2004年4月の地平線報告会レポート



●地平線通信294より

先月の報告会から(報告会レポート・296)
ワニーは何故道草をくったの
鰐渕渉
2004.4.23(金) 新宿区榎町地域センター

◆「あいつ案外可愛い声なんだよなぁ‥」彼が話し出そうとしたその時、隣に座っていた江本さんが、ふと囁いた。日本最西端から最東端まで3800kmを完歩したというのに、鰐淵渉さんこと、「ワニー」には少しの自負も、人を寄せ付けないオーラもなかった。そこには誰もを受け入れられる温かい空気と、場を和ませる優しい表情があった。

◆日本徒歩縦断というと、最北端の宗谷岬から鹿児島県の佐多岬まで歩き通すのが普通だが、ワニーの挑戦は違う。スタートは長崎県の神崎鼻、ゴールは北海道の納沙布岬。つまり「日本最西端から最東端まで」それも、わざわざ冬に向かっての挑戦だったのだ。

◆03年8月15日、終戦記念日、神崎鼻を出発した。始めは自分の体力、気力を考慮し、荷物をカートに積んでの歩行。愛用のバイクのサイドバックを使い、少しでも節約しようと荷物をまとめた。無理せず、長期スパンの計画だった。用意周到とはいかないが、決意を感じられる工夫を小さいところでも感じられた。

◆1日目張り切り過ぎたのか、47kmを歩く。2日目は疲れて16km。3日目は49km。初めは自分のペースをつかめなかった。足の薬指、親指、裏にマメができた。しかし、日を重ねる毎に、日の入から日の出まで1日平均、35km〜40km歩けるとわかるようになり、マメも出来なくなっていた。

◆毎日歩くだけが仕事である。1歩で69cm進み、1545歩で1kmを歩く。細かいようだが、誰もがやってみたら気付く日常的な情報なのかもしれない。旅の基本は野宿。夜中に公共のトイレに入り込み、洗面所に水を溜めてバケツシャワーを浴び、時には身障者用の広いトイレをちょっと拝借し、寝床にしていたという。夏の暑さとの戦いだった前半戦は03年10月3日、旅の中間地点である大阪の実家に到着し、終了した。

◆そして、03年10月23日後半戦、冬の北日本縦断が始まった。北海道に向けて、−15℃まで対応できる冬用寝袋、冬用テント、バイクのジャケット、と総重量25km荷物をザックに詰め込んで、今度は背負う。1日目は、8kmでばてた。荷物を軽くするため、電車に乗り、実家に戻っては荷物を組みなおし、また元いた位置に戻り、歩き出し…が数回。最終的には20kgまで減らした。1日平均20km〜25kmでペースを掴んでいった。

◆北に進むごとに、冬が近づき、日も短くなり、寒さも増していった。北海道に入る頃には、冬真っ只中。雪の壁の中を歩くと、吐く息が凍る。寝床はもっぱら駅。東北に入ったころから、駅の床に暖房が入るようになっていたし、電車も人も少なくて夜寝るには快適だったのだ。朝は掃除にきたおばちゃんと、ふと何気ない会話を交わし、人の温もりに触れられる。「もうちょっと居ていいと言われたことはあっても、追い出されたことはない」という

◆真っ暗な夜も、指凍る寒さの日も、毎日、ノートに鉛筆で旅日記を書き続けた。2月16日、最北地点の赤平市に着き、22日にはこの旅の最難関である狩勝峠へ。すごい吹雪の為3日間、寝床であったトイレに閉じ込められた。視界まったく利かず、世界はただ白。朝、「外を見たくない…」と、現状への拒絶反応が日記には書かれている。

◆04年3月20日、15時55分日本最東端、納沙布岬に到着した。ワニーの中に最初に出てきた言葉は「ありがとう」だった。達成する嬉しさのなかに、皆への感謝の気持ちや、寂しさ、いろんな気持ちが入り混じって涙が出てきた、という。終わってしまう寂しさのあまり、最後は1kmおきに写真を撮り、歩数を一歩69cmから60cmくらいにして、少しでも長くこの旅を続かせようかと考えたりもしたそうだ。

◆出発から163日、3795km、5483775歩。西から東へ繋いだ証に、出発前長崎県で拾い、一緒に旅してきた石を、ここ納沙布岬で放った。そして、こんな一首を読んだ。「憧れと 夢を抱いて 歩き行く 納沙布岬に 今我は立つ」体重は10キロも減っていた。[鈴木博子 今年の山岳耐久レース「招待選手」]


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