2003年3月の地平線報告会レポート



●地平線通信281より
先月の報告会から(報告会レポート・281)
我武者羅西遊記
ヤル・ツァンポーに挑むの巻
角幡唯介
2003.3.24(月) 牛込箪笥区民センター

◆はじめに断っておくが、そこがどのような特別な場所で、その地名がチベット好きの人々や探検家の胸にどのように響くのかを私は知らない。彼のしたことが、チベット探検史上どのような意味を持つかということも。しかしながら、人が発する空気や、何かに懸けたエネルギーというものは、そういった知識の有無を超えて否応なしに伝播するものだ。そして、何に対しても意味を見出そうとしたり、行動に意義を持たせたがる私たちにとっては、むしろ、意味化されない部分にこそ聞くべきストーリーがあるのかもしれない。

◆ザチュの隣の村・ガンランから入谷すると、そこは果てしないブッシュであった。ヤル・ツアンポー川はどのような経路でアッサムに流れ込むのか。「最後の秘境」を覆う数々の謎を解き明かしてやろう。そう、意気揚揚と挑む角幡さんの峡谷探検は、藪のなかでの滑落から始まった。ぬかるむ足場もろとも引きずり落ちながら「これはもう死んだな」と、その刹那に覚悟を決めた。幸運にも立ち木に助けられ、あやうく“ぽちゃん”と落ちて「肉片となってインド洋を旅する」難を逃れた彼の脳には、しかし止めようというアイデアは決して浮かばない。少しばかり慎重になって進む。

◆4日目、彼が「門」と呼ぶゴルジュに到達する。全長2900km、アジア有数の河が、切り立った崖に挟まれて15mほどにまでその川幅を狭めているところである。例えばこの「門」のような場面で、角幡さんは度々立ち止まり思案する。この崖を登ってゆくべきか、傾斜の緩いところまで戻って進み直すべきか‥。なにしろ誰も足を踏み入れていない、少なくとも記録に残っていないところである。誰が最善のルートを指南してくれるわけでもない。あてにすべき指針は自分の中に見つけるしかない。一切の判断を自らに委ねるということ。歩を進めることで生じる危険を承知した上で、それはそれとしてやはり前に足を踏み出すこと。それはこの上もない喜びでもあるのだろうな、と想像する。いばらの道は続く。

◆最終的な到達点であるホクドルンから一度ガンランに帰着し、別ルートからその対岸を望むと、側壁に洞窟があるのが発見された。「ペマコ」という一種の桃源郷伝説をご存知だろうか。チベット仏教が危機に瀕したときに逃げ込むシェルターのようなもので、このヤル・ツアンポー大峡谷のどこかにあるのではないか、とされる洞窟らしい。選ばれし者(チベット仏教の到達者か?)が入り口に立つと、大岩が開き、内部へと導いてくれるのだという。対岸に現れた洞窟こそ「これだ!」と思った彼は、一旦アシデンの村へ、さらに分岐点となるガンランにまで戻り、四日間の道のりを経て、再び洞窟の真上へ。失礼ながら、宗教心など微塵もないであろう彼が入り口に降り立つと、果たして岩は固く閉ざされたまま微動だにしなかった。

◆私は思うのだけれど、これが本当にペマコの洞窟かどうかなんて、実はそんなに重要でないんじゃないだろうか。見るべきは、疑いを排して確信してしまう(ある意味)思いこみの激しさ、険しい道のりを何日も辿りなおしてやろうという馬鹿げた情熱、洞窟を下に見て、ロープが切れそうだろうが「もういいや」と降りて行けるケツのまくり方、にこそあるのではないだろうか。「世紀の大発見」などというオマケは彼の旅には不必要であろう。遠征は未踏査部16kmのほとんどを踏破する、約2ヶ月に渡る行程となった。

◆さて、私にはいまだによく分からない。この探検が残した足跡の大きさや、そこまでに彼を虜にする谷のミリョクというものが。‥でももう、そんな野暮なことを聞くのはよそう。動機や成果などというものは極めて些細で個人的なものであったとして、それで充分だ。大義があろうがなかろうが、道中のあきれんばかりの冒険談が聞く者の胸を熱くするのだから。加えて言うならば、「最後の秘境」として売り出したい中国政府の思惑を出しぬいて、無許可で低資金、しかもたった一人でやってのけることがエライのだ。

◆4月から記者となる角幡さんの新たなる探検の舞台は「人」である。そこに分け入ったらそれこそ傷だらけになったり足元をすくわれそうになることもあるのだろう。そうしたらまた、その探検談を聞きたいものだ、と思う。[24時間リレー走で−6回に分けてだが−44キロを走り、いまや、ランナーを目指している菊地由美子]
角幡さんのHP www.ne.jp/asahi/marukaku/expedition


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