1999年6月の地平線通信



■6月の地平線通信・235号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信235表紙●今月も、樫田編集長からSOSメールがはいった。最近報告会の受けつけを手伝ってくれている大井田ひろみさんに連絡してほしい、との内容であった。

●打ち明け話になるが、この「地平線通信」の制作と発送は、結構大変だ。樫田編集長が大体の内容を決め、武田工務レイアウト兼アドレス管理局長がレイアウトし、長野美術局長のイラスト搬入を待って三輪印刷局長兼発送主任が印刷、発送に当るのが、通常のパターンであるが、これら主要幹部とて毎月いろいろなスケジュールがある。さらに刷り上った何百通もの通信を、三つに折りたたむのはひとりや二人ではできない。その都度「発送請負人」を探してお願いすることになるのだが、しばしば直前になってSOSが出される事態となる。

●すぐに大学生である大井田さんにメールを送る。あとで聞いたら三輪氏の指導の下、4月の報告者の大学生の石川直樹君とその友人の新村美穂さん、最近は欠かさず顔を出してくれる地平線メディア局長兼書籍販売局長の丸山氏、それに樫田編集長、大井田さんも加わり、発送作業は終えたとのことであった。誰かがやらなくてはならないこういう作業を続けている同志たちに心から感謝する。私もたまには顔を出すが、しゃべる割りに役に立たない。「三つ折りスピード選手権者」を自称する三輪局長の手つきの鮮やかさといったら、芸術品なのだ。

●地平線通信は1979年8月、一枚のはがきから始まった。その月の報告会の内容を知らせるのがおもな目的で、当初は、あて名も拙宅などに集まって手書きでやった。それが、次第にしんどくなり、えいっ、どうせのことなら拡大してしまえ、と現在のかたちになったのが、86年1月の「76号」からだった。通算20年、一度も欠くことなく発行し続けてきたのだから、誇ってもいい。これからも、「制作・発送の輪」が面白くひろがることを期待する。

●以下恒例の、ひかえめな個人的自慢ー。実は、樫田編集長のメールを読んだのは、中国東北地方の瀋陽でだった。この2年半、私もパソコンを使っており、今回の旧満州への旅でも愛用のノート型パソコンを持参した(75年前、エヴェレストで行方を絶ったジョージ・マロリーという登山家の遺体発見についてインターネットで追っていたからでもある)。メールはどこにいようと、飛びこんでくるし、返事も書ける。瀋陽で発送についての編集長の要望に応えることができたのは、私にとっては、大した進歩であった。

●その中国・東北地方の旅の目的はいくつかあったのだが、ひとつは、遼陽市にある遼寧大学外国語学院という大学での講演であった。それも、“地平線会議的精神”について200数十人の学生たちに話したのである。中国の青年たちは、いま旅の魅力に目覚めている。そうした学生たちに黄河源流探検や北極での見聞など自分の体験をまじえながら、旅は、異質なものを認める力を育てる、まず身近な場所からはじめよう、というようなことを話し、お世辞もあろうが、まあまあ大した反響であった。そうだ、地平線会議は、世界中でやればいいのだ、と不遜にも思ったりした。

●帰国後翌日には、1年がかりの仕事「能海寛チベットに消えた旅人」(求龍堂)という本が出来上がってきた。河口慧海と同時期、日本人としてはじめてチベットを志し、旅先で行方を絶った無名の学僧の物語である。その翌日には谷川岳のマチガ沢で8人の学生たちに雪上訓練を指導していた。20年も地平線会議をやってきた年齢の割には、いまも山で現役学生のコーチをやっているのは、やはりエライのであろう。[江本嘉伸]



先月の報告会から・235
コレ、森に帰る
峠隆一
99.5.28(火) アジア会館

◆1度だけの取材のつもりで訪れたサラワク、が以後足かけ5年の間に15回も、延べ1年以上も滞在、いや暮らしてしまった程、森の生活は峠さんを魅了してしまう。この春5年振りに彼の地を訪れ、森と、カヤン人の仲間たちと再会して帰国まもない報告である。

