1996年1月の地平線通信



■1月の地平線通信195号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

 1996年のはじめにこんにちは。

 12月、久々に富士山に登った。現役部員が本格的な冬山をやりたい、というのでリーダー格の2人に付き添って冬富士氷雪訓練合宿につきあったのだ(生来の慎ましさから地平線の仲間たちには宣伝していないが、小生は目下、東京外国語大学山岳会理事長兼現役山岳部コーチの要職にある)。この際、とばかり前からほしかったプラスチック登山靴とワンタッチのアイゼンを購入したのは勿論である。土、日と社会人山岳会のテント群と車でいっぱいだった5合目は、月曜日には無人と化した。頂上への登高は気持ちよくアイゼンがきいて、時折の強風をピッケル頼りに這いつくばってやり過ごせば快適な登攀が楽しめた。小生は背中のザックにあんパンと饅頭をしのばせ、登りながらひそかに食していたのは当然である。かくして氷雪の3776メートルの頂きで眼下に雲海を見渡しながら小生は、

「1996年7月13日(土)、地平線大集会を開く」ことを決意した。

 このことは、その後地平線会議の中核メンバーとも話し合って正式に決めた。ともかくも年頭にあたり、ことし7月13日の土曜日、『地平線報告会200回記念』と銘打って、久々に大集会を開くことを宣言し、今からその日をまる1日を空けておいてほしい、と皆さんにお願いする。場所はいつものアジア会館から出て、「都心の足の便がよく、2〜300人がはいれて、音響や映像システムに優れ、朝から晩まで使えるホール」を目下探している。

 どんなプログラムになるか、は追ってお知らせするが、地平線会議の総力をあげて刺激的な内容にしたい。もちろんお祭りだから、楽しいこと、得することもいろいろある筈である。

 たびたびふれてきたことだが、地平線会議は1979年8月17日に発足した。準備の話し合いはそれ以前半年以上も続けてきたのだが、この日に「地平線会議」という名が決まったのだ。ついでに思い起こせば、この日四谷の小生の家でのビールを飲みながらの話し合いは徹夜(「グレート・ジャーニー」の関野吉晴もいたな)となり、「彼方会議」「地球探検冒険機構」「地球をなめくじる会」「地平線の会」などなどいろいろなネーミングが飛び出した。「会」にせず「会議」としたのは自由な議論の「場」であることを意識したためだ。ちなみに英訳は「Horizon Forum」となる。

 あの時、立ち上がりのために「1万円カンパ」というのを展開した。100人を越える人たちが協力してくれた。宮本常一、今西錦司、西堀栄三郎といったすでに故人となられた方々もカンパに加わってくれ、当時のリストを見るたびに我々のささやかな活動への支援を快く引受けてくれた先達の励ましの心が伝わる思いがする。

 年頭にあたってのもう一つのお願いは、大集会の一連の企画のために18年ぶりにこの「1万円カンパ」を復活させることをご了解願いたいということだ。会場費、印刷費、連絡費など結構な経費がかかることが見込まれるし、できれば集会の記録も残したい。7月13日の前後1週間ぐらい、適当な場所で「地平線会議写真展」も開くつもりだ。長く実現が待たれている「地平線Tシャツ」もついに登場する予定だが、一体もうかるのか持ち出しになるのか見当もつかない。

 どうか、200回も手弁当で来続けてくれた報告者たちの栄誉のために、そしてともかくも17年半続いてきた地平線会議活動のために、多くの方々が「地平線報告会200回記念1万円カンパ」にご協力下さるよう、お願い致します。このことについては過日「7月13日大集会実行責任者」に任命された三輪主彦を中心に目下いろいろ具体策を練っているところ、近くあらためてご報告します。では、ことしこそ地平線会議をよろしく!!【江本嘉伸】



■地平線《E》Mail

12月にかかってきた電話の話
「リーン。もしもし、関野です」
あれえっ、おう!こんにちは、今どこ?
「コロンビアのボコダです。これからマカレナのジャングルへはいって伊沢紘生さんのサルの研究の現場をみせてもらおうと(バシッ!)・・・」
おい、どうした?あれっ?切れてる・・。
(はじめ南米の片田舎の電話回線の状態が悪いためと思われたが、間もなく電子レンジと湯沸器とトースターとヒーターを一度に入れていたため、江本邸の電気のヒューズが飛んだためとわかる)
「(5分後)再度リーン。もしもしどうしましたか?」
いや、ヒューズが飛んだんだよ。
「ヒューズが飛ぶと電話は使えなくなりますかね?」
そういえばそうだよなあ。電話線は異常ないのだからねえ。(しばし、電話は電気なしにはかからないのかについて地球の裏側との質疑が続く)
「まあつながったのだからいいことにして、中米は3〜4月上旬に変更して1月中旬ごろいったん帰ります」
了解。それで南米大陸は今回で終わるの?
「ええ。ペルー北部とエクアドル南部を残してあるんですけど、最後にそこを自転車で走って1月なかば頃には終了できそうです」
一口で感想を言うとしたらどう?
「うーん。南米は寄る所も大体わかってましたし、何となく来てしまったという感じですね。ただ、スタート時の海の横断やパタゴニア氷床は印象的だった。全体的には、冷たさ、暑さ、風、ほこり、においなど五感いっぱいに感じながら地面を旅してきた、そんな感想です」
やせてない?
「自転車こいでいる時はやせますが、寄り道している間に体重が元に戻るというパターンですね」
ありがとう。気が向いたらまた連絡を。

