。

◆「お前は、俺たちの仕事を奪うのか! 編集者なんて要らんと思ってるのか!」と大変な剣幕で怒鳴られた。岡村さんにとって編集者とは、企画を練る→著者から生原稿を受け取る→用字用語や日本語としての表現を整えたうえで(ここが岡村さんがもっともこだわる部分)、校閲者にもチェックしてもらう→レイアウトに合わせて字数を数えて割り付けし、図版も入れてなんとかページ数に収まるように字句を調整する→印刷会社に渡して上がってきた校正刷りにアカを入れる……というような一連の役割を担う存在だ。ところがいきなり一介の筆者から校正刷りと同等の見かけのシロモノが出てきたので、戸惑ったのだろう。私はムダなことはしたくない性格なので、レイアウトに合わせて一生懸命文字数を数えたり、字数オーバーした原稿を必死で削ったりするのは不毛だと思っている。コンピューターの画面でもうすでに仕上がりが見えているので、書き手はそれを眺めながら書き進めていけばいい。でも、岡村さんにとってはそんな本づくり・雑誌づくりの手法は邪道であり、許しがたいものだったらしい。人から人へと原稿が手渡され、阿吽の呼吸であれこれやりとりをしていくうちに、じわじわと「何か」が生まれてくる。その「何か」によって視点が変わったり、文章の味が深まることこそ、岡村さんが大切にしたいものなのだ。密林探検のところでも触れたが、岡村さんは組織というものを重視し、チームワークで幾多の困難を乗り切って、でっかい目的を達成することこそ至上のものとしていた。単独行は、しょせん個人レベルの成果しかあげられないとして好まない。

◆この件は、字数計算をするのが面倒なのでただサンプルレイアウトに流し込んでみただけです、煮るなり焼くなり好きにしてくださいと私が折れて出たことで、「そうか」と岡村さんがうなずき、なんだかうやむやになってしまった(原稿はそのまま掲載された)。

【『望星』で育てられた表現者たち】——『望星』編集長としての岡村さんは、他の雑誌では声のかからない、ユニークな書き手を積極的に登用した。地平線会議関係では、ビルマの解放戦線を取材して『森の回廊』で大宅壮一賞を受賞した吉田敏浩君、戦場ジャーナリストから環境問題にシフトした写真家の桃井和馬君、“後端技術研究家”で貧困生活を実践する久島弘さん、リニア新幹線問題などを追いかけている樫田秀樹君、モンゴル通いを続けている大西夏奈子さん、東日本大震災を深く取材した後も多方面で活躍する山川徹君らの記事や連載が誌面を飾った。法政探検部の後輩の作家・高山文彦さんも、岡村さんによって世に出た一人だ。2003年7月号からは、長野亮之介君が20年以上にわたって『望星』の表紙を担当している。

◆また、各連載の単行本化に加えて、盟友の関野吉晴さん、辺境や紛争地を撮る写真家の長倉洋海さん、ゴリラ研究者で元京大総長の山際寿一さんらの対談集や桃井君の絵本なども東海教育研究所から刊行した。もちろん文学・文芸や民俗学、世相・時事問題、ルポルタージュなど、豊富な人脈と広範な教養を活かして多くの単行本を手がけたが、ここでは割愛させていただく。

【大村さん兄弟へのリスペクト】——もう一人、『望星』を通じて岡村さんの人生で重要なお付き合いとなったのが、世界の遺跡を撮り歩き、食文化の取材でも知られる写真家の大村次郷さんだ(地平線報告会にもときどき来てくれている)。大村さんは『望星』の口絵ページで何度か長期の連載を持ち、岡村さんとは深い信頼関係で結ばれていたようだ。私は人類学者で考古学者でもある加藤九祚先生の本を書評で取り上げたのが縁となって、大村さんが主宰する「加藤九祚先生を囲む会」という研究会に出入りするようになり、2016年に加藤先生が亡くなった後になって岡村さんも会に加わった。そして岡村さんは、大村さんの実弟で40年以上にわたってトルコで遺跡発掘を続けてきた大村幸弘先生と意気投合し、考古学徒として互いに尊敬しあう関係を築く。

◆今年の5月20日、幸弘先生はトルコで体調を崩して急逝され、お通夜と葬儀が5月30日、31日におこなわれた。そのお通夜に一緒に行こうと電話やメールでやりとりしていたのだが、私がめまいの発作に見舞われて、岡村さん一人で参列してもらった。翌日お通夜の模様を報告してもらったのが、岡村さんと話をした最後となった。まさかその1か月ちょっと後に岡村さんまで亡くなってしまうなんて、想像もしていなかった。