◆サラワクはマレーシアのボルネオ島にある州だ。13州ある中でサラワクだけが他の12州から入る時でさえ、パスポートを必要とする、マレーシアでも特別のエリアだそうだ。

◆「コレ」、峠さんのカヤン名である。意味は豹。柴又に寅がいるならば、カヤンの森に豹、乙ではないか!10年前に「お前を養子にする。」と宣言したマリアンさん(義父)によって命名された。

◆優しく、逞しく、ユーモアたっぷりのカヤンの人々、コレはこの5年間毎日再会を夢見ていた。そう、あの日以来…。1993年11月、先住民の反政府運動を扇動したという身に覚えのない容疑をかけられ、彼はスペシャル・ブランチと呼ばれる警察とは別の組織の人々に逮捕されてしまう。狭く何もない独房、1ヶ月もすれば確実に気が狂うと感じたそうだ。こうなったら病気になってここから出てやれ!腹痛を起こす、には→汚いものをお腹に入れる、には→床や壁を舐めてやれ!と実行に移そうとしたのだが、幸いにもその前に釈放された。

◆時の経つのはなんと遅いことか、1時間くらい経ったろうと看守に時間を聞く。「嘘だろっ」、10分しか経っていない!! 拘留は1週間にわたり、州外強制退去の身となる。彼の名はおそらくブラックリストへ載っただろう。もう二度とあそこへ行けないかもしれない悔しさと同時に、彼と逮捕直前まで一緒にいた人や、自分の身を心配しているであろう森の仲間たちの事が気がかりになった。

今回は、自分は無事で元気であることを彼らに伝えなくてはならない、そんな思いもあった。夜8時、村に到着、彼を見つけた村人の声にロングハウス(高床式長屋)から「コレだ!コレだ!」と人々が出てきた。「私たちはみんな、あなたがもうここには来られないかと思ってみんなで泣いた。本当に泣いた。」コレは嬉しかった、こんなに自分の事を思っていてくれる人たちがいる。

◆最近のサラワク熱帯雨林保護活動は、インターネットの普及とともに、国内外のNGOとの繋がり・連絡など、組織的そしてより有力になってきているそうだ。伐採よりも焼き畑が問題ではないのか、という人がいるが、そんなことはないとコレは言う。焼き畑は、昔っからやってきたことで、決められた土地しか焼かないのだそうだ。その上、森の力は強く、半年もすれば「ウッソー!」と思うくらいうっそうとした森に戻ってゆくらしい。

近年、マレーシア政府は、油ヤシプランテーションを次々計画している。伐採が太い木のみを切るのに対し、プランテーションは、小さい木も細い木も全て切っていく。その後から油ヤシが植えられ、とれた油からは「地球に優しい」石鹸や洗剤として、こちらで売られたりしている。何とも皮肉な話しだ。

◆焼き畑をしないプナン族は全てを森に依存しているので、彼らはNCR(Native Custom Rights)を掲げて立ち上がる。

◆コレは再び森へ行くだろう。新たな思いを胸にして。「コレ、マン・タコッ!」(コレ、恐れるな)、逮捕された経験のある男から贈られた言葉である。[瀬沼由香]


新シリーズ 見えない地平線
のぐちやすおの刑務所レポート
その6 刑務所の懲罰(2)

◆さて、前回話した懲罰になるとどうなるか。

◆懲罰はその度合いによって、数種類に分類されます。一番軽いのが「叱責」というやつで、これは看守6人ぐらいに囲まれて一人座らされ、「お前は悪い奴だ」「人間のクズが集まる刑務所の中でその規則も守れない」「どうしようもない奴だ」などと延々30分罵倒される罰です。喋る方も真剣にやらないと勤務査定に響いてきますので、疲れを癒すために6人が代わる代わる怒鳴りつづけるのです。

