政宗が掘らせた東名(とうな)運河のこと。ひき続き賀曽利隆さんから

台風15号の上陸で会社や学校では「早期帰宅命令」が出される中、東北男、賀曽利隆さんから東松島がらみで「運河考」が届いた。「東日本巨大地震」の、あまり書かれていない一面をとらえる貴重な文章と思う。文中「日本で一番低い山」として日和山が登場するが、「かっては」とある通り、その後大阪の天保山(標高4.5メートル)などが名乗りを上げた。つまり日和山は「元祖日本で一番低い山」なのである。

 

東名運河

江本さん、東松島の東名運河が気になって仕方ないので、すこし調べてみました。簡単にいうと、伊達政宗の執念といえるようなものです。この東名運河(野蒜運河)は鳴瀬川の河口近くからは北上運河(全長12キロ)で石巻の北上川に通じています。

さらに塩釜港からは貞山堀(全長36キロ)で、七北田川河口の蒲生を経由し、阿武隈川河口の荒浜に通じています。この貞山(政宗のこと)堀は政宗が掘らせた運河ということになっています。政宗は石巻から荒浜までの内陸運河網を完成させ、年貢米の安全輸送をねらったようです。

東名運河と北上運河の工事が着工されたのは1878年(明治11年)。その4年後には完成しています。それと同時に鳴瀬川河口に、日本初の近代的築港の野蒜港(今でもその跡が見られます)を造ったのですが、土砂の堆積が激しく失敗に終っています。昭和初期には仙石線が完成し、東名運河は無用の長物になってしまったようです。

それにしても、何とも皮肉なことに、これら運河に関わるところは今回の大津波で大変な被害を受けました。

北上川河口(今では旧北上川になっていますが)の石巻、東名運河の野蒜、東名、貞山堀の荒浜…と。貞山堀は七北田川河口の蒲生を経由しますが、そこにはかつては「日本で一番低い山」といわれた標高6メートルの日和山がありました。それが大津波でえぐられ、今では山どころか大きな窪地になっています。鳥の楽園として知られた蒲生干潟も地形が変わってしまいました…。(賀曽利隆)

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みな東名、野蒜を自分のふるさとのように思っています-網谷由美子さんから

岩野祥子さんの地平線通信の文章に関して賀曽利隆さんの投稿があったが、今度は山形の網谷由美子さんからさきほど「コメント」が届いた。多くの方に読んでほしいので、そのままここに載せます。網谷さん、ご了解を。

アウトドア義援隊は毎週末まだまだ東名、野蒜地区で活動中です。
運河を越えた地域で全壊、半壊の家がたくさんある中で、より海に近い運河より海側なのに外観あまり壊れていない家があるのを私もいつも不思議に思っていました。

アウトドア義援隊の名前はそのまま使いつつも、モンベルの手を離れ、やりたい人たちが集まって自由な雰囲気で活動を続けています。もちろんモンベルの社員の方たちも来たい人が来れる時に来る。

たまたま知り合いから話を聞いたから来て人や、徒歩旅行中や、ヒッチで東松島コミュニティーパークにたどり着いたところで、ボラセンに申し込む前にわれわ
れに捕獲されていっしょにボランティアした青年もいますが、多くの人は早くは3月の天童の倉庫時代から、あるいはGWの東松島の活動からずっと通い続けている仲間たち。

同じ地区に通い続けることで、みな東名、野蒜を自分のふるさとのように思っています。これからも手伝ってほしいという依頼があるうちは通おう、と仲間の多くは考えています。

そろそろ自分の生活に戻りたいと思う人は思う人で、そうすればよいし、ずっと見守り、手が必要なときはお手伝いしようという人はそうすればよいし。

はるばる大阪から「南極さん」(編注:岩野祥子さんは南極越冬2回の経験を持つ地球物理学者でもある。ついでながらスキーの国体選手でもありました)こと岩野さんはじめ、何人もの方が何度も何度も来てくれていて、本当にすごいなぁと思いますが、「被災地支援」がもちろん一番の目的ですが、仲良くなった地元の方の顔が見たかったり、いつもの仲間と会いたかったり、そんなことも理由の一つ。