【編集会議の内実と役割分担】——『望星』は発行部数は多くないものの、知る人ぞ知るというか、業界内では知られた玄人ウケする雑誌で、朝日の「天声人語」や読売の「編集手帳」、毎日の「余禄」などの朝刊コラムにもちょくちょく取り上げられていた。しかし失礼ながら、日ごろの岡村さんの言動からはそんな雑誌作りのセンスはあまりうかがえない。

◆いつだったか、長野亮之介君と一緒に『望星』の編集会議に何回か呼ばれたことがある。同席したのは井上朝雄さんという代替医療やスローフードに詳しいフリー編集者と、地平線の久島弘さんの弟である久島篤さんだった。篤さんもフリーの編集者で、大きな声でしゃべりまくるエネルギッシュな人。何もかもが兄貴と正反対のキャラクターで、とても兄弟とは思えない。井上さんも篤さんも、かつて岡村さんが主宰していた編集プロダクション「見聞録」で編集者として活躍していたそうだ。

◆この編集会議で数号先までの『望星』の特集のアイデアを出し合ったのだが、とにかく篤さんの驚異的な知識量と発想力には驚くばかり。いかにも雑誌的な切り口で、読者が飛びつきそうな企画がぽんぽん出てくる。それに井上さんが斜め上からのひねりを加える。流行りのドラマも歌も知らない私にはとうてい思いつけない、時代を見事に反映した案が並んでいくので、圧倒されるばかり。ほとんど口がはさめなかった。

◆で、岡村さんはどうかというと、ニヤニヤ笑ってときどきちょっかいを出しながらも二人のアイデアを的確にまとめ、現実の特集へと仕立てていく。どうやら岡村さんも世情には疎く、関心もあまりないらしい。この頃の『望星』は、文学やジャーナリズムなどの高尚な部分を岡村さんが、読者を惹きつける大衆的な部分は篤さんと井上さんが担当して、うまく回っていたようだ。

【危機感から始めた電子化への挑戦】——時代は下ってたぶん2010年の秋、電車で隣りに座った岡村さんと、スマホの画面でもけっこう小説が読めるものだねと、著作権フリーとなった作品を収録する青空文庫のページを互いに見せ合ったことがある。これがきっかけとなって、『望星』の記事の一部をネットで読ませる『ウェブ望星』や、東海教育研究所が刊行した単行本の電子書籍化を私が担当するようになった。岡村さんは常に正統的な方法論を好むが、紙の雑誌や書籍の未来に相当の危機感をもっていたし、新しい分野にチャレンジすることにも意義を感じていたようだ。

◆ちょうどタブレット端末が普及してきて電子書籍ブームが立ち上がろうとしていた時期で、この試みは一部ではかなり評価を得た。イラストレーターの長尾みのるさんや文化人類学者の川田順造先生の本などは、電子書籍でなければその良さが引き出せなかった。ところが、黒船アマゾンによる独占を嫌った私が国産の電子書籍書店にこだわったために収益が上がらず、さらに期待ほどは電子書籍ブームも盛り上がらなくて、広報宣伝活動もあまりできないままジリ貧になってしまった。……あわわ、まだ『望星』について語り終えていないというのにまたもや紙数が尽きた。大学の非常勤講師やNPOの設立あたりの話はまた次回とさせてください。[丸山純


今月の窓

しあわせな死に王手

伊沢正名 

■2023年11月23日、地平線500回報告会に参加する直前のことでした。昼飯のおにぎりの海苔を噛み切ろうとした途端、最後に1本だけ残っていた貴重な上の前歯がポロッと欠けて、まともに食べることができなくなってしまったのです。

◆私が糞土師になった2006年頃のこと、自然の摂理に沿って生きるのなら死も受け入れなければならないと、それまで毎年受けていた定期健康診断をやめました。また、2015年には舌癌になり本気で死に向き合う中で、むしろ死を終末ではなく有意義なものにできないかと考え、「しあわせな死」の探究を始めました。それはウンコの本質を見極め、食べて奪った命を野糞で返すだけでなく、死の意義を知り、死体も土に還して自然環境を豊かにするという、人と自然の共生社会を目指す糞土思想の完成形に近づくことでもあったのです。そして2023年半ばには医療に頼って生きるのもやめようと、7月3日に予約していた病院での検診をキャンセルしたのです。

◆既に覚悟ができていたためか、歯がダメになり食事が困難になっても、入れ歯やインプラントなどの治療を受けようとは思いませんでした。喰えなくなれば野生動物と同じように死に向かえば良い、と腹が据わったのです。するとどうでしょう、思わぬ幸運が次々に転がり込んでくるではありませんか。