◆最大級の懲罰は、「独房入」。これがさらに前手錠、後ろ手錠、前後手錠と3段階に分かれ、懲罰期間が終了するまで外してもらえません。つまり、食事もできなければ、ウンコが終わって尻を拭くこともできず、すべて担当看守の手を煩わせることになります。前後手錠などは寝ることもできません。どれぐらい辛いか各自手を前後に組んで想像してみてください。なお、この独房に50日間入っていたのが、私の勤務中の最長記録です。

◆その中間帯になるのが、「分禁処置」。本の差し入れ、閲覧、筆記用具の使用などが禁止されるため、書くこと読むことができなくなり、暇を持て余します。これがことのほか辛いようで、聞き流すだけの叱責の方がはるかにいいという収容者の話でした。これも懲罰の程度から、3日から50日までのそれに見合った処分を受けます。

◆この他では、「賞与金没収」というのもあります。賞与金、つまり懲役という労働によって得た、いわば給料の没収ということです。その多くは金500円の罰金ですが、これが意外と強烈。500円ぐらい、なんてことないと思うかもしれませんが、それは娑婆での話。ここは刑務所。一般社会での500円とは訳が違います。だって時給いくらだかご存知ですか? たぶん、想像を絶すると思いますよ。

◆ではその話はまた来月に。[埜口保男]


地平線ポストから
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●河野孝司さんから…西穂山荘発

◆数ヶ月前、「忘れな草」でネパールのことを書かせて頂いた下関の河野こと、西穂山荘の河野です。最近の北アルプスの状況を少しレポート致します。

◆長かった厳冬期も終わりを迎えようとしています。最近では雪に混じり雨も降る事もあります。気温も0度前後ですね、暖かい日は5度を超える事もあります。雨の日や晴天の日はみるみる雪が解けていきます。今年の雪は昨年に比べると多いのですが、例年の積雪量に比べると少ないです。山荘前で約2m位で、山頂に続く稜線上は所々岩稜が出ているような状況です。

4月の中旬には下旬に控えた小屋明けのために、雪に埋まった山小屋を掘り出すための作業が北アルプスでも始まりました。作業初日には人員をのせたヘリコプタ―の姿が印象的な1日でした、我が山荘は通年営業のため不足している食料や燃料等の物資の輸送のみが行われました。今年も後数日でシーズンインとなります。毎年のことですが面白いお客さんや、変わった電話問い合わせ、そして、一部の登山・自然環境のルールを軽視した方の頭の痛い出来事などいろんな話題が出来ると思いますので、そのときはまたレポート致します。

◆地平線ネットワークの方々で北アルプス南部の情報が要る方はメール頂ければよほどの繁忙期でなければ返信できると思いますので、お気軽にどうぞ!

◆メールアドレスは です。


地平線忘れな草
「ナムチェのお父さん」

◆「ナムチェのお父さん」というのは、私が初めてネパールに行ったときにガイド兼ポーターをしてくれた男の子のお父さんです。そのトレッキングが縁で、私は翌々年、ナムチェバザールの彼のお父さん一家の隣の空き家に居候させていただくことになりました。約10日の短い滞在でしたが、子供達と一緒に遊んだり、男達が深い谷底へ材木切り出しに行くのに同行したり、馬の餌やり、赤ちゃんの子守など、本当に楽しく貴重な体験をさせてもらいました。

◆その家には赤ちゃんが3人いて、おむつなんかないから股の割れたズボンはいて土間に転がって遊んでる。下の階にはゾッキョと馬が同居。この家にはトイレとかシャワーとかいうものがなくて、トイレは歩いて10分ほど行ったところの大きな岩の影に行って済ませ(これが崖を下っていくのでいつも大変だった)シャワーはがまん、せいぜい川で頭を洗うくらいでした。

毎日家には誰かしら人が尋ねてきてお茶を飲んで帰る。夕飯の後は毎晩マダル(ネパール太鼓)で家族一緒に踊りました。日本の両親がこんなに陽気に踊るのを見たことはない。ネパールの人は本当に歌好き、踊り好きなんです。