自分が関った地域のこれからを見続けたいということもあるでしょう。
きっと、最初に関った場所が違っていれば、そこに通い続けていたのではないかと思います。
なぜ東名、野蒜だったのか、それはたまたまだったのですが、今はここに関れてとてもよかったとみな思っていると思います。

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地平線通信9月号の岩野祥子さんの文章に思う-賀曽利隆さんから

9月9日から11日まで、福島の被災地を訪れた。その概要は地平線通信9月号に書いたが、この時、 南相馬で“東北男”、賀曽利隆さんと出会った。その後東北を走りきり、帰ってきたから賀曽利さんから早速「東名(とうな)」について投稿が。

東松島の東名

江本さん、「鵜ノ子岬→尻屋崎」の第2弾目を走り終え、帰ってきました。南相馬でお会いできたのはほんとうによかったですね。
さっそく「地平線通信」の9月号を読ませてもらっていますが、ぼくの目をひきつけたのは岩野祥子さんの「東松島通い」です。そこに出てくる東名地区、野蒜地区の地名にくぎづけでした。

「野蒜」の方はJR仙石線の列車事故で大きなニュースになったので、記憶されている方も多いと思います。ぼくがここで注目したのは「東名(とうな)」なのです。

松島が今回の大津波でほとんど無傷だったのはよく知られていますが、松島から海沿いの県道27号で東松島市に入ると、そこは「大塚」。仙石線の陸前大塚駅が海岸にあります。駅も駅前の家並みもまったく無傷で大津波の痕跡は見られません。

その陸前大塚駅の次が東名駅なのです。その間はわずか2キロ。この2キロが天国と地獄を分けています。
ゆるやかな峠を越えて東名に入ると、信じられないような惨状なのです。
「(大塚が無傷なので)なんで、東名がこんなにやられてしまうの!?」
と思わず声が出てしまいます。

大震災2か月後と今回の半年後を見比べてみても、それほど変らず、東名にはいまだに大津波の爪痕が生々しく残っています。
東名がこっぴどくやられたのは、東名運河が大きく影響しているように思われます。この運河は石巻湾に流れ込む(河口近くの)鳴瀬川と松島湾を結ぶもの。この運河にどれだけの必要性があったのでしょう。東名駅の次が野蒜駅です。野蒜駅は東名運河に面しています。

この東名運河の松島湾側の水門は残っています。しかしその南側につづく堤防は激しく破壊されてます。
大津波は松島湾側からではなく、石巻湾側の野蒜海岸から押し寄せてきたといわれていますが、それのみならず、大津波は鳴瀬川から東名運河に入り込んで野蒜から東名へと押し寄せたのではないか…と思われるのです。

運河の水門のさらに海岸寄りには、ほとんど無傷の家が1軒、残っています。これもじつに不思議…。
不思議だらけの「東名」ですが、今回の大津波のメカニズムを解明するのには絶好のフィールドのように思われのです。(賀曽利隆)

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9月23日、南会津で現代版組踊「南山義民喜四郎伝」をやります

RQボランティアで何度も東北に出かけている古山里美さんからのメールです。先月頂いたのですが、9月に入って告知したほうがいい、と考え、今日になりました。もんがあさん、そんなわけで、了解を。

8月23日、埼玉県の越谷で現代版組踊「息吹~南山義民喜四郎伝」の舞台を見に行ってきました。演じたのは南会津の子供達(小中高校生)です。昨年の12月に公演をし、そして卒業公演、という時に3.11の震災のためそれが中止になってしまったのです。会津では震災の直接被害はほとんどなかったとはいえ、”フクシマ”にあたるゆえ、風評被害で観光客は減り、農産物も売れず、さらにこの前は集中豪雨で大被害を被ってしまいました。そんな中でも子供達が福島を元気にしようとがんばったのです。