◆歯が欠けた数時間後、報告会の二次会では困難な食事をなんとか乗り切った後で、戦乱のウクライナ取材から戻ったばかりの高世仁さんと初めて話をする機会に恵まれました。それを機に高世さんから“新たなコスモロジー”を教えていただき、糞土思想は大きく発展することになったのです。

◆更に8日後の12月1日、青森県立美術館でリアルウンコ写真展の開催がいきなり決まりました。自然界でのウンコの素晴らしさを知り、私が糞土師として自信を持って活動できるようになったのは、2007~2009年に行った野糞跡掘り返し調査のお陰です。それを証明するために出したての生ウンコと分解過程の両方の記録写真が総て揃っていたのですが、世間にはびこるエセ良識に阻まれて、生ウンコ写真はなかなか公表できず長い間悶々としていたのです。しかしここでは展示写真59点中生ウンコが24点という、満足のいく写真展が実現できました。もちろん展示の仕方に工夫はあったのですが、24年2月10日から6月23日まで4か月以上に亘って公開されながら、たった1件のクレームすらなかったのです。しかも『芸術新潮 2025年1月増刊号』では今年の展覧会ベスト1に選ばれ、まさに“ざまあ見ろ!”の心境でした。

◆年が明けてもその勢いは止まらず、私も登場した関野さんの初監督映画「うんこと死体の復権」は、一時は劇場公開が危ぶまれる事態に陥りながらも、蓋を開けたらビックリ! 文部科学省選定映画にもなり、封切館のポレポレ東中野では連日満員の入りで予定外の超ロングラン。2025年に自主上映が解禁されると、上映に合わせて私にも続々と講演依頼がきました。2月の福島に始まり、北海道から岡山県まで各地に出向き、映画と合わせた講演会は年末までに合計39回。それにこれまでどおりの糞土講演会を加えれば、この年の講演会は53回になり、最多記録を更新しました。2026年は新年早々の1月4日から、岡崎での上映と講演会で幕を開けます。

◆私が死ぬまでに何としてでも実現しなければならなかったのが、『うんこになって考える』の出版でした。信念の野糞を始めてから半世紀、20年に亘る糞土師活動の集大成ですが、出版に至るまでには多くの紆余曲折がありました。幾つもの出版社に原稿を持ち込んだものの、蹴られたり店ざらしにされたり、読者対象を変更して原稿を総て書き直したり、断られるたびにその問題点を新たに執筆したり……。ようやく7社目の農文協で話がまとまったのは、死んでもいいと腹を括ってからのことでした。

◆以前絵本『うんこはごちそう』(2013年、農文協)を出した際に、その素晴らしい編集力に感心した栗山淳さんに、今回の編集も是非とも頼みたいと考えていました。しかし彼は農文協の社員ではなく、出版が決まった時点ではその可能性は朧気でした。ところが具体的に編集の段取りが決まる段になって、幸いにもそれが実現したのです。栗山さんの専門分野は絵本で、読み物での力量は不明だったのですが、実際に始まってみるとその緻密な編集は想像を遙かに超えるものでした。おまけにこの本は「おわりに」で終わるはずが、「遺書としてのあとがき」まで書き加えられたのは望外の悦びでした。当初からの“遺書代わりの本”という願いまで、存分に叶えることができたのです。

◆ではこれで死ぬまでの準備が整ったかというと、まだ土に還る土葬問題が未解決です。『うんこになって考える』では自分の死体を「プープランド」に違法に埋めても、死体遺棄で回収されたり火葬されたりしないように、呪いの遺書を書きました。しかしこれは私個人の企てであって、糞土思想が目指す人と自然の共生社会では、望めば誰でも土葬できるようにすることです。火葬大国になってしまったこの国の現状を、どうすれば変えられるのか。

◆実はこの本が出た後で、法を犯さずに土葬を復活する方法が見えてきたのです。火葬による環境破壊の問題点や、土葬への多くの誤解を解いてその素晴らしさを広く知らせること。さらに土葬墓地を確保する方法や正しい土葬の仕方、土葬で環境再生を目指す新たな宗教観の創出など、土葬としあわせな死の実現を目指して、まずは「対談ふんだん」の記事でそれを公表します。それと合わせて、私の遺体が理想的に土に還る横穴墓の造成計画がプープランドで進行中です。このように土葬の復活を目指した実践的な活動が、私の新たな目標として動き始めたのです。