◆ちなみに若い人は英語を話しますが、お父さんお母さんはネパール語しか話せません。でも意志の疎通は笑顔だけでなんとかなりました(と思っています)。

◆ある朝、お父さんは突然大量の鼻血を出しました。ベッドが血に染まり、家族中が大騒ぎになりました。でも一番上の息子は「こういうことは前もあった。その時はヘリコプターでカトマンドゥに送った。薬があるから、少し様子を見てみる」と冷静に言いました。出血はすぐに止まってお父さんは落ち着き、どうやら大丈夫そうだとみんなほっと胸をなでおろしました。

◆そして3日後、私が出発する朝。お父さんは、自分が作ったというどぶろく入れを私にくれました。木製で、銅の金具で飾りがほどこされている立派なものです。実はお父さんは、毎日徹夜をして私のためにこれを作っていたらしいのです。だからあの出血も、疲れと寝不足がたたったためと思われました。私はとっても申し訳なく、そしてありがたい気持ちで、泣きながらそれを受け取りました。ナムチェを出てモンジョまで、ずっと泣きながら歩きました。

◆あれから8年たちました。お父さんの息子夫婦が今日本に来ています。彼によるとお父さんは元気ですが、健康のことを考えて今はカトマンドゥに住む息子夫婦と一緒に住んでいるそうです。お母さんはずっとナムチェに住んでいるそうです。私は、あんなに楽しかった家族が今はちりじりになって暮らしているのかと思うと、お父さんの健康を思いつつ、ちょっと複雑な心境です。[杉田晴美]

(後日談)私が日本に帰った直後、一番上の(現在日本にいる)息子は、自分が日本に行きたいから保証人になってくれと私に連絡してきたのであった。私は保証人になれるだけの収入も器量もないからと断ったが、その時、あのとき親切にしてくれたのはこういうことだったのかな、と思って悲しくなった。食事代も宿代も置いてこなかったのが負い目になり、だからあれからナムチェのこの家族には会いに行っていない。現在日本にいる息子とも電話だけで会っていない。だからこの話は、本当は「いい話」で終わらないから、書くのどうしようかなーと思ったのですが。

 


不定期破天荒連載「生田目が行く!」
第八発 生田目の旅立

◆そうだ、インドに行こう、と20万円握りしめていられたのは最初だけで、航空券やなんだで、日本出国の時にはとても海外旅行に行くような所持金はなかったが、とりあえずバンコクに降りた(だって他に行くところなかったから)。

◆夜にもかかわらず、空港は人でごった返していた。あっという間に男達に囲まれ、矢継ぎ早のセールストークに面食らい、どうしたものかとトイレに駆け込んだ。ガイドブックを繰りながら、私どうなっちゃうの?と泣きそうだったが、日本で散々泣いてきたので、えーいどうにでもなれと、石和温泉の手拭いで頬かむりして、再び外に出た。これが功を奏してか、(というよりみんな行くべきところに行ってしまって)先程に比べると寄ってくるタイ人も激減した。

とてもひとりで深夜のタクシーに乗る気になれずに、ひたすら空港内外をうろついた。立ち止まるとまた大変なことになるので、頬かむりをしたまま歩きつづけた。(怪しすぎるよな…笑)しばらくして、やっとロビーの片隅でうずくまっても誰も来なくなり、やがて朝になった。

◆バスに乗って汗だくで市内に入っても、まだ宿探しというメインイベントが待っていた。湿気と暑さと疲労で頭はボーッとしていたが、私はインドに行くのであって、タイでぼやぼやしている場合ではないとの使命感からか、気だけは張っていた。つもりが道に迷った。そしてトゥクトゥクに乗ってぼったくられた(パターンなんだな、これが)。

この後も所々でぼったくられ続け、やっとのことで落ち着いた安宿では、休む間もなく従業員に言い寄られた。おいおい男はいいんだってば。私のことはほっておいてくれよ、頼むから! 残念ながら私は君の望む金持ちの日本人ではないのだよ。カメラも電卓もボールペンも持ってないのだから…笑。でも、この従業員のアイラブユー攻撃がなかったら、バンコクで沈没してインドの土を踏むこともなかったに違いないから、彼は彼で私にとってはラッキーボーイだったのかもしれない(それにね、この後にインドではこんなものじゃすまなかったのよ)。