私がこの舞台を観に行ったきっかけは、たまたまスタッフの1人が私の友達でこの舞台の情報を教えてくれたことから始まるのですが、福島を応援したい気持ちももちろんあるほかに、この舞台が沖縄とも深い関係があったために、ものすごく観たい気持ちになって観に行ったのです。地平線会議の30年記念大会で私もダンサーの一人として踊った「ダイナミック琉球」をオープニングでやるというのです。で、久々に、その踊りを観て、あー、私もこの踊りを踊ったんだ!と感慨深いものが…。

話の内容は、南会津やその周辺に伝わるもの。年貢などに苦しめられた百姓達の代表が幕府に直訴したものの、結局は首謀者の6人が斬首されてしまった…という悲しいお話です。その中の1人が喜四郎という名前です。しかし、その6人の行動は決して無駄ではなく、後に彼らの要求が認められることに。そして犠牲となった人たちが「南山義民」として語り継がれているのです。

と、話自体は会津のものですが、現代版組踊というものが、沖縄出身の平田大一さんが作り上げたものだけに、あちこちに沖縄テイストがちりばめられていて、沖縄と南会津の融合(?)がまたよいのです! しかしこのあたりは「ダイナミック琉球」や「肝高の詩」の踊りを知っている人の特権ですけど、ね。

それにしても、演じた福島の小中高校生の子供たち、魅せてくれました。お金を出してみる価値あり、でしたよ。震災で卒業公演が延期になってしまい、この越谷公演は彼らにとっても嬉しいものだったことでしょう。フィナーレでは、涙を流す子供もいました。

さてさて、丁度3連休の初日となる9月23日(金)に、南会津町で公演も決 まっています。興味あるかたは、詳しい情報を見てみて下さい。検索は「息吹 南山義民喜四郎伝」、問合せは息吹公演事務局(電話:0241-78-7077、メール:ibuki@minamiaizu.jp)へ。

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賀曽利隆さんの夏。またまた東北へ。

夏が終わろうとしている。東北に何度も向かった我らが永遠の冒険王、賀曽利隆さんからこの夏を振り返って「カソリの夏」とタイトルした文章をもらった。今はまたまた東北への旅路の途中のはず。出発直前に届いた文章ですが、夏の終わりにあわせ、遅れての掲載です。

カソリの夏

2011年の「カソリの夏」は、6月25日の「環日本海ツーリング」のスタートとともに始まりました。400㏄バイクのスズキDR-Z400Sを走らせ、東京から新潟へ。新潟からは日本海の海岸線に沿って走り、青森へ。津軽海峡を渡ると、函館から同じように日本海に沿って走り、稚内へ。ここまでが「環日本海ツーリング」の第1弾目です。

知人の家でバイクをあずかってもらうと、稚内からは列車乗り継ぎで東京に戻りましたが、その中でも忘れられないのは札幌発青森行きの急行「はまなす」。2両の寝台を連結しているのですが、何ともラッキーなことに急行寝台に乗れました。

伊勢原の我が家に戻ってきたのは7月1日22時。すぐに車(トヨタ・ウイッシュ)に乗り、東京の四谷三丁目へ。約束の15分前、23時45分に到着。「地平線会議」の面々を乗せ、0時には出発。東北道→仙台北部道路→三陸道と走り、7時には女川に到着。いやー、猛烈な眠気と戦いながらの女川到着でした。女川の保福寺での瓦集めを手伝い、7月3日16時、女川を出発。みなさんを東京・新宿駅で下ろし、伊勢原の我が家に到着したのは24時30分(萌さ~ん、車に帽子を忘れていきましたよ。今度、江本さんに渡しておきますね)。

速攻で3時間ほど眠ると、7月4日5時、伊勢原を出発。スズキの250㏄バイク、ビッグボーイを走らせ東北へ。白河から奥州街道の全宿場をひとつづつたどりながら青森へ。さらに終点の津軽海峡の三厩へ。