◆ところで、これほどの幸運を引き寄せてくれた“死ぬ腹を括る”きっかけとなった歯っ欠けの原因は、じつは関野さんのアドバイスでした。2022年1月16日、映画の撮影の打ち合わせで糞土庵に来られた際に、雑談の中で私が困っている事について話しました。2015年の舌癌治療で放射線を浴びて唾液腺がやられ、眠るとまったく唾液が出なくなって口内がカラカラに乾き、その痛みでしょっちゅう目覚めては水を飲んでいる、と。すると関野さんは、スポーツドリンクの方が水よりも吸収が良いと勧めてくれたのです。深く考えず思い立ったら即実行というせっかちでオッチョコチョイの私は、夜中の給水を早速スポーツドリンクに替えました。ちなみにこの時点での歯の欠損は2本だけでした。その少し後の1月28日には、食事に支障が出るほどグラグラになっていた奥歯1本を歯医者で抜いてもらったのですが、これが3本目です。70過ぎという年齢からすれば、まあまあの歯の健康状態だったと思います。

◆異変が起き始めたのは8か月ほど経った9月1日でした。もともと虫歯で治療済みだった右上の犬歯が、何の予兆もなくいきなりポロッと欠けてしまいました。じつはその前からあちこちの歯が痛んでほっぺたを腫らしたりしていたのですが、修復力を持つ唾液がまったく出ない状態で糖分のあるスポーツドリンクで口内を潤し続ければ、虫歯になるのは当たり前です。それなのに水よりも甘くて美味しいからと、延々と飲み続けていたノーテンキな自分を笑うしかありません。

◆その後の惨状たるや、地平線500回記念日が9本目の歯っ欠けでした。その後も次々に欠け続けて、今では16本も無くなりました。親知らずが生えなかった私の歯は、現在12本しか残っていません。しかも、たとえ下の歯があっても上が無いというありさまで、上下噛み合わせられる歯は皆無です。では、こんなことになる原因をつくってくれた関野さんを恨んでいるかというと、とんでもない! 関野さんのお陰でしあわせな死に王手をかけることができたのです。呪うどころか、絶大な感謝を送っているのです。[糞土師]

イラスト-8


あとがき

■小松由佳さんの開高健ノンフィクション大賞受賞式、ほんとうに素晴らしかった。集英社四賞の中でも由佳さんのスピーチへの拍手が一番大きかった、と思う。

◆私は由佳さんのご両親と話せたことがよかった。由佳さんがラドワンと結婚した当時、秋田に住むご両親はそれは大変心配されたそうだ。結果、教師をされていたお母さんは、早めに退職されてしまい、そういう妻を励ますつもりで飼ったのが賀曽利隆夫妻も愛したキャバリエ。

◆そのわんこのエルちゃん、いま12歳になり、せっかくの上京も「すぐ帰らないと」と翌日すぐ飛行機に飛び乗った。長野画伯の地平線カレンダーをお送りするとすぐ電話でお礼をいただいた。そんなこともあり、今年の報告会は年初も最後の締めくくりも由佳さんにお願いした。2025年は小松由佳の年。[江本嘉伸


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

叙里亜(シリア)の故郷

  • 2025年12月27日(土) 14:00〜16:30 500円
  • 於:新宿区榎町地域センター 4F多目的ホール

「写真家としての作品にしたかったんです」というのはドキュメンタリー写真家の小松由佳さん(43)。遊牧民の家系に育ったシリア人、ラドワン氏と'13年に結婚。激化するシリア内戦から、昨年の政権崩壊に至る激動の十数年に翻弄される“家族”の姿を冷静に描いた著書『シリアの家族』が、今年11月第23回開高健ノンフィクション賞を受賞しました。

軍を脱走した亡命難民で祖国に戻れない夫ラドワンに代わり、秘密警察に睨まれつつ故郷の村を取材。その緊迫感に満ちた描写がある一方、夫の第二夫人問題が勃発し、頭では文化の違いと理解しながらも感情とのギャップに悩む葛藤も包み隠さずに描きます。

作品中に登場する大勢の家族や同朋に寄りすぎず、離れすぎない中立的な目線を意識。国境開放後の取材に同行した息子の視点もこの距離感を保つ一助になりました。

「わたし書くのが遅いので、生活費を稼ぐ時間が削られるのが辛かったです」と由佳さん。難民の心の支えであった故郷への帰還が叶う今後、シリアはどう変わっていくのでしょうか。取材、執筆を通して自らの故郷、秋田への思いも新たになった由佳さんに、本を上梓するまでの顛末を語って頂きます。


地平線通信 560号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:新垣亜美/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2025年12月17日 地平線会議
〒183-0001 東京都府中市浅間町3-18-1-843 江本嘉伸 方


地平線ポスト宛先(江本嘉伸)
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 042-316-3149


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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