◆やっとのことでデリーに着いた時には、日本を出てから10日以上もたっていた(まぁ、別に帰るところがあるじゃなし)。でも、またまたデリーの空港でトイレにおこもりする事に…いっインド人もびっくりどころか、インド人にびっくりである。こっ怖いよぉ! どうしてそんな暑苦しい顔のうえに(インドの皆さん、ごめんなさい)眼光鋭いのよぉ?

この時ばかりは、トイレで会った日本人に、一緒にタクシーに乗ってくれと誘いまくってしまった(とほほ)。でも結局タクシーもぼられ、宿でもぼられ、ジャイプルでもアグラでも、ぼられ続けのぼられ旅、ほうほうの体でバラナシに着いた時には、心身ともにぼろぼろだった。

特に身の方は最悪で、バンコクから少しずつ軟らかくなっていたものが、バラナシで牛糞の洗礼を受けたせいか、一気に水になって、本当の意味での?!トイレごもりになってしまった。後年、どなたかの旅行記で、ひどい下痢状態を「尻こ玉が抜ける」と表していたが、今思えばこれ以上にしっくりいく言葉が他にあるだろうかと思ってしまうくらい、全く栓が効かなくなっていた(汚くてすみません)。

母なるガンガーも、輪廻転生のガートも、トイレの事ばかり考えていて、感慨に耽るどころかろくすっぽいられやしなかった。あてにしていた日本人宿も、卒業旅行シーズンだったのか満員で、やっと落ち着いた宿の名前すら今では思い出せない。10日も沈没していたのに…。ほとんどトイレにいてベッド代がもったいないから、明美はベッドを他の人に貸して金をとれば?と言われたほどだった。

◆この時いちばんつらかったのが食事だった。具合が悪くてもカレーとコーラばかりで、お粥なんて望むべくもなかった。お粥とそうめんの夢を見ながら、ダールなんてすすれるわけもない。最後はヨーグルトも受けつけなくなっていた。あれは絶対、赤痢だったんじゃないか?と今でも思う。

タイでもインドでも、困るとトイレにこもってガイドブックを読んでいたから、トイレの神様(そんなのいるかな? でもヒンドゥーにはいっぱい神様いるしなぁ)が怒って罰があたったのかなと、真剣に反省したりした。宿のおやじが買って来てくれた薬も全く効かないし、尻こ玉と共に魂も抜けそうだった(笑)。

◆そんなある日、苦しんでいる私に唯一全く無関心だった、いかにもインド放浪長いです風の兄ちゃんが、ハッシシのしみついたような手から、黄色い正露丸のような、ただカレー粉を丸めただけのような、きわめて怪しげな丸薬を「飲んでみろ」とぶっきらぼうによこした。

なんとこれが一発で効いた。たまたま快方に向かっていたのか、私が不死身なのか、それが本当に秘薬だったのか定かでないが、それまで這って歩いていた(五体投地だと笑われていた)のに翌朝にはぴんぴんしていた。それにその丸薬をくれた兄ちゃんは、その朝姿を消していた。あの人はヴィシュヌの化身だったのかもしれない(笑)。ありがたや、ありがたやである。こうなればこっちのもんで、それまで怖くて負けてばかりいたインド人に、「あんたねぇ、金かねってうるさいわよ! ないって言ってんでしょ! 私はね、金の切れ目が縁の切れ目で、亭主と別れてインドくんだりまで来たのよ! ふざけんじゃないわよ!」と怒鳴りつけていた。

◆あーそろそろ日本に帰ろうかな、本当にお金なくなっちゃったしな、また一から出直しだ! 汚いものは全部出したしな (笑)。朝焼けのガンガーに「いろいろありがとね」と言って、別れを告げた。[生田目明美]