その2週間後。「リーン。関野です」
おお、待ってましたよ。
「リマへ出てきました」
マカレナを終えたの?
「ええ。伊沢さんと10日間一緒に過ごして勉強になりました。伊沢さんは、グレート・ジャーニーのコンセプトからいうと、南米大陸に3年かけてもいいんじゃないか、と言ってましたよ」
というと?
「アフリカ、東南アジアといろんな所へ行って人々の考え方を見てきて自然を守る、競争の原理と反する生き方をしている、という点で南米の人々にグレート・ジャーニーの原点がある、ということだと思います」
うん、そうかもしれないね。ただ、あと1年はちょっと無理では?
「いや、もう出ますけどね」
もう一度南米をふりかえってどう総括する?
「南米全体を通じて、今生きることを大切にしている、ということを強く感じてます。たとえば日本だといい学校、いい会社、いい役職と常に先のことばかり考えて生きるでしょう、マチゲンガ族やヤノマミ族には、ただ今が大切でそれを楽しむ。僕も25年通って得た南米的なものの見方を大切にしながら、北米、ユーラシア大陸の旅を続けていこう、と思ってます」
日本にはいつ帰るの?
「いったん1月17日頃帰って3月末には中米へ向かいます」
96年7月はどこにいるかなあ。
「ユーコン川だと思う」
地平線報告会200回を記念してイベントをやるので、できれば是非現場から参加してほしいんだ。
「わかりました。できることならやります」

1月早々にはこんな葉書が届いた。私信なんだけど、地平線に免じて紹介させてもらいます。
「新年おめでとうございます。大変御無沙汰してしまい申し訳ありません。私は2回目の冬を静かな入江で迎えています。今冬は雪が少なく楽なのですが、熊が多くて困ってます。ところで私ことながら今冬(1月20日)に結婚することに致しました。相手は前にお話ししたバローで医者をやっているアメリカ生まれの中国人です。9月にはご紹介できると思います。こんごともよろしくお願いいたします。1996・1・1 吉川謙二」
「寒さと雪に悩まされた10回目のカフィリスタン滞在を終えて、チトラルの町まで出てきたところです。外部資本によるホテルが林立するようになり、さぞかし変わっただろうとおそるおそるだったのですが、そうひどいことはなくチョウモス祭での秘儀も無事行われて3年半ぶりの帰省を楽しみました。このままチトラルで年を越して予定通り帰国は1月14日になる見込みです。12月30日 チトラルにて 丸山純・令子」

 1月20日は関野ドクターの誕生日である上、「グレート・ジャーニー」のドキュメンタリーの再放映(フジテレビ・午後4時からの予定)がある。その日にアラスカでは吉川君の結婚式とか。おめでとう、本当に。(江本)



■吉岡嶺二さん、『ぐるり九州島カヌー膝栗毛』を刊行!

小さなカヌーで日本列島をまわっている吉岡嶺二さんが〈カヌー膝栗毛シリーズ〉の第五弾を1月10日に出版しました。第一弾は自宅のある鎌倉腰越海岸から東海道沖を漕いで京都までの『東海道中カヌー膝栗毛』。続いて『奥の細道』『北前船』『山陰・瀬戸内』ときて、今回の九州編です。

エリートサラリーマン生活の中で「余暇時間の使い方の達人」としてテレビ番組にも登場している吉岡さんですが、私のみるところでは、本業のカヌーの余暇を使って会社員をやっているのではないかと疑っています。時間だけを比べれば会社にいる方が圧倒的に長いのですが、頭のなかは海の波がザブンザブンしているのではないでしょうか。本人に問えば「絶対そんなことはありません。しっかり会社員をやっています」との答えが返ってくる昔気質の人なのです。

前の4冊は大出版社からの本でしたが、今回は私家限定版。かえって自分の思いどおりの本ができたそうです。地平線報告会に持ってきていただくことにしてあります。手にとって見てください。[三輪]地平線通信195より転載



■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介/イラストのなかにある手書き文字)
1/26
FRIDAY
6:30〜9:00 P.M.
アジア会館(03-3402-6111)
\500
揺れあとの街音

 写真集「瓦礫の風景」に収められた、大震災の爪痕の記録は、静寂に満ちています。1年前の当時、アナウンサーの絶叫とヘリコプターの騒音と共に報道されたけたたましいTV映像とは対照的な、森閑として奇妙に落ち着くような光景があります。これからどのようにこの静けさの中に音が戻ってくるのだろうかと考えさせられる写真集です。
 この本を作ったのは、カメラマンの奥野安彦さん(36)とライターの土方正志さん(33)。普賢岳、奥尻島と災害の現場を追ってきた2人は、この1年、阪神淡路大震災の現場に通いつづけてきました。
 今月は、お2人を招いて、この1年の被災の街について報告していただきます。


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