帰路は青森の油川宿から羽州街道の宿場を同じようにひとづつたどり、福島の桑折(こおり)宿へ。桑折宿が奥州街道と羽州街道の追分なのです。伊勢原に戻ったのは7月13日。ここまでは寝る時間を惜しんでの怒涛のまわり方。そのあと7月16日から7月18日まではビッグボーイでの信州ツーリング。野沢温泉のイベントに参加しました。

モロモロの仕事(原稿)をかたずけると、7月23日からは「アイルランド一周」。妻との2人旅でしたが、ダブリンで借りたレンタカーでアイルランドを8の字に一周。全行程は3600キロになりました。ひとつ驚いたのは「北アイルランド」。アイルランドからイギリスの北アイルランドに入るのには、それなりの手続きが必要だろうと思っていたのですが、まったくのフリーパス。どこが国境なのか、わからないくらいでした。ロンドンデリーもベルファスト平和そのものでした。「時代は変った!」と実感。

「アイルランド一周」を終えて日本に帰ってきたのは8月6日。休む間もなく翌8月7日、早朝の羽田空港へ。全日空機で稚内に飛び、「環日本海ツーリング」の第2弾目を開始。DRとの1ヵ月ぶりの再会です。翌8月8日10時発のフェリー「アインス宗谷」に乗船。「環日本海ツーリング」は(株)「道祖神」のバイクツアー「カソリと走ろう!」シリーズの第15弾目。日本全国から稚内に集結した参加者のみなさんのバイク12台とともにサハリンのコルサコフ港に渡ったのです。サハリンからはロシア本土へ。ワニノ港に上陸するとロシア沿海州のシホテ・アリニ山脈を越え、ハバロフスク経由でウラジオストックへ。そこから韓国のフェリー「イースタン・ドリーム号」で鳥取県の境港に戻ってきました。

メンバーのみなさんと別れ、境港から日本海に沿って走りました。これが「環日本海ツーリング」の第3弾目。新潟県の直江津で最後の日本海を見、8月21日早朝、東京に戻って来ました。全行程4900キロの「環日本海ツーリング」。

カソリの夏はまだまだ終りません。8月26日早朝、我が家を出発。ビッグボーイを走らせ、東北へ。「東北縦横無尽計画」の開始です。白河を出発点に青森を目指して北上するのですが、その途中では白河から国道289号でいわきへ、いわきからは国道49号で郡山へ、福島からは国道115号で相馬へ…というように、太平洋岸へ何度も出ます。青森から白河への帰路では、今度は日本海側に出ます。

最後は大震災6ヵ月後の「鵜ノ子岬→尻屋崎」の「頑張ってるぞ!東北!!」ツーリング。大きな被害を受けた東北・太平洋岸の全域を走ってきます。大震災2ヵ月後にも「鵜ノ子岬→尻屋崎」をビッグボーイで走りましたが、あれから4ヵ月、東北の復興ぶりを見るのがすごく楽しみです。頑張ってる東北のみなさんに会ってきます。9月中旬には帰ってくる予定です。(賀曽利隆)

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中瀬町行政区で震災後初めての総会が-新垣亜美さんの報告

きのう28日は、388回目の地平線報告会だった。報告者は、インドネシアから手作りの舟、「縄文号」と「パクール号」でインドネシアから沖縄まで4000キロの「海のグレートジャーニー」をなしとげた探検家・医師の関野吉晴さん。航海に参加した若手ムサビOB2人の話を含めて3時間30分に及んだ報告は、地平線会議ならでは、の率直な内容で、あと1時間ほしかったほど。それにしても、関野吉晴、すごい!

で、一夜明けたら宮城にいる新垣亜美さんから「昨日夜、メール書きながら眠ってしまいました・・・。3.11ニュース用に、昨日の中瀬町のことを送ります。よろしくお願いします」と、嬉しいメールが。(そういえば、きのうは登米で知り合った元気女性、「なお」さんも来て、2次会を兼ねた関野吉晴チーム祝賀会まで楽しそうに参加していた。地平線報告会、誰でも参加できる貴重な場ですよ)。

こんばんは、新垣です。めずらしくメールです。
地平線報告会おつかれさまでした。すごく参加したかった・・・!レポート楽しみにしています。

今日の宮城は星がすごくきれいです。いま私は、南三陸町志津川にある中瀬町仮設住宅の、1人暮らしのお母さんの家にいます。さっきお風呂をいただいて、今日はこのまま泊めていただきます。

先程19:30から、中瀬町行政区で震災後初めての総会が開かれました。
80数世帯(通信の数字は訂正)中、参加された世帯主は67名。すごい出席率です。
みなさん懐中電灯を持って、夜道を歩いて集まってこられました。

仮設住宅の一角にある新しい集会所に明りが灯り、
外にはたくさんの靴がならび、中はぎゅうぎゅうに人が集まっている様子をみて、何だかじーんとくるものがありました。
着実に1歩ずつ前に進んでいる、人の力強さを感じました。

コミュニティって当たり前にあるものではなく、人が作っていくものなんですね。
今日の出席率の高さの理由は、みんなで顔を合わせるのを楽しみにしていたから、ということもあります。

総会では新しい役員や班長が決定し、佐藤区長さんからは「部落の行事や集まりの復興をしていきたい」というお話しがありました。
9月1日から、お母さんたちの編み物会がスタートします。
人の強さややさしさを 感じながら、みなさんと一緒にゆっくりできることをやっていこうと思います。

では、おやすみなさいです。

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流山の放射線量-賀曽利隆さんの報告

東京は正午の気温19.5℃。涼しい日が続きます。いろいろ追われているうちにまたまたお休み状態でした。そんなところにロシアから帰国したばかりの賀曽利隆さんから「流山の放射線量」と題して、以下のレポートが。

江本さん、今朝(8月21日)、「環日本海ツーリング」から帰ってきました。
稚内からサハリンのコルサコフに渡り、サハリンのホルムスクからロシア沿海州のワニノに渡り、ウラジオストックから鳥取県の境港に戻ってきました。
全部で12台のバイクでまわったのですが、サハリンのコルサコフ港では大変でしたよ。放射能チェックがあると聞いていたので、バイクは稚内で入念に洗車したのですが、荷物でひっかかってしまいました。

千葉県の流山から来たメンバーが検査機の下を通ると、びっくりするような大きな警報音が入国検査場全体で鳴り響きました。気の毒にも、その流山のS氏はすべての荷物をガイガーカウンターでチェックされ、放射能に汚染された荷物がバイクカバーであることが判明しました。検出された放射線量は0・39マイクロシーベルト。ロシア人の係官は手袋をしてそれをビニール袋に入れると、「日本に送り返すように」と指示し、本人の入国は認められました。

そのバイクカバーというのは、S氏が流山の自宅でバイクにかけておいたもの。ということは庭に出しておいたものはすべてがかなり放射能汚染されたということになります。
江本さん、流山といえば、東京のすぐ近くではないですか。東京も相当、放射能汚染されているということですね。千葉県内では柏や松戸などに放射線量の異様に高いホットスポットがあると聞いています。

サハリンのコルサコフ港で改めて、原発の爆発事故の起こした罪の大きさを実感しました。これがあと何年かすると人体に大きな影響が出てくるのですね。

「環日本海ツーリング」を終えたばかりですが、明日からは「東北縦横無尽計画」の開始です。1ヵ月あまりをかけて東北を縦横無尽にかけめぐってきます。大震災6ヵ月後の9月11日からは再度、「鵜ノ子岬(福島)→尻屋崎(青森)」を走ってきます。(賀曽利隆)

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RQ登米のデリバリーの活動に関してお伝えします、と、もんがあさんから。

東北から帰ってあれこれやっているうち、もう1週間が経とうとしている。書きたいこといろいろあって、とくに支援活動の様変わりについて早く知らせたい、と思っていたら、もんがあこと古山里美さんからありがたいレポートが。登米で何日か一緒に仕事した地平線会議仲間だ。是非、読んでください。

旅する主婦ライダーもんがぁ~さとみです。
RQ登米のデリバリーの活動に関してお伝えします。6月中旬にRQ登米に行ったあとは、たぶん、もう来られそうもないかなぁ、と思っていたら、6月下旬にもう一回、来られるチャンスがありました。

ちょっと強引に作った1週間だったけど、6月下旬に今までやっていたデリバリーが収束となる、ということで、どうなることか、自分の目で見てみたかったという理由も大きかったのです。

収束、というのは、物資の配達という活動を止める、という意味。実際に困っている被災者を目の前にして「すみません、6月いっぱいでRQからの物資の配達は、終わる方向なんです」というのは、心苦しいし、そして、相手によって言い方を変える、という配慮も必要です。

今までの配達報告書から、本当に物資の配達を打ち切っても大丈夫な所(自立していけるメドが付いた)と、そうでないところもあるから。特に、水という生死に関わるライフラインが、まだ復旧しないところは一律に打ち切るわけにもいかない。

そんなこんなで、デリバリー収束とは言え、たぶん、20軒ほど(リーダーではないので、そのあたりの全体数字は正確ではない)は7月に入っても配達を続ねばならない状況でした。でも、配達先0軒にはならないけど、4月の状況からしたら、危機(生きるか死ぬかというレベルでの)を脱した感じ。大丈夫と思われるところは、最後の配達の時に「今までありがとうございました。これからは自分たちでやっていきますから」としっかりした挨拶をされ、こちらも嬉しくなります。

ただ、この言葉は、たまたま私が担当したから言われただけで、本当は、今までのデリバリー担当のみなさんに、そしてそれだけではなく、RQに関わったボランティアのみなさんにも伝えたい。そんなこんなで7月3日に、これで最後かな、と思い、RQを去った私。しか~し、7月の最終週、平日がフッと空いたのです。

ダンナも今回は後押ししてくれた(6月はほとんどRQといわきの農場のボランティアと実家の介護で家にいなく、仕事で忙しいダンナのフォローができなく、かなりダンナに不自由をさせてしまったけど、7月はダンナが一番!ということで過ごした成果!?)ので、またまたRQでの活動ができました。

ちょうど関東に来た山辺くんも一緒に行くというので、ウチの車の同乗者になってもらったし。また、現地で長期で活躍する亜美ちゃんはもちろん、私の滞在中に江本さんも加わって、地平線仲間からのパワーを感じました!!

さて、7月25日RQに到着。私が前回去ったあとから、配達先はどうなったかと気になっていたけれど、当然ながら、それよりも減っていました。1日、2~5軒ほど。車1台しか出さないこともあるし、夏限定の「ゆかたプロジェクト(被災地の子供達に夏祭り前にゆかたをプレゼントする)」も絡み、ゆかたチームの依頼でゆかたを配ったりもしていました。

”水”でひっかかっていたところも、ほとんどなくなっていました。水道が通っても赤水が出ていたところはしばらくすると大丈夫になったし、塩素がきつくてミネラルウォーターを、というところには、1日日光に当てると塩素が抜ける、などなどの対策を教えてあげたり。私が7月29日に活動を終えた時には、あと数軒が配達先として残るのみで、それも、あと一回配達すれば終わるはず。デリバリー担当としては安心です。

気仙沼市で配達をした際、ランチで立ち寄った寿司屋さんから「近所の幼稚園は、個人でやっているので、援助が行き届いていないかもしれないので、様子を見に行ってくれませんか」と頼まれ、その幼稚園に行ってお話を聞いてみました。そうしたら、子供の絵本など物資はもう十分ほど足りていて、今、本当に困っているといえば、お金、なのだそう。被災した親からは園費を取れないし、園児も減ったし、来年もどのくらい入園してくれるかが見えない、先生にも100%の給料を払えていない、とのこと。

うーん、ちょっとRQボランティアではそのお手伝いは難しそう。物資は足りているということで、RQデリバリーが担当する緊急支援の段階はもう過ぎていました。さて、物資の配達を終了させても、RQがなくなったわけではないので、被災者の方々には「今後も何か困ったことがあれば、RQにお電話ください」と声かけをしています。

ということで、8月1日まで残ったリーダーが、引き継ぎを適任者にしています。あっ、丁度そのリーダーが、RQデリバリーOB向けのメーリングリストで、今、発言してくれましたが、デリバリーチームの名称を改め、地域支援チーム、となったそうです。RQはまだ活動を続けています。今後は、被災者の個々の歴史を残そうという動きがあり、「聞き書き」に力を入れていくそうで、すでにその活動を開始しています。これにも大勢のボランティアが必要です。詳しくはRQの公式ホームページの登米ブログ2011年7月31日を読んでみましょう。トップにはまだ反映されていないみたいでした。

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江本報告第4弾:RQ子どもキャンプを手伝いませんか

登米の江本さんから、報告とお願いです。江本さんは今晩(7月日30日)帰京するので、詳細は改めてお知らせするとのことです。

小泉カフェの開店初日は、なかなかの成果だった。赤ちゃんを抱いたお母さんはじめ、おじさんたちが冷たい麦茶や温かいコーヒーを飲みながらまったりした時間を過ごした。世間話をしながら、いろいろ学ぶこと多かった。

翌日はカフェはお休み。 近くの鱒淵川沿いのキャンプ地に行くことに。

登米の本部から歩いて15分ほどのところにRQ子どもキャンプの予定地はある。既にいくつものテントが張られ、周辺の草刈りも済んている。近くの鱒淵川沿いを歩いてみると、ウグイが群れになって泳いでいた。

ここで8月から子どもキャンプが始まる。被災者のご家族は、なかなか子どもたちを遊ばせる余裕がない。第一、遊ぶ場所がない。そこで、ボランティアたちがここで親たちの代わりに、夏休みの数日を子どもたちと過ごそう、というのである。

で、地平線の仲間に相談。以下の日程で、子どもキャンプのボランティアをやりませんか?

1…8月1日から3日の2泊3日
2…8月11から13日の2泊3日
3…8月17日から21日の4泊5日

野外活動のお手伝い(リーダー役)をお願いしたいのです。八月1日から始まってしまうので、とりあえずお知らせしておきます。希望者は、このエントリーにコメントするか、江本まで直接ご連絡ください。

RQのウェブサイトに、このキャンプの募集についてのページがありました。

http://www.rq-center.net/announcement/10654

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江本報告第3弾、風の丘カフェオープン

今朝、江本さんから昨日の風の丘カフェの模様が送られてきました。

海辺を見晴るかすカフェの名は『風の丘カフェ』。テーブルを囲んで5人が座れる程度の、こじんまりとしたものだ。

しばし待っていると、さっそく1人男性が来た。RQのボランティアの名札を付けている。なんと、被災者の方がボランティアもやってくれているのだ。このカフェの立ち上げにも大いに協力してくれたらしい。
中学校は今も避難所になっていて、彼、Oさんも中学1年生の息子さんとそこで暮らす。やがておばさんがやって来た。おばさんの友人も加わり、しばし話に花が咲く。冷たい麦茶、コーヒーを出す。
元気な会話だが,いろんな問題があることがわかる。たとえば、 避難所にまだいる人と仮設住宅に入れた人との違い。その違いが一つの壁になっている。仮設住宅に入れた人でも別の仮設住宅との違いが大いに気になる様子だ。
風が吹き抜ける静かな丘のカフェで、やがて5か月となる今回の震災の傷の深さを感じ続けるのだった。

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