チベット見聞記
その1 ラサを歩く(1)

◆貴族出身のラマ僧が額に開眼手術を受け千里眼になる話、30年前に出版された「第3の眼」を遙か昔に読み、どうしても一度チベットに行ってみたかった。西暦2000年を目前にして1951年中国に解放されたチベットは、高校時代からあたためていたロマンとはほど遠い世界だった。マルポリイの丘にそびえ立つポタラ宮は、荒涼とした大地の上に凄まじい威厳を持つダライラマの居城であったが今やあるじ不在の城は博物館と化し、かっての面影は外側だけであった。

◆整備されたポタラ宮の回りをマニ車(宝珠)を手に経を唱えながら巡礼する人や五体投地で進むチベット人のみが、かってのこの国の雰囲気を味わわせてくれるように思える。片側2車線道路を隔てて文化公園がある。遊園地もある広場で常設露店が100件近く並び大勢の人々が買い物にきている。周囲は 4〜5階建てのビルが乱立している。百貨店にはいるとエスカレーターが2階に導いてくれる。品物は、実に豊富で店内に溢れている。

周辺の道路にはフォルクスワーゲンのタクシーや乗り合いのミニバス、ヨーロッパの車がひしめき合っている。運転手は輪たくや車道を歩く人々をよけるためにクラクションを絶えず鳴らしながら走っている。タクシーは無線車もあり女性ドライバーも数多くいる。料金は市内で10元(1元は15円)輪たくは3元である。交通事故は少ないそうだが死亡した場合は1〜2万元、被害者に支払う。外国人の場合は約2倍となりこの金額はすべて公安が決めるそうだ。すべてのドライバーは道路税を月150元支払う。そして道路税のチェックが市内数カ所で検問される。

◆私は通訳が運転するトヨタのランドクルーザーに乗り標高3600mの乾燥した大地を走った。砂埃がすごいので窓を閉め口を閉じる。窓の外を見ると散水車が道路に水をまいている。さらに行くとラサ川の支流沿いにきれいな建物が数百メートル続いている。何だろうと思ったらなんと賭博場であった。聞くところによると数ヶ月前までかなり繁盛していたが、ここで遊ぶ金を不正に入手する人がふえたため閉鎖されたそうだ。まるで資本主義と共産主義の両方を見たような気がした。

ラマ寺へ向かうために郊外をひたすら走った。公安によるスピード規制がないためか街道を走る車は猛スピードだ。行き交う車がすれ違う時は車のベルトにしがみつき、運転手が追い越しをかける時は思わず目をつぶってしまう。車道の脇を歩く農民は道路幅が広いのに車に轢かれないようにおそるおそる歩いている。農民たちに混じって歩いている人の中に五体投地の修行のためにポタラに行く人が2〜3人いた。私もやっとラマ寺についた。(つづく)[本庄健男]



今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)

地平線通信235裏表紙 6/25(金)
Friday
6:30〜9:00 P.M.
アジア会館(03-3402-6111)
\500



カイラスの渦巻
冒険心を駆り立てるいろんな要素が渦を巻いていて、その中心に、カイラス山が、軸のようにそびえ立つ。西チベットの聖山が持つ強い引力にとらえられてしまったのは、安東浩正さん(29)。

中国の雲南省・昆明留学中の95年、安東さんは渦に吸い込まれるように、カイラス巡礼の旅に出ます。相棒は中国製MTBの「生涯万里号」。1〜3月に、カトマンズ〜ラサ〜昆明。11〜12月にはカシュガル〜カイラス〜カトマンズ。計6500kmを単独で走り抜けました。

神々の住む山の姿に感動し、土地の人々と心で通じあえた経験にいやされる日々。ようやくたどりついた渦の中心は、新たな旅の出発点でした。今月は安東さんに、冬期チベット高原単独自転車行のてんまつを話して頂きます。


通信費(2000円)払い込みは、郵便振替または報告会の受付でどうぞ
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議/料金70